【二章】meria
二章
自分を呼ぶ声で不思議な夢から目を覚ました愛菜。
いつの間にか眠っていたことに気が付き、重たい両目をこする。
無理やり起こした事を詫びるエクセルの声で呼ばれていたのは夢ではなくて現実だったのかと納得する。
「君に真面目な話があるのだが、良いかね」
「真面目な話?」
目下どうにかしなければいけない問題。今後、身元を証明できない愛菜をどうやって次の市街地へ連れていくか。
もうすぐ一晩泊まる予定の港街へ到着する頃になり、エクセルは決断をしなければいけない状況となった。
「花嫁候補二号でいいんじゃねーの」
身も蓋もないセットの提案にエクセルは深い溜息をついて首を振る。
「仮に港でソレが通用したとしても城では通用せん。それで港の検問を通った事を指摘されたら言い逃れできん」
そう言って唸りながら腕を組み直す。
側で見ていた愛菜がごめんなさいと声を漏らし、馬車の中の空気が一層に重くなった。だが、エクセルは愛菜の言葉に何も言わず、ずっと俯いたまま考え続ける姿勢をとり続けている。
そこにセットが素朴な疑問をエクセルに投げてみた。
「あんたそいつの事気に入ってんじゃねーの?」
「うん?」
その質問に否定もせず、うっすら笑うエクセルの視線がちらりと愛菜を捉える。
目があった瞬間、妙に恥ずかしくなった愛菜は急いで彼から顔を反らした。顔は真っ赤になっていた。
「……そういう事にしねーの?」
どういう事かは具体的には言われなかったが、言わんとしていることが分かってしまったクラエスは驚きのあまり自分の息を吸いそこねて盛大に咽だした。
当の愛菜はその質問の意味をよく分かってないのだが、分からないなりにどんな答えが返ってくるのか気になって彼の横顔を見つめた。
「私も純血主義者なんだよねぇ」
頬杖をつきながら、渋々と答えたエクセルの言葉に正面に居たセットとクラエスが不快感を全面に主張する顔を見せた。
エクセルは居心地悪そうに彼らから馬車の外へと目を逸らす。
「あ、あの……」
愛菜が震えた声でエクセルを呼んだ為、車内へ向き直り愛菜へ下世話な話をしてすまないと詫びを入れた後、どうしたのかと問いかける。
愛菜は今更言っていいのか迷い、視線が泳ぐ。今にも泣き出しそうな顔をしてエクセルを見たり反らしたりをしながら、やっと声に出した。
「純血主義者って何ですか?」
しんとする馬車の中で暫く車輪の音だけしかしなくなる時間が流れている。
愛菜は自分が恥ずかしいレベルで何も知らない事を改めて理解させられ震えていた。その今にも泣きそうな姿にうろたえたクラエスが急いでフォローに入った。
「アイナ、気にす――」
愛菜を元気づけようとしたクラエスの言葉は盛大な笑い声によってかき消された。見ればエクセルが腹を抱えて笑っているのだ。
お世辞にも明るい印象ひとつない陰湿な彼からは想像もできないくらいの盛大な笑いに、連れのセットも口を開けて驚きを隠せないでいる様子だった。
「おい……どうした!?」
「分からないか。分からないか!あっはははは!!」
「ちょっ、笑いすぎだろ!」
笑いすぎて溢れる涙を拭き取るエクセルにクラエスが堪らず怒鳴りつける。するとまだ完全に止まっていない様子だがエクセルは状況を理解し、愛菜の両手を強く握りしめる。笑顔で細くなった両目がまっすぐ愛菜を見つめ、次第に彼の顔が近づいてくる。
「やっぱり好きだよ……」
今にも顔が触れそうな距離になり、堪らず愛菜はクラエスに助けを求める。
顔を押さえつけ、離れるよう要求しながら首をひねる。笑ったり悲鳴を上げたり忙しい奴だというオチになった。
「で、結局どうするんだよ。着いたぞ」
「うん、決めた」
「決めたって、何を」
馬車が止まったため時間切れが来てしまった事を理解したセットからの質問。だがエクセルは真面目に答えることなく、愛菜を見てニヤリと笑ってみせる。
その表情から愛菜も含め全員がまさかと嫌な予感を感じた。
馬車を運転する御者が覗き窓から外の状況をエクセルに報告する。その真面目な対応に「どうせまたろくな事言わないだろう」と言いたげな顔をする他の奴らとは大違いだとエクセルは心の中でぼやいた。
「それにしても長いな。賑やかな街な分普段から厳しめな検問だったが、今回は少々異常な気がするのだが」
座席に膝を立て、狭い覗き窓に顔を突っ込む形で外の様子を見ながら、なかなか進まない馬車に悪態を付くエクセル。自分の仕事が遅れることもそうだが、何より今気がかりなのは意識を失ったままのエステルの容体だ。
出来ることなら早く寝台に寝かせてやりたいと思うのだが、状況はそうも行かない様子。諦めた表情で馬車内で座り直し、もう片方の座席に寝かせているエステルを見て辛そうに表情をしかめる。
側に寄り彼女の表情をよく見る。顔色は青白く生気があまり感じられない。かろうじてなんとか踏ん張ってるかのようなか細い息が余計に胸を締め付けてくる。
「あの、閣下」
覗き窓から不安そうな声と一緒に外を見るように手で外を指差す御者の手が見え、エクセルはもう一度外へ顔を出す。
指差した先には衛兵の姿をした二人の男が立っていた。何やら想定外の出来事に戸惑った様子の一般兵の若い男。そして彼より一歩前に立つのは薄い布で目隠しをした妙な出で立ちの衛兵だった。
薄い口元から繊細な容姿が薄い布に隠れていても感じることが出来き、色素の薄い黄緑色の細い瞳が布越しにじっとエクセルを捉えている。
衛兵士としては少々線が細すぎるような印象もあるが、一見では分からない実力があるのだろう。胸や肩を飾る装飾品やなどから隊長格の人間である事を理解したエクセルは、真顔のまま面倒くさい事になったと心中で舌打ちをする。
「お初にお目にかかります。エルメルト侯爵閣下」
「その名前で呼ばれるのは嫌いなのだが」
自身の家の名前を呼ばれた瞬間、エクセルの表情が禍々しいものに変わる。
声色から殺気を感じた若い衛兵と御者が緊張から顔から脂汗をにじませているが、殺気をぶつけられている当の本人は目隠しのせいで表情が見えない上に、声は随分と涼しげだった。
「これは、失礼致しました。私、この街の衛兵を指揮するスコル=オリベルトと申します」
「それで、その衛兵隊長殿が私に何ようかね」
深々とお辞儀をする男に対し、エクセルは珍しく嫌悪感を露わにした声でつっけんどんな態度を返す。
嫌いな家の名前で呼ばれたからというのもあるが、エクセルはこの衛兵隊長から妙に強い魔力を感じ、危険な存在であると判断した。強い魔力を持つ人間は様々な魔術の心得がある場合が多い。自分のように言葉巧みに仕掛けてくる術者もいる為、同業者は基本信用出来ない。
「お急ぎの任務の最中と聞き、少しでもお手伝い出来ればと思い参りました。まずは衛兵関係者用の通路へ迂回していただき、別室にてお話したい事がございます」
「……それはこの妙に厳しい検問と何か関係あるのかね」
スコルと名乗った衛兵隊長は何も答えず、薄い布越しにまっすぐエクセルを見る。否定はしないと捉えていいようだ。
「解った。こちらも一つ頼みたいことがあるのだが」
「何なりと」
「具合の悪い者が居てね。すまないが先に医務室を借りて介抱したいのだが」
「わかりました。君、先に行って医務室の用意を」
連れの若い兵へ指示をした後、スコルは迂回路へ案内すると言って御者と入れ替わりに席へ着く。代わりに席から追い出され釈然としない表情をした御者が乗り込んできた。
目的地到着までの時間、折角全員顔を合わせたということで、挨拶がてら軽い自己紹介を改めてすることになった。まずは愛菜とクラエス達には接点が少なかった御者からだ。なんでもセットと同じ所属の同僚らしく、エクセルとは所属は違うが仕事をよく貰っている間柄だそうだ。
「ふぅん、兵隊さんにも部署とかあるんですね」
「そうだよ~。僕たちは街やお城を警護する衛兵とは違って、戦闘特化の騎士団所属なんだ。まぁ今平和だから、やってるのは軍事演習とか訓練ばっかりなんだよね~」
愛菜の疑問に妙に気の抜けた喋りで答える御者。運転もせず、気を張らなくて良くなった為なのだろうが、彼に矢と殺気を向けられた事のあるクラエスはあまりの変わりように呆れている様子だった。
「あ、でも閣下とウチの大将はウマが合わないんで、こうやって仕事もらってんのは内緒なんだけどね」
「リスト君、部外者に城の内情を話さないでくれないかね」
「あはぁ、怒られた」
どうも口が軽いらしい。エクセルは彼の名前を一段低い声で呼び、自己紹介を無理やり止める。
後ろを気にするように目線を動かすエクセルから御者も何か察したようで、ソレ以上は何も言わず「よろしく」とだけ二人に言って笑顔を見せた。
エクセルは未だ緊張感のある面持ちで愛菜とクラエスを交互に見ながら、あまりこの街で軽率な行動はしないほうが良いと忠告をした。これからどんどん暗くなる時間で、特に愛菜には一人で歩かず、自分の側を離れないようにと念を押すくらいだ。
「なんだよ急に、子供扱いしやがって」
「詳しくは後で話すが、この街は洒落にならないのだよ」
「一見は賑やかな港街なんだけどねぇ。そういう華やかさには裏が有るって事だね~」
ニコニコと笑う御者が補足して話してくれた内容は、ここは外国からの物流で大きくなった街らしく商業が盛んらしい。特にこの街の現領主はとてもやり手の商人らしく彼の功績によって街が発展したと言っても過言ではない。ということなのだが。
「やり方がねぇ……」
「俺、あんたみたいなのがあーいうの買うんだと思ってた」
「減俸すんぞ」
「まぁまぁ、不謹慎かもしれませんが需要があるって事ですよねぇ」
セットの何気ない一言がそうとう頭にくる内容だったようでエクセルは彼の首根っこ掴んで珍しく荒れている。
そう言ってエクセルを止める御者は意味ありげな視線を愛菜に向けた。その言葉と視線が何を意味しているのか愛菜には全く理解できず、ただ首を傾げる。
「その変態が保護者じゃ不安だろうから、なんかあったら俺に言えよアイナ」
「うん、ありがとうクラエス」
否定せず笑顔で返事を返す愛菜にショックを隠せないエクセルが口を何度も開閉している。
普通は相手にもされないんだよとセットに冷静なツッコミをされ、あえなく死亡。座った状態で頭を垂れてピクリとも動かなくなってしまった。
時々小さな声で何かつぶやいているが全員無視してそれぞれの会話を楽しんでいる。
「おまたせいたしました。どうぞお降りください」
馬車が停車してすぐ外の御者席からスコルの声が聞こえ、全員が顔を見合わせる。
自分が先に出ると無言で御者が頷き、扉を開けると担架を持った救護兵と思われる衛兵が三人待機していた。
「極度の魔力不足による昏睡状態だ。癒術は効かないから魔力の自然治癒を促す薬を調合して飲ませてやってくれ」
「はっ、かしこまりました」
「リスト君はクラエス君を連れて医務室に向かってくれたまえ」
「御意。じゃぁ、行こうか」
御者に続いて降りたエクセルは救護兵の一人に状況を説明し治療に関する指示を出す。相手の兵士共に無駄のないやり取りでテキパキとエステルを運んで去っていく様子を愛菜は呆然と見送る。
他の兵士達が緊張した面持ちで命令を聞く様子から、隣に立っているエクセルが想像以上に凄い人間なのだということも理解できた。
馬車内の持ち物検査の結果が出るまでの待ち時間、暇を持て余した愛菜は珍しい物を見るような目で彼を見上げていると、その視線にエクセルが気付いた。愛菜は視線を逸らしながらも何も無い時間に退屈してかエクセルになんとなく話を振ってみる。
「エクセルさんって偉い人なんですか」
「ん~?別にそんなに偉くはないよ。私も上の人には怒られてばかりだしねぇ」
そう言って遠い目をするエクセル。
こんな表情、そういえば仕事帰りの父親が良くしていたと愛菜はなんとなく察した。大変ですねと当り障りのない感想を言った後、変なこと聞いて申し訳ないと謝った。
どうして謝るのかと訊かれ、愛菜は戸惑い、顔を上げる。
「私は君に興味を持ってもらえて嬉しいのだがね」
「そ、そんなつもりじゃ……」
じっと目を見つめ距離を詰めてくるエクセルに対し、愛菜は真っ赤な顔をしながら距離が近いと両手でエクセルを引き剥がそうとする。
何かにつけてそういう方向へ話を持っていくエクセルの言動は恥ずかしくあまり好きじゃないと訴える。が、彼はその反応も楽しいでいるのか、笑いながら愛菜の肩を抱き寄せる。異常に近い距離に小さな悲鳴を上げる愛菜の耳元でエクセルがくすくすと笑い耳打ちをする。
「今日から君は私の弟子になるわけだし、お互い遠慮する必要はないだろう」
「でし?」
彼の言っていることが理解できず、愛菜は間の抜けた声で彼の言葉を復唱した。
視線の先にいるエクセルはずっといつも通りのにやけた顔のままそれ以上は何も言わない。愛菜は助けを求めるように側で腕を組んで壁にもたれかかっているセットへと視線を向ける。セットはため息を付きならがらもいいかげんにしろとエクセルから愛菜を剥がして彼の発言へ突っ込みを入れる。
「あのなぁふつーの師弟がこんなベタベタするわけ無いだろう」
「私の教育方針に何か問題でもあるというのかね!?」
めんどくせぇ。
セットはエクセルのノリノリな返しに対して顔を盛大に歪めてそう主張した。
そしてその顔を見たエクセルは露骨に飽きたのか深い溜息をついて椅子に座り直した。その様子を見てもう大丈夫だと言って愛菜をその横に座らせる。
「何か忘れている気がする」
「私の事ではないですか?」
目の前に目隠しをしたスコルがしゃがんで顔を覗いてきた為、愛菜が悲鳴を上げる。正確には隣りにいたエクセルに対して喋っていたのだろうがエクセル自身はなんの反応も示さないため愛菜に対して笑ってみせた。
「おまたせいたしました。もうすぐ手続きも完了しますよ」
「で、話は?」
「いえ、大した事ではありませんが……」
先ほどのふざけたエクセルからは程遠いくらい冷たい表情に声。側に居たはずのセットが気がつけばスコルの後ろへ移動をしていたりという状況から張り詰めた空気を感じ取り、愛菜はエクセルの袖を掴んで二人のやり取りを見守る。
「エクセル殿には何も詮索はせずに明日予定通り、街を出て欲しいだけでございます」
「なんだそれ」
セットは鼻で笑う。特にこの街はただの通り道で、来ようと思って来ているわけでもない。明日になって出て行くのは当たり前だと言う。
だが、わざわざソレを言ってくるという事は知られたくない何かがこの街で起こっているのであろう。
「私も特に何も詮索しません」
そう言ってスコルの顔が愛菜の方へと向く。目隠しで見えないが、彼の隠れた両目はまっすぐ愛菜へ向けられているのがわかる。大きな街の衛兵を指揮している男が、身元不明な存在である彼女に気がついていない訳もない。そう言いたいのだろう。
身元のよくわからない娘を連れて居ることは確かに自身の立場上褒められた行動ではないとエクセルも自覚はしている。
が、まさかそれを使って脅されるとは……。
(想定外……)
エクセルは驚きを通り越して呆れてどんな言葉を返していいか迷っていた。
意味深な視線からスコルの言っていることが自分が原因の理不尽な要求である事を理解した愛菜は不安そうな顔でエクセルを見る。彼の袖を掴んだまま暫く考えた後、愛菜はスコルに対し、消えそうな小さな声で抗議をした。
「あの、私はエクセルさんの弟子で、そんな隠すようなもの……ないです」
エクセルも含め、そこに居た全員がぎょっと愛菜を見下ろす。
顔を上げた愛菜に睨まれたスコルの口端がかすかに上がった。意地の悪い笑みを浮かべているのが目隠しの上からもよく分かる。
「証拠はあるのかな、お嬢さん」
「……」
急に凄みのある声で返され、愛菜は困った様子で黙る。じわりと目がにじんでいるが目はまっすぐスコルを見ている。
ここで目を逸らしたら余計に疑われると思い必死に彼を睨見続ける。
「なら、君が立ち会うかね?スコル君」
「は!?」
「時間がなくてまだ師弟の契約を結んでいなかったが、君立ち会いのもと今ここでその契約を結ぶ」
涙をこらえ震えていた愛菜を抱き寄せ、あやすように愛菜の頭を数回撫でるエクセル。
顔をあげると先ほどの言葉はスコルではなく愛菜を見て話していたことに気がつく。愛菜をまっすぐ見つめた後、エクセルは二人に対して問いかける。
「それでいいかねと聞いているのだよ」
粘り気のある音を発しながらゆっくり開いていくエクセルの額の眼を見たスコルが小さな悲鳴を上げる。重たい動作で何度か瞬きをした後、真っ赤なその眼がスコルを捉えた。
額の眼を見てから蛇に睨まれた蛙のように恐怖で動けなくなった彼を鼻で笑い、何事もなかったように額の眼を閉じた。
「エクセルさん」
「その顔は『夜伽でもなんでもしてくれる』決心がついたのかな」
「何でそうなる……そもそもトギってなんなんですか!?」
「ぷっ」
真面目な表情でエクセルを呼んで返ってきたのはカミル村で自分が咄嗟にエクセルに言ったその台詞だった。
愛菜は焦って何をすればいいのか分からずクラエスにした質問まんまの台詞をエクセルに返す。エクセルは吹き出した後、口を抑えて必死に笑いを堪える。
真剣だった愛菜はあまりにもひどい反応に少しイラッとした。
「だぁかぁらぁ、そもそも師弟関係で伽なんて普通しねーから」
「セット君は黙っていたまえ」
「わかりました!やります!弟子になってトギでも何でもやりますよ!」
愛菜はもうやけくそになっていた。
「その代わり、エクセルさんも私のお願いきいてもらいますからねっ!」
「アイナ嬢と夜伽ができるなら構わないよ」
「言いましたね!じゃぁ指切りして約束してもらいますからねっ!」
怒りで顔を真赤にした愛菜がおもむろにエクセルの手を掴み自分の小指と彼の小指を絡めた。そして乱暴に手を上下に振る愛菜に向かって何をしているのかと不思議そうにエクセルが尋ねる。
睨みながらも律儀に説明する愛菜の口調は表情と同様にまだまだ怒りが残っていた。
「私の世界で約束するときにするおまじないです」
「ほぉ、異国のまじないか」
「真面目にやってください!」
エクセルはじっと上下に揺れるお互いの手を見ながら意味深なつぶやきをする。
「ちゃんと私が帰れるように助けてくださいね!でないとトギしませんからね!」
「……ああ、約束するよ」
約束を守ると誓い笑ったエクセルを見て、愛菜はなんだか急に恥ずかしくなって顔を下へ向ける。一瞬手が止まった為どうかしたのかとエクセルに問われ、慌てて再び上下に振って愛菜は指切拳万と慣れ親しんだ歌い出す。
その儀式的な光景を目にして声を上げたのはスコルだった。何をしているのか解っているのかと怒鳴られたが、その言葉の意味は愛菜には分からず困惑した表情を彼に向けた。しかし、エクセルに気にせず続けるように言われ愛菜は最後を歌いきり、強く手を振り下ろし絡めた指を放した。
エクセルは自分の小指をまじまじと見た後に何やら嬉しそうに笑みをこぼす。その表情を見て妙に気恥ずかしくなり愛菜は顔を赤らめる。
「貴様、そんな軽々しく呪術師とまじないを交わしたのか」
「へ?じゅ、じゅじゅつ?」
何を言っているのか愛菜には理解できなかったが先ほどした指切りを呪いと言ったスコルの言葉に何やらやってはいけないことをしてしまったのではないかという不安が愛菜を襲った。
本当にこれでよかったのかと恐る恐る、見上げた先にいる彼はいつも通りのにやにやと笑みを浮かべながら声を荒げるスコルを黙って見ている。言いたいことを言い終わり、肩で息をするスコルに対しエクセルは静かに立ち上がりやれやれと両手を上げる。
「何を隠してるか知らんが、私も暇じゃないのでね。言われなくてもさっさと城に帰らせもらう」
ちょうど手続きを終えて荷物一式を運んできた衛兵から書類をもらい、手慣れた様子で署名をするエクセル。筆を走らせながら顔を合わせることなく、忘れていたと顔をあげる。
「今回の件は総司令へ報告させてもらう。だから、君も遠慮せず彼女の件を上に言いつければいい」
衛兵の持ってきた荷物の中から素早く自分の護身用鞭を手にし、振り向きざまにスコルの顔めがけて振り下ろす。鞭は顔面すれすれをかすり、彼の目隠し布を払い落とした。そして出てきたスコルの素顔を見たエクセルは一瞬顔を歪め、何やら期待が外れたといったすっきりしない表情で鞭を仕舞う。
「意味ありげに隠してるものだから、先祖帰りか何かかと思ったのだが……」
布で目隠しをしていたせいなのか、透き通るように白い目元が顕になり、それとは対照的な赤一筋の道がじわじわと額から鼻筋へと流れている。
彼の素顔は愛菜から見ても角が生えてるだけで、他は色白で線の細そうな極々普通の成人男性だった。だが、折角の綺麗に整った顔もエクセルの言動に対し彼の表情は嫌悪で歪みきっており、愛菜にはとても直視できるような状況ではなかった。
「貴様等のような化物と一緒にするな!!」
握り拳を作りぶるぶると震えるスコルの口から出た言葉が廊下に響き渡った後、急に襲ってきた静けさで冷静を取り戻したのか言った当の本人が顔色を変えてエクセルを見る。
冷たい目で彼を一瞥した後、エクセルは黙ったままスコルに背を向け愛菜を呼んだ。
「ど、どこ行くんですか」
「エステル嬢を迎えに行って宿へ向かおう。疲れただろう?」
「俺、超腹減ったわー」
先に歩き出す男二人を追って走りだした愛菜は去り際にちらりとスコルの様子を見る。思いつめた様な表情から失言に対し反省でもしているのだろうかと思いつつあまり刺激しないほうが良さそうだと判断した愛菜はそのまま彼の横を通り過ぎようとする。一瞬彼が手元に何か持っていたような気がしたが、前にいる二人との距離が離れていっている事に気づき立ち止まることなく更に勢いを付けてその場を去っていった。
三人が去ってからスコルとエクセル達の荷物を持ってきた衛兵一人だけが残り、その空気に耐えかねた衛兵がスコルの名前を呼んだ。だがスコルは一切返事をせず、手に持っていたソレを顔の前にかざすし目の据わった自分の顔が映した。
それは何の変哲もない鏡のように見えたが、彼が一言二言何か口にすると自分の顔が映っていた居たはずの鏡が水面の様に揺れ、廊下を歩く愛菜達の様子が映しだされる。その鏡を見ながらスコルは徐々に息が荒くし、口端を不気味に緩めた。
「アードルフの為だ。私はなんだってやってやるぞ」
鏡は更に接近したように愛菜を大きく映し出した。
「この女、使えそうだな」
鏡を揺らすと今度は街角に貼られている一枚のチラシが映しだされる。
内容は肩を大きく出したドレス姿の女性の姿絵と行方不明者続出の注意喚起の内容が書かれた捜索願いだ。
***
「エステル……」
寝台の上で寝息を立てる少女を側で見守っていた愛菜は次第に良くなっていく彼女の顔色を見てホッとした声でよかったと声を漏らす。
先ほど検問所で飲ませた薬が効いているのだろうと様子を見に来たエクセルが言う。隣で手持ちの薬草や薬品を乳鉢ですり潰している光景を暫く見つめた後、次第に出来上がっていく奇妙な色をした液体を指して不味そうと感想を述べた。
素直すぎる感想に困るどころか何やら楽しそうに笑うエクセルは出来上がった薬を今日この部屋に泊まるクラエスに強引に渡し、夜中エステルに飲ませるように指示をする。
「何、人のこと顎で使ってんだよ」
薬を押し付けるように返し少々強引なエクセルに苛つき文句を言うクラエスだったが。
「私が飲ませても良いのだね!」
「やめろ、触んな!」
眠っているエステルの半身を起こし、嬉しそうにらんらんとした表情で彼女の手を握るエクセルを慌てて止めるハメになる。
病人の前で騒がしくする二人に呆れた愛菜が代わりに謝ると、眠っていたエステルの目がうっすら開いたように見えた。目が覚めたのかと思い、名前を呼ぶが返ってきたのは愛菜と同じ言葉だった。しかも謝っている相手は目の前にいる愛菜ではなく、父親のカミルに対してだ。
辛そうな表情でエステルを見つめる愛菜の肩に手を置き、エクセルは部屋に戻るよう促す。クラエス達と別れ隣の部屋へ向かう途中、エクセルから心配し過ぎは良くないと言われ愛菜は顔を曇らせた。
「だって……」
「魔力が回復すれば直に良くなる。父親との関係は長年辛かったのだろう。好きなだけ泣かせてあげるといい」
きっと朝にはケロッとして起きてくるかもしれないと言って笑ってみせる。それでも納得出来ないといった表情の愛菜を見てエクセルは困った様子でため息を付いた。
なかなか回らなかった鍵がようやく開き、部屋の扉を開ける。少し離れているとは思ったが隣より広めの部屋で愛菜が物珍しそうに眺める姿を見てエクセルはほっと肩を撫で下ろし、部屋の様子を見て回った。
水場をみてエクセルが感心した声を漏らしているので気になった愛菜が顔を出す。
「さすが港街の一等部屋だな。湯浴みが出来るのか」
「ゆあみ?」
大きな器の中に手を入れると暖かく、愛菜はお風呂だと呟きながらじっと白い浴槽を見つめる。
「……浴びる、かね……?」
「い、今は、イイデス……」
「ならセット君達を先に終わらせるか」
二人の間にぎこちない空気が流れた後、愛菜の答えを聞いてエクセルは逃げるように隣の部屋の男たちを呼びに出て行ってしまった。足音が聞こえなくなるまで浴室の出口をじっと見つめた後、部屋に戻ろうと立ち上がった。
セットとクラエスの声が聞こえ、うつむきがちだった顔を上げた瞬間、固まる。目の前でセットが鎧をぽいぽいと脱ぎ捨てた後、インナーを脱ごうとしていた瞬間を見てしまい愛菜はどこから出してるのか分からない声を上げた。
「あ、わりぃ。まだ居たのか嬢ちゃん」
「ぎゃー!!!!」
その後、叫び疲れた愛菜は一階ロビーでエクセルの用意してくれた飲み物を飲みながら、男子の湯浴みの時間が終わるのをぐったり待つこととなった。
叫びすぎて痛む喉を、炭酸水の爽やかな刺激で紛らわす。迎えに来るまで追加注文をしてもいいとエクセルから銀色の硬貨を何枚か貰ったが、肝心の文字が読めず暫くメニュー表を睨み続けていた。
難しい顔をしてメニューを睨み続ける愛菜を不思議そうに宿の従業員がチラ見して行く中、一人の中年男性が声を掛けてきた。
メニューから顔をあげると、前方に向かって曲がり今にも刺さりそうな威圧感のある角と品のいい笑顔が印象的な男が立っていて、更に強引に前の席に座ってきた。どこかの物語で見た海賊船長のような大きなコートを着た男は膨れたトランクや大きなカバンを幾つか持っていて随分と大荷物の様子。
「この宿で真っ赤な服を来た男に声を掛けられなかったかい?」
「わ、私ですか?」
「そう、君」
迷わず自分に向かって来たような口振りの男に動揺しながら愛菜は自分を指差しながら問う。するとニッコリ笑った男はこうも付け足した。
「君みたいな女の子が大好きなおじさんなんだ」
その言葉を聞いてまさかとエクセルの顔を思い浮かべながら一瞬視線が二階を見る。
「どの部屋にいるか知らない?今からその人とお仕事の話をしたくてここにに来たんだけどー」
「いや、その……あのー」
愛菜の顔色を見た瞬間、凄く強引に話を進めてきた。どの部屋か知らないならどの当たりで見たかとか、ひょっとして知り合いかとか、次々と質問をしてくる。しかも答える間も与えず。彼の勢いに混乱して目が回りそうな愛菜の耳に聞いたことのある声が聞こえ、正面の男と一緒に振り返る。
間抜けな大口を開けて突っ立っているエクセルを見て、男は目を輝かせて立ち上がった。
二人が知り合い同士であることが分かるそれぞれの反応。愛菜は何かが起こる事を理解し、不安そうにエクセルの方へ視線を向ける。すると彼からこっちに来るように身振りで訴えられる。
「侯爵殿!今日こそは私の可愛い『娘達』を貴方に買ってもらいますからね!」
「だからその話は……!」
「いざ尋常に勝負!!」
エクセルへ向け腕を振り下ろして指を指した後、五本の指を素早く動かす。その不気味に何かを手繰るような指の動きを見たエクセルは自分の背後から襲いかかってくる人影に気が付き咄嗟に逃げる。
振り返ると無表情の少女がエクセルを抱きかかえようとして失敗したまま固まっていた。その態勢のまま顔だけこちらに向けてきた。表情は変わらず、言葉も一切話さない不気味な動きにエクセルの背筋が凍りつく。
「いる訳無いだろうこんなモノ!」
「なっ!?私の可愛い『娘』をこんなモノ扱いですと」
男はエクセルの悪態を聞いて頭にきたと言って今度は両手の指を器用に動かしたかと思うとエクセルに襲いかかる女達の数が徐々に増え出し、総勢五名の少女達に囲まれてしまった。
男の指が動く度に彼女たちが動き出し、エクセルに向かって襲いかかる。一人は腕を引っ張りしがみつく。そして脚、後ろから羽交い絞め、もう片腕も取られた。最後にトドメと正面から一番幼い容姿の娘に押し倒され、断末魔が響く。
「エクセルさん!」
悲鳴を上げ倒れる一部始終を見ていた愛菜は真っ青な顔で彼に駆け寄り、大丈夫かと声をかけようとした矢先、動作が固まった。
エクセルを押し倒した少女達が彼の周りにべったりとくっつき、腕に身体を絡みつけていたり、頬擦りや際どい場所を手で撫でていたりしている。それを必死で手で払ったり引き剥がそうとしているエクセルと愛菜の目が合う。
大きく見開いた愛菜の目を見た瞬間エクセルは彼女がマズイ事を考えていると直感し、誤解を解こうと彼女に助けを求め手を伸ばす。
「ア、アイナ嬢……」
「あれ、ひょっとして本当に知り合いだった?」
エクセルを拘束でき、一仕事終えたと満面の笑顔の男に尋ねられた愛菜はエクセルから一切視線をそらす事なくピシャリと言い放った。
「いいえ、赤の他人です」
吹雪のように冷たく、氷のように鋭い軽蔑の眼差しにエクセルは力尽き、助けを求めていた手がボトリと床に落ちた。
頭から蒸気をぷんぷんと発射するかのように怒り心頭で愛菜は二階の部屋へ帰っていく。不潔だ、いやらしいという言葉を発している彼女の背中を見送っている最中、ロビーで騒いでいたことに宿の責任者から声を掛けられる。
男は腰低く、自身の身分証を提示するとそれを見た責任者の顔がみるみる青くなっていった。腰の低さはそのままで騒がしくしたことを詫び、エクセルの部屋を聞き出す。彼を連れの娘達に担がせて二階の部屋へ向かった。
「アードルフ・メイモン卿、聞いているのか!?下ろし給え!!」
「だって侯爵殿逃げるじゃないですかぁ」
その愛菜と同じくらいの歳に見える少女に肩で担がれている自身の姿を見られたらどうなるか。想像して死にたくなると言ったエクセルに更に追い打ちで、風呂あがりに廊下で涼んでいたクラエスとセットに遭遇する。二人とも動きが止まりずっと何事かとこちらを見ているが、どう言い訳しても恥ずかしくて面倒くさい方向に転ぶことは間違いない。
エクセルは死体のように少女の背中に張り付いたまま動かなくなってしまった。
「失礼しまーす」
部屋に入った瞬間、ベッドの上に居た愛菜と目が合う。その後すぐに枕に押し付けてうつ伏せになり顔を逸らされた為、男は困った様子で顔を掻きながらため息を付く。連れの少女に市場に出された魚のような有様のエクセルを降ろすように指を使って指示する。
「目下欲しい物とか無いんですか?旅の途中、必要に感じる物もあるでしょう」
更に指を動かし、少女たちに持ってきたかばんをひっくり返させ次々と中の物出しながら、これは必要か、ならこれは?と訪ねてくる。エクセルは首を振ってそれらを要らないと意思表示し、今はお茶が飲みたいとだけ言って席に座った。
男はニコニコしながらお茶を用意するようメモを書いた紙を連れの少女一人に渡し、下へ向かわせる。少女を見送り手を振りながら異様に細かく動く指先をじっと見つめながらエクセルはアードルフと名前を呼んだ男に疑問を投げかける。
「それ、楽しいのかね?」
「楽しいですよ」
にっこり笑うと男はまた指をクイクイと動かし、自分の側に娘を一人呼んだ。娘は瞬き一つせず、ゆっくり膝立ちし、彼の膝に頬を乗せるように身をすり寄せだす。
その間も一切表情は動かず、ずっと娘の目はエクセルだけを見ている。
エクセルは気色の悪い物を見たとでも言いたそうに顔を歪めてその少女から目を逸らした。
「炊事、洗濯などの家事全般は勿論のこと、夜のお相手だって出来ますよ。乳房や女性器官も造ってるんで人間のそれと全く変わらない使い心地ですよ」
「私はそのお人形遊びは興味が無いと、いつも言っているだろう」
自身の主力商品である彼女たちをいつも通り紹介したつもりだったが、まったく興味を示してもらえないどころか嫌悪される始末。以前から同じように潔癖な反応をしているエクセルだったため今日の商談はまぁ無理であろうと予測も出来てはいた。しかし、そう思えても納得出来ないことがある。
アードルフはちらりとベットで横になって不貞腐れている愛菜を見る。
「侯爵殿の頼みとあらば、私だって普段取り扱いのない『生モノ』だって用意しましたのに……」
この潔癖な反応をする男が、何処からともなく、この辺りでは見ない姿の娘を連れている。この街でそれを意味するものは一つだ。
この街はなんだって売っている。「生きている人間」も。
「それは私が闇市で人を買ったとでも言いたいのかね」
「じゃあどこからあのあの娘は出てきたのですか!?この前、関所を通った時には居なかったはず」
「っ!?」
その発言に驚き限界まで目を見開いたエクセルの顔を見て、アードルフはまずいと口を咄嗟に塞いだ。
次に見た時には驚きから殺気へと変わり、みしみしと音を立てて額の眼がゆっくり開きだす光景を目の当たりにし、アードルフは何も離すまいと口を閉じ、ごくりと喉を鳴らす。
同じ貴族の家系に生まれ、同じ純血主義の一族の出であるアードルフも、彼が先祖帰りという人間離れした人種であることも理解しているつもりだった。だが、理解していてもいざ目の前にすると言葉が何一つ出せず、笑いを漏らすしか出来なかった。
「何故商人の貴方がそんな事を知っているのですか」
「な、何故って……嫌だなぁ侯爵殿……私がこの街の領主であることもご存知でしょう」
「その情報を管理するべきは衛兵を総括している総司令閣下だ。領主である貴方の仕事は政であって兵隊の管理ではないはずです」
殺気とは対象的な口調のエクセル。アードルフはなんとか返した言葉は不思議とエクセルに向かって言ってるのではなく額の眼に向かって言っているような錯覚を感じていた。その後の質問には口をまっすぐ閉じたまま何も答えず、彼の額の眼を見続けている。
逸らせない。目の前で喋っている男は一体誰なんだろう。自身とエクセルの異変に気づいたアードルフは次第に身体が震えだす。
「それと、貴方はどうして今日、私がこの宿に居ると解ったのですか」
「嫌だなぁ、衛兵隊にちょっと知り合いがいるだけですよぉ。怖いなぁもう」
「スコル=オリベルトか?」
その名前を聞いた瞬間、アードルフの震えが止まる。口は何も答えなかったが、身体がその質問に答えてしまった。
彼の恐怖も絶望も通り越して無となった表情を見て、エクセルは静かに額の眼を閉じ、彼から離れる。穏やかな声でそれだけわかれば良いと呟き、何もなかったようにお茶を入れなおす。
「ああ、そういえば魔石を使い果たしたんだったな」
先ほどの殺気も一切なくなった様子で、そういえばと耳に飾っていたピアスの石が無くなっている事に気づきそっと触れる。
取り扱っているかとアードルフを呼ぼうと顔をあげると、目の前には宝石の並んだケースを構えたアードルフが深々と頭を下げていた。そして顔を上げたアードルフは「人が悪いですよ、早く言ってください」と満面の営業スマイルを見せてきた。
「貴殿のそういうところは本当、尊敬する」
エクセルは死んだ目を向けて商魂たくましい彼を褒めた。
宝石箱の中から一つ赤い石を取り出し、部屋の明かりにかざして石の中を覗いた。不純物が混ざっているのか鈍く輝く石を気が済むまで見つめた後、その赤い石だけを購入することを伝える。
「天然の魔石はこれだけかね。出来ればもう少し欲しいのだが」
「お時間を頂ければ仕入れますよ。まぁ物が物なので時間はかかりますけど」
「構わない。加工、未加工問わない。なるべく大きいものを頼む」
爪ひとかけほどの大きさの赤い石を見つめながらその大きさが不満なのか小さいとだけ呟いた。それにバツが悪そうな表情を見せる。
「人工ならたくさんありますよ」
「人工は……好かん」
そうですよね。答えが最初から分かっていたように納得する。彼は困った様子で空元気な笑いを漏らしながら仕入れすぎて困っていると愚痴をこぼした。
けれどエクセルが言うように人工の魔石が好かない理由も理解できると言う。製造工程を知ると確かにあまりいい気分はしないと漏らし、宝石箱の中に入った青い宝石を見つめながら蓋を閉じる。
顔を上げたアードルフは持ち前の営業スマイルに戻り「まいど!」と声を上げて両手の指をせわしなく動かした。すると生気無く棒立ちしていた娘達が黙々と帰り支度を始めだす。
「なんで帝国訛りなのかね」
「いやぁ。その人口魔石の件でつい最近帝国の人と取引があったんで、つい」
いつもと違う抑揚で締めた言葉にエクセルは呆れて突っ込む。
隣国である帝国の言葉だが、帝国は過去戦争関係にあった為あまり仲が良くない。そのためこの辺りではめったに聞かない訛りだ。他国とやり取りの多い港街の商人だからこその芸当なのかもしれないが、王城でやったらとんでもない事になりそうだと不安になった。
「……いつも商売でお世話になっているアーンド先の戦争から腐れ縁の侯爵殿に、今度はこの街の領主として忠告しておきますね」
帝国の言葉に何か含みのある間を置いた後、アードルフはいつもの口調で忠告などときな臭い言葉を出してきた。ぴっと立てていた人差し指を寝台で不貞腐れている愛菜に向ける。
「そんなに大事なら、この街を出るまで鎖でも付けとけ」
「だから、私にそんな趣味は」
「忠告はした」
指先はエクセルの鼻先を指し、据わったまま動かない目から冗談で言っている内容では無いことが分かる。その後はいつもの愛想のいい挨拶もなく、彼は静かに連れのお人形達と階段を降りていってしまった。
普段やかましく愛想振りまいて、こちらが帰れと怒鳴るまで居続けるような男なのだが、ここまですんなりと帰る事に得体のしれないものを感じる。急に彼の言葉が不安になり、寝台にいる愛菜の様子をうかがう。
触れていいのかどうか悩みながら恐る恐る肩を軽く掴むと愛菜の口から「うーん」と小さな唸りが漏れた。
「アイナ嬢、湯浴みは良いのかね?」
「うーううん、お父さん行っちゃった……バス行っちゃう……」
「???」
エクセルは愛菜が寝言で何を言っているのか全く理解できず困り果てて頭を掻きむしる。今寝言でお父さんと呼んだのはひょっとすると男の自分が声をかけたからだろうかと微妙にショックも受けている最中だ。
もう一度肩を揺すってみるが、酷く寝ぼけた様子で愛菜は急に拒否の声を上げてエクセルの手を払いのけた。
「やだ!ここにいる!!」
愛菜はシーツを掴み顔を押し付けて嫌だ嫌だと駄々をこね続けた。そんなに眠たいのかと起こすのを諦めかけていた時に今度はシーツに埋めた顔からすすり音が漏れだした。泣き出したことを理解したエクセルは泣く程嫌だったのかと慌てて手を放した。
「ずっとここにいる……起きるまでずっとここにいる」
「アイナ……」
手に触れた瞬間、エクセルは額の眼が限界まで開く感覚を覚えた。チカッと光が走り、目の前に見知らぬ人物や風景が見えて慌てて手を離す。
自分の知らない記憶を頭の中に無理やり入れられたかのような感覚。その記憶は自身のものではないことが身体が分かるのか、拒絶反応を起こす。先祖の記憶を持って生まれるといわれている先祖帰り特有の症状。
「……こんな時に」
視界がぐるぐると回り、塗り替えられ、いくつもの場面を映し出していく。
何もない草原。大きな樹の下で立っていると分かる影。樹を見上げると美味しそうな赤い実。その身を頬張りながら樹の上から下を見下ろす。
知らない女が見上げている。ボサボサの長い髪だが何処か懐かしい気持ちになる。
少女の顔がみるみる曇り、涙を流す。そして少女の顔が次第に変化していく。
半狂乱になり泣きながら奇声を上げる母。怒り狂う父と生暖かい感触。お腹を抱え涙を流す女は****************。
「っっ!」
気がつくとエクセルは床に膝を付いてベッドの上に突っ伏していた。
顔を上げ泣いて少し赤くなった愛菜の寝顔から意識がなくなってからまだそれほど時間が立ってないことが解る。立ち上がったエクセルはベッドの傍にあった色付きの液体が入った試験管のようなものを見てまだ一時間ほどしか経っていないのかと呟いた。
悪夢による寝汗のせいで濡れてしまった首元が不快で、我慢できずため息が出る。
「湯浴み、するか」
***
夢を見ていた。
愛菜は乗り遅れそうだったバスに無事に乗り込み、毎日通う通学路の坂道をぎゅうぎゅうの車内から眺めていた。いつも通り坂の上にある学校に付くと飛ぶようにバスを降りて教室へ向かう。
黙々と授業を受け、昼前の移動教室。授業の行う教室へ向かい、隣の教室の友人たちと移動を開始するが友人達とはなんだか距離を感じる。
前を歩いていた友人の二人が愛菜の顔をちらり見るも、何も言わず歩き続ける。隣の友人も何も言わない。
愛菜は何か違和感を感じつつも教室へ向かった。教室に着いても、二人は愛菜とは会話をしようとはしなかった。
あれから、目すら合わない。
「愛菜ちゃん、どうしたの?」
急に隣の友人に呼ばれ、はっとする。
「何かあった?」
「んー、最近調子悪くて」
この子はきっと自分と喋るようにと前の二人から言われたのだろう。
お互い表情は曇っていて、楽しく雑談という様子ではなく、終始ぎこちない会話だった。
(そういえば、この日から隣の教室には通わなくなったんだっけ)
ここまでの出来事が全て過去の休み時間の出来事である事に愛菜は気付いた。気づいてからも始まった授業を受け続けるが、これが夢であり過去のもとわかるとなんだか虚しい気分になる。
愛菜は意を決したように授業中にも関わらず椅子から立ち上がり廊下へ出る。
振り返り、教室を見ると問題なく授業は続いていた。自分が居なくても大丈夫といったものではなく、まるで最初から自分が居なかったかのようだ。
その後は緑色をしたリノリウムの床をじっと見つめながら校内を延々とさ迷っていた。普段は性格上、授業をサボるなんてことは出来なかったので新鮮な気分だ。しかし爽快というわけでもなく妙な罪悪感と孤独感に襲われる。
廊下から見える別館校舎の三階にふと目が行くと目の前が暗くなった。幕が下りたようにざっと何かが目の前を覆い隠す。
「あ……」
夢はそこで覚めてしまう。
覚める前に、誰かに呼ばれたような気がした。
***
目を覚ますと悪魔のような角を生やした男が隣で寝ていた。
驚きのあまり身体が上に向かってびくんと跳ね上がり、勢いを付けて頭上にあるベッドの飾り板に激突する。
「いったい」
頭を抑えて悶える愛菜の声に男はびくともせず、唸りながら寝返りを打ちうつ伏せになって寝息を立てている。愛菜は男の様子を恐る恐る覗き込みながら、これまた恐る恐る肩を叩いて男を起こそうとした。
一瞬、名前を忘れそうになる。昨日であったばかりでは無理もない。
「エクセルさん、朝ですよー……」
呼んでみても、揺すってみてもエクセルは起きる気配がなく。辛そうに顔をしかめて寝返りを打ち、呪いでも唱えているかのような不気味な寝言を漏らしながら起きる気配はまったく無い。彼を起こすことに諦めた愛菜はベッドから降りて更に驚愕する。
部屋が、汚い。
まず、床に脱ぎ捨てられた服で道ができている。おそらく昨晩エクセルが湯浴みをする際に脱ぎながら浴場に向かったのだろう。
あと、荷物がひっくり返っている。多分何か出したい物があって探すために全部出したとか、そんな感じだろう。それと、なんか荷物が増えている気がする。赤い宝石が入った箱が開いたまんま放置されているが、昨日こんなものは見なかった。
あまりの壮絶な散らかりように眠気は一切なくなり、信じられない物を見る目で寝ているエクセルを見下ろす。
言葉を失っていたところ部屋入り口を叩く音が聞こえたため、あわてて扉へ走る。
「おはようございます。お湯の張替えに参りました」
「あ、はい」
使用人の制服に身を包んだ従業員の娘がお湯の入った容器を抱えてニッコリと立っていた。娘を部屋に入れると手慣れた様子で湯浴み用のお湯の入れ替えを行い、床に散らばったエクセルの服を一枚一枚拾っては畳み、拾っては畳んでいる。
「よう、嬢ちゃん。よく寝れたか」
「あ、えっと……セットさん?おはようございます」
服の片付けだけでなく、エクセルを起こし出した娘を見ていた愛菜へ廊下から声がかかる。
もう出かける支度が済んでいる様子のセットだ。
「あのおっさんなら、なかなか起きねぇから店のネーチャンに任せて俺達と食事しようぜ」
「え、でも」
エクセルは後ろが気になり一瞬振り向く。起き上がってベッドに腰掛けてはいるが頭が垂れ下がってる様子から、エクセルの目覚めはまだまだ掛かりそうだ。
献身的な世話を行う従業員の娘を見て、愛菜はなんとも言えない気分になった。
「私、昨日お風呂入ってないから」
「んじゃ終わったらはやく降りてきな。下の嬢ちゃんも喜ぶぞ」
俯きながらそれっぽい言い訳をしてセットと別れた後、静かに扉を閉める。なんだかすっきりしない気分で振り返ると、エクセルはまたベッドに横になった状態で振り出しに戻っていた。
流石に困った様子の娘に声を掛けるとタオルを渡してくれた。
「昨日は領主様のお知り合いとは存じず、無礼な対応をしてしまい申し訳ありません」
「りょうしゅさま?」
「よかったらこちらを湯浴みの際にお使いください。この辺りでは珍しい花から採れた香油でございます」
「えっと、ありがとうございます」
なんのことかわからないままタオルと香油を渡され、流れのままに愛菜はお湯の中に浸かっていた。まだ浴槽に入れたばかりのお湯はとても暖かく、気持ちよすぎて思わず顔が緩む。
渡された香油の瓶を見てどう使えばいいのか一瞬迷う。まぁいいやと愛菜は半分ほどお湯の中へ香油を流し入れる。お湯を混ぜながら、残りの香油を身体に垂らしてみる。顔や腕や脚に塗り込んだ後、お湯で余分な香油を落とし、お湯から上がる。
「お風呂って偉大だぁ」
制服に着替えた後、浴場から出てきた愛菜はしみじみ呟いた。疲れが一気に無くなったように身体が軽い。香油でいい匂いがするし寝起きの何とも言えない気分がスッキリ爽快な気分へと変わっていた。
「ああ、湯浴みしてきたのかね」
部屋に戻る愛菜に聞き覚えのある声がかけられる。タオルから顔をあげるとまだ少し眠そうなエクセルがお茶を飲みながら首をかしげていた。
着替えているのだが、風呂上がりの無防備なところを異性に見られ愛菜は急に恥ずかしくなった。あとは、隣で寝ていたことも原因の一つ。俯いたまま喋らない愛菜をまだ怒っていて不貞腐れているのだと勘違いしたエクセルは静かに愛菜の両手を強く握り締める。
「昨日のあれは本当、誤解だからね」
昨日がなんのことか急で思い出せず、顔を赤くして首を傾げる。そんな反応を見て、昨日のことで不貞腐れ続けている訳ではないことに気付き安堵する。それと同時に自分に対し顔を赤らめる反応におかしな娘だと思い、更にからかってやろうと意地悪な気持ちが芽生える。
「エクセルさん……?」
ゆっくり後へ手を回し、愛菜の頭を触れる。髪を絡めながら何かを探すかのように這い回るエクセルの指の動きで愛菜は彼が角を探していることに気づく。そして次第に手の動きが、あるはずの物が無く動揺している事にも勘付く。
カミル村を後にしてすぐ、馬車の中で頭に触れられたときから、角がない事をエクセルに何か言われるのではないかと思っていた。今も何か言われるのかと怖くなり、無言でそっと離れるよう彼の胸を両手で押した。
「変、ですか?」
向き合ったまま無言で立ち尽くしている事に我慢できなくなった愛菜はゆっくり顔を上げてエクセルに問いかける。
自分にはみんなにあるものがない。カミル村にやって来て、色んな人を見たが角がない人は居なかった。小さくてもエステルのように髪のすき間から覗いたり、髪型が少し角で変化していたり存在を感じていた。眼の前に居るエクセルは存在感の強い角で、隣りにいると自分との差が有りすぎて角がないことが周囲の人にわかってしまうのではないかと心配になる。
そんな事を心配していると、自分がもしみんなとはぐれてしまったら、物珍しいと何処かに連れて行かれるのではないかと余計な心配をするようになった。
涙を溜める愛菜の問に、エクセルは難しい顔で暫く答えを考えた。
「アイナ嬢は、私を変だとは思わないのかね」
「え?」
「私の目が三つあっても変だとは思わないのかね」
言われてその額の存在に気づいた。見れば額から愛菜をじっと見つめる赤い眼と視線がかち合う。
時々ゆっくりとした動きでまばたきをしたりする額の眼は確かに普通の眼とは違うような気がする。まるでその眼はエクセルとは別に意思を持っているかのように彼とは対象的な動きを見せていた。視線を合わせまいと大きく視線を下へ逸らしているエクセルと違い、その眼はじっとこちらを見つめ続け、愛菜の答えを待っている。
「思わないです」
「本当に?」
「だって、ここに来てから驚くことしか無いもん。みんな角がある事ですら私はびっくりしているんです。それだけじゃなくて魔法とか不思議なチカラを使える人が居たり、友達が急に神様を名乗りだしたり……だったら眼が増えることもあるのかなとかって」
疑われているように聞こえた為、焦った愛菜は急に早口になって今まで抱えていた不安を話しだした。
「エクセルさんは私の事、変だと……」
「思うよ」
即答された後、何を言われたのか理解できず、固まる。
思っていたのと違う答えが来たせいで、どうしてと声をつまらせながら聞いてくるくしゃくしゃな愛菜の顔を見てエクセルはいつも通りにやにやと笑った。変だと面と向かって言われ堪えている涙を拭ってやる。
「これを見て変だと思わないなんて、本当に変な娘だよ」
愛菜の肩に両手を置き、何か諦めたようにそう呟いて一息つく。
やれやれと呟き、最後に笑った顔はいつものものとは違い、凄く穏やかな笑顔だった。こんな顔も出来るのかと一瞬驚き、少し照れながら愛菜も笑ってみせた。
「私は、三つ目より角のほうが気になりますけど」
「へ?」
「エクセルさんの角ってちょっと独特な形してるじゃないですか。綺麗に曲がっているっていうか」
懲りずに身体を密着し、頭を撫で続けるエクセルを呆れ顔で見上げていた愛菜がそういえばと思いつきでぽんと出した本音。
ソレに対し、今度はエクセルが面食らい間の抜けた声を出した。頭を撫でていた手を留めて、何を言っているんだと信じがたいものを見るような目でがっしり愛菜の肩を掴んできた。
「ど、どうしたんですか」
「君、何言っているかわかっていないだろう」
震える声は何かを堪えているように感じた。
何かマズイことを言ってしまったのだろうかと不安がよぎった直後に、エクセルの顔がどんどん赤く変わっていく。
エクセルは愛菜の過ちを正すため伝えなければいけないことがあるのは理解できているが、声に出そうとする度に彼の中で葛藤が巻き起こっている。そして当の本人は本気でわかっていないのか驚いている表情がなんだか腹立たしくさえ思えてきた。
「エステルにも言われたんですけど良く解って無くて、角を話題に出したり、触ったりするのってそんなに恥ずかしいことなんですか?」
「同性同士で話題に出すのはまぁ良いとして、異性に対して……その、触れたりするのは良くないわけじゃないのだが私は良いが他は良くないというか」
「何言ってるんですか」
「とにかく!今後、私以外の男に角がどうの言っては駄目だと言っているのだよ」
勢いに任せて言った後、エクセルはじっと愛菜を見つめたまま自分の台詞に対し何を言い出しているだと呟いた。
だが、更に同じ台詞を愛菜に言うことになる。
「どうしてですか?」
また何を言い出すんだと言うと、彼女はだってわからないからと言った。
どうしてそんなに自分を気にかけるのかと問い詰めてきた。最初は自分を違う国のスパイだったらどうするんだと言って不審がってたくせに、今は弟子だと嘘をついて自分の面倒を見ようとするのが分からないと言い出した。
愛菜の言っていることは理解できるが、まさかあの時言っていた冗談を真に受けているとはエクセルも思わなかった。だが言っている本人は大真面目で、怖い思いをしたというのも嘘ではないと理解し、軽率だったと反省する。
エクセルからいつもの笑みが消える瞬間を見て、愛菜は少し彼を怖いと感じた。不安そうな顔で体を小さくする愛菜を抱えながら、エクセルは静かに答えを伝えた。
「君に興味があるのだよ」
答えの意図を聞き返そうとする愛菜の声など聞かず、エクセルは少しずつ愛菜に顔を近づけて来た。少し傾けた状態で今にも触れそうな距離まで迫ってきた時、彼が何をしようとしているのかようやく理解するがもう遅かった。
「閣下ぁ、いちゃついてる場合じゃないですぅ」
本当に、あと一秒でも遅かったらどうなっていただろうか。
丁度、二人の間を割って入るような位置に御者が目をうるうるさせながら、見てほしいとばかりに何やら紙の束をひらひらさせている。いつの間にそこに立ったんだろうと愛菜は視線だけを移動させる。すると彼女に向かって一瞬舌を出し、てへっと笑う仕草を見せたためわざわざ止に入ったという事は解った。
愛菜の肩から手を放したエクセルは無表情のまま彼の手から紙の束をひったくり高速で一枚一枚めくり内容を確認し始める。誰がどう見ても不機嫌と分かる不貞腐れた表情である。
なんだかわからないけど、助かった。彼の表情をみて、先程のあれが未遂に終わった事に愛菜は胸をなでおろす。
「何かねこの伝票は。食べ物の名前ばかり続くのだが」
「そこに書いてある食べ物は今下で食べている朝食ですよ」
「……は?」
わざとらしい泣き顔から随分落ち着いた様子の御者と入れ替わり、今度はエクセルが涙目を浮かべる事態になった。
何枚も束ねられた紙には最初こそ宿代の表記になっていたが、一枚捲れば食べ物、二枚目来れば食べ物。上司の顔が頭を過ぎり、これを報告するとどうなるか考え身体が大きく縦に揺れ始める。
「え?何故、こんな、事に?」
「凄いですよ~あの花嫁候補のお嬢さん。お店のメニュー端から端まで注文して今もめちゃくちゃ美味しそうに食べてますよ」
「え、エステル嬢が?一人で?何人前だよこれ……えっ待って!殿下にこんなん見せたら私殺される!!でっ伝票分けれるのかコレ!?」
震えながら食事だけの金額がいくらになるのか暗算を高速で行った後、廊下に突撃する勢いで部屋を出ていった。顔面蒼白この言葉がぴったりの顔色だった。
なんかよくわからないけどエクセルにとって凄いことになっている事だけは理解した。
「危なかったね~」
「あ、どうも」
ぺこっとお辞儀をして助けてもらった事に礼をする愛菜。
まだ子供っぽい娘が先日出会ったばかりの男にいきなり接吻されそうだったのを止めたわけだが、凄く助かりました!といった普通の反応ではなかったため御者は首をかしげてる。
俯いたまま神妙な面持ちで何か考えている様子の愛菜を覗き込みながら、まさかと思い聞いてみた。
「ひょっとして止めないほうが良かった?」
「なんでそうなるんですか!」
むちゃくちゃ怒られた。
「なんか色々有りすぎてもうすでに疲れてきました」
そう言うと、待っていたのかと疑うくらいいいタイミングで腹の音がなる。もうすでに一階の食堂でいっぱい食事を用意してあるから遠慮しないで食べていいよと言われて我慢できなくなり、二人で荷物をまとめ、一階へ向かう。
到着した一行の席は朝にも関わらず宴会のような仕上がりだった。大量の皿を重ねた塔に囲まれた大皿。それに盛られた巨大グラタンのような食べ物から凄く甘い匂いが漂っている。その大皿の中の物を一人で抱えて口の中へ頬張り、幸せそうに声を漏らして両頬を両手で押さえる少女が中央に陣取っている。
「エステル」
「あ!アイナだ!」
中央の少女はそれはそれは見覚えのある少女だったのだが、その光景は信じがたい光景だったため確かめるように彼女の名前を呼んだ。
すると少女は屈託のない笑顔を見せた後、料理がすごく美味しい事を熱弁し、一緒に早く食べようと手招きをする。
「この卵プティング、美味しいよ~」
カミル村での出来事が嘘のような笑顔を見せて、もう一度その卵プティングとやらを大口いっぱい頬張って見せた。
凄く幸せそうなエステルの笑顔を見てホッとしたのか愛菜は急に涙を流してもう一度エステルの名前を呼んで駆け寄った。隣りにいたクラエスを押しのけて彼女に抱きつくと良かった良かったと何度も言って鼻をすする。
いくらなんでも感極まり過ぎだと一部始終を見ていたセットに呆れられてしまった。
「だって……」
「わーたわーた!ほら泣いてないで食えよ。腹減っただろ」
「うん」
席を移動したクラエスがエステルの隣に愛菜を座らせ、セットがいくつか食べ物を皿によそって渡す。受け取ったパンを泣きながら頬張る愛菜の姿を見て二人は笑った。どんだけ感動の再会でも腹は減るもんだと言って自分たちもまた食事に戻る。
それから暫く遅れてふらついたエクセルが合流するも、死んだ目で座席いっぱい座っている男二人に少し場所を分けてくれと言って無理やり座った。普段なら強引すぎて怒るところだが何で彼がこんなことになっているのか原因が分かってしまったクラエスは何も言えず無言になるために食事を再開する。
「エクセルさん大丈夫でした?」
「ああ、うん。エステル嬢も元気になってよかった。今日は私のおごりだから好きなだけ食べてくれたまえ」
自腹切るつもりだ。察した愛菜とクラエスが目で語り合った瞬間だった。
「おいエステル。いい加減にしとけよ」
「エクセルさん、ごめんなさい。美味しくてつい」
周りに自身が食べてつくった皿の塔に囲まれながら、うっすら恥ずかしそうに顔を赤くして最後の一皿を口にした後、コレで最後にしますねと手に取ったメニューから顔を覗かせる。
伝票伝票と死にそうな顔をしていたエクセルが「可憐だ」とデレデレふやけていく様子を真正面から見ていた愛菜が不快そうに顔を歪める。確かに、露骨すぎる。
しかし、隣から聞こえてくる料理の名前の羅列がどんどん増えていくにつれ、エクセルの顔は真顔に戻っていく。目の前で不快を露わにしておいてなんだが、こうも上がり下がりが激しいとなんだかんだと彼が心配になってくる愛菜だった。
「本当に大丈夫ですか?エクセルさん」
「大丈夫。おじさん、お金持ちだから」
「そーゆー問題かな」
真顔で言ったその台詞は彼にしては珍しく嫌味な感じはなかった。いっそ清々しいくらい正直な発言だが、何故か悲壮感が漂っている。
呆れる愛菜へ大丈夫といつもの笑顔を見せながらエクセルは手元に届いたお茶に牛乳を入れて口に流し込んだ。やっぱり落ち着くと、だけ呟きその後は黙ってお茶を注ぎ足しながら飲み続ける。じっと愛菜の後ろの席の客へ視線を集中させながら。
「なぁ、やっぱいい女だよなぁコイツ」
「もう一ヶ月も前だぜ、その美人さん居なくなってから……いい加減そろそろ規制解除してほしいよなぁ」
「お貴族様が居なくなったからっつっても騒ぎ過ぎじゃねーの。この街じゃ行方不明なんて不思議じゃ無いだろに」
「闇市で売られて性奴隷にされちゃいましたーてか。あるあるだな」
下品な話題で盛り上がっている船乗りらしき一団だった。たぶん外国から色々な物を輸入出しているのだろう。最近この港から出港するのが厳しくなったと愚痴を言っていたかと思ったら、急に卑猥な話題へ転換と呆れる。とはいえ、話はどうやら繋がっているらしく、規制が厳しくなったのはその行方不明の女が原因のような会話だった。
妙に気になったエクセルはテーブルに置いてあった呼び鈴を鳴らし、やって来た従業員の男に銀色の硬貨を渡す。
「日紙を貰おう」
「かしこまりました」
男はすぐさま上部で冊子状に留められた紙の束を渡し、去っていった。受け取った後、エクセルは紙の両面にある文字や写真を見て何かを探しているように一心不乱に紙をめくり続けている。
それを不思議そうに見つめる愛菜は隣りにいたエステルに日紙が何なのか尋ねた。
「最近の出来事とかをお知らせする情報誌だよ。カミル村は小さい村だから何かあったらすぐバレるから発行してなかったけど、大きな街はあんな風に紙に印刷して事件とか面白い出来事の情報を売るお仕事があるの」
「ふぅん新聞のことかぁ」
「しん、ぶん?」
その説明で自分なりに理解できた愛菜は自分の世界の発行物の名前で例え、なるほどと頷いた。しかし、今度はエステルがその新聞を理解できず、首を傾げる。
「これか……」
ようやく見つけたそれは、やや小さい記事だったが確かに印象に残る美女の姿絵が載せられていた。見出しは行方不明の貴族令嬢未だ見つからずとあった。
内容もなんということはない。とある貴族の娘が行方不明になっているが未だに見つからず、一月もの時が経ったという記事だ。書かれている内容は父親が跡継ぎを生む大切な娘が居なくなって大変悲しいなど、さほど興味のない内容。だが、どういう訳か娘の姿絵を見てから胸騒がしだした。
そんなに大事なら、この街を出るまで鎖でも付けとけ。
あの時言われた言葉も蘇る。何かわかったような、わからないようなそんなもどかしい気持ちでエクセルは唇を噛んだ。
「今度は女の姿絵かよ。懲りねぇジジイだな」
隣から呆れた声を掛けられ我に返る。暫く固まっていたエクセルだったが、何か勘違いされていることに気が付き、不服そうに口を尖らせクラエスに反論をしてみせた。
「失礼な。生憎私はこういった我の強そうな美人は苦手なのだよ」
「えー」
「私が好きなのは純粋無垢で可憐な美少女だ。間違えないでくれたまえ!勿論一番はアイナ嬢、君だよ」
立ち上がり強引に愛菜の両手を握ってまるで愛の告白のような台詞をいうエクセルに対し、愛菜はそれはそれは嫌そうに顔をしかめてエクセルの手を払い落とした。
「私、エクセルさんのそういうところ嫌いです」
「ええええええええええええええええ!!!」
***
「そこの男、止まれ」
真っ赤な衛兵服に目隠しをした男が、闇市という地域へ向かう裏路地に入ろうとする者を制止した。
止められた者が何も言わず立ち止まり、男の方へ向き直る。真っ白い布地に金色の装飾が描かれたローブを目深く被っていて顔はおろか性別すらも分からない出で立ちだ。しかし、衛兵の男は迷わずそのローブ姿の者を「男」と呼んだ。
呼び止められても一切喋ろうとはせず、ローブの男は両手を顔の前に組み、祈るような仕草を見せる。彼の着ている金色のローブは「教会」と呼ばれる組織の物。いわゆる宗教組織で、このローブを着ているものがこの動きを見せることは自身が信者である事を証明するものだが。
「もうその下手な芝居は止めにしないか誘拐犯さん」
「寝言はその目隠しを止めてから言え」
目隠しをした衛兵の挑発に初めてローブから若い男の声がピシャリと反論を返した。
未だローブの中は見えず、確認できるのは男の肩付近まで伸びたエメラルド色の前髪が覗くくらいだ。何があっても顔を見せようとしないよう俯きがちの姿勢で話し、口元すら見せようとはしない。
「寝言ではない。これ以上この街の人間が誘拐されるのは治安を守る衛兵隊長として許せないし、貴様のような誘拐犯がいつまでも居座られるのは非常に迷惑だ」
「ならさっさと注文のものを完成させるように伝えるんだな。完成したらこの街に用など無い」
男はフード更に深くかぶるよう布端を引っ張る。一瞬、黄色みの強い緑の瞳が鋭く光った。獲物を狙うように細長い瞳孔がじっとこちらに向けられている。
「例の物も完成には微調整で微妙な材料が必要なんだろう?それで街や闇市から女を誘拐してる」
「奴の噂通りの覗き魔のようだな。何が治安を守る衛兵隊長だ」
やれやれと大きな息を付いた男は姿勢を崩し、ローブの中から煙管を取り出し先に息を吹きかける。すると一瞬で小さな火が点き男はそれを咥えて煙を吹かし始めた。どうやら話は聞こうという答えのようで、男は早く要件を言えとばかりに煙管を振って見せた。
「誘拐されても誰も困らない女の心当たりがある。それでさっさと完成させて街から出ていって欲しい」
「はっ……衛兵が誘拐の斡旋とは世も末だな」
治安を守るという事が使命であるという衛兵隊長の当人から誘拐を勧める言葉に呆れた。別に女という名の材料は今すぐに必要なものではなかった。いま注文をしている物をつくってる奴が必要と言えば拐って使った方が都合がいいとさえ思っている。
が、彼の言う女というのが男は気になった。
「誘拐されても困らないとはどういうことだ」
「身元不明の小生意気な娘だ。訳有りで無理やり街に入れたやつが居て色々誤魔化さなきゃならんのだよ。ほんと迷惑な話だ」
「……どんな娘だ」
「まぁこれといって特徴もない、角が短すぎて髪で見えないくらい冴えない娘だったな。変な服装で藍色のひらひらした布を履いて結構目立ってた。服飾の質は意外に高級感があったから案外同じ――」
衛兵隊長の台詞が終わる前に、小さな袋が投げられ話は途中で終了してしまう。
袋の中には金貨がいくつも入っていて、なんだこれはと理解できず困惑した様子で覗き込んでいる衛兵隊長にローブの男は情報に対する報酬だと説明した。
「買ってやる」
男は腕を使って煙管の灰を地面に向けて叩き落とし、それだけ言うと裏路地へと消えていった。後ろでまだ何か言っている衛兵隊長の事などもう気にも留めない。
黙々と路地を進んでいた男は何か思い出したように口端がぐにゃりと歪み、人通りの増えだした闇市の中心ですれ違う人々にすら聞こえない小さな声で呟いた。
「見つけたぞ……角無しの娘……」
***
昨晩のアードルフの騒動に今朝の料理大量注文等など、宿には本当に騒がしくしてしまって申し訳ない。何度も何度も頭を下げるエクセルの背中をぼぅっとした顔で見ていた愛菜に横から気になるのかと声を掛けられる。
振り向くとソファの隣に座っていたエステルがにこにこした顔で何度も「気になる?気になる?」となんだか嬉しそうに聞いてくる。興奮した様子のエステルに引き気味で肯定とも否定とも取れない声を返した。
「エステルひょっとしてそうゆー話すきなの?」
「大好き!恋物語とかでは貴族と普通の女の子が恋に落ちるとか王道ストーリーだよね」
「そうだね、わ、私もそういうの好きだよ」
「本当!?だよね!」
愛菜も学校ではそういう少しファンタジー色のあるラブストーリー物を図書室で読み漁っていた。学校など説明がややこしい所は省いて同じような本を読んでいたと伝えると、エステルは凄く嬉しそうに跳ねた。
しかし、その恋物語と同じものを自身に重ねられると何か違うと戸惑う。意識してか少し顔を赤くしてもう一度エクセルを見ると今朝彼を起こしていた従業員の女性の両手を握って何か喋っている最中だった。明らかに口説いているのがわかるその様子に愛菜は呆れて目を反らした。
「いやぁ仲が良くて絵になるねぇ」
会計を終えて戻ってきたエクセルはそう言ってちらりと愛菜の様子を窺う。食堂での一件からずっと目を合わせてくれないため相当困った様子でため息を付いた。
「アイナ嬢、今日は君にお願いしたい事があるのだが……きいてくれるかね」
愛菜の目の前で膝を付き、同じ目線になって愛菜にそう告げたエクセル。声色からふざけた内容ではなく、むしろ真面目な事だということがわかった。
不貞腐れた顔のままだが体をエクセルに向けて話を聞く姿勢を見せた。
「今から私と一緒に街で衣服を揃えて着替えよう」
「え……い、嫌です!」
どうしてそこまで嫌がったのかは愛菜自身よくわからなかった。だが、エクセルの提案に言いようのない不安を感じ即座に拒否の言葉を言い放つ。愛菜の答えは予想していたのかエクセルは驚きもしないし、言うことを聞かない愛菜に対して苛立ちを見せたりすることもなかった。ただその冷静な表情が怖い。
「どうしたのかね」
「その……なんだか自分じゃなくなりそうで怖いというか」
迷子になったら、誘拐されたら、一人になったら、ずっとエステル達と一緒に暮らすことになったら。もし今の格好ではなくこの世界のものに身を包んで違和感なくこの世界で生活できるようになっていたらと考えると逆にそれが怖かった。この世界のものを受け入れると自分のいた世界を捨ててしまうような気がして愛菜は小さく震えた。
「帰る方法も忘れそうで」
「無理にずっと着るようには言わないよ。気分転換に試着くらいならどうかね」
必要な時は必ず来ると伝え、用意しておくだけでも違うからと服を選びに行くことを提案し続けるエクセル。
どうしても愛菜の姿は目立つ。彼女自身が言うように愛菜と認識するにはとてもわかりやすいのかもしれない、だがそれが今後は悪目立ちして問題につながるであろうことも予測できる。
例えば、物珍しいからと連れて行かれたり。余所者と判断され辛くあたられたり……。
「アイナ嬢」
両手を握って返事を待つエクセル。それを隣で見ていたエステルが顔を赤くしながら小さくきゃーと声を漏らす。
まるでプロポーズだというエステルの感想を聞いて愛菜は血相を変えてエクセルの手を振り払った。
「もう!わかりましたから恥ずかしい事はやめてください」
「恥ずかしい事をしているつもりはないのだが」
「エステルが勘違いしてるじゃないですか!」
そう言われてエクセルは隣にいたエステルを見つめた後、二人でこそこそと話し出した。わざとらしいと言うか距離が距離だけに当人にも聞こえてしまっているヒソヒソ話をしながらチラリと愛菜を見つめてくる。
「私としては勘違いでは無いと思いたいのだが、どうなのかね」
「勘違いでは無いですよ。多分押せばいけると思うんですけどね」
ちょっと!
二人を怒り気味に呼びつけると虫のようにパァーと逃げて行ってしまった。
「経験少なくてチョロそうだもんなぁ嬢ちゃん。だから目をつけられてんだろうけど」
唖然としていた愛菜に寄ってきたセットがトドメの一言を言い放った。
言い返せなくて悔しそうに睨む愛菜を気にすることなく、今日は自分と一緒に行動だと説明をした後、のんきによろしくと挨拶する始末。もう怒る気持ちも引っ込んでしまう。
「まぁ服の事は俺もよくわかんねーから完全に護衛用な。あのおっさん口ではふざけたこと言ってるようだけど、嬢ちゃん一人にするのは危ないって心配はしてたぜ」
「エクセルさんが?」
「そそ。何も考えてない訳じゃ無いみたいだし、まぁ物は試しじゃねーの」
まぁ知らんけど。あくび混じりに言った超無責任な台詞だが嘘も言っていない。
愛菜はその言葉を聞いて萎れた表情でエクセルの背中を見つめた後、しょうがないですねと呟いた。それをきいて本当にチョロいと思ったことは言わなかったセットだった。
「と、いうわけで二手に分かれて買出しだ。買うものはメモを渡すから確認をしてくれ」
「俺のナニコレ」
「クラエス君のはわかるだろう」
そう言ってクラエスが持っているメモを覗き込みながらエクセルは確認のためにとその内容を声に出して伝える。
「自分の武器の調達」
「いや、んなことは事見ればわかるんだよ。そうじゃなくて、なんで俺が武器買わなきゃいけないんだよって話!」
クラエスの意見を聞いてエクセルは頭を押さえながら深々とため息をついた。やれやれと嫌味な仕草を見せるだけで説明はしようとしない彼をしばらく見ていたが、一向に説明しようとせず嫌味が言葉に出始めたあたりで嫌々口を開く。
「すいません、教えてく……ださい」
「君は城に着いたら自分の事をどう説明する気かね」
「エステルの幼馴染」
エクセルは黙って首だけ横に振った。話にならない、とでも言っているかのようだった。
今度は嫌味な感じなどは一切なく冷静な態度でクラエスに一つ一つ今の状況を説明する。
「君の言いたい事もわかる。ただな、城に着いたら私のように話を聞いてもらえると思わない方がいい」
「けどよ、一方的に城に来いと言って一人で行くわけないだろう」
「その通り。田舎の小村とはいえ、それを治める長の娘だ。一人で行かせるほど安い存在でない事はこちらも承知している」
「じゃぁ……」
「剣でも持ち歩いて護衛だとかそれらしい事言っておけばいいのだよ」
わかったかねと最後にそう言われてクラエスは黙ってしまった。肩をあげて何か言いたそうにしているクラエスの袖を掴んだエステルは彼に向けてにこっり笑顔を向けた。
「頑張って守ってね、クラエス」
「エステル……いいのか」
「どうして?いつも守ってくれてたでしょ」
当然のように疑問を投げてきたためクラエスは面食らう。その後いつもの彼には似合わない小さな声で「お前がいいならそれでいい」とだけ呟いて顔を真っ赤にさせて俯いてしまう。
エクセルも二人の関係にうすうす感づいていたが、ここまで親密そうなやり取りを不意打ちで見せつけられたエクセルは信じられない物を見るような目を二人に向けてあんぐり口を開けたまま固まってしまった。
「大変ですセットさん、閣下がアベックの輝かしい青春を見せつけられて死んでます」
「ソイツには的確かもしれんけど言葉の選択が古すぎる」
腕を組んだまま直立不動で動かないエクセルの襟を掴んで自分の組みへ連れ戻した後、先が思いやられると言ってセットは自分たちの買い物メモを開いた。愛菜もそのメモを見て買う物について予習を始める。
が、致命的な問題点があった。
「俺さぁ文字読めねーんだよね。嬢ちゃん読めるか?」
「へ!?」
渡された紙を真剣に見たが初めて見る文字の羅列だった。買い物メモを見ているではなく、未知の壁画でも見ているような気分でしばらく見つめていた愛菜は雰囲気だけでも感じ取れないかと頑張っていた。
読めない文字に愕然としている愛菜をみて申し訳ない気分になってきた。
「とりあえずわかってる服見に行くか」
「そ、そうですね!」
服を着替える事は乗り気ではないが、とりあえずこの微妙な空気からは脱出できるからと服屋に行く事を快く了承した。
さてと二人はまだ口を開けたまま硬直している肝心の指揮者を見てどうやって運ぼうかと悩んだ。
「良い加減に仕事しろ」
「エクセルさん、服着てあげますから服屋に案内してくださいよ〜」
そう言って愛菜はエクセルの手を取って買い出しへ出発しようと腕を引っ張った。すると開きっぱなしだった口が高速で閉じられ、見る見る顔色も戻ってツヤツヤした笑顔に変貌する。
隣で見ていたセットは「おえ……」と声に出して引いている事をさりげなく主張した。アベックの輝かしい青春よりも良い歳して女一人でここまで豹変するあんたの方が恐ろしい。
しばらく歩くと人通りの多い通りに入り、店のような建物も増えてきだした。この辺りを知らない愛菜はでも横目で見かける若い娘たちが入ったり出たりする店を見つけこの辺りがいいのではないかと提案をした後、待っていたまえと二人を残して店先で呼び込みをしている店員へと向かって歩いて行く。
はじめこそニコニコ笑って待っていた愛菜だったがエクセルがまっすぐ向かって言った店員を見て表情が曇る。愛菜とそう変わらない年頃の女の子で暫くは普通に会話をしているように見えたが、一言二言話した後にエクセルは彼女の手を取って明らかに口説きだしていた。
また始まったと慣れたもので、二人は何も言わず店に向かい通りすぎると同時に女の子への謝罪とナンパ男の回収をして店に入った。
「いらっしゃーい」
店先は愛菜から見ると西洋風の店構えでお洒落に感じたが店内は男女差のない服が所狭しと並んでいて庶民的な雰囲気だ。
それに拍車をかけるように店主と思われる男が会計場でやる気のなさそうな声をかけてきた。
「まあ変に洒落たもの着てたらどこの貴族だって話になるしな」
「見ただけじゃどんな服がいいのかわからないんですけど」
「だから店先のお嬢さんに選んでもらおうと頼んでいたのに!」
心外だというエクセルの言葉を疑いの目で見る二人。もう一度頼み込んで選んでもらうことになった後も信用できないからと愛菜は冷たい態度に戻りエクセルから距離を取って服の候補が決まるのを待った。エクセルはあまりにも酷い仕打ちだと泣きそうになりながら服を選んでくれている女の子に「若い女の子の気持ちがわからない」と愚痴を漏らしている。
「娘様ですか?」
店の娘からの質問に硬直するエクセル。その表情を見て言ってはいけない事を言ってしまったと理解した娘は真っ青な顔でエクセルと一緒にこの世の終わりのような顔で固まってしまう。
「というわけで、いくつか選んで貰ったから来て見てくれたまえ」
そう言われて渡されたのはシンプルなワンピース達。どれもこれも装飾が少なく申し訳程度にフリルや小さなリボンが付いている。着ては見て見たがいまいちしっくりこない。ピンクや水色と女の子にらしい色だが鮮やかさはなくうっすらした色が付いているだけだ。
愛菜は鏡に映った渋い表情の自分を見つめて首を傾げた。
「なんか自分じゃないみたい……」
そう呟いたと同時に右手からちりっと焼けるような痛みがあり、恐る恐る痛む小指の部分を見ると第一関節あたりに痣のような赤黒い滲みができていた。関節を一周するように円を描いている。
「なんだろこれ。どっかぶつけたのかな」
大した傷ではなかったためあまり気にした様子もなく呟きながら試着室から出ると人とぶつかる。そこで初めてカーテンの目の前にエクセルが立っていたことに気がつき全身の何かがが逆立つのを感じた。
着替えを間近で待たれていた事実に信じられないものを見るように彼の顔を見たが、予想外の彼の表情に困惑した。厳しくしかめっ面で暑いわけでもないのに首付近に汗の粒が見える。何か堪えているようにも見える様子だった。
「エクセルさん……?」
「アイナ嬢」
凄く真剣な表情で凄まれ何かあったのかと緊張する。
そして一着の服を差し出された。
「ぜひっ!これを!着てくれないだろうか!」
「こ、これは……」
「そちらは帝国風のワンピースでございます。胸元から上は少し透け感のある布で直接な露出は抑えて可愛らしさを演出しつつ、肩紐を詰襟で固定する色っぽさも取り入れた作りになっています」
「帝国は嫌いだが帝国衣装の雰囲気は凄く好みだ。これを着たアイナ嬢を是非見てみたい」
「は、はぁ……」
鼻息荒く渡されたのはワンピースと、鼻息荒く意気投合するエクセルと店の娘とを見比べ途方にくれる。楽しそうに話すエクセルの表情を見てなんだかもやっとした言いようのない感覚が胸に宿るのを感じ取る。それがなんなのか理解できず、首を傾げながら試着室に戻って服に袖を通す。
鏡を見ながら愛菜は確かに可愛いと思った。しかし問題点が一つあり、試着室のカーテンから顔だけ出してエクセルを呼んだ。
「あの、エクセルさんこれどうやって固定するんですか」
「ん?確か詰襟の後ろがそうだったかな。おいで、留めてあげよう」
前が落ちないように胸元で腕を抱えるように服を抑えながら試着室を出て、エクセルに背を見せる。エクセルはごく自然に詰襟を掴み左右の金具を引っ掛ける。
よく考えると少しはだけた服と背を見せて無防備な自身の状況に気がつき、愛菜は緊張して体をどんどん小さく丸めていく。
「凄いお似合いですね!」
「そう、ですか?」
側にいた店の娘が両手を合わせて絶賛の声をあげた。
もう一度愛菜は自身の姿を鏡に写した後、恥ずかしそうに視線をエクセルに向ける。目が合った彼はしばらく何も言わず黙ってこちらを見続けた後、意を決したように店の娘にこれを買うと伝え会計を早々に済ませだした。
愛菜は慌てて会計をしているエクセルに駆け寄り、自分の意見は聞かないのかと抗議する。
「そうは言って実は気に入っているのだろう。呪術の反応も少ないようだしそれが良い」
「呪術の反応?」
「君は気にしなくても良いことだよ」
優しい声に反して、その言葉は何やら突き放すような冷たさを感じるものだった。
手渡した硬貨とは別のものがエクセルの元に返される様子を見て会計が成立してしまったことを理解した愛菜は諦めたように掴んでいたエクセルの袖から手を放し、とぼとぼと店の外に出る。やっと出てきたとくたびれた様子のセットに声をかけられ、ようやく終わったことを苦笑まじりに伝える。
(何だろう、さっきから右手が痛むような気がする)
特に小指が……。
愛菜はじっと右手を見つめた後、検問所で衛兵隊長のスコルが言っていた「呪術師」という言葉を思い出していた。
「私、ひょっとして凄いまずいことしちゃったのかな」
店の窓に映ったいつもと違う服装の自分を眺め、不安そうに腕を伸ばし痛む小指に目をやる。先ほどよりもわずかながら滲みのようなものが広がっているような気がした。
店から出てきたエクセルにその奇妙な立ち姿を見られ、慌てて背中を向ける。側にいたセットはまだ喧嘩でもしているのだと二人のギクシャクした空気をさほど気にしていない様子で次はどうするのかエクセルに聞いてくる。
「次は魔術道具の補充だな」
そう言ってエクセルに連れられてきたのはかなり怪しく陰気な店構えの商店だった。店自体も少し賑やかな街から少し離れた住宅に紛れて立っていて幽霊屋敷なのかと思ってしまうほどだった。
店の扉を開けると店主の声と同時に薬品の匂いが鼻をくすぐる。キョロキョロと店を三回ほど見回したが、並んでいるものが何なのかさっぱり理解できない。愛菜があっけにとられ口を開けて店を眺めていると上からくすくすと笑い声が聞こえた為、むっと顔を上げて説明を要求した。
「ここは魔術師が使う道具を専門に扱っている店なんだよ」
「魔術に使う道具?」
「んーわかりやすいところだと薬草とか魔石とかかねぇ」
そう言ってエクセルはカウンターで店主に何か言って小さな青い宝石を一粒もらい、店の道具を借りてそれをこな状にすりつぶした。出来た粉を自分の手袋をはめた指に擦り付けた後、少し離れてみるようにと愛菜に注意する。
人差し指を親指をこすり、パチンと鳴らすと音と一緒に小さな炎が生まれた。
「ふわぁっ!」
「火の術を使うときは強い衝撃とか摩擦とか火の出来る環境を用意しないとそもそも術は使えない。こうやって道具を使って術を簡単にどこでも使えるようにしたりするのが魔術道具なのだよ」
そう説明した後、もう一度指を鳴らして蝋燭ほどの小さな火を見せる。
暖かい小さな炎を見つめながら愛菜は凄いと何度も声をもらしてはしゃいだ。
「エクセルさん、凄い!」
「そ、そうかね?」
愛菜の言葉でいうところの魔法を間近に目をキラキラ輝かせて大げさな程はしゃぐ彼女の姿を見て、まんざらでもなさそうにエクセルの顔がだらしなくニヤついていく。これは調子に乗ってあれこれ語り出すだろう。危険を察知したセットが止めに入る。変に褒めると調子乗って話が長くなると愛菜に耳打ちし、少し店を回ってて欲しいとエクセルから引き剥がされてしまった。
少し残念だがセットの言うことにも一理あり、愛菜は大人しく店の中を大人しく見て回ることにした。
愛菜も離れて落ち着いたエクセルは店主と話をしながら必要な道具をカウンターに揃えていく。小瓶に入った薬品、緑や茶色ヘンテコな色の薬草、青い宝石が沢山入っている小袋。他には小難しい文字が彫られた金属矢、魔術道具ではないが傷を治したりする薬の数々と揃えたら結構な数になった。
「天然魔石を探しているのだが」
「旦那、申し訳ないが天然は在庫がねぇなぁ。この間の誘拐事件で物がなっかなか入ってこないんだ。街に入ってきてもメイモン家のような貴族商家にとられちまうし、値段も高騰中。まぁ旦那くらいなら値の問題じゃないのかもしれれんがウチじゃ暫くは無理だな」
「ふむ……」
昨晩の即答具合からアードルフから仕入れたほうが無難なことを理解し肩を下ろした。一番手に入れたかった品は難しいことがわかり残念だと今日の支払いを渡しながら店主に伝える。
金貨の数を数え終わるのを待ちながらぼんやり店主と世間話をしていると店の扉が開き、客が一名入ってきた。
「いらっしゃ……」
最後の言葉が聞き取れなくなるほど店主は客の出で立ちに戸惑った。それは一緒にいたエクセルとセットも同様だ。
入ってきた客は目当てのものがあるのか店を左右見渡した後、店の奥へまっすぐ進んで行った。
「あれ教会じゃん」
「珍しいな教会の僧侶が一人で魔術店とは」
「ああ、一月ぐらいまえからたまに来るようになったんですよ。いつもは人口魔石を買っていくだけなんだけど……」
教会という宗教団体に身を置く僧侶の格好をした男をセットは物珍しそうに「教会、教会」と指す。
そもそも教会はこの世界の神とされる女神メリアを信仰する団体であり、結構お堅い理念を掲げている真面目な宗教であった。ただここ数十年は没落仕掛けの貴族に目をつけ彼らがが持っている貴重な文献や敷地を買い漁ったりと最近きな臭い動きが有名である。エクセル自身も自宅で随分な物言いで家財を要求された事があり良い印象を持ってはいなかった。関わらないに限る。
会計も済んだと伝えられたころだった。愛菜が飽きずに店の見学をしていると外套を目深くかぶったの男が進行を邪魔するように立ち、距離を詰めて来きている事に気がついた。男の不穏な空気に戸惑った愛菜が男に声をかける。
「あ、あの……」
「見つからないと思えば何だその格好は」
「え!?あのっ誰ですか」
逃げられないほどの距離になりようやく男が開いた口が言った言葉に愛菜は動揺した。
「探したぞ、角無しの娘」
そう言って男は愛菜の手を掴み腕を軽くひねりながら自身の元へ引きずり込もうとしてきた。掴まれた手首の激痛と呼ばれた「角無し」の言葉に混乱し悲鳴を上げる。愛菜が大きな声を上げたため男は舌打ちをして愛菜の腹部に拳を叩き込んだ。愛菜の軽い体が衝撃で宙を浮いた後、店の棚に激突し床に転がり動かなくなってしまう。
「アイナ!」
男に殴られる瞬間を見て上げたエクセルの声と同時にセットが前に出る。
拳を男の顔めがけ振り上げたセットの目に一瞬男の細長い鋭い瞳がこちらと合致した。その次の瞬間、男はセットに背を向けた。予想外の行動に声を上げたと同時に左側から太い何かで殴られるような衝撃を受け、そのまま床に叩き落とされる。
「何だ……これ」
痛みで呻いていたセットが見たのは男の外套から伸びている緑色の何かだ。よく見るとうねうねと動くそれには爬虫類によく似た鱗が付いていてまるで男の尻辺りから生えているようにも見えた。
外套の男はハンっと鼻を鳴らしてセットの腹に蹴りを入れた後、後ろで気を失っている愛菜の髪を掴んで無理やり起こそうする。
「うぁっ……」
「こんな事で死ぬなよ。お前には働いてもらわねばならんのだからな」
愛菜の髪を掴んだ手にめがけて一本矢が放たれた。が、見当違いの壁に突き刺さる。
男が向いた先には店に飾ってあったボウガンを拝借したエクセルが矢の装填と弦を引っ掛けるため足で弓を固定している最中だった。その姿があまりにも滑稽だったため男は堪えきれず笑い声を上げる。
「無理をするな。エクセル=エルメルト」
「貴様!誰の許可を得てこの国いる」
珍しく激しく荒げるエクセルの言動から顔見知りかと尋ねながら起き上がるセットの言葉に、エクセルは思い出したくもないと吐き捨てる。
「その娘を放せ!」
「良いのか?誰の許可も得ずお前の国をうろうろしている怪しい娘だぞ」
次を放とうと引き金を指を置いた矢先だった。男は愛菜の首元を掴み自身の盾にするようにエクセルに突き出す。
「あー!あー!女盾にするとかクソ野郎だな」
「先程からうるさい男だ。分を弁えろよ無礼者が」
外野で野次を飛ばすセットに男は汚らわしい物のようにセットにそう言い放った。その言葉から貴族的な思想の持ち主であることがわかり、セットは一瞬で男が自身の嫌いな人種であると理解する。この高慢ちきな物言いの男を殴り付けたいが、エクセルの指示は待機である。手を出すなと視線でも睨まれイライラが頂点に達する。
「ふっざけんなよジジイ!ここまでされてなんで黙ってんだよ」
「喧しい!どう考えても状況が不利なんだよこの男は……」
そう言って彼を見た瞬間、血の気が引く。男の胸元にあった紅く輝く魔石と連動し、足元に赤い方陣が生まれる。外套の隙間から男の口元が大きく息を吸い込む様子が見え、次に来る恐ろしい光景が脳裏を過る。
「退避!!」
セットは命令と同時にエクセルを脇に抱え、外に向かって店の窓に飛び込んだ。
背後からの爆発音と衝撃でうまく着地できず二人とも地面を転がった後、しかめっ面で痛む身体を起こす。顔を先ほどまで居た魔術店から火が出ていて勢いよく燃えている。店の屋根から教会の外套を着た男が近くの家の屋根に飛び移るのを確認し、二人は無言で肩を下ろした。
「アイナ嬢……」
男が小脇に抱えるぐったりとした愛菜の姿を見て呆然と屋根を見つめたまま呟くエクセル。その言葉をかき消すように野太い男達の声がいくつも聞こえて来たため今度は何だと二人はうんざりした表情で顔を見合わせる。
赤い軍服を着た複数の集団が現れ、一つの隊は魔術店の消火作業を始め、またもう一つの隊は屋根の上を飛び移って住宅街から賑やかな海辺の商店街へ向かう教会の男を追いかけ始めた。
この騒ぎで衛兵が集まってきたようだが消火作業をしている兵士たちは慣れないのか統制がイマイチな動きで消火に手間取っている様子だ。確かに水を確保しようにも海という最大の水場は遠い商店街方向だし……。
「そーいや、店のおっさん通信機で衛兵呼んでたな」
無表情のエクセルはまっすぐ消火活動をしている隊の指示をしていると思われる男の元まで近づく。途中エクセル達に気づいた男は衛兵服を着たエクセルが何もせず歩いて来ることを咎める声を上げた。
「貴様どこの所属だ!悠々と歩いている場合ではない!さっさと消火しろ」
放火の衝撃に巻き込まれ若干灰を被ったエクセルは男の言葉を聞いてカチンと来たのか目尻が痙攣している。その様子を見て流石にまずい事を察知したセットが慌ててエクセルを止めようとする。するとエクセルは男に対し敬礼を行い、わざとらしいキビキビとした口調で男に名乗りをあげる。
「名はエクセル=エルメルト。所属は下役には話すことの出来ない所属であります。指揮官殿のお名前をお聞きしてもよろしいでありますか?」
「うわぁこれ完全に怒ってる。どうなっても助けられねぇからな」
自分よりも明らかに下の人間への対応にしては馬鹿丁寧な兵士然な振る舞いを見てセットは呆れ顔で状況を把握できていない男をチラ見した。指揮をする男はエクセルの言葉とセットの独り言に戸惑いながら自分の名前を口にした。するとエクセルの顔がぐにゃりと不気味に笑い男の名前を呼んだ。
「状況を報告したまえ」
「はっ!現在スコル隊長の命令によりは総動員で少女連続誘拐の犯人を確保する任務中であります!想定外の火災が発生したため我々は残り消火活動を行うようになった次第であります」
そこまで言って男は自分が勝手に喋り出した事に気づき、気味が悪いと目の前で笑うエクセルの顔を見る。額の目と合い、ようやく何かに気付いたのか男は悲鳴を上げて敬礼をしたまま全身を大きく揺らし始めた。
かろうじて自身の声で発した言葉は、先祖帰りという言葉だけ。それ以上は蛇に睨まれたカエルとなり、自由に話すこともできない。
「散々手こずっていた出て来るかもわからん誘拐犯に総員動かすって正気かよ」
「おい、スコル=オリベルトはどのような魔術師だ」
「はっ!スコル殿は両目に強力な魔力を持って生まれたそうで港町全体を透視することができるそうです。ですが御自身では力の制御できないそうでして、肉眼での生活が難しく任務で使用する以外はあのように目隠しをされていると聞いたことがあります」
またエクセルの命令で男はガタガタ震えながら自分の意思とは関係なく、スコルに関する情報を垂れ流し始める。言葉と言葉の間に助けてと小さな悲鳴を挟むが、その度に無駄口叩くなとエクセルから睨まれる始末。側にいたセットはどうすることもできないと合掌して死なないだけマシだと思えとフォローにならない言葉をかけて男にトドメを刺す。
「遠くから餌撒いて食いついたら準備していた大網で捕獲か。成る程」
「餌ってまさか」
「馬鹿かあの目隠し。自警の衛兵ごときで止めれる男じゃないぞあれは」
衛兵をこの時のために動かせるようにしているなど計画性が見えるがいかんせん相手が悪すぎる。詰めの甘いスコルに対しエクセルは口を噛みながら悪態をつく。
あの男に押さえかかっても自衛しかできない兵士何ぞ痛くもかゆくもないだろう。先ほどのセットのようにはたき落とされるのは目に見える。仮にセットのような戦闘特化の人間がいるならまだしも、港には騎士団の拠点はない。最悪の結果は先ほどの魔術店のように、衛兵が火の海の藻屑になるだろう。
「奴はどこに向かっている」
「恐らく領主様のお屋敷かと……ただそこまでは近づけさせず、市街で止めるようにとの命令です」
「急ぐぞ、セット。我が国の貴重な兵を一気に失う」
「おっしゃー!あのクソ野郎、もう一戦勝負だ!」
走り出したエクセルを追いながら先ほどの戦闘を思い出し、セットは興奮気味に腕を振り上げる。
楽しそうに歌い出すセットとは対照的に黙って遠方で屋根を飛び移る男の姿を確認するエクセル。横道に逸れたら追いつけないだろうと不安視するが、迷いなく進んでいるのは目的地が決まっているからだろうと市街地から離れた遠方にある領主の屋敷を見る。
領主アードルフが昨晩宿に来たのも偶然ではないのだろう。恐らくあの男も何か知っている。それに気づき、エクセルは悔しそうに唇を噛んだ。
「くそっ。アイナ嬢」
何かを堪えるように右手を押さえ悲痛な声で愛菜の名前を呼ぶ。
どう考えても向こうの早さでは衛兵とかち合う現場には間に合わない。スコルが愛菜を使ってあの男を白昼に姿を出させたとすれば、身元もわからない娘一人犠牲になっても構わないという考えなのだろう。一月前の事件のように貴族の娘なら問題になるだろうが、何もわからない身元不明の娘とはなんと素晴らしい生贄だろうか。
死んでも誰も悲しまない。誰も気づかない。
「泣いてんのか」
「煩い」
「悲観するのはちょっと早いんじゃねぇの」
そう言ってセットは正面に向かって両手を振り、屋根の上を指差すような仕草を体いっぱいにし始める。その様子を見て涙ぐんだ顔で遠くを確認する。見えたのは買い出しのため分かれていたエステル達の姿だった。
まだこちらには気がついておらず、三人仲良く清涼菓子の屋台に並んでいる最中のようだ。
「リスト!気付け!!テメェが大好きな実戦闘だぞ!!」
白くて冷たい菓子に口をつけようとした瞬間、リストの菓子はボロリと地面に向かって落ちた。悲鳴を上げて悲しむリストにエステルは代わりに自分のものをと渡そうとした。
流石に客人である人からもらえないと断るがその顔は悲しみに満ちていて、本当に付いていないとため息をついて正面にある下り坂をぼんやりと眺める。
「もう一個頼むか?」
リストの泣き言も動きが止まり心配になったクラエスが声をかけた。だが、リストは急に嬉しそうに笑みを浮かべながらいらないときっぱり断った。その爛々とした表情が異様だった為、彼が視線を向けている下り坂の先をクラエスは見る。
赤い服を着た軍団がこっちに向かって来ているのがわかる。そしてその軍団の正面に見たことのある二人の男を発見する。
先に誘拐犯を追って居た衛兵達を走って追い越したエクセルとセットだった。
「どういう状況だよ、あの二人」
一見、必死に走っている二人が衛兵に追われているようにも見える状況にクラエスが思わず声を漏らす。
ただでさえ混乱しているというのに、今度は別方向からやって来た衛兵に声をかけられ避難しろと命令をされる。避難勧告がでているという衛兵の説明も聞かず、隣で武器を持ち出したリストの行動にクラエスはギョッとする。驚いたのは衛兵の男も同じで声を荒げ、何をしているとリストを止めろとクラエスに怒鳴り散らす。
驚くのも無理はない。リストの身長に近い大きさのボウガンが向いている先はこれから捕獲しようとしている誘拐犯の男が通る屋根の上だったからだ。
「やめろ貴様!」
「クラエスあれ見て!」
エステルの指差した先に男に抱えられた愛菜の姿を見つけたクラエスはリストを止めようとする衛兵を購入したばかりの大剣で殴り飛ばした。鞘からは抜いてないからまぁ大丈夫だろう、峰打ちだ。
「見えましたぁ!」
クラエスが衛兵をのばしたと同時にリストは引き金を引いた。弓矢というには大きすぎる矢が屋根から屋根へ飛び移る男の足元に目掛け放たれる。
男は直撃を避けたかに見えたが矢の衝撃によって崩れた屋根に足を取られ愛菜を抱えたまま落ちていく。
「やったぜええ!リストおお!!」
屋根から落ちていく男を確認し雄叫びをあげるセット。
だが、背後にいる衛兵達は指示とは違う予期せぬ状況に動揺したのか焦り隊列が乱れ始める。しかし止まることもできず予定外の場所で男を捕獲すると現場指揮官が命令を下し隊列をなんとか立ち直らせる。止めるように声を上げるエクセル達を追い抜き、勢いをつけて男に向かって突撃を開始した。
「くっ」
落下する自分に向かってくる一団を確認しつつも愛菜を抱えているせいで体制が整えられず男は悪態をつく。なんとか愛菜を抱えて着地することが精一杯。だが女を片手で抱えたまま、もう片手と両足を使い四つん這い状態で音も立てず着地した男の姿は誰が見ても人間離れして居て異常な光景だった。
「怯むな!我らも続くぞ!!」
男の人間離れした動きに怯えながらも坂の上にいた衛兵達も剣を構え、突撃を開始する。
静かに起き上がった男は自分に向かって坂を下りてくる衛兵に向かって走り出し、勢いよく地面を蹴った。高く跳んだ男が下りた先は一人の衛兵の顔面。思いっきり踏みつけた後、次々と衛兵を足蹴にし前へ前へと跳んでいく。その度にバタバタと衛兵達が倒れていく。
ちょろい。そう思い外套の奥で笑った男に勝ち誇った顔のクラエスの姿に気づく。
「さっき買った剣の切れ味を試させてもらうぜ!」
「笑止」
大きく振りかぶったクラエスを見て男は小馬鹿にしたように鼻で笑った。クラエスの振った剣を踏み台に勢いをつけ、そのまま彼の顔面に足を押し付ける。やる気満々だったが虚しく、先ほどの衛兵達の二の舞になってしまった。
それを目の前で見せられたエクセルとセットが呆れて頭を抱える。
進行方向の衛兵も居ない、逃げ切れる。そう確信したのか外套の奥で口元を緩ませた男の前に想定外のものが現れる。
地に着地をしようとする男の目の前に滑り込むように女が現れ、拳を構えた。次の瞬間、着地と同時に拳が男の腹部に叩き込まれ、身体がくの字に曲がった状態で宙を浮いた。
信じられないと口を動かしながら男は地面を転がり落ち、動かなくなる。
「よし!取り押さえろぉ!!」
男を止めることができ、両手を合わせて喜ぶエステルとクラエス。男を拳一つで地面に叩き落としたエステルを信じられないと引き気味につぶやきセットは足を止めた。
その近くでは息切れで喋ることすらままならない様子のエクセルが愛菜を探して辺りを見渡して居る。赤い人だかりが出来ている方を見て、今にも泣き出しそうな声で愛菜を呼びながら群衆に向かって走り出した。愛菜のもとに行こうとしている事に気づいたエステルはクラエスに傷の手当てはちょっと待ってと言い残して彼の後を追いかけて行ってしまう。
「エクセルさん、アイナのところに行くの?」
「エステル嬢!?」
手を振ってこちらへ駆けてくるエステルを見て真っ青な顔になり、危ないから来てはダメだと言ってエクセルは彼女を制止する。
しかし、エステルの方が力が強くあっさり彼女を掴んだ手を振り払われてしまう。
少女に力で負けてなんとも情けない表情になったエクセルににこっと笑いかけてアイナのいる場所まで連れて行くと提案する。
「エクセルさん、衛兵さんいっぱい居てアイナのとこに行けないでしょ?手伝ってあげますよ」
「いや、お気持ちは嬉しいのだが大変危険ですし」
「エクセルさんアイナの事好きですもんね!助けてあげたらアイナのエクセルさんに対する株も上がりますよきっと!」
「いや、好きとかいう理由で行くわけでは」
「エクセルさん、嘘下手ですね」
「…………」
にこにこ笑ってズバッと言い放った台詞にエクセルは敵わず、お願い致しますと頭を深々と下げて見せた。満足そうにエステルは笑顔を見せた後、群がる衛兵をかき分けてエクセルを先導することになった。
かき分けてすれ違う大勢の衛兵達は怯えているようだった。衛兵達に囲まれた中心で気を失った男が少女の身体を自身から生えた尻尾で押さえ込んでいるからだ。
尻尾の生えた人間に怯えながら、一人の衛兵が意を決して前に出て、男の外套を剥ぎ取ると、一層のどよめきが起こる。
その理由は今まで外套で姿がわからなかった男が端整な顔立ちの青年だったから。そして、その目元や口元には普通の人間ではあり得ない鱗が存在して居たからだった。
「先祖帰りだ……」
衛兵の一人が絶望したようにそう呟いた。
怖いもの見たさに青年の顔に手が伸びる。一瞬鱗に指先が触れるとびくりと離れた後すぐにもう一度、鱗の感触を確認するように触れた。同時に青年の目が開き、眼球がぐりっと音を立てるように動いて衛兵を捉え、その頭を片手で鷲掴みしながら青年がゆっくり立ち上がる。
衛兵の頭からみしみしという鈍い音が鳴り、悲鳴を上げて暴れ出した。
「血の薄い低俗が気安く触れるな」
「た、助けてっ助けてくれえええ」
「……汚らわしい」
頭蓋が割れるような音を聞いて半狂乱になった衛兵を青年はその言葉どおり汚いものを捨てるように放り投げて手を離した。床に転がった衛兵を仲間たちが引きずって回収していくと次第に青年の周りから衛兵たちが離れ出していく。
そんな怯えた彼らとは対照的にまっすぐ青年に向かって前に出る衛兵士姿の男が目につく。見たことのあるその顔に青年は不敵な笑みを浮かべて彼の名前を呼んだ。久しぶりだなと一言添えて。
「二十年ぶりか?」
そう言った青年の言葉には違和感があった。
何故なら青年の見た目は二十代そこそこの若者だ。それなのにふた回り以上の見た目のエクセルと面識がある口ぶりでしかも二十年ぶりの再会と言うのだから気味が悪い話だ。
「ちょっとエクセルさん!置いてくなんて酷いですよ!」
「!?」
後ろから女の子に呼ばれエクセルは焦った顔で振り向く。衛兵の人混みをかき分け転がり出てきたのはピンクのエプロンスカートの女の子で周りの衛兵士も動揺しだした。
彼女の言い分は屈強な身体の衛兵士達をちょっとごめんなさいと声を掛けながらかき分けやっと愛菜のいるところまで先導したのに途中で置き去りにされたとエクセルに対し怒っているというものだった。
「いやエステル嬢、ここまで連れてきてもらったのは確かに感謝して居るけれどその男は――」
ぐったりした愛菜を自身から生えている尻尾で抱える青年を睨み付けながら、彼に歩み寄ろうとするエステルを必死に止めようとするエクセル。両手を広げて彼女の前に出る。どうか止まってくださいと何度も幼い少女に頭を下げるエクセルだったが、エステルはにっこり微笑んで彼に握り拳を構えて見せた。
「殴っていいですか?」
「あ、衛兵をかき分けて道を作って頂き有難うございます。置いて行って申し訳ありません。ですがそれとこれとは別で、貴女に何かあったら私本当にどうなるか」
「エクセルさんは私よりもアイナを心配しててくださいね」
「はっ、申し訳ありません。私の監督不行き届きでした」
尻に敷かれたように笑顔のエステルに叱られるエクセルは、次第に何も言えなくなりヘコヘコ頭を下げるだけになっていった。
見慣れない変な衛兵の魔術師がでてきたと思えば、今度は女の子が出てきてその魔術師を叱り出したりと理解に苦しむ展開に周りの衛兵達も緊張感の無さから困惑した様子だ。
「おい、ふざけているのか」
「ふざけて居ません!」
イラついた声色の青年に凄まれたエステルは彼の顔をまっすぐ見ながら、きっぱりと即答して見せた。すると青年は何かに気付いたように目を細めてエステルの顔をまじまじと見つめてくる。
そして何かに納得した様子の顔で独り言をいくつか呟いた後に意外な名前を口にした。
「お前、カミルの娘か」
エステルはそれを聞いた瞬間に思い出した。ひと月ほど前に自分の父親があの宝石の埋め込まれた怪しい本を行商人から買い取っていた時の様子を。目深く被った街灯の下にある行商人の顔が目の前にいる青年と一致する。
思わずあっと声が漏れる。
「どうした。俺の加工した写本は気に入らなかったのか」
「気にいる訳ないでしょ!あの本のせいでお父さんはおかしくなったんだから!」
彼に対する表情にや態度だけでなく、語気もかなりきつくなった事で彼女から異変を感じたエクセルが冷静に止めに入る。状況がわからない為、どうしてそんなに焦っているのか問うとエステルは一ヶ月前に目の前にいる青年と会った事があると言い出した。
ひと月前、父親であるカミルの前に突然現れてあの大きな宝石の埋め込まれた本を渡して去っていったという。
「娘のために純血主義だの先祖帰りだの、くだらないものが無い世界を創ろうとした結果がこれか」
皮肉とばかりに呟く青年の言葉に、エステルは動揺を隠せなくなって来ていた。
昨日、父親がしたことは自分の為だった。なのに自分が止めてしまった。そのせいで父親は死んでしまった。そんな自分を責める言葉が何度も頭の中を過ぎる。
「あの時は父親の言うことに刃向かうようには見えなかったがな」
何がそうさせたのだろうな。そう言って青年はエクセルを見る。まるでエクセルがその原因であると確信しているようなまっすぐ鋭い視線。エクセルはその視線から目を逸らさず、不安そうに小さくなったエステルの肩を大丈夫だと言うように抱き寄せ、青年に向かってエステルの答えを代弁した。
「そんなもの、初めから要らなかったのだよ」
「何?」
「エステル嬢はそんな世界を求めて居たのでは無くて、自分を自分と見てくれる相手が欲しかっただけと言っているのだよ」
面白くも無いと、目の前の青年は鼻を鳴らして吐き捨てるように言った。くだらないと。
対峙する二人は自分の想いを否定されムッとした表情になる。
欲しがったところで独りでは叶わない。お前らは独りだ。純血主義者の成れの果てだと言う。
青年の言葉は寂しげで何処か悟ったもので、否定できないものもある。だが、二人は無言でお互いの顔を見た後、ゆっくりうなづいた。目の前の勝手な憶測で断言する男の鼻をへし折ってやると言わんばかりに二人とも不敵に笑って彼を指差した。
『相手はそこに居る』
それが彼が尻尾で抱いている少女であることに気付き、随分動揺した顔を見せる。彼の中にある何かに触れてしまったのか、そこから彼の空気が一気に変わった。
「ふざけるなよ!この蛇野郎!!」
その言葉を聞いて青年は歯を剥き出し吠えるように声をあげる。
「貴様は一体何度同じ事を繰り返せば気がすむのだ」
「……お前……ジルか?」
「貴様、まだ知らぬふりをするか!我が名はアンブロイド!女神メリアに忠誠を誓う誇り高き竜の末裔であるぞ!!」
男の名前を呼ぶと怒りが頂点に達したのか激怒した激しい口調で、まるで別人と言わんかのように自身の名前を叫んだ。そして大きく息を吸い込みエクセルに向かってその息を吐き出す。息は真っ赤な炎へと変わりエクセルとエステルに向かって襲いかかった。
向かってくる炎を避ける時間は無く、エクセルは側にいたエステルを抱き寄せ、自分の身体を覆い被せるように使って彼女を炎から庇う。直撃を避けるため前方に身体を倒し回避行動を取るも避けきれず、脚全体に熱と激痛が走る。
痛みを堪えるために抱える力が強くなり、エステルも彼の異変に気付く。
「っぐ……うぅ……」
自分を抱え、地面に倒れたまま放そうとしないエクセルを呼ぶが、返事は痛みを堪えるうめき声しか返ってこなかった。彼の肩越しに愛菜を尻尾で抱えるこの場から去ろうとする青年の背中が見え、エステルは待ってと愛菜の名前を叫ぶ。
やっと伸ばせた手も虚しく、青年は軽々と建物の屋根に登りその場から立ち去ってしまった。
「エ、エクセルさん……?」
「無事か」
「は、はい……」
「無事なら何よりだ」
あの後すぐに真っ青な顔で駆けつけたクラエスの手でエクセルの腕から引きずり出された。目の前で痛みを堪えるために自分の両脚を抱えて唸っているエクセルの姿と焼け爛れた脚を呆然と見ながら、何が起こったのか思い出そうとする。
「閣下!今応急手当てをします。ご自身で癒術は使えますか」
「さっきからやっている」
「誰か!癒術が使える方はいないですか!?」
地面に飛び込むかのように駆けつけた御者は持っていた鞄から瓶と薬草を取り出し、薬草を薬に漬け込む。とろみのある液体で濡らされた薬草を赤く爛れた部分へを貼り付けていく。
魔術を使って傷を癒す「癒術」の使用を促すがエクセルは癒しの術は不得意であると言っていた事を思い出し、御者は癒術に心得がある衛兵がいないかと声を上げた。しかし、周りの衛兵たちは先ほどの先祖帰り青年たちのことで混乱が起こり話など聞いていない。
「火だ。あの化け物、火を吹いたぞ」
衛兵の一人が呟いた言葉を耳にしてエステルはようやく何が起こったのか思い出した。
青年は名乗りを上げた後、口から火を吹いた。身体を後ろに大きく反るようにたくさん吸い込んだ息を一気に吐き出すとそれが炎となって二人に襲いかかってきた。
尻尾が生え、顔の一部から鱗が見える姿は確かに人間離れしているが、まさか火を噴くとはエステルも思わなかった。しかし、あの青年は危険だと言ってエステルを彼と対峙させないようにしていた言葉から、エクセルは彼がどんな男なのか理解していた事に気付き、エステルは後悔する。
「全員あの男のせいで腰が引けてるな」
「本来は自警の集団ですからあんな規格外の化け物相手は無理でしょう。僕も嫌ですよ」
「おまけに救護兵の人間はここにはいないみたいだな。当たって砕ける気満々じゃねーか。大丈夫かよここの衛兵」
「だ、そうです閣下。これを期に癒術も使えるようになりましょうね」
「お前らなぁ……」
自分たちは違うからとエクセルの所属である衛兵に対し辛口評価をはじめ出すセットと御者のやり取りを聞いて思わず声を漏らす。とりあえず言葉を返せるまでは落ち着いたかと応急処置を施した御者はホッとした後、隣で不安そうに手当てを見ていたエステルの頭をポンポンと叩いて大丈夫だと笑顔を見せた。
「おっさん大丈夫か」
「ああクラエス君、こうなるからちゃんとエステル嬢が無茶しないよう護衛してくれ給えよ」
「この馬鹿っ」
脂汗を滲ませた真っ青な顔で笑い混じりに言われたクラエスは隣にいたエステルの頭を叩く。結構本気で叩かれエステルは頭を押さえながら涙を滲ませる。その滲んだ視界に見慣れない靴が見え、一緒に顔を上げたクラエスが隣であっと声を上げた。
他の衛兵とは雰囲気の違う数人を引き連れた男を信じられない顔で見る一同。男はそんな視線も気にせず混乱している衛兵達に撤退命令を下し、この場から離れるよう指示をする。
男の命令を聞き入れ下がりはじめた衛兵達を確認し、こちらに戻ってきた。
「私なら癒術の心得があります」
その場にいた全員が冷ややかな目で衛兵隊長である彼を睨みつける。
しかし当のスコルは涼しい顔で早めに処置をした方がいいのではないかと問いかけ、全員顔を見合わせて渋々とスコル達の後を追ってその場離れることとなった。
まるで街に入る前の振り出しに戻ったかのように昨日散々いた関所の医務室でエクセルの治療をする羽目となる。
「君、先ほどの戦闘を見たところかなりの腕力があるようなのでエクセル閣下の治療を手伝って貰いたいのだが」
「それは構いませんが、腕力が強いからってどういう事ですか」
「実戦経験豊富な彼らに聞いてみてはどうかな」
エクセルの治療を手伝うようスコルから声をかけられたエステルはその条件が腑に落ちず、何故自分なのかと問いかける。勿論治療を手伝うのは賛成だが、理由の意味がわからない。しかもセットや御者にその理由を教えてもらえと話を逸らされる始末だ。
「私は実戦はほぼ皆無なのであの痛みはよくわからなくてね。まぁとにかく準備ができたら呼ぶよ」
そう言って医務室に消えて行った。
エステルは何が何やらわからず、とりあえず彼の言う通り何のことなのかセット達に聞いて見た。するとセットと御者は「あれなぁ」と何か分かったと言わんばかりに首を縦に振っている。
「ちょっとした傷でも癒術の反動は痛いですから、今回の火傷は相当ですよねぇ」
「かと言って自然治癒待ってたら時間がいくらあっても足りねぇしな。しょうがねぇのもわかんだけど痛てぇよなぁ」
思い出しているのか大の大人が痛い痛いとしかめっ面を見せている。
「癒術って傷を治したりする魔術ですよね?治すのに痛みがあるんですか??」
「そうだねぇ、正確には無理やり再生させるのが癒術なんだよ」
傷を治すと痛んでいるところが痛くなくなるのでは無いかと考えるエステル。御者は最終的にはそうなると前置きし、しかしそこまで行く過程が問題なのだと言う。皮膚の再生を急速に行う事で身体に異変が出るのだと言う。それが痛みなのだそうだ。
「なんて言うのかなぁ……皮膚を無理やり引っ張られてどんどん広げられて行くような感じっていうのかな」
「嬢ちゃんが呼ばれた理由はその時の痛みで暴れるから、あいつを押さえて居てくれって事だな」
「なら別にエステルを指名しなくてもいいんじゃねーのか」
その内容を聞いて不安になってきたエステルに後ろからクラエスが声をかける。自分が替わろうかと提案してくれたが、エステルは自分がやると首を横に振った。
昨日カミル村での一件で寝込んで居たエステルを夜遅くでも介抱し、薬を飲ませてくれて居たエクセルに恩返しがしたいと伝える。エクセルが自分たちが眠って居た間もエステルを看病をして居た事実に驚きクラエスは言葉を失う。
「別に誰でもいいが、準備はできただろうか」
「あ、はい!行きます」
呼ばれたため、慌てて医務室に駆け込んだ。入った瞬間、部屋の中に充満する消毒液の臭いがきつく思わず顔を歪める。
寝台に寝かせられ焼けた下半身の衣服を剥がしている最中のエクセルと目が合う。
「何を考えているのかね君は」
「女性がいると少しは痛みも我慢できるでしょう、貴方なら」
両脚、太股の半分あたりまでに広がっている火傷に触れながら淡々とした口調でスコルはエクセルに返した。その触れた指先がほんのり光り出した瞬間、エクセルの身体がビンっと縦に伸びて何かを堪えるように呻き声を上げる。爛れて見る事も辛い状態だった傷口がその触れていた部分だけほんの少し色が正常な肌の色に近づいていた。
「この様に治療をして行くのだが、皮膚を急激に再生させると痛みを感じる様で皆辛すぎて結構暴れるのだよ。脚をばたつかせると肝心の治療ができないからこうして脚を動かさない様に押さえていて欲しい」
「分かりました。エクセルさん痛かったら痛いって言ってくださいね」
エクセルの顔を一度覗き込み、心配しないでと微笑みかけてから配置につくエステル。傷に直接触れない様に透明な手袋をはめた後ゆっくり足首の少し上を掴んで動かない様に固定する。
これから襲うであろう痛みの事と、先ほどエステルの可愛らしい笑顔を見れた事とで複雑な気分になって少し目に涙がにじむ。すると今度はスコルが顔を覗き込んできた。
「あんまり暴れるとせっかく隠しているものが彼女に見えてしまいますから、頑張って我慢してください」
そう言って口に噛み締め様に口に詰め物をねじ込む。何か言いたいのか上半身を起こしてフゴフゴと口から音が漏れてるが詰め物のせいで話せない。
エクセルは諦めて身体の力を抜いて寝台に倒れ込み、天井を見つめる。スコルが忘れていたと踏ん張る時は側にある布を掴めという言葉と同時に痛みが襲ってきた。いつか呪い殺してやると本気で思った。
脚を押さえていた手の力が徐々に強くなっている事にエステルは不安に思い顔を上げる。側には癒術を患部にかけ続けるスコルが大粒の汗を流しながら術の詠唱を続けている。
ある程度、全体の傷口の炎症が治まった頃から二人はエクセルの脚に違和感を覚え始めていた。スコルからエステルへ何か訴える様な視線を向けられたがなんと言っていいのかわからず、エステルは困った表情を彼に向けた。
二人の困惑の理由は火傷の治療もほぼ終わったと言うのに痣のような滲みが消えないからだ。足先から上半身に向かって何かが這いずり回ったような痣があり、明らかに火傷の痕とは違うものが癒術を使っても一向に消えない。
「……」
まさかエステルは恐る恐る、腹部の裾を上げると痣が続いている。これ以上は見ないほうがいいと思い、静かに裾をもとに戻した。当のエクセルは痛みに耐えられなかったのか気絶し白目をむいて動かなくなっている。
エステルは息が出来なくなる事を心配して口の中の詰め物を引っ張り出し、手で彼の瞼を閉じるようにした。
***
夢を見ていた。
「あれ……ココどこ」
気がついた愛菜は麦畑の真ん中にいた。真上には雲一つ無い青空。静かに風が背後から走り抜けて足元の麦たちを揺らして立ち去って行く。
前にもどこかで似たような景色を見た気がするのだが、どうしても思い出せ無い。
しばらく景色を眺めて気付いたのは遠くに大きな樹が立っていて、そこはなんだか行ってはいけないような気がして自分が来た道を戻るよう振り返ろうとした。
すると急に左手を掴まれ驚きのあまり飛び上がる。
「エクセルさん!?」
振り返った瞬間、腕を掴んで来た男の顔を見て愛菜は悲鳴のように男の名前を叫んだ。
ほんの一瞬、何故この人の名前を知っているのだろうと疑問が浮かんだが、すぐに出会った経緯を思い出し、むしろ知らないわけがないかと妙に納得する。
手を掴んだまま何一つ喋らないエクセルは普段見せない感じの柔らかい笑顔で愛菜を見つめ続けている。
「エクセル……さん?」
いつもと何かが違う。
「おいで」
「エクセルさん?」
彼に腕を引っ張られて愛菜は歩き出した。向かっているのはあの大きな樹がたっている方向だった。どこに行くのかと尋ねるがエクセルは全く反応しない。まるで自分が呼ばれているとは思っていないようで、意味がわからない話を愛菜に話しかけてくる。ここがどこかすらわからない知らない場所なのに、彼は愛菜がここに来たのは初めてではないような話をしているのだ。
「お願い、エクセルさん!答えてよ」
「それは誰を呼んでいるのかな」
急に止まったエクセルに背中にぶつかり顔を上げると振り返った彼にそう言われ困惑する。
誰と言われてもここには愛菜とエクセルの二人しかいない他には誰もいない。どういう訳か全く分からないが麦畑の真ん中で他の知っているみんなはいない状態で、二人っきり。
誰がいるとこの目の前の男は言っているのだろうか。愛菜は真っ直ぐこちらを見つめてくるエクセルらしき男が怖くなって来た。
男は膝をつき、愛菜と同じ目の高さにしゃがむと掴んでいた愛菜の手を胸に当てて淡々と話し出した。
「この男の名前はエクセル。私は知識を得た白い蛇、エルメルト」
「蛇?」
おとぎ話でお姫様にでもするような恭しいお辞儀をする彼は自分は白い蛇であると名乗った。そしてエクセルである事も否定しなかったが、他人事のようで自分のことを言っているようには思えない言葉だった。
「私の夢の中のエクセルさんって難しい事を言うんですね」
そう呟いた自分の言葉でこれが夢なんだと気付かされた。夢ならちょっと変でもおかしくないかと無理やり納得してもう一度、彼と向き合う。
「君がそう呼びたいならそれで構わないよ」
「じゃぁ夢のエクセルさん、今度はどこに行くのか教えて」
「そうだねぇ……いい物をあげるから中においでよ」
そう言って腕を引っ張る彼が指差した先に白い柵が現れた。柵の先にあるのはあの大きな樹だ。
手を引っ張られながらぽっかり口を開けながらその大きな樹を見上げながら何を貰えるのかと質問するが彼は答えてくれない。仕方なく、愛菜は彼の背中を追って柵の中へと入って行った。後ろでは柵が閉じる音が聞こえたが、愛菜は気にすることなく前を進んで行く。
大きかった樹は近づいたことで更に大きさを増し、枝に大きな赤い果実が実っていることが分かった。愛菜は何の実だろうかと不思議そうに上を見上げた。その姿を見つめて、彼は何やら嬉しそうに微笑み少し待つように愛菜に言うと樹を軽く叩いてみせる。
上から二つ赤い木の実が落ち、彼はその一つを拾って袖で磨いた後一口かじる。
一噛み一噛み味を確かめるように噛み締め、みずみずしい音を立てて果実を食べる姿に愛菜は釘付けとなった。
美味しそう。愛菜の喉がゴクリと音を立てる。
「君も食べるといい」
もう一つの木の実を掴んだ手を伸ばして来た。真っ赤な艶のある赤い実は愛菜のよく知る林檎とそっくりだった。
「いい物ってこの林檎ですか?」
「そうだよ。君にとってはただの林檎だから安心して食べるといいよ」
「私にとっては……?」
意味深な言葉が気になり聞き返すと彼は笑って昔話だと行って話してくれた。
昔々、ここにいた少女がこの木の実を興味深々と毎日眺めていたそうだ。しかし少女は知性がなくそれが何の実であるか理解ができなかった。ある日この樹で暮らしていた白い蛇が彼女に気付き、その実をプレゼントしたそうだ。その日から少女は知性を手に入れた。
「君はもう既に知性は持っているから、だから君にはただの林檎さ」
「その女の子はどこに行ったの?」
おそらく、昔話で出て来た白い蛇は先ほど彼が言っていた彼自身のことだと愛菜は気付いた。しかし、話に登場する少女が今ここにはいない事に気付き不審に思った。
彼はしばらく黙ったまま林檎を食べ続け、もうかじる部分がなくなるとようやく口を開く。
「そうだね、どこに行ったんだろうね。僕もずっとここにいるんだけど、ずっと一人だよ」
樹を見上げてこう言った彼の姿はいつものエクセルだが、何だか急に幼い感じがした。
なんだが中身がころころと変わるようなエクセルの言動に愛菜は疲れてしまい、思わず自分の夢のエクセルさんは変だとぼやいた。今までそんな風にエクセルのことを見ていたのだろうかと愛菜は自分の深層心理に疑問を抱いた。夢は自分を映す鏡とも言うし、ひょっとしたら目の前のエクセルは愛菜の抱いたエクセルの印象そのものなのかもしれない。
そう思った矢先。
「だから、お嬢さんに会えて嬉しいよ」
「えっ……」
意外な言葉に考えるのをやめて驚いた様子で顔を上げる。
目の前にいるエクセルが愛菜の手から林檎を取り、食べ辛いなら食べさせてあげようと言って一口かじった。そしてエクセルの顔がどんどん近づいてくるため愛菜は驚いて悲鳴を上げる。両肩を掴まれ、口を開いた瞬間にその穴を覆うように彼の口が覆いかぶさって来た。実のかけらを押し入れた後舌が絡まって離れない事に動揺し、愛菜は必死にエクセルの肩を掴んだ。
ぴちゃぴちゃと水音を立てながら口の中に広がる林檎の味に酔い、微睡んでいく。
「エ、エクセルさん……」
ようやく絡んだ舌が解けた瞬間、愛菜は火照った顔でエクセルを見つめて呟く。
するとずっと優しそうに笑っていたエクセルの顔が歪な笑みを浮かべる。脱力しきった愛菜の手を取り指を絡め、腰に手を回して抱き寄せる。
「なんでだろう、その名前で呼ばれるのも凄く嬉しい」
「あの……これって夢、ですよね。現実じゃないんですよね」
「君の言う現実と夢の違いって何?」
口づけや、囁かれる言葉に愛菜の理性が侵食されていくのがわかる。考えることも嫌になるくらい身体に力が入らず夢の中のエクセルに全て委ねてしまいそうになり、必死に抵抗しようと愛菜はこれは夢なんだと声を上げた。
しかし、目の前の彼は不敵に笑って語り出す。
「現実は生まれてから五感で得た経験や記憶によってみる世界。記憶無しでは現実も存在しない世界となり得る」
「何の話ですか」
「夢も記憶から生まれる世界。そして一部は記憶し経験となる。果たしてこの記憶と経験は現実と何が違う?」
そう言うと彼は不気味に笑って愛菜の頬を撫で、赤い瞳が薄い弧を描いた。
違う。彼が確実に、自分の知っているエクセルでない事を理解した。
「貴方は誰……何でエクセルさんの姿をしているの」
「さぁ、忘れちゃった」
ふざけないでと声を上げると失礼だなぁと笑って彼は愛菜から離れた。やっと解放された愛菜は一口かじったまま地面に転がった林檎を見てそれを口にした事を後悔した。
必死に口を袖で擦り、エクセルの姿をした男を睨み続けた。
「またエクセルって呼んでよ。そしたら思い出せそうな気がする」
「何ですかそれ」
「ここで待ってるから。この姿が気に入らないなら今度は別の姿にするよ」
***
愛菜の目覚めは良いものではなかった。
うっすら開いた目に映った翡翠のような色を見てエクセルの名前を呼んだ。その後は乾いた音がしてからジワジワと顔の左側が痛くなり、ようやく意識がはっきりした。
目の前にいたのはエクセルではない知らない青年ともう一人、男が立っていた。女の子の顔になんて事をしているんだと悲鳴のような声を上げる男とは対照的に、目の前の青年の表情は冷たい。切れ長の鋭い目が印象的な美しい顔立ちの青年を目の前にして愛菜は彼をじっと見つめたまま惚けてしまう。
「俺をあの蛇男の名前で呼ぶな」
そう言って愛菜の寝ていた寝台に腰をかけ、懐から取り出した煙管に息を吹きかけて火をおこす。独特な匂いを放つ煙を煙管を使って吸い込み、愛菜の顔に向かって吹きかけた。愛菜は薬のような草の匂いのする煙にむせて咳き込みだした。
なんなんだこの人はとここでようやく疑問が生まれる。ここはどこで、どうしてこんなところにいるのか、目の前のあんたは誰なんだ。次々と出てくる疑問を先ほどのされた仕打ちへの怒りと一緒にぶちまける。
一層深く息を吸い込み膨らんだ胸が煙を吐きながらゆっくりしぼんだ後、青年の口から舌打ち発せられる。
「痛いっ!!!」
青年に髪を頭のてっぺんから鷲掴みにされて悲鳴を上げた。男はそのまま愛菜の身体を寝台に押し倒しもう片方の手で首元を掴んで音がなるくらい締め上げる。詰襟で止めていた肩紐がちぎれ、固定できなくなった服が身体からずれ落ちていく。
「止めてくれ。もう素材もいらない!これ以上殺す必要がない」
「勘違いするな。別に殺すつもりはない」
もう一人の男に止められ青年の手から開放された愛菜は部屋中に響く声で泣き出した。酷く混乱したのかうまく息が出来ず途中何度も詰まらせた様な音を発しながら家に帰りたいと叫ぶ。
帰りたい。お父さんお母さん。と何度も叫んでいる彼女の腕を引っ張って部屋を出るように男が連れ出す。青年は表情ひとつ変えず二人が出ていく様子を見送った後、何事もなかったように寝台へ横になった。
「そんな風に泣かないでくれよ。闇市で売られている子達を思い出して辛くなってくる」
「エクセルさん……」
「……」
先程の大泣きよりは落ち着いてきたが涙は止まらず、ずっとエクセルを呼び続けている愛菜を見て、男は大きなため息を付いた。
お腹が空いただろうとか、服を直そうとか色々言ってみたがどれも響かず広い広間でただ愛菜が泣き止むのをずっと待つ。その間、男の側には複数の少女達が食事や裁縫道具を手にしたまま、直立不動で立っている。男は時々少女たちに声をかけているが彼女たちからの返答はないし、男も当たり前のように一人で会話を続ける。
「そんなに侯爵殿がいいの?彼と何が違うの?よくわからない君を拾った点では同じだろう」
「エクセルさんは打ったり、髪掴んだりしないもん」
「そう?君が知らないだけで、あの人も大概恐い人だと思うけど……」
男がそう言った後、愛菜の着ている真新しい服を見て彼女がエクセルから相当可愛がられている事を察した。それ以上彼について言うのを止めた。
「とりあえず、服だけでも直そう。侯爵殿に買ってもらったんだろう」
「うん……」
ようやく落ち着いた愛菜が顔を上げた瞬間、驚いた顔を見せた。なんだか知ったような口振りで話すとは思っていたがまさか昨日宿に来ていた男が目の前にいるとは思わなかったのだ。
それと愛菜はもう一つ思い出して彼を指差して「領主様」と呟いた。
「あれ、今気づいたの?じゃぁ改めて、名前はアードルフ=メイモン。君の言うとおりこの街の領主だよ」
「昨日エクセルさんと何してたんですか。あの後、部屋に物が増えててめちゃくちゃ汚くなってたんですけど」
「ええ!?いや、ちょっとうちの商品を買ってもらっただけなんだけど」
「商品?」
「そそ。実は本業は商人で色んな物を売るの。侯爵殿は良く贔屓にしてもらってるお得意様ってところかな」
二人で話をしながら、側に居た少女達が愛菜の破れた服を針で縫い直している。その無機質な表情をした女の子達を横目で見た後、恐る恐るその商品についての疑問を投げかける。
「この人達も、その商品……なんですか?」
目の前にいる無表情なのに妙に艶めかしい少女達を指して行った言葉にアードルフは笑顔でそうだと言った。そして正確には彼女たちが人では無い事を付け足す。彼曰く、彼女たちは彼が造った本当のお人形なのだそうだ。
どうやって造るのかは教えられないそうだが、彼は彼女たちのような人形をたくさん造って闇市と言われる怪しい市場で彼女達を売りさばいているという。売上はアードルフ自身も想像以上らしく、主に貴族の人間が購入していくとのことだった。
彼の弁で言えば、生モノを売るよりよっぽどマシだろうというが、愛菜にはそもそも生モノが何を指すのか理解ができなかった。
「生モノ……」
「君みたいに身寄りがなくて闇市売られている子達さ」
その言葉の嫌な響きと予感は的中して、その言葉が人身売買されている人達を指す言葉なのだと愛菜は理解した。そして目の前の男に自分がエクセルに買われた「生モノ」と思われていることにも気付く。
「買ってくれる主人で人生変わってしまうのを目の当たりにすると、胃に来るものがあるね」
「ちょっと待って下さい!私はその生モノなんかじゃないし、エクセルさんはそんなもの買うような人じゃ――」
「どうだか」
そういう彼の目は冷ややかだった。
「侯爵殿の件は残念とは思う。だが売られる側の人間に主人を選ぶ権利なんて無いんだよ」
「っ!だから!」
勝手な決めつけからの知ったような口振りに愛菜は我慢できず反論しようと立ち上がった。すると頭を掴まれたような感覚の直後、髪を思いっきり掴まれ悲鳴を上げる。
「そろそろ無駄話も終わらせてもらえないだろうかメイモン卿」
「ジル殿。頼みますから、女の子の髪を掴むのは止めてあげてください」
「売る側が買う人間に指図するな。それに所有者が買った物をどうしようと勝手だろう」
「はぁ……」
吐き捨てる様な言葉と同時に、ジルと呼ばれた青年は愛菜を投げ捨てる様に放した。愛菜はゴロゴロと床を転がった後、痛みに耐えるように頭を抱えて震えている。また泣いているのか堪えるような小さな声が小さく何度も漏れている。
何も言い返せず、アードルフは堪えるように口を噛み締めてジルの顔を睨む。
「日の出と共にここを出る。あれを動かす準備をしてくれ」
「あれは細かな調整がまだ」
「構わん。あれが駄目でも代わりはいくらか用意してある」
そう言うとジルは床に転がって泣き続けている愛菜を先ほどの暴力とは打って変わり、大事そうに抱きかかえて部屋を出ていった。途中、ため息混じりに良く泣くと呟いたジルという青年の言葉は、何やら愛菜を以前から知っているかのような言い草だった。
止まらない涙まみれの顔をふと上げて愛菜は謎の青年を見つめる。しかし見れば見るほど忘れる事も難しくらいの端正な顔立ちをしていた為、見続けることに耐えられず、顔を赤くして俯く。
なんでこんな綺麗な人に一方的に殴られているのだろう。本当に疑問だ。
「貴方は何で私を連れてきたんですか」
「母上がお前を連れてこいと仰せだからだ」
「???」
ジルは何処を見ているのかわからない目線を部屋の壁に向けながらそれだけ言ってまた黙ってしまう。愛菜は彼の言葉の意味が理解できず首を傾げたまま彼の次の言葉を待ってみた。が、それ以上彼は何も言わなかった。
途方にくれていた愛菜はいつの間にか寝台の上で膝を抱いてまたシクシクと泣いていた。半分寝ているようなとろとろした意識の中で頭をポンポンと撫でるように叩かれる。なんだか懐かしい感覚だった為、藁をも掴む勢いでエクセルの名前を呼びながら彼の手を掴む。
勿論彼はエクセルなどではなく、なんとも言えない複雑な表情をしたアードルフだった。
呼ばれるがままに連れて行かれるがどこに行くのか、何をするのか聞いても彼は黙ったままだ。
彼の足が止まったのは禍々しい模様が描かれた厳重な扉の前だった。扉を見た瞬間、嫌な予感と背筋に凍るような寒気が走りその場から逃げ出したくなる。
だが、アードルフは手を放すどころか握る力を強めて来た。逃げられない。
愛菜は必死にもう片方の手で彼の手を剥がそうと爪を立てるがまったく歯が立たない。軋む音を立てながら開いた扉から部屋に入った瞬間に異変に気づいて抵抗する手を止めた。
部屋の様子を見るのが恐いくらいの異臭が鼻を襲う。部屋中に漂う獣臭と生臭さが襲いかかり、胃がぐっと持ち上がる感覚で思わず咽た。
「大丈夫?臭い?」
「なんで平気なんですか」
「もう慣れちゃったから」
我慢できず床に嘔吐する愛菜を優しく背中を撫でてくれるアードルフは平然とした顔をしている。愛菜は信じられないと言うが、彼は死んだようにうつろな目であっけらかんとした答えを返す。
部屋はおかしな様子など無いアトリエのような作業部屋だった。禍々しい道具が置いてあったり、陰気な空気が漂っているわけでもなかった。一点、おかしいのは部屋の床一面に青い宝石で円が描かれていてその中央に椅子が一つぽつんと置かれているということだろう。
椅子には綺麗な女の人が座っていた。
「一月くらい前だったかなジル殿がやって来てこの娘を使って人形を作って欲しいと依頼があった。渡された彼女はもう死んでいた」
どうして死んでしまったのかは知らないという。ジルが殺してしまったのかも知れないし、何かに巻き込まれて死んでいたところをジルに拾われただけかもしれないとも言った。この街ならありえない話ではないし、どうでもよかったとも言う。
冷たい感じでは無く、本当にそれが普通なんだという言い方だった。
「ジル殿はこの人形が出来れば彼女は再び動き出すのだと言った。こうやって魔力の糸で私が操らなくても、彼女は一人で動いてまるで生きているように話すようになると」
アードルフは椅子に座らされ、眠ってるだけのように見える娘の頬を撫でながらもう片方の手を動かす。すると今までピクリとも動かなかった彼女の目が開き、ゆっくりと立ち上がる。
彼女を操っているアードルフはうっとりした表情で口からは笑い声が溢れだし、彼の顔が恐ろしく不気味なものに変わっていく光景を見ているのが恐くなりこの部屋から出ようと後ろを向く。
「どこへ行く」
愛菜の行動を読んでジルが部屋の出入り口を塞いでいた。逃げることが不可能という現実を受け入れられず呆然と彼を見上げていた愛菜は彼が持っている特徴的な本に気が付く。大きな宝石が埋め込まれた表紙の本。本当に最近同じものを見たばかりだった。
何かに気づいた愛菜はもう一度部屋の中央へ目をやる。彼女のいる中央から広がる円は確かに愛菜の記憶通り、カミル村でエステルが別人になったあの時のものと同じ方陣だった。
「その本……」
「お前はここで見ていろ」
愛菜の隣まで進んだジルは人形を愛でるアードルフにこちらに下がるように促す。あっさり言うことを聞いた彼はジルとは反対の愛菜の隣へと移動し、大丈夫だと言って愛菜の肩を抱く。
見上げた先にいるジルは愛菜には聞き取りが出来ない長い言葉を口にしていた。言葉が早くなるにつれて部屋の中が青白く光り始める。人形を囲むように描かれた方陣とその周りに大量に積まれた宝石達だった。
「降りるぞ」
ジルの言葉と同時に、人形の目が鈴鹿に開いた。人間には不可能な繊細な動きの瞬きをしてみせた後、人形は愛菜を見て口を開く。
口元は全く動くことはないのに声だけが聞こえてくる。異様な光景のはずなのに喋る彼女はとても綺麗だと愛菜は思った。
「やっとお前と話が出来きるな」
「わ、わたし?」
「おい、母上への口の利き方には気をつけろ」
第一声、自分に話を振られた事に愛菜は自らを指差しながらキョトンとした声で答えた。するとすぐに口の利き方が悪いとジルに頭を掴まれ悲鳴を上げる。母上と呼ばれた彼女はそのやり取りが見苦しいとジルを叱咤し愛菜から離れるよう命令した。
「すまなんだな。こいつは昔から短気でな。今度は殺さないように躾けておく」
彼女の後ろにまわっておとなしくしているジルをみるが、その言葉に対してなんの反応もしていない。今まで暴力的な行動から嘘のような静けさと、彼女の意味深な「今度は殺さないように」の言葉が不気味すぎる。
愛菜はもの言いたげな表情をすると彼女はわかっていると笑ってみせる。その表情は人形とは思えないくらい自然な微笑みだった。
「何から聞きたい?お前が何でここにいるのか?私やこの男は何者か?それともあの少年の居場所か?」
「あの少年?」
「お前は私がこの世界に呼んだのだが、予定と違うところに出てきてしまって探すのに苦労したぞ」
「なんで私は貴女に呼ばれたの」
「一から説明するのも面倒だな……あの少年にあったら思い出すだろう。ちゃんと会わせるから今は我々に大人しく従ってもらおうか」
「だから!あの少年って誰よ!!」
笑った表情のまま人形であるはずの彼女が立ち上がった。愛菜の側でその様子を見たアードルフは凄いと声を漏らしている。
何もしていないのにどうやって動かしているのだという言葉など我関せず、まっすぐ愛菜の正面に立ち、愛菜の顔を軽く触れた後、顎を持ち上げる。顔を触れている指も人と同じ柔らかさだが、生命を感じないとても冷たい感触だった。とても人間的な中にも明らかに生きている人間とは違うものを感じさせる。
愛菜は彼女を震えながら睨みつける。
「またあの男にろくでもない事を吹き込まれたのだな」
にこにこしていた彼女の顔が曇り、盛大なため息を付いて愛菜から目を反らした。
「……なんなの、さっきから偉そうに」
***
夢を見ていたが、どうしても思い出せない。
とても大切な事のはずなのに……。
「……」
目を覚ますと腹部にずっしりと重みを感じながら身体を起こす。移動した腹部からずり落ちたエステルが眠そうに顔を上げた為、目が合う。
エクセルは何を言っていいのか分からず、固まったままずっとエステルを見て次の様子を伺っている。
「起きました?」
「あ、ああ……それ私に聞くのかね?」
随分と抜けた事を言われ呆れながら寝台から降りようとする。すると珍しくエステルから強い口調で止められた。
絶対に動くなと言って一旦部屋の外に出たエステルは、衛兵隊長のスコルや数人の衛兵を連れて戻ってきた。相変わらず顔を布で隠した彼の手には衛兵隊の制服があり、そこでようやく自分の下半身に何もないことに気がつく。
だが、エクセルは何やら機嫌悪そうに顔を歪めて彼が持ってきた制服から目を逸らす。
「リスト君!」
「あっはぁい!!」
部屋の外にいる御者を呼ぶと間など一切なく、扉を蹴たぐって呼ばれた当人が入ってきた。同時に一緒に待機していたセットとクラエスもなんだなんだと立ち見見学の野次馬のごとくエクセルのいる寝台を囲った。
「リスト君、急いで来ているもの全部脱いで私によこしなさい」
「え!?」
「代わりに私が着ている上と下は彼が持ってきたコレを着なさい」
「え!?え!??」
「エステル嬢、着替えるから少し外で待っていてくれないだろうか」
「え!?ええええ!???」
何が起きているのかさっぱり分からない御者はエクセルを何度も見た後、まったく相手にしてもらえず、セットに泣き縋って何が起きているんだと訴える。セットは知るかと冷たくあしらい、御者を自分から引き剥がした。
「なんで僕身ぐるみ剥がされてるの?ねぇなんで!?」
「説明は同時進行だ!早く脱げ!!」
「いやあああああ」
なんなんだこの光景は……。
嫌がる御者は必死に側にいるセットやクラエスにしがみついては剥がされを繰り返し、どんどん着ているものをエクセルに奪われていっている。片やエクセルは御者の着ていた服に袖を通し、慣れない手つきで鎧を足元から徐々に取り付けていっている。
鎧姿というのも意外だが、装着も自身でできている事が意外で、思わずセットは馬鹿正直な感想を述べた。
「着れるのかよ」
「忘れているのか知らんが、私も衛兵で、鎧くらい着たことある」
「いや、そういう意味じゃ……まぁいいけどよ」
セットの言葉に冷静に返していくエクセル。上半身の胸当てを装着してようやく騎士のそれらしい姿になった。後は肩当てだけしてあまり全身鎧にならないようにすると言う。幸い、弓を得意武器とする御者はセットよりは動けるよう軽装の姿で、まさに丁度いいのだ。
無言で頷くエクセルの様子を見てから廊下に出ていたエステルを呼び、なんでこんな事を始めたのか本題に入る。
「私が直接アイナ嬢を迎えに行く」
眉を挙げてきりりとしたエクセルの頭に向かって無言で拳を振るったセット。容赦ない音がしたため正面で見ていたエステルとクラエスが絶句している。
「迎えに行くって嬢ちゃんがどこにいるのかわかんねぇだろうが」
「領主屋敷」
「あのくそでかい屋敷のどこにいるんだって聞いてんだよ!」
たしかに魔術店の爆発騒動の時に絡まれた衛兵がそんなことを言っていた気もするが、領主の屋敷といえば港街になじみのないセットですら一目でわかる建物だ。街の中心部に堂々と建っているでかい屋敷だ。全部の部屋回る気かと聞くとエクセルは真顔でそんなめんどくさいことするわけないだろうと即答した。その時の顔が癇に障り今にも殴りそうなセットをあわてて止める御者。彼が真っ赤な衛兵の服を着ているのも違和感があり、調子狂ったセットは辟易した顔で彼の腕を振り払った。
「なぁエステル。俺、今から王城に行くの不安になってきたんだけど。大丈夫なのか、うちの国」
「大丈夫な訳がないだろう!我が国の主要な地域を守る衛兵隊長が不法入国者を放置に覗き趣味の変態では……」
「俺が言ってんのはその目隠しおっさんじゃなくてテメーらだよ!」
問題すぎて頭が痛い、苦々しいと大げさに言ったエクセルに対し「そうじゃない!」とすぐさまクラエスはツッコミを入れる。
チームワークもくそもない。仲違いするお城の使い一向に呆れた田舎の青年代表クラエスが、自国の未来を不安視するもまったく方向違いな反論で頭が痛くなる。
「エクセルさん、ひょっとしてアイナのいる場所をわかるんですか?」
彼の性格から行き当たりな行動をするとは思えなかったエステルは何かあるのかと聞く。隣のクラエスがそんなわけないだろうと茶々をいれ、当の本人も知らないとあっけない返答をした後、部屋の壁にある鏡へ身体を向けて黙ったままのスコルへ物言いたげな視線を送った。
彼を囲んでいた他の衛兵達もこの状況を理解してか、彼を呼びかけているが当の衛兵隊長はうんともすんとも言わず、鏡を見続けている。
「ひょっとすると、それで見えるのかねぇ」
彼が壁掛けの大きな鏡に触れたときにエクセルが鎌をかけようと彼の能力について適当な発言をしてみた。すると本人ではなく周りの者達が動揺しだし、どうやら本命の様でエクセルは満足そうに三つ全ての目がにんまりと歪んでいく。
「見えるなら話は早い。私はアイナ嬢を迎えに行く。救出が終わるまでの間、諸君らにはこの騎士団の二人と……まぁおまけもつけてジル=アンブロイドと応戦し時間を稼いでほしい」
「何をするおつもりですか」
「今回のジル=アンブロイドなる男はまだ隊長職になって日の浅いスコル隊長では荷が重く、奴の侵入を見逃した。挙句、街戦も多くの犠牲を生むお粗末な指揮……これ以上隊を無駄な犠牲を出す訳にはいかない。よって管轄は違うが上官である私が指揮を取らせていただく。異論は?」
一瞬スコルを一瞥した後、衛兵たちは異論なしと首を振る。しかしやはり当のスコル本人は受け入れを拒むようにエクセルに背を向けたままだ。
これには流石のエクセルも呆れた顔で彼の名前を呼ぶ。するとスコルは急に笑いだし鏡を撫でながらゆっくり振り向きながらエクセルを睨んだ。
「貴方が指揮を取ったところで今更私が大人しく貴方の言うことを聞くとでも?」
「私の命令を背くことは総司令閣下の命を背く事であり、それは我が陛下の命を背くことと同義と受け取るぞ」
「あいにく私は王家の人間は信用していないのでね」
「こっ……貴様ぁ!!」
冷ややかなスコルの言葉を聞いた瞬間、エクセルの表情が一気に変わった。両目を最大まで見開き、殺気を放ちなが彼にして珍しく大きすぎるくらい声を荒げて叫んだ。腰にあった剣へ咄嗟に手が伸び、引き抜くように身構えた。
一触即発の空気が室内に充満していたが、怒っていたはずのエクセルが剣を抜かないと思った次にもぞもぞし始めた為、まさかとクラエスが声をかける。
「鞘から出せないとか言わねーよな」
「いやいや、流石にあそこまで言っといてそれはねーだろ」
管轄による仕事の内容がたとえ内勤の後方支援であったとしても、衛兵所属なら毎日稽古もあるし流石にそれはないないとセットが否定した。が、その言った横でエクセルは剣を鞘からゆーっくり引き出した後ゆーっくり鞘に戻し、もう一度抜くために構え直したため、我慢できずに「嘘だろ!?」と叫んだ。
エクセルは顔中脂汗を流しながら真赤にさせて固まり、程なくして諦めたのか何事もなかったようにエステルを涼しい声で呼びつける。
「おい……」
「待ちたまえセット君!君の言いたいことはようく解っているが、人には専門分野というか得意不得意があるわけだから――」
「やかましいわ!それで良く嬢ちゃんを一人で迎えに行くとか言い出したなアンタは!」
「ホントですよ。何かあったら僕達も怒られるのにぃ」
「やっぱり私は呪術を使って自分の手を汚さずに事を済ませるのが性にあってるんだよねぇ」
『聞けー!!!!!!』
後ろの騎士二人を無視したままエステルに一方的な会話をしているエクセルは彼女の持ってきた荷物の中からから自分の魔術道具を出してほしいと言う。つまり剣ではなく魔術でどうにかしようという魂胆なのだろうが、良い感じは一切しない。むしろ嫌な予感しかしない。
セットは頑ななスコルに対し、いい加減大人しくいう事聞いたほうがいいんじゃないかと言ってみるが効果もなく。ボソリとどうなっても知らないぞと聞こえているかわからないくらいの声でつぶやいた。
「えっと……本当にこれですか?」
「ああ、かまわないよ。ありがとう」
「……私それ嫌い、かもです」
受け取ったはものは一冊のメモ帳と、藁で出来た人の形をした塊だった。渡したエステルも異様なものを触ってしまったとばかりに早々に手を引っ込めてクラエスの背後に向かって走っていく。
地味に傷つくと表情を曇らせながらエクセルはメモ帳から取り出した細い糸を針のような器具に通し、人形にゆっくりそれを差し込んだ。
嫌いと感じる彼女の感は正しいとエクセルは思う。本来これは万が一のとき彼女の父親に対して使うために用意したものだったからだ。
「それで、それ何」
「では魔術に疎いクラエス君でも分かるように、あの衛兵隊長さんで実演してみせよう」
そう言ってエクセルはニッコニコな笑顔を見せながら人形の左腕を上に上げるように動かした。すると鏡の前にいたスコルの左腕が急に上がり、見ていたクラエス達同様に彼の部下達も動揺した様子で何があったのかとスコルを心配しながら呼びかける。鏡には状況を理解したスコルの目を全開にした表情が鏡越しで見え、エクセルは楽しそうに笑った。
「と、言う感じの術なんだけど……」
スコルの表情を見て上機嫌になったエクセルはこう言いながらクラエス達の方へ話題を戻した。が、彼らのドン引きした表情で部屋壁際まで後退している姿を見てどうしたのかと焦りだす。
問いかけには一切答えず、主にクラエスとセットが「キモい」と何度もエクセルを見ながら震えていたり、ゴミを見るような目で固まってしまったエステルを必死に御者がフォローしていたり彼らの混乱が落ち着く気配はない。エクセルは彼らから目をそらして少し泣いた。
「もう辞めようかな、この仕事」
「やべ、いじり過ぎていじけやがった」
「おい!いつまで腕上げさせる気だ!」
自分の仕事がひどい不評で仕事を続けることを疑問に思えてきたエクセルだったが、今辞表を出しても愛菜が戻ってこない事を考え耐えるように自分に言い聞かせながらギュッと持っていた人形を握りしめる。すると横でスコルが悲鳴を上げた事でハッと正気に戻る。
人形への力が抜けたため、スコルの腕が急に降り、同時に腹部を襲った圧迫感が一気に開放されて盛大に咳き込んだ。
「という訳だ。命令を無視すれば腕の骨がおるくらいではすまないぞ」
指の腹で人形の胸あたりをぐっぐっと力を入れたり抜いたりする度にスコルから悲鳴が上がっている。立つのもままならなくなり、部下たちが支えながらこちらの要件をのむ様に説得をしているがまったく聞き入れる様子はない。敵国の工作員並の強情さにもはや呆れる以外の反応ができなくなる。
「何が君を君をそうさせるのか、私にはさっぱりわからないのだが」
「アードルフを守るのは私なんだ。私が屋敷から出ていったから、アードルフはおかしくなったんだ」
「は??」
「戦争なんて起きなければ、私が屋敷を追い出されることも、アードルフがおかしくなることもなかったんだ」
胸部が締め付けられ息が思うようにできないながらも、一言一言はっきりと言葉を発しながら上げた顔は憎悪に満ちたものに変わり果てていた。エクセルは黙って彼の話を聞くため持っていた人形の力を緩める。
力が緩んだためうまく息ができず咳き込みながらも、スコルはエクセルを睨むことはやめなかった。
「私はあいつと……あいつが壊れながら復興させたこの街を守るんだ。あのとき何も手助けしない足ばかり引っ張った王家の人間の指図など受けない」
「復興の功績は認めるが、どんな理由があれ人売は理解できるものではないぞ」
「お前のような化け物に生モノを売る人の気持ちなんぞ分かるわけがない」
それを聞いた瞬間、エクセルは持っていた人形を床に投げつけた。同時にスコルの体も支えていた部下たちを払いのけて顔をこするつけるぐらい勢い良く床に倒れ込んだ。
止めようとするセットや御者の声も聞かずエクセルは彼の襟首を掴んで身体を持ち上げ、鏡に向かって勢いつけて顔を押し付ける。
「ずっと思っていたんだが、お前も化け物の同族だろう」
「なっ……」
「没落した理由も容易にわかるぞ、お前自身だろう。お前みたいな人間離れした能力持ちが生まれたらいよいよ先祖帰りが生まれるからな」
「だ、だまれ……」
「自分達の純血主義を棚に上げて……お前みたいなのが一番癇に障る」
一層力を入れた次の瞬間、鏡に大きな亀裂が入る。これ以上の力が加わるとまずいと命の危険を感じたスコルはもがくように両手をばたつかせ、すがるように鏡に手を付ける。アードルフの名前を呼びながら何かをつかもうとするように鏡をひっかく姿が痛々しく、彼の部下たちが止めに入ろうとするがエクセルの額の眼に睨まれ怯んでしまう。
頭を締め付ける力に苦しんで上げていた声も枯れ果てた様子で蚊の泣くような小さなものに変わり果てていき、うわ言のように何度も領主アードルフの名前を呼んでいる。まるで彼に助けを求めているかのような彼の手が再び鏡を撫でた後、鏡がまるで水のように波打ち淡い光を放ち始めた。
何が起こっているのかわからずぽかんとした様子で鏡を見上げていたエクセルはしばらく映る建物の中の映像を眺めた後、鏡に写った愛菜の姿を見て思わず声を漏らす。
「アイナ……嬢……」
だが同時に彼女の首をつかむ男の手と同じもう片方の手が彼女の頬を殴りつける様子が写り、掴んでいたスコルを床に落とした。
愛菜を殴っているのは間違いなく街中で彼女を拐って行ったジルの背中で間違いない。声は聞こえないが、馬乗りになって何度も顔を殴りつけている様子から彼が何か愛菜に対して怒鳴りつけているのが分かる。二度三度殴られた後、愛菜の眼からぼろぼろと涙が流れ出しようやく拳が降ろされる。
耐えていたものが一気に吹き出したように大きく口を開いて泣いている愛菜にジルの背中が覆いかぶさる。泣いて止まらない愛菜に顔を近づけて満足そうな笑みを見せたジルはゆっくり口を開く。
やっと泣いた。
エクセルには彼の口の動きがそう見えた後、鏡がぱんと破裂音に近いを上げて壁から崩れ落ちて来た。隣を見れば壁に右手を突き出したエステルが髪を逆立て、震えながら鏡だった壁を睨んでいる。
「エステル嬢」
「そうやって止めても無駄ですからね。今度は、私がアイナを助けるんですから」
「あ、いや、その、部屋がどこか特定しようとしてたのですが……」
「あ……」
構えていた拳が急に引っ込み、申し訳なさそうに頭を垂れて小言を言うクラエスに回収されてしまう。
「で、場所はわかったのかよ」
「いや、ちょっと厳しいな……領主屋敷の見取り図はないか」
「数年前の改築作業を警護していましたので、その時のものでしたらあります」
「ならばすぐに用意。後は三人一組の兵を五組ほど用意して待機させろ。準備ができ次第すぐに出ると兵に伝えなさい」
「かしこまりました!」
エクセルの指示で衛兵達の動きが騒がしくなって来た。三人一組の兵士が何度か部屋にやってきて各々自己紹介をして去っていく。
見取り図が来るまで自分の記憶が消えないようにメモ書きをするエクセルは彼らが来る度に顔を上げて「よろしく」とだけ挨拶してまた顔を下ろすを繰り返している。
そんな様子を見ていると、自分たちが部外者なんだという事を思い知らされたクラエスがここにいていいのかと弱音を吐く。
「別に残っててもいいと思うぜ。その嬢ちゃんは城に行くまで無事でいてくれなきゃ困るわけだから、行かせないほうが正解だしな」
「嫌!行く!!アイナ殴ったあの人私嫌いだから殴り返す!!」
「本人は行く気まんまんだけどなぁ。あれ、ほっといていいと思ってんのか?」
「思うわけ無いだろ!!」
「じゃぁ泣き言吐いてんじゃねぇよ」
最初こそ軽い声だったが最後に言い放った言葉は突き放したような冷たさがあり、クラエスはそれを聞いて背筋が冷たくなった。当のセットはもうすでに切り替わっているのか威勢のいい言葉を言うエステルを気に入ったのか二人で笑ってあのトカゲ男を倒すと息巻いている。
クラエスは今日、自分が武器屋で購入してきた巨大な剣を見つめた後、思い詰めた顔で一層力を込めて握り占めた。一瞬、剣の鞘に埋め込まれた石がぼんやり光ったように見えて首をかしげる。
「見取り図ありました!」
「よし、広げろ」
テーブルに慌てて広げていく衛兵を待たず、エクセルは見取り図に直接筆を走らせて行く。先程みた映像の前に、廊下を移動するような映像があった為、どの方向に曲がったか覚えている限り先程のメモに残していた。
それをもとに見取り図を使って同じ場所と思われるところに線を引いていく。映像が廊下を進んだ先にある部屋は、間違いがなければ領主の自室にたどり着くとエクセルは線の到着した場所に丸をつけた。
「裏口は」
「ありません正面だけです」
「ならば正面でジルを煽って足止め、足止め兵に気を取られている間に私がここに行く。足止めもそう時間が長く持たないだろうから、セット君リス地ト君が戦闘に入って暫くしてからスコル隊長指揮の衛兵隊が時間差で突入」
その指示を聞いて深い深い溜め息をついたセットと御者はもう何を言っても無駄だと悟りもう何も言わなくなった。
エクセルの格好をした御者を囮にしてジルを引き付ける。そう簡単に食いつくのかという疑問をクラエスが首を投げかけたがエクセルは自信満々の表情でそこは問題ないと断言してみせた。
「そういや知り合いなのか」
「昔ちょっと……。アイツ見かけは線が細いんだが、プライド高い上に猪突猛進の脳みそ筋肉野郎で、一回怒らせたらそれしか目に入らなくなるから怒らせたらおーけー」
「おい待て、怒ったその猪野郎とやり合えっていうのかよ」
真正面から相手をすることになるであろうセットがクラエスとエクセルのやり取りを聞いて呆れた顔を向けてきた。それに対し、エクセルは無理なのかと尋ねると彼はそういう問題じゃないと怒鳴るが、傍から見ていたクラエスにはずいぶん楽しそうに見えると不思議そうに首をかしげる。
セットや御者は戦闘特化の所属だから戦うこと自体が楽しくて好きなんだとその疑問にエクセルが淡々と答えてくれた。しかしクラエスには戦うことが好きという感覚が理解できず、更に頭を捻らせる事になってしまった。そんなクラエスをみて笑いながらそういう人間もいるんだとオチをつけた。
「アンタは?」
「ん?」
「アンタは戦う事が好きなのか」
青年の素朴な疑問だと思ったが、その問いにエクセルはすぐには答えることが出来なかった。好きとか嫌いとか考えたこともなかった。
「…………正直、めんどくさい」
「おいジジイ」
「何かねクラエス君。衛兵の仕事に興味がでたのかな」
「衛兵~?それこそ考えたことなかったわ」
「興味あるなら、私の上司に口利きしておこうか?」
「そうやってすぐに話そらすなよったく」
なんだか変な流れになってしまったため、セット達の背中を追う様ににクラエスはそそくさと部屋を出ていってしまった。戸惑った様子のクラエスに笑っていたエクセルは彼らの足音が聞こえなくなったあと無言で立ち尽くし、もう一度戦うことが好きか嫌いか思案する。
答えが出たのかはわからないが瞬間両目を最大まで見開き、機敏な動きで剣に手を添え同時に鞘から引き抜いた。剣を構えたままでもう一度沈黙の時間が数秒流れた後、エクセルは刃に映る自分の顔を見て大きなため息を付いた。やはり抜くのが遅い。
「嫌いだな」
こんなことなら戦闘訓練で武器の扱いも真面目にしておけばよかったと後悔のため息しか出ない。
「スコル君、私はもう行くが起きたらちゃんと兵を連れてきてよ~?」
床に倒れたままのスコルの頭をつま先でコンコンと蹴りながら先に領主屋敷に行くことを伝える。死んでいるんじゃないかというくらい動かないためおそらくまだ意識はないのだろうが、エクセルは構わず彼に話しかけ続ける。
「手遅れになるかもしれないよ」
抜いた剣を鞘に戻しながらそれだけ最後に言って部屋を出た。背後で人の気配を感じるため多分起きたのだろうと推測し、これで後から兵が来ないこともないだろうと安堵の息をついた。
それを見られ、今から敵陣に突っ込むのに何安心しきった顔でため息を付いているのかとセットに咎められた。
「すまない。皆には少々無理をさせるがジルの足止めよろしく頼む。なお、時間がないため移動しながら今回の作戦を伝えさせてもらう」
領主屋敷に向かうため居住地区を横切る一行にエクセルから数枚の紙束を渡される。
「何だこれ」
「魔力を移した札だ。これで術師でなくても魔術を使うことができる」
エクセルはそう言って御者の腰に装備されていた矢筒から一本矢を取り出し、その札を巻き付けた。これをジルの身体に当てることで術が発動すると説明し、矢を返す。
当てる場所はどこでもいいがなるべく動きを封じる事ができる場所に当ててほしいと要請する。ほんの少し足に当てるだけでもいいと。
「けどアイツの動きかなり素早かったけど」
「まぁそういうことだ……頑張ってくれたまえ」
「えええ!?ちょっ、ハードル上げないでくださいよ」
当てるのはいいけどとクラエスが不安そうにつぶやいた為、エクセルは笑顔で御者の肩を叩いた。至近距離で当たるか当たらないかを模索するよりは、近距離勢が彼の動きを止めて、遠距離からの狙い撃ちができる弓矢なら出来るだろうということだが。まぁ焦る御者の言う通り簡単なことではない。
「当てますけどぉ」
不服そうに口を尖らせながらも必ず当てると言う御者を同僚であるセットが頑張れと後押しするように頭を軽く叩く。
「ほんと楽しそうだよなぁあの二人」
「クラエスは楽しくないの?」
「いや、これ楽しい状況じゃないだろ」
「そうかな?私ちょっと楽しいよ」
もう少しで人間離れした男と真正面から戦闘をしようというのに、のんきに微笑む幼馴染にクラエスは呆れて開いた口が閉じなくなってしまう。もう少し危機感を持ってくれ、危なっかしいと説教をするが当の本人は聞き入れてくれず。
「アイナに恩返ししなきゃだし!あとはアイナとエクセルさんにいい感じの雰囲気になって欲しいし~」
「やめてやれ。あれと一緒にさせられるアイナが可哀そうだ」
「え~!クラエス全然女ゴコロがわかってない~!」
ぷんすこと怒りを表現しながら横から小突いてくるエステルと、あまり痛そうでないが痛いと声を上げなら笑い合うクラエスの二人を無言で見ていたエクセルは何を思ったのか急に二人の間に割って入り、何かもの言いたげにニヤついた顔をクラエスに向けてきた。何事と思って顔をしかめたクラエスもなんとなく察したのか露骨に嫌そうな顔を彼に返す。
「二人は随分と仲がいいのだねぇ」
「そうですか?幼馴染で遠慮がないだけじゃないですか」
「それならいいのですが……私はエステル嬢には是非とも陛下の花嫁になっていただきたく思っておりますので~」
「だからならねーって言ってんだろが!!」
「君には聞いてない!!」
二人は仲が悪いよね~と、まるで自分は関与していないかの様にクラエスとエクセルの言い争いを見ながらのほほんとした口調でエステルが呟いた。
傍からみていたセットがこれから敵と対面するのに仲悪くて大丈夫なのかと真っ当なツッコミを入れられ、二人のいがみ合いは一旦保留となったが、不安だと騎士二人がぼやく。だが、エステルはそうは思わないと言ってにこにこ笑顔を見せている。
「喧嘩するほど仲がいいやつだと思いますよ」
「どうだか」
呆れたセットの言葉にエステルがぼそっと小さく反論する。クラエスは本当に苦手な人には距離を置くからと、以前自分の父と折り合いが悪かったクラエスの様子を思い出して言った。だがセットには聞こえておらず、完全な独り言だった。
じっとクラエスと見た後、彼と目があったのでにこっと笑いかける。焦ったクラエスは何か用かと顔を赤くしてしどろもどろに言ってきた。
「クラエス、頑張ってアイナを助けよう」
「……ああ、そうだな」
全員、足を止めて目の前に立ちはだかる領主の屋敷を見上げて身震いをする。鉄格子の門をゆっくり開き無言で進んだあと、重たい正面玄関の扉をゆっくりと開けた。中は明かりもなく真っ暗だが同時に人の気配もない。暗視用の魔術道具を使い中を確認した御者が入って大丈夫とサインを出したため全員で屋敷の中に入る。退路確保のため入り口は開けたままにしていることを確認して、エクセルは自分の服を着た御者があたかも本人が喋っているように後ろから声をだすよう彼の後ろを陣取る。
「明かりの用意」
「本当に誰もいねーのか」
「そう思う貴様は無能だな」
『っ!?』
聞き覚えのある男の声とほぼ同時に部屋中の明かりが灯り、一瞬視界が真っ白になる。他の者たちが眩しさで焦っている中、エクセルはその明かりがつく一瞬に兜の目元を下ろして顔を隠す。正面にいる御者に自分の言葉に合わせるようにと肩を叩いて合図する。
視界が改善すると側の階段から身を乗り出し、気だるそうに煙管を吹かしているジルの姿を見てエクセルが声を掛ける。
「ジル、何のつもりでこの国に来た」
「煩い。お前には関係のないことだ」
「お前、帝国の宮廷魔術師がのこのこ何の許可もなく他国に入って言うことがそれか。それに二十年ぶりにしたってなんだその格好。お前の国でその格好は……」
昔を知っているからこその疑問をぶつけるエクセルの声に合わせて御者が身振り手振りをする。顔を隠すためローブを羽織っているのが怪しすぎると思うのだが、今の所ジルには気づかれていない。あんまり近づかないでほしいなぁと目に涙を溜める御者の思いも虚しく、階段から跳んで目の前まで下りてきたジルを目の前に悲鳴を上げそうになる。
「まさかお前の家、没落したの?」
内容こそ重たい話題だがエクセルの言い方に何か違和感があったためその場に居た者たちが「ん?」と眉を歪ませた。言い方が軽いというか、そうバカにしたような言い方でしかもちょっと笑いながら言っている様な言い方で、内容が内容だけにちょっと理解し難く側に居た全員がチラチラと兜姿のエクセルを見ている。
「お前ガキの頃人のこと散々汚らわしいだの低俗な血筋だの言いまくっておいて没落しちゃったのか~?」
「……チッ」
御者は一生懸命エクセルの口調に合わせて笑うように口元に手を当ててみたりしているが、目の前に居るジルの整った顔がエクセルの言葉でみるみる般若の様に崩れていくのが怖すぎて口から泡吹きそうになる。正直やめてほしいと思った。
まさか怒らせるの内容がこんな低レベルな内容だとは思っても見なかったセットとクラエスは張り詰めていた糸が緊張感のなさで緩みきってしまい、武器も構えるのもやめて信じられないもの見る目で御者とエクセルの腹話術を見ている。
「私も独りだが、まだ家の方は健在なんですけど~」
「うるっさい!黙れ!!私は自分のなすべきことのために今の立場に甘んじているだけだ!!」
「はーまたえらっそーに能弁垂れちゃってまぁ。なすべきことって?例のお母様の看病のことかね」
「煩いと言っているだろう!貴様には関係のないことだ」
「関係無くはないだろう。短い時間かもしれんが子供のときは同じ場所で過ごしていただろう」
「煩い!煩い!うるさい!!」
セットや御者たちもエクセルの生い立ちはあまり知らないため彼のこの言葉が意外すぎて驚いた。エクセルのいうジルの故郷は二十年ほど前に自国と戦争状態にあった隣国であるが、それが幼い頃に同じ場所で暮らしていたというのはどういうことなのか言葉だけでは理解ができなかった。戦争がある前からも特に交流が盛んにあったわけでもない隣国の印象はまさに敵国の一言のみだ。
それなのにこの二人はお互い貴族同士でずいぶんと前から面識があり、子供のような言い争いまでする。ふざけた言動が多いがエクセル自身は彼の状況を不安視して心配をするような発言もちらほらある。
だが、相手のジルは聞き入れる様子は一切ない。
「没落した原因も母親のそれだろ。自分の人生や家の多額の財産を注ぎ込んでまで死んでいるのと同じ無理やり生かしている人間が起きるのを待ち続けるなんて馬鹿げていると思わないのか」
エクセルのその言葉を聞いてジルの表情から怒りも消え去り、一瞬だけ無の表情になった。そして次第に両目を限界まで見開き、体中がブルブルと震え出す。今までとは違う質の怒りが彼を襲っているのがよくわかり、周りの空気も張り詰めたものに変わった。
何か堪えていたかのようなようだったジルの口元が緩み、不気味な笑い声がぼそぼそと漏れ出している。
「お前にはわからなくていい」
その時の表情が恍惚に満ちていてそこに居た全員がこの瞬間からジルの様子が大きく変わった事を察知した。
「母上は帰ってきたのだ。私には今、母上の声が聞こえるのだ。新しい世界を創るためにあの娘が欲しいと母上が仰せなのだ」
「お、おい。お前の知り合いちょっとやばいんじゃねーの」
先祖の姿、記憶を持って生まれた先祖返りの宿命だとエクセルは自分に言い聞かせるようにセットの言葉に答える。自分のものとは違う記憶に侵食されて自分自身の記憶がわからなくなっていく。自分も彼と同じ先祖帰りで、いつかあの記憶にすべてを奪われて自分が自分でなくなりそうだと何度も恐怖したことのあるエクセルだからこその諦めたかのような無気力な答えだったが。
「貴様もいい加減その記憶から学習しろ。お前に関わる娘はみんな不幸になる。あの角無しもそうだ」
逆にジルから自分の先祖の記憶についてダメ出しをされた。だが、延々と見せられる先祖の記憶を知っているエクセルにその言葉に反論する材料は持っていなかった。ろくな記憶ではない。
「……うるせぇ。お前こそ生まれ変わっても乳離れできないマザコン野郎のくせに、他人の色恋にまで口出しされる筋合いはねーよ」
あっちを怒らせるはずだったのに、なんでお前がキレてるの。全員が困惑した顔を一斉にエクセルに対し状況の軌道修正しろとサインを送るが全く見ちゃ居ない。
「あー!!!こいつの心配した私が馬鹿だった!!」
俺らはお前の命令を聞いたのが馬鹿だったよ。
鎧姿で地団駄踏んで大声を上げだしもはや隠れる気すら忘れているようだ。本来なら囮になるはずだった御者に正面から突撃して彼を足止めするはずだったセットは次の状況が読めず、どうするんだよこの状況と頭を抱える仕草を見せる。
「ばーか!ばーか!お前の母ちゃんでぇべそー!!」
「いいかげんにしろよこのクソジジイ!!」
「うるさーい!俺もう本当にこの偉そうなくそマザコントカゲ大っっ嫌い」
言ってる悪口の低レベルさがひどすぎてセットが怒鳴って止めに入る始末。怒りが頂点に達したことが原因で幼児退行でもしたかのような発狂を見せるエクセルは力任せに被っていた兜を脱ぎ捨てて床に叩きつける。その行動に対し「それは俺の仕事道具だ」と貸している物をぞんざいに扱われたセットは更に彼を怒鳴りつける上司ということも忘れて腹に蹴りまで入れる。
「あ、あのすいません御二方。目の前の男の異変にも少しは意識を……」
「殺す」
「ひっ!?」
御者の震える言葉をかき消すようにジルが一言発してエクセルとセットの動きが止まる。
「母上を侮辱した奴は殺す。絶対、殺す」
据わった目で何度も狂ったように叫び、拳を構えてこちらへ向かってくる。
「殺す、殺す殺す殺す殺すころぉぉす!!」
まっすぐこっちに向かってくるため自分が狙われている事を理解し、恐怖で悲鳴を上げながら逃げるエクセルの格好をした御者を追いかけるジルは狂ったように「殺す」と喚き繰り返している。
その様子を呆然と見ていたセットの目にこの混乱に紛れて二階へ上がって奥の廊下へと姿を消す鎧姿のエクセルを確認し、改めて目の前で半狂乱になって暴れている男を見て胸焼けに似た症状を覚える。つい最近同じ様な男が居たような気がすると。
「これは…本物だわ」
ジルに追いつかれ床に尻もちをついた反動で被っていたフードが外れる。エクセルの顔面に向けて当てるはずだった拳が目標を失い宙に止まる。涙目で彼の唖然とした表情を見て申し訳なさそうに「ちがいまーす……すいません」とだけ謝った。そして首根っこ掴まれ体が軽くなった後もう一度地面に向けて投げ捨てられる。
「エルメルトぉお!あの蛇野郎どこに行きやがった」
「その蛇野郎から伝言だぜ」
エクセルを探し回りを何度も見渡すジルが声のする方へ身体を向けた瞬間、足元からぐしゃりと何かが崩れるような音と遅れて痛みがじわじわと襲う。痛みの場所を確認すると足に矢が刺さっておりその矢の刺さった傷口から蝕むように氷の塊がみしみしと音を立てて生まれでている。
矢を放った御者は氷が発生したことに驚いた様子で嬉しそうに当たった当たったと連呼しながら尻もちをついたままの体制で後ろに後退していく。
「それでその瞬間湯沸器みてぇな頭冷してろってよ」
とりあえず時間は稼ぐ。エクセルの指示通り足止めのためクラエスとエステルはジルの背後にまわり、二階への階段を塞ぐように彼に対峙。彼の正面に立つセットも剣と盾を構えて彼を挑発するように不敵な笑みを見せている。
だが彼の足止めはそう長くは持たない。それを理解しているのは一人離脱し愛菜を助けに向かったエクセルが一番良くわかっていた。なるべく無駄のないように動き、一刻も早く愛菜を見つけて連れ出すことが今の彼の第一優先事項だった。とはいえ手がかりはスコルの出した鏡の映像の一瞬だけ。
焦る気持ちをなんとか抑えながらエクセルはメモした道筋を進んでいくが屋敷が広すぎて同じ様な部屋ばかりで現在地が危うくなってきた。
一旦足を止め、ふと目に止まった扉を見る。異様に重苦しい装飾がしてある扉で明らかに他の部屋とは異彩を放っていた。場所としてはこのあたりに愛菜が居るはずとその扉に手を触るが一瞬でこの部屋ではないことを察知する。
扉の向こうから歌声が聞こえる。女の声で聞いたことのない声のはずなのに、どこか聞き覚えのある歌だった。この感覚を以前にも経験があったエクセルはすぐさま扉から手を離し、逃げるようにその場から立ち去る。その歌が聞こえないように。
「思い出すな。思い出すな。これは私の記憶じゃないんだ」
身に覚えのない記憶が意識が先程の歌の影響か何度も頭をよぎり、そのたびに意識が飛びそうになる。めまいでふらつき誤って開けてしまった一室に倒れ込んでしまい、すぐに身体を起こそうと顔をあげる。そこにエクセルは気づいてめまいなど無かったように迷いなくその寝台に向かって進む。
部屋は寝台と机に本棚が置いているだけの質素な作りだったが置いている家具装飾から客間のたぐいではなくこの家の主が使っている部屋と判断し、広めの寝台に横になっている者がいることに気付き、その顔を覗き込む。
「アイナ……」
すぐに横になっている彼女の身体をゆっくり起こし、感極まってまだ意識が戻っていないままの彼女を力いっぱい抱きかかえる。エクセルの再会による安堵の言葉とは違い、抱きかかえられた愛菜は苦しそうに顔を歪めた後、ゆっくり閉じていた目を開こうとしていた。
あまりにも痛そうな声を漏らした為、エクセルは彼女を開放するがよく見ると彼女の着ている服が無理やり引き裂かれた形跡があり、胸元まで大きく肌が露出していた。露出した上半身だけでなく顔や脚にまで青い痣や、赤く腫れ上がった痕があり、エクセルはすぐに今まで愛菜が着ていた制服を荷物から取り出し、ブラウスを肩にかけた。
「ごめんよ。これは外すね」
かろうじて首の後から固定していた布地が留め金を外したことで上半身の布地がすべてなくなり、寝台の下に滑り落ちていった。エクセルはすぐに方に掛けたブラウスの両袖に愛菜の腕を通した後、ボタンを止めようとするがうまくできずに焦る。
「えぇっと、これはどうやって留めるのだ」
「痛いっ」
「あ……すまない」
首元でもたついたため腫れている箇所に触れたのか愛菜が悲鳴のように声を上げて、痛みでようやく意識が戻った。
壁に背中を預け半身を起こした状態の上に覆いかぶさるように身を乗り出したエクセルが前全開のブラウスをつまんでいたため思わず声に出して叫びそうになる。ブラウスからとっさに手を放したエクセルはその両手で愛菜の口を塞いで小声で何をするんだと怒鳴った。
「ふふふん!ふぐぐんんぐぐぐ!!!!」
それはこっちのセリフだと口が塞がれた状態で訴えた後、足でエクセルを蹴って自分から引き離す。
「いや、説明している暇はないんだ!とにかくこれ持ってきたから着替えたまえ」
「制服?」
「見ないで居てあげるから早く前も閉めたまえ」
きれいにたたまれたスカートとブレザーを受け取ったときにようやく自分の格好に気づいた愛菜は素直に返事をし、真っ赤な顔をしてブラウスのボタンをすべて閉じた。その後無言でスカートを履き、ブレザーに袖を通して寝台から下りた。
着替えが終わった事を理解して振り返えるエクセルに無言ジト目で彼を睨んでいる愛菜。エクセルも気まずさで何も言えずしばらく黙っていたがそんな事をしている場合ではないと我に返り愛菜の手を掴む。
「アイナ嬢。この件で怒るのは当然なのだが、今は一刻も早くここから出て皆と合流しないと」
手を引こうとしたが愛菜がぽろぽろと涙を流し始めたため先程の件で泣かせたとエクセルも絶望で泣きそうな顔を見せる。そんなつもりはなかったと言い訳も困惑してろれつが回らずうまく言えていない。
「私はただ君があの馬鹿に暴行されているところを見て、それで助けに……」
「ちが……怒ってないです……」
愛菜はうまく言葉にできなくてエクセルが掴んでいた手を掴み返し、一層大量の涙を出して顔をクシャクシャにさせた。ただ一言だけ「怖かった」とだけなんとか口にすることが出来てから緊張がとけたのか声を出して泣き出した。
彼女の大泣きする姿を見てどうするべきかエクセルは悩んだ。愛菜の泣き顔を見てと自分のものではない記憶が先程よりも鮮明に蘇って自分自身を塗り替えていくような感覚に襲われる。記憶の中に居る全く知らない少女の泣き顔の記憶と愛菜の泣き顔が重なる。
エクセルが気がつけば無言でその記憶と同じ様に愛菜を自分の側に寄せぎゅっと力を入れて抱き込んだ。その瞬間、愛菜がとても懐かしく愛おしい存在に感じたと同時に罪悪感を覚える。
「何度やっても同じだな」
「!?」
聞き覚えのない女の声にすぐさまエクセルは反応し、愛菜を自分の背後に隠して剣を抜いた。自分でもやれば出来るではないかと思うほどの速さで。
目に映ったのは見覚えのある女だった。金色に近い若草のような美しい髪と大きく横に伸びた角、宝石のように大きな瞳、どこか棘を感じるが絶世の美女だ。だが立っている彼女には生気がなく大きな両目は濁り淀み、前が大きく開いたドレスから大きな人工魔石が胸に植え付けられているのが見える。
明らかに生きている様子ではないとエクセルは悟る。
記憶が正しければ今朝日誌で見た行方不明になっている貴族の娘のはずだが。
「どういう事か説明してもらおうか。アードルフ卿」
彼女の隣で恍惚の笑みを浮かべている男にエクセルはこの女が何者か問いただす。だが、彼の視線はずっと彼女に向けられていてエクセルのことなど一切見やしなかった。凄い、素晴らしい、美しいと称賛の言葉を何度も彼女に向けてつぶやきうっとり見つめ続けている。
「どうです侯爵殿。私が魔力で操らなくても動いていますよ」
「アードルフ卿!!」
「ずっと、これが創りたかった」
今まで話をしていたときには感じなかった彼の異様な空気に愛菜は怯え震えだす。その異様なものは普段の彼を知っているエクセルも感じていて彼が正常な精神状態でないことも理解した。おそらく、あの部屋から聞こえてきた歌のせいだとエクセルは彼の隣りにいる女を睨みつける。
女は目を細め冷たく笑い自分のせいにするなと言う。
「この男は自分の気持ちに対し素直になって行動しているだけに過ぎない。私は素直になるようにしてやっただけにすぎない」
そう言って彼女は軽く歌って見せる。エクセルは歌をその場にいる全員に歌を聞くなと声を上げて彼女の歌を妨害した。
歌を邪魔された女はエクセルを冷たく睨み、興が冷めたと歌うことをやめた。だが、それでアードルフの様子がもとに戻ることは無かった。
「ずっとずっとこの日のために何度も造ってようやく形になったんだ」
「まさか今までの人形たちも……」
「もとは人間だよ」
彼の言葉を想像して嫌悪感から胃がぐっと持ち上がる嘔吐しそうになる。彼が何を言っているのか理解しがたいししたくもない。
「戦争が終わったばかりのとき人手が足りないせいか生モノがすごく売れたんだ。おかげで街の復旧は早かったが、しばらくすると別の問題が発生したんだ。買った奴らは彼女たちを用無し扱い。物のように扱い殺して捨てて、じきに売れなくなった。人売の商人がいる一角にはいつも死体が多く転がっていたよ」
「後の闇市のことですね」
「初めは供養のつもりだったのかもしないが今となっては自分の治める街の異常な現実に耐えられなくて頭がおかしくなったのかもしれない。彼女たちを拾い集めて、皮をはぎ、美しい姿のまま腐らないよう防腐処理をし、内容物の代わりを詰め込んで人形にした」
不気味に笑っていたアードルフの目から涙が一筋溢れる。
「生きていたらきっとこんなふうだったんだろうなーって動かすんだけど、やっぱり何か違うような気がして……」
初めは達成感によって満足げな顔をしていたが徐々に表情は曇っていき、ため息をついた。過去そう思ったように、おそらく今回も同じ様に彼は満足しなかったのかもしれない。
ずっと創りたかったと言っていた意思を持って動く人形を今は虚しささえを覚えるという。
「アードルフ卿!馬鹿な事を考えるのはやめたまえ。そんな事を考えたところで自分を追い詰めるだけだろう」
「そうだよ、おじさん。その女の子達だってこんな方法で生き返ったって……」
自分を助けてくれたときの言動から彼にジルのような怖さを感じていなかった愛菜はエクセルと一緒に彼の説得に加勢する。宿で出会った時からエクセルと交友がある人とも理解し、その関係が目の前の人形に入った「何か」によって壊れていくのは嫌だと思った。
自分だって大切な人がこんな風に無理やり生き返ったって嬉しくない。そう言おうとしたが最後声が出せず、急に彼の側にいる人形の彼女の視線が怖くなる。今、愛菜は自分が何か間違ったことを言ってるような気がして怖くなっていく。
「どうした、何か思い出したか?」
顔色を変えた愛菜に気付いた人形の彼女が表情は変わらずに笑ってみせる。その言動は今愛菜がわからないこと全てを知っている可能にも思える。
どうやってこの世界に来たのかも、帰る方法も彼女についていけばわかるのかもしれない。
だが、どうしても愛菜は彼女に向かって大きく舌を出して拒否の意思表示を見せ、エクセルの背中に逃げ隠れる。
「異界の娘よ、私と一緒に来るのだ」
「嫌だ!貴女と居たらあの殴る人も一緒でしょ」
「思い出せ。お前とアンブロイド、それにこの男も同じだ。私の創る新しい世界を願っていただろう」
何も変わらない現実が嫌になって変えたくなっただろう。哀れむ声色で囁き、彼女はそっと愛菜に手を伸ばそうとした。
愛菜の前でエクセルが構えている剣に手が触れようとした時、彼女の手首に糸のようなものが巻き付き、そこから通常ではありえない方向に手が曲がる。それでも表情一筋変えず力を入れるも手は動かず、その糸は手首だけでなく首や足にまで巻き付いて彼女の動きを止めてしまう。
「何も変わらないなんて、私は思ったこと無いね」
「アードルフ卿……」
「なんか違うけど製品としては問題無いのだから売って売って売りまくって資金作ってまた新しい私の理想のお人形さんをを作ればいいんだよあっははははー!!」
なんか変なスイッチ入った。
愛菜と人形の彼女が何が起こったのか理解できていない唖然とした表情をしている中、一人腐れた付き合いも長く、彼の本質を理解しているエクセルは感情を押し殺した無の表情でぽつりとそう思った。
状況が理解できていないが自分の身動きを制限されたことで怒りで声を張り上げる彼女に今度は口元に糸が張り付き、勝手に口が動き出す。
「だから、お父さんのいう事を聞かないお人形さんはもういらないかな」
「貴様、この世界を生んだ私に対して自分を親だと抜かすか」
「たとえ中に何が入っていようとその人形を作ったのは私だよ」
右手をぐっと握りしめると彼女に絡まった糸が一層強く絞られ身体に食い込んで動きを封じる。同時に動かした左手から伸びた糸の先に二体の少女の人形が現れ、糸に縛られた彼女の腕にしがみつき、壁に押し付けた。
彼女もやられてばかりではなく抵抗する力がアードルフの操る糸を伝わり、次第に糸を操る指先に血が滲み、紅い雫が腕を伝う。
「侯爵殿!」
エクセルはその言葉と同時につま先を蹴り上げ、剣を前方に突き出したまま全体重をかけて彼女の胸元にある青い宝石に向かって突進した。全体重をかけた剣先は当たった瞬間硬いものを砕く鈍い音を出した後、胸の奥深くまで突き刺さっていく。
しかし魔石はヒビが確認できただけで破壊できず、エクセルは腰に隠し持っていた護身用の短剣を鞘から抜き出しひび割れた魔石に向かって突き刺した。
ヒビが大きく広がり、次の瞬間ピシッと音を立てた後、魔石は輝きを失いボロボロと崩れ消えていく。
人形とはいえ元の材料が人間だったせいか刺したときの感触が明らかに本物のそれと変わらなかった為、人を刺したことによる錯乱と興奮状態になっていたエクセルの肩を人形の手が最後の力で掴みかかって来た。そこでようやく我に返り、目の前の人形と目が合う。
「何故……何度やっても同じことがどうして解らない、エルメルト」
「私が、エルメルトでは無いからではないのかね」
お前のせいでとだけ最後に言い、その言葉が終わる前に動力である魔力を失った人形は頭をたれて動かなくなってしまう。
人形の胸元奥深くまで突き刺さった剣を引き抜くと近づけなくてもわかるくらい派手に剣先が刃毀れを起こしている事を確認し、頭痛をこらえるような仕草をした後、無言で剣を鞘に戻した。もう一つ人形の胸に縦方向に突き刺さった護身用だった短剣を引き抜きそちらは何の問題もなくきれいな乳白色の色をした剣先を確認し、元の腰に隠している鞘に戻した。
全く慣れない鎧の重さと極度の緊張状態から開放され、ふとエクセルは自分の手を見て手が小刻みに震えて止まらない事に初めて気づく。いつも付けている手袋を外し、右手を確認した後すぐに手袋を戻した。
「アイナ嬢、無事かね」
「は、はい。全然、私何もしていないですし」
先程の人形とはいえ女の人に剣を突き刺す瞬間を見てしまったせいか、愛菜の反応には若干怯えの色があった。無理もないかと彼女の頭を軽く撫でると拒否はしなかったので少し安心した。
「アードルフ卿」
「あ、はい」
「あのメリアの歌を聞いて正気では無かったのは解るが、そもそもは貴殿の心の問題だ。領主としての職務に対して悩みがあるのであればもう少し、我々本国の人間に相談があっても、良かったのではないかね」
まぁ……自分は頻繁に会っていた訳ではないがとモゴモゴ気恥ずかしそうに小声で続ける。
しかし、当の話題を振られているアードルフ本人はきょとーんとした顔でエクセルを見てどうしたんですかと状況をいまいち理解していない。
「意外ですね。侯爵殿はあれがメリアと本気で信じているんですか?」
「へ、え、いや、まぁ確かに本物かどうかわからんが、あの聞いたら記憶をいじられて自由が効かなくなる歌は人知を超えた能力なのは間違いないだろう」
「神降ろしの術自体が得体の知れない術ですし、何が起こってもおかしくないかもしれませんがね。とりあえずなんとか正常に戻れましたし、よかったですわ!」
「良くないわ!ただ人形壊しただけなのに妙に精巧すぎて本気で人間刺殺しているような感覚が取れ無くなっている私の身にもなれよ!!」
ね!凄いでしょ!本物みたいでしょ!でしょでしょ!!
アードルフの緊張感の欠片もないらんらんとした言葉でもう一度剣に手が伸びそうになる。
「心配してくださっているなら私は大丈夫ですよ。領主を継ぐ継がないはとっくの昔に吹っ切れていることですからね」
「……そうかね。なら構わないが」
「まぁ正直な気持ちを言うと戦時中に好き勝手商売していた時のほうが楽しかったですよ。でもあの戦争のツケが死んでしまったこの達を見ていると戻りたくはないかな」
血の滲んだ指を鳴らすと二体の人形が部屋のドアを開けて入ってくる。手際のいい動きで先程の戦闘でボロボロになったアードルフの手を手当している彼女たちを見つめて苦笑してみせた。
「いやぁそれに、誘拐された人間使って創って置いてなんですけど、あれだけ勝手に動くなんてふつーに生きてる人間相手となんにも変わらなくて……なんか、こう、違う!!!て思うんですよ。全くしゃべらない全く笑わない美しい顔と身体。好きな服を着せたり、好きなように動かしたり出来る自由度。あとは生モノと違って好きな時に好きなように気を使う必要なく愛でる事ができる。それが私の娘達の魅力なんですよ。侯爵殿ならこの気持ちわかりますよね、ね!」
「頼む。もう黙ってくれ」
元々彼のこの性癖は薄々解っていたが改めて面と向かって言われた事で想像してしまった自分が嫌だとエクセルは耳を塞ぎながらアードルフから離れる。おまけに何故か何年も前からお仲間だというような勧められ方をされているため本当にこの件については関わり合いたくなかったエクセルであった。
「あのおじさん、お人形が好きなの?」
「まぁ……ご覧の通り」
「エクセルさんも?」
「そんな訳無いだろう」
自分の指で魔力の糸を操り、人形と抱き合う彼を目の前で見ながら、愛菜の容赦ない質問に思わず素が出てしまいとっさに口を塞いだ後すぐに口が悪かったと謝罪した。愛菜も聞いてはいけないこと聞いたと謝ってきた為、気まずい空気になってしまった。
こんな事している場合ではないのだがと頭を抱える。しかしこんな精神状況であのジルとまともに戦えるとも思えないと散々唸ったあと、エクセルは立ち上がり、自分が動かしている人形とイチャイチャしている男に声をかける。
「アードルフ卿、買い物がしたい」
一瞬無言の時間があった。
だがその無言を打ち破り、アードルフはエクセルに向かって深々と頭を下げた後、両手を広げてありがとうございますと声を張り上げた。そして両手を合わせてにぎにぎと揉みしだきながらお決まりのセリフを早口でまくしたてる。
「こんな時にまでご贔屓にしてくださり、毎度どうもありがとうございますぅ!何が必要ですか?なーんでもおっしゃってください」
プロだ。一瞬で商人に変わった瞬間を見た愛菜とエクセルはドン引きの表情を見せながら冷え切った視線を彼に向けて呟いた。
何がほしいのか聞かれひとまず刃こぼれした剣をどうにかしたいと要望。アードルフはお安い御用と指を何度か動かし暫くして大荷物を抱えた人形が部屋に入ってきた。
彼女の持ってきた荷物の中から物を探すアードルフを見て察したエクセルは持っていた剣の柄と刃の間を固定していた釘を抜き取り、軽く振り下ろしてそれを外した。そして柄だけになった剣をアードルフに渡す。
「それにしても侯爵殿が剣を振るうなんて、慣れないことするもんじゃないですね~」
「うるさいな。言い値で買わんぞ」
「ああ~ごめんなさ~い。ほぉぅらぁ、バッチリですよぉ!サービスで磨いておきますねぇ」
はぁと大きなため息を付いてどっかり音を立てて彼の寝台に腰を掛ける。
「アイナ嬢もちょっとでも休んでおきたまえ。武器の調整が終わったらまた戦闘に……」
エクセルの目に映ったのは人形達が持ってきた武器の中から弓を取り出している愛菜の姿だった。だが、彼女はなんだか曇った表情で弓を見た後に何度か首を捻っている。それを目ざとく見つけたアードルフが剣を磨きながら声をかけた。
「あれ君、弓使うの?」
「あ、はい。ちょっとやってて……でもなんかここにある弓いつもと違う感じがして」
「ふぅん、使いづらい?参考までにどんな弓だったか聞かせてよ」
「うーん、よく分からないんですけど、小さい気がするんですよね」
小さい。その言葉を聞いて考え込んでしまったアードルフにおいおいとエクセルが声を掛ける。ちょうど良かったとアードルフは剣をエクセルに渡し、愛菜の会話の続きに入り込んでしまった。エクセルは呆然と渡された剣と二人を見比べた後、渋々剣を鞘に戻した。
「私の身長くらいだったと思うんです。あと矢ももっと長くてー」
「……思い当たるものはあるが、ちょっとねぇ」
そう言うがアードルフは指を動かして人形を一旦部屋に出し、それを持って来た。その弓矢を見た瞬間、愛菜はそう!と大きな声を出して指さてぴょんぴょん跳ねて喜んだ。
側で見ていたエクセルも何だ何だと見物していたが、弓と矢を手に構えた愛菜の表情と姿勢が変わり周囲の空気も一瞬だが張り詰めたものに変化していた。ただすぐに愛菜の表情は柔和なものに変わり「これだよおじさん!」と嬉しそうにアードルフに言った。
「それ隣の国の古い武器なんだ。年代物だから実用よりは収集品って感じなんだけど」
「でも同じようなものがあるなんて思ってなかったから」
「アイナ嬢」
ちょっとはしゃぎ過ぎたと愛菜はエクセルの声が一段低くなっている事に気が付いた。バツが悪そうに弓を下ろしてアードルフに返そうとしたがエクセルに止められる。それどころかその弓で矢を放ってみろと言い出し、愛菜は何がどういうことなのか理解できず混乱した。
流石に室内だし人の家だしそれはまずいと言うが、当の屋主は大丈夫だよとあっけらかんと言って見せる。
「買ってくれればなんでも良いですよ~ねぇ、侯爵殿」
「だ、そうだアイナ嬢」
「わ、わかりました」
部屋の入口付近まで下がり、愛菜は大きく深呼吸をした。一旦腰を下ろし弦に矢をかけてゆっくり立ち上がり、脚を開いて背筋を伸ばす。
愛菜の弓を構えた姿を見てエクセルもアードルフも「ほう」と声を漏らし、じっと彼女を見つめ続けた。
ゆっくり上げた両腕で矢を引き続け時が止まったような気持ちになった次の瞬間、引いていた手を音もなく離れた。矢は部屋の端にある花瓶に生けられた花を貫いた後、大きな音を立てて壁に突き刺さり部屋中の空気がしんとなる。
愛菜は弓を下ろし腰に手を当てた後、また大きく呼吸をする。
「どう、ですか?」
二人の表情が険しく壁に刺さった矢を見ながらうーんと唸り続けている。不安そうに立ったままの愛菜を忘れてしまった様子でエクセルはしばらくすると俯いて何やらブツブツ独り言を始めてしまう。一方アードルフはその筋に関しては専門でないからと笑ってエクセルの判断を待つような発言をした。
「的が動かなければ撃てるかね」
「え……」
訊いているのか、言い聞かせたのかわからない言葉を言ってエクセルは両手で膝を叩きながら立ち上がった。戸惑う愛菜の上目遣いを見たあと大丈夫だと言って頭にそっと触れながら、的は自分が止めるから愛菜はやりやすいようにすればいいとだけ言ってアードルフにお金を渡す。
愛菜の後ろで金貨の束をもらって興奮したアードルフの声が上がっている。
「いいんですか!?こんなに半分くらいでもいいんじゃないですか!?後で言っても返しませんからね」
「良い。屋敷の修理代込だしな」
「え、どういうことですか……」
自宅に修理が必要な事態が起こることを知らされたアードルフは金貨の束を握ったまま青い顔をしてエクセルに尋ねるが完全に無視される。
「良いかね、アイナ嬢。狙うのはあいつの胸にある魔石だ」
「確か……赤い石が」
それを聞いてよしよしと頷き、一緒に下の階へ向かうように指示を出し、拳を自分の手のひらに当てて気合を入れる姿を見せた。
普段の裾の長い赤い服と違い鎧姿のエクセルを改めてまじまじと見ている愛菜の視線に少し照れながら似合うか尋ねてみた。
「うーん、あんまり」
「ぶっふ!」
素直な感想に隣りにいたアードルフが吹き出した後すぐにまずいと顔を上げて笑ってごまかした。エクセルの顔は怒っているのと泣きそうになっているのとで複雑な表情になっていた。愛菜は下を向いたまま、言いにくそうに言葉を続ける。
「いつものエクセルさんの方が良い」
言い終わった後、急に恥ずかしくなった愛菜は真っ赤な顔をして部屋を急いで出ていった。そそくさと自分を追い越して横切っていく愛菜をぽかんと見た後、満更でもない緩んだ顔を見せて続いて部屋を出るエクセル。
その二人を見て残されたアードルフは腕組みをしてしばらく考えた後、儲けの匂いがする。とつぶやき二人を追って出ていく。
***
愛菜達が合流する一歩手前。足止め班であるセット達も人数で押してきたがジルを抑え込むまではできず、当たる剣先も彼の硬い鱗を擦るだけで大きな傷を負わせることができるほどではない。
戦闘慣れしていないエステルとクラエスの疲労が目に見えてわかるくらいになり、多少焦りだす。
何度剣を振っても素早い動きでほとんどの攻撃はかわされ、数少ない当たりも感触は虚しい。それどころか素早い動きを利用した体術での反撃が迫ってくるため動きが大振りになる剣での攻撃は相性が悪く感じる。
「くっそ……まだかよ」
「閣下も衛兵も来ませんねぇ」
まだ少し余力がある御者と二人であれを相手にするのは無茶がある。
「セット殿、剣の刃がボロボロなんですけど」
「あの鱗のせいで斬ってる感覚ねぇんだよ!」
「情けねぇなぁおっさん!俺の剣は刃こぼれ一つしてねぇぜ!」
「はぁ!?足ガクガクしながら何生意気垂れてんだよ!!」
クラエスからの軽口。まだそこまでの精神的な余力はあるが、身体はそうはいかないのか悲鳴を上げている。
しかし、彼の一言から確かにおかしいと気づく。何度かやってみた攻撃で自分の剣はボロボロなのに、彼の剣は新品のときと同様に艶めいている。明らかに普通の剣ではない。が。
「とはいえ、これ以上斬撃は無意味ですね」
「なら真正面からの突撃じゃぁあ」
盾を構えたままジルに向かって正面衝突を狙って突進。あっさり避けられて床に向かって滑る。
避けたことですきができたジルにエステルが横からみぞおちに向かって拳を叩き込み、畳み掛けるように正拳突きを腹に向かって再度叩き込む。攻撃は効いているようで後ろに投げ出された後、起き上がりながら咳き込み、血を何度か吐いている。
「よっしゃもう一度……」
「そこの騎士、退きたまえ!」
よろけているジルに向かって飛びかかろうとしていたセットに向けられた声。気づいたときにはジルに向かって複数の矢が放たれ、彼の正面、特に中央付近を狙っていくつもの矢が命中している。
「私とて衛兵隊長、無策で貴様とやり合おうとしていたわけではないぞ!ジル=アンブロイド」
「目隠し野郎か。ありがてぇ!」
刺さった矢は身体の中央から逸れたものは彼自身がすぐに引き抜いているが、身体の中央に刺さった矢は他の場所に比べ深く刺さっている。抜こうとすれば矢に細工された返しによって引き抜くたびに更に痛みが増していく。鱗のない部分は普通の人間と同じ。特に腹などの身体中央部分には鱗がなく、彼にとっての急所だ。はじめの攻撃ではまったくなかった流血が矢を抜くたびにあちこちで起こりだし、ジルは悪態をつく。
「どうだ、頭冷えたか」
背後から声をかけられ、血まみれになった身体も気にすることなくゆっくり振り返る。
いけ好かないニヤニヤ顔の男がなんの真似か似合わない鎧を着て立っていた。同時に足元から急激に冷えを感じ、パキパキとした音と一緒に千切れるような痛みが彼の下半身を蝕んでいく。身体から流れていく血を媒介して水分を含んだ液体が徐々に氷と変化し、彼の身体を徐々に徐々に凍らせていく。
「エルメルト、貴様ぁ」
「だから、その呼び方のその記憶はお前のじゃないんだよ。いい加減目を覚ませよな」
「エルメルトぉ……」
腹付近まで氷が広がり、もはや歩くこともできず腕だけを伸ばし恨めしそうに声を上げるジルにストンと何かが落ちてきた。目を落とせば胸元にあった魔石を貫き、胸のくぼみのちょうど真ん中に矢が突き刺さっていた。
上を見上げれば二階に向かうエントランスの手すりから身を乗り出した状態で弓を構える愛菜と、複数人形で彼女を支えているアードルフの姿を確認した。言葉にならないという表情を見せた後、愛菜を見たジルが彼女に手を伸ばした瞬間、全て凍りつく。
頭上まで凍りついた様を見た後は全身ドッと疲れが襲い、エクセルはその場で尻もちをついて座り込んでしまった。
「よう、なんとかなったみてーだな」
セットが差し出す手を掴み、ゆっくり立ち上がったエクセルはそのようだと答える。だが、油断はできないとも一言付け加えた。
その側でクラエスが氷の柱となったジルを物珍しそうに見ている。何かに縋るかのように腕を伸ばした状態で凍っている彼の顔が何となく笑っているように見えて少し背筋が寒くなった。何を見て笑ったのだろうか。
「アイナ!!」
「エステル……心配かけたみたいでごめんね」
「よかった。アイナが戻ってこれてよかった」
感動の再会で抱き合っている愛菜とエステルの様子に意識が飛び、クラエスもそれ以上は考えることをやめてしまった。
見れば涙でお互い顔をボロボロにしている二人に思わず世話焼きの癖が出てしまう。
「お前らすごい顔になってるぞ」
「だっで、グラエズ……」
「だぁあ、もうしょうがねぇなぁ」
エステルの鼻水まで垂れ流しそうな勢いで泣いてる姿に呆れて駆け寄ろうとしたが、足元からの水音で自分の足元が濡れていることに気が付き困惑した。振り返れば氷漬けになったジルから水が広がっている様に見えた為、目を疑ってエクセルを呼ぶ。
「なぁ!なんか水すごいんだけど」
「ああ、触って壊さないでくれたまえよ。出てきたらソイツ面倒だから」
「コレで死んでねぇのかよ」
うんざりした表情でそう言ったエクセルの言葉で、柱の中にいる彼がまだ生きている事実を知らされ、信じられないともう一度氷の柱を見上げる。
すると今度はみしみしと小さなヒビが入り出し、悲鳴に近い声を上げて後ろに下がった。
「その男の腹ん中には火を生成する第二の胃袋みたいなものがあるんだ。身体への負荷が大きいせいで連発はできないが、市街地の一件から時間は空いているから腹の中に火が溜まっているのだろう。だから氷はすぐに溶ける」
「いや待て!出てきたらどーすんだよ」
「出てきたところで魔力も残ってないだろうし、大丈夫だろう」
セットとクラエスに何を呑気なことを言っているんだと詰め寄られるエクセルだが、その表情はジルが生きている事など全く気にもしていない様子だが目の前の氷の柱を見ながらぶつくさこの状況めんどくさいと不平不満を言いながら口を尖らせる。
「もう嫌だ。小さい割に高かった天然魔石は昨日の今日で魔力全部使ってしまったし。これでまた城に帰る日時も延びて怒られる。ああ、アイナ嬢慰めてくれたまえ」
詰め寄る二人から逃げて、ねっとりした動きで背後から愛菜に襲いかかり悲鳴を上げさせている。
だめだこいつ。クラエスとセットはそう結論出し、頭を垂れた。後ろから一際大きなヒビが入る音がしたため真っ青な顔をして二人氷の柱へ顔を向ける。特にひどかったのはジルが伸ばした手のひら付近でだんだんその部分の氷が細かくなっていき、内部から押し込んだのか腕が氷を貫いて飛び出し二人は抱き合って悲鳴を上げた。
氷の欠片と一緒にずるりと床に落ちた身体をゆっくり起こしたジルと目が合う。
「え……」
ジルの顔を見た二人は抱き合ったまま何が起きたのかわからず、ぽつ……と一言「誰?」とつぶやく。
そうなるのも無理はなかった。先ほどまで居た端整な顔立ちの青年は姿を消し、その元青年だったジルの顔には深いシワが刻まれ、おそらくエクセルと同じくらいの年相応な初老の男の顔へと変貌していたのである。
溶けた氷の水で濡れた髪も先程の艶のあった毛先から色あせた痛々しい状態に変化し、荒い吐息と一緒に発せられる声も先程とは違い瑞々しさを失った枯れた声色に変わり果てていた。
呆気に取られた一同の様子に気付いたジルはまさかと震えながら自分の手を見る。皺だらけの手に愕然とした後、その手でレース状の胸飾りを弄り中央にあったはずの魔石が無くなっていることに気づく。
「わ、私の……顔が……」
「年相応な姿になって良いじゃないか」
「うるさい……うるさいうるさいうるさい!!!」
魔力が無くなったことで今までのように若い肉体の状態で保てなくなっている事に絶望したジルが発した言葉に対し、エクセルは彼本来の姿である初老の男を指差し鼻で笑う。
カチンときたジルの表情が一瞬だけ無になり、すぐに頭に血が上ったのか売り言葉に買い言葉でエクセルに向かって低レベルな罵声を浴びせている。
どうしてこの二人は言い合いになるとこんなにも精神年齢が下がるのだろうか。周囲の人間は首をかしげるばかりだ。
「なぁ、お前ら空気読めよ」
『あ゛あん!?』
キィーキィー声を張り上げて言い争いをする間に周りを囲むように衛兵が集まっている事すらも気付いていない二人に対し、仲裁する気は毛頭ないが仕方なく間に入って不毛なキャットファイトを止める騎士二人。に対し止められた馬鹿二人は声を揃えて囲っている全員に対しメンチ切って彼らを散らせてしまう。
「というかお前!勝手に人の国に入ってきて何の用だったんだよ!」
「貴様に用はない」
「んなことはわかっとるわ!!」
「神降ろしで使う器が欲しかっただけだ。二回もこの娘に邪魔されてしまったがな」
鋭い視線を向けられ愛菜はまた連れて行かれるのではないかという恐怖が襲い、側にいたエステルの手を掴んで小刻みに震える。
自分の言う器の候補であったエステルに睨み返され、自分の思う通りに動かないこの状況にため息が漏れる。募るイライラをもう一度目の前にいる男に向けてはみるが、敵国同士で犬猿の仲であり今も敵とも言えるこの男に自分の事をべらべら喋るわけにも行かず、ジルは両口端をぐっと下げて言葉を飲み込んだ。
「まぁいい。まだ代わりはある」
そう言って黒いベストのポケットから青い宝石を取り出し床に落とすとそれを足で踏み潰した。同時に宝石と同じ色をした方陣が発生し「しまった」とエクセルが焦った声を出した。それを見てジルは鼻で笑い返し、少し余裕の出た不敵な笑みを見せながらゆっくり愛菜を見つめる。
「また迎えに来る」
そう言いながら愛菜に背を向けて歩き出すように方陣から脚を出した瞬間、彼の姿は消えてしまった。
逃げるジルを捕まえようとしていたエクセルが彼が消えてしまったせいでバランスを崩して倒れている様子は視界に入っては居るはずだが、愛菜は彼から言われた言葉が引っかかりずっと彼がいなくなった場所を見つめ続けている。今までの出来事からなにか大切なことを忘れてしまっているような気とそれと彼が関係しているのではないかという不安がよぎる。
彼についていかなかったことがいけないことのような気がしてならなかった。
「アイナ、大丈夫?」
ただ、隣りにいたエステルの心配した顔を見て気持ちは和らぎ必死に笑顔を作って頷いた。しかし眼の前に居るエクセルが膝を抱え三角座りして宙をぼんやり見上げている姿を見て大丈夫ではないと思った。愛菜達の方向を向いているのにまったく二人を見ていないし、絡んでも来ない。
逃げたジルがまだ街にいないか見回りのため屋敷から出ていく衛兵達に指示出しが終わったスコルが戻ってきた。駆け寄ったあと、変わり果てた姿のエクセルに対しどうかしたのかと状況把握に乏しい問いかけをして来たためセットは呆れる。
「いやどう考えても殆どお前ぇのせいだろ」
「そーだよ。そっちの起こした問題の尻拭いで閣下は帰ったらめちゃくちゃ怒られるんだよ」
険悪な表情で騎士二人に睨まれるスコルは少し黙った後、言うべきか言わないべきかと何度か口を開けたり閉じたりした後、意を決してエクセルを呼ぶが返事がない。
「急ぎなら城に連絡取れますよ」
「っなんで早く言わないこの馬鹿者は!!」
跳ぶように立ち上がり、血走った目で食いついてきた。
「私の能力依存で行う方法なので正規の連絡方法じゃないですし」
「どうすればいい!?」
「城で総司令閣下と部屋でお会いしたことがあります。その部屋の鏡とここに鏡があれば私の目の能力で繋ぐ事ができます」
「え、総司令閣下って……」
ちょっと待ってとエクセルは急に顔色が曇って頭を抱える。どうもつながる部屋にいる総司令閣下なる人物が問題の様子で、話をしたくなさそうな独り言をぼやぼやつぶやいた後、胃の当たりの腹部を押さえながら「仕事部屋?自室?」とつながる鏡のある部屋を確認する。
スコルはなんで仕事で会いに行くしか用のない自分が彼の自室に行くんだとツッコミをいれるが、エクセルは行っていないならそれでいいとすごく嬉しそうに頷いた。
「ソイツの自室何があんの」
考えただけで吐き気がするというエクセルの言葉から妙に興味が出てしまったセットの問いかけはあっさり無視された。よほど言いたくないらしい。
ある程度情報を持っている御者がセットにあれこれ話題を提供し始めたためいつの間にかエクセルの上司のゴシップ話に花が咲きだす騎士組二名。常に女が隣りにいるのが平常運転な人だとか。連れてる女はめっちゃ美人しかいないとか。あれ絶対セフレ!とかで盛り上がり、隣のエクセルだけでなく愛菜達もドン引きする下世話な話が踊りに踊っている。
「他人事だと思ってるがお前んとこの上司は私と一緒にいることがバレたら説教じゃすまんのだぞ分かっているのか」
『…………』
下品な笑いを上げていた二人がその言葉で黙った後、眉を下げてお互い死んだ魚の眼になって見つめ合う。
「どうしたのあの二人」
「よくわかんないけど、多分、社会人は大変なんだよ」
「シャカイジンってなんだ??」
急に引っ込んだように静かになった騎士を心配するエステルに対し、ついつい自分の国でしか通じない言葉でフォローを入れてしまった愛菜に容赦なくクラエスがツッコミを入れる。こっちも能天気だ。
この状況にイライラしてきたのは一行とは部外者であるスコル衛兵隊長である。
「急ぎでは?」
「あっごめんね。つないでもらえる」
無表情ながら引きつりそうな顔を必死に堪えている事を声色で察知したエクセルは素直に謝って鏡の前に立つ。
二人並んで鏡を見つめるが当然何の変哲もない全身用の大きな鏡だが、エクセルの隣りに立つスコルが鏡に向かい手をかざし、一言二言呪文を述べた後に鏡が水面のようにぐらつき出す。
「遠い場所で魔力と集中が異常に必要ですので会話ができそうにないです。総司令閣下にはよろしくお伝えください」
「わかった。アレ様!聞こえますか!アレ様!!」
エクセルは次第に鮮明になっていく鏡の向こう側に向かって上司の名前と応答するように呼びかけた。そしてようやく映った鏡にはせっせと鏡で乱れた長い前髪を整える中年の男がドのアップで映り、思わず膝から崩れ落ちる。流石に喋れないと言っていたスコルもこれに対してエクセルへいいかげんにしろとキレる。
「うっっわ、鏡に超イケてる俺の顔じゃなくてエクセルの顔が映ってる。なにこれ」
「アレ様!今港からこの鏡と魔術を使って通信しています。緊急な上に長いこと喋れないためこのままお聞き下さい!!」
エクセルの上司と聞くと少し興味がある愛菜達が少し離れた背後から様子を伺っている。鏡に映っているエクセルの上司は左右非対称の変わった前髪の中年男性でエクセルと同じ赤い服を着込んでいた。右目にある泣きぼくろが妙に印象的かつ色気を感じる男だった。
愛菜は珍しいものを見たように口を開けたまま、あれがエクセルの上司かと妙な納得をしていた。
「ひとまず事態は落ち着きましたが港街で隣国の宮廷魔術師が騒ぎを起こしています。出入りの情報もないため不法な入国は明らか現在行方不明。城に向かう危険性もありますので警備の強化をして下さい」
「そんな事よりお前いつ帰ってくるんだ。兄貴がめちゃくちゃ機嫌悪くなって八つ当たりで超迷惑なんだけど」
「あー!!人の心配をそんな事って!!!私だって今すぐ帰りたいですよ!」
珍しく真剣で口調も早口になり喋り続けていたエクセルだったが、当の上司は髪を櫛でとかしながらあまり彼の話を聞いているようには見えない状態で早く帰るよう全く違う話題を返してきた。
重大な問題が発生しているのにも関わらず、緊張感など微塵も感じられない反応を鏡越しでされてキレたエクセルが鏡を上司に見立てて両手で掴み大きく揺さぶり始めた。もちろん鏡を揺すったところであちら側になにかある訳はない。
髪が決まったのか、斜め45度で傾けたキメ顔でポーズを取り始め、エクセルに対しイケてるか訊いてくる。それを後ろで見ていた愛菜達はエクセルの上司も変な人物であることを悟り、黙って見守る事に徹した。関わったら凄く面倒そうだ。
「まだ日が登ったばっかだろ。今からそこ出たら一日ぐらいで着くはずだぞ」
「……が、無いんです」
早く帰るよう急かされ、正論まで言われるがエクセルは急に声が小さな声で帰れない理由を伝える。
その時の顔はものすごく不服そうというよりも、恥ずかしそうという方がしっくり来る表情だった。
「魔力がもうありません」
「はぁぁあ!?」
「お恥ずかしながら、もう術を使う余力が今の私にはありません。この状態で賊にでもあったら……」
「お前でかい天然魔石二つも耳に着けて城出て行っただろう!?」
「それは、話せば長くなるのですが、両方カミル村で使いました」
鏡の向こうで男は口が開いたまま固まってしまった。
耳につけていた天然魔石という言葉を聞いて、カミル村でエクセルが着けていた赤い宝石のピアスを外していた事を一同が思い出した。
「おじさん」
「はいはい?」
愛菜はアードルフを呼び、その天然魔石がどのくらいの価値があるのか訊いてみた。
「そうですねぇ。耳飾りに出来る大きさはそこそこですから……金貨の棒が何本もいりますねぇ」
「金貨の棒って凄いの?」
イマイチお金の価値がわからない愛菜が困ってエステルや他の者に何気なく聞いてみたが、みんな両目をめいいっぱい広げて首をひたすら縦に振っている。異様な光景に愛菜は少し引き気味でアードルフに礼を言う。
それと同じくらいに意識を取り戻したエクセルの上司が「わかった」と声を一段下げて答えた。
「お前は今日はそっちの残った問題を片付けて明日日の出と一緒に出ろ。それなら夜には着くだろう?問題が起きた処分は一旦保留でそっちの兵の指揮はお前と隊長達に任せる。今から調査員を送るから正確な状況が分かり次第、後日正式な対策なり処分行う」
「ああ、ありがとうございます」
彼の指示に安堵した様子でエクセルは膝をついて頭を下げる。
「ところでエクセル」
「はっ、なんでしょうアレ様」
「そっちは何やら楽しそうだなぁ」
「は……」
ひとまず安心と思っていたが急に上司の声色が変わったためエクセルが鏡に向けて顔を上げる。すると彼はエクセルよりも遠い場所に視線をやり、ばちんとウインクをした姿が見え、まさかと後ろを見た。
ぽかんとした愛菜とエステルと目が合い男は手を口に当て音を立てて投げキッスをした。その後にこにこご機嫌に手を振って見せる。
「スコル君もういいよ!!」
叫びに近いエクセルの声で鏡に写った男の姿が一瞬で消えた。
彼の姿が消えて心底安心した深い溜め息をした後、自分の拳が膝を付いて呪文を唱え続けていたスコルの頭上に乗っていた為、無意識に彼を殴っていたことを理解した。謝ってみたが気にしてないふうに冷静な返事をしながら怒りで片目が痙攣しているためもう一度謝っておいた。
「噂に違わぬ好色家のようですね」
「噂こっちでも広がってるのか。最悪……」
「これからどう致しましょうか。貴方が指揮するよう要請がありましたが」
「上から正式な命令が来るまで君は謹慎。とはいえ衛兵の運営は通常どおり行い暫く大人しくして居てくれたまえ。以上だ」
自分が迷惑かけている自覚もあるが、エクセルの脱力しきりやる気の無い命令に呆れて開いた口が塞がらない。
それだけですか!?と背中を向けたスコルから不平不満を言われ続けているが無視してアードルフに向かって歩き、部屋を貸してほしいと持ちかけた。今から宿を取る事も出来るがこれ以上の費用がかさむ事が辛かった。
「構いませんよ~。客室も空いてますし」
ゆるい返事で承諾するアードルフだったがスコルから反対し、エクセルとこれ以上今回の件でアードルフ自身が話す事はないだろうと詰め寄る。
隣の国から不法に入国した暴力的な男から仕事を依頼され、断るに断れなかった。そうだろう。と、今回の事件でアードルフが陥っていた立場を説明したスコルだったが目の前にいる二人の表情は少し冷ややかだった。
うっすら笑みを浮かべたアードルフは必死になる彼の肩に手を置き落ち着くよう言い聞かせる。その時のやり取りはまるで彼らに上下の関係がかるかのよう。本来国に従事する身であるスコルだが、今はまるで領主である彼の従者であるかのような一見不思議な光景だ。
「スコル、今回の件はお前にも私にも問題があった。それは間違いのない事実なんだよ」
「だが!この男と話せばお前が立場が悪くなる事しか聞く耳を持たない!!」
「いいか、スコル。彼は国に仕えてそういう仕事をしているだけだ。俺だって国に不満が無いわけではない。だがそれを国に仕えるだけの彼に言っても意味はないし、その不満を言い訳に人の命を冒涜することは許されないんだよ」
「先に命を冒涜したのはコイツ等だろうが!あの戦争がなければお前は一人ぼっちで領主なんかになっていないし、俺だって衛兵になんてなっていない!!」
一層大きくになったスコルの声に鼻と涙の音が混ざり、最後の方は何を言ったのか聞き取れないくらいの取り乱し様だった。怒り任せに指をエクセルに突きつけ今まで溜まっていた鬱憤を晴らすように全て叫び、最後は肩を上下させる息遣いが止まらずエントランス中に響く。
圧倒されてその様子を静かに見守っていた愛菜たちだったが、様子がおかしいことに気づいた愛菜が駆け出す。
スコルに指を指されても全く反応しないエクセルの身体が少しグラつき、後ろに倒れそうになったところでスコルが異変に気が付き涙でくしゃくしゃになった顔のまま条件反射で彼の腕を掴んで止めた。
「閣下!?」
「あ、まずい。魔力の使い過ぎが体に出ちゃったかな」
駆け寄った愛菜がエクセルを揺すろうと腕に手をやるがスコルに症状が悪化すると怒鳴られ手を引っ込めた。
「エクセルさん……」
「女の子を怒鳴るな!いま床用意したからそのまま運べ!」
「くそ、なんで俺が……」
「所属が多少違っても仕事の上司だろうが。まだ衛兵なんだから今は働け」
こんな時でもぐずぐず文句を垂れるスコルに最もな説教をし、すぐに寝かすことのできる部屋へと急ぐよう彼の尻を叩く。先に彼を活かせた後、アードルフは愛菜の手を握りついてくるよう彼女を引張って行く。愛菜も混乱し涙目だが、後ろではエステル達も忙しい状況の変化に軽いパニック状態でぞろぞろついてきている。
「魔力低下は自然治癒しか方法がないから、とりあえず促進する薬草撒いとくね」
「俺はとりあえず職場に戻る」
「ああ。まぁ今後のことはまた処分が決まってから今度ゆっくり話そうな」
黙ったまま小さく頷き、スコルは部屋を出ていった。心なしか表情は少し安堵したようにも見えたがどうなのだろうか。
不安そうに彼の後を追うように出口を見続けていた愛菜にアードルフがごめんねと言いながら薬草をぱらぱらエクセルの寝るベッドにばら撒いている。
今度はその胡散臭そうかつ過剰とも言える量の薬草が心配で顔をしかめる愛菜だった。
「これ終わったら皆さんの部屋も用意するんで少し待っていてくださいね~」
『あ、お構いなく~』
ゆるーいやり取りの後、ばら撒いている薬草を見ながらいまいち効果のわからないそれに疑問を持ったクラエスがずばりと聞く。
それ効くの?
エステルも同じように魔力が不足していて寝込んでいたがそんなことしなかったというと、彼は笑いながら大丈夫と説明する。
「今の侯爵殿は働きすぎて倒れた状態に近いので寝ればなんとかなります。急ぎみたいなんでちょっとでも回復が早くなるようにこれを撒いてあげてるだけですよ~。香りに魔力回復を促進する成分があるんですけど効果は緩やかなので大量に撒いてます」
「結構扱い雑だな」
「はいっ終わり。じゃぁ他の部屋も用意するので失礼しますね」
それだけしていれば大丈夫という事なのだろうと理解はでき、急に安心した一行はこれからどうするかという話題に切り替わり始めた。
だいぶ激しい戦闘だったため自分たちも確かに眠いと感じる。だがしかしそれと同時に動きすぎて燃料が切れたかのごとく腹が空きまくっている。と一行は何も言わず腹の虫を鳴らした。
「どーすんだよ。アイツ寝てたら食事する金も出せないぞ」
「いやぁ確かに参りましたねぇ」
もう一度お腹の音を鳴らす男衆三人。お互いの顔を見合わせた後。
「お前、着替えた後のアイツの服どうした」
「あ、そこに畳んでおきましたよ」
「一枚でも懐に入ってないか!?おい坊主!ちょっと見てこい」
「なんで俺なんだよもー」
御者がさっきまで着ていたエクセルの制服をごそごそ探るクラエスが急にあっと声を上げて手にした金色の硬貨を出した。
神様、メリア様!ありがとう!!と腹ペコ騎士二人が天を仰いで感謝の祈りを信じても居ない神様に捧げる。ちなみに言うとその神様のせいで今寝ている男がこんな状態になった原因でもあるのだが、まぁそんなことは空腹には勝てない。
「お、金貨一枚あったぜ」
「よし!何食べたい?嬢ちゃん」
「ん~せっかく港に来たんだしお魚食べたいよね、クラエス」
「そーだな。まぁ酒場に言ったら酒も呑めるし食いもんも何でもあるんじゃねーの」
「じゃぁ決定~」
一同腕を掲げていざ酒場へと出かける支度をしだす中、ずっとエクセルの側に座ったままの愛菜を見てエステルが一緒に行かなくていいのかと声を掛ける。顔を上げた愛菜の表情は笑顔を見せているが少しつらそうで少し胸が痛んだ。
愛菜はすぐに目が覚めるかもしれないからどうしても側に居たいと行って部屋に残る事を希望した。エステルもその気持を汲んでお土産を持って帰ってくると伝えて部屋を出る。部屋の扉を締める時少し不安そうに愛菜の顔を覗いてみた。
エクセルの眠っているベッドの隣に椅子を置いてずっとそこに座ったまま彼を見つめ続けている。今にも泣き出しそうな張り詰めた空気で一人にしていいのか迷ったが、彼女自身が一人になることを選んだのだから無理に干渉してはいけないとエステルは重たい扉を閉じた。
扉の閉じる音とみんなの声がどんどん遠く小さくなっていくと愛菜はようやくと大きなため息をついた。
「何やってんだろ……私……」
急に一人になって誘ってくれたエステルに対し罪悪感がどっと押し寄せてきた。素直にお腹空いたからと一緒についていけばいいのにと心の中でつぶやいた後、目の前で横になっているエクセルの顔を見てぞくりと背筋に寒気が走る。
「私……前にも……こんな事あったような……」
急に眠っているエクセルの姿がどこかで見たことあるような光景に見えた。ただ、それを思い出すともっと怖い気持ちになるような気がして愛菜は頭を抱えてベッドに顔を突っ伏し泣き出した。
「やだ……エクセルさんまで起きなくなっちゃう……もう嫌だこんなの……」
何か思い出せているような言葉を口にするが、愛菜は自分が言っている言葉が理解できなかった。ただひたすら湧き上がってくる気持ちを口にするがどうしてこんな思いをしているのか全く心当たりがなく混乱して余計に涙が止まらなくなる。
顔をあげると涙で滲んだ視界が今まで居た客間から急に見覚えのある景色に変わって見えた。真っ白い壁紙に真っ白いパイプベッドに真っ白いシーツ。ぐるぐる廻るように見えるのは愛菜が混乱して視線が定まっていないからなのか、そういう幻覚なのか。
エクセルの周りに撒かれた薬草の匂いが消毒液のような匂いに変わり、ベッドには点滴や心電図のモニターと今自分がいる世界には存在しないはずの物が見えて愛菜は驚いて立ち上がった。たくさんの医療機器に繋がれたその先に視線が行くが、視界が悪く大きく振れてそこに横になってる人物が全く見えない。愛菜はうまく見えないながらも必死にベッドによじ登り、横になっているその顔を見ようとじりじりと近づいていく。一瞬名前を呼んだ気がするがそれはエクセルの名前ではなかった。
すると愛菜の声に反応したのか横になっている人物から手を握られ、愛菜は凄く喜んだ。起きた!目を覚ました!彼が意識を取り戻したことがとてもとても嬉しかった。
だが次の瞬間、目の前の彼の姿を見て愕然とした。
自分の両手を掴んでいるのは虚ろな目をしたエクセルと彼の背後から伸びている巨大な白い蛇だった。
「ひぃっ」
『駄目だよ。思い出しちゃ』
「ななな、だ誰」
『帰りたくなっちゃった?駄目だよ約束したでしょ』
「なな何、約束って何」
虚ろな目をしたエクセルの口が言葉通りに動いているが、実際には頭の中で二重の声が響いているような変な声だ。混乱した愛菜は真っ青な顔をしてエクセルの手を振りほどこうとするがもがけばもがくほど力が強くなり、腕から締め上げる音がしているのがわかった。
白い蛇は三つある真っ赤な目を細めて頭を愛菜の頬に擦り寄せてきた。鱗のざらついた感触で背筋が凍りつく。巨大な蛇の細長い舌が愛菜の頬を何度もちらちらと撫で回し、頭に直接響く不思議な声でよしよしとなだめる甘い言葉を囁いてくる。
『この姿も気に入らないか』
その言葉でようやくあの夢を思い出した。
蛇はズルズルと音を立ててエクセルの背後に下がり、虚ろ目だったエクセルがゆっくりまばたきをした後、真っ赤に濁った目を広げ愛菜に迫ってきた。うっすら笑った顔が普段のエクセルとは違った質の笑みで目の前にいる人物が別物で有ることが本能的にわかり小さな悲鳴を上げて両目を閉じる。
「本当にすまない」
「え……?」
急にいつものエクセルの声が聞こえ、愛菜は身体を起こす。
目の前ではベッドから身体を起こしたエクセルが眉を下げた顔で自分の頭をなでていた。ようやくここで自分がベッドに突っ伏して眠っていたことに気づく。
呆然と自分を見つめ続ける愛菜の様子がおかしいとエクセルは戸惑った表情を見せながら愛菜の名前を呼んだ。それがいつもどおりの呼び方で、間違いなく彼がエクセルだとわかった瞬間、安心して涙が溢れた。
「エクセルさん……!」
「わっ!?」
「良かった。起きなくなっちゃうかと思った」
安心したと言葉を呟くが、愛菜はもっと怖い思いをしたような気がするのにあの蛇やおかしな目をしたエクセルの事を思い出せなくなっていた。
とにかく目が覚めてよかったとエクセルに抱きつき、涙を拭うように彼の胸に頬を寄せる。
ずいぶん大げさに心配されていたことに驚き、呆けた顔で愛菜を見た後、ゆっくり彼女の頭を撫でた。今まで何度か撫でたせいか角の無い感触も気にならなくなってしまったと感慨深く笑みを浮かべた後、顔をあげる。
目の前にしまったと顔を歪めたセットが音を立てないように部屋に入ってきている最中だった為エクセルは硬直する。セットは音を出すなという動作を見せた後、持ってきた紙袋に食べる物を入れていると伝え、そろそろ忍び足で部屋を出て行った。
普段無気力な態度を取っていた彼が気を使っていた事に気付き、可笑しくて思わず笑いが漏れた。泣いている自分とは対象的に笑っているエクセルが不思議で愛菜は顔を上げた。
「ああ、すまない。心配してくれたのだね、ありがとう」
「!?」
頬に触れようとした時、エクセルの額の眼が笑うように歪んだ瞬間を見てしまい、愛菜は彼の手を避けてしまう。怯えた表情でじっと額を見る愛菜の姿にエクセルは何か感じ取り、にっこり微笑みかけて頭を撫でた後、手を引っ込めてベッドから離れた。
ベッドから出て気がついたが体型にピッタリ合わせた黒い肌着だけの状態だった。そういえば着ていたいつ甲冑を外したのだろうかと気付く。腰掛けの椅子に掛けられた自分の制服を見つけたエクセルは全身着ているが流石に女の子といる部屋で肌着姿はいけないと急いで服を着ようとする。
が、もたついてうまく着れず時々辛そうなうめき声が漏れている。
エクセルは日頃、朝の目覚めが悪ことを言い訳に着替えを自室の侍女にさせていたことを後悔していた。自分の服の着方がよくわかない。今まで城下の外に出ることなんて稀だったし、出たとしても短期間で着替えず寝たりしていた。もちろん着替え方がわからないから。
いい歳した男が、中途半端に衣服を身に着けた状態で頭を抱えた。
「もうっ!信じられないです!!」
愛菜は服を背中で固定するための金具を掛け合わせながら悲鳴のような声を上げた。背中からぷりぷり怒られ、申し訳なさそうに小さくなったエクセルは手で顔を隠し、だからごめんて言ってるでしょと情けない言葉を漏らしている。
その後、自分で長靴を履き腰に巻いている外套を着ける手伝いも要請。愛菜も諦めた様子で渡された革の紐を受け取り、それをエクセルの腰に巻いた外套の上をぐるぐる巻き付けていく。
「そういえば他の衛兵の人ってこの腰巻き着けてないですけど何か違うんですか?」
「ああ、よく気づいたね。これは規定のものじゃなくて私が好き好んで身につけているんだよ」
「ふぅん。魔術士だからマントつけるの?」
「いや、これは私が由緒正しい家の生まれと誇示するためのものだよ。この国ではあまりこういう事はしないのだがね。私の師匠である人が生まれた国はこうやって自分の出生を表現する華やかな国なんだよ」
「エクセルさんにも先生がいるんだ」
「ああ。知識量も魔力も私では全く勝てないすごい人でね。それなのにあちこちに首を突っ込んで困った人だよ」
気がつけば長い時間、話をしていた。愛菜が次は次はと目を輝かせて聞いてくるものだからエクセルも調子に乗って自分の知識や昔話を披露する。
セットが持ってきたパンに肉を挟んだ軽食を二人並んで頬張りながら、エクセルがむかし暮らしていた学校のような場所の話を聞いた。愛菜を拐ったジルもその場所で出会い暫く一緒に生活していたという。
「私がアイナ嬢くらいの歳の頃かな……色々あってね。前国王陛下からのご厚意で国境にあるその施設に預けられたんだ。その施設の所有者が隣国の凄く偉い人で、その流れでその人が私の師匠になったんだ」
「色々って?」
「いや、実は何があったのかよく覚えて居ないんだ。数年そこでの生活を終えて国に戻ってきたら家族は皆死んだと伝えられてそれからずっと一人さ」
曇った顔をしたエクセルをじっと見つめて愛菜は聞いてはいけない事を聞いてしまったのだろうかと悩んだ。少し暗い話にうつむきがちだった顔をを上げて愛菜はにこっと笑顔をエクセルに向けた。
「じゃぁ私と同じ記憶喪失ですね」
それだけ言うと残りのパンを口に詰め込んで牛乳をごくごく流し込む。エクセルはそのリスのような小動物感ある少女をじっと見つめながら何度も先程の言葉を頭の中で繰り返し再生した。繰り返すたびに横に座る少女が本気で愛おしく思い出し、体の内部から物凄い熱量が発生しているのがわかったくらいだ。
最後のパン一欠片を口に入れ、愛菜を呼んだ後、エクセルは無言で彼女の両手を握って目線を合わせる。どんどん顔を近づけるが愛菜が嫌がる様子はなく、少し恥ずかしそうに目線を反らして顔を赤くした。
「顔、ち、近いですよ。なんですか急に」
「今すぐ、伽がしたい」
流石に節操なさすぎだと思ったが愛菜に拒絶反応はなかった。
しかし。
「トギって何するんですか?」
少女の困った顔でエクセルは手をそっと放し、再び頭を抱えた。
これを言葉で説明しないといけないのかと絶望した。どこから話せばいいのかもさることながら、その行為自体をわざわざ一から十まで言葉にすることもこっ恥ずかしいし、想像上の自分がなんだか滑稽だと感じた。そしてそれを聞いてこの目の前の純朴そのものの少女の顔がみるみる豹変していくことも簡単に想像できる。
むしろこういう反応しているところが好きなのだから変な知識を彼女に与えるのも嫌だ。エクセルは悩んでいるうちにトギがしたいという気持ちは引っ込んでしまっていた。
「伽というのはだね~。ほらあれだ、あれ」
「あれ」
「言うだろう~。お、お伽話?夜寝る前とかにお話するやつ~」
「???今してません???」
「…………」
ごもっともです。エクセルはそう言って負けを認めた。
「そういえばまだ残っていた仕事があったんだったな」
「なんですか急に!さっきの話、嘘なんじゃないですか!?」
「嘘は言ってない!本当に!!けどホントのところ話すとアイナ嬢が純粋無垢な少女じゃなくなってしまうしぃ」
「なんですかそれ!ちょっと逃げないでくださいよ!エクセルさんの馬鹿ぁ!!」
耐えきれなくなって部屋を逃げるように出た。扉を締めた瞬間ドンッと音と衝撃があり愛菜が怒って何か投げらたようだ。そのまま中に居たら自分にあたっていたのだろうと思うと恐い。エクセルはそそくさとその場を逃げた。
すぐに愛菜もドアを開けてエクセルの名前を叫びなが彼を探すように部屋から出て屋敷を周ったが、頭が冷えた頃には自分がどこを走っているのかわからなくなり、しまったと足を止めた。
先程から同じような廊下を真っすぐ行ったり右に曲がったり左に曲がったりで全く景色に変化がない。時々扉のない部屋を横切るが、本が置かれていたり椅子がおいてあったりするだけで誰も居ない。これだけ歩いて広いお屋敷なのに誰も居ないくらいに人と会わない事が不思議に思えた。
「この扉」
見覚えのある禍々しい扉だ。入った時感じた強烈な臭いを思い出し、胃がぐっと持ち上がる。
中から声が聞こえるため誰か居るのはわかったのだが、入る勇気が出ない。
「うーでもさっきの場所わからないし」
重たい扉をひっぱり開けた。部屋の中は変わらずきれいな作業場が広がっていた。変な臭いは相変わらずしているが、始めてきたときよりは幾分増しになっていた。少し先程食べたパンが戻ったあと引っ込んだ。
部屋に入って気がついたのはあの人形が元の位置にいることだ。胸元に穴が空いていて直視したくない状態で首を傾げている。愛菜はその人形にゆっくり近づいていく。じっと見つめても彼女は何もしゃべらないし、動く気配もない。生気のない両目からあの時のように喋って動く姿が嘘のようだ。今の彼女は確かに、どう見ても人形だった。
けど、元は人間。
「うっ」
また吐き気がした。
何度か咳き込んでいると背中をぽんぽんと軽く叩かれ、なんだろうと振り返る。自分を見下ろし無表情で自分の背中を撫でてくれている女の子がいた。瞬間、アードルフの連れていた人形だとピンとくる。
「奥におじさんがいるの?」
「……」
立ち上がって部屋の奥に行こうとすると人形の女の子は首を振って奥の部屋に行かせないよう進路方向を立ち塞ぐ。
でも何か話しをしている声がするし、誰か考えれば明らかにこの部屋の持ち主しか考えられない。不審に思った愛菜は諦めたように見せかけて奥の部屋には行かず作業部屋をぐるぐる見て回りだした。
作業台付近に大きな包丁のような刃物があったため「凄い」とつぶやき持ってみた。すると駄目だと言わんばかりに人形は刃物を優しく愛菜から取り上げ片付ける。どうやら彼女はこの部屋を片付けたりするように動いているようだった。
時々彼女の両手足や首元などに糸のようなものがキラキラ光って見え、あれで動いている事をなんとなく理解した。愛菜はもう一度作業台を探り、引き出しを見付け、中からかなり大きめのハサミを発見した。
何に使っているのかは深く考えず、愛菜は自分の後ろにハサミを隠して部屋を片付けている人形の女の子に近付く。近付いてくる愛菜に気づいた人形が振り返り可愛らしく首をかしげた瞬間、愛菜は持っていたハサミで彼女の上から伸びている糸をちょきんと切ってしまった。
その瞬間、本当に糸が切れた人形のように女の子は床にばらばらと崩れ、生きている人間ではありえない形で床に倒れ動かなくなってしまった。
愛菜は糸を切った後が想像以上に人形そのものな動きだったため暫く硬直してしまう。なんだか悪ことをしてしまった気分だ。
「おじさん……」
作業部屋の奥の部屋は少し狭く、本棚や書類が積まれた机など書斎と思われる様子の部屋だった。目の前の長椅子の背もたれで全ては見えないが上半身裸になっているのがわかるアードルフが大量の汗を流し肩を揺らて冷たい目線をこちらに向けてきた。
暫く彼の息をする音しか聞こえなくて、愛菜もどうしていいのかわからず、お互い睨み合っているに近い状態で硬直状態が続いていたが、沈黙を破ったのはアードルフだった。
「そんな目で見るなよ」
今までの穏やかそうな雰囲気だった彼とは違い、冷たい言葉が投げられ、怖くてすぐに勝手に部屋に入った事を謝罪する。
愛菜の泣きそうな顔を見た後はバツが悪そうに顔を歪ませ、ため息を付いた。右手をひらひら振って見せた後、長椅子から身体を起こした人形が顔を出し、そのままスタスタと愛菜の横を通って部屋の外に出て行った。
振り返って見れば先ほどの人形を起こした後、落ちている刃物を拾って元の位置に戻したり、先程の人形の代わりに片付けを始めだしていた。
アードルフは大きなあくびをした後、どうしたのかと愛菜に尋ねる。
「お屋敷広すぎて迷って……見覚えある部屋だったのと声が聞こえたから」
「何してたか聞いてたの?」
「いや、誰かいるなーってくらいにしか」
「そう、よかったね」
何が良かったのかはよくわからないが、彼の声色も徐々に穏やかになっているため少し安心した。
靴の紐を締め直した後、立ち上がり下半身の下着をベルトで留め、長椅子に掛けてあった上着を肩に羽織ったあと座るかと尋ねる。愛菜はなんとなくその椅子に座りたくないと断った。アードルフは「だろうね」と鼻で笑った。
「折角侯爵殿が助けてくれて助かったのに、またこんなところに一人で来るのは感心しないね。しかも部屋の前に誰も入れないように一体置いていたのにどうしたの」
「えっと、ごめんなさい。ハサミで切っちゃいました」
「ブッ!!」
のどが渇いたと汗を拭いながら自分で用意したグラスに水を注いで喉に流していた途中吹き出す。
「ハサミで切ったぁ!?」
「……ごめんなさい」
一際高い声で叫んだあと咳き込むアードルフ。何てことしてくれるんだと呟いたあと、人形を操るのにあの糸がどれほど重要かと、どれほどあの糸を作るのに時間をかけ手間を掛けるのかを懇懇と説教をする。なんだかよくわからないが彼にとって凄い事をしてしまったのだと理解し、愛菜はうなだれながら何度もごめんなさいと言い続ける。
今、目の前の彼は人形のことについてスイッチが入ったようでずっと早口で人形創作の熱を語り続けている。最初こそ罪悪感から話を聞いていたがどうにも長過ぎることと早口で何言ってるかわからず最後はつまらなそうに髪をいじりながら聞く始末だった。
「わかったぁ!?」
「あっはい」
全く分かってないが反射で返事してしまった。
「ねぇ、おじさんはどうしてそんなに一生懸命人形を作ってるの」
「……その前にこっちの質問に答えてくれたら話してあげるよ」
アードルフは俯いた状態で表情をこちらに見せないように話しかける。気のせいかもしれないが口元が笑っているような気がして少し背筋が寒い。
「彼等を選ばなくて後悔していないかい」
「後悔?」
「彼等が君を連れていきたいという事は、君が少なからず私と同じ考えを少しでも持っている可能性があるということさ。新しい世界を創ってもう一度一からやり直したいと思っていたんじゃないのかってね」
ゆっくり顔を上げて目の前の少女を見たが、アードルフの言っている事があまり良くわかっていない様子で戸惑い、眉を下げたままオロオロとした反応をしていた。緊張感のない子だなと諦めた様子でありがとうともう良いよと止めに入る。
「私はみんな生き返ったらまた昔のように戻れるのかなぁと思ってたら、前が見えなくなっていただけだよ。そんな事、無理なことも理解してたし、もう元には戻らないことも分かっているんだけど、現実見ないよう自分で誤魔化していただけだったんだ」
「昔って?」
「あの目隠しの衛兵隊長いるだろう。アイツとは古い付き合いでさ。元はうちのライバル商家の生まれだったんだけど事業失敗で没落して、見兼ねてウチが使用人として囲ったんだ」
「じゃぁ昔からの知り合いだったんですね」
「幼馴染ってやつだな。元々貴族だから遠慮なく話したり遊んだりしてたな」
懐かしさで胸が締め付けられそうになり、思わずため息が出た。水を飲みながら長椅子に座り直し、もう一度愛菜に座るよう声を掛ける。
訝しげな顔をしながら愛菜はゆっくり彼の隣りに座って話を聞き続けた。
懐かしい遊びの話や、子供の頃の楽しい時間をゆっくり話した後、話題は戦争に一変する。家族は戦争に駆り出されバラバラに。使用人を雇う余裕もなくなり解雇。スコルとの関係もそこで切れてしまったという。
「金儲けが得意で好きだったから領主を継ぐことなんか全然考えていなかった。戦争で稼いだ金で商家の事業を再建してスコル達を雇い直すのだとあちこち武器を売りまくった」
結果、戦争が終わったら一人になっていたと彼は静かに言った。
家が名家だったこともあり前線に駆り出され、戦争に出た家族はみんな戦死。残されていたアードルフの母は心労から流行り病となり家族の後を追った。気がついたらアードルフは広い屋敷に独りとなり、領主の地位と武器商人で稼いだ大量の金だけが手元に残ったそう。
「アイツは前線には行かなかったから生き残ったが、生き残ると結果出世してしまって雇い直しも難しい地位に持ち直していたんだ」
今まで自分のしてきたことは何だったんだろうと考えるだろうが、はじめはそうでなかったと彼は言う。
領主を継がないとどうにもならない状況だったため最初はそれしか考えることがなく忙しい日々が続いていた。だから悲しいとかそういう感情も湧いてこなかったという。目の前の問題改善でいっぱいいっぱいだったという。変化が起こったのは再建も一段落した頃、ある問題が発生してからだった。
「生モノが売れなくなったんだ」
「それって人って事ですか?」
「そうさ。戦争復興には人がいる。戦争で身寄りがなくなった人間を労働できる人材としてみんな挙って売りさばき買い叩いたさ」
売れなくなるどころか路上に必要なくなったからと買った人間を捨てる者、再度売る者が発生。いつしかその地域は闇市と言われるようになり自然と街の人間から隔離されていった。
「人形を作るようになったのはそのぐらいからだな。路上で死んでいる少女を見て、私が売った武器で家族が死んだのかもしれないと考えてしまった。そこから止まらなくなった。武器を売らなければ、生モノを売らなければ、戦争なんか起こらなければ……」
アードルフが右手を動かすとゆっくりした足取りで一体の人形が現れた。彼女はゆっくり膝を付いて座り、アードルフの膝の上に頬を置き、なついた猫のように頬ずりしている。これも全部俯いて人形を見つめ続けている彼がひとりで動かしていると思うと、愛菜はなんとも言えない気分になった。
「独りは寂しい……」
ぽつりと呟いた後、人形の頬に一滴涙が落ちた。
自分の発言がきっかけで大の大人が泣いていることに気づいた愛菜はどう言葉を返して良いのかわからずオロオロしながらアードルフに触れようと手を伸ばした。すると物凄い速さで上から手首を捕まれ愛菜は悲鳴を上げる。
驚きのあまり涙目になった顔を上げれば、顔半分を引きつらせたエクセルが自分の手を掴んでいた。
「君という娘はなんでそう危なっかしい事をするかなぁっ!」
「ご、ごめんなさい」
先程アードルフも言っていた事と同じ内容だと察した愛菜は何も考えずにこの部屋に入ったことを素直に謝る。その後すぐにエクセルは笑いながら怒った顔のまま今度は俯いたままのアードルフにも矛先を向ける。
「アードルフ卿。先程、寂しいとおっしゃいましたよね」
「え、あっはい言いましたはい」
「ならば今すぐ身を固められたらよろしいかと。今回の件で貴方も領主の座を降りてもらわないといけないのに、後任が居なくてどうしようもない状況なのですから、さっさと後継者用意してご引退していただかないと」
詰め寄るエクセルから顔を反らしながらアードルフは何度も嗚咽のような声を漏らし反論できない様子。逃げられなくなり顔を上げたアードルフがやっと反論できたと思ったがその言葉は愛菜には衝撃的だった。
「生きてる女と一緒に生活するなんて絶対無理!!」
「い、生きてる女?」
聞き慣れない言葉に思わず復唱してしまった愛菜をはっとした顔で見た後、アードルフの目が激しく左右や斜めに泳ぎまくりでそれ以上言葉が出ない様子。
「お、お人形と結婚したい……なぁ」
から笑いをするアードルフをじっと見つめる無表情の愛菜が恐い。未知の生命体と遭遇でもしたかのような形容し難い、もといゴミでも見るような冷たい目線を暫く送った後、何か言わないといけないと思ったのか焦った様子で自分にしか伝わらない誤魔化しをしてしまった愛菜。
「あっ、なんかそうい人テレビで見たことありますから、たぶん大丈夫ですよ!」
「テレビって何」
そうだった。とその反応で自分が異世界から来た人間であることを再度理解した愛菜だった。
とはいえ現実世界ではフィギュアを集めるオタク趣味な人も珍しいわけではないと考えると、アードルフの趣味も問題ないのかもしれないとも何歩か譲って思えた。まぁ人形は等身大ででかすぎるし、趣味というよりは本物なのだが、そこの違いは愛菜には認識できないくらい理解できなかったようだ。
「私の住んでたとこでもそういう趣味の人も居ましたし。良いんじゃないですか?趣味ってだけなら」
「えっ!本当!?」
死んだ魚のような目をしていたアードルフが愛菜の言葉を聞いた瞬間、花でも咲いたかのような表情になる。愛菜は錯覚なのかその様子がものすごくゆっくり見えたのと、息遣いが荒い中年男が迫ってくる状況に耐えられずつい顔を殴ってしまった。
その後痛みで冷静になったアードルフは一旦真顔になったあと、いつもの営業スマイルを見せて何やら満足そうに愛菜の手を取った。
「流石、あの侯爵殿が見初めたお嬢さんだけはある!」
「アイナ嬢、甘やかさないで。それにこの男は人形が好きなんじゃなくてし――」
その言葉を言い終わる前にエクセルは喉元を捕まれ、殺気を帯びた鋭い目でアードルフから睨みつけられた。エクセル自身は冗談を言っているつもりはなく真面目な問題を話しているし、アードルフはアードルフで触れてほしくない部分に踏み込まれている危機的状態で、追い詰められての行動だ。
お互い譲らず無言で睨み続けたあと先に引いたのはアードルフだ。その時の顔は少し清々しさが生まれていた為、エクセルは不可解な彼の様子を不気味に思った。
「侯爵殿。それ以上、私の性癖をべらべらこの子の前で公言するのであれば私にも考えがありますからね」
「な、何かね。急に……」
「ふふふ、忘れているでしょう侯爵殿。私に何か頼んでいましたよね」
わざとらしい笑いを見せた後、エクセルが過去、彼に何か物を取り寄せるように注文していた情報をちらりと出す。エクセル本人は思い出せないのか驚いた様子で何度も身体を捻りながらそんな物あっただろうかと想いを馳せる。
確かに、過去に彼に取り寄せてもらったものはないわけではないがかなり頻度は低めだ。忘れているということは注文からかなり時間が経っているとみえる。
「やっと入荷したんですよ~」
そう言って彼が手に持っているのは少し薄手の本が一冊。その背表紙に書かれた表題を見た瞬間、一気に体中の血の気が引く。と同時にその本を奪い取ろうと手を伸ばしたが本を受け取ったのは何かを嗅ぎ取った愛菜だ。
なんの本ですか~などとわざとらしい質問をアードルフにしながら薄めの容量の割に重厚な表紙をめくった瞬間現れたのは、膝を抱えて憂いに満ちた表情をした美少女の写真だった。思ったより衝撃が強かったのか、愛菜の表情がカシャンと音をたてて切り替わるかのごとく一瞬でに無になり硬直する。
「そう!この子!!この子のせいで『美少女コレクションⅡ』なんて怪しいタイトル本なのに馬鹿売れしてなっかなか入ってこなかったの!!」
「へ、へぇ……そんな凄い子なんですか?」
「隣の国のお姫様だよ!なんか今歌手してて自国他国問わず信者がめちゃくちゃ居るくらいすんごい人気なんだよ」
ねっ!侯爵殿!と暴露ができて超嬉しそうな顔を見せてきたアードルフから顔を反らした。
ふぅんと声を漏らしつつ、恐る恐るページをめくっていく愛菜。肌色多いページ出てきたらどうしようと心中不安がるが遠慮なしにどんどんページを捲っていく。時々エクセルの様子をちら見するが、もうこちらを見る余裕が無いのか腕を組んだ立ち姿で首を傾げ、死んだ目で床を見続けている。
心配をよそに意外にも不思議なポーズをしたり妙な目線を送ってはいるが服を着た美少女たちの写真がまとめられた普通の写真集だった。全部美少女の時点で普通かどうかは疑問だが……。
「エクセルさん、この子が好きなの?」
「ええ!?いいいいいやっ」
「ふぅん」
隣国のお姫様と言っていた少女のページを見ながら質問するとすごくわかりやすい焦り方を見せられたため、それ以上聞けなくなり、愛菜は少しふてくされて表紙を閉じてアードルフに返した。ふくれっ面はもとに戻らないまま、疲れたから部屋に帰るとだけ言って愛菜はエクセルから顔を反らしたまま部屋を出ていった。
出ていくその背中を男二人で見送った後、戻ってきた本を満面の笑みで掲げたアードルフ。
「買います?」
「っ!!!」
エクセルは銀貨数枚渡した代わりにその本をひったくった。
なにか言いたくて仕方なさそうな顔だが、商品を受け取ってしまった手前言葉が出ず、奥歯をぐりぐり食いしばって耐えている表情の彼を当初は笑っていた。ふと彼の言動で気になった事があり、それが次第に胸の内で膨らんでいき、アードルフの表情が次第に消えていく。
開き直って受け取った本をぱらぱら見ていたエクセルも、目の前で笑っていた男がどんどん表情を曇らせていく様を目の当たりにして深い溜め息をついた。本を見ることはやめず、ぽつぽつ話すアードルフに付き合って言葉を返す。
「いつから気づいてたんですか」
「何が?」
「私が人形が好きなんじゃないって事」
「……この街、数年置きに墓荒らしが起きてるって報告が上がっているのと、同じ時期闇市の生モノの死亡報告が少し増える事が前々から妙だなとは思っていた」
とはいえ決定的な証拠もなかったのでどうしようかと報告情報だけ溜め込んでいたとエクセルは答えた。今回の人形を見て理解ができたという。
「貴殿が連れている人形、作り方はほぼ今回の人形と同じ造り方だろう?闇市で売ってる人形と質があきらかに違う」
「ええ、剥製をパーツに組み立ててますね」
「全部?」
「ええ、全部。まぁ顔とか土台になる素材の他にも、他の何体か必要になりますけど、関節とか魔力で動かす動力装置なんか以外は全部剥製ですよ」
淡々とお互い話している事自体が嫌になる内容でエクセルは最後の最後で渋い顔を見せる。つまり、今回ジルが造るよう依頼したあの人形の元になった娘の他にも、犠牲になった人間がいるというわけだ。
「もう作れないですよね」
「当たり前だ」
重たい空気になった中で茶目っ気を出した言い方で懲りた様子のない言葉を吐いたアードルフに嫌悪感むき出しの顔で釘を刺す。まぁこう言っても剥製人形を造らないだけで、闇市で売られている人形は造り続けるんだろうなと予想も難しくはない。何故なら、売るやつが居ることもあれだが、買うやつもごまんと居る。一日二日であそこの市場がまともに変わるものではない。
「今後は貴方とあの衛兵隊長の身辺は国が厳重に管理をするでしょう。今の仕事は続けれるでしょうが、常に監視されて生活していくようになりますから」
「その件なんですけど、よかったらこれをアレ様にお渡しできないでしょうか」
もちろん、国の決断には従う。そう言ってアードルフは今回の件に関してどうしてもエクセルの上司へ書状を渡したいとその封筒を渡してきた。開けていいか確認をし、まだ封がされていない中身を取り出し、書状を確認する。中にはあの衛兵隊長の処遇についての提案だった。
エクセルは一通り読んだ後、約束はできないとだけ伝え懐へしまった。アードルフはそれでもいいと満足そうに頷く。
「では、戻ってこの本を眺めるとするよ」
「でへへ、まいどありです~」
部屋を出ていく時に横目で工房の様子をちら見していくが、まさかこの小奇麗な工房が人間剥製を作成する場所とは考えたくもない、とエクセルは扉を締めながらため息を付いた。眉間に深いシワを作りながらこれからこの一件の報告書を帰ったら作らないといけないと考えただけで憂鬱になる一方だった。
エクセルは懐から購入した本を取り出し表紙を眺めた後、満足そうに頷いて懐に戻す時にとなりに見覚えのある少女がいることに気が付き慌てて愛菜の名前を呼んだ。
呼ばれた少女は、口を尖らせながら何かもじもじ言いたそうに俯いたり、こちらを見上げたりしている。
「迷ったの、忘れてて……」
「あ~そんな事で泣かないでくれたまえよ。泣き顔みてると気が気でない」
「っそんな事ってっ言わないでください」
「あああ~言い方が悪かったよ!ほらおいで!」
真っ赤な顔で泣きそうな顔になっていたためエクセルは慌てて彼女の手を取って部屋に連れて帰ろうとした。無理矢理ではないがしっかりとした足取りで先導するエクセルの背中をじっと見ながら愛菜は先程の自分の言動が稚すぎることに自己嫌悪し始め、どんどんジメジメした胸の内が膨らんでいくのがわかった。
解っているのだが、子供っぽい言動が止められない。
「エクセルさん」
「何かね」
「髪の長い女の子好きなの?」
「え!?何かね急に」
「さっきその本にのってたエクセルさんの好きな子、髪が長くてお人形みたいですごい可愛い子だったから……」
何言ってるんだろうと急に恥ずかしくなったが、エクセルが全く止まらず振り返らず、冷静にそんな事考えもしなかったなと返してきた。なんだか考えすぎている自分を露見させてしまい、その答えのせいで余計に恥ずかしくなった。
「そうですか……よ、よかった、です」
うろたえながら返した返事も自分でも理解できないくらいカミカミで意味不明だった。
そんな愛菜を横目でチラ見する。
「……髪が短くなったの気にしてたのかね」
「そんなことな――」
「嘘はいけないねぇ。頑張って伸ばしたって嘆いていたじゃないか」
気づけばエクセルの背中を追っていた状態から横に並んで歩く様になり、愛菜はきゅっと繋いだ手を強く握りながら頷いた。
「確かに、あの髪の長さのアイナ嬢がもう見れないのはおしいねぇ」
「やっぱり長いほうがいいんじゃないですか」
「そんなことないよ。今の長さだって幼さが強調されて可愛いよ」
「それ褒めてるんですか」
部屋に戻ってから自分がからかわれていることに気づいた愛菜は口をへの字にしながら子供扱いに対し抗議するが、全くエクセルには相手にされず笑ってごまかされた。その笑ってる顔をみるともう彼が倒れる心配もないと急に安堵感が押し寄せ、思わず涙腺が緩んでぽろりと涙がこぼれた。
また心配させると思い急いで涙を拭うがこすりすぎて目が真っ赤になってしまった。その腫れぼったい目元をみたエクセルが疲れたなら愛菜も寝たほうが良いとベッドを指さす。残念ながら一つしかないけどとも付け足して。
その後、不服そうに布団をかぶった愛菜と、にこにこしながら顔をじっと見つめてくるエクセルと並んで睡眠を取る事になってしまった。
「やったぁ、伽だぁ」
「はいはい」
彼が冗談で言ってることもいい加減理解できる愛菜は軽くあしらい、エクセルに背を向ける。しばらく黙っているとぱらぱらと本のページをめくる音が聞こえ始め、愛菜はその音が妙に心地よくてうとうととし始めた。
よく似た音をどこかで聞いたような気がする。
***
出発の時間。
ぼんやり明るくなり始めた空が印象的で、愛菜は馬車の中で眩しそうに目を細める。ねむーいとエステルと二人で目を擦りながら衛兵の検問作業が終わるのを待っている。
アードルフやスコルへ昨日の時点で多少の根回しをしてもらったので時間自体はそんなにかからないそうだが、別件でエクセルが捕まっていて何やら外で揉めているのが窓ごしでも聞こえる。
愛菜だけでなく馬車内にいる全員がまだかまだかと呆れた顔で外を覗いているが、終わる気配はない。
「だぁからぁ!いらんと言っとるだろうがぁ!!」
「そんな事言わないでぇ!!頑張って造るんでぇ!!」
見送りに来た領主アードルフと口喧嘩をずっとしているのを横目で見つつ、戻ってきた御者が運転席に座った為、馬車が大きく揺れた。手綱をいつでも引ける状態にした後、御者は大きなあくびをしながらもう一度エクセルの方を覗いて検問が終わった事を伝える。
一体何揉めてるんですかと窓から顔を出した愛菜の言葉にぎくりとエクセルの背中が縦に大きく震える。何かまたろくでもない事だろうかと思った愛菜は目を細めながらもう一度同じ質問を叫んだ。
が、結局自分お気に入りの人形を侍らせたアードルフのばっちんとしたウインクが返って来た後、その横でエクセルが顔を歪ませて頭をおさえる仕草を見せながら「私はずっと断っているからね!」と言い訳を叫んで返えしてきた。
いや、だから何の話をしてるんだよと埒が明かない状況に愛菜の顔がイラっとしたようで曇る。
「呆れた。まだ出発してないんですか」
「そうだよ。あの商魂たくましいお宅のご主人様をなんとかしてくれよ」
門の前で揉めている一行が居ると報告を受けてきたと衛兵隊長のスコルが出てきたが、あまり状況は変わらず。というより早く帰れと急かすだけで助け舟は全く出さない冷たさである。めんどくさそうに話すため状況を改善する気はないようだ。
遠慮のないセットが面と向かってアードルフを連れて帰ってくれと頼むが、目隠しした男はこちらを見ず「なんで自分が」とぼやいた。仕事上の関係者ではない愛菜達からみても感じ悪い彼の態度にセットは容赦なく切れ、心配性の覗き魔と馬鹿にした発言を吐き捨てて馬車内の奥に引っ込んだ。
流石に容赦ない悪口に少し呆れ気味で窓から愛菜はスコルの名前を呼んだが彼は顔正面をこちらに向けただけで特に言葉はやはり返って来ない。
諦めて自分も奥へ引っ込もうとしたがこのタイミングで目隠しの彼に呼び止められた。もう一度彼に目をやった時には目隠しを外していて少し吹っ切れたような、表情が少しだけ明るくなっていた。
「昨日はアードルフが世話になったな」
「?」
「迷惑かけたな。お前の主人は正直嫌いだが、関係の無いお前にはに大人気事をしたな」
「いえ……」
それだけ言ってスコルはエクセルたちの方へ向かって去って行った。
愛菜は昨日アードルフと礼言われるような何かあったかと疑問に思うが思い当たらず首を傾げる。実はあの言葉こそ彼の心配性で除き魔である所以なのだが、愛菜は気づくことはなかった。
「エクセル閣下、これをお忘れです!」
それどころではない。アードルフが嗚咽を漏らし叫びながら両脚にまとわりついて離れない状況を無視して自分の用事を渡してきた彼の行動にエクセルは正気かと目を疑う。状況を読まないようにしているのか読めないのか知らないが、ものすごく厄介な男だとエクセルは感じながら流れるようにその書類を受け取る。何の書類だと問いながら裏返すと「辞表」の文字があり固まる。
「今回の件ではっきり理解しました。私に衛兵の仕事は向いていません。辞めたいです」
「気持ちはわかるが、多分無理だぞ」
「構いません。総司令閣下にお渡し願いたい」
「……わかった。話は通しておく」
スコルは頭を下げた後、外していた目隠しの布をもとに戻して検問所の建物内へ戻っていった。
「言いたいことだけ言って帰ってったなあの男」
帰れないこの状況に助け舟出すでもなく。元とはいえ以前の雇い主が涙鼻水垂れ流しで駄々をこねて男の脚に絡まっているのにそれについても何の言及もせず。
自分だけ吹っ切れた晴れやかな様子と行動に心底呆れつつ、書類をしまう。
とはいえ、彼は少し大丈夫な気がした。
「アードルフ卿!買い物ならまた後日できますから」
「買ってくれるの!?」
「うちの総司令がまたなんか買うでしょ!!」
全く埒が明かない状況にさすがの一行も呆れかえっている。あれをどうするかという議論がセットとクラエスの間で静かに進んでいるが、エクセルが騒いでいたら殴って引っ張ってくれば良いのだが、今回ばかりはエクセルは被害者だし。無理やり引っ張ってきたらあの領主もついてきそうな勢いだし。なんか偉い人っぽいしめんどくさそうだし。
考えるのを諦めた二人はもう買ってやったら良いんじゃないのかと窓から妥協案を叫んだ。もちろんエクセルからは怒られた。
「生身の女の子じゃ思った時に、出来ないじゃないですか?」
「唐突に何の話だよ!?そういう下品な話本当に止めてくれないかね!」
「外見だけじゃなく、料理洗濯家事全般、それどころか***や***までご奉仕可能ですよぉ」
「ゔっ」
生々しい単語が出てきた瞬間、何か想像したエクセルが嘔吐き口元を両手で抑えて再度大きく嘔吐いた。
一瞬何が起こったのかわからなかったアードルフはエクセルの手元から液体がポタポタ落ちる様子を見て初めて彼が嘔吐ことに気付く。アードルフは彼の背中を撫でつつ、彼の上司相手に下ネタでいつも怒っていた彼を思い出し、理由を理解した。ちょっと繊細すぎないかと疑問を投げかけるが、昔トラウマになるようなことがあったんだとだけ言って、また吐きそうになっている。
困ったアードルフは馬車の中に居た愛菜を見つけるとこっちに来るように手招きをした。愛菜は首を傾げなからもすぐに馬車を降りて駆け寄ってきた。
「エクセルさんどうしたの?」
「ごめんね。おじさん、ちょっと侯爵殿に意地悪しすぎたみたい」
真っ青になったエクセルを引き取ったあと背中を撫でながらどうしてこうなったのか問いかけるが、必死に首を振って話そうとはしない。まさか売買されようとしている自分そっくりの人形が性的な機能が付いてるとはとてもじゃないが言えないし、言いたくもないとエクセルは必死に口を噤む。
詳しくはわからないが無理やりエクセルが人形を買わされそうになっている事は愛菜も今までのやり取りから薄々理解できている。碌でもない話をしていることもなんとなく察しがついている。
愛菜はキリッと眉を立てて、エクセルを介抱しつつ、アードルフを睨んだ。
「おじさん」
「あ、はい」
「いくらエクセルさんが変態だからって、無理やり変な物売りつけないでください!」
ぐさぐさぁ!!
二人の男に言葉のナイフが容赦なく突き刺さった音が馬車の一行には確かに聞こえた。
「やべぇあの嬢ちゃん」
「どっちにもトドメさしてる」
一部始終見ていたセットとクラエスが憐れみの目を向けながら、合唱した。
「変な物」という自分の大好きなものへの衝撃の一言で動かなくなったアードルフ。同じく自分に対する認識が「変態」の言葉であることに死にかけてるエクセル。
愛菜は死にかけのエクセルの襟元を掴んで早く帰りましょうとひっぱり馬車へ無理やりねじ込んだ後、出してくださいとエクセルに代わり御者に指示を出す。その力強い雰囲気に感動したクラエスとセットがおおっと声を漏らしている。
その言葉に戸惑いを見せる御者が本当に出して良いのかと、道端で死んでいるアードルフを指さしながら聞き返した。
「良いんです!!」
愛菜に睨まれ、なんか閣下より恐いと半泣きで勢いよく馬に鞭打つ。
馬の大きな泣き声と共に馬車は勢いを付けて門をくぐり港街を後にして姿を消していく。今度こそ、馬車は王城に向かって進み出した。
【二章】meria