水を吐く
嫌い、となんでもないように加奈子の形の良い唇が動いた。
「そっかあ」
追求はせず、曖昧な返事を無責任にこぼしたままペットボルのサイダーに口をつける。窓を通してセミの鳴き声が聞こえた。窓際、向かい合わせた席で頬杖をつく彼女の横顔を隠れ見る。
ときたま、ひやりとしたことを言う子であった。
そして、そのあとは大抵猫のような甘えた声で私を呼ぶ。
ペットボトルの口から唇を離し、キャップも閉めないまま机の上に置く。加奈子は私の手ごと汗をかいたペットボトルに触れた。
「つめたい、」
彼女の中指がするりと私の手の甲から指先を撫でる。黒目がちな瞳が私をとらえた。視界の端で揺れる木の葉の音は窓のアルミニウムフレームにすべて吸い込まれた。加奈子はペットボトルのキャップを二本指でつまむ。そのまま流れるような動作で私が浅く掴んだままのペットボトルに軽く栓をする。
「帰ろっか」
「うん」
空調機で冷やされたほこりっぽい教室を背に引き戸に手をかける。隙間から湿気と土の匂いを含んだ熱の塊がぶわりと教室に紛れ込んだ。
振り返ると加奈子がゆっくりと目を伏せた。突如、体をぎゅっと小さく丸めたかと思えば小さく餌付く。慌てて肩を抱いて覗き込むとこぽり、と加奈子の口から水が溢れた。私は咄嗟に中途半端に開いた教室の扉を閉めた。
加奈子は背中を丸めたままずるずる膝をつき、口に手をつよく押し当てる。薄い唇から漏れ出す水がさらさらと制服の胸元を濡らす。
「泣かないで」
今にも泣き出しそうな声で加奈子が私の手首を掴む。その指先は水ですっかり冷えていたけれど、効き過ぎた空調で冷やされた制服を通して触れる加奈子の背中はじんわりと熱を帯びていた。
「泣きそうなのは加奈子でしょ」
加奈子は余裕なく小さく笑った。教室の床には加奈子の吐き出した水でおおきな水たまりができていく。私の足元にもその水は及んで、その冷たさを知る。
「ごめん、大丈夫、すぐ乾くとおもうから」
とめどなく水をぽろぽろこぼしながらも言葉尻はしっかりとしていた。炭酸が鼻から抜ける。
「かなこ」
口の中が甘くなる。どうして、だとか、なんで、ほんとうにだいじょうぶなの、だとかどんな言葉を用いてもふわふわと笑ういつもの加奈子を見つけられなくなりそうだった。
加奈子をどうにかここに留めておかなければいけない、と何かを口にしようとするも教室の隅の沈黙の重さが口を閉ざした。しばらくその指の弱々しい隙間から透明な水がたらたらとこぼれ落ちるのを黙ってじっと見つめていた。
結局、吐き出した水でぐっしょりと重くなったスカーフを絞りながら「もう大丈夫」という加奈子の言葉で夏休みが始まった。
もしかしたら加奈子はもう帰ってこないのではないか、と約束をし倦ねた分かれ道で焼き付けるように背中を隠れ見た。空が果てしなく青いまま夏休みが明けて、けれど、加奈子はもう水を吐くこともなく元通りまたおはよう、とふわふわと笑っていた。
*
学年が上がると私と加奈子は別々のクラスになって、自然と一緒に過ごす時間もぐっと減った。それでも廊下ですれ違うたびに笑って小さく手を振ってくれた。
加奈子が大学に進まずに就職するのだと母の口から聞いたのは私が地元の私立大学の合格通知を受け取った直後だった。
ぴしりと形の整ったスーツに塗れた入学式にも少し寂れたサークル棟にも附属薬用植物園にも加奈子が紛れ込む隙間は一つもなかった。私がこうやって残酷な隙間を探している間にも加奈子はストッキングに足を通して大人のような顔をしているのだと微かに足元が揺れた。
ようやく隙間を探すの振り切った頃、母がゆっくりと時間を溜めて深刻そうな声色で告げた。私は母親の一瞬のためらいを見逃すことはなかったけれど、一連の動作を驚く程冷静な気持ちで眺めていた。
「加奈子ちゃんが、」
いなくなっちゃったみたいなの、あんた、知らない。
亡くなった、と母の唇が動くことを他人事のような軽さで覚悟していた私は中途半端に放り出された感情にひどく困惑した。目の奥でたくさんの花に囲まれて目を瞑る加奈子の白い頬がぽっかりと浮かぶ。
頬の白さをようやく振り払うと今度は高校生のままの加奈子が大丈夫だよお、とへらりと笑う。そのゆるんだ顔があまりに鮮明で、柔らかくなった洋梨のような熟れた果実の匂いが気管に充満する。
「知らない、よ」
「そうよねえ、どこにいっちゃったのかしら、加奈子ちゃん」
ふと加奈子はもうこの世界のどこにもいないような気さえした。
それなのにあの日の加奈子の背中の熱と教室の机のにおいは沁みのように私の内蔵にぽつりとこびりついたままだ。何度かどうにか言葉にしてしまおうと決意するも舌は縺れ、じくじくと熱は増していくばかりだった。
本当は一度だけ、帰路に着くスーツ姿の加奈子を見つけたことがあった。ぼんやりと明るい街灯の下でかつかつ、とコンクリートを叩く音ときっちりとまとめられた後ろ髪がひどく大人びていたが、幼さを残す背中には心当たりがあった。
加奈子は橋の上で足を止めてしばらく川を見つめていた。生暖かな風が吹く。川原のやわらかい草の匂いが川全体を覆う。私も彼女の数十歩後ろで遠く遠くの川と空の繋ぎ目に目を凝らす。
「加奈子」
ざわ、と風が一段と強くなり、背の高い草が大きく揺れた。
*
あ、と声を上げた瞬間、目の前の川の水がぼうぼうと膨らんであっという間に暗闇との境界線があいまいになった。足の指の付け根に冷たさを感じたかと思えば、勢いは増すばかりでくるぶしまで一気に浸される。巨大な黒い獣に足元が攫われそうになって咄嗟に橋の欄干にもたれかかる。白いペンキがところどころ剥げて赤茶けた錆が露出している。突然むせ返るような息苦しさに襲われた。
記憶の中と同じ草の匂いがかろうじて私の胸を慰める。
彼女の、あのひやりとした部分を知っているのはさいごまで私だけだったのだという優越の滲む淀みが口からごぼり、と溢れた。そのくせ、例えば私がきらいだと何の気なしに告げたならきっと、その瞳は不安に揺れるのだ。そういった想像をするたびに私の体の奥はぞくぞくと震えた。
ただ、もうそうやって疼くような気持ちを抱くことはなくなるけれど。
彼女のことを思い出す。目の前で冷え切った水を吐いた彼女の細い指を思い出す。
忘れてしまう、と肺の中の水をとどめておこうと足掻けば足掻くほど苦しさは増した。情けなく、ひゅ、と息が漏れる。上手に呼吸ができない。口を覆うと強い錆の匂いがした。
わすれてしまう。
私の口からどんどん溢れる水は不気味に生ぬるかった。ぽたぽたと拭いきれない水が顎をつたう。顔を上げると縋るような、責めるような目をした彼女が私の背中をやさしくさする。あの日教室で聞いた蝉の声が頭の中につよく響いた。
罰だと思った。忘れることも、忘れてはいけないことも。
「ごめんね」
がんがんと痛む頭ではその言葉を発したのは果たして私なのか、彼女なのかわからなかった。背中に触れる小さな掌がゆっくりと離れていく。
「泣かないで」
これは加奈子の声だ。あの日からずっと、本当に泣いていたのは私だったのかもしれない。胸の奥がきゅっとたまらない気持ちになる。ふ、と彼女のひやりとした部分にどうしようもなく触れたくなった。
加奈子はこちらを一瞥したあと、どこまでもぽっかりとひらいた獣の口の中へと足を進めた。
「かなこ」
行か、行かないでと呼吸の合間を縫うように呟いた。その間にも生ぬるい水は溢れ続けた。
水を吐く
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