銀河傭兵列伝 禿鷲と呼ばれた男

銀河傭兵列伝 禿鷲と呼ばれた男

『スペースソルジャーズ』外伝の2。
戦場ではない場所で孤独な戦いを続ける連邦軍の掃除屋、『禿鷲』カスパー・ノリスの活躍を描く。

銀河傭兵列伝 禿鷲と呼ばれた男

     (一)

 天井に近い柱に懸けられた細いランプがあった。蔦草の彫刻に縁取られた古い形ではあったが、中で点るのはセシウムランプだ。それだけが部屋唯一の明かりだった。
 頼りない明るさだが、部屋の調度は見て取れる。壁や天井の彫刻と言い、柱一本一本の質感と言い、古代チッペンデール様式の見事なまでの模倣。ロデム模様のカーテンがエアコンの起こす微風に揺れている。暑すぎもしなければ寒すぎもしない。マスクタイルに覆われた床が、震動をベッド脇のテーブルに伝える。置かれたデカンタの中で、水が音もなく波を立てている。
 震源は部屋中央に据えられるベッドだ。
 白く淡い光が、皺だらけのシーツを細長く照らし出す。そのシーツを掴んでいる太い指がある。シーツを揉みしだき、のたうち回る肉の塊がある。体が蠢く毎に、筋肉の上に幾重にも積み重なった脂肪の層が浮き出て揺れる。体毛のない膚に滲み出した汗が、ランプの明かりにテラテラと光る。よく見ると、その両腕はベッドの端に縛り付けられているのがわかる。
 その股間から、ゆっくりと顔を上げたのは女だ。
 唾液で濡れた唇の隅が心持ちカーブを描き、笑みらしき表情を形作る。舌先がちろりと顔を出し、女の顔は再び、横たわる肉の塊の広げられた脚の間に埋められる。肉塊の主がフイゴから漏れる摩擦音のような喘ぎ声を上げ始める。女の舌先がそよぎながら、肉塊の主の股間にそそり立つ、血管の浮き出た男根を上下する。舌先は次第に下がってゆき、遂には尻の割れ目の向こうに隠れてしまう。そこには既に先客がいる。女の白い指先だ。
 舌と指とが肉塊の尻の一点に集中する。一際喘ぎ声が高くなり、肉塊の贅肉に覆われた両脚が高々と持ち上げられる。女の舌と唇とが立てるピチャピチャという音が、絶え絶えな息の合間に聞こえてくる。
 肉塊が激しい息遣いの下、嗄れた声で呟く。
「…お、恐ろしい。わしは、恐ろしい。わしは、わしは…」
 瞬間、一際激しい感覚に背筋を貫かれたらしい肉塊の主は、醜いよがり声とともに弓なりにのけ反る。女の含み笑う声が、薄暗い部屋に木霊する。


    (二)

 流れる音楽をかき消すように、着飾った女たちの嬌声が明るい大広間に木霊した。
 大広間は百人近くの人間で埋め尽くされていた。嬌声はその一角で起こった。赤や黄色、紫のドレスが散った花びらのように一斉にそこから離れ、輪を作った。取り残されたのは一人の男だ。
 小男だった。取り巻く娘どもよりかなり低い。一五〇センチそこそこだ。意味不明のわめき声を上げ、自分を取り巻く娘どもを追い回す姿は、大家族の中で姉たちにからかわれる幼児を思わせた。もちろん酔っ払った足取りでは娘どもに追いつけず、延ばした指先もことごとく擦り抜けられてしまった。とうとう目を回したらしい男が、シノワズリ――蔓草が渦巻きを描く――模様の彫刻に覆われた柱に頭をぶつけたのを見て、娘たちがわっと笑った。
 青いスーツの袖や肩に入る三本のストライプは、男が銀河連邦軍の少尉以上の階級であることを示していた。
 ゴツン…、という鈍い音は、大広間の窓際にまで届いた。窓際に並ぶ一際大きなテーブルにて、声のない笑いが生じた。そこにはこの星の要人たち、惑星総督、副官、各省庁の総監たち十一名全員が陣取っていた。彼らを護衛するために大広間の外には私設の武装警備部隊百二十人が、中には連邦軍の警備部所属兵八人が配置されていた。
 その横、広間で一番大きな飾り窓の真下に、もう一つのテーブルがあった。位置から見ればそこは要人たちのテーブルより上座に当たった。そこには六人の男女しか座っていなかった。
 その席に座る二人の女が、男――軍人の無様な姿に、声を上げて笑い出した。
 赤と白、色違いのドレスを着ている二人は驚く程よく似ていた。遠目から見ると双子かとさえ思われた。二人ともその容貌、気品ともに、パーティに出席する他の女たちとは比べものにならなかった。特に白いドレスを着た若い方、彼女の容貌にはどんな男をも振り返らせずにはおかない凄絶な美しさがあった。赤いドレスの年かさの女には成熟のもたらす落ち着きがあったが、やはり美しさでは若い女に一歩譲った。しかしそのスタイルは四十時塊歳を越えた今も少しも衰えてはおらず、二十時塊前には彼女も若い女同様の、あるいはそれ以上の美しさを誇っていたであろうことは容易に想像できた。
 要人たちのテーブルから、服に隠された場所以外は全て鱗に覆われたマルシ星人、惑星総督のエメク・ロルタンが立ち上がり、年かさの女の横に座る恰幅のいい中年男に話しかけた。「…ハルディスク様はもうお会いになられたのでしたかな?」
「いや、まだ挨拶は受けておらん」
「あれが新任査察官、カスパー・ノリスです」
 ハルディスクと呼ばれた中年男は精力家らしい脂の浮いた頬の肉を震わせ、頷いた。少しばかり目に濁りがあったが、頷く仕草は総督以上に貫録のあるものだった。視線は、娘たちの尻を未だ追いかけ回す軍人に向けられていた。
「査察官らしからぬ振る舞いだな」
 ええ、総督ロルタンは言った。「とにかくとんでもない男です」
 赴任初日の挨拶の日から、自慢話にかこつけた袖の下の要求です。あの星ではこんな厚遇を受けただの、この星ではあんな謝礼を貰っただのどんな女を宛てがわれただの…。後日念のために、信頼できる連邦軍の情報筋に問い合わせてみたところ、全て事実だと言うことでした。「しかも挨拶のついでに、私のところの総務官秘書の娘を口説いた揚げ句にさらって逃げまして…」
「仕事中にか?」
「はい。で、やるコトをやった後で、実は自分は大柄な女の方が好みなのだ。そちらに大柄な娘はいないかなどと、怪しからんことを言い出しまして…」
「その秘書官の娘はどうした?」
「奴めの台詞を聞いて泣き出す始末で。何でも最初は奴めに結婚しようなどと言い寄られた果ての行為だったらしく、傷心のあまり今も家に閉じこもっているとの話で…」ロルタンはしきりに頭を下げた。「いやはや、全くとんでもない査察官が赴任してきたものです。連邦にとって大事な時に、あんな男が軍人面して平気な顔でのさばっているなどとは、連邦軍も堕落したと言うか…」
 ――アークトゥルス星系辺境に置かれている人工惑星ホルベルク。半径一千二百キロメルテの巨大な球体の中に、七千八百万もの人口を擁する。
 一応惑星都市としての機能を有し、辺境や連邦圏内との交流も盛んに行うホルベルクだが、実はここが連邦三大財閥の一つ、スーミット一族の私有域に過ぎないことは誰もが知っている。
 四層に分けられた球の内部には家電製品から軍需産業までを手掛け、連邦軍や連邦圏内あらゆる星と取引するスーミット重工の関連施設しかないと言ってよい。人工惑星ホルベルクは《スーミット重工開発素材研究システム》の本社でもあるのだ。第二層には工場、研究所が立ち並び、第三、四層はそこで働く従業員たちの居住区となっている。七千八百万の人口の八〇パーセントはスーミット重工の従業員たちである。
 総督府や各省庁の建物は第一層に集中している。だが、その中心に置かれているのはこの人工惑星ホルベルクの実質的な支配者であるスーミット財閥の一員、タルカン家の広大な屋敷である。連邦政府に選ばれたとは言っても、総督や各省庁の総監たちは実質、タルカン家の下僕に過ぎない。裏から手を回し彼らを任命したのはスーミット一族だからだ。ここでは連邦軍も許可なしには動き回れない。軍需産業の機密を守るのは連邦警備隊ではなく、スーミット財閥お抱えの私設警備部隊である。
 それでも何か大きな事変のあった時の備えに、ホルベルクには連邦軍から派遣された査察官が常駐している。機密を狙ってのスパイ事件、辺境での帝国の動きなどを軍中枢に報告するのは査察官の役目だ。
 惑星総督エメク=ロルタンの私邸にて、十時限毎に開かれるパーティがある。
 過去、スーミット重工の機密を狙ってホルベルクに潜り込んだ帝国のスパイは十人を下らない。第三国からの外交官を装って入り込む連中も多かった。パーティはあらゆる客人を監視し、危険な要素をあらかじめ特定する役割も担っていた。
 そのパーティが、今回は新任査察官の歓迎と監視とを兼ねることになった…――
「…そのくらいの方が扱い易くてよかろう。何しろ前任者がカチカチの石頭だったからな」
 ノリスの前任者であったバーン・スタンレイは連邦軍士官学校を空前の好成績で卒業した、自他共に認めるエリートだった。その彼が、ゴミとともにホルベルク外の真空の宇宙に放り出されているのが発見されてから、二十時限が過ぎていた。
 …新任査察官カスパー・ノリスに興味を失ったらしい《スーミット重工開発素材研究システム》社長ハルディスク・タルカンは、斜め前に座る痩身の副社長パブリスタ・スタルムと明時限に開かれる重役会議について、くたびれた様子で話し始めた。ハルディスクの言葉に頷きつつ、スタルムは時折険しい顔で、酔っ払い浮かれる査察官を睨みつけた。その横では、ドレスの二人には負けるがそれでも充分に美しい女性秘書官サージャ・アプローズが、車椅子に座る老人に、優しい手つきで飲み物を飲ませていた。
 ドレスの二人、ハルディスクの妻マーデリンと、その娘ナーダリアはまだ笑っていた…。 広間の演奏家たちが曲を変えた。明るかった音楽が猫のすすり泣くような曲調になると同時に、シャンデリアの照明が少し落ちた。娘たちは一斉に相手を見つけ、静かに踊り始めた。
 酔っ払ったカスパー・ノリスは一人取り残された。踊りの相手になってくれる娘が誰もいないことに気づくと、彼は千鳥足で要人たちの席に寄ってきた。要人たちの顔から苦笑が消えた。
 要人たちの席を通り過ぎ、タルカン家の席にまで進んだノリスは、マーデリンとナーダリアの前に立ち、辺り構わぬ大声を張り上げた。
「…これはこれは、タルカン家の奥様とお嬢様。御無沙汰を致しまして、大変、申し訳、ありません!」
 美しい母娘は顔を見合わせて笑い続けた。ノリスは続けた。
「しかし、まあ、今夜も御二人のお美しいこと。まさに、銀河の辺境に、花二輪!」
 ナーダリアが笑った。「この前もこの人同じことを言ったわ」
 マーデリンが言った。「大丈夫ですか? ちょっと飲み過ぎじゃありませんこと?」
「大、丈夫、です」ノリスは上体をぐらつかせながら、血走った目で二人を見た。食い入るような視線で二人の体を舐め回すように見つめ、「何しろ、外宇宙では、酒らしい酒に出会えることも少ない、もの、ですから、このように、各赴任地にて、飽きる程、味わうのが、唯一の、楽しみでして。まあ、ちょっとばかり、床と天井との、区別が、つかなくなっては、おりますが、大丈夫です」自分の下手な冗談にクッ、クッ…、と笑い出した。その笑いは妙に人の神経を逆撫でるところがあった。下品な、と言うより不潔な笑いであった。顔立ちには多少の気品がなくもなかったが、折角のその気品を笑い顔と声が台なしにした。「それより、御二人のどちらか、あるいは両方でも大いに結構ですが、私めと、踊って、戴けません、でしょうか」
 これには要人たちも半ば顔色を変えた。仕事の話に没頭していたハルディスクが顔を上げた。ハルディスクと目の合ったノリスは、不格好な敬礼をして見せた。「御初に、お目に、かかります。私、新しく、ここ、ホルベルクの査察官に、任命されました、カスパー、ノリスで、ございます!」
 うむ、御苦労、と呟き、すぐに顔を背けたハルディスクとは対照的に、副社長のスタルムは露骨に嫌な顔をした。毒虫を見る目だった。
 マーデリンとナーダリアは言葉穏やかにノリスの申し出を断った。しかしノリスはしつこかった。要人たちがそれを引き止めようとした。だが、ノリスは彼らの配下ではない。連邦から派遣されてきたノリスは、彼らへの監視人として、どちらかと言えば要人たちを脅かせる立場にさえ――だから袖の下の話をちらつかされれば彼らも従う以外になかったわけだが――いた。止める者がいないのをいいことに、何度も何度も二人を誘い、遂には手を引っ張って立たせようとさえした。
 それを見たスタルムが怒鳴った。
「身分をわきまえろ、この田舎者めが!」
「よさんか、スタルム」
「いいえ社長、このような田舎者には物事には道理が在るということをわからせる必要があります」スタルムは言った。「私は最初からこいつには我慢ならなかったのです。職権を濫用しての乱行の数々は社長もお聞きでしょう。しかもこいつは落ちこぼれ軍人の分際で、ここに赴任してきた時、これまでの査察官と違い、私に挨拶にも来なかったんですよ。この私が何者で、このホルベルクがどんな星なのかさえわかっていない田舎者なんです」
「もうよいと言っておるのに」
「こいつが何と仇名されているか御存知ですか?《禿鷲》ですよ。全ての連邦軍人の嫌われ者です。よく馘にならないもんだ。誰か有名な将軍の腰巾着でもやって、取り入ってるに違いないんだ。いつか連邦軍の高官に、この蛆虫の処分を決定して貰いますよ」
 ハルディスクは面倒臭そうに横を向いた。マーデリンとナーダリアも笑いを引っ込めていた。罵られるノリスはえへらえへらと笑うばかり。要人たちも居心地悪げに黙り込む中、一人だけ動いている者がいた。
 車椅子に乗せられた老人――百時塊歳を越えているようにも見えるが、まだ七十を出て間もない――《スーミット重工開発素材研究システム》会長であり、マーデリンの父でもあるマカダミアン=タルカンが、必死になって歯の抜けた口を動かし、思うに任せぬ手で車椅子の台車支柱を叩いていた。しかしその口からはかすれたような息の音しか漏れなかった。声が出ないのだ。
 白けた座の雰囲気を、社長秘書のサージャ・アプローズが救った。
「私がお相手しますわ」
 そう言って立ち上がり、黒いスーツを颯爽と翻らせて、ポカンとしているノリスを連れ去ってしまう。
 見送ったマカダミアン老の顔に、明らかな落胆の色が浮かんだ。肩からがっくりと力が抜ける。それにナーダリアが気づいた。「あら、御祖父様、気分が悪くなったのね」
 立ち上がったナーダリアを見て、マカダミアン老は怯えの表情を浮かべた。必死に声を発しようとする口の端から涎が流れ落ちた。嫌々をするように体を揺すり、マーデリンに救いを求める目を向けるが、広間に顔を向けた彼女は気づかないままだった。ナーダリアに車椅子ごと部屋を連れ出されてしまう。
 大広間の中央では、テンポよい音楽に変わった楽団の演奏の中、ノリスがダンスの達人らしいサージャに、散々に振り回されているところだった…。


     (三)

 この人工惑星ホルベルクには昼夜があった。労働者たちの生活を規則正しくするために、と言えば聞こえはいいが、要は生産の効率を上げるために、夜という時間と環境とを作り出し、彼らに休む時間を半ば強制的に与えているだけに過ぎない。
 朝。
 ホルベルクの第三層に止まった重力エレベーターから降りた男は、第一、二層とはあまりに違う小汚い眺めに、その傷だらけの顔をしかめた。
 第一、二層は言わばホルベルクの顔だ。常に外部からの人目を意識して手入れされている。しかしここは違った。権力者がいかに庶民の生活の場などに注意を払わないかを示すような場所だった。道路という道路、建物という建物全てが薄汚れていた。立ち上ぼる埃の臭いさえ漂ってきそうだった。
 傷だらけの顔の男は革ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、自動通路さえない第三層の道を歩き始めた。既に労働者たちの出勤時間は過ぎていた。閑散とした道路を男は脇目も振らず歩き続ける。入り組んだ道にも迷いもしない。人が多く集まる場所の常として、他人の懐の小銭を欲しがる連中のたむろする裏道にも平気で入ってゆく。もっとも彼が襲われることなどまずないと言っていい。チンピラたちが彼を恐れるのだ。
 男の傷だらけの顔に輝く、鮮やかなエメラルドグリーンの瞳は、町のチンピラ風情が一生掛かっても身につけられないであろう凄みと威厳とをたたえていた。
 その男が入っていったのは、倉庫と呼ぶ方がふさわしい外観の『タイメックスホテル』であった。
 いつまで待っても来ないエレベーターなど使わず、男は階段で七階にまで上った。真っすぐ七〇二号室に向かい、ドアの前に立つ。
 同時にドアが開き、部屋の中から小柄な娘が飛び出してきた。
 イードゥン星人の血でも引いているのか、小柄ながら大層なプロポーションの持ち主だった。薄い下着しか身につけていない今は特に、そのプロポーションが強調された。浅黒い肌に目ばかりがくりくりと大きい顔立ちは可愛いと言えなくもないが、どちらかと言えばまだ幼かった。両手に抱えた衣服から、娘がこのホテルのメイドであることがわかる。
 娘は男と鉢合わせしたことで、気の毒な程うろたえた。男は傷だらけの口元をわずかに歪め、訊いた。
「…奴はいるのか?」
「は、はい。いらっしゃいます」娘は言った。「で、でも、今から多分お寝みに…」
「入るぞ」
「いけません。私がカスパーに怒られます」
 男は呆れたように娘を見た。娘は顔を赤らめ、うつむいた。やれやれと首を振り、男は七〇二号室に足を踏み入れた。
「…私がカスパーに怒られます、だとよ」
「頼む、そこの水差しを取ってくれ」
 素っ裸の下半身にシーツだけを被ったカスパー・ノリスが弱々しい声を上げた。左肩にくっきりと歯型が残っていた。男はいかにも嫌そうに水差しを取り上げ、中身をコップに注いだ。サイドテーブルから取った白いタブレットを落とす。タブレットは瞬間的に水に解け、鎮痛剤入りの発泡水に変わる。「何がカスパーだ。お前、ファーストネームで呼ぶことを誰にでも許してるんだな」
「文句なら聞きたくない。用がそれだけなら帰ってくれ」ノリスはまだ娘の体臭の残るベッドに倒れ込み、枕に頭を埋めた。背中に幾筋か赤く走る爪痕があった。
「…頭が割れそうなんだ」
「ただの二日酔いだろう。聞いたぜ。昨日のパーティじゃ、随分と楽しく過ごしたそうじゃないか」傷だらけの男はベッド脇の椅子に陣取った。「全く、面倒臭い仕事は全部俺に押しつける積もりだろ?」
 三杯の鎮痛剤入り発泡水でやっと人心地ついたらしいノリスが、ベッドの上に体を起こした。たるみ気味の腹に皺が寄る。まだ目は血走っており、顔色も蒼白だ。普段から貧相な男だが、二日酔いの憔悴に覆われた今の姿を見ていると、彼がウィルフレッド・カーク提督の右腕であり、連邦軍きっての《掃除屋》だなどとはとても思えない。
「…装置は無事に作動してるか?」
「してるよ。その第一便を持ってきたんだ」男は別のポケットから取り出したファイル・ディスクを、ベッド脇のコンピューターに差し込んだ。モニターが点映し、銀河共通語の文字が並び始めた。全て会話の記録だった。中には映像もあった。
 ホルベルクの要人たちの自宅や執務室に仕掛けた盗聴・監視カメラが収めたものだった。昨夜のパーティの最中、男とその部下たちが手分けして仕掛けて回ったものだ。クロノトリガー社が造ったこの《マイクロ=スパイ》は幅わずか一ミリ、長さ二センチの軸に、映像・音声収集の機能を備えている。仕入れた映像と音声は圧縮波にして送り出す。圧縮波はどんな防御壁をも貫くのだ。
 但しタルカン家には仕掛けられなかった。警備が厳しすぎたのだ。その報告を聞いてノリスは唇をへの字に曲げた。「まあ、いいか。そっちはおいおい俺が調べるさ」
「モニターを見ろよ、ほとんどがお前の悪口だ」
「当然だろうな。そのために悪評を広めて回ったんだ」
「言葉は正しく使うべきだ。“広めた”じゃなくて“広まった”だろう」
 男の皮肉に応じず、ノリスはベッドの上で大きく伸びをした。ニヤリと笑う。整った顔が狡猾に歪んだ。笑い声が不潔なら、ニヤリと笑う表情でさえ不潔だった。「…どうせ問い合わせが行くと思ったんでな。ステッドラー少将にまで頼んだ甲斐があった。お陰でここじゃあ下にも置かぬ扱いだ。さっきのメイドだって、お偉方の誰かが気を利かせて寄越してくれたもんだ」
「初日の秘書官の件はどうなんだ?」
「あれは芝居だよ」
「込み入った芝居がお好きなようで」男は肩をすくめた。「いずれ査問委員会の席は、お前に何かされたっていう女で一杯になるだろうな」
「まあ、とにかくこいつは読んでおくよ」ノリスは言った。「御苦労だった」
「おい」傷だらけの男は真顔になった。「そろそろ何を調べてるのか教えてくれてもいい頃だぜ。こっちはお前の頼みを聞いて、GML(銀河傭兵連合)からの仕事をキャンセルしてるんだ」
「いいじゃないかマルカム。お前と俺との付き合いだ」
「ふざけるな」銀河の各地で紛争の起きる度に活躍し、戦場にその人有りと噂される凄腕傭兵の一人、アーシット・マルカムは憎々しげに言った。「お前と付き合ってこの方、ろくな目に遭った試しがない」
 ――銀河系星雲腕肢の一つ、サッタリアN腕の外れに、ノリアコースという星系がある。 辺境という点ではこのホルベルクといい勝負だ。だが、ノリアコースにはここと違って、誇れるような産業もなければ連邦への貢献度も低い。連邦軍の正規艦隊が常駐していたが、それは単に帝国領に近いという理由でだけに過ぎない。何のことはない。ノリアコースってのは観光地にもならない、ただの役立たずに過ぎなかったわけだ。
 そのノリアコースの宰相、リーン・ジョンキンが突然、駐留の連邦軍艦隊を追い出した。連邦軍の兵士に星の中を嗅ぎ回られては困ると言い出したんだ。それが銀河標準時塊四〇七一、つまり今から二時塊前のことだった。
 もちろん連邦はあんな辺境の役立たずに用などない。中央評議会も特別に何の手も打たなかった。だが、それから一時塊後に、何かあると踏んで忍び込んでいたアルファコマンド諜報課の連中がとんでもない報告をもたらした。
 ノリアコースで反陽子転換炉が製造されつつあるらしい、ってな。
 そう、奴らは反陽子砲を造る積もりだったんだよ。この件は広く報道されたからお前も知っているだろう。後は知っての通り、連邦中央評議会のノリアコースへの喚問だ。
 お前も聞いているかも知れんが、あの喚問は飾りじゃない。恐ろしく厳しいもんだ。総指揮が中央評議会きっての政治家、あのガストーク・シェルファだからな。いくら独裁者を気取ったところで、リーン・ジョンキンってのは辺境のへぼ政治家に過ぎない。格が違う。ガストーク・シェルファに睨まれれば一たまりもないさ。
 結局、ノリアコースは反陽子転換炉製造を認めたというわけだ。
 だが、リーン・ジョンキンはそこで突然、建造中の反陽子砲は純然たる自衛兵器だと言い出したんだ。反陽子砲がその威力から自衛兵器になる筈がないことはお前も知ってるだろう。だからこそ連邦法で禁止もされているんだ。
 にも関わらず、ジョンキンは、反陽子砲は自衛兵器だと主張した。しかもおまけに、帝国領に近い辺境の惑星が自衛兵器一つ持てない今の連邦法がおかしいとまで言い出しやがった。完全に開き直りやがったんだ。
 まあ、誇れるものを何一つ持てず、連邦での扱いも低かった奴らが、コンプレックスに駆られて取った駄々っ子的行為だというのが、一般的な見方ではある。なだめておけば何とかなると思ってる連中も多い。
 ところがそこに帝国がからめば話は別だ。
 お前も噂くらい聞いてただろう。どうやらノリアコースに帝国からの接触が度々為されているらしいとの報告が入ったんだ。
 …連邦対帝国の銀河大戦が勃発して二千時塊。双方とも武器、人、金を使い過ぎてへとへとの状態だ。今は直接対決から局地戦、あるいは代理戦争に変化してはいる。一見平穏な状況に見えはする。しかし戦争そのものは終わっちゃいない。連邦、帝国ともに己の勢力を伸ばそうと躍起になっていることに変わりはない。
 帝国にしてみりゃ辺境とは言え、ノリアコースは立派な連邦領だ。ここを取り込めば前線が作れる。一方ジョンキンにしてみりゃ、自分を田舎者扱いしかしない中央評議会より、鼻薬を一杯嗅がせてくれる帝国の方が魅力的に映るだろう。
 で、結局今現在も、辺境の一惑星ノリアコースを巡って、連邦と帝国の駆け引きは続いてるってわけだ――。
「ミルトレッド准将辺りは、帝国が初めからこの件の糸を引いてたんじゃないかと疑ってる。つまりノリアコースに反陽子転換炉を造らせたのは帝国じゃないか、と」
「強硬派の最先端ハイドランド・ミルトレッドJr.か」ノリスの言葉にマルカムは首をかしげた。「しかし帝国だって反陽子砲建造は禁止してるだろう」
「ああ、と言うよりも、あの最先端を行く帝国にも、反陽子砲だけは造れないんだ。だから疑ってる連中は、最初はノリアコースの反陽子砲建造の噂もただのブラフだと踏んでいた」ノリスは言った。「《ヴィジウムW=363》が本当にノリアコースに入っているのを確認するまではな」
 マルカムは顔を上げた。「ヴィジウム、だと?」
《ヴィジウムW=363》は反陽子転換炉を動かせる希少元素だ。銀河系ではバルジ西域の一部でしか採取できない。ノリアコースは言うに及ばず、帝国領でもこの希少元素が採取できる場所は発見されていないのだ。だから彼らには反陽子砲は造れない…。
 だが、ヴィジウムが輸入されているとなると…、マルカムは心なしか顔を緊張させていた。「奴ら、本気で反陽子砲を造る積もりなんだ…」
 ノリスは続けた。ヴィジウムW=363はノリアコースに第三国を経由して搬入された。しかし出所は一つしかない。精製したヴィジウムを扱っているのはスーミット重工だけだ。それも開発素材研究所。つまり…、
「ここか!」
 ノリスはマルカムに大きく頷いて見せた。ここはいろんな意味で臭いよ。二時塊前の新型装甲戦車導入時の献金疑惑が起こったのもここだった。それに、お前も覚えてるだろう、あまりにも人間に近づき過ぎて皆が気味悪がったあの人間型特殊兵器のプロトタイプ…。
「ああ、ウェポノイドの試作第一号機…」
「そいつが謎の紛失を遂げたのもここでだった」
「ホントかよ…」
「そして今度はこの騒ぎだ。治外法権扱いのスーミットの領地とは言え、連邦首脳も黙ってられなくなったらしい」
 ノリアコースに向けてのヴィジウムW=363搬出を許した者を捜し出す。もしそこに帝国の工作員の影を見いだしたなら、その連中もまとめて燻り出す。「まあ、帝国の工作員がいればの話だがな」
「どういう意味だよ」
 鼻で笑ったノリスは、マルカムのその問には答えなかった。「俺の前任者のバーン・スタンレイは、この件を帝国の陰謀と決めつけて、それを声高に喧伝しながら、ひたすら荒っぽく調べて回った。しかし結局、宇宙の中をゴミと一緒に泳ぐことになった」
「…そりゃあ、やっぱり腕の立つ工作員にやられたんだろう」
「俺はバーン・スタンレイを知っている。奴は間抜けじゃなかったよ。少なくとも、帝国の工作員に寝首を掻かれる程は、な」
「それじゃあ、一体誰に…」マルカムはノリスを見た。「お前、何を掴んでるんだ?」
「言えません」ノリスはニヤニヤ笑うばかりだった。「まだ具体的な証拠をなーんにも掴んでないんでね。それより腹が減ってきたな」


     (四)

「…ノリスさん、どうせなら朝食、御一緒しませんこと?」
 人工太陽の光が一杯に差し込む明るい大広間で、タルカン家の四人――マカダミアン老、ハルディスク、マーデリン、ナーダリア――、そして副社長のスタルム、秘書のサージャが朝食を摂っていた。テーブルの上にはサラダとパン中心の軽いメニューが載っていたが、ハルディスクは食べる気が起きないのか、卵をフォークでグチャグチャとつつくばかりであった。目の下に大きな隈を作っており、瞳も濁っていた。それに対して旺盛な食欲を見せるのはナーダリアだ。ボウルに盛られたサラダをほとんど一人で平らげ、スープのお代わりまで頼んでいた。テーブルの隅ではサージャが、半ば嫌がるマカダミアン老にスープを飲ませていた。そのサージャの前には皿一枚置かれていなかった。
 ノリスはそんな中に乗り込んできたのであった。
「…いやあ、申し訳ないですなあ。こんな朝に押しかけてきて、しかもタルカン家の皆様と朝食を御一緒できるなどとは…」
 マーデリン・タルカンに椅子を勧められたノリスはいかにも恐縮したふりをした。それでも広大なテーブルの一角――マカダミアン老とナーダリアの間――にちゃっかりと腰を下ろし、早速召し使いに、パンにはバターを塗らないでくれなどと頼んでいた。スタルムがまたしても露骨に嫌な顔を見せた。ナーダリアはおかしそうに笑っていた。
 食事の後でお茶が運ばれてきた。食事にはほとんで手をつけなかったハルディスクだがお茶には興味を示した。マカダミアン老にはミルクだ。サージャがカップを持って、それを老の口にまで運ぶ。彼女の席には飲み物も来ない。
「…赴任して、今日で」
「丸五時限になります」
「早いものねえ。あのパーティからもう三時限が経つのかしら」マーデリンは言った。「お仕事の方は進んでらっしゃる?」
「ろくに出勤もしていないらしいですよ」ノリスの代わりにスタルムが答えた。「こんな奴を養うために、貴重な税金が遣われると思うとやり切れませんな」
「やめろスタルム、お茶が不味くなる」
 ハルディスクの一声でスタルムは黙った。マーデリンとナーダリアが驚いたようにノリスを見た。「査察官って、出勤もしないでできるお仕事なの?」
 ノリスは肩をすくめた。「内容によりますね。私の場合は調べ物が中心ですから」
 ナーダリアが無邪気に訊いた。「何を調べてらっしゃるの?」
「不躾なことを聞いちゃいけません」マーデリンがナーダリアを叱った。「御免なさいね、ノリスさん」
「いいえ、一向に構いませんよ。大した調査じゃないんです」ノリスは肩をすくめた。「ヴィジウムW=363のことです」
 ハルディスクとスタルムがはっと顔を上げた。マカダミアン老がミルクを口からこぼしながらノリスを見た。マーデリンとナーダリア、サージャは何のことだかわからないという顔をしていた。
 ハルディスクは急遽召使たちを退がらせた。
 ノリスは結局、マルカムに話した――ノリアコースに運び込まれたヴィジウムがここから持ち出されたものであるという――一件を、ここでも繰り返さねばならなくなった。「要は、それを誰が許したかということで…」
「…ヴィジウムがここから持ち出されているというのは事実なのか?」
 声をひそめたハルディスクの質問に、ノリスは答えた。「らしいですな。私は実物を見たわけじゃありませんが。私の知る限り、連邦圏内でヴィジウムを、しかもW=363を製造しているのはここしかない。それともここ以外で造れる場所があるんでしょうか?」
 ハルディスクは首を振った。たるんだ頬肉が震えた。身を乗り出してきたのはスタルムだった。
「ヴィジウムは厳戒態勢の中で管理されているんだ。それが持ち出されているということは、我々の一部にそれを許した者がいる。お前はそう言いたいんだな?」
「そうなりますな」ノリスは頷いた。「あなたたちの中とは限りませんが」
「どう言う意味だ?」
「連邦軍の中には、ここに帝国の工作員が入り込んでいるのではないかと疑っている面々もいます。とにかく私はそれを調べに来たってわけです」
「具体的に何を調べようと言うんだ?」
「全てを、です。管理態勢、それに携わる人間、研究所内部の人間、彼らの銀行口座まで」ノリスは言った。「あなた方のことも」
「馬鹿を言え。個人の秘密は勝手に探ればいい。しかし連邦の機密に属するヴィジウムの管理態勢のことを、一介の査察官に嗅ぎ回れると思っているのか」スタルムは立ち上がらんばかりの勢いで言った。「しかも我々のことまで調べるだと? お前ごときが我々スーミット重工の何を調べられると言うんだ。分を知れ、分を」
「それをあなたの口から連邦軍の上層部に言ってみてはどうです?」ノリスは突如、これまでの取り澄ました態度をかなぐり捨てた。スタルムを見つめ返す彼の態度はふてぶてしくさえあった。「私を派遣したのは連邦軍の上層部だ。と言うより、私は連邦軍長官の総代としてここにいる。連邦軍長官はこの事件を連邦の危機と断定して、直々に私をここに派遣した。つまりホルベルクの異変を調べようという私の意思は、連邦軍長官の意思ということだ。もし私を追い出したいなら、あなたの口から連邦軍長官に直訴するんですな。それも社長や会長の助けを借りず、あなた自身の口で」
 豹変したノリスの態度にスタルムは顔色を変え、助けを求めるようにハルディスクを見た。
 しかしハルディスクはスタルムを無視してノリスに訊いた。「帝国の工作員の出入りと言うのは事実か?」
「前任者のバーン・スタンレイはそれを疑っていましたがね。どなたかスタンレイからその話をお聞きになったという方は? いない。おかしいな」
「君はどう思っているんだ?」
「実はここ二時塊の、このホルベルクへの入国者を全部チェックしてみたんですがね」
「二時塊、全てか?」
 頷いたノリスはポケットからファイルディスクを取り出した。そのリストの中で、外宇宙からこのホルベルクを訪れ、開発素材研究システムに出入りした人々六百八十七人を追跡調査した結果が入っていた。この三時限はその調査に忙殺されていたのだ。全員がシロだった。この二時塊の間に、ノリアコースには少なくとも三回、ヴィジウムが運び込まれている。ノリスの調べた連中はどの可能性を考慮しても、その件に関係したり指令を出したりできる立場にはいなかった。
「…つまり、やはり開発素材研究システムの内部に、ヴィジウム搬出を許した誰かがいるという結論に達せざるを得ないんです」
「まさか…」
「もちろん連邦軍幹部の一部は、その誰かが帝国の手先だと疑っています」
「馬鹿な、スーミット一族の選んだ従業員の中に帝国のスパイなど…!」わめいたスタルムとノリスの目が合った。「…お、お前は、まさか、私を疑っているのか!」
 その時突然、話を聞いているだけだったマカダミアン老が車椅子の上で騒ぎ始めた。サージャの手をはねのけ、冷めたミルクのカップを弾き飛ばし、テーブルを激しく叩く。こぼれたミルクがノリスの軍服にかかった。
「…御祖父様には刺激が強すぎたみたいね」マーデリンが呟き、ナーダリアが立ち上がった。
「さあさ、御祖父様、お部屋で休みましょうね」
 マカダミアン老はまたしてもナーダリアに怯えた視線を向けたが、それでも騒ぐのを止めなかった。部屋から連れ出されるまで、車椅子の支柱を力任せに叩き続ける。
 ノリスは老人とその孫娘とを見送った。ノリスの横を通り過ぎる時、ナーダリアが彼を見下ろして婉然と微笑んだ。彼がずっと自分を見ている、彼の視線が、いや、あらゆる男の視線が自分に張りついていると確信している、自信に満ちた微笑だった。
 彼女が自信を持つのは当然だった。中背でほっそりしたプロポーション、彫刻のように整った顔立ち、どれを取っても彼女は一級品だった。それは人工的に造り替えたものではなく、自然に、または血筋によって手に入れたものだ。彼女は自分に与えられた美しさを充分に意識していた。それが自分に与えられて当然なものだと思っていた。与えられた美しさを行使する権利を知っているようにも、あるいはそれが男に対してどれだけの価値があるのかを知り尽くしている風にも見えた。
 と、ノリスは同時にマーデリンの顔も、視界の一角に捉えていた。
 一見優しげに娘を見送るマーデリンの顔に、瞬時浮かんだ表情がノリスを怯えさせた。瞬間的な、それこそ刹那の閃きではあったが、それはノリスを怯えさせるに充分な、まさに鬼火の表情だった。それが一瞬自分に向けられたものかと思い、ノリスは身をのけ反らせそうになった。だが、マーデリンの視線はノリスを素通りし、祖父の車椅子を押して部屋を横切るナーダリアを追っていた。そしてナーダリアがドアを開けた時には、鬼火も消えていた。
 マーデリンの横のハルディスクの表情も気になった。
 唇をわななかせ、たるんだ頬の肉がそれに連れて震えた。垂れ下がった瞼とどす黒い隈の間の濁った目が、妻と同じ方角を見つめていた。まるでナーダリアを畏れ、それでも尚且つ目を吸い寄せられているといった感じだった。
 ノリスさん、とマーデリンが呼びかけた。優しげな表情が戻っていた。「服にミルクが…」
「ああ、これですか。大丈夫ですよこれくらい」
「とか何とかおっしゃって、後から多額の洗濯代を取られても困りますからね。今、替えを用意させます」
 着替えた後も話は続いた。ノリスから語られた話の大部分について、ハルディスクとスタルムは初耳だと答えた。前任者であるバーン・スタンレイについても、パーティの席上以外で会ったことはないと言った。マーデリンとサージャも同様らしかった。
「…そうですか。いや、大変参考になりました」そろそろ潮時かと踏んだノリスは立ち上がった。口調に慇懃さが戻った。「いきなり押しかけてきて、皆様の快適な朝食の時間を煩わせまして申し訳ありません。しかし今後も御協力お願い申し上げます」
「待ってノリスさん」マーデリンが言った。「今、御車を用意させますから」
「いえいえご心配には及びません。これ以上奥様に何かさせては、社長の御勘気に触れる恐れもございますので」ノリスは明るく言った。「外で拾います」
 広間を辞去したノリスは召し使いに玄関まで案内された。正面門まではエアカートで運ばれた。何しろ庭が広いのだ。歩いたらたっぷり一時間は掛かったであろう。
 正面門にてエアカートを降り、護衛の兵士たちに手を振り、ノリスは歩き出した。第一、二層には自走乗用車専用のチューブロードが通っており、街角毎にあるターミナルに行けばすぐにタクシーを拾える。タルカン家の屋敷に来るのにもタクシーを使ったのだ。
 タクシーを拾ったノリスはロボットの運転手に、下の階に向かう公共エレベーターのターミナルに行くことを命じた。真っすぐホテルに帰る積もりだった。
 後部座席のソファに深々と体を沈め、目を閉じた。収穫は上々だった。同時に、いろいろと考えねばならぬことも出てきた。しかし何よりも眠かった。この三時限のほとんどを調べ物に費やしたせいで、ろくな睡眠時間を取れなかったのだ。
 自分の体が必要以上にソファにめり込んでいることで、タクシーの異変に気づいた。
 重力が掛かり過ぎている。スピードの出し過ぎだ。ノリスは体を起こし、ロボット運転手にスピードを落とすよう命じた。ロボットは何も答えなかった。当然であろう。
 揺さぶってみるまでもなく、ロボット運転手は死んでいた。完全に機能を停止させていたのである。
 ノリスは運転席に飛び移り、ロボットをどかせようとした。台座に固定されたロボットは容易に動かなかった。だが、それ以上に困ったことに、タクシーには操縦桿がついていなかった。操縦に必要な機能はロボットの体に内蔵されていたからである。
 クリスタルのチューブ内を、タクシーは音速に近いスピードで走り抜けていった。座席のあちこちに体重を掛け、車を倒すことで先行車をやり過ごしたノリスだったが、それにも限界があった。
 タクシーは四〇度カーブを曲がり損ね、クリスタルの壁に激突した。車体は大破したが、それでも壁を貫くには充分すぎる加速がついていた。光る破片を撒き散らせながら、眼下の公園に墜落する。
 ホルベルク中央公園は、第三層以下に住む住民たちが第一層内にて唯一利用できる施設だった。タクシーが墜落した時にも五十人以上の利用者がいた。そのほとんどが親子連れだった。
 地上で一回バウンドしたタクシーの車体は、子供たちの群がる砂場にてもう一度跳ね、その勢いでベンチの一つに突っ込んだ。ベンチには幼い兄弟二人とお弁当を食べようとしていたオルモス星人の母親がいた。
 スクラップと化したタクシーから這い出した血だらけのノリスは、車体の下敷きになったらしい母親を呼ぶ幼い二人の泣き声を耳にした。他にも公園の四方で泣き声や叫び声が聞こえた。よろめきながら立ち上がったノリスは、目の前の幼い兄弟を抱きかかえ、タクシーから離れようと歩き出した。
 三歩踏み出す寸前に、タクシーの車体は炎上した。
 振り向いたノリスの腕の中で、幼いオルモス星人二人は泣き叫んだ。血にまみれたノリスの顔を、立ち上ぼる炎が照らした。かなり深く切ったらしく、額の横からは血が、流れるというよりは噴き出していた。遠くで火災を知らせる警報が鳴った。公園の地下に設置されたスプリンクラーが、消火剤を撒き始めた。
 火はすぐに消えた。
 二人の兄弟は泣き止まなかった。ノリスの脳裏をよぎるものがあった。
 誕生日のプレゼント。母一人子一人の家庭。開かれた包みの中には幼い日の彼が欲しがっていた銃があった…。
 二人を腕に抱いたまま、ノリスは残骸となった車を睨んでいた。


     (五)

「…よくまあ助かったねえ、お前も」
 ホルベルク総合病院最上階の特別室。ベッドに固定されたノリスを見下ろし、アーシット・マルカムは笑った。「悪運が強いなんてもんじゃないな、全く」
 …警察と連邦軍の合同調査が行われたが、事故だと言う警察と、タクシーは明らかに誰かの手により細工されていたと主張する連邦軍との意見の対立から、捜査はほとんど進んでいないらしかった。死者は三名、負傷者の数は二十二名に達した。それでもノリスは助かった。もちろん即座に病院に担ぎ込まれはしたが。額の横に受けた大きな裂傷と、肋骨三本が折れただけで済んだのは奇跡的だったと、医師たちは口々に言った。
「まだ神様が俺を生かそうとしてんのさ。普段の行いがいいんでね」ノリスはぬけぬけと言ってのけた。表情は明るいとは言えなかった。「それより喉が渇いた。手伝ってくれ」
 ノリスが上体を起こすのに、マルカムが手を貸した。ブドウ糖入りの冷えたドリンクチューブを渡す。喉を鳴らしてそれを飲むノリスに、マルカムは訊いた。「…それで、どういう進展があったんだよ?」
「大した進展だよ。ほとんど何も掴めてない内から、命を狙われた」ノリスは肩をすくめようとして激痛に身をよじらせた。「相手の作戦も上手くは行かなかったがね」
 ノリスはタルカン家の朝食に乗り込んでから、死にかけるまでの顛末を、大まかにマルカムに説明した。
「…しかし警察は事故だと言ってるそうじゃないか」
「お前にはどう見えた?」
「タクシーはお前が外に出て無作為に選んだ車だろうが。その車一台を狙って細工できたとは思えないね」
「それがな、あの時通りかかった車は、あの一台だけだった」ノリスは呟いた。指がベッドの支柱を軽やかに叩き始めた。その気になれば細工できなくもなかったわけだ。しかもタルカン家が飼ってる私設軍隊の中には元連邦軍の潜入工作員も混じってる。この程度の作業はお手の物だろうぜ。それにここの警察はスーミット一族の狗だ。初めから事故だと主張するのはわかってた。
「…それに、まだ公にはなっていないが、捜査中止の勧告が連邦軍の上層部に届いてるらしい。はっきりとは言ってこないが、俺を不快がってであることは明らかだ。もちろん大元はスーミット一族。長官はのらりくらりと躱してるらしいがね。サー・ウィルフレッドが教えてくれた」
「カーク将軍が、か…」
 ノリスの話を聞いていたマルカムは、彼の音を立てている指がある一定のリズムを刻んでもいることに気づいた。「…おい、そいつは」
「気がついたか。ああ、星間航行の輸送船が使う識別通信の信号だ」ノリスは言った。「マカダミアン爺さんが部屋から連れ出される前に同じ信号を送ってきた」
 この信号に最初に気づいたのはパーティの会場だった。とにかく爺さんは何かを俺に伝えたがっていた。ただあの時は酔っていて、意味を掴めずにいた。だから今回は爺さんの隣に座って聞き漏らすまいとしたんだ。信号は伝えていた。
 わしは反対したんだ、と。
「反対、ねえ…」マルカムは腕を組んだ。「それはやっぱり、ヴィジウム搬出を、ってことか?」
「それしかあるまい」
「喋れない口の代わりに、それをお前だけに伝えようとしたわけだ」マルカムは片方の掌に拳を打ちつけた。義手が甲高い金属音を発した。ふと考え込む。「ちょっと待て。爺さんがヴィジウム搬出に反対していたとすると、決定を下した張本人は朝食に同席した誰か、ってことにならないか?」
「多分、な」ノリスは頷いた。「俺の乗った車に細工を命じたのも多分そいつだ」
「つまりお前は結構いい線まで行ってたわけだ」
 俺もそう思う、とノリスは言った。「こんなにすぐに結果が出るくらいだからな」
「お前を必要以上に嫌ってるスタルム辺りが怪しくはないか?」
「あいつは社長令嬢のナーダリアを手に入れて、次期社長の座に収まろうとしている身の程知らずの馬鹿に過ぎない」
「ホントかよ」
「あいつが自宅からナーダリアに出してことごとく無視された恋文通信の記録が残ってるぜ。後で見せてやるよ」
「それならますます帝国が食い込む余地がありそうじゃないか」
 ノリスは首を振った。「お前たちは何でもかんでも帝国の仕業にしたがり過ぎる」
 どういう意味だよ、と問うマルカムに、ニヤニヤ笑いで応じるだけだった。腹を立てたマルカムに、俺もまだヒントくらいしか掴んでないんだよ、と弁解する。
「ただ、キーになりそうなのは爺さんだな」
 つい三時塊前まで、マカダミアン爺さんは連邦圏内の上流社会で名の知れたプレイボーイだった。女という女を口説いて回る、とてつもない精力家だったらしい。それが今はあのザマだ。俺も当時の爺さんの写真だけは見たが、今とはまるで別人だ。あんなに老け込むのにたった三時塊だぞ。
「爺さんがあんな風になったのは、誰かに何かされたせいだと俺は思ってる」
「その、何かしたって奴が…」マルカムも頷いた。「しかし、何をされたって言うんだ?」
「それは今から調べるんだよ」
「…言っておくが、俺はお前のボディガードはできないからな」
「冷たいなあ。お前が守ってくれる以外に、誰からも嫌われ、命まで狙われるこの可哀想なカスパー・ノリスを誰が助けてくれるって言うんだよ」
「ふざけるな。調査にかこつけて得体の知れない女とどこかにしけこんで、行方をくらますような奴の護衛が誰に勤まるか」マルカムは腰のホルスターから銃を抜いた。ノリスに手渡そうとする。「冗談はともかく、公式の役人じゃない俺は表立って動けない。何かあって駆けつけようにも間に合わない場合も有り得る。これを持ってろ」
「あのなあ、俺が銃を好きじゃないこと、お前も知ってるだろ?」
 マルカムは怒り出した。「お袋さんを死なせて以来、お前が銃を持ちたがらないことくらい俺だって知ってる! だが、今はお前自身が危ない時なんだ! 今度の件でもそうだし、これから先もお前は狙われ続ける。奴らはお前を殺すことなんぞ屁とも思っちゃいない。自分の身は自分で守れ!」
 ノリスは手渡された小さく不格好な銃を眺め回した。「俺もそうしたいとは思うが…」
「第一、お前が銃を持ってりゃ、あの事故だって防げただろう。車のエンジンを撃つとか何とかして…」
「…そうだな」ノリスはわずかに俯いた。「わかったよ。やります。自分の身が危なくなったらこれを使います。使い方を教えろよ」
 マルカムはほっとしたように笑った。
「…こいつはマジェスキンL=202。カートリッジ式のピストルだ。と言っても実包を発射するわけじゃない。カートリッジはエネルギーを充填したものだ」
 マルカムの指さしたグリップ横にボタンがついていた。「それはラッチ。押してみろ」
 押すと、弾倉がグリップから滑り降りてきた。それを手に取ったノリスに、マルカムは言った。「総弾数は五発。カートリッジは三種類ある。麻痺弾、対人殺傷用の光線弾、破壊ビーム弾」
「しかし総弾数五発ってのは少なくないか?」
「一発のカートリッジを三発に分けて発射することも可能だ」
「つまり連続して十五発は撃てるってことか」
「カートリッジのエネルギーが空になり次第、銃が自動的に空カートリッジを排莢して弾倉の次弾を装填してくれる」説明しながらノリスに、実包三十発入りのパウチも渡す。「但し破壊ビームのカートリッジは滅多に使うなよ。犯人を撃ったはいいが、死体も残らないぞ。ここの壁にだって大穴があく威力だからな」
「このテクタイト鋼にかよ。あんまりそれを使いたくなる相手じゃないな」ノリスは笑った。「死体くらいは残してやりたいもんだ」
「だからそれは誰のことなんだよ」
「気にしない気にしない。それより練習したいな…」


     (六)

 コートのポケットに隠したマジェスキンL=202を左手で弄びながら、ノリスはクロノトリス監視双眼鏡から目を離した。
 クロノトリスは連邦軍特注の監視専用スコープだ。小型ながら五百倍近い倍率の、夜間兼用望遠機能は珍しくも何ともないが、このスコープはその周囲の空気の流れから、対物の発する音声までも読み取る機能を備えている。相手の姿をレンズに捉えている限り、監視と盗聴の両方が可能という優れ物だ。
 ノリスはこれを、ホルベルクの連邦軍駐在事務局から持ち出した。もちろん無断でだ。
 その他にノリスは駐在事務局の端末を利用し、ホルベルク中央コンピューターに入り込んでいた。記録を閲覧し、カーク将軍の名前と暗唱コードを使って極秘ファイルにも潜入した。
 もちろんこれも無許可で、だ。
「…頼みますよ大尉、あんまり無茶なことをしないで下さい」
 駐在員のハックリーが言った。以前ノリスの下で働いた経験のある彼は、この元上官の小男が何か始めたら手段を選ばないことを知っていた。
「もう遅い」ノリスはせせら笑った。「言っておくが、誰かに漏らすなよ。俺がこの端末を使ったことも、全部忘れてしまうんだ」
「トレースを受ければすぐにばれますよ」
「ばれないように祈ってな。俺がぱくられる時はお前も道連れだ」
「ひでェや」
 ポケットに入るデータベースにその記録を収めたノリスは、持ち出した機材で早速張り込みを始めた。張り込みは三時限続いた。このホルベルクではおよそ九日間にあたる。抜け出してきた病院から何度も再検査の催促が来たが、構ってはいられなかった。ノリスは張り込みの相手が自室で目覚めてからベッドに入るまで、ずっとその尻に張り付いて回った。
 彼女(・ ・)の生活は規則正しかった。朝は早く起きた。朝食は旺盛に平らげた。その後ゆっくりと時間を掛け、広い庭や近隣の歩道を散歩した。学校には行っていない。特別進級クラスにて、十五時塊歳にて大学までの全課程を修了したからだ。散歩の後、昼食までは自室にて本を読んだり音楽に耳を傾けたり、その両方を楽しんだりしていた。下品でがさつな3Dシアターなどに見向きもしないところは、流石本物の良家の子女と言いたいところだった。
 長い昼食が済むと、ゆっくり午睡を取った。目覚めてから必ず外出した。行くところは美術館か図書館と決まっていた。美術館は毎日展示品が変わるわけではないので、図書館の方が多かった。大抵はそこで一人で過ごした。
 夕方にはホルベルク第一層のあちこちで開かれるパーティや御茶会に出席した。彼女を招待するのはホルベルクの名士たちだった。ホルベルク一の実力者の娘というだけではなく、美しく理知的な彼女は、出席するパーティを選ばねばならない程だった。もっとも最初の数分ですぐに退出するのが常だったが。
 その後は直ちに帰宅した。どんなに誘われようが、二次会には決して出席しなかった。クロノトリスで聞き取った会話によれば、恋人どころか側に近づける男もいないらしい。絵に描いたような優等生ぶり、淑女の鑑だ。
 九日間、彼女の生活はずっと変わらなかった。友人も少なく、人込みを避ける傾向にもあったが、それは学生生活が短すぎたためだろう。ごく普通の良家の子女の生活だと思えた。疑いを抱く対象ではなかった。疑いを抱くこと自体、馬鹿げているように思われた。
 だが、ノリスの直感は未だ彼女が怪しいと告げていた。
 これまでずっとこの直感を信じてきた。そして彼の直感は、彼に一度たりとも間違いを犯させなかった。ノリスは対象を変えず、このまま調査を続行することにした。但し、もう張り込みへの時間はたっぷりと掛けた。ノリスは決してせっかちなタイプではないが、迂遠なことは大嫌いだった。九日間何も起こらなかった張り込みを続けたところで、新しいものが出てくるとは思えない。それなら直接当たってみる方が遥かにいい。
 彼女――ナーダリア・タルカンに。
「…それでノリスさんは、結局私を疑うようになったのね?」
 ナーダリア行きつけの図書館近くのカフェテリア。人工太陽の明かりが、これまた人工の木々の梢から差し込むテラスにて、白いドレススーツを着たナーダリアは読みかけの本を閉じた。
 テラスにはナーダリアとノリス以外誰もいなかった。丸い小さなテーブル、ナーダリアの前に座ったノリスは頷いた。「まあ、いろいろ考えた末ですがね。そう考えるのが一番妥当だという結論に達しまして」
 白い手袋を外し、お茶らしいカップを口に運びながら、ナーダリアはおかしそうに笑った。本当におかしそうに見えた。やはり彼女を疑うのは間違いだったのではあるまいか…、ノリスに一瞬そう思わせる程の笑顔だった。
 ナーダリアは笑いながら言った。「一体、私、どんなミスを犯してあなたに尻尾を掴ませたのかしら」
 この返答にはノリスも呆気に取られた。まさか、自分の罪をあっさりと認めたのだろうか。あるいはあくまで白を切り通す積もりではあるものの、全てを冗談めかして、逆にノリスから情報を得ようという腹なのだろうか。判断はつきかねた。彼女の表情は一切の動揺を表さなかった。顔だけではなかった。腕時計に仕込まれたセンサーが、先程からナーダリアの心拍数を測っていたのだが、それにもまるで変化はなかった。
 この女、動じもしない…。それはノリスの疑いを、一気に確信にまで近づけた。疑われるという事実は、身に覚えのあるなしに関わらず、必ず相手に何らかの動揺を与えるものだからだ。それがないということは…。
 しかし彼女の反応はノリスが期待していたものともまるで違っていた。
「…そうですね。まず、あの朝食の席です」ノリスは言葉を選びながら言った。「お祖父さんが私に何かを訴えようとしていた矢先、あなたはお祖父さんを連れ出してしまった。まるで私からお祖父さんを遠ざけようとするかのように…」
「あれは祖父が興奮したからよ」
「しかし、彼が車椅子の支柱を叩くリズムは明らかに通信文の一種でした。彼はそれを使って、私に伝えました。わしは最初から反対だった、と」
「反対って、何に?」
「恐らくその後、その内容を私に伝える積もりだったんでしょう。それをあなたが邪魔したんですよ」
 ナーダリアは頷いた。笑顔はまだ曇らない。「それから?」
 私の乗ったタクシーの件があります、とノリスは言った。「私が御屋敷を出てからタクシーを拾うまで、他の車を全く見かけなかった」
「珍しいことじゃないわ。あの辺りは車の通りも少ないの」
「しかしそこで拾った車が事故を起こし、その中にある事件を調べている査察官が乗っていたとなれば、話は全く違ってくる。そう思いませんか?」ノリスは言った。「私はあれは事故ではなかったと思ってる。と言うより、明らかに私を狙ったものだ。しかし私を確実に仕留めるためには、私を特定の一台に乗せなければならない。細工を施した車にね。では、私をその一台に乗せるためにはどうすればいいか? これは考えましたよ。で、一つの結論が出た。
 他の車はあの時間、全面的に御屋敷の周囲に入れなかったのです。ある方法を取れば、一般車はあの道に入ってこられなくなってしまうのです。やり方そのものは簡単です。御屋敷の周囲に工事中の識別信号を出せば、それを読み取った車は自動的に迂回進路を取ってしまう。識別信号は道路地下の発信ケーブルの中継地に行けば、すぐに発信させることができる。専門家さえいれば、車の細工も難しい話じゃない。その専門家はタルカン家のボディガードの中にもかなりいる。何でも彼らのうち数人は元銀河連邦軍の特殊潜入部隊にいたという話じゃないですか。しかし問題はここからです。
 誰がそれを指示したか?
 私は予告もなしに御屋敷を訪ねました。つまり、私が朝食の席にお邪魔した段階では、私がどんな車で来たのかどなたも御存知なかった筈だ。それが自家用車や連邦軍の運転手つき送迎車ではなかったとを知ることができ、帰りの細工を指示できるのは、あの時席を中途退席したお祖父さんとあなたしかいない」
 ノリスの前に飲み物が運ばれてきた。彼自身が頼んだものだ。暖かいハーブティーだった。一口啜る。旨かった。
「面白い推理だわ」ナーダリアが言った。「でも、それって全部推測ですわね。一人の人間を有罪に持ち込むには弱すぎません?」
「確かに具体性を示すものが何もない」ノリスは頷いた。「ただ、ここに一つだけ、具体性らしいものを拾ってきました。マンヘルト・コーニッツの銀行預金です」
 ナーダリアの表情から笑顔が消えた。
「…コーニッツ?」
「そう、あなた方お抱えの医師、コーニッツ先生の個人ファイルを調べてみたんですよ」
 ノリスはニヤリと笑った。ナーダリアの前で初めて見せる、あの不潔な笑顔だった。
 …マンヘルト・コーニッツ医師はマカダミアン老を彼の発病以来、ずっと彼を診てきたわけですな。いや、診てきたことになっていると言った方が正しいのかな。手術も二回行ったことになっている。
 だが、そのコーニッツ医師の診断が全部嘘っぱちだったとしたら?
 カルテではマカダミアン老はディグリス梅毒から起こる感染症となってはいる。しかし、老は銀河にその名を轟かせた遊び人だった。遊び人というのはそれなりに用心深い人種でしてね。自分の健康管理には意外に気を遣うものなんです。特に永年プレイボーイとしてならしてきた老が、自分の手足さえ不自由になるまで感染症に気づかなかったということ自体がおかしい。それで端末からコーニッツの個人ファイルに潜入してみたわけです。
 出てきましたよ、いろいろ。
 まず、老のメディカルサーチ写真。これです。感染症というのは全くの嘘でしたな。ディグリス梅毒になんて罹った形跡すらない。手術の痕跡はあるが、カルテに書いてある部分のオペなどどこにも施されていない。
 それではコーニッツ医師が怪しいのか? 彼が個人の意思でそれを行ったならそうなるでしょう。しかし彼の銀行個人口座に――御丁寧に偽名を使ったものです。その口座が彼のものだということを訊き出すために結構手荒な真似もしましたがね。銀行のマネージャーに――、毎時限五十万ユニットという金が振り込まれていたとなれば話は違う。
 それも、タルカン家の口座からの送金でね。
 つまり…、ノリスは言った。「買収されたコーニッツ医師の偽の診断書によって、お祖父さんは半引退にまで追い込まれたというわけです。目的は一つ。お祖父さんの持つ権力、それを掴みたがっている誰かがいたってことでしょう」
「何のために?」
「それはまだ、詳しくはわかりません。しかし私は、ノリアコースへのヴィジウム搬出も、その誰かの許可によるものだと思っている」
「それが私だと言いたいわけね?」ナーダリアは呆れたようにノリスを見つめていた。「でも、よく調べたものですね」
「いやあ、苦労しました。あちこちに頭を下げて回ってね」情報の大部分を無許可で得たノリスはしゃあしゃあと言ってのけた。「しかし、まあ、命を狙われたからには、それなりの報復措置を取りませんとね」
 ナーダリアはひたすら感心したように首を振っていた。それを横で眺めながら、ノリスは満足そうに笑った。実はまだ納得が行かなかった。
 いかにも感心しているように見えるナーダリアの心拍数には、未だ何の異変も起こっていなかったのである。
 彼女は少しも慌てていなかった。と言うより、彼女は何も考えていないのではあるまいかとさえ思えた。こうやってノリスと喋りながらも、彼女の意識は全く別の場所にあるのではなかろうか。そうだ。違和感はずっとついて回っていた。特に彼女と目を合わせている時に、それを強く感じた。目の前にいるノリスを見つめる彼女の目の焦点は、彼に合っていないように思えたのである。
 でも…、ナーダリアは言った。「ノリアコースにヴィジウムを搬出して、何が得られるというのかしら?」
「そいつは今から調べるんです」ノリスは言った。「やってみせますよ」
 きっとあなたなら掴むでしょうね…、とナーダリアは言った。「…あなたを甘く見てたようだわ。私も計画を変えなくちゃ」
 ノリスの背中に微かな刺激が走った。計画って、何です? と言おうとしていた口がもつれた。深呼吸して立ち上がろうとした瞬間、目の前が暗くなった。
 意識を失う寸前に、背後に立つ誰かの気配を感じた。恐らくはそいつが麻痺銃を用いたに違いなかった…。


     (七)

 部屋の中は薄暗かった。
 細い明かりが部屋の飾り付けをほのかに浮かび上がらせていた。ノリスは目を凝らした。目に見える範囲では、随分と豪華な飾り付けに思えた。カーテンや壁、天井近くに架けられた彫刻に象られた明かり、テーブルに載せられたクリスタルらしき水差し。デザインやブランドの名称は全くわからなかったが、どれもとんでもなく高価な代物らしかった。
 醒めたのは意識だけだった。
 体を動かそうとしてみたが、まるで駄目だった。足の指先さえ動かせなかった。
 どうやら素っ裸に剥かれ、ベッドに寝かされていることはわかった。空調はよく効いているようで、寒くはない。しかし風は感じた。自分の肌の上を撫でる風を感じることができた。感覚は麻痺していないのだ。
 ドアが開く音がした。誰かが部屋に入ってくる気配があった。
 薄い部屋着を身につけただけのナーダリアが視界に入ってきた。ノリスの前に立つ。この豪華な部屋に実によく似合う女だった。「気分は、どう?」
 薄明かりの下、白い部屋着を透かしてナーダリアの体のラインがはっきりと見えた。くびれた腰の中央にある形のいい臍、突き出た乳房の先に尖る薄桃色の乳首、髪の色より若干濃いらしい恥毛の色までわかった。
 ノリスは小さく笑った。顔は動かせた。それに口も。「…喉が渇いたな」
 ナーダリアは嫣然と微笑み、ベッドの脇を通り、水差しを手に取った。一口含み、ノリスの上体に屈み込む。乳首が胸に触れた。唇が重なり、ナーダリアの舌がノリスの口に忍び込んできた。香しい口臭とともに水が流れ込んだ。
 彼女の口臭の混じった水が喉を通った瞬間、ノリスは下半身に血が向かうのを意識した。陰毛に隠れていた彼の先端が、ゆっくりと首をもたげたのがわかった。こんな時に…、ノリスの舌打ちしたい気持ちとは裏腹に、先端はますます角度を上げ硬度を増し、屈んだナーダリアの横腹に当たった。微笑んだナーダリアは、彼の先端を愛しげに指の腹でなぞった。先端の皮を剥かれ、そのまた先をくすぐられたノリスは思わず体を震わせた。
「感じる?」
「ああ、悔しいが、とても感じる…」ノリスは言った。「EMT231を使ったな?」
「流石に詳しいのね」ナーダリアは頷いた。「あれを使えば苦痛や快感を一切殺さずに、筋肉だけを弛緩させることができるから都合がいいのよ」
「何に都合がいいんだろうね」
「あなたを手なずけることに、よ」
 ナーダリアは言った。最初はあなたを殺すことを考えたけど、やめたの。連邦軍の査察官が二人続けて死ねば、それこそ言い訳できなくなってしまうでしょう。それに、あなたは前任のバーン・スタンレイより上層部に顔が利きそうだわ。頭も切れる。そのあなたが私の潔白を証言すれば、誰も私を疑わなくなるってことがわかったの…。
「…何をする気かは知らないが、俺は簡単には手なずけられないぜ」
「どこまでその強がりが続くか楽しみだわ」
「あんた、スタンレイにも同じことをしたのか?」
「あの人はウブだったわ」ナーダリアは遠い目をして、くすっと含み笑った。「一回寝てあげたら、何て言ったと思う? この事件が片づいたら、君をここから連れ出してあげる、ですって。何でも喋ったわ。調査の内容から、誰を疑ってるってことまで。でも、私だけは容疑者から外してたみたいだけどね」
「そしてこの件を、最後まで帝国の仕業と信じて疑わなかった」
「そうよ」ナーダリアはふとノリスを見た。「…あなたは最初から帝国への疑いを除外していたのね? 知ってたの?」
「勘だよ。しかし最後まで何も知らなかった哀れなスタンレイは、自分を毒牙にかけようとしている魔女を女神と思い込んだわけだ」
「手を下したのは私じゃないわ」
「同じようなもんだ」ノリスは言った。「で、俺を丸め込むための作業ってのは、いつから始まるんだ?」
「今からよ」
 立ち上がったナーダリアは体の一揺すりで部屋着を脱ぎ捨てた。見事な裸身が現れた。出るところは出て、引っ込むところは引っ込んだ、無理をして押さえつけたり縛ったりする必要のまるでない身体だった。滑らかで肌理細かな膚には、黒子の一つさえなかった。
 ナーダリアは己の身体を見せつけるような角度から、再びノリスの上に屈み込んだ。香しい口臭と体臭とが、ノリスの鼻孔をくすぐった。
 まず、額の中央にキスされた。続いて髪の生え際、旋毛の辺り、もみあげに沿って耳の後ろにも。その間、ナーダリアの爪が軽く、ごくごく軽く、ノリスの胸や横腹を引っ掻いた。引っ掻かれた場所が妙な熱を持った。その上に彼女の肌や髪の毛が触れると、思わずゾクゾクした。
「…巧いなあ」ノリスは言った。「でもな、色仕掛けで俺を丸め込もうったって、そうは行かないぜ」
 ナーダリアは唇だけで笑い、それをノリスの口にそっと押し当てた。舌が彼の唇上下を舐めた。次いで口の中にも入り込み、ノリスの歯茎を這い回った。そのまま鼻孔を舐め上げ、額に向かう。瞼を舐められた時には動かない体に寒気が走った。腰の付け根にツーンとくる痺れが、続けさまに襲ってきた。余韻を楽しむ間もなく、耳の穴にも舌が入り込んできた。
 痺れは舌が下がってくるに従って次第に大きくなり始めた。特に乳首は念入りに舐められ、舌先で転がされた。硬く膨らんだ乳首を軽く噛まれると、痺れは尿道にまで達した。臍を掘られた後うつ伏せにさせられ、肩甲骨の周囲から背骨に添って下りた舌が、尻の割れ目の上でしばらくそよいだ時には呻き声が出た。舌はそのまま下がり続け、膝の裏、ふくら脛、踝を責めた。
 今度は仰向けにさせられた。ナーダリアは一向に疲れた様子を見せず、ノリスの手首、肘の裏、腋の下を舐めた。普段ならくすぐったいと身をよじるような場所だが、今はそれが堪らない感触だった。
 全神経が目覚めたような感覚があった。皮膚という皮膚が恐ろしく敏感になっているのがわかった。ナーダリアの鼻息を体のあちこちで感じる度に、その部分がピクピクと蠢き、反応した。自然に滲み出した汗が彼女の唾液と混じり合い、ノリスの体はべとべとになった。
 そして遂にナーダリアの舌先は、ノリスの張り詰めた先端に移った。
 全血液が集まったかのように硬く脈打ち、そそり立つ先端を、震える舌が上下した。ズキズキと脈打つ先端の中程を、唇が優しく吸い上げた。蟻の門渡りを優しく引っ掻かれ、根元の縫い目を舐められ、睾丸の袋を唇に含まれた。ちょっと緩めの包皮を指が剥き上げた。
 舌が、先端の鰓の部分に絡み付いた。ざらつく舌に敏感な薄皮をこすられ、肛門がキュッと締まったような気がした。先端の先から無味無臭の汁が滲み出た。それを丹念に舐め取ったナーダリアは、唇で、ノリスの鰓から先を包み込んだ。
 チロチロと踊る舌先が尿道に入り、唇はノリスの先端をストローのように吸い上げた。ナーダリアの口の中で、ノリスの先端は更に膨れ上がった。ノリスは声を上げた。そのテクニックは彼がこれまで経験したいかなる娼婦よりも秀でていた。自由にならない体が思わずのけ反りそうになる程だった。
 射精寸前にて、ナーダリアは唇を離した。丸め込まれないどころの話ではない。ノリスは思わず止めないでくれと叫ぶところだった。一刻も早く、彼女の中に入りたかった。その中で思う存分果てたかった。
 しかしナーダリアは、ノリスの思いにはお構いなしに、次の責めに入った。
 弛緩した両脚を抱え上げられた。オムツを替えられる赤子のように、ノリスは尻の穴をナーダリアにさらすことになった。みっともない姿ではあったが、次に何をされるかという興味と期待の方が大きかった。
 ナーダリアの顔が、ノリスの尻に埋められた。
 ズキズキと痛い程そそり立っている先端が彼女の顔を隠した。ナーダリアが肛門の皺の一本一本を舐めているらしかった。その舌が、次第に穴の中心を行き来し始めたと思った次の瞬間、背筋を走り抜け、脳天まで貫かれるような感覚が襲ってきた。
 ナーダリアの舌がノリスの肛門をこじ開け、中に入ってきたのである。
 今まで外部からの侵入を受けたことのない、処女の粘膜以上に敏感な箇所を、舌は執拗に責めて回った。やがて舌の代わりに指が入ってきた。爪を短く切られたナーダリアの指は、ノリスの粘膜を傷つけぬように慎重に、しかし異物を押し返そうとする括約筋には断固として抵抗しながら、奥に進んできた。関節二本分のところで、ナーダリアが指を曲げた。そこを刺激されると、先端はますます膨張した。それをすかさずナーダリアが口に含んだ。動くナーダリアの指や舌を感じる度に、ノリスは喘いだ。遂にはよがり声さえも上がった。女が犯される時の気持ち、体の中に異物を入れられる感触を初めて味わったような気がした。わずかな痛みさえもが快感にすり変わった。恍惚などという言葉が生易しく思える程の感触だった。それでも射精しなかったのは、ナーダリアがそうさせないようにコントロールしているためだろう。彼女はまさに熟練の士だった。ノリスの快感が期待によって増幅されていることを彼女はちゃんと知っていた。射精していればノリスの期待が半減していたであろうことも。熱に犯されそうな意識の隅でノリスは考えていた。その瀬戸際を見極めるために、彼女は一体何人の男、何本の先端を経験したのであろうか、などと…。
 気がつくと、ナーダリアが彼の顔の前で笑っていた。
「悪く、ないでしょ?」
「…素晴らしすぎる」
 ナーダリアは唇を舐め、ベッドから降りた。ノリスはもっと責めて欲しくて、自由にならない体をナーダリアに寄せようとした。まるでお預けを食らった犬である。我ながら浅ましいとも思ったが、考えてみると自分はいつでも浅ましかったような気もしてきた。いや、そんなことより…、
 体がわずかに動いた。
 EMTの効力が薄れてきたのだ。
 筋肉の動きを調整してゆけば、十数分で体も回復するだろう…。ノリスは考えた。ここが思案のしどころだ。逃げるチャンスを窺うには早すぎるような気さえしてきた。もう少しナーダリアに苛めて貰いたいなどと考えたりしている自分が情けなくもあったが。
 ところが…、
 ナーダリアがベッド脇の引き出しから何かを出して戻ってきた。ノリスはその掌に転がされる物を見た。直径一センチ足らずの球根型カプセルに見覚えがあった。
「…それは、《マンドラゴラ》?」
「残念でした」ナーダリアは首を振った。「効果は同じだけど、これはコピー製品よ。本物の《マンドラゴラ》は希少品ですもの」
「じゃあ、それは、《マドンナ》か…!」
《マドンナ》。ネクロノミコン星が生んだ天然の麻薬、自然が作る脅威とさえ言われたあの《マンドラゴラ》の効果だけをコピーした人工麻薬。もちろん人工のものだけに、禁断症状以外の副作用のまるでない《マンドラゴラ》と違い、《マドンナ》は肝臓を初めとする主要な臓器に毒素を残す。その結果、慢性の使用者は極度の体力衰弱に見舞われ…、
「…あんた」ノリスはナーダリアを見た。全てわかった。謎が全て解けた…。「マカダミアン爺さんにそれを使ったな」
 ナーダリアは再びノリスの両脚を抱え上げ、唇に挟んだカプセルを彼の肛門に舌で差し込んだ。続いて指で奥にまで押し込む。抵抗する間もなかった。《マドンナ》のカプセルが、先程ナーダリアに刺激された箇所で柔らかく潰れたのがわかった。
「…御祖父様はね」ナーダリアは言った。「若い娘が大好きなの。それも、まだ女学校に通っているような女の子がね。私も随分早くから御祖父様の玩具になってたけど、十七時塊歳になる頃には飽きられそうになっちゃって。御祖父様の興味を逸らせないために、あそこの毛を剃らせて上げたりもしたわ」
「その間、この薬を使い続けたのか…?」
「そうよ、その前に、今あなたが味わったのと同じ目に遭わせて上げたの。あの御祖父様が、私の言うことを何でも聞くようになったわ。お金も力も思いのまま」
「その金でコーニッツも買収したわけか」
「そう。先生は何でも隠してくれたわ。ああ、ちなみにね、今はお父様に同じことをして上げてるの」
 ノリスは愕然とした。最初見た時、ハルディスクのあの顔色の悪さ、焦点の定まらぬ眼差しは単に栄養の摂り過ぎか、或いは何かの病気だと思っていた。彼がマカダミアン老と同じ目に遭っていたなどと、誰が想像しただろう。祖父、そして父の二人が、実の孫娘であり娘である彼女との愛欲に耽り、禁断の麻薬にてその命を擦り減らしていたとは…。
 ナーダリアは顔を上げずに笑い出した。「何しろお父様は敬虔なシルブント教徒だったものだから、罪の意識が旺盛で、なかなか言うことを聞いてくれないのよ。でも、もうすぐ御祖父様同様、私の操り人形になるわ」
「…実の祖父や父親と関係してまで、あんたが得ようとしてるものは、そんなに大したものなのか?」
 決まってるじゃないの、馬鹿ねえ…、ナーダリアは笑った。「あなたは知らないでしょうけど、スーミット一族の各家に与えられた財産はそれこそ天文学的な数字になるわ。当主の一言が銀河の政治を動かすことだってあるのよ。その財産や権限、この家の全てを欲しがらない人がいると思って?」
「狂ってる…」
「あなたもすぐに同じようになるわ」ナーダリアはノリスの股間に顔を近づけた。「御祖父様やお父様と同じ、私の操り人形にね。さあ、これからが本番よ。さっきの何十倍もの快感があなたを炙ることになるわ」
 その通りだった。
 ノリスは自分の体が伸び上がるかと思った。恐らく肛門内にてカプセルが溶け、滲み出した《マドンナ》が粘膜から体内に吸収されたのだろう。役目柄、何度となく麻薬にも接してきた。幾らかの耐性を身につけた積もりでいた。EMTの効力がこの短時間で薄れたのもそのお陰だろう。しかし《マドンナ》の効力は段違いだった。耐性を身につけた筈のノリスがのたうち回った。天井が回り、部屋が揺れ始め、目の前が真っ白になり、数秒間意識が遠ざかった程だった。
 ただでさえ敏感になっていた膚は、麻薬の効果により、更に感度を増していた。何かこれまでとは違う、電流に似た感触が体に走った。開いたノリスの目に、剃刀が飛び込んできた。驚いて身をよじろうとしたノリスを――EMTの効力は完全に失せていた――、ナーダリアが制した。
「動かないで」ナーダリアは研ぎ上げたばかりらしい剃刀の刃を、形のいい舌でペロリと舐めた。「切っちゃうわよ」
 ノリスは体の力を抜いた。ナーダリアがその上にのしかかった。吐息を当てられてもゾクゾクする膚を、剃刀の刃が撫で始めた。動けば切られるという緊張が、刺激への感受性を倍加した。腰の付け根に寒気とも快感ともつかぬものが何度も走り、毛穴という毛穴を全て均されるような気がした。腕や脚、股から腹に続く産毛が剃られてゆく音が聞こえてきた。ノリスは思わず喘ぎ声を上げた。そこにナーダリアの舌と指の動きが加わった。ノリスはたちまちにして頂点に駆け登った。迸った薄い精液が、ナーダリアの顔や髪に付着した。
 だが、今度はそれでは終わらなかった。
 屹立したままなのである。射精の快感が延々と続いているのである。弾丸を射ち出し、エネルギーを使い切った筈の先端に、血液が送られ続けているのである。指で弾かれただけでも破裂しそうだった。そこに柔らかな唇が被さってきたから堪らない。ノリスはたちどころに二発目を射ち出した。
 ナーダリアはそれを、喉を鳴らして飲んだ。
 ノリスは呻いた。まだ勃っている。ナーダリアがそれに気づき、上目使いにノリスを見て微笑んだ。敏感を通り越し、半分苦痛さえ与える先端の膚を、唇が締めつけた。三発目の発射が間近に迫った瞬間、ノリスのよがり声は悲鳴となった。気も狂いそうな快楽だった。これが続けば確実に狂うだろうと思われた。少なくとも脳の一部は灼き切れてしまうに違いなかった。
 最早何もかもがどうでもよくなりつつあった。
 絶えそうになる息の下、ノリスは呟いた。「…どうせなら、最初から、これをやっておけば、タクシーの細工もなくて済んだのにな」
「あんなのは労力の中には入らないわ。専門家には簡単な仕事よ」
「しかし、犠牲者も出たぜ」
「大した問題じゃないわ」ノリスの先端を銜えたまま、ナーダリアは言った。「下賎の者が何人死のうが…」
 その台詞を聞いた瞬間、ノリスの頭の中で音を立てて切れたものがあった。
 なけなしの抵抗を抑えつけ、ひたすら快感を貪ろうとしていた本能が嘘のように萎んだ。完全に惚け、涎さえ垂らさんばかりだった顔が引き締まり、能面のように無表情になった。射精寸前の先端が勢いを失くした。薬の効果はまだ薄れてはおらず、固く勃ったままなのだが、それでも気持ちは完全に他所に移っていた。気が逸れたと同時に、肌への刺激も一切感じなくなった。なかなか射精しなくなったノリスに、先端をくわえるナーダリアが苛立たしげに唸った。唇と舌の動きに更なる技巧が加わった。
 しかしノリスの体は死人のように一切の反応を止めた。
 薄暗い部屋に、ナーダリアの唇が立てるピチャピチャ、ジュブジュブという音だけが響く中、ノリスは頭を巡らし、壁に掛けてある自分の軍服を見つけた。右ポケットを中心に、重そうに下がるコートも。銃は――マルカムから預かったマジェスキンはまだあの中だ。
 胸に延びてきたナーダリアの手首を掴み、ノリスは上体を起こした。驚愕に目を見開く彼女を、一挙動で組み敷いた。剃刀が床に落ちる。EMTの効き目は薄れてはいたものの、《マドンナ》のせいで体には麻痺が残っていた。指先や膝の下にはまだ力が入らない。それでもナーダリアの腕力に負ける程ではない。
「…なぜ」ナーダリアが信じられないと言いたげに呟いた。「なぜ動けるの?」
「言っただろう。俺を丸め込むのは簡単じゃないって」
「これまで私から、私の《マドンナ》から逃れ得た男なんていなかったわ。それなのに…」
「生憎俺は並の男じゃないんでね」ノリスは言った。「それより、あんたにはいろいろと訊きたいことがある。銃もあるんだが、手荒な真似はしたくない。素直に答えて…」
 ドアが開いた。走り込んできた影がベッドに駆け上がった。だが、影の攻撃は空を切った。ノリスは思い掛けぬ敏捷さでナーダリアの体から離れ、ベッド脇のコートに飛びついていた。ポケットからマジェスキンを引き抜く。
 ベッドの上で顔を上げたのは、社長秘書のサージャだった。
「いよう、美人秘書さん。ドアの前で俺たちのいちゃつく音をずうっと聞かされるのは辛かったろう」ノリスは言った。「今日は麻痺銃は持っていないのか?」
 表情一つ変えず、サージャは言った。「知ってたのね」
 ノリスは頷いた。パーティでのダンスで、サージャがただの女ではないことくらいすぐに気づいた。秘書にしては体の動きが切れ過ぎる。彼女は恐らくスーミット重工が送り込んだ一族へのボディガードなのだろう。だから撃たれた時にわかったのだ。ノリスにその接近を察知させないような輩はサージャしかいないだろう、と。
 ナーダリアが叫んだ。「サージャ! あいつを捕まえて!」
 ノリスは向かってきたサージャにコートを投げ付けた。特殊防弾繊維のコートを彼女にからめつけ、動きを奪う積もりだった。だが、サージャの長い爪は、五・五六ミリパルスカービン弾をはね返すコートの生地を引き裂いた。
 どうやらただのボディガードでもなさそうだった。と言うより、A=tac防弾繊維を引き裂くような女が人間である筈がなかった。しかしサージャと踊ったことのあるノリスには、彼女が一般的なアンドロイドとも違うことがわかった。人間の肌の温みと息遣いを残しながら、想像を絶する力を発揮する…、そうだ。かつて一度だけ見たことがある。あまりに人に似せ過ぎたその姿形に対し残虐極まりない性能が忌み嫌われ、スーミット重工が連邦軍にその採用を断られた人間型兵器…、「まさか、お前…」
「そうよ」ナーダリアは鬱蒼と笑った。「この子が人間型兵器(ウェポノイド)プロトタイプよ」
「見つからない筈だぜ。タルカン家の秘書が隠れ蓑だったとはな…」ノリスは迫ってくるサージャにマジェスキンの銃口を向けた。「動くな」
 サージャは足を止め、ノリスに人間そっくりの嘲笑を浴びせた。「あなたにそれが撃てるかしら?」
「どう言う意味だ?」
「私はともかく、ナーダリア様を撃ったら、それこそあなたはスーミット一族から抹殺されることになるわよ」サージャは言った。「あなたにももうそれはわかっているんじゃないの? だから引き金に掛かる指に力が込められないでいるんだわ」
「生憎だが、俺の仕事はそんなことを気にしていちゃやってられない種類のものなんでね」ノリスは言った。「それにいくらスーミット一族が連邦政府に圧力をかけても、彼らの手は俺には及ばない。俺の身分は連邦軍の最高機関に保障されたものだからだ。まあ、もっとも、お前さん方が自前で殺し屋を雇ったりすれば、俺自身の手で片づけなくちゃならんわけだが」
「…あなたの、身分?」
「俺がなぜ禿鷲と呼ばれてるか、考えたことはなかったのか?」
「じゃあ、なぜ今、私に向かってその引き金を引かないのかしら?」
 サージャはもう一歩足を踏み出した。ノリスはマジェスキンの銃口を下げ、彼女の足元を撃った。凄まじい火花が散り、合金製のタイルが数枚砕かれた。
「わからないか?」ノリスは言った。「俺はあんた方を撃ちたくないんだよ」
「…どうして?」
「俺は銃が嫌いだし…」そう言った語尾がわずかに震えを帯びた。「それに、あんた方が女だからだ」
 二人の女はわからない顔を見合わせた。サージャが再びノリスに向かって足を踏み出そうとした。彼女の身体が変形を始めていた。鉤爪が、両腕が、そして胴体が…。「私はウェポノイドよ。人間じゃないわ」
「だがそれでも俺の目には女に見える。頼むから撃たせないでくれ」
 マジェスキンの銃口をゆっくりと上げ、得体の知れないものへと変化しつつあるサージャの胸にその照準を合わせたノリスの口調は哀しげでさえあった…。
「俺に引き金を引かせないでくれ」


     (八)

 人工惑星ホルベルクに再び人工の朝が訪れた。
 各階層のエアコンディショナーがそれぞれの階に風を送り出す。最上階には銀河各地から集められた常緑樹が植えられており、送り込まれる風を大地の香りに近づける。宇宙に住む上で少しでも地上に近い生活を送ろうとする人々の工夫である。
 大きな窓を開け放ち、樹々の香りが一杯に入ってくるに任せた静かな広い居間の隅で、マーデリン=タルカンは日課の読書にいそしんでいた。
 テーブルの上には数々の書物を収めたデータカセットと、ティア・ルイジャの湯気を上げるポットが置かれてあった。一部の人々には酒以上に愛されるティア=ルイジャも、最近では滅多に手に入らなくなった。たまに手に入るとこうやって、気に入った書物とともに時間を掛けて飲むのがマーデリンの習慣になっていた。
 一口飲み干した後、口の中で広がる香りを楽しんでいたマーデリンを呼ぶ声がした。メイドの一人が装飾のついた金のトレイにメッセージファイルを載せて入ってきた。
 ファイルは対ショックカーボンシートで厳重に梱包されており、封印にはスーミット一族の家紋であるヒドラの刻印が打ってあった。
 唇の隅だけで笑ったマーデリンはメイドを退がらせた。ディスプレイパネルから読んでいたドキュメンタリーのファイルを外し、梱包を封印してある刻印に、同じ模様の彫ってある自分の指輪を押し当てた。パチリ、と音を立て、封印が解けた。梱包を開き、入っていたメッセージファイルをパネルにセットする。
 ディスプレイに現れたのは文字だけであった。
『銀河標準時塊四〇七三・〇五。本日、長老会議は、スーミット重工開発素材研究システムの株、及び資産の七十五パーセントをナーダリア・タルカンへの譲渡の承認を決定した。これにより同ナーダリアは同名研究システムの代表取締役となり、社の全権を担うものとされる。尚、就任の時期は…』
 目を通していたマーデリンの顔色が紙よりも白くなった。唇を震わせながら椅子から立ち、部屋を走り出た。駆け込んだ先は、夫ハルディスクの執務室だった。もちろん今の時間、夫はいない。副社長スタルムとともに本社に行っている筈だ。父マカダミアンは部屋にいる。看護のナーダリアは秘書のサージャともどもまだ戻っていない…。
 ハルディスクの机に陣取ったマーデリンは、指輪を使って右上の引き出しを開けた。収まっているのはスーミット財閥長老会議へ直通の星間通信機だ。
「もしもし、私です。マーデリン・タルカンです」
 マーデリンは通信に出てきた相手にまくし立てた。「…あの決定はどういうことですか? 約束が違うじゃありませんか。しかも私に何の通達もないまま長老会議を開いたりして、あなた方は一体どんな積もりで…。何のことかわからない? だって、私はつい今し方、決定を伝えるファイルを…」
 怒りに強ばっていたマーデリンの顔から熱が失われていった。入れ替わりにその表情を、驚愕が支配しようとしていた。
「…そんな決定は出していない?」
 その時になって初めて、マーデリンは怒りのためとは言え、あまりにも自分を見失っていることに気づくことになった。そして、夫の執務室内を見回す余裕さえ失くしていたことも。
 冷静さを失った彼女は、夫の執務室内の隅に初めからいた人影にさえ気づかなかったのである。
 彼を認め、諦めたように星間通信機のスイッチを切ったマーデリンに、カスパー・ノリスは言った。
「ゲームオーバーです、奥様」
「…ナーダリアがあなたに喋ったの?」
 しばしの沈黙の後、マーデリンはノリスに訊いた。軽度の火傷で腫れ上がった顔に包帯を巻いたノリスは首を振った。
「いいえ、お嬢さんは何も言ってません」喋れる筈がなかった。ナーダリアは現在連邦軍駐在事務局の医療室で集中治療を受けている最中だった。ノリスがサージャを撃つ際、流れ弾が火災を起こし、その炎に全身を包まれたのだ。
「よくあの子の誘惑から逃れられたものだわ」マーデリンは感心したように呟いた。「それに、手紙の偽造には参ったわ。あれはあなたのアイディア?」
「そうです、と言いたいが、実は違います」ノリスは言った。「あなたを陥れる罠を張りたいと申し出たら、連邦軍の長官が用意してくれました」
「合鍵はよく作れたわね」
「指輪で開く封印のことですか? それも知りません。まあ、これだけの短時間でそんな仕掛けを偽造できるとは思えないから、多分あなた方一族の中には私たちに協力してくれる人間もいるってことじゃないですかね?」
 黙り込んだマーデリンにノリスは頷いて見せた。「少なくとも長老会議の決定に反対しようって動きがあるのは事実でしょう」
「長老会議の決定が何だったかわかるって言うの?」
 ノリスは肩をすくめた。私が前に来た時に言ったことを覚えておいでですか? 今度の事件が内部の人間の仕業である、と。実は私はあの時から、長老会議のことを疑っていました。と言うより、私は最初から帝国への疑いを抱いていなかったんです。
「慧眼だわね」
「常識で考えればわかりますよ」
 ヴィジウムという希少鉱物を反陽子炉建造ができる程搬出するには、スーミット財閥の最高議決機関の許しは絶対に必要だった筈でしょう。しかしあなた方の一族内部への監視の厳しさは有名だ。スーミット一族の中に帝国の手先が潜り込むことは恐らくあり得ない。それによくよく調べれば、あるいは建造に掛かる日時を逆算すればわかることだが、帝国がからんできたのはノリアコースが反陽子炉を作り出して以降のことだ。
「バーン・スタンレイは騙せたのに…」
「少なくとも私は何でも帝国のせいにしたがる馬鹿者どもとは違います」
 では、なぜあなた方が帝国の仕業を装い、ノリアコースにヴィジウムを搬出する必要があったか?
 現在連邦内に流れる帝国との対話ムードを打破するためです。あなた方スーミット一族の収入の大半を占めているのは、軍需産業における利益だ。連邦軍一回の出動につき、あなた方の懐には数十、数百億ユニットの金が転がり込む。帝国と対話なんぞ始められた日には、それこそ金の成る木を枯らせてしまうようなもんだ。だからあなた方は、何としてでも連邦と帝国に睨み合いを続けて貰わねばならなかった。
 今度の件で、巧くいけば連邦軍はノリアコースに進軍する。帝国が黙っていなければ、全面戦争が再燃するかも知れない。しかしそれこそが、あなた方の最終的な目的だったわけだ。
 これも推測ですがね、恐らくヴィジウム搬出を指示したのはあなた方の長老会議ではなかったか、と私は思ってる。
 会長であるマカダミアン老はそれに反対したんでしょう。多分社長であるあなたのお婿さんも。しかし長老会議と裏取引をした人物が一人いた。そう、あなただ。もしこの作戦が成功すれば、あなたは会長と社長の権限を一切手中にできるという条件で…。
「全部推測だわね」マーデリンは言った。
 ノリスは再度肩をすくめた。「ええ、そうです。しかしその推測に従って出した偽手紙に、あなたは見事に引っ掛かった。それで十分だとは思いませんか?」
 マーデリンは唇の隅で微笑した。「なぜ、ナーダリアじゃなくて私を疑ったの? あの子は何も喋らなかったんでしょ?」
「会長と社長を手玉に取るために、娘さんに《マドンナ》を使わせたでしょう」ノリスは言った。《マンドラゴラ》と同じ効力を発揮する《マドンナ》だが、やはり人工的に合成した麻薬、その毒性は比較にならないくらいに強い。使われる側だったマカダミアン老や社長の衰弱ぶりはともかく、彼らの汗や粘液を舌から吸い込むナーダリアにも副作用が及ばない筈はなかった。現に、収容されたナーダリアの脳を調べた医療班は、彼女の前頭葉が極度に収縮していることを突き止めた。どんな質問にも動揺しない筈である。
 彼女は文字通り、半分狂っていたのだ。
「…これから権力を掴もうとする人間が、副作用のわかってる合成麻薬などを使う筈がない。そう思った時に、後ろで糸を引く人間の存在がわかったんです」
「それが…」
「あなただったわけです、奥様」
 ナーダリアは胸の底から息をついた。微笑む。
「あなたを侮ってたわ、本当に」全てを諦めたような微笑みだった。「連邦の役人なんて事なかれ主義の腰抜け揃いかと思ってた。まだあなたみたいな人が残っていたとはね」
 ノリスは肩をすくめた。笑顔を作ろうとした唇がへの字を描いた。「根無し草になる度胸の有無によります。私は小さい頃から頼れる人とその愛情に飢えていましたからね。一度見つけた頼れるものをそう簡単に失うわけには行かない」
 隣室に待機していた連邦警備隊の捜査官が顔を出した。ナーダリアは黙って立ち上がろうとした。
「まだ時間はありますよ」ノリスは言った。「奥様に伺いたいことがあるんです」
「………」
「一体、どういうわけで…」

     (九)

「…一体どういうわけで、娘であるナーダリアを犠牲にしてまでも、マーデリンは権力を欲したか」
 マーデリンが連邦警備隊に逮捕されてからコンマ三時限。再び朝が訪れた人工惑星マドバルダの第三層。
 ねぐらであるタイメックスホテルの個室にて、ベッドに上半身裸で寝転がったノリスは、傭兵アーシット・マルカムと向かい合っていた。体のあちこちには兵器型人間サージャの爪にえぐられた傷と火傷の痕とがまだ生々しく残っていた。マジェスキンの破壊モードでの一撃は襲いかかってきたサージャの体を一瞬にして灰にしたが、その勢いで閉じ込められた部屋をも火事にした。意志の力で立ち上がったものの、残っていた《マドンナ》の効力により力尽きかけたノリスと、煙にむせるナーダリアを救出したのは間一髪駆けつけたマルカムであった…。
 マルカムは訊いた。「…喋ったのかよ、彼女はそれを?」
「いや、最後までは聞けなかった」ノリスは首を振り、サイドテーブルから発泡水入りの水を手に取った。「…しかし、想像はつくよ」
 他人より綺麗な服を着たい、他人より美しい装飾をつけたい、他人に少しでも差をつけるためなら何でもする。そしてそのためにはどんな出費をも厭わない…、女の欲望ってのは全くキリがないよな。しかしマーデリン・タルカンにはその欲望を満たすだけのスポンサーがいた。親父だ。あのマカダミアン爺さんだよ。爺さんさえ言うことを聞いてくれりゃあ、欲しいものは何だって手に入る。そのために彼女は何をしたか。
 若い自分の肉体を提供したのさ。
「ああ、これは推測じゃないぜ」息を呑むマルカムに、ノリスは言った。「事実だ。マーデリン自身が喋ったことだ」
 …爺さんの若い女好きは病的なものだったそうだ。最初は親娘の単なるじゃれ合いみたいなもんだったらしいが、それがそのうち冗談じゃ済まなくなってきた。その、冗談じゃ済まなくなってくるまでの様子ってのは、ちょっとここじゃ話す気にはなれないな。とんでもなく露骨で生々しいものだったとだけは言っておこう。それに俺は、それを平気で喋るマーデリンの方が怖かったよ。とにかくその頃既に奥方を亡くしてたことも悪い方に影響したんだろうな。ある日一緒に風呂に入った際に、二人はとうとう行くところまで行っちまったらしい。
 それ以降、それまではただ厳格だっただけの父親の態度が豹変した。娘の若い肉体欲しさに、土下座までするようになったって言うんだからな。娘も娘で、そんな経験をしたからってグレるような愚かな女じゃなかった。そんな父親の欲望を最大限に利用する方法をすぐに思いついた。スーミット一族の財力に買えないものはない。彼女は本物の贅沢を始めたわけだ。
 しかし欲望ってのは満たされれば増大する。もっと大きなものが欲しくなる。もちろん彼女の欲望もどんどんエスカレートしていった。ところが齢を食うに従って、彼女の父親への影響力は弱くなっていった。当然だ。マカダミアン爺さんの欲しがる若い肉体が失われていったんだから。
 二十四時塊歳になった時、彼女は爺さんに対する己の影響力が限界に来たことを知った。しばらくはメイドの娘なんかをあてがってしのいだらしいが、気心の知れない女たちを使っていては秘密も守れないし、いつまで経っても自分の欲望も満たせない。
 そこで彼女は適当な男と結婚し、遺伝子の性別操作で娘を産んだ。
 そうだ。自分の産んだ娘を爺さんにあてがうためだ。
 彼女は娘をその目的に使うための教育まで施した。外部との接触は最小限に抑えられ――学校に極力行かせなかったのもそのためだ――、爺さんを喜ばせるための訓練に費やされた。俺に仕掛けたあのテクニックの大部分が、母親の伝授したものだってんだから驚きさ。ナーダリアの生涯は母親に利用され、祖父の玩具になるためのものだったと言っても過言ではない。案の定、若く美しく、しかも秘密を守れるナーダリアの肉体は、マカダミアン爺さんを大喜びさせた。
 そしてマーデリンは娘に、爺さんを言うこと全てに従わせるために、禁制の麻薬を使うことを命じた。それが上手く運んだ後、現在実質的な権力を握る自分の夫、即ちナーダリアの父親を誘惑させるにまで及んだ。
「待ってくれ」額から汗を流し、マルカムは尋ねた。「爺さん相手はともかく、なぜハルディスクまでを麻薬漬けにする必要があったんだ?」
「ノリアコースへのヴィジウム搬出に、ノーと言わせないためらしい。長老会議が彼女に約束を取り付けた条件は、爺さんと社長であるハルディスクの反対を抑えて貰いたいって内容だったそうだ」
「二人はヴィジウム搬出に反対だったのか」
「ああ、特に爺さんはスーミット一族の中では筋金入りのリベラリストだった。悪い病気を持ってはいたが、別の一面じゃ立派な当主だったわけだ。そしてハルディスクは、その爺さんからいろんなことを学んできた男だ。連邦と帝国とに戦争を続けていて欲しい本社としては、爺さんとハルディスクはある意味じゃ目の上のどでかいタンコブだっだろうからな。事実、《マドンナ》が切れるの怖さに爺さんもハルディスクもマーデリンに逆らわなくなったってことだ」
「いちいち娘を使わなくとも、自分の身体を整形するとか、肉体そのものを取り替えるとかの方法もあっただろうに…」
「整形には限界もあるし、スーミット一族の内部への監視は厳しいんだ。しかも恩情などまるでない。身体を取り替えたりしようものなら、彼女はマーデリン・タルカンとしての身分を失ってしまう。よそ者として無一文で追放されるのがオチだったさ。第一かばう積もりがあるなら、最初から娘なんか産まなかったろうよ」
「…………」
「忘れるなよマルカム。あの女はナーダリアを育てるためじゃなく、欲しいものを手に入れる道具とするためだけに産んだんだ」
 マルカムは首を振った。振るしかなかった。彼の理解力を越えるような話ばかりだったからだ。「…そこまでしてマーデリンの欲しがったものってのは」
「スーミット一族であるタルカン家そのものだ」
 マーデリンはこれまで他人に対する影響力だけを武器に生きてきた。若い時分は美しさが彼女の影響力を支えてきた。しかしそれが失われつつある現在、彼女は永遠に続く影響力が欲しくなったのさ。これまで肉体と引き換えに得ていたが、それさえ手に入れれば若さなど必要なくなるもの…、
 そう、タルカン家の財力と、スーミット一族の権力だ。
「…わからなくなってきたよ」マルカムは呟いた。「お前の言ってることのどこまでが真実でどこまでが想像の産物なのかが…」
「お前が俺を信用しようがしまいがどっちでもいいことだ」ノリスは言った。「ナーダリアは保護したし、俺の掛けた罠でマーデリンは自分のしでかしたことの大筋を認めた。検察側も俺の出した書類とヴィデオを審査の上、彼女への逮捕状を発行した。まあ、この先彼女には暗黒刑務所での一生が待っている」
 そして一言つけ加える。「…上手くいけば、な」
「保釈されることは、ないのか?」
「ないな。連邦は相手が大物であっても裏切り者には容赦はしない」ノリスは再度発泡水のグラスから一口飲み、首を振った。「連邦にだってまだ多少の筋金は残ってるんだ」
「ナーダリアが逮捕されることは?」
「それも多分ない。あの娘に責任能力があったとは思えないからな。もっともあの娘は恐らくこの先まともな人生は送れまい」脳の前頭葉が縮んでいるんだ。《マドンナ》の後遺症だ。理解能力はまともだが、常識判断能力は三時塊歳の幼児にも劣るらしい。あの娘は自分を愛しかけたスタンレイを、虫でも潰すような感覚で宇宙に放り出したのさ。
「もちろん実行犯はサージャだったわけだが」
「…しかし、お前よくそこまでたどり着けたな」と言うより、最初から帝国を疑っていなかったと言うノリスの洞察力に、マルカムは改めて舌を巻く思いだった。「俺は帝国の仕業と聞いて、ずっとそれを鵜呑みにしてたよ」
「大抵の人間は己の病気や体調不良を他者のせいにしたがるもんだ。原因は自分の不摂生にあるにも関わらず、な」
「しかし、俺を含めて、誰もが帝国の仕業だと疑わなかったんだぜ」
 ノリスは鼻を鳴らした。「俺は人が東だと証言したら、必ず西から調べる男なんだ」
 お前は臍曲がりだからな…、と呟いたマルカムだったが、ふとノリスを見た。「…さっきの“上手くいけば”ってのは何だ?」
 ノリスはニヤリと笑おうとしたようだったが、あの不潔な笑顔は出てこなかった。視線が宙に彷徨う一瞬があった。
「…少なくとも今度の逮捕で、連邦圏内のマスコミが騒ぎだすのは必至だ。もしかすればマーデリンの口から自分たちの策謀が全て露見するかもしれんのだ。スーミット一族が彼女の逮捕を黙って見過ごすと思うかい?」
 マルカムは目を剥いた。ノリスは肩をすくめた。「マーデリンの命が暗黒刑務所に到着するまで保ったら、俺のサラリーの半分をお前に差し出してもいいぜ」
「奴らはお前じゃなく、マーデリンを狙うと言うのか?」
「奴らだって馬鹿じゃない。少なくとも俺の正体はもう掴んでる筈だ」連邦軍の中で《禿鷲》と呼ばれる男。表向きは連邦軍の一介の大尉だが、実質的には副長官に次ぐ特別な権限を与えられている。その代わりに誰もが嫌がる仕事も引き請けざるを得ない連邦の掃除人…。「俺を狙って余計な疑いやら連邦軍との諍いやらを招くくらいなら、マーデリンとナーダリア両方を消す方を選ぶだろうよ」
「お前、それを知ってて…」
「同情はしないぜ。あの女は犠牲が出ることなど考えもせずに俺を罠にはめようとした。いや、犠牲になった連中のことなど最初から眼中になかったんだ」ノリスの脳裏に、燃える車に向かって泣き叫ぶ幼い兄弟の声が木霊した。その声は、誕生日のあの日、プレゼントの銃――安全装置の掛からなかった粗悪品――で誤って母を撃ち殺した、幼い自分の泣き声でもあった…。「あの女には相応しい末路だと思うね」
 マルカムは黙り込んだ。ノリスは開け放った窓の外に目をやった。
「…今回もこれで終わりだ」
 ドアがノックされ、例のメイドの少女がトレイに載ったファイルを手に入ってきた。実に不機嫌な顔だった。マルカムと部屋の前ですれ違った時からそうだった。喧嘩でもしたのかと訊くと、ノリスは答えた。勃たなかったんだ。
 まだ《マドンナ》が効いているのかも知れない。しかしそれだけでもなさそうだ。多分まだ俺の体があの女――ナーダリアの責めを忘れられずにいるんだろう。とにかく凄かったからなあ。今思い出してもケツの穴がむずむずするぜ。当分の間はどんな女を相手にしても勃ちそうにないや…。
 発泡水入りのグラス片手にトレイのファイルをつまみ上げたノリスが渋い顔をした。
「また仕事か?」
「いや、呼び出しらしい」ノリスはファイルをサイドテーブルに放り出した。「…前々回の人質救出作戦だよ。予算を使い過ぎた揚げ句の失敗に査問委員会が怒って、俺を呼びつけようとしてるんだ」
「あれこれと忙しい男だ」
 いつものことさ、と薄く笑ったノリスの側に、傷と火傷の薬を持ったメイドの少女が座った。マルカムは立ち上がった。仕事は終わった。ノリスはすぐにこのホルベルクを出てゆく。今からその彼と少女との間で愁嘆場が始まることは明白だった。この男と仕事をした際はいつもそうだった。女のことばかりではない。この小男は任務の遂行のためになら手段を選ばなかった。同僚、後輩は言うまでもない。上官でさえも利用した。だからこの男には友人もいないし、多くの上官からも煙たがられ、後輩からの信頼もゼロに近かった。マルカム自身、この男に幾度となくいいように利用されてきた。今回もそうだ。
 だが、マルカムはこの男を憎めないでいた。この男に嫌々ながら協力している同僚、後輩、上官たちも内心では同じ気持ちではあるまいか。もしこの男が己の出世欲だけのために走り回っていたのであれば、とっくの昔に誰からも見捨てられていただろう。しかしノリスは出世にほとんど興味を示さず、ひたすら連邦の掃除人の道を突っ走った。三十時塊歳ちょっとでの大尉という階級は、彼の働きに付随してきた飾りに過ぎない。どんなにいい加減なことをしている風に見えても、ノリスの根幹には連邦を守ろうという意志があった。だからマルカムもこの男を見捨てられないできた。
 それでも未だに、何がノリスを衝き動かしているのか、マルカムにもわからない。訊いても問い詰めても、恐らくこの小男はいつもの不潔な薄ら笑いではぐらかすに違いなかった。付き合いももう七時塊近くになろうと言うのに、小さい頃、銃の暴発で母を死なせた話もつい最近知ったばかりなのだ。
「御苦労だった」挨拶もなしに出ていこうとするマルカムに、ノリスは言った。「また会おう」
 マルカムは苦笑しながら肩をすくめた。「俺も今度大きな仕事に参加するんでな」
「あのスペース何たらいう引き揚げ屋(サルベイジャー)だな? あんな連中とつき合って何が面白いんだか」
「あいつらはお前の百万倍いい奴らだぜ。これ以上のお前とのつき合いは正直願い下げだよ、大尉殿」
「実はな」ノリスは笑った。あの下品な笑みが復活した。「…実は今度、少佐に昇進する」
「また昇進か。前回からまだ一時塊だぞ」
「餌だよこれは」今度はノリスは肩をすくめた。「昇進と引き換えに人質救出作戦の責めを負わせようって魂胆さ。サー・ウィルフレッド辺りの考えそうなこった」
 マルカムはやれやれと首を振りつつ、《タイメックスホテル》を後にした。


                    2017年1月1日、早朝

銀河傭兵列伝 禿鷲と呼ばれた男

銀河傭兵列伝 禿鷲と呼ばれた男

カスパー・ノリス。通称は『禿鷲』。連邦内にはびこる汚職や腐敗、裏切り行為を粛清して回る男だ。凄腕傭兵アーシット・マルカムの手を借りつつも、どんな相手だろうと彼は臆することなく立ち向かい、虚飾と罪とを暴き立てていく。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-04-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted