賽の河原

 石の無数に転がる河辺。三途の川が音もなく流れてゆく。
 河原にはぼんやりとした乳白色の霧と、硫黄の匂い。
 寳の河原にあるのは、石と霧と硫黄と、親からはぐれた子供の泣き声。


 気がついたら、この何もない地獄にいた。
 時間の感覚さえもうない。家に帰りたい、アリスは思う。ただそれだけを何度も願う。叶えられることはないのだと分かっていても。
 この河原に転がる石を四つ拾い、積み上げれば、もう一度生まれなおすことができるそうだ。
 だが、それも叶わない。
 石を三つ積んだところで霧の向こうから白い着物を着た鬼が現れ、積んだ石を崩してしまう。
 アリスはこれまでに何百回も石を積み上げたが、そのたびに鬼に崩された。そして、ついに諦めた。
 アリスは河原にしゃがみこむと、あきらめ混じりに、ただ惰性で石を積んでみた。三つ積んだ頃に、霧を纏って鬼は来る。
「もう一度、あの世界に生まれたい?」
 鬼はアリスに問う。額から貧弱なツノを生やした痩せぎすの鬼は、悲しそうな顔をしてアリスに問う。
「生まれたい」
 アリスは手を止め、答える。
「君は、両親に殴られ、蹴られ、タバコの火を押し付けられ、泣き声がうるさいからとゴミ袋に詰められて、あげく、死んだ。それからずっとここにいる」
 鬼は顔を歪めて言う。「それでも、もう一度あの世界に生まれたい?」
 アリスは石を一つ握り、三つ積んだ石の上におずおずと乗せようとする。
 だが、その手を石の上に降ろす事はできなかった。
 石を握った手の甲には、醜く焼け、肉の盛り上がった火傷の跡。
 アリスは黙りこくると、じっと自分の手を見ていた。
 鬼も沈黙したまま、アリスが積み上げた石を足でゆっくりと崩す。
 アリスが顔を上げると、鬼は優しく微笑んで言う。
「遊んでおいで。ここにはボールも何も無いけど、友達ならたくさんいるよ。遊んでおいで」



 カラスの、甲高い醜悪な鳴き声が聞こえる。
 森も何もないのに、どこにカラスがいるのだろう、美津里(みつり)はいつも不思議に思う。
 第一、この石の大地に来てからというもの、カラスの姿なんて一度も見かけたことがない。
 ふと、鬼が霧の向こうを歩いているのを目にした美津里は、歩きにくい石の上を移動して、鬼の隣に立つ。
「ねェ、カラスの声が聞こえるけれど、肝心のカラスは何処にいるんだい?」
 鬼はちょっと笑って答える。「いないよ、カラスなんていない。あれは、遠くで風が鳴いているのさ」
 カラスの声としか思えない音が聞こえる。
「風? これは風の吹く音なのかい?」
「そう。風だよ。カラスはあんな変な言葉で鳴かないだろう?」
「確かにねェ」
 美津里は小首を傾げると、頬に人指し指を当てた。
「カァカァとは聞こえないもんねェ。変な音だよゥ。僕にはコドロコドロと聞こえるのサ」
「そうだよ」
 鬼は言う。「子取ろ子取ろと風が鳴くのさ」
 美津里は眉を寄せる。風の吹く遠くを見つめる。ポツリと言葉を漏らす。
「イヤな風だねェ…」 



 寳の河原を流れるは三途の川。 
 霧が立ち込めて向こう岸は見えないが、この川の向こうが天国への入り口。
 清美(きよみ)は河辺から三途の川を眺める。澄みきった水が、さらさらと音もなく流れていく。
 向こう岸まで泳げない距離ではない、と思う。どれだけ遠いのかは知らないが、泳いでいればその内に、向こうへ辿り付けるのだと思う。
 清美は一歩前へ足を踏み出したが、誰かに腕をつかまれて後ろに引かれた。
 振り向くと、額から一本のツノを生やした鬼の姿。
「その川に入ってはいけない」
「どうして?」
 清美は言う。「天国に行かれると困るから?」
「違うよ。そこを泳いで天国に行けるのなら、今すぐにでも行かせてあげるよ。でも、ダメなんだ。その川は泳げない。みんな、沈んでしまう」
 鬼は取った清美の腕を離す。「その川はね、現世の人がこぼした涙で出来ているんだ。重たくて、重たくて、誰も泳げない。みんな、涙の底に沈んでしまう」
 鬼が、清美の顔から澄んだ川面に視線を移す。「あそこをごらん?」
 鬼の指さしたのは、水の底。透き通った涙は、川の底まで綺麗に写す。
「…あれは、人? 人なの?」
 涙の底に、少年が沈んでいる。赤い着物の少年が、目を閉じて、水底に横たわっている。
「林檎、という名前だった」
 鬼の押し殺した声。「止められなかった…」
「死んでしまったの?」
 清美が鬼の顔を見ると、鬼は水底を見たまま目を細めた。
「君達はもう死ねないよ。あの子は眠っているんだ。ああして、冷たい水の底で、醒めない夢を見ているんだ」
 鬼は視線を清美に戻す。自嘲気味に笑う。「だから、水に入ってはいけない。涙の底に沈みたくないなら」
 鬼と目が合った清美は、小さな声で鬼に問う。
「ここでこうして生き続けることと、醒めない夢を見続けること、どっちが幸せなの?」
 鬼は清美の言葉に小さく首を振る。 
「…わからない」 



 有希(ゆき)は石を積む。
 胸にクマのぬいぐるみを抱いて、懸命に。
 一つ積み、二つ積み、三つ積み、そして、崩された。
 有希は鬼を見上げ、泣いた。
「どうしていじわるするの…?」
 クマのぬいぐるみをぎゅうと抱き締め、ぽろぽろと涙のこぼれるままに泣いた。「ぼく、帰りたい。お母さんのところに帰りたい」
「帰れないよ」
 鬼は有希を見下ろし、冷たい声で言う。「ここに来てしまったら、二度と帰れない」
「嘘だよ。帰れるって聞いたもん。石を四つ積めば帰れるって」
 有希はぬいぐるみを離すと、上着の裾を掴み、めくり上げた。有希のおなかは、裂けていた。「ぼくは、いっぱい怖い思いをして、気がついたらここにいた。お願い、家に帰りたいの。お母さんに会いたい…」
 有希の哀願に、鬼は小さく首を振る。
 鬼は、有希のおなかの傷のことを知っていた。
 有希は、殺されてここへ来た。
 小学校で、校内に入り込んだ錯乱した男に、包丁で刺され、ここへ来た。
「…いいよ、四つ積んでごらん」
 鬼は言う。「君は、石を一つ積むことの意味を知らない」
 鬼の言葉に、有希は涙で濡れた顔で石を一つ持つ。
 そして、河原に一つ石を置く。鬼は言う。
「一つ積んでは父のため」

 二つ目の石を積む。
「二つ積んでは母のため」

 三つ目の石を積む。
「三つ積んでは人のため」

 四つ目の石を積む。
「…………………」
 沈黙。四つ目の言葉はない。
 四つ目の石の噂なんて、誰かが口にした希望にすぎない。
 この地獄の中で、子供たちが信じていたかった希望。

 有希はしばらくじっと石の塔を眺めていたが、やがて、おずおずと顔を上げ、鬼を見た。
 鬼は、悲しそうな顔をしていた。
「帰れないんだ」
 ポツリと漏れた鬼の言葉に、有希は顔を歪めて、大きな声で泣いた。
 鬼はしゃがみ込み、有希をそっと抱き締める。
「いくら、父の、母の、人のために石を積んでも、君達は帰れない。もう、石を積むことなんてないよ。どうして、君達がここへ来る原因となった、父の、母の、人のために石を積まなければならない」
 泣きじゃくる有希を抱き締めていた鬼の頬にも、いつの間にか涙がこぼれていた。
「誰も、君達のために石を積まない。君達が積む石の中にも、君達のために積まれる石はない。もう、積まなくていいよ。そんな石なんか積まなくていい」
 鬼と少年は、二人、泣いた。 



 鬼が崖に腰をかけている。
 すぐ足元を流れる涙の川に、痩せた足を晒して。
 白い着物の裾が水を含んで濡れるままに、鬼は小高い崖だった場所に腰をかけて、水底をぼんやりと眺めている。
 元、寳の河原と呼ばれたその場所を。
 どうやら、現し世では戦争が始まったらしい。
 一夜にして、寳の河原は増えた水の底に沈んだ。遊び疲れて眠りについた子供達と一緒に、人々が流した涙の底に沈んだ。
 鬼は、水の底で二度と目覚めない子供達の事を想う。
 醒めない夢は、どうか幸せな家族の夢であって欲しいと願う。
 鬼は手近にあった石を集めると、一つ、二つ、三つ、四つ、積み上げた。
 そして最後に、子供達のために、もう一つ、石を積んだ。 


 川の水は子供達を孕んで静かに流れる。
 もう、子供達が石の積む音は聞こえない。
 鬼の耳に響くは、子取ろ子取ろと風の鳴く音。 

賽の河原

賽の河原

そこは地獄。 寳の河原にあるのは、石と霧と硫黄と、親からはぐれた子供の泣き声。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-08

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