夜が明ける場所
アリスちゃんが死んでしまった。
暗闇が隠した学校の階段から足を踏み外して、人形みたいにコロコロと転がって、死んでしまった。
暗闇は、階段をゆっくりとおりていく真っ赤な血も、捨てられたお人形さんのように動かないアリスちゃんの体も飲み込んでしまった。
アリスちゃんは可愛い女の子で、みんなアリスちゃんのことが好きだった。いつも明るい色の服を着ていて、優しくて、くすくすとよく笑う、ひまわりみたいな女の子だった。月光の糸で編んだような金色の長い髪の毛と、宝石のような青い瞳がとても綺麗だった。 男の子はみんな、アリスちゃんのナイトになりたがった。
山の中で海賊ごっこをする時も、アリスちゃんはいつも囚らわれたお姫さまの役だった。男の子がする、海賊とナイトの役はいつも違うのに、お姫さまだけはいつも一緒。
でも、アリスちゃんは毎回、ナイト役の男の子たちが助けにくるまえに、自分から海賊のアジトを抜け出してしまっていた。
「だって、ただ待ってるだけってつまんないんだもん。暗い森の中でじっとしていると、自分がフクロウにでもなったみたい。有希(ゆき)もフクロウみたいだよ? 私のそばでじっとしてる」
お姫さまはそう言って、見張り役のぼく──見張り役というのは、戦争にくわわらせてもらえないミソっかすの子、つまりぼくだけのためにある役だった──に、くすくすと笑いかけて、「湖にでも行こうよ」とぼくを誘うのだった。
森の中も、湖も、夜の闇を従えていた。月と星がそっと寄り添う。
ぼくらの住んでいる世界は、ずっと夜だった。
闇に覆われた世界。月と星と暗闇の世界。月の微笑みと、星のささやきと、夜の静けさだけが、ぼくらの知っているすべてだった。
ぼくのゆいいつの友達、清美(きよみ)くんが言うには、この世界のどこかには夜の明ける場所があるらしい。まぶしい光が月も星も追い散らして、闇に守られていたすべてを白日のもとに引きずり出してしまうらしい。
ぼくには、それがとてもこわいことのように思われた。
闇に抱かれていたもの、夜の深くで眠っていたもの、月と星しか知らないできごと──。
暗闇が守っていた大事なものが、夜明けによって奪われてしまう。
みんな、見たいと思うのだろうか。闇の中のできごとを。
一度、ぼくはアリスちゃんに尋ねてみたことがある。
「ねえ、もしも猫の瞳をもつことができたら、アリスちゃんはうれしいと思う? もしも闇の中でも目が見えたら。夜に隠されたすべてを見ることができるとしたら」
アリスちゃんは、ぼくの質問に答えてくれなかった。
その答えをもらえないうちに、アリスちゃんは死んでしまった。
清美くんはすごく悲しんだ。
みんなアリスちゃんのことが好きだったけれど、清美くんはその中でも一番、アリスちゃんのことが好きだったから。
ぼくのことよりも、ずっと、ずっと。
きっと、清美くんはアリスちゃんに恋をしていたのだと思う。
ぼくはそれが少し、さびしかった。
清美くんが毎日、ぽろぽろとこぼした涙の重さが、アリスちゃんへの気持ちの重さ。
ぼくが死んだ時もおなじぐらい涙をくれるのだろうか──、そんなことを思った。
アリスちゃんが死んで二週間がすぎた頃、清美くんはぼくに、「旅にでよう」と言った。
悲しくて、悲しくて、暗闇の中に沈んでいた清美くんは、
「夜が明ける場所をさがしにいこう」
そう言った。
ぼくは夜明けがこわかったけれど、それでも清美くんといっしょに旅にでることを選んだ。
前にアリスちゃんにした、「猫の瞳が欲しい?」という同じ質問に、清美くんは、
「見たいよ。すべてを見たい。ここでは、すべてが闇に隠れてしまって、なんにもわからないから。人の気持ちも、有希のほんとの顔も、アリスちゃんがどうして死ななきゃいけなかったのかも、なんにも」
そう答えてくれたから。
鞄に、パンと水筒と方位磁針、地図を詰めて、ぼくたちは旅にでた。月明かりの下を、夜の明ける場所を探しに。
ぼくたちは二人で、ずっと歩いた。二人でいるなら、こわいことなんてなんにもなかった。
初めて、船に乗った。
港で積み荷の樽の中に二人で隠れて、密航した。
ぼくたちの入った樽が船の中にはこばれていく途中、とてもどきどきした。狭い樽の中で抱き合うように触れていた清美くんの胸も、ぼくと同じリズムでどきどきと震えていた。
清美くんとおなじ気持ちでいる──そう思ったら、なんだかとてもうれしかった。
だけど、途中、密航がバレた。
ぼくたちは初めて船に乗ったから、どうしても甲板から海をながめてみたい誘惑に勝てなかった。
樽を抜け出して甲板に行き、初めての海に見入っていたら、船員に見つかってしまった。
密航者は樽のなかに密封されて、海に流されてしまう決まりだ。
ぼくたちは顔を見合わせてうなずきあうと、手をつないで、月影が波で揺れる真っ暗な海へ飛び込んだ。
それからずいぶん泳いで、やっとのことで無人島へたどりついた。
一日目は、目の前にある疲れと不安をやり過ごすだけで終わってしまった。
その次の日、人生で初めて清美くんとけんかをした。
二人でいればこわいことなんてなんにもない──そう思っていたはずなのに。
そう思っていたはずのに、ぼくらの他にはだれもいない無人島での不安なきもちが、ぼくに嘘をつかせた。
こぼれた涙が嘘の言葉を誘った。「ぼくは夜が明ける場所なんてさがしたくなかったのに!」
そう言った一瞬、清美くんが傷ついた表情になったのをぼくは見逃さなかった。
そのあとは無表情。
何も言わずに清美くんはどこかへ行ってしまって、ぼくは砂浜でひとり、膝を抱えていた。
その時にはもう、不安なきもちではなく、自己嫌悪のきもちで泣いていた。
砂浜にうちよせる波が、ぼくの涙もさらってしまえばいいのにと思った。ぼくの弱いこころもさらってしまえばいいのに。
きっと、不安なのは清美くんもいっしょだった。
どうしてぼくは、清美くんと不安を分けあうことができなかったんだろう。
どうして素直になれなかったのだろう。
そう思ってめそめそと泣いた。
ぐすぐすと泣いていたぼくの耳に、砂浜を駆けてくる足音が響いた。「有希!」とぼくを呼ぶ、嬉しそうな声色。
泣き顔をあげると、清美くんがこちらに駆け寄ってきていた。ぼくは立ち上がる。
清美くんは駆けてくる勢いのままぼくに抱きついた。バランスをくずして、ぼくらは砂浜の上にたおれた。
「有希! 有希っ!」
なんどもぼくの名前を呼びながら、清美くんはぼくのからだを抱き締める。嬉しさをからだ全体で表現するように、ぼくのからだを抱えたまま、ごろごろと砂浜を転がる。
「どうしたの…?」
押しつぶされて清美くんの下になったぼくが言うと、清美くんはにっこりと笑って、「ここから出られるよ、有希!」と言った。
「あっちの砂浜に、流木が何本も流れついてたんだ。ツタで縛ればイカダができる。ちょうどいい大きさの布も、オールにできそうな木の枝も、樽も流れついてた。ここから出られるよっ」
それに、ほら──と、清美くんはズボンのポケットから小さな缶詰を取り出した。「樽の中に缶詰がいっぱい入ってた。今日はこれで食事にしようよ。おなかすいたでしょ?」
この島から出られる──という思いからだろうか、深刻なきもちが一遍に吹きとんでしまったせいだろうか、なんだかおかしくなって、ぼくは涙でぬれた顔のまま、くすくすと笑った。
涙を拭こうと顔を撫でると、涙の跡についた砂がぽろぽろと落ちた。
ぼくたちは砂浜に並んで寝転がりながら、大きな声で笑いあった。
笑い声が途切れると、静かな波の音が耳についた。
ざあざあとうちよせる波はぼくの涙も弱いこころもさらっていってくれなかったけれど、清美くんがぼくをさらってくれた。
ぼくは顔を横にうごかして、清美くんの横顔をながめた。夜の闇が清美くんを隠してしまって、その表情がわからなかった。
「…ごめんなさい」
ぼくは小さな声でつぶやく。
「ごめんなさい、清美くん。夜が明ける場所をさがしにいこう。ぼくはそこにいかなくちゃいけないんだ。なのに、さがしたくないなんて言って、ごめんなさい」
「いいんだ」
清美くんがぼくに顔を向けたのがわかった。そっとぼくの手をにぎる感触がした。
「いっしょにいこう、有希。光のさす場所へ。夜が僕たちの心を隠してしまわない場所へ」
夜の明ける場所なら、きっと、清美くんの顔が見えるにちがいない。いま、にっこりとやさしく微笑んでいるその顔を、見ることができるにちがいない。
ぼくは清美くんの手をにぎりかえして、「うん…」と声をもらした。
ぼくはいかなくちゃいけないんだ、夜が明ける場所へ。清美くんのことをもっとよく知ることができる場所へ。
ぼくのことだって、清美くんに知ってもらうために。
三日かけてイカダを組んで、ぼくたちは真っ暗な海へ漕ぎだした。
四日ほど波のゆりかごに揺られて、やがて地上にたどりついた。そして夜の中を歩きつづけて、とうとう、夜が明ける場所をさがしあてた。
そこは、山の頂にあった。
二人で山をのぼり、頂上付近の坂道につくと、その向こうには光がさしていた。坂道の上はそこだけぼんやりと光って、闇を払っていた。
清美くんは、「行こう!」と小さく叫んで坂道を駆けのぼった。ぼくは──。
ぼくは、いけなかった。
いかなきゃいけないのに、闇の中のことを清美くんに見てもらわなければいけないのに、足がすくんで動けなかった。足がふるえるままにしゃがみこむと、ぽろぽろと涙がこぼれた。ただ、こわかった。
だって、アリスちゃんを殺したのはぼくなんだ。
清美くんをとられたくなかったから。
ぼくのことを一番にかんがえていて欲しかったから。
ぼくは、アリスちゃんに嫉妬していた。
可愛くて、やさしくて、だれからも好かれるアリスちゃん。ぼくには、なんにもないのに。弱くて、泣き虫で、友達のいないぼくには、清美くんしかいないのに。
ぼくから、清美くんをとらないで。
だからあの時、アリスちゃんと二人で学校に残っていたあの時、前を歩くアリスちゃんの背中を見ながら、ぼくは、アリスちゃんなんかいなくなってしまえばいいのに──と考えていた。
アリスちゃんに嫉妬してる、みにくいぼくのこころ。
それでも、闇がぼくのこころを隠してくれてるうちは、それでよかった。
階段の前にさしかかった時、一瞬、アリスちゃんの背中をつきとばそうと思ってしまった、ぼくのこころを隠してくれていれば。
きっと、階段の前でぼくがした質問、
「ねえ、もしも猫の瞳をもつことができたら、アリスちゃんはうれしいと思う? もしも闇の中でも目が見えたら。夜に隠されたすべてを見ることができるとしたら」
その質問が、ぼくを夜から引きずりだしてしまった。
ぼくは、質問に答えようと振り向いたアリスちゃんの瞳が、猫のように一瞬、闇の中で青く光るのを見た。
アリスちゃんが、夜に隠されたすべてを見た瞬間を。
おびえた表情をうかべて、アリスちゃんは後ろ向きのまま、一歩、後ずさった。
そこには床がなかった。階段の一段目が、アリスちゃんの足をからめとってしまった。
アリスちゃんは、暗闇が隠した学校の階段を、人形みたいにコロコロと転がって、死んでしまった。暗闇は、階段をゆっくりとおりていく真っ赤な血も、捨てられたお人形さんのように動かないアリスちゃんの体も飲み込んでしまった。
ぼくは、こわくなって逃げだした。
だって、ぼくのせいなんだ。ぼくが殺したのとおなじことなんだ。
ぼくのみにくいこころが、アリスちゃんを殺してしまった。
だれにも言えなかった。アリスちゃんの死をかなしんで泣いている清美くんにも、ほんとうのことが言えなかった。
きらわれたくなかったから。
清美くんにきらわれるのがこわかったから。
だからぼくは、清美くんといっしょに旅にでた。じぶんで言うことができなかったから。すべてを見たいと言った清美くんに、夜に隠されたすべてを見てもらおうと思ったから。
それもいま、こわくて、こわくて、できそうにないのだれど。
ぼくは、弱くて、泣き虫で、嫉妬ぶかくて、じぶんで決めたことさえ、満足にできなくて。
しゃがみこんだままぐすぐすと泣いていると、「有希」と、ぼくを呼ぶ声が聞こえた。清美くんの声。
「ごめんなさい…」
ぼくは顔をあげて、ふるえる声で清美くんに言った。
言わなければいけない。
ぼくが、じぶんで言わなければいけない。
ちゃんと、ぼくのことを知ってもらわなければいけない。
「ごめんなさい、ぼくは…。ぼくが……」
「いいんだ」
その言葉は、無人島で聞いた言葉と同じ響きだった。
「いいんだ。僕は山頂から見てきたよ。夜が明ける場所で、闇に隠されたすべてを。ほんとうのことを。だから、もういいんだ」
清美くんはしゃがみこんで、ぼくの手をとった。ぼくの顔をのぞきこむ。
「もしも他の誰もが有希のことを許さなくても、僕は、僕だけは、有希を許すよ。ここまで一緒にきてくれたから。僕に、闇の中のことを見せようとしてくれたから。自分のこころの中を、見せようとしてくれたから」
手をひいて、清美くんはぼくを立ち上がらせた。
「有希は強いよ。僕はいつも、有希はどうしてそんなに強いこころをもっているのか考えてた。もしも僕が有希だったら、耐えられないことも多かったろうと思う。旅にだってきっとでなかった。泥遊びをしたあと、綺麗に足を洗って怒られないようにごまかすみたいに、隠して、嘘をついて、いつまでも逃げていたと思う」
だから有希は、強いよ──清美くんはそう言った。
ぼくが強いはずなんかないのに。
ぼくは、強いこころをもっているのは清美くんの方だと思っていた。密航を決めた時も、無人島に流れついた時も、清美くんがいたからこそ弱いぼくでもがんばることができたのだ。
けれど、清美くんの目にぼくは、強いように映っていたのだろうか。
夜の中では、すべてが闇の底に沈んでしまって、なんにもわからない。すぐそばにいる人の気持ちさえ。
「行こう、有希。光の下で見る世界は、すごく綺麗だ」
「うん…」
ぼくは清美くんに手をひかれて、坂道をのぼりはじめた。
夜が明ける場所