最後の竜が生まれるところ
拙作は、ファンタジー競作企画『宿語りのシーガル』様に寄稿させていただいた作品です。企画の終了に伴い、再録いたしました。
奇妙なことになった、と彼はしみじみと胸中で呟いた。
東の船乗りたちが鴎流しと呼ぶ冬の嵐に見舞われ、逗留していた港町で足止めを余儀なくされた。難航していた商談がとんとん拍子にまとまり、ようやっと旨い麦酒にありつけると思っていたらこの有り様だ。不幸中の幸いは、次の仕事先への行程は別段焦らずともよいものだという点に尽きる。
それにしても、寒々しい雪風の音に首を竦めながら舐める麦酒の味は生ぬるく苦いばかりだ。狭い宿に押しこめられた旅人たちの表情は揃って鬱々としていて、橙色の灯りもどこか翳って映った。
――そんなとき、ひとりの男が不思議とよく通る声で提案した。
(架空の歴史を物語る、か)
男が物語の舞台に挙げた西の果ての土地の噂は、彼にも聞き覚えがあった。
広大な平野に古い遺跡がぽつりぽつりと散らばるばかりで住む者もいない空白地帯。明瞭な謂れは忘れ去られたが、近隣の国々では踏み入ってはならない地だと忌避されているらしい。昔むかし、自国の領土にせんと一軍を率いて土地を侵したどこぞの王がいたが――彼らは帰ってこなかったそうだ。何年、何十年、何百年経とうとも。
それこそ眉唾物だ、と彼は苦笑を洩らした。遺跡の調査やら何やらで空白地帯に立ち入る者はごまんといるし、彼らは無事に生還している。男が物語の鍵として用意した遺物もそうやって持ち帰られた品々だろう。ひと晩の余興を面白がった旅人たちが騒がしくそれらを値踏みし、やがてひとりふたりと思い描いた『歴史』を語り出す。
ひょいと隣の席から回ってきたのは、すり切れた革袋にしまわれた魚の鱗だった。子どもの握り拳ほどの大きさで、硝子のような厚みがあり、青みがかった銀色を帯びている。灯りにかざすときらきらと金粉を振り撒いたような光沢が瞬き、彼は惚れ惚れと目を細めた。
「美しいだろう?」
不意に話しかけられ、思わず喉が鳴った。
いつの間にか余興の主催者が向かいの席に腰を下ろしていた。ゆったりとした一枚布の上着で身を覆い、髪の上に長いスカーフを巻いている。まるで古の流浪の民のような装いだと彼は思った。
卓に頬杖をついた男は、薄い唇にはんなりと笑みを刷いた。
「川魚のものにしてはずいぶん大きく、おまけに硬すぎるそうだ。『あそこ』は内陸部のはずだが……さて、兄弟。あなたはそれにまつわるどのような逸話をご存じかな?」
しまった、と気づいたときには手遅れだった。
すっかり余興に酔った旅人たちの視線が無遠慮に突き刺さる。次なる語り部に選ばれたことを知り、彼はため息を噛み殺した。
(……どうせ夜は長いんだ)
掌の中でくるりと鱗をもてあそび、首を傾げてみせる。
「乾いた舌を湿らせるために、新しい麦酒を頼んでもいいかい?」
すかさずだれかが女給を声高く呼ばう。彼は短く礼を言い、杯の底に残った麦酒を呑み干した。
「考古学者の真似事なんて、しがない薬売りに務まるかどうか」
杯を置く音に重ねたぼやきに、男は器用に片眉を持ち上げた。
「薬売りとは、これまた珍しい」
「正確には生薬専門の問屋だがね。あちこちを渡り歩いてその土地でしか採集できない生薬を買いつけ、別の土地で売りさばく――傷病に苦しむ人々を食いものにするあくどい稼業さ」
自嘲に口元を歪めると、男は軽く肩を竦めた。
「商人という輩は概してあくどく、がめついものさ。しかしあなた方がいなければ、この世の金はとんと回らない」
「……違いない」
彼は頬をゆるませ、女給の運んできた杯を受け取った。きつく香る酒精に目が回りそうだ。
「――我が家は、元は古い錬金術師の家系でね」
ほろりとこぼれた言葉に男の双眸が瞬く。まるで呼吸を揃えたように旅人たちは口をつぐみ、沈黙が凪の海のように広がった。
彼は片手に収まった鱗に視線を落とした。やわらかく揺れる火明かりを映して、銀色の帯の上で砂金めいた光が波打つ。
「とはいっても、先祖は歴史に残るような高名とは縁遠い、奇術師なのか詐欺師なのかわからぬような者だった。しかし代々培ってきた薬学の知識とそれに基づく治療の技術はなかなかのもので、医者の真似事をしながら放浪を続けていた。いったいなぜ根なし草になったのか今となってはわからないが、しかしどこかに定住するわけでもなく遍歴を重ね、血脈と治療術を伝えてきた」
流れ者の錬金術師もどきが生薬問屋に看板をすり替えたのは、彼の祖父の代に至ってからだ。
治療術よりも商才に秀でていた祖父は、いずれ先祖から受け継いできた形なき財産だけでは一族を守りきれぬことを正しく見抜いていた。近代医学の発展、各国の司法の確立が推し進められる時流は、古くから息づく民間医療の継承者たちを容赦なく『魔女』として弾圧したのである。
「祖父の先見の明のおかげで我が家は辛くも魔女狩りの火から逃れることができた。今ではとある国に根を下ろし、細々と生薬問屋を営んでいるというわけさ」
「なるほど。なんとも波乱に満ちたお家柄だ」
男は愉しそうに笑声を立てた。妙に心地好い響きに彼の舌も滑らかに動き出す。
「そんな謂れのせいか、我が家には治療術の教えとともにいくつかの不思議な話が伝わっていてね。……そのなかのひとつに、こんな物語がある」
色褪せた頁をめくるように、彼の脳裏に懐かしい記憶が広がる。少年と呼ぶにも幼かった子どもの頃、まだ健在だった祖父が低く掠れた声で密やかに語ってくれたおとぎ話。
(坊や、今日はおまえにとっておきの物語を聞かせてあげよう……)
ふわりと持ち上がった睫毛の下の瞳が旅人たちを見回す。微かな吐息すら聞こえぬ静寂を支配し、錬金術師の末裔は微笑んだ。
「竜になるという魚を知っているかい?」
***
すすり泣くような北風の調べが冬の訪れを告げていた。
大陸の西の辺境、神代の終わりに常しえの眠りに就いた父祖なる妖精たちの陵墓だという七つの丘を越えた先に、その『国』はある。
自らを妖精の裔と称する人々――シェイスの民、あるいは畏怖と侮蔑をこめて『魔法使い』と呼ばれる少数民族がひっそりと隠れ住まう土地。
四季が移ろう頃に吹く風は、父祖なる妖精たちの死を悼む大地の歌声だ。シェイスの民はこれを泣歌と呼び、季節の変わり目には七つの丘へ弔いの供物を捧げる習慣を伝えてきた。
春には水晶の翼を持つ小鳥を。
夏には永遠に枯れぬ黄金の薔薇を。
秋には炎の毛皮を纏った巨大な狼を。
そして冬には、月虹を食べて竜に化ける魚を。
竜魚という実に単純な名の魚は、冬の到来を告げる泣歌に導かれて北の空から渡ってくる。そう、竜魚は海原ではなく天空を泳ぐ魚なのだ。
月虹をたらふく食べた竜魚は、竜として孵化するために卵のような繭に籠る。竜魚の繭から作られる煎薬は優れた強壮剤になるのだという。
(今ではそんなもの、だれが飲みたがるというのか)
風に散らされた短い髪を撫でつけ、青年はすっかり乾ききった両目を瞬かせた。ひりつく視界のあちこちで松明が揺れている。夜の森の闇は深く、木々のざわめきもどこか遠い。
「いかがした、お客人」
松明を掲げた先達のひとりが低い声で尋ねてきた。
子どもほどの背丈の彼はずんぐりとしていて、ごわごわした癖毛と髭で丸い顔のほとんどが覆われている。火影を孕んで獣じみた金色に光る大きな眼は、しかし深淵のごとき思慮を湛えていた。矢筒を背負い、太い弓を携えた姿はまさに昔語りに登場する妖精の狩人そのものだ。
彼のように、シェイスの民には人ならざるものの血が外見的特徴として現れやすい。ゆえに彼らは忌み嫌われ、太陽が沈む最果ての荒野に追いやられた。子孫の不遇を憐れんだ父祖なる妖精たちが大地に身を捧げ、荒野は緑豊かな平原に生まれ変わったが――
「ずいぶん物悲しい風の音だと思って」
曖昧に微笑んでみせると、狩人は得心が行ったように頷いた。
「ここは斜陽の地。父祖なる妖精たちの献身も虚しく滅びゆく我らの行く末を大地が嘆いておるのではないかという者もいるな」
まるで明日の空模様についてでも話すような、あっさりとした口ぶりだった。とっさに言葉を詰まらせていると、狩人は獣の眼を薄く眇めた。
「神々と妖精の世はすでに遠い。その眷属たる我らが泡沫の身なるは当然のこと」
「……そういうものかい」
「そういうものだ」
揺るぎないほど穏やかな声は、青年の感傷は余計なものだと言外に告げていた。狩人は前へ向き直り、「あと少しで竜魚の巣に着く」と言った。
青年は唇を引き結び、胸の奥をゆるゆると締めつけられるようなやるせなさを呑みこんだ。
彼は流浪の錬金術師の血統に生まれついた。妖精に親しみ、彼らの知恵を学んだ賢者を祖とする一族は、とりわけ薬学に長けていた。『善き隣人』の恩恵を多くの人々にもたらそうと幾代にも渡って土地をめぐり歩き、妖精の言葉を語る仲介者として生きてきた。
……彼にとって、すべて幼い頃の寝物語にしか過ぎないけれど。もはや文明社会は妖精の知恵も言葉も必要とせず、青年の一族もまた時の流れに淘汰されるべき『魔法使い』でしかない。
(こうして僕が教えどおりに生きていることは、はたして正しいのだろうか)
時折、暗澹とした迷いが心を塞ぐ。だれにも求められず、息を潜めて影から影へ渡っていく暮らしに、いつかこの腕で抱く我が子に強いるほどの価値が見出せない。
では、なぜ自分はここにいるのか。
(ふと思い出したのだ)
青年は祖父から妖精の知恵を学んだ。治療術だけでなく、祖父はさまざまな土地で見聞きした不思議な話を教えてくれた。とりわけ力をこめて語られたのは、西の果てで息づく太古の生きものたちの美しさだった。
透きとおった玻璃の翼で羽ばたく春風の化身。いたずら好きな小妖精が夏の女神の庭から盗んできた豊穣の薔薇。あらゆる生命を刈り取り、大地を赫々と染める魔狼。月の虹を食んで竜となり、雪雲を呼ぶ銀魚。
この世に残る、どれほど言葉を尽くしても足りぬほどまばゆい奇跡を目にすることができたのなら、何かが変わるのではないか――願望じみた思いつきだった。
祖父から聞いた道筋をたどり、ときには親切な木霊のささやきに導かれ、青年は七つの丘を越えて西の果ての土地に至った。
シェイスの民は、遠い昔に先祖が誼を結んだ『善き隣人』、妖精の知恵の伝承者として彼を認めて快く受け容れてくれた。更には秋の最後の満月の晩、竜魚狩りへの同行が許された。
日没を待って森に入り、最奥にある竜魚の巣を目指して歩き続けた。すでに月は高く昇っているはずだが、梢の天蓋は黒々とした影を落とすばかり。
(あと少しと言っていたが……まだ着かないのか?)
暗闇に閉ざされた獣道が延々と続く現実に神経がすり減りはじめた頃、前を行く狩人が足を止めた。あかがね色の火がざわりと揺れる。
「お客人、こちらへ」
狩人は肩越しに振り向き、青年を小さく手招いた。戸惑いながら近づくと、木々の陰に隠れるよう促された。
「そこでじっと上を見ていろ。くれぐれも大きな音を立てるなよ」
言うなり、狩人は松明に濡れた布を被せた。他の男たちも同様に火を消し、あたりは一瞬で夜の底に沈んだ。
押し潰されてしまいそうな闇に身が竦む。無意識に光源を求め、見開いた眸を頭上にさまよわせた。
木立を縫って響く泣歌は、まるで森の精たちが輪唱しているかのようだ。淋しく不気味な歌声は、闇を震わせて大きく大きくなっていく。
(何かを、呼んでいるのか?)
青年が予兆を掴んだ刹那、静かに狩人が呟いた。
「来るぞ」
――月が落ちてきた。
仄白い光がふわりと射しこむ。影絵のように浮かび上がる木々の向こう、青い軌跡を描いて泳ぐしなやかな輝き。
青年は、ただただ見惚れた。
それは巨きく、優美な魚だった。すんなりとした細い体は青銀の鱗に覆われ、身をくねらせるたび金波が散るような光沢がきらめく。淡く透ける白い鰭がたゆたう様は、円舞の輪で翻る淑女の裳裾のよう。
数十もの魚たちは、儚くまばゆく夜の森を照らしながら回遊する。いつの間にか風の音は途絶えていた。
(これが――竜魚)
祖父の口伝によれば、竜魚は冬をもたらす精霊なのだそうだ。繭から孵った竜は天高く昇り、やがて地上に雪を降らせる。神々の眷属である聖なるけものを狩ることができるのは、その寵児たる妖精族のみ。
「そろそろだ」
狩人は眼を細め、太く長い指を光に向けた。
「竜魚が繭に籠る」
木立越しに眼前を月光色の魚が泳いでいく。青い軌跡にきらきらと微かな光が混じっていることに青年は気づいた。
(……糸?)
目を凝らさなければわからぬほどにか細い糸。白い鰭の裾がほどけ、幾筋もの糸がたなびいている。
魚たちの群舞の輪が少しずつ狭まり、一匹また一匹と特定の木の周囲を旋回しはじめた。金銀の光の束となった糸が幹や枝に絡みつき、大きな繭玉を編み上げていく。
やがて竜魚の姿は糸の壁の向こうに隠れてしまった。
丸々と膨らんだ繭は真珠のごとくとろりと艶めき、内側から胎動めいた輝きを放っていた。樹上に浮かぶいくつもの繭が夜の森を碧々と照らす。
「竜魚は夜明けの頃に繭から孵り、竜となって天に昇っていく」
狩人がのそりと木陰から身を起こした。他の男たちも密やかに動き出し、青年は慌てて狩人を追いかけた。
「西の空の果てに月が堕ちるまでに、竜になる前の魚のまま仕留めなければいけない。これから繭を破いて竜魚を引きずり出す」
「そんなことをして大丈夫なのかい?」
「我らが父祖なる妖精たちへの供物として狩ることを許されているのは一匹のみ。獲物以外の繭に触れれば、神々の怒りがこの地を灼くだろう」
つまり、決して仕損じることはできないのだ。青年はごくりと唾を飲み下した。
男たちが目星をつけたのは、最も低い位置に浮かぶ繭だった。いったいどうやって繭を破くのかと思えば、長柄の先に半月に似た形の刃がついた道具を取り出した。ゆっくりと真下から刃を入れ、驚くほど滑らかに糸の束を断ち切っていく。
幾重にも折り重なった糸の壁が解きほぐされ、こぼれ落ちる光の明度が増した。とうとう揺らめく魚の影が見えたとき、長柄の持ち手の後ろから別の男たちが進み出た。
彼らは鉤縄を手にしていた。いっせいに縄を回しはじめ、熊の手のような鉄鉤が鋭く空気を切る。
短い口笛が響いた。同時に長柄の先の刃が最後の糸を立ちきり、蛍火のような光がわっと溢れ出た。
音を立てて繭が弾け、淡く輝く膜に包まれた魚影がのたうち回って現れた。男たちが声を上げて鉤縄を投げる。
「逃がすな!」
「引け、引けェ!」
跳ね上がった竜魚の体に鉄鉤が引っかかり、ビィンッと縄が張った。竜魚は鰭をばたつかせて抵抗し、拘束を振り切ろうとする。
「ぼさっとしていないで手伝ってくれ!」
不意に怒鳴りつけられ、青年は慌てて近くの縄に飛びついた。太い縄がざりざりと掌を削り、何人もの男たちがもろとも引きずられそうになる。
(なんて力だ……!)
縄の先はあらかじめ樹木に巻きつけてあるようだが、根元からへし折られそうな勢いである。そうしているうちに不吉な音がして、縄の一本が見事に切れた。
「踏ん張れェ!」
握りこんだ掌を熱が走り抜け、青年は奥歯を軋ませた。喚声と怒号が飛び交うなか、明滅する精霊の光が視界を焼く。
(まるで叫んでいるようだ)
ここからどうするのか――そう思った刹那、一条の閃光が走った。
それは光り輝く矢だった。祝福と祈りの力を帯びた矢はまっすぐ竜魚の眼を射抜いた。
青年の眸には、真白い雷が竜魚を貫いたように見えた。間を置かずに次の矢が飛び、胸鰭の根元に開いた鰓を深く穿った。
長い尾鰭が大きくしなる。
一拍の静寂のあと、ぐったりと巨体が弛緩した。青年は思わず息を詰めたが、竜魚は鰭を漂わせながらゆるやかなに地表へ下りてきた。
男たちが歓びの声を上げた。
青年は縄を握ったままへたりこんだ。幾人もの手で荒々しく肩や背中を叩かれ、気の抜けた笑みがこぼれ出る。そのうち涙まで滲み、彼は火傷したように熱い掌で目元を拭って「いてて」と笑った。
「お客人、怪我はないか」
ぽんと肩に乗った手の持ち主を振り向くと、こんな場面でも表情の薄い狩人が顔を覗きこんできた。
「ああ……腰が抜けてしまって」
「はじめて狩りに加わった者は、だれしもそうなる」
狩人は金眼をわずかに細めた。青年は軽く呼吸を整え、彼の携えた弓を見つめた。
「……あの矢は、あなたが?」
「それが俺の役目だからな。竜魚の鱗には他の力を弾くまじないがかかっているが、眼や鰓の隙間を狙えば矢にこめた力で内側から仕留めることができる」
淡々と語る内容の凄まじさに青年は身震いした。
この狩人は、世の人々が『魔法』と呼ぶ奇跡の使い手なのだ。彼自身が遠ざかったと言う神々の加護を身に帯びた、妖精族の生き残り。
「立てるか、お客人」
「……ああ」
青年はそっと息をつき、差しのべられた手を掴んだ。
「さて、もうひと仕事残っているぞ。獲物を無事に里まで運ばなければ」
狩人は飄々と竜魚を囲む仲間のほうへ歩いていった。
風の音が戻ってきた。弱々しい泣歌は、ひっそりと竜として孵らないまま死んだ魚を哀れんでいるかのようだ。
疼く血まみれの掌を拳の内側に隠し、青年は狩人に続いた。興奮が引いた胸を吹き抜ける風は、少し冷たかった。
シェイスの民の里からは、地平に横たわる丘陵の影がよく見えた。
男たちとともに里に戻った青年は、食客として世話になっている家の屋根裏部屋に上がって窓辺に腰かけた。円形の窓の鎧戸を開け放つと、軽快で素朴な調べが夜風に乗って耳朶に触れた。
里の広場では赤々と火が焚かれ、着飾った人々がこぞって歌い踊っている。無事に供物の用意が調うと夜が明けるまで浮かれ騒ぎ、悲嘆に暮れる大地の精を慰撫するのだという。青年も宴の席に誘われたが、挨拶代わりの蜂蜜酒を一杯呑んで早々に抜け出してきた。
藍色に沈んだ丘陵の向こうからは、白々と朝の気配が立ち上っていた。しばらくすれば澄みきった初冬の陽が射しこみ、賑やかな喧騒も夢のように途絶えてしまうだろう。
「こんなところにいたのか、お客人」
ぎしぎしと階段の軋む音と一緒に家主である狩人が上がってきた。
「せっかくの宴だ。ぞんぶんに楽しんでくればいい」
「気持ちだけ貰っておくよ。……実はちょっと酔ってしまって」
苦笑しながら言い訳を返すと、狩人は軽く肩を竦めた。ふと金眼が窓の形に切り取られた夜の里を見下ろし、まぶしそうな線を引いた。
「ここも、ずいぶん寂しくなったものだ」
青年はどきりとして、感情が掴みにくい横顔を窺った。
「もう長い間、健やかな産声を聞いていない。俺の息子たちも所帯を持って久しいが、どうやら孫を腕に抱くことはできないようだ」
「……確かに、子どもの姿をあまり見かけなかったね」
「もはやこの地に残る妖精族の里はここだけだ。昔はあちこちに集落があり、大きな町も栄えていたそうだが……俺が弓の引き方を覚えた頃には数えられるほどになってしまっていたな」
人々の笑い声が潮騒のように遠く聞こえる。それは物悲しく青年の胸腔に響き、彼は微かに身を震わせた。
丘陵を越えて以来、たびたび目にした廃墟ばかりの集落の光景が脳裏をよぎった。草木に覆われた家々、人の声の代わりに響き渡る泣歌の音色。無情な年月が何もかも彼方へ押し流し、がらんどうな終焉だけを残していく。
「……虚しくはないのかい」
青年の問いに、黄金に揺らめくまなざしがわずかに振り向いた。
「いつか消えるだけの因習を守り続けることに、虚しさを覚えたりしないのかい。命を、人生を懸けてまで伝えることに意味はあるのだろうかと、迷ったりしないのかい?」
沈黙が下りる。じっと見据えてくる視線に耐えきれず、青年は俯いて両手で顔を覆った。
「旧く、しかし若き友よ」
穏やかな、染み渡るような声が青年を呼んだ。跳ね上がった肩に広い掌がそっと置かれる。
「あなたも、救いを求めてこの地へやって来られたのだな」
青年は息を呑んで顔を上げた。薄闇を透かして獣の眼が静かに輝いていた。
「移ろう人の世をひとりさすらう日々の哀しさを、かつてあなたの祖父殿が語ってくれた。今のあなたと同じように若かった彼は、我らの善き友であろうと従順に努めていたが、やはり苦しみにもがいていた。明けない夜に閉ざされた荒れ野を往くような旅路を、はたして次代へ託すべきなのだろうかと」
「……祖父が、ここに?」
「季節がひとめぐりする間、我が家の客人として過ごされた。竜魚狩りを見届けて、春の使者が渡ってくる前に旅立っていったな」
考えてもみればありえる話だった。だが祖父の若い頃を知る相手を前にして、青年はひどく不思議な心地にとらわれた。
「祖父は……どうやって救いを見つけたのだろうか?」
「さあ。彼は多くを語らなかった。ただ、別れ際に『未来を憂える前に、確かな今を生きてみることにした』と笑っていたな」
なんとのんきな答えだろう。青年は呆れながらも、その選択に至った祖父を羨ましく思った。
狩人は目元をたゆませた。
「祖父殿の跡を継いだあなたが里を訪ねてきたとき、嬉しく思ったものだ。まだ変わらずにいてくれるものも、あるのだと」
眸を見開く青年を、最後の妖精族は限りない慈しみをこめて「若人よ」と呼んだ。
「虚しさも悲哀も、降りやまぬ雪のように我らの心を満たしている。だが同時に、我らには血脈とともに継がれてきた誇りがある。それはシェイスの民として生まれ、死にゆく定めともいえる」
「……定めに甘んじると?」
「我らは人であって人ではない。どれほど血が薄れようと、この地の外で生きる術を持たぬのだ。確かにそれは苦しみでもあるが――かけがえのない喜びもまた、俺はよく知っている」
狩人の口調は揺るぎなかった。金色の眼の奥で、永遠に褪せぬ魂の光輝を見たような気がした。
「人も、妖精も、精霊も、ただ一度の命しか持って生まれない。幾たび冬がめぐろうと、一匹とて同じ竜魚が渡ってこないように。竜になって天へ昇れるか、はたまた獲物として狩られるか、わからなくても彼らは懸命に生きている」
青年は、包帯を巻いた掌に視線を落とした。ずるむけた表皮はじくじく鈍い熱を帯びている。美しい生きものが最期まで抗い続けた証。
生と死はめぐる。四季のめぐり、時の経過とともに、あらゆるものは流転を続け――ひたすらに『今』を生きているのだ。
(運命は変わらない。苦しみが消えるわけでもない。それでも、僕の人生をどう生きるのか……それを決めるのは僕自身なのだ)
祖父が一族の使命を果たすことを選んだように。狩人が妖精の末裔たる定めを受け容れたように。
自分が求める救いは、きっとこの足で歩き続けた道程の先にしか見つけられないのだ。
「俺は故郷を愛している。一族の暮らし、先祖から受け継いだ役目も、己にしか背負えぬものだと誇りに思う。だからこの命の終わりまで守り続けていくつもりだ。この地で、いつまでも」
朗らかに告げる狩人に、青年は目を伏せてそっと笑った。
「ここに来られてよかったよ」
「……そうか」
そのとき、空から風の歌声が降ってきた。
青年は驚いて窓の向こうを見た。
東の空が清らかな青に燃え上がり、たなびく雲が薔薇色に染まる。生まれいずる光が世界を照らした瞬間、咆哮のごとき泣歌がとどろいた。
(産声だ)
朝焼けの空に竜が踊る。
波打つ白銀の蛇体を山吹色に輝かせ、高く高く舞い上がる。薄青い鬣に包まれた白面、鋭い爪を備えた鳥の脚、しなやかに光る長い尾。
美しい、美しい冬のけもの。
いつの間にか滲んでいた涙が視界を歪め、青年は唇を引き結んだ。そうしないと、小さな子どものように泣きじゃくってしまいそうだった。
一匹、また一匹と竜たちは里の上空に集い、絡み合うような群舞を披露した。鳴り響く北風の歌に混じって、しゃらしゃらと涼やかな音がこぼれ落ちる。それは竜の鱗が朝陽にきらめくたび、風花になって里に降り注いだ。
思わず窓の外へ手を差しのべると、小さな雪片は指先に当たって儚く消えた。精霊の力が見せた幻なのだ。
「竜が天に昇っていくぞ」
狩人が空の高みを指差した。
竜たちは泣歌に導かれるように蒼穹に吸いこまれていく。雲を呼び、大地を潤す雪を降らせるために。その生を全うするために。
「今年も冬がやって来る」
青年は目元を拭い、狩人の呟きに頷いた。
「どうだお客人、このまま我らとともに冬を越してみないか。この地の春はいっとう鮮やかで美しい。玻璃の翼を持つ春告げ鳥のさえずりを聞いてみないか」
「……せっかくだが、雪が降る前にお暇するよ」
狩人の提案は魅力的だったが、青年は微笑んで辞退した。
「竜魚の繭は滋養のある薬になる。もしかしたら、病に苦しむだれかの役に立てるかもしれない」
すると、狩人は息を呑むほど優しい笑みを浮かべた。
「それがいい」
――それでいいのだと、あたたかな手が肩を叩いた。
これからも幾度となく迷うだろう。それでも、今はこの瞬間を信じようと青年は思った。
***
雪の礫が窓硝子を叩く音に、だれかが吐息を洩らした。
彼は軽く麦酒を舐め、正面に頬杖をついた男を見た。絡んだ視線に睫毛を上下させ、男は背筋を伸ばした。
「……そして、あなたのご先祖は西の果ての土地を旅立った」
「ああ。結局、彼は昔ながらの生き方を選んだが――それほど代を経ずに錬金術師は廃業せざるを得なくなったというわけさ。時流に従い、『今』を生き抜くためにね」
掌に包みこんでいた鱗にはすっかり体温が染みこんでいた。月光から精製したような古代の破片をそっと革袋にしまい、男へ差し出す。
「さて、私の話は満足の行くものだったかな?」
「ああ、実にすばらしい物語だったよ」
革袋を受け取った男は小首を傾げた。
「気になったことがあるんだが、質問をしても?」
「何かな」
「物語のなかで青年は精霊の声を聞いたり、不思議な力を感じ取ったりしていたが……あなたもそんな芸当ができるのかい?」
いたずらっぽく光る男の双眸に、彼は思わず苦笑した。
「残念ながら私は『魔法使い』ではないのでね。祖父によれば、錬金術師でなくなることの代償に異能を失ったのではないかという話だ。祖父の先代……私にとっては曾祖父に当たるひとだが、我が家で最後の錬金術師だった彼は動物と話すことができたそうだよ」
「そりゃあすごい」
大仰に驚いてみせる男の仕種に聴衆がどっと笑う。
炉端のように温く、快い空気だった。ここでは語り部の言の葉こそが真実、泡沫の空想こそが歴史書の一頁を綴るのだ。
きっと彼が披露した物語のなかに幾ばくかの『本当』が織り混ぜられていたとしても、だれも気にも留めないだろう。あるいは心当たりのある者も無粋に口にしたりはしない。
だから少しだけ、彼は酔ったことを言い訳にした。
「しかし兄弟、私は見たことがあるんだよ」
潮騒が引くように笑声が止んだ。吹きすさぶ雪風の響きに耳を澄ませ、彼はそっと目を閉じた。
瞼の裏に思い描くのは、満天の星空を翔けてゆく白い光。
星の雨垂れに濡れて輝くしろがねの流線。しゃらしゃら、しゃらしゃらと、金銀の鈴がいっせいに歌うような音色とともに舞う夢幻の雪。
西の果てからはるばる旅してきた竜の咆哮が聞こえた気がした。
「最後の冬を運ぶ日まで生まれては死にゆく、永遠のいのちを」
最後の竜が生まれるところ