一人の人間が少女の為に世界へ叛逆するようになるまで
不思議な光景であった。
ここ一帯の田畑が一望できる。視界に映るのは育ちかけの緑程度であるが、これがまた整い並べられているゆえ、私に一種の幻想を感じさせた。
もう少し時間が経てば沈みゆく日の光で、一層美しいものとなるだろう。私はそう思いながら前を向き直し、残りの石段を進むことにした。
町外れが農用地であることは知っていた。町の中心部は賑やかで、ありとあらゆる施設が並べられている。しかしそこから離れれば、なにもない。
あるのはこの広がる緑と、町を遠ざけて住む人のみ。赴任してきて数か月が経つが、ここに来るのははじめてだ。この地区は、地区自体から許可が下りなければ立ち入りことができない。
私は普段、町の中心部にいる。その中心部を離れれば、こんなに空間は広がっていたのだ。
私の心には、ずいぶんと昔感じたような――少年のような、あのわくわくするような気持ちがあった。が、ここに来た目的を忘れることはなかった。
石段は長く続く。
この石段、大きな塔に巻き付くような形で、塔の上まで続いていた。こんな町外れに、こんな田畑のあるようなところに、この石の塔は立っている。ここから見る景色が不思議に思えるのも、この塔があってこそだった。
なぜこんなところに、こんな高い塔があるのだろう。私はそう思わずにはいられなかった。
石段に足をかける前、塔の中を覗いてみたが、塔の中も階段であった。外から塔を上るか、中から塔を上るか、の違いであろう。私は外から行く方を選んだ。おかげで景色を堪能できたわけだが。
しかし明らかに、この塔の存在は異様であった。静寂を突き刺すように天へ伸びる塔。私はその異様さを『わくわくする』という形に変換し、噛みしめるように石段を上って行った。
塔の頂上につくと、真っ先に私は倉庫のようなものを見つけた。倉庫は大きく、塔の面積の大半を埋めていた。倉庫は鉛色であった。灰色をした石塔と比べればそれ以上に沈んだ色で、なにやら堅苦しい雰囲気を醸し出していた。
この中に、入るのか。
私は一度深く息を吸い込んだ。そして、強張った鉛の扉に指を触れる。
無表情に冷たい。その冷たさを押しのけるよう、私は力を込めた。
軋むような音と共に、扉は屈従した。
中は、空間であった。
外と同じような鉛色の壁、床、天井。中央にはもう一つ、それらと同じ色をした部屋のようなものがある。そして、周りにはなにやら古い塊がいくつも並べられている。塊は黒く濁っていて、しかし研ぎ澄まされている。そして――、その塊から感じる、不穏さ。
私がそれを何らかの武器だと理解するのに、そう時間はかからなかった。
ここは、武器庫か、それか、それに似た何かであろう。
私はおそるおそる足を進める。いくつもの武器が私を狙っているようにも思えた。先ほどまでわくわくしていたものは、気付けば別のものになっていた。
足は自然と中央の部屋に向かった。
それ以外の選択はなかったように思えた。辺りを見渡してもやはり塊が並ぶばかりである。私はその部屋の前に立つ。
扉は無かった。
中を伺う。
暗くてよく見えない。なにやらの機械音だけが、その部屋に響いている。
私は目を凝らして、その闇を見つめる。
四角い機械が複数並んでいる? 赤や緑の小さな点滅が見える。そしてあれはコードだろうか。いくつものコードが、壁に、床に、這うように横たわる。そしてそのコードに視線を辿らせて、そこで私は、
「――!」
声にならない声、というのは、こういうものだろう。
私はそこにある光景を信じられずに、その空間で、息を呑んだ。
物体が、そこにあった。
そしてそれを物体と呼ぶ私の人格の無さ。しかしもその時の私は動揺していた。それを、『物体』と呼ぶ以外に、私は言葉を知らなかったのだ。
私は呆然と立ち尽くす。そして、動けぬ私を取り残し、その物体は微かに身じろぎ、そして、あわく声をあげる。
「せん、せいっ……」
はっとする。
私を。
それは、その声は、私を呼んでいる。
ああ。
深淵の奥で、私のよく知ったその眼は、私を見ている。
私は、どうにかして、自らを思い出さなくてはならなかった。そして、なにか言わなくては。
驚愕を呑む。呑み込む。
そうだ、私は何のためにここに来たのか。
「あ、あの……」
口を開いてみるが、言葉が自然に出てこない。
頭を働かせて、どうにか言葉を紡ごうとする。が、
「明かりを、つけてください」
その声に阻まれる。
声は、私の前の――つまりはその物体、否、その子から発せられたものであった。
「明かり?」
「はい。その壁の……、入口のところに、ある……っ」
その声は、穏やかではない。
しかし、対話に不便はないようだ。私は少し落ち着きを取り戻す。
「それです、」
その声と共に、私はスイッチのようなものを押した。途端、部屋の天井に付けられた蛍光灯に白い光がともる。
室内の闇は払われ、部屋の隅まで照らされる。並べられた機械、色取りどりのコード、白い天井、壁、床。そして同時に、機械の音が止む。どうやら明かりを灯すのと、機械の動作を止めるのは、同じスイッチのようだ。
明かりは狭い部屋のどこまでもを照らしていた。
そしてそれは、部屋の中央にある、機械の核までをも照らし出す。
「――こんにちは。先生」
「な……」
挨拶をしたのはその子であった。
流れるように長く白い髪、淡い色の肌。そして、それらとは対照的な、どこまでも沈んでいくような黒い瞳。その瞳の表面は、空間の光を反射して綺麗で、深かった。そう、私の目的、私が会うべき少女は、そこにいたのだ。そこにいたのだが。
それだけではないのだ。
「どうしたの、それ」
私は素直に聞いた。そうする他の選択はなかった。
少女は動きにくそうな体を少し動かし、それから首を少し傾げて言う。
「これ、」
肯定と疑問の混ざったような声であった。
「……これら。わたしの本体」
「本体?」
「はい」
「この、コードが? その鎖も?」
「はい」
「なんで?」
私は、分からなかった。
目の前にあるものが、信じられなかったのだ。
――少女の名は空という。私が担任をしている二年三組の生徒だ。
穏やかで明るく、しっかりした子である。生徒からの評判もいい。それもあってか、二年生にして生徒会の委員長を務めている。歴代名を遺した委員長は、小柄で白髪だという迷信もあるが、彼女はその歴代に名を恥じぬ行いをしているだろう。
私も、空の事は気に入っていた。そしてそれだけではなく、空も私を好いていてくれるようであった。私と彼女は“趣味”が合ったのだ。
彼女は穏やかな性格だが、意外にもこの世界への異議というものを持っていた。彼女のふとした言動でそれは露呈したのだが、それに気付いた者は私しかいなかった。そこから私と彼女の趣味の日々は始まる。
世界の掟というものは厳しかった。掟はそういった意思――世界への異議を唱えること、を公にしてはいけないのであるから、彼女と“趣味の”話をするには密会のような事をしなくてはいけなかった。ゆえに、彼女と私の間には言語では到底表せそうにない、奇妙な仲が出来てしまったのだ。
……しかし、すべてこれは二ヶ月前までのことであった。
ある日を境に、空は学校に来なくなったのだ。
学校で問題があった訳ではない。最初に学校へ来なくなったその日から、彼女の母親から連絡があったのだ。『これからしばらく、空は学校に行けなくなります』と。詳しくはいろいろと書類があったのだが、それにも同じようなことが硬い言葉で、しかし曖昧に書かれているだけであった。
近年、世界が表面的な崩壊を始めて、生徒が急に学校に来られなくなるのは珍しい事ではなかった。なんらかの体の異常、地方からの急な召集、または学生そのものをやめなくてはいけない事情など。
空の場合も、そうだと思っていた。きっと避けられぬ事情があるのだろうと。
だがしかし、そうではないらしいのだ。
先日、彼女の母親が私宛に手紙を送ってきた。手紙の内容は一言、『空に会ってやってください』と、そしてこの塔の場所が描かれた簡単な地図であった。
そうして私は、この石塔を訪れたのだ。
目の前の少女は、まず、黒い柱のようなものに鎖で括り付けられていた。この柱、横に、縦に、赤い光の線が走っており、不気味にその存在を示している。その柱に空は、救世主さながら腕を広げた格好をし、鉄の拘束具でとらえられている。薄いワンピースのようなものは着ているが、細い腕や足はむき出しで、その部分部分には様々な色のコードが繋がれていた。コードの先は、部屋に並ぶ複数の機械に繋がっているようだ。
「空、それは」
私は知りたかった。
空は、私の誇りの生徒である。他の組からの評判もいい。その穏やかな人間性も、他人から好かれる点の一つだろう。……しかしそんなことは、どうでもいいのだ。
まだこんなにもいたいけな少女をつかまえて、訳の分からない機械に括り付けて。そんなの、こんなの、許せると思うか。
私は、奥底からの怒りを感じていた。先ほどまでの驚愕を嘘に感じた。そして私は、ここに来る前に感じた少年のような感情を侮蔑した。
「知りたいですか」
肯定と疑問の混ざった声音になってしまうのは、今や彼女を取り巻く事実の基本なのだろう。まるで感情が抜け落ちてしまったような――そこまで考えて、私は考えるのを途絶える。怒りが表面に出てきそうになる。しかしそれをここでするのは、空にとって、私にとって、有意義なことではない。
私が今すべきことと言えば、この状況で硬直しかけた首を動かし、彼女の問いに強く頷くことのみであった。
それを見て、少女は小さく口を開く。
「――この地区は、もうじき焼き払われます」
「焼き払われる? ……先の、北区みたいに?」
「ちょっと違う。あれは事故。……でもこれは不可避。空中からの爆撃です」
「爆撃って……。なんでそんなことが分かるの?」
「昔、こわい人達が、この地区に来ました。こわい人達は地区長さんと話をしました。こわい人の代表は、この地区を渡してくれなければ……。という話をしていました」
「いつの話?」
「八十年前」
「結構前だね」
「わたしもいました」
――え?
私は少女を見つめる。空は表情を変えず、こちらを見ている。
彼女は今なんて?
「どういう、事?」
「わたしは……、わたしたちこの地区の者は、ゆっくり歳をとります。これは、わたしたちの事実」
彼女は、朗読するように答えた。
私は彼女の言葉を、何度も頭の中で繰り返した。どういう事だろうか? 信じることが出来なかったのだ。
「わたしたちの事実は公に知られてはいけない。世界の混沌は増す。こわいひとたちはそれが狙い。
こわい人たちはわたしたちを公にしたかった。いや、わたしたちを知って、こわい人たちができたと言ったほうが正しい。
……しかし今や、世界に許可されぬものが情報を多数に発信することは絶対に不可能。ゆえに、こわい人たちは、事を大ごとにするため、知恵を使わざるを得なかった」
彼女は淡々と話していく。乾いた言葉が只々並べられていく。
「……こわい人たちは、わたしたちを、狙撃することにした。地区の開放はおまけ」
「え……、それらが本当だとしても、地区を開放して他のところに移住すれば……」
私は何を言っているのだろう。信じられないまま話は進んでいくのに、疑問を問う余裕がまだ残っているというのか。
「不可能。そのころからすでに地区ごとの正確な管理は行われていました。わたしたちは奇なる存在。別の地区に行った途端、世界に何らかのゆらぎが生じる。わたしたちは狂逸した異物。他人に信じられるものではない」
状況が呑み込めない。
一つだけ分かるとすれば。つまりは、この少女は、狙われているのだろう。それだけしか分からなかった。しかし、それだけでも十分な重みがあった。
「八十年間の猶予。それはわたしたちが異端である事の証明です。わざわざ敵はわたしたちに時間をくれた。わたしたちという、たった一つの、証明のために」
言葉の羅列が、無感情に並べられる。
その中に一つだけ、引っかかる言葉があった。
「……敵?」
「敵。普通に歳をとりながら継続的に同じ意思を持ち続ける、つまり団体の敵。
わたしたちは、この地でしか暮らせない。よってわたしたちは、それらと戦うことにしました。
――かくして、わたしはここにいるのです」
少女は口を閉じる。
かつて委員長として、私の趣味の仲間として、人として振る舞っていたあの表情はどこにもない。
「……だから、こんな、柱とか、鎖とか、この……たくさん、コードとかが、あるの?」
私は恐る恐る聞いていた。困惑していて声が出るのも不思議なくらいであったが、私はその震える声で、彼女に言葉を求めた。
「そうです。わたしたちがこの地区でずっと作ってきた希望。わたしの感情すべてと、生命力が糧。二ヶ月前から、わたしを核にして機械は動いている」
「機械……」
「大空にあるものを、なかったことにする装置。音をたてず、相手に形すら残させないことが可能。これで上空の敵を撃つ」
撃つという言葉が、感情の途絶えた彼女の文字列で異様な重さを放っているようであった。事実は、事実なのだろう。すんなりと受け入れられる事実ではなかったが、別の解釈はどこにもなかった。
では、彼女は、本当に……、感情すべてを失うつもりなのか。そして、そのあとに聞こえた、生命力、という言葉。
何もかもを失うつもりで、彼女は、戦う?
そんな、馬鹿なことが。
「嘘だよね」
「本当です」
「なんで」
「――わたしは、装置」
――この黒い柱、機械、いくつもの導線、これらすべてを統べるもの――
彼女はそう言ったらしい。
私はそれを耳で聞いて、頭で理解しなかった。
私は、彼女の腹にまとわりつく鎖に飛びかかっていたのだ。
「なんで!」
声。
これは私の喉から気付かぬうちに出たものであった。感情をぶつけてしまうのは、ここにいる誰の得にもならないと、先ほど思っていたはずなのに。
それでも私は抑えきれなかった。
私の怒りはすでに加減を知らなかった。
「やめてください」
静かに抑制される。
「どうやってもこれらは外れない、そしてそれをわたしは望まない。わたしに、最後まで人間らしい生き方をさせてください」
人間らしい?
これの、どこが。
「装置って、自分で言ったじゃないか。これの、どこが人間だって言うんだ!」
「望んだことを、望んだままにすることが、そう。わたしはこの地区の、同族の人々の為にいきて、しぬ。それが願い。そして……」
彼女が少し、言葉を噤んだように見えて私ははっとする。抑制する強い瞳。
が、それも束の間、言葉を紡ぐ。
「――先生に、お願いが」
「……私に?」
私はどうにかして、行き場のない感情を抑えようとする。息が荒くなっていたかもしれない。それでも、それが、私にできる全てだった。
「はい。わたしは、都市の監査の為に、学校で委員長をしてきました。一度だけではありません。別の時代に、何回も」
ああ。
この状況で、私は咄嗟に理解する。学校に伝わってきた迷信は、本当だったのだ。委員長が小柄な白髪の人間である時代は安泰だという迷信。それは全て、彼女なのだろう。
つまり、彼女が特殊な人間である事も、事実として認めざるを得ない。心が締め付けられる気がした。本当に、彼女が。それでもその心の締め付けは、目の前で、鎖に捕らわれている彼女に到底及ばないのだろう。
「……今回、委員長の続行は不可能」
顔を少し伏せる。残念な気持ち、の現れなのだろうか。私には分からなかった。きっと本人にしか分からないのだろう。それでも私は、それが『残念な気持ち』であればいい、と思った。彼女に最後まで、感情を残してもらいたかった。
そう、私が絶対的なあきらめを抱いたのは、この時だった。彼女はもう、助からないのだと。
「ですから、わたしは辞退します。他の人に、お願いしたのです。その手続きを、先生にお願いしたくて」
抗いようのない現実というものがある。今の世の中は、大半がそうなのではないかと思う。そして、これも、そうなのだろう。世界は、出来上がりすぎたのだ。それを拒むようにして、空やその一族は生まれたのかもしれない。世界はいつまでも皮肉である。
そう。
空は、いたいけな子供ではない。
そして、絶対にこの状況から救われることはない。彼女を救えるのは、彼女の選択のみなのだ。私はもう、何も言えない、言ってはならないのだ。
私は、せめて、彼女の為ならなんでもしようと思った。
彼女は、どんな理由を負っていたとしても、私の生徒なのだ。抗えないというのなら、せめて彼女の心を救いたかった。
そして、今抗えなかったものを、いつしか。
「それだけ。これが、わたしが先生を呼んだ理由」
それだけ。
十分である。
彼女の意思で、使命感を持って最後まで仕事に励んだのだ。これこそが空という人間である。感情がなくとも、使命の為に生きる。
そうだ。と私は理解する。
彼女が今ここにいるのも、全て彼女である為なのだろう。人の為に生きる少女。ただそれだけの証明が、目の前にある。
私には今の空が、とても悲しく、それでいて誇らしく、美しく思えた。
「うん、わかったよ」
私は返事をする。
彼女の意思を、引き継ぐのだ。
「わたしの代わりに手紙を送ってくれた母。わたしの母は、母という役割を持った普通の人間。わたしを産んだものではない、それでも、感謝している。
そして、この感情は等しく、先生にも」
空は、一呼吸おいて、そして言う。
「ありがとう」
笑顔だった。きっと他人が見たら、無表情だと言うだろう。
それでも私には分かった。空は笑顔だった。
「一つ、聞いていかな」
私は空に一つ問うことにした。
空は頷く。
「なんで、私にはいろいろと話してくれたんだ? ……その、特別な人間であることとか」
空は黙った。
考えを巡らせているのか。それとも、言うのを拒んでいるのか。
私はどこでもない宙を見て時が動くのを待った。彼女は答えてくれるだろうと。
そして、その予想通り、彼女が口を開いたのは、しばらく経った後である。
「先生は……。こわい人じゃ、ないから」
「こわい人じゃない?」
「わたしは、大体の人がこわい。“敵”じゃない人も、こわい。それでも先生は、こわくなかった。先生は話の合う、いい人だから」
ありがとう、と私も言う。
空は私の事をじっと見つめた。表情は無い。それは運命の為にすべてをかけた、彼女の誇りである。そして、私の誇りの生徒でもあった。それ以外に、なにもなかった。それでいいのだ。
「……もうすぐ、機械を起動させなくてはいけません」
ふいに、彼女はそう言った。
ああ、これで別れが来るのか。と私は勘づいた。
「この部屋の明かりを消せば、機械は動き出します」
「機械って、苦しいのか?」
「慣れました」
淡々と述べる。
やはり、私の心には、彼女をかわいそうだと思う気持ちが確かに残っていた。それを振り払うように、私は言う。
「空の他に相応しい委員長がいるだろうかね」
「いる。絶対にです」
「そうだといいなあ」
そう答えながら、“空の代わり”はもういないのだ、と知らされる。教室で笑う空を見かけることはもうない。世間から逃れて、空と二人で世界を語ることも、ない。ただ学校の迷信だけが、空がかつて存在していたことを示し続けるのだ。
かつて、か。
私はふいに、彼女の存在を今一度確かめたくなった。彼女の存在を、記憶にずっと残しておくために。
「一つだけ、いいかな」
私はそう言いながら、空に近づいた。
「なんですか」
「……空、今まで、よく頑張ったね」
と、私は空の頭に手を置いて、撫でた。
この時、私は何をしているんだろう、と考えたくなったが、堪えた。空の頭は暖かかった。柔らかな髪の毛が一本一本、光を反射して綺麗だった。
空は生きている。そのことが皮膚を通して伝わってくる。
空はびっくりしているようだった。表情こそないが、うまく言葉を出せないでいるようだった。
「なんかその、ごめんね」
私は手を放して少し後悔した。空の為に何かをしたかったのだが、これでは駄目ではないだろうか?
すると、空は私を見上げた。
「平気、です。嬉しかったので……」
空はそう言った。表情は、よく分からなかった。そして、
「もう、決心がつきました。明かりを消してくれませんか、機械を動かします」
と言った。
「明かり」
「さっきのスイッチです」
後ろを向く。そこにスイッチはある。これを押せば、部屋の明かりは消え、機械は動き出す。空は元の暗闇に戻っていくのだ。
「それです」
スイッチに手を触れる。
「本当に、……いいの?」
私は空にそう聞いた。聞くことが無意味であることくらい、分かっていた。
「お願いします」
空は確かにそう言った。
これで、終わりなんだな。そうぼんやりと思った。
力を少し込めれば、すぐに反転した。スイッチは押され、先ほどまでの明かりは嘘のように闇に吸い込まれた。
同時に、目を覚ましたかのように機械が動き出す。その音は部屋にむなしく響いている。ちかちかとした点滅が、鼓動のようにも見えた。
暗闇の中で、空が少し動いた。やはり苦しいのだろうか。私はここに残るべきだろうか、と考える。
しかし空はそれを察したのだろうか。
「もう、行ってください。お願いします」
そう私に訴えかけた。
私は、振り向いて、それから二度と振り向くまい、と決意する。
「……じゃあ、私は、これで」
振り絞って出す言葉。意識したつもりだが、不安感は拭えていただろうか。
「はい」
空は静かに返事をする。
それを聞いて、私は歩き出す。固い足音が機械音に混じる。
「先生」
「なんだい?」
暗闇から静かに聞こえる声。
振り向きたい気持ちにかられるが、振り向いてはいけない。振り向いたらきっと、ここから立ち去れなくなる。
その暗闇の中で、最後に空は言った。
「――さよなら」
静かで、しかし強い声であった。
「……っさよなら!」
私はそう言葉を吐き捨てた。そして、早歩きで――ほとんど走るように、部屋を出た。
さよなら。
空。
きみは私の自慢の生徒だったよ。
これからも私の誇りだよ。
私は感情を全て押し殺して、部屋の外の倉庫を走った。並ぶ黒い武器は、空以外にも戦うものがいる、という事だろうか。私は少し安心する。
私は立ち入れない戦いなのだろう。どうか、せめて、空のしてきたことを無駄にしないでやってください、と、私は祈りを込めた。
そして、重い扉を押しあける。
途端、眼前に広がる橙色の世界。夕焼け空である。
不思議な光景であった。
視界に映る一帯の田畑、育ちかけの緑が、夕焼けに照らされて綺麗に並んでいた。遠くまで広がっている土地が、橙に染まっている。
ここは美しい土地である。
遠くに見える町の中心部が、幻想のようである。真実はこちら側だったのだ。私はもう一度一帯を見渡した。そして、この地区の平穏を願った。
ふと空を見上げると、茜色の空が、優しく一帯を包み込んでいる。よく見ると、あちこちに薄く星が見えていた。
もうすぐ夜が来るらしい。
辺りは暗空に閉ざされ、この景色も拝めなくなるだろう。
私は今一度、この景色の永続を願った。空の愛した一族の為に、どうか幸あれ。この地区の、来たるべき朝を迎えるために。
そして私はその地区を立ち去った。この地区に踏み入る許可証は破棄されたので、二度とこの地区に来ることはないだろう。
さよなら空。
私は幻想の町に消えるのだ。たった一つの意思を抱いて。
さよなら。
私は静かに、空を思った。
なにも出来なくてごめん。と。そして、それから、空の悲願を思った。
彼女の意思を、引き継ぐのだ。
抗えなかった自分の不甲斐なさと、彼女の思い。
ああ、やってやるさ、空。
君のやってきたことを、決して無駄にはしない。
暗空を仰ぐ。
行こう、空。
私は大地を踏みしめる。
これからは空の意思と一緒に、この世界の事を否み続けよう、と。
こうして私は、この作られた世界へ抗うことを決めたのだ。
一人の人間が少女の為に世界へ叛逆するようになるまで
(121110)