猫
特になんということもない話。
猫は、毎朝決まって、塀の上の日のあたる場所で丸くなっていた。
私がその猫に顔を合わせるようになったのは、猫の定位置であるそのコンクリート塀が、ちょうど自宅から駅に向かう通り道にあったからである。
しかし私は、初めてその茶寅模様の身体を目にしたとき、一目ではそれが猫であると分からなかった。遠くから眺めると、ただ茶色の塊が塀の上に放置されているようにしか見えなかった。それは、猫が眠り込んだまま微動だにせず、周りの風景に完全に溶け込んでいたためかもしれない。近くまで寄っていって、初めてそれが単なる静止した風景の一部ではなく、香箱を作って寝息を立てている大きな体の猫であることに気が付いた。猫は朝の日の光を全身に受けて、気持ちよさそうに目をつむっていた。私が正面に立つと、その気配に気づいて片目だけを薄く開いた。しかし目の前にいる人物を確認すると、その動作だけで自らの身の安全が確保されたとでもいうかのように、猫は再び目を閉じて眠りに戻ってしまうのだった。
そんな猫の様子を見て、私はある懐かしさを感じた。私は、自分が子供の頃飼っていた猫のことを思い出していたのだ。
それは、この猫とちょうど同じような茶寅模様をした猫で、子猫の頃に道端に捨てられていたのを私が見つけて拾ってきて、両親の反対を押し切って飼い始めたものであった。茶寅模様には雄猫が多いという話だが、その猫は珍しく雌猫だった。しかし、幼い私は、その勇ましい縞模様から連想されるがまま、「とら」といういかにも男らしい名前をつけ、遊び友達として文字通り猫可愛がりしていたものだった。だが、そんな私の思いを知ってか知らずか、飼い始めてから数年経ったある日、「とら」はふらりとどこかへ出かけていって、それきり帰ってこなくなってしまった。
私は、目の前の猫に、そのかつて飼っていた「とら」の面影を見いだし、やにわに右手を猫に向けて差し出した。その手が猫の左耳に軽く触れると、左耳はそれを追い払うようにぴくぴくと細かく動いた。だが、当の猫自身は、相変わらず落ち着き払って目をつむったままである。私は、そのまま手を伸ばし猫の頭を撫でた。ここまでされても猫には嫌がるような素振りは見られず、むしろかえって気持ちよさそうに喉を鳴らした。これだけ人に慣れているところを見ると、首輪はしていないものの、おそらくは飼い猫なのだろう。きっと、この塀の向こう側の家の住人が飼い主であるに違いない、と私は思った。
翌日、出勤途中に再び塀の前を通りかかると、前日と同様に猫はそこで丸くなっていた。その次の日も、またその次の日もそれは変わらなかった。
猫が毎朝必ずそこにいることが分かった私は、あるとき、気まぐれに、前の晩の酒のつまみの残りを持っていってみた。ナッツや小魚が小分けにされた小さなビニールパックである。パックの口を開け、中身を手の平の上に空けて、猫の鼻先に差し出してみる。猫は目を開け、少しの間それを眺めたり匂いをかいだりしていたが、やがておもむろに口をつけ始めた。意外にも気に入ったようで、それらを全てきれいに平らげ、なおも未練ありげに私の手の平を舐めた。猫の舌のざらついた表面に撫でられた手の平は、少しくすぐったく感じられた。その感触は、確かに昔感じたことのある感触だった。
私は、猫の脇の下に両手を差し入れると、そのまま体を抱え上げた。猫は迷惑そうに目を細めてはいたものの、逃げ出そうと体を動かす様子もなく、されるがままその下肢をだらりと投げ出していた。その股の間に睾丸が見えた。雄猫である。
分かってはいたことだったが、昔飼っていた「とら」は雌猫であったのだから、同じ猫ではない。そもそも「とら」を飼っていたのがもう十何年も前のことなのだから、「とら」が今も生きているとは考えがたかった。
しかし、それでもなお、この猫にかつての飼い猫の姿を重ねて見てしまっている自分がいることに、私は気づいた。それは、長らく会っていなかった友人に道端で偶然出くわしたような、驚きや懐かしさ、または気恥ずかしさなどが入り混じった、不思議な気分であった。
それから毎日、私は毎朝ちょっとした食糧を持参して猫に会いに行くようになった。猫が飼い猫であるとすれば、飼い主に断りなく勝手に餌を与えるのはまずいようにも感じられたが、当の猫自身が美味そうに食物を頬張る様を見ると、どうしてもやらずにはいられなかった。出勤前のそのわずかな時間は、この街で新しい生活を始めたばかりだった私の心に、一時の安らぎを与えた。この街にも、通勤ラッシュの満員電車にも、卸し立てのスーツにも、新しい生活の全てに未だ慣れことができないでいた私にとって、そのときだけが日々の生活の慌しさを忘れることができる唯一の時間であった。もちろん猫の方はといえば、そんな私の思いなどどこ吹く風という顔をして、食事を終えるとすぐまた朝寝の続きに戻ってしまうのだったが、私にとってはそれで十分だった。
そんな日々がしばらく続き、ようやく新しい生活に慣れてきたと感じられるようになった頃、私は所用で一週間ほど家を空けなければならなくなった。その間ももちろん頭の片隅には猫のことがあり、ふとした折に思い出しては、今度は何を持っていってやろうか、などと考えたりもした。だからこそ、一週間ぶりに例の塀の前を通るときは、私は猫との対面を今まで以上に楽しみにしていたのだ。
しかし、いざいつもの塀の前まで来てみると、予想もしていなかったことが起こった。そこに猫がいなかったのである。周囲を見渡しても、その辺りに潜んでいそうな気配もない。
当てが外れて多少失望したものの、そのときは、おそらく今日は何か事情があってたまたまここに来られなかったのだろう、という程度にしか思わず、そのまま塀の前を通り過ぎた。ところが、翌日も、また翌日も、猫がそこに姿を現すことはなかったのである。
事ここに至って、私は昔飼っていたあの猫、「とら」のことを再び思い出した。愛情を注いでいたにもかかわらず、ある日急に去っていった「とら」――。大人になった私は、猫が急にいなくなるのは、多くの場合その猫の死期が近い場合であるということを知っていた。猫は、具合が悪くなると、周囲の敵に襲われるのを防ぎつつ体調の回復を図るため、自ら身を隠すようになる、と何かの書物で読んだことがあった。それを思い出すと、姿の消えた猫のことが余計に気になって仕方がなくなった。半ば祈るような気持ちで辺りを探してみる。しかし、それでも猫の痕跡すら見つけることはできなかった。
するとその時、塀の内側の家の中から一人の女性が外に出て来た。いかにも品のよさそうな老婦人である。彼女は箒を手に持ち、家の前の道を掃き始めた。この家の住人であるということは、おそらくあの猫の飼い主であろう。私は、いてもたってもいられなくなり、咄嗟に彼女に声をかけた。
「すみません、つかぬ事をお伺いしますが……。あの、お宅の猫はどうしてしまったのでしょうか」
突然見ず知らずの男に話しかけられた老婦人は、驚いたように顔を上げ、私の方に向き直って尋ね返した。
「ええと、ごめんなさい。何ですって?」
「ですからその、お宅の、毎朝ここの塀の上で日向ぼっこをしていた猫のことです。最近見かけないようですが……」
私は、塀の上を指差して言った。おそらく顔には困りきったような表情を浮かべていたことだろう。
すると、老婦人はようやく合点がいったように、頷いて言った。
「ああ、あの猫のことですか。そういえば数日前から見ませんね。急にいついたかと思ったら今度は急にいなくなるなんて、おかしな猫ですね」
彼女の一言は、私にとって全く思いがけないものだった。
「……え? あの猫はお宅の飼い猫ではなかったのですか?」
「ええ、違いますよ。たぶん野良じゃないですかねえ。ただ、餌は色んな人がくれていたようですけどね」
彼女は、あっけらかんとした調子で言った。
その言葉を聞いて、私はしばらくの間、呆気にとられたように口を開けたままになった。
自分がこの家の猫であると考えていたあの猫は、どこの家の飼い猫でもなかったというのである。それにもかかわらず、猫はまるでここの家の住人であるかのような、いや、このあたりの地主ですらあるというような顔をして、どっしりと落ち着き払ってこの場所に居座っていたのである。なんとふてぶてしいやつだ。
しかし、それがかえって彼らしくもある、と同時に思った。胸の奥のほうから、ふつふつと細かい笑いが込み上げてきて、とうとうこらえ切れなくなって、私は小さな笑い声を上げた。事によると、今回の失踪劇も、彼が新たな餌場所を求めて、単に場所換えをしただけのことなのかもしれない。彼はきっとまた新しい街で、人々に安らぎを与えるのと引換えに、食物をもらって暮らしているのだろう。
私にはなぜだかそのような気がしてならなかった。
猫
書き終わってしばらくしてから、the pillowsというバンドの「ストレンジカメレオン」という曲中の、「いつか懐いていた猫は、お腹空かせていただけで」との歌詞の一節が無意識のうちにネタ元になっていたことに気づき、愕然。