愛しのノスフェラトゥ

愛しのノスフェラトゥ

ただのヴァンパイアではない!
不死の魔物でありながら、
こいつは愛の使者なのだ!
何しろ血など奪わない!
寧ろ与える方なのだ!

愛しのノスフェラトゥ

       愛しのノスフェラトゥ


                         鬼子母 淳


「…コジュケイの声よ」
 梢で小鳥が鳴いていた。汗を拭いながら見上げた浅川京子の横で、榎本美紀が呟いた。
「この辺にもまだいたんだなあ」
 東京も西に下れば多くの自然を残している。立川から五日市線あるいは青梅線に乗り換え奥多摩に入れば、周囲は完全な山と化す。国道四一一号に沿った青梅線だが、鳩の巣や白丸などの駅を降りると、ここが東京かと思える程の辺鄙な田園風景が目の前に現れる。都会の雑踏と掛け離れた自然を満喫できる。
「…コジュケイ? あれ、焼き鳥になるの? それより疲れたあ」
 舗装されていない細い山道にて、飛び去るコジュケイを見送りながら、ショッキングピンク色のリュックを背負った京子はうずくまった。横に立った美紀が、ハンカチで額の汗を拭き、明るく笑った。
「頑張ってよ。まだまだ先は長いよ」
「後何キロあるの?」
「山頂まで四キロ、ってとこかな?」
「やだ、そんなにあるのぉ? もう歩けないわよ」
「人の忠告聞かないでそんな踵の高い靴履いてくるからよ」
「足が棒だよ、棒」
「古いわねえ。足が棒だって。死語だよ、死語」
「あなたの知らない、死語の世界」
「つまらないギャグ飛ばしてないで、立った立った」笑いながら美紀は京子に手を差し伸べた。「行くわよ」
 背中まである染めた髪を振り払い、恨めしげに美紀を見上げ、それでも京子は仕方なしに立ち上がった。立ち上がると美紀より十五センチ近く背が低い。それでもプロポーションは整っており、黒いシルクの薄手のシャツから突き出す乳房や、Gパンに包まれた脚の長さなどは日本人離れしていた。美紀から手渡されたハンカチで汗を拭うと、つけ過ぎのファンデーションがハンカチにべったりと付着した。「相変わらず美紀はタフだよねえ」
「京子がだらしないだけよ」
 ダンスの上手い某アイドルと元AVアイドルのファッションを足し合わせ、それをそのまま着たような京子と対照的に、榎本美紀は男と間違われかねない程さっぱりした服装をしていた。髪も短く、厚手のウールシャツに包まれた胸も小さい。しかし余分な肉一つついていない体は健康的で、手足も羚羊のようにすらりと伸びていた。
 高校時代の同級生で、お互い二十一歳の現在、二人とも都内の別々の会社にて受付と事務をやっている。ゴールデンウィークの休暇を利用して、西東京の自然を楽しみに来たと言うわけであった。
 先を歩きながら美紀が大きく背伸びをした。「…いい空気。ここまで来ると東京の毒も全部吐き出せそうな気がするわよねえ」
「あたしには澄み過ぎ、ここの空気。体の中のモノ、ぜーんぶ持っていかれそう。全く美紀も物好きだよ。東京の自然を探して歩こうだなんて」京子がボヤいた。「どーせ歩くんなら、いい男探して渋谷か六本木歩いてた方がマシだったわよ」
「何言ってんのよ。ゴールデンウィーク暇だから、たまには人のいない場所でゆっくり過ごしたいって言ったの京子でしょ?」
「そうだった、かしら…?」
「それに何がいい男捜しよ。普段そんなことばっかやってるから、京子の足腰は中年化しちゃうんだよ」
「ちゅ、ちゅ、中年化とは何よ。失礼しちゃうわねえ。あたしだってね、少しは足腰鍛えてるんだからね」
「何が鍛えてるよ。京子の運動場所って言えばせいぜいクラブのお立ち台の上でしょ」
「大きなお世話よ」
「それにねえ、いい男探して歩くのはいいけれど、その男と簡単にデキちゃって、三か月後には必ず別れちゃって、その夜電話で泣きながら延々と愚痴をこぼすのは誰なんでしょうね」
「な、何の話よそれ…」
「こうやって自然の中を歩いてる間は、京子の愚痴が生じる心配もないってわけ」
「それより少し休まない? もう、足が痛くて痛くて…」
「さっき休んだばかりじゃない」
「お願い、ちょっとだけ」
「ダーメ。いくら低いって言っても、ここは山なのよ。山の天気は変わりやすいんですからね」
 京子は口を尖らせて空を見上げた。「こーんなに晴れてるじゃない。あれ…? ちょっと、ちょっと美紀ったら。待ってよ。待ってってばあ!」
 美紀はとっとと歩き出していた。追いかけてくる京子の声を背に、小さく呟く。
「…人の気も知らないで」

 午後を過ぎる辺りから、空模様が怪しくなり始めた。二人は山頂での食事を一時間早く切り上げ、山道を下った。ところが歩き始めて間もなく、空はたちまち真っ暗になり、雷鳴と同時に息をもつかせぬ大雨が二人を見舞った。
 京子と美紀は土砂降りの中を走り続けた。走りながら美紀が叫んだ。「京子、今のうちに、謝っとくわね」
「何を?」
「どうやら、道に、迷っちゃった、みたい」
「ええっ!」
 やがて二人はどうにか雨宿りできそうな木陰を見つけた。遠くで鳴っていた雷が、少し
ずつ近づいてくるのがわかった。                                   
「…あーん、びしょ濡れ」京子は濡れたシャツを摘まんでボヤいた。「これ、高価(たか)かったのよ。クリーニング代だけでも相当掛かるんだから。これもみーんな美紀のせいよ。東京にいれば雨宿りする場所だってあったし、かっこいい男だって見つけ放題だったのよ。おまけに道に迷ったですって? どうするのよ美紀。…聞いてるの美紀?」
 振り向くと、美紀は木に寄り掛かるようにして息をついていた。顔色が悪い。「ど、どうしたのよ美紀。真っ青だよ」
「急に走ったからかしら…」美紀は荒い息をつきながら、笑って見せようとした。「御免ね京子。暗くって方角がわからなくなっちゃって」
 もういいよ…、京子は怒る気を失くして言った。「雨が止めば何とかなるんでしょ? それにしても大丈夫なの?」
「元陸上選手がだらしないわよねえ。京子の生活をとやかく言えないわ」
「そう言えば美紀、最近少し痩せたんじゃない?」
「…そうかしら。気のせいよ」
 その時、二人が雨宿りしていた杉の大木に雷が落ちた。
 鼓膜をつんざくような轟音とともに、木はものの見事に真っ二つに裂けた。そしてその一方が、二人の方に倒れ掛かってきた。美紀は気づいた。しかし耳を塞いで目を閉じた京子はそれに気づかない。そのままうずくまりかけた京子に、美紀は体当たりした。
 木の片割れは地響きとともに、二人のいた場所に倒れた。
 …雨は降り続いていた。生木が燃えながら爆ぜる音がした。
「…美紀、美紀ってば」
 京子は気を失った美紀を抱き抱え、揺すり続けていた。
「しっかりして。目を開けて。こんな場所で死なないでよ。あたしを一人にしないでよお。我儘言って悪かったからあ」
 美紀が小さく呻き、目を開けた。京子は安堵の溜め息をついた。美紀はほんの少しぼんやりしていたが、京子の顔を見上げ微笑んだ。「ああ、京子、大丈夫だった?」
「うん、有り難う」京子は美紀の手を引っ張って立たせ、まだ炎を上げ、くすぶっている木を見た。
 美紀が言った。「危なかったわね」
「美紀があたしを押し倒してくれなかったら…」京子は思わず体を縮ませた。ふらふらする美紀を支える。「大丈夫? どこか痛いとこ、ない?」
「うん」頷いた美紀は空を見上げた。「それより、行かない? 暗くなってきちゃった」
「そうだね。雨宿りする場所もなくなっちゃったし」
 二人は歩き出した。
「…雨、止まないわねえ」
「真っ暗になってきたわよ」寒くもなってきた。大きなクシャミを連発した京子は、汗と雨と泥に濡れ、まるでワカメのように纏わり付き始めた黒いシャツを摘まんだ。「これも捨てるしかないかなあ。今、何時?」
 美紀は腕時計を見た。「六時よ」
「やだ、まだそんな時間なの? こんなに暗いのに。何かいやーな予感がするわよね。暗くなってくる山道、突如変わる天気、雷に裂けて倒れた大木…」
「何が言いたいのよ?」
 怯えたような美紀を見て、京子は調子に乗った。口調が次第に怪談めいたものに変わってくる。アパートに置いてあるゲームソフトの一つに確かこんな話があった。「二人の乙女を待ち受ける謎の洋館、そしてその洋館で起こる、地も凍るような惨劇…」
「やめてよお」
 泣き出しそうな美紀を見て、京子は腹を抱えて笑い出した。昔から美紀はこの手の話が大嫌いなのだ。笑うと首の辺りに凝り固まった疲れが薄らぐような気がした。半べそをかいて足を速めた美紀を、笑いながら追いかける。遠くで雷が鳴った。
 と、いきなり美紀が立ち止まった。京子はその背中にぶつかった。「な、何? どうしたのよ?」
「あれ、明かりじゃない?」
「えっ?」
 京子は目を凝らした。二人の行く手を遮る木々の彼方、枝々の透き間から漏れてくる光があった。星明かりにしては低すぎるし、この空模様で星が見える筈もなかった。一つしか見えないとすれば街灯でもなさそうだ。「…家かな。行ってみようか」
「そうね。でも…」
「何よ美紀、さっきのあたしの冗談を気にしてんの? ここで濡れたまんまでいるわけ行かないじゃない。あたしは行くわよ」
「あ、ちょっと、京子!」
 枝をかき分けながら走り出した京子を、今度は美紀が追いかけた。
「…ねえ、美紀」
「…なあに?」
「何に、見える?」
「…洋館」
 二人は息を呑み、暗い丘に立ちはだかる建物――まさに古いヨーロッパ映画に出てくる貴族の邸宅のような西洋館――を見つめた。正面から見ると四階建、一階の部屋数は玄関を除いて八つ。少なくとも三十室以上あることになる。正直なところ、東京の一部とは言えこんな辺鄙な郊外の風景にはまるでそぐわない館だった。
 そして明かりは、その一階の窓の一つから漏れていた。
「…ホテルか、何かかしらね」
「看板もネオンも何もないわよ」
「そういうホテルじゃなくて…、ちょっと京子。何してるのよ!」
「見りゃあわかるでしょ。入るのよ」
 京子は洋館の玄関に向かおうとした。雨の中、美紀は動かない。さっきの京子の怪談がまだ効いているらしい。苛立った京子は美紀の手を無理やり引っ張った。「仕方ないじゃない。雨が止まないんだから。誰かいるならこの際一晩くらい泊めて貰おうよ」
 ドアベルはなかった。京子は握り拳で思い切りドア、と言うより鉄扉と言った方が正しいようないかめしい開き戸をノックした。
「こんにちは! こんにちはあ! 変ねえ、誰もいないのかしら?」
「やめようよお」
 怖がる美紀を無視して、京子はドアノブを回した。
「あ、開いてるよ。鍵がかかってない。不用心だなー」
「京子ってば!」
 重そうな鉄扉は手入れも行き届いているらしく、簡単に内側に開いた。京子は音もなく開いたその扉が意外に新しいことを知った。美紀を引きずるように中に入る。
「こんにちはあ! 誰かいますかあ!」
 広い玄関ホールに京子の声が木霊した。あちこちに立てられた燭台に燃える蝋燭が、どうやら赤い絨毯の敷き詰められた廊下と階段とを浮かび上がらせていた。「こんにちはあ…! 誰もいないよ、やっぱり」
「じゃあ、この蝋燭は誰が灯したのよ? ちょっと京子! どこ行くの?」
 京子は外に明かりが漏れていた部屋の前に立ち、ノックもなしにドアを開けた。
「わあっ…!」
「ど、どうしたの?」
「こっちこっち。来てご覧よ」
 京子に続いて部屋を覗き込んだ美紀も思わず溜め息をついていた。
 暖炉に赤々と火が燃えていた。明るい部屋には塵一つ落ちていなかった。純白のクロスを架けられたテーブルには、湯気を立てる料理の皿が置かれていた。やっぱり人がいるのよ…、と言いかけた美紀を無視して部屋に入った京子は、周囲を見渡して歓声を上げた。天井から下がるシャンデリア、様式は知らないが唐草模様に似た彫刻を施されたテーブル、全てが彼女がこれまで見た、いかなるホテルの装飾よりも豪華だった。
 テーブルの上を見た京子はまたしても歓声を上げた。料理の一品一品を勘定し始める。巨大なローストビーフ、鍋いっぱいのブイヤベース、純金製らしいボウルに盛られた鮭のマリネ…。「すっごーい! 美紀、ワインだワイン! ボルドーだよ!」
「京子、ちょっとあなた、何座ってるのよ? あ、ちょっと! 駄目よ食べたら!」
「構やしないって。どーせ誰もいないんだから」
「これじゃ私たち泥棒よ」
 美紀はリュックからタオルを出し、濡れた頭を拭きながら廊下を伺った。しかし流石に一人では廊下に出てみる勇気はなかった。暖炉の炎に冷えた体はたちまち暖まった。京子はびしょ濡れの髪も服もまるで気にせずに、ローストビーフを口に放り込み、ワインの栓を抜いた。
「誰もいないでしょ?」
 曖昧に頷いた美紀は、テーブルについた。「でも、待ってよ。それじゃこの料理、誰が誰のために…?」
「知らないわよそんなこと」京子は平気な顔でワインをがぶ飲みした。鍋のブイヤベースを皿によそう。「それより食べなって。冷めちゃうよ」
「だって…」
「もしも、だよ、この料理を誰かが作ったんだとしたら、それはきっとあたしたちのためだったんだよ。だとすりゃ食べなくちゃ悪いじゃない」
 などと実に身勝手な解釈を披露しながら、京子は食べ続けた。美紀は納得行かない顔で、しかしそれでも空腹には耐え切れず、恐る恐るマリネを口に運んだ。
 料理は女二人には食べ切れなかった。二人はあちこちの部屋を捜し回った。人は発見できなかったが、代わりに一階の奥の間に、これまた巨大なバスルームを発見した。大理石の浴槽は十人の人間が入ってもまだお釣りが来そうな広さだった。しかも湯も沸いていた。京子は嫌がる美紀を急し、風呂に飛び込んだ。湯は熱くもぬるくもなく、山の雨に打たれて冷えた体に実に心地よかった。
「…あーっ、いい湯だった」
 畳んであっただぶだぶのバスローブに勝手に体を包み、京子はまたしてもあちこちの部屋を散策して回った。そして二階にて、今度はベッドルームを発見した。
 京子は美紀が止めるのも聞かず、リングと言った方がいいようなとてつもない広さのベッドに寝転がった。しかしすぐに立ち上がり、クロゼットのあちこちを引っ掻き回す。そしてその一つから、年代物のネグリジェを発見した。
「やだぁー、見てこれ、、透け透けだよ、イヤラシー。着てみようか。美紀もどう?」
「そんなの着られるわけないじゃない。恥ずかしい…」
「何言ってんの美紀。そんなこと言ってちゃTバックなんてはけないよ」
「…持ってないもん、Tバックなんて」
「あんた、彼氏いない筈だわ」
 リュックから湿ったトレーナーを出し、それを素肌に着て、それでも恥ずかしがってベッドに潜り込んだ美紀の前で、京子は堂々とバスローブを脱ぎ捨て、素っ裸の上にネグリジェをまとった。ベッドの前で一回転し、自慢のプロポーションを美紀に見せつける。
「暢気ねえ…」
 時間は午後九時を回ろうとしていた。
 …耳を澄ますと開き戸から微かに、間のあいた雨垂れの音が聞こえてくる。林の奥から梟の声が聞こえてきた。ベッドから見上げると、薄いカーテンの向こうから、月が顔を出そうとしていた。美紀は呟いた。
「…雨、止んだみたいだよ」
 返事の代わりに京子の寝息と鼾と歯軋りとが聞こえてきた。あっさりと眠り込んでしまったらしい。
「…ウーン、ヒロシってばあ」
 寝言。美紀は笑い出しそうになった。そして同時に、抑え切れない寂しさも感じた。京子とこうやっていられる時間も、後少ししかないんだなあ…。
 しかしこの館は何なのだろう。
 食事は最高だったし、風呂の湯加減もぴったり、ベッドもふかふかだ。それでも管理人やボーイ一人置かないホテルなどある筈もないし、悪戯にしては手が込み過ぎていないか? 実はまだ内心、この館の主人が怒鳴り込んで来はしまいかと不安で仕方がなかった。もしそうなったら、どうやって謝ろうか…。
 考え込んでいた美紀だったが、歩き続けた疲れと心地よい満腹感とがいつの間にか彼女を眠りに引きずり込んでいた…。

 どこかの部屋で柱時計が十二時を打ち鳴らした。
 音もなくベッドルームに入ってきたその男は、一言呟いた。
「…あー、腹減った」
 巨体だった。身長は優に一八〇センチを越えていた。体重も一八〇キロ近くあるのではないかと思われた。縦にも大きいが横にも大きかった。その彼が腹減ったと嘆く姿は実に哀れを誘うものだった。
 もちろん彼はすぐに、月明かりに照らされたベッドに眠る京子と美紀とを発見した。こいつらだな、僕の夕食を食べたのは…、などと一応憤慨して見せた男だが、女性二人を叩き起こす度胸はないらしく、実に恐る恐るベッドに近寄った。美紀の寝顔をそーっと覗き込む。
「…かーわいい」
 月の光の中、男の真ん丸な顔の下で唇が弧を描いた。その両端から、先の尖った牙がのぞいた。
 そのまましばし、美紀の寝顔に見とれていた男だったが、急にそわそわし始めた。美紀の寝顔からその白い首筋に視線が移ってしまったのだ。あっちをキョロキョロこっちを振り返り振り返りしていた男だったが、遂に我慢できなくなったらしい。
「どうしようかなあ。でも、久しぶりだしなあ…」
 と、美紀が寝息とともに寝返りを打った。男は思わず飛び退がった。巨体ながら身は軽く、猫のように足音一つ立てなかった。暗がりに隠れ、美紀を窺う。寝返りを打った美紀は毛布から肩まで出し、そのほっそりとした首筋を男にさらす形になっていた。男は生唾を呑み込んだ。音が鳴った。ゴックン。
「もーう我慢できないもんね」
 男はこれまた音もなく美紀の傍らに屈み込み、その首筋にそっと唇をつけた。
 美紀はちょっと痛そうな、それでも何やら甘やかな、悩ましい声を立てた。
「…んー、絶品絶品」しばしの後、男は立ち上がった。美紀の隣で涎を垂らしてだらし無く眠る京子の側にも屈み込む。「こっちも可愛いじゃないですか。お味はどうかなー」
 …首筋に走ったわずかな痛みが、京子を浅い眠りから引きずり出した。
「…ペッペッペッ、んー、ペッ! 何じゃこの女は、濁り切っとる」
「…な、何?」
 跳ね起き、男と視線を合わした瞬間、京子は悲鳴を上げていた。これには男の方が慌てふためいた。
「だ、誰よあんた!」
「ぼ、僕はこの家の主人だもーん」男は言った。「そう言う君たちこそ誰なんだ。ちょっと地下に入った間に、人の食事を勝手に…。あーっ、それはお祖母ちゃんの寝間着。しかも何といういやらしい格好だ。あ、目の前に立つな。見えてる見えてる、毛が見えてる」
 京子は一瞬状況を掴みかねたが、それでもすぐに自分と美紀とでこの館に侵入し、食卓を荒らし、風呂を勝手に使った事実を思い出した。あ、そうだったんだ、御免なさーい、と言いかけた京子は、月明かりに照らされた男の姿をその時初めて眺めることとなった。
 黒いタキシードとマント、白いワイシャツ、ネクタイと、マントの裏側が赤い。髪は香りのいい油でぴったりと固められている。
 かつてそんな格好をする者を、京子は一人しか見たことがない。それも映画の中で。
 ドラキュラ。
 謝るどころか自分たちが不法侵入者であることも忘れ、自分がスケスケのネグリジェを着ていることすら忘れた京子は言った。「…あんた、頭がおかしいんじゃないの?」
「何よそれ」
「だってそうでしょ。妙ちくりんな格好して、人の首筋咬んだりして…。もしかしてドラキュラの真似?」
「僕、ドラキュラだもん」
「何ふざけたこと言ってるのよこのデブは」京子は怒り出した。「あんたがドラキュラ?ドラキュラってのはね、スリムで渋くてカッコイイおじさまの代名詞なのよ。あんたみたいなデブのドラキュラがどこにいるって言うの。仮装パーティならもう少し似合った役を選びなさいよね!」
 確かに男はドラキュラを名乗るには太り過ぎていた。大きな体に突き出た太鼓腹、月明かりの下でさえその顔の血色のよさが見て取れる。もし彼が映画通りの青白い痩せたドラキュラだったなら、京子とてもう少し怖がったに違いなかったのだが。「しかもあんた、あたしの首筋咬んだでしょう。このドスケベ、変態デブ!」
「うん、咬んだ。正直言って、君の首筋不味いよ。血が濁ってる。男漁りし過ぎよ」
 思いがけない男の反撃に、京子は大いにうろたえた。「う、うるさいわね。大きなお世話よ。関係ないでしょあたしが男漁りしようがしまいが…」
「関係あるのよ。やっぱり処女の首筋ってのは美味しいもんなんだわこれが」
「処女? バージン? ふざけるんじゃないわよ。バージンなんて滅亡人種よ。シーラカンスかイリオモテヤマネコよりも珍しいんだから。バージンが欲しければ麓の幼稚園にでも行けば? 最近じゃ小学生だってエッチしてるわよ」
「君も、そうだったの?」
「あたしは中二の時よ。それでも友達には遅いって…」京子はますますうろたえた。「うるさいわね。あたしのことなんてどうだっていいでしょ!」
「世も末じゃ。でも、この子、処女だったよ」
 ドラキュラを名乗るデブは眠り続ける美紀を指さした。京子は唖然とした。と、デブに名を呼ばれた美紀が目を覚ました。その首筋についた二つの牙の痕が京子にも見えた。
「ちょっとあんた、美紀まで咬んだの? 美紀、大丈夫?」京子はぼんやりと上体を起こした美紀の肩を揺すった。「…ところで、このデブがあんたのことバージンだなんて言ってるわよ」
 ところが美紀は京子の言葉など聞いてもいなかった。とろんとした、ただならぬ眼差しでデブを見上げ、呟く。
「ドラキュラ様…」
「ちょ、ちょ、ちょっと美紀、どうしちゃったのよ!」
 まるで操り人形のように音もなく、美紀はベッドの上に立ち上がった。と思った瞬間、その体が宙を舞い、デブの隣に降り立っていた。心地良さそうに、実に心地良さそうに、美紀はデブにもたれ掛かった。うっとりと目まで閉じている。
「と言うわけでこの子、僕が貰っちゃうもんね」ドラキュラを名乗るデブは嬉しそうに言った。「僕の晩ご飯を食べたお返しだい」
「やだ。ちょっと! 美紀をどこに連れてく気? 人さらい、変態、痴漢、ロリコン!」
「違う! 僕は人さらいでも変態でも痴漢でもロリコンでもないっ! ドラキュラ!」
 怒りながら開き戸を開けたドラキュラは、美紀を抱えたまま外に身を躍らせた。慌てて窓辺に駆け寄った京子が庭を見下ろしても、誰もいなかった。
「こっちだよー」
 月の明るい夜空、黒い大きな、と言うより明らかに太り過ぎの蝙蝠が、美紀を抱いて飛んで行こうとするところだった。飛び方はヨタヨタと実に危なっかしく、時折墜落しそうにさえなる。明らかな重量オーバーであった。それも原因は美紀ではなく、彼自身の。
「バイバーイ」
 京子は今目の前で起きた出来事を信じなかった。絶対何らかの仕掛けがあると思った。すぐに庭に飛び出し、周囲をくまなく捜してみた。館の内部も捜した。一階から四階の全ての部屋を当たってみた。
 しかし誰もいなかった。館の中にも外にも二人を発見できないまま、京子は一人で朝を迎えることとなった…。

 東京郊外で起こったOL失踪事件は昼のニュースに一度取り上げられただけで、すぐに人々から忘れられた。京子は何度となく警察に出頭し、何度となく事件の経緯を説明した。警察は奥多摩に捜査員を派遣し、二人が泊まったと言う洋館を発見した。そこはヨーロッパのある富豪が別荘として建てたもので、今は管理人の老人が一人で寝泊まりしているだけらしかった。
 老人は女性二人の訪問などなかったと証言した。
 京子はその後何度も警察に捜査の進展を尋ねたが、ろくな返事は返ってこなかった。何しろ美紀を連れ去ったという男を特定できない以上、当然だろう。それを見た京子の証言もあやふやなのである。デブのドラキュラだの、空を飛んだだの…。しまいには京子が美紀失踪の重要参考人、つまりは何らかの事件を起こした被疑者扱いされる始末、あるいは妙なクスリをやっているのではないかとも疑われた。警察沙汰はすぐに会社に知れ、ただでさえ勤務態度の悪かった京子はあっさり馘にされた。
 そして美紀の誘拐事件は、単なる失踪事件として片付けられた。失踪事件には二十五日の発見活動が定められてはいるが、相手が未成年でない場合、警察はほとんど何もしない…、京子は知人からそう教えられた。
 頭に来た京子は自分で美紀の捜索を始めた。しかし探偵を雇う金もなく、ゴールデンウィークの終わった平日に一緒になって歩き回ってくれる人間もいなかった。
 首筋の傷は消えなかった。そして京子は、体の変調を覚えていた…。
 そんな折、雑誌の編集者をやっている知人から、ドラキュラに詳しいというイギリス人を紹介して貰った。
 電話の向こうで知人は言った。「…うん、そうなんだわ。その彼はさ、ばあちゃん方がトランシルヴァニア出身だって言うの。何? トランシルヴァニア知らない? ドラキュラ伝説の発祥の地よ。そう、それでドラキュラにも詳しいと言うわけなんだわこれが。ウチのオカルト雑誌にも時たま原稿貰ってる。インチキじゃないかって? いや、それはない。あれは本物だと思うよ。インチキならもう少し賢い稼ぎ方してる筈だ。会ってみればわかるって。うん、今、新宿で調査所を開いてて、オカルト関係も扱ってる。…お礼? うん、そうね、じゃあ、また今度付き合ってよ。今度は朝まで」
 京子はその日のうちに新宿に向かった。
「新宿二丁目新宿二丁目…、二の五の…、マルエツビル、マルエツビル…」
 スマホの地図ナビを辿り、見つけた。彼、ハワード=ブレナンの調査所は新宿御苑通りに面する小汚いビルの四階にあった。
「…どうぞ」
 静かなノックにバリトンの声が答えた。京子はドアを開けた。
「お邪魔しま…」
 室内に一歩足を踏み入れた京子は息を呑んだ。
 汚れたビルの外観や廊下とは打って変わり、室内は整然としていた。床には塵一つ落ちていなかった。柱や壁には磨き上げられたつやがあった。二つの書架を埋め尽くすのは日本語版英語版を問わず、世界中から集めたと思われる専門書の数々だった。その間に巨大な十字架が掛けられてあった。嗅いだこともないお香の匂いが鼻をくすぐった。京子は自分が新宿を離れ、どこか見知らぬ世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えた。
 窓の横に置かれた広いデスクで調べ物をしていた男が立ち上がった。
「失われた知識の館にようこそ」
 長身の痩せた男だった。黒い服の胸に下がる十字架は教会の神父を思わせた。髪は淡い褐色、澄んだ鳶色の眼が京子を見つめていた。椅子を勧められた京子はちょっとばかりドキドキした。男――ハワード・ブレナンが自分好みのいい男だったからだ。
 ブレナンに要件を伝えておいてくれる筈の知人はその約束をすっかり忘れ去っているようだった。腹を立てながらも、京子はブレナンに一部始終を説明しなければならなくなった。美紀と出掛けた東京郊外、突然の大雨、迷い込んだ謎の洋館、そしてドラキュラを名乗るデブの登場…。ブレナンは京子の言葉を黙って聞いていた。
「咬まれたという首筋を見せて下さい」
 話を終えた京子に、ブレナンは流暢な日本語で頼んだ。京子は例の傷を隠していたバンドエイドを剥いだ。「信じますか? あたしの話」
「信じて欲しいからこそあなたは私の下を訪ねたんじゃないんですか? おお、まさしく二本の牙の痕だ。これと同じような傷を、以前アメリカで見ました。ジェルサレムズ・ロットという町だった」
 ブレナンは京子の首筋を指でなぞった。こんな時にも関わらず、ブレナンの指を首筋に、吐息を耳元に感じた京子は背中がゾクゾクするのを感じた。
「うーむ、位置と言い形と言い、間違いないようだ」
「あ、止めないで」
「え?」
「あ、いえ、何でもありません」京子はわざとらしく咳払いした。「前にも見たことがあるって、やっぱりあなた専門家なんですね」
「ちょっとばかり勉強しただけですよ。勉強させられたと言うべきかな。何しろウチは中世の時代からドラキュラと縁が深いもので」
「お祖母ちゃんがトランシーバー出身だとか…?」
「トランシルヴァニアです。そのまた先祖がルーマニア出身で、ドラキュラのモデルとなったブラド伯爵を火あぶりにした兵士の一人だった。父方の祖父はスコットランド教会の牧師で、趣味が魔女狩り。そのまた祖父は薔薇十字団のメンバーで…」
「あのう、それはともかく…」
「おお、失礼」ブレナンは頷いた。「あなた、咬まれて何日?」
「えーっと、十日、かな?」
「貧血の症状は?」
「ううん、全然」
「朝起きて、太陽の光が妙に眩しく感じられたことは?」
「それも全然」
 ブレナンは首を傾げ、おかしいなあと呟いた。「何か体調に異変はないんですか?」
「あ、異変ならあります」
「はい! 何でしょう!」
「あたし、低血圧だったんです。最高値が八〇以下。それでとにかく朝が駄目で駄目で、それで何回会社に遅刻したか…。それがあの日以来、朝が爽やかで爽やかで…」
「目覚めがとっても気持ちいい、と?」
「ええ。それで五日前かな、血圧測ってみたんです。そしたら最高値が一二八にまで回復してるんですよ」
 ブレナンはますます首を傾げた。頭の周りでクエスチョンマークが乱舞した。京子はそのブレナンの横顔を見上げ、不安になった。何かいけないこと言ったかしら。でも、それにしてもなかなかのハンサムよね…。
 と、そのブレナンが突然、胸の十字架を突き出した。のけ反った京子は椅子から転げ落ちそうになった。「…ああ、びっくりした! やだ、何よ突然」
「びっくりした、だけ?」
「当たり前じゃないのよ! …でも、それ、随分綺麗な十字架ね。見せて」
 ブレナンは頭を抱え、おかしい、と呟いた。咬まれて十日、まるで治癒していない傷、間違いなくヴァンパイアの咬み痕だ。しかし咬まれた筈の娘は貧血を起こさず太陽の光を恐れず十字架を見て綺麗だとほざき、それどころか貧血が回復したなどと言う。こんな吸血鬼騒動は初めてだった。
 それよりも…、京子が言った。「お願いしたいのはあたしのことより…」
「ああ、友人の方の捜索ですよね。名前、何とおっしゃいましたっけ?」
「美紀です。榎本美紀」
「家族の方もさぞご心配なさっているでしょうな」
「あの子、高校を出る間際に、家族を事故で失くしてるんです。だから行方不明になっても騒ぐ人もいないんです…」
 おお、とブレナンは溜め息をついた。「それはお気の毒に。それじゃあ、天涯孤独の身だと」
「ああ、可哀想な美紀」涙ぐんだ京子は言った。「家族もいないし頼れる人もいないし彼氏もできないまま。おまけに二十一歳にして未だバージンだったなんて。ね、ひどいと思いません? 女の幸せを全く知らないまま変なデブにたぶらかされて、しかもそいつがドラキュラだったなんて」
「女の幸せって、何ですか?」
「そりゃああなた、いい男と夜が明けるまでエッチしまくる…、何言わせるのよ!」
「と、とにかく出掛ける準備をしましょう」
 その時ドアの外から声が掛かった。「ブレナンさーん、ラーメン屋ですぅ」
「あー、器なら流しの横だよ」ブレナンの口調が急に砕けた。「こらあ、ラーメン屋さあん、あんたんとこヒドいじゃない。突然値上げしちゃうんだから。今年に入って二度目だよ。今度値上げしたらもうあんたんとこでラーメン頼まないよ」
 京子は不安になった。
 しかしいざ出掛ける準備に入ると、ブレナンの能力は京子の不安を一掃した。彼は左手で京子の掌を握り、そこから得られるイメージをスケッチし始めた。十分後、スケッチブックの上にはブレナンが見たことのない筈のあの館、そして美紀の顔とが描かれ終えていたのである。
 この男は本物だ。京子の胸はわくわくしてきた。握られる掌は汗ばみ、内股まで湿ってきた。そしてその内股の、もっと奥は、こんな時であるにも関わらず…、
「作者! 描写がしつこいわよ!」
 失礼しました。

 さて、一方。
「…坊ちゃま! 坊ちゃま!」
 奥多摩の例の洋館の周囲を小鳥たちが盛んに飛び回っていた。空は晴れ渡っていたが、梅雨入りも間近で、高台のこの辺りもそろそろ蒸し暑い空気に覆われつつあった。
「坊ちゃま!」
 洋館の鉄扉から出てきた老人は、照りつける太陽にたじろぎ、天気のよさを毒づいた。着ていたタキシードを頭から被るようにして庭に走り出る。洋館の管理人をやっており、警察の捜査官の訪問にも応じたあの老人であった。
 老人の向かう先に、大きなベンチの上で寝転がる、丸まる肥えたタンクトップ姿の巨体が見えた。サングラスを外して顔を上げたその顔は美紀をさらったあのデブ…、
「んー、何だい爺や」
 ドラキュラであった。
 老人――爺やはドラキュラの下僕だったのだ。今、その爺やがカンカンになって怒っていた。「何だじゃありません! またこんな場所で日向ぼっこなど…。今は柩の中でお寝みの時間でしょうが!」
「だーって、柩の中って暑いんだもーん。僕、太ってるでしょ? だからこの季節になるともう暑くて暑くて…」
「だからと言って、タンクトップ姿になって日向ぼっこするドラキュラがどこにいると言うんです! ドラキュラ一族は元来直射日光に弱い一族なんですぞ!」
 ドラキュラは不平を漏らした。「この国の気候が悪いんだ」
「坊ちゃまはいつもおっしゃってましたな。こんな国に別荘なんて建てる方が悪いと」
「そうだとも。それにな爺や、日向ぼっこは大切なんだぞ。直射日光をよーく浴びないと体内のビタミンDが欠乏してだな、風邪を引き易く…、どうした爺や。何をうずくまってる?」
「ああ、情けない。ビタミンDですと? 風邪を引き易くなるですと? これが名門ドラキュラ一族の末裔の台詞だとは…。爺やは御先祖様に顔向けできません!」
「まーた始まったあ」ドラキュラはやれやれと首を振った。「御先祖ったって、全員生きてるぞ。僕たちの一族は誰も死ねないんだから」
 爺やは構わずボヤき続けた。「…曾祖父のベラ様、祖父のクリストファー様、みーんな立派なドラキュラとして一族の名誉を担ってきなすった。唯一の変わり者と言えば、蝙蝠の代わりに鼠に変身するのが好きだったドイツのクラウス様くらいのもので、そのクラウス様にしても真っ当なドラキュラではあった。あー、あれもこれもみーんなあなたの父君ジョージ様が変なアメリカ女と御結婚なさったせいだ。その失敗を御自分でお気づきになったからこそ、ジョージ様は坊ちゃまにはまともな奥様を貰って欲しいとお思いになられ、この日本に別荘を建てられたのです。しかしまあ、奥ゆかしさが伝統として生きていると言われていたこの日本も、来てみればろくな女はいませんでしたが」
「一人いたよ」ドラキュラは反駁した。「でも、パパとママ、元気かなー」
「元気すぎるくらいでしょう。特にあなたの母君は」爺やは心の底から忌ま忌ましそうに言った。「よき妻ぶりを発揮したのは最初のほんの数カ月。やがては食っちゃ寝食っちゃ寝の生活に入り浸り、ドラキュラに咬まれた女とは思えぬ程のあの太りよう。坊ちゃまを御懐妊なすった時も、それが妊娠なのか太り過ぎのためなのかさえわからなかった。生まれてみればその赤子は、これまたドラキュラ一族始まって以来の健康優良児。人の血なんぞ全然欲しがらないどころか、他人に血を分け与える程の高血圧…」
「高血圧の何が悪い」この物語がブンガクならばドラキュラも、一族始まって以来の特異体質を持つ自分のことを客観視し、悩んだことだろう。彼の先祖たちもいつも悩んできた。果たして自分は何者であるのか…。しかしこの物語はブンガクとは程遠い上に、何不自由なく育てられてきた坊ちゃんの例に漏れず、彼には己に対するソフィーな疑問など全く存在しなかった。第一悩んでいたならばこんなに太ってなどいない。
「そうですよ爺やさん。いいじゃありませんか」言いながら爺やの横に立ったのは、トレイを手にした美紀であった。トマトミックスジュース入りの、よく冷えて汗をかいたグラスをドラキュラに手渡す。「お陰で私、健康になれたんですから」
「美紀ちゃんは僕の味方だもーん」
「まあ、いい娘御を見つけられたことは爺めも嬉しいのですが」爺やは認めた。「しかしこの美紀様とて、いつ食っちゃ寝食っちゃ寝の女になるかと思うと、爺は夜も眠れませんぞ!」
「爺や、ドラキュラは夜は起きてるものだぞ」
「坊ちゃまの妙な習慣が、爺にも伝染ってしまったのです!」
 美紀がくすくすと笑い出した。ドラキュラは巨躯をヒラリと移動させ、椅子に美紀を座らせた。肩に自分の上着を掛ける。御仕着せではない優雅な振舞いに、美紀はヒナギクのような笑顔で感謝を伝えた。「美紀ちゃんはそんな女にならないよね」
「はい、なりません」そう答えた美紀は隣りに座ったドラキュラの頭を膝に寝かせ、甲斐甲斐しく耳掃除などを始めた。ドラキュラは心地良さそうに目を閉じた。
「僕、幸せだもんね」
 爺やはやれやれと肩をすくめ、館に戻っていった。

 同じ頃。
「…東京とは思えぬ場所ですな」
 鳩の巣駅を降りた京子とブレナンは、あの日の行程を辿り、洋館を目指して歩き始めた。京子は地図を見てもなかなか道を思い出せなかったのだが、ブレナンは自分の書いたスケッチを片手に地図の助けなしにずんずんと山道に踏み入った。京子も遅れじと歩を速めたが、足の長いブレナンの歩速になかなか追いつけない。ブレナンは京子を待って度々立ち止まらなくてはならなかった。
 立ち止まる毎に緑の多い周囲を眺め回し、ブレナンは何度も嘆声を上げた。「東京にこんな場所が残っていたとは知りませんでしたよ。もう五年も住んでるのに」
 二人は小高い丘の上で休憩と昼食を取った。最近早起きになった京子の作ったサンドイッチだった。
 京子はサーモスに入れてきた麦茶を注ぎながら、サンドイッチをぱくつくブレナンを窺った。「恥ずかしいな。あたし、料理、下手だから」
「そんなことはない。美味しいじゃないですか」
 それを聞いて京子はちょっと照れた。料理のことを褒められたのは初めてだった。「ブレナンさんは何が好きなの?」
「ラーメンですな」
「ラーメンばっかり食べてんの? 体に悪いわよ。料理はしないの?」
「スコットランドでは男は料理をしないんですよ」
「奥さん貰えばいいじゃない」
「こんな変人のところに来てくれる女性はなかなかいません」
 そんなことはないと思うけど…、という言葉を呑み込み、京子は訊いた。「ブレナンさん、来てまだ五年なんだ。それにしては日本語上手ね。何のために日本に来たの?」
 イタコとコックリさんの研究のためです、ブレナンは答えた。大学ではオカルトや怪奇現象を研究する超心理学を専攻していたと言う。「…来る前に随分脅かされましたよ、東京に行ったら心を毒されるぞ、ってね」
「やだ、毒されるだなんて、偏見だわ」
「しかし確かに東京はうるさいだけの場所ではありました。日本を知っている大抵の外国人は皆口を揃えて言いますよ。この国は心を失った国だ、とね」ブレナンは小さく頭を振った。「僕も五年間住んでみて、何となくわかってきました。モノは何でもある。しかしこの国には魂の交流がない。特に新宿はそんな街ですな。あの華々しいイルミネーションの中で、何人の孤独な魂が孤独な夜を迎えているか」
「大袈裟じゃない?」
「そうですか? 私は感じてますよ」
「孤独な夜を?」
「ええ」ブレナンは頷いた。「あなたはどうですか?」
 ブレナンの横顔を見つめていた京子は、突然胸苦しさを覚え、慌てて目を逸らした。ブレナンは小さく苦笑し、何を言ってるんだろうな僕は、と呟いた。
「さて、行きますか?」
 二人は出発した。

 京子が小さな悲鳴を漏らしたのは、昼食を済ませた二人が歩き出して二時間後のことだった。「どうしました?」
「この辺り、見覚えがあるの」小声で言った京子の目が、道の傍らに裂けて倒れた杉の大木を見つけた。あの日の記憶が奔流となって渦巻いた。今度は京子がブレナンを先導する形で走り始めた。「そうよ、この道だわ。間違いない!」
「おお、待って下さいミス京子」
 …どれくらい走ったことだろう。二人の視界の中で揺れる木々の透き間から、古めかしい外観の尖塔が見えてきた。
「あったわよブレナン!」
「おお、あれか!」
 二人は林を抜け、洋館の庭を見渡せる植え込みの陰に飛び込んだ。ブレナンが古びた黒いバッグの中から銀の十字架と聖水を詰めたペットボトルとを取り出した。大きく息をつきながらそれを見守る京子は呟いた。「…煙草、やめよ」
 ブレナンは腕時計を見た。「まだ昼の二時だ。夜まで待ちますか? それとも館に乗り込みますか?」
「そうねえ、ドラキュラって昼間は活動できないのよ、ね…」
 庭に響き渡る無邪気な笑い声に、京子は唖然とした。
 ドラキュラはいた。
 昼の二時とは言え、まだ傾いていない太陽の光を目一杯浴びる庭を平気な顔で駆け回っていた。マントこそ着けているが、その下はTシャツ姿だ。
 唖然としているのはブレナンも同様だった。「…あれが、ドラキュラ?」
「あたしには、そう、名乗ったわよ」
 答えた京子はもう一人の人影が館から飛び出してきたのを見て、思わず立ち上がっていた。笑いながら走るドラキュラを、これまた笑顔で追いかけるのは、誰あろう、美紀ではないか。
 高校時代のスプリンターは太ったドラキュラにすぐに追いつき、その体を捕まえた。と言うより抱き締めた。二人で庭の芝の上に腰を下ろし、寄り添い合う。
 ブレナンが制止する間もなかった。京子は植え込みを飛び出した。
「…美紀!」
 寄り添う美紀とドラキュラは同時に振り向いた。美紀がヒマワリのように微笑んだ。
「京子じゃないの。いらっしゃい」
「うわー」ドラキュラは渋い顔をした。「させマン姉ちゃんだ」
「う、うるさいわよ! あんたにそんなこと言われる筋合いないわよ!」急に腹が立ってきた。どんなに心配したと思っているのだ…。「美紀、あんた、こんなとこで、何やってるの!」
「何、って?」京子は首を傾げた。「美紀こそ何してるの? 今日は仕事じゃなかったの? またサボったのね?」
「何を呑気な。あたしはあんたを探しにきたのよ!」馘になったなどという自分に都合の悪いことは言わないのが京子の主義である。「美紀、その男はドラキュラよ!」
「知ってるわよ」
「あんた、騙されてるのよ、たぶらかされてるのよ。血を吸われて、変な魔法をかけられちゃってるのよ! あたしはあんたを助けにきたのよ!」
「血を吸われて…?」
 美紀はドラキュラと顔を見合わせた。二人してくすくす笑い出す。
「御心配なく。私、楽しく暮らしてるから」
 どうしてわかってくれないのだ。京子は悔し涙をこぼしそうになった。見かねたブレナンが飛び出してきた。京子の横に立つ。
「あら、もう一人お客様? 京子、今度はガイジンさんと付き合ってるの? 男を変え過ぎるのも問題よ。エイズに気をつけてね」
「何言ってるのよ! この人はね、超常現象の専門家なのよ!」
「そう、そしてミス京子に頼まれ、あなたにかけられた呪いを解くためにやってきたのです」ブレナンは言った。「こいつがあなたの言っていたドラキュラですか。話に聞いた症状も変なら、実物もこちらの想像を絶する異様な奴ですな。ヴァンパイアには見えぬこの体型と言い、直射日光を浴びて平気で走り回る特異体質と言い…」
 美紀がドラキュラに言った。「呪いですって」
「僕、呪いなんてかけてないよ。かけ方知らないもん」ドラキュラは言った。ブレナンを見る。「あんた、専門家なの?」
「そう言うお前は本物のドラキュラか?」
「そうよ。本物よ」ドラキュラは胸を張った。「でも僕、吸血鬼じゃないよ。上げる方だよ」
「上げる?」
「そ、血を上げるの。あんたにも上げようか? 顔色悪いよ」
 ブレナンは呆気に取られた。「ちょっと待て、血を人に与えると言うのか?」
 京子が怒鳴った。「そんなことしたら、死んじゃうじゃない!」
「大丈夫なんだなこれが。だって僕、ドラキュラよ」ドラキュラは肩をすくめた。自分の祖父や父は吸血鬼だ。しかしその吸血鬼が血液型の異なった何人もの血を吸って平気なのはなぜか、それを全て己の血に変えられるのはなぜか。体内で血液型を自分の体質に合わせられるからなのだ。そのような酵素が分泌されるからなのだ。「僕の場合はその逆なのよ。僕の上げた血は相手の体の中で自在に変化するの。A、B、AB、O、Rhプラスマイナス、ぜーんぶ大丈夫よ」
「…あり得るの? そんなことって」
「信じ難い話だが、筋は通ってる、ような気がする」
「頼りないわね」
 だが、それが事実だとすれば、京子の血圧が高くなったという件も説明がつく。しかしそれにしても…。「とにかく美紀! あたしはあんたを連れて帰るわよ!」
 京子がわめいた。ブレナンは我に返り、手にした十字架を吸血鬼ならぬ献血鬼ドラキュラに向けた。「神の名において命ずる!」
 銀の十字架がブレナンの手の中で閃光を放った。かつてブレナンがアメリカでヴァンパイアを退治した際に使った、あるいは彼の先祖たちが様々な魑魅魍魎を追い払うのに使った十字架が、太陽の光とは別の輝きを放っていた。
「立ち去れ悪霊!」
 晴れた空に稲妻が迸った。美紀がキャッと悲鳴を上げ、ドラキュラにしがみついた。
 ドラキュラはキョトンとした顔で、ブレナンと十字架を見つめていた。
「…苦しく、ないのか?」ブレナンが訊いた。「十字架を見ても、何も感じないのか?」
「ぜーんぜん」
 ドラキュラは首を振った。彼にしがみつく美紀が泣き声を出した。「えーん、怖かったよお」
「おお、よしよし。泣くな泣くな。可哀想に」ドラキュラは突然きっとブレナンを睨みつけた。「よくも美紀ちゃんを泣かしたな。僕が今、懲らしめてあげるからね」
「うっ、何をする!」
「えいっ、うむむっ!」
「うぐぐぐぐぐ、くそっ」
「とうりゃあ!」
「うわわっ!」
「ちょっと作者! 何、手抜きしてんのよ! 何が何だかさっぱりわからないじゃない!」
 だ、だってさっき、描写がしつこいって…。
「時と場合によりけりよ!」
 わかりましたよ。やり直します。ホントにもう、我が儘なんだから。ではヨーイ…。
「…ハイハイ、もう一回ね。うっ、何をする!」
「とうりゃあ!」
 ドラキュラはブレナンを鮮やかな一本背負いで投げ飛ばし、十字架を奪った。吸血鬼が十字架を素手で握ると大抵手に大火傷を負う。しかしこのドラキュラは火傷を負うどころか、銀の十字架を素手でひん曲げてしまった。「どんなもんだい!」
 美紀がそれを見て、ドラキュラに喝采を送った。ドラキュラは勝利のポーズでそれに応えた。茫然とするブレナンに、白けた顔の京子が言った。「ぜーんぜん効いてないみたいよ」
「そ、そんな馬鹿な。よ、よし、今度は…」
 ブレナンはバッグからペットボトルを出した。中身をドラキュラと美紀に振りかける。
「キャッ、いやだあ」
「うわあ、冷たいじゃないか。ん? おお、それは六甲の美味しい水。頂戴」
「こ、こら、やめろ。これは美味しい水じゃない。聖水だ。ボトルを使っただけで…」
 ブレナンは抵抗したが、純銀の十字架をひん曲げたドラキュラの腕力に敵うわけもなかった。ペットボトルを取り上げたドラキュラは、その中身を一気に飲み干してしまった。ぷはーっ、などと大きな溜め息をついて一言。
「もう少し冷やした方がもっと美味しいよ」
「な、何て奴だ…」
 ただひたすら茫然とするばかりのブレナンに、京子が怒鳴った。「…ちょっと! まるで効果がないじゃない!」
 その時、館から声がした。「坊ちゃま。美紀様。お茶の時間ですぞ!」
「ほーい、さあ行こう美紀ちゃん」
「はーい。じゃあね、京子」
 ドラキュラと美紀は手に手を取り合って、館の中に入っていってしまった。
 取り残された京子とブレナンだったが、十字架と聖水という武器を封じられた以上、最早ブレナンに美紀を救い出す手立ては残っていなかった。二人はすごすごと下山した。
 新宿経由東京行き中央線電車の中で、他の乗客の視線も全く気にせず、京子はブレナンをけなし続けた。「…何が専門家よ! 何が神の名において命ずるよ! まるでなっちゃいなかったわよ! 結局何にもならなかったじゃない!」
「面目ない…」
 …その日の夜、ブレナンは事務所兼自室のあの部屋からアムステルダムに向けて三本の海外電話を架け、一通のメールを送った。

 一週間後。
「あー、来月、スマホの料金払えるかなあ。パーマ我慢しよ…」
 美紀を助け出したいのは山々だが、貯金もほとんどない京子にはいつまでも遊んでいる暇はなかった。新しい仕事を探して回り、夜になってアパートに戻った京子は、留守番電話に吹き込まれた不採用の知らせと、彼女がプータローと化したことを知らない暢気な母のメッセージの後に、ブレナンの声を聞いた。
 電話を架けようとしてふと受話器を見下ろす。いつもこの電話で美紀と話していたのだ。架けるのはほとんど京子だった。随分いろんなことを、一方的に喋った。仕事のこと、男のこと、ふられた時の愚痴…。美紀はいつでも京子の長電話に辛抱強く付き合ってくれていた。
 考えてみると、遊びの誘いやデートの申し込み以外で電話のやり取りをしたことなど、美紀以外の人間とはほとんどなかったような気がする。架けてくる大抵の連中――大部分は男だったが――は自分を遊びの対象、程々に使える道具としてしか見ていなかったのではあるまいかという気がする。こちらが電話しない時、京子自身のことを心配して架けてきたのは美紀だけではなかったか?
 一体何人の孤独な魂が…。
 不意にブレナンの言葉を思い出した京子は、またしても胸が締め付けられるのを感じた。三日前の別れ際、ひどい言葉を投げ付けてしまったが、ブレナンがそれを根に持つ様子もなく電話をくれたことが嬉しかった。
「…もしもしブレナンさん。あたし、そう、浅川京子。どうしたの電話くれなんて? へえ、少しはまともな方法を考えついたってわけね? 何ですって? アムステルダムからお客さん? 誰よそれ? 待って、全然わかんない。今から行くからちゃんと説明して。…何が? 今? 夜の九時よ。それが何よ。女性の出歩く時間じゃない? 何言ってんのよ。あんた東京の女を嘗めてない? 夜の九時なんて東京の女にとっちゃ宵の口よ! いいから。今から行くからね。いいわね!」

「…ヴァン・ヘルシング?」
 京子の前にブレナンが紅茶のカップを置いた。京子はブレナン宛に届いたファックスの返信を読もうとしていた。もちろんオランダ語で書かれたその文面を、京子が読める筈もない。唯一大文字で書かれた何かの名前らしき言葉を発音できたのみだ。
「何これ? フェンシングの一種?」
「ノーッ! プロフェッサー、ウィラード・ヴァン・ヘルシング。人名だ」
「ああ、人の名前。これがお客さんね。プロフェッサーって何だっけ?」
「…ミス京子、あなたは本当に日本人か?」
「何よお、どういう意味?」
 ブレナンは頭を振った。「日本人は世界一の教育レベルを達成したと言われているのに、一方では英単語一つまともに知らない連中が平気で街を闊歩している。EUの役人がこれを知ったら卒倒するだろうな」
「だからプロフェッサーって何なのよ!」
「教授だよ! オランダ国立大学の、超心理学研究室の主任教授。そして僕以上のドラキュラの専門家だ」
「へえ、その人が来るの。何しに?」
「もちろん、あの献血鬼を退治するためさ」
「ケンケツキ?」
「血を与えるから献血鬼。変かな」
「ああ、その献血、ね」
「ミス京子は日本語も怪しいのか…」
 ブレナンは説明した。ヘルシング家は代々吸血鬼退治のエキスパートだった。ルーマニアから始まった彼らとドラキュラ一族との戦いは既に三世紀の長きに及ぶ。戦いは熾烈を極め、幾人ものヘルシングが倒れはした。しかし一族の手にかかり地獄に墜とされたドラキュラの数も十人二十人は下らない。「…その現在の当主に連絡を取った」
「専門家は専門家でも、その人はドラキュラ退治のプロってわけね?」京子はブレナンを見直したとでも言いたげにはしゃいだ。「凄い人と知り合いなんじゃない」
「僕は彼のお父さんの教え子だったんだ。ちなみに出発は三十日の午後の便だそうだ」
「今日じゃないの。もう出発してるんだ」
「時差があることを忘れていないか? と言ってもこっちももうすぐ十一時半か。そろそろ出ている頃ではあるな」ブレナンは壁の地図と時計を見上げた。「だとすれば到着は明日の午後だな」
 京子も壁に目をやった。それからぐるりと部屋を見渡す。最初の訪問時には気づかなかったが、ブレナンはここで寝泊まりもしているらしい。大きな衝立の後ろにベッドがあるのだろう。その向こうのドアはトイレとシャワールームか。一人暮らしの部屋…。
「着くのは成田?」
「そうなるな。迎えに出なくちゃいけないよ」ブレナンは頷いた。掌に拳を叩きつけ、「今度こそあの太っちょ献血鬼に目にもの見せてやる。そしてミス美紀を助け出すのだ」
 ブレナンの男っぽい仕草に妙に胸のときめくのを覚えた京子は、それをごまかそうとするかのように彼の淹れた紅茶にミルクを注いで啜った。実に美味しかった。紅茶に詳しいわけではなかったが、これまで飲んだどの紅茶よりも本格的な味がした。僕は酒を飲まないんでね、などと言っていたブレナンだったが、それは彼が敬虔なカトリックであるためだろう。銀のティーポットに葉を寝かせる手つきも堂に入っていた。イギリスに住んでいたのだから当然と言えば当然かも知れない。たちまち一杯目を飲み干した京子は二杯目をお代わりした。
 二杯目を注ぎながらブレナンは言った。「さてと、話も終わったし、今日はここまでにしておこう。これを飲んだら駅まで送るよ」
「あら。ここに泊めてくれないの?」
 ブレナンは目を剥いた。「ノーッ! 独身女性が独身男性の部屋に泊まるからにはそれなりの理由が必要だ。君にはその理由がなーい」
「だーってあたしの家、八王子よ。明日、そのエニシングとかいう先生を迎えに行くんでしょ? わざわざ八王子から成田に行けっていうわけ?」京子は笑った。もちろんブレナンをからかう積もりで言ったのだ。ところがそれを口にした瞬間、実は冗談でもなかったのではないかと思えてきた。ブレナンは好みのタイプだし…、
 それに、今からあの部屋に戻って、一人でいたくはなかった。「それならここから出掛けた方が早いじゃない。それにねえ…」
「それに、何だ? う、何だその微笑みは…」
「理由なんて今から作ればいいのよ」
「何だとお? な、何だその怪しげな眼差しは…」
 京子が立ち上がった。ブレナンは怯えたように後退った。「ま、待ち給え。ちょっと待てと言うのに」
「何よお。もしかしてあなた童貞なの?」
「ば、馬鹿なこと言うんじゃない。こ、こら、何を脱いでるんだ!」
「洋服に決まってるじゃない」
「待て、ここは脱衣場じゃない。な、何という下着を着けているんだ。そんなところでポーズなんか取るんじゃない! よ、寄るな、こっちに来るな。あ、あれ―― っ!」
 …翌日の午後過ぎ、二人は手に手を取り合って、成田の新東京国際空港へと向かった。

 ブレナンが連絡を受けていた旅客機の到着をアナウンスが告げた。
「…是非、君の御両親に挨拶しておかなければ。一体いつがいいだろう?」
「やだ、何大袈裟なこと言ってんのよ。たかが一晩のエッチくらいで」
 空港の待合室でもブレナンは京子の手を握って離さなかった。京子は半分苦笑していたが、それでもブレナンの掌を振り放そうとはしなかった。
「いや、僕は男としての責任を果たさなくちゃならない」
「やれやれ。御堅いにも程があるわよね。あ、あれじゃない?」
 ブレナンも京子の指さした方を見た。ロビーの眼下、通関口からばらばらと出てきた旅客の中に、白衣で身を固めた一団がいた。空港警察の制服姿も見える。他の旅客たちはその一団を恐れているらしく、近寄ることを避けるかのように一斉に距離を取っていた。
 白衣の一団の中心に、妙なものが見えた。一団はそれを運んでおり、旅客たちはそれを恐れているようだった。
「…違うんじゃないか? あれはどう見ても担架だ。伝染病でも発生したのかな?」
「とにかく降りてみない? バニシング教授を見つけなくちゃ」
「ヘルシングだ」
 二人はエスカレーターを降り、旅客の中にヘルシング教授を探した。ブレナンが写真で知っているウィラード=ヴァン=ヘルシングの姿はどこにも見えなかった。
「見失ったかなあ。それともこの機に乗っていなかったか…」
「呼んでみれば早いんじゃない?」ブレナンが制止する間もなかった。京子は人目も気にせず、大声で呼び始めた。「ヘルシングさーん! ミスター・ヘルシングはいませんかあ!」
 その呼び声に、白衣の一団が反応した。中の一人が訊いた。
「君たちはこの男の知り合いかね!」
 男たちは医者の一団だった。そして彼らの運んでいたのは、担架代わりの簡易ベッドに縛り付けられた一人の男だった。噛み付くのを防ぐための顔面マスクまでつけている。
「すっごーい。ほとんど『羊たちの沈黙』じゃない」
 半ば茫然とするブレナンが医者の説明を受けている最中、京子は縛り付けられた男を覗き込んだ。白髪交じりの頭髪、暖かそうなツイードの上着、きっちり結ばれた絹のタイ。ベッドに巻かれた革ベルトはどうやら暴れるのを防ぐための拘禁処置らしいのだが、この一見上品そうな壮年の男が何をしたと言うのだろう。他の医者や空港警察官たちの注意はブレナンに向けられていた。と、顔面マスクの後ろから光る目が、京子の姿を捉えた。
「ガルルルルルルル…」
「えっ?」
 簡易ベッドにくくりつけられていた革のベルトが引き千切られた。マスクを引きはがした男はいきなり京子に飛びかかった。ミニスカートの尻に噛み付く。
 京子は悲鳴を上げた。「…な、何するのよ! 痛い! 離して! ハワード!」
 医者や空港警察官たちが一斉に男を取り押さえようとした。しかし男は常人離れした力で、彼らを全員床に叩きつけた。そしてまたしても、京子の尻にむしゃぶりつく。慌てて駆け寄ったブレナンと、彼と話していた医者とが、何とか男を京子から引き離した。ブレナンが英語で叫ぶ。
「教授! ヘルシング教授! 何をなさってるんです! あなたは名家ヴァン・ヘルシング家の当主でしょう! 気を確かに!」
 しかしそれを聞いても男は暴れ止まなかった。
「…こ、このジジイ、変態だわ!」
「馬鹿な…、これは何かの間違いだ」
「うひひひひひ、ぐわー」
 男はまたしても凄まじい力を発揮、ブレナンを振りほどき医者をぶちのめし、京子に飛びつこうとした。しかし今度は京子もそれを待ち受けていた。やられっ放しでいる程、彼女もお人よしではない。
「ええいっ、寄るなこの変態ジジイ!」
 ハイヒールの踵が男の顔面を蹴り上げた。男は突然恍惚とした表情になり、京子の足元に跪いた。英語で何か口走る。
「何て言ってるのハワード?」
「“ああ、快感。もっと蹴って、女王様。その美しい御身足で、この哀れなしもべをもっと…、”だそうだ」
「ハワード、あなた…」
「僕じゃない! 教授が言ったんだ。教授! ヘルシング教授! あなたはドラキュラ退治の専門家でしょう! こんなことをしている場合じゃ…」
 ドラキュラという名前を聞いた瞬間、ヘルシングの表情が引き締まった。しゃんと立ち上がる。ネクタイの乱れを整え一言。「そうだ、私がドラキュラ退治の専門家、ウィラード・ヴァン・ヘルシングだ。君かね、私を呼んだのは?」
「は、はい…」
 ヘルシングはブレナンを一瞥し、隣に並ぶ京子の方は念入りに眺めた。「では、行こう。歩きながら事情を説明してくれ給え」
「わ、わかりました」ブレナンは京子に言った。「どうなってるんだろう…?」
「あたしが知りたいわよ」
「それに、このまま行っていいのかなあ」
 ブレナンは床に倒れる医者や空港警察官たちを見た。全員、ものの見事に気絶していた。他の旅客たちが怖々とこちらを窺っている。ブレナンは不安になってきた。「誰か呼んだ方がいいんじゃないのかな」
「いいわよ。行きましょう。早く美紀を助け出さなきゃ…、キヤッ!」
 京子は飛び上がった。いつの間に回り込んだのか、京子の背後からヘルシングがミニスカートから伸びる脚に頬を擦り付け、何か言っていた。ブレナンが通訳した。
「“んー、女王様のフトモモは暖かい、”だそうだ」
「やめんかこの変態!」
 京子は再びヘルシングを蹴り上げた。ヘルシングは何か口走り、うっとりした眼差しで京子を見上げた。
「“ああ、最高、”だそうだ」
 この時ばかりは京子はブレナンもぶっ飛ばそうかと思った。
 二人はヘルシングを引きずるようにして、空港を後にした。

 どこか、と言うよりどう見てもおかしいヘルシングを電車に乗せるわけには行かなかった。ブレナンは京子の払いでレンタカーを借り、そこにヘルシングを押し込んだ。借りた4WDにはポータブルテレビもついていた。夕方のニュースでヘルシングのことを流していた。ブレナンは上野でイラン人から買った偽造テレホンカードで国際電話を架け、オランダのヘルシングの研究室にいる昔の友人に連絡を取った。二つの情報を整理すると以下のようになる。
 ヘルシング家七代目当主、ウィラード・ヴァン・ヘルシングは分裂症患者だった。ヘルシング家、それは先祖たちが吸血鬼どもとの戦いの中で築いてきた名家だった。その名誉の重みに耐え切れなかった彼は半年前からノイローゼを病み、遂に三カ月前に発狂、自分の勤める大学の病院に送り込まれた。それでも自分が超心理学の専門家であることだけは忘れておらず、ドラキュラの名前を聞くと正常、あるいはそれに近い状態に戻った。流石に名家の当主を強制入院させるわけにもいかなかった医者たちはヘルシングを自宅で療養させていたが、ブレナンからのファックスにドラキュラの名前を見たヘルシングはパスポートと現金を持ち出し、誰にも告げずにそのまま空港へと向かったものらしい。
 航空機の中で発作が起き、暴れ始めた元教授は、二人のスチュワーデスに襲いかかり、描写するもおぞましい行為を二人にしでかした揚げ句、その心臓に杭を打ち込もうとしたところを取り押さえられたのだと言う。
 現在ヘルシングは空港から彼を連れて逃げ出した二人の男女とともに、警視庁に特別手配されている最中らしい…。
 ハンドルを握るブレナンは頭を抱えた。京子も同様だった。
「とんでもない荷物をしょい込んじゃったわけよね…」
「しかしこうなったからには仕方がない。ドラキュラの館に行こう。ドラキュラと対面すれば教授もまともになるだろう」
「そうなれば美紀も助け出せるってわけよね。…う、何よこいつ。ハワード! また擦り寄ってくるわよこの変態ジジイは! ええい、離せ!」
 4WDは高速に乗り、東京郊外のあの館を目指した。

「…何? 献血鬼?」
 ブレナンは一旦車を高速から新宿に降ろし、自室から夜営できる道具一式を積み込んだ。三人が目的地に近づいた頃には、時計は夜の七時を回っていた。山道に車を停めた三人は、その場で簡単なキャンプを張った。
 コールマンのマイクロストーブが湯を沸かし、三人は途中のコンビニで買ってきたスープとビスケットで夕食を済ませた。風で冷えそうになる体をインスタントコーヒーが温めてくれた。
「どうやら突然変異のドラキュラらしいな」果たしてヘルシングはドラキュラの名を耳にするとまともに戻った。「そうか、十字架も聖水も通じないのか。それは困ったな」
「そうなんですよ。もう打つ手がなくて…」
「いや、まだあるさ」ヘルシングは言った。「ヴァンパイアを退治する方法は実に多岐に亙っていてね。私の先祖たちが調べただけでも優に四十種類もの手段が存在するのだ」
「しかしそれらのどの方法が通じるのかわかりませんよ」
「確かに生半可な手段では倒せないだろうな。日の光の中で平気で走り回っているような奴なら」ヘルシングは頷いた。「だとすれば、最終手段を用いる外はあるまい」
「最終、手段?」
「これさ」
 ヘルシングは炎を上げるマイクロストーブを指さした。
「人類最古の武器、火だ。君は知らないかもしれんが、変異したドラキュラが歴史上存在しなかったわけではない。十字架を高熱で溶かしてしまった奴もいる。ニンニクを食べてしまった奴もいる。ヴェニスに現れたヴァンパイアは日の照りつける真っ昼間から活動していたと言う。だが、いかなるヴァンパイアであろうと、火に耐え切れた奴はいない」
 ブレナンは時折ヘルシングの言葉を京子に通訳して聞かせた。京子は感心しながら聞いていた。「…何となくプロらしくなってきたわよね」
「らしくじゃなくて、彼は本物のプロなんだ」
「しかし今日はもう遅い」ヘルシングは夜空を見上げた。「夜は生きる亡者たちの力を増幅させる。こんな時間に攻め込んだらそれこそドラキュラの思う壷、奴らの罠にはまってしまう。行動するのは明日の朝だ。君、このストーブの燃料はあるかね?」
「はい、ありますけど…」
「それを使って奴の館に火を放つ。火は奴の動きを鈍らせる筈だ。そうなればこちらのもの。奴の心臓に…」
 ヘルシングはツイードの背広の内ポケットから、トネリコの木で造った杭を引き抜いた。常に持ち歩いているものらしい。
「これを突き刺してやる! しかし取り敢えず、今は一休みだ。と言うわけで君」
「何でしょう?」
「この娘を借りていくよ。君はそっちで勝手に寝んでいてくれ給え」
 言うが早いかヘルシングは京子の胸元に手を伸ばし、ノーブラのおっぱいを鷲掴みにした。京子のアッパーカットが炸裂する。ヘルシングは狂喜し、京子の足元にひれ伏した。
「“ああっ、女王様。もっと、もっとこの薄汚いしもべに愛の鞭を…!”だそうだ」
「ハワード。さっきの杭貸して!」
「な、何をするの?」
「先にこいつの心臓を停めるの!」

「感じるぞ。ドラキュラだ。ドラキュラの臭いだ…」
 午前五時半。東の空が白々と染まり始め、ドラキュラの館を照らし出そうとしていた。
 その窓の一つに、先を布で塞がれた瓶が炎を上げながら投げ込まれた。麓の酒屋の裏から盗んできた瓶にはマイクロストーブの燃料であるホワイトガソリンが詰め込んである。投げるのはヘルシングだ。
 ヘルシングは驚くべき素早さで庭のあちこちを匍匐前進にて動き回り――その素早さはイギリスで二年の兵役を経験したブレナンが舌を巻く程であった――、窓から窓へと火炎瓶を投げ込み続けた。
 外装は煉瓦と石造りとは言え、内部には絨毯やカーテン、ベッドなど燃えるものも数多い。最初は煙だけを出していた館だったが、時間が経つにつれ火の手も激しくなり、遂には窓という窓から轟々たる炎を噴き上げ始めた。
 炎を見つめるヘルシングがだんだん興奮してきた。
「火じゃ、火じゃ…。けけけけけ、火じゃああああっ! 燃えろ燃えろ、もっと燃えろ!燃えろよ燃えろよ、炎よ燃えろー♪ キャンプファイヤーじゃあっ!」
「…ねえハワード、やっぱりこいつ、変」
「それより、これって一つ間違うと犯罪じゃないかなあ…」
 炎を上げる館の中から叫び声が聞こえてきた。
「…うわーっ、火事じゃ火事じゃ。坊ちゃま、美紀様ー!」
「美紀ちゃーん」
「ドラキュラ様ー」
 正面玄関の鉄扉が開いた。もうもうとあふれ出す煙の中からよろめきながら飛び出してきた人影が見えた。大きく咳き込み、うずくまったのは…、
「…美紀よ!」
 ヘルシングが京子とブレナンを見た。「あれが君たちの言っていたミス美紀だね?」
「は、はい。そうです」
「捕まえるのだ」
 言われるまでもなかった。京子は全速力で駆け出していた。追いついたブレナンとともに美紀に駆け寄り、抵抗する彼女を取り押さえ、ヘルシングの近くに引きずって戻る。ヘルシングが実に手際よく、美紀を縛り上げた。それも亀甲縛りだ。
「離してーっ!」
「美紀!」
「京子、ひどいわ。私、あなたのこと友達だって思ってたのに…」
「あんたまだそんなことを! あんたはドラキュラにたぶらかされてるのよ! いい加減目を覚ましなさい!」
「違う! 違う!」
「ヘルシング教授、彼女をどうするんです?」
「この娘をドラキュラの呪いから解放する方法はただ一つ」
 ヘルシングは懐から杭を抜いた。
「ドラキュラを地獄に送ることだ」
「今から、この場で…?」
「いや、それでは面白くない。それにここでは奴がどんな罠を仕掛けてくるかわかったものではない。場所を変えよう」
「どこに…?」
「奴らと対決するのにお誂えの場所だよ」ヘルシングはニヤリと笑うと、炎を上げる館に向かって大音声で呼びかけた。「聞いているかドラキュラ! 私はウィラード・ヴァン・ヘルシング。貴様の一族の不倶戴天の敵、ヘルシング家の末裔とは私のことだ。貴様を殺すためにわざわざオランダからやってきたのだ。娘は預かった。返して欲しければ貴様自身で取り戻しに来い! わあっはっはっはっはっ…」
「…どうしたのハワード、頭なんか抱えて?」
「これじゃまるで僕たちの方が悪役だ…」
「この際、仕方がないんじゃない?」
 炎を上げるドラキュラの館に向かって、美紀は悲痛な声で叫んでいた。「…ドラキュラ様! ドラキュラ様ー!」
「…美紀ちゃあーん」
「美紀様ー」
 館の中からドラキュラと爺やがそれに応えた。「助けに行くよおー」
「待ってます!」半分泣きながら美紀は叫んだ。「ずっと待ってます!」
 館は三人が美紀を連れて立ち去って間もなく、館は炎を上げながら崩れ落ちた…。

 嫌がる美紀を無理やり連れ帰った三人はその足で、杉並にあるカトリック教会へと向かった。ヘルシングがそこの牧師と連絡を取ったのだ。特別手配中のヘルシングにそんな真似をさせて大丈夫かと京子とブレナンは危惧したが、教会の主がニュースに関心を示さないドイツ人牧師であった上に、ヘルシングの名前が効果を現した。カトリックの神学会においてヴァン・ヘルシングの名前は今尚絶大なる権威を持っていたのである。
「…奴は必ずやってくる」ヘルシングは言った。「この娘の体に染み込んだ己の匂いに引かれ、必ずやってくる」
 その美紀は、三人に対し、全く口を開かなかった。特に友人である筈の京子には、敵意と憎悪の眼差しさえ向けた。まるで肉親か恋人と自分とを引き離した犯人が、京子だとでも言うかのように…。
「…どうしようハワード。あたし、どうしたらいいの?」
「気持ちはわかるよ。ミス美紀は君にとって掛け替えのない友人だ」
「たった一人の友達よ」
 涙ぐんだ京子は言った。あなたの言った通りだった。あたしも孤独な夜を迎えてる一人だった。美紀がいたからこそ、それに気づかずにいられた。これまでろくに考えもしなかったけど、あたしがどんなに美紀に助けられてきたかがやっとわかってきたわ…。
「その美紀を失くしたら、あたし、ほんとに一人ぽっちになっちゃうかも知れない…」
 ブレナンは泣き出しそうになった京子の肩を抱いた。その二人の背後――礼拝堂で一人で何かをやっていたヘルシングが、杭を引き抜いて叫び出した。
「さあ、準備は完了したぞ。いつでも来いドラキュラ! けけけけけけけけ…」

 東京が夜を迎えた。
 梅雨の近い、星一つ見えない曇り空だった。地上ではきらびやかな明かりに照らされた道を、多くの人々が帰宅を急ぐでもなく、流れに身を任せて歩き回っていた。ただ今日だけのためにグラスを重ねる彼らに、自分たちの行き着く場所は見えない。自分たちを押し流すものが何なのかさえもわかっていない。
 そして上空を音もなく飛ぶ、一匹の巨大な蝙蝠の姿にも気づかない。
 蝙蝠は案内もなく、ひたすら杉並を目指していた。もう随分長時間飛び続けている。息が切れた。時たま自分の体の重さにバランスを崩し、墜落しそうにもなった。しかし彼には目指す場所があった。彼を待っていてくれる誰か、命に代えても取り戻すべき誰かがいた。
 その人の匂いが彼をあの教会にまで運んできた。
 教会の上空で大きく羽を広げた蝙蝠は、ステンドグラスの一つにまっしぐらに突っ込んだ。多くの破片とともに、礼拝堂の床に墜落する。羽がマントに戻った。それを鮮やかに翻し、立ち上がる。頭に二、三枚、割れたステンドグラスの破片が突き刺さっていた。
「あいてててて…」
 献血鬼ドラキュラは慌ててそれを抜いた。たちどころに傷が塞がる。
 礼拝堂は薄暗かった。明かりが灯っていなかった。いや、明かりはあったのだが、それが暗かったのだ。礼拝堂の中を照らすのは、数十本の蝋燭の炎だけであった。
 祭壇の十字架の前に一本の柱が立っていた。そこに縛り付けられているのは…、
「美紀ちゃん!」
「ドラキュラ様!」
 駆け寄ろうとしたドラキュラの足元を水が浸していた。同時に祭壇の横から現れたのは、きんきらきんのラメ入り司祭服に身を固めたヘルシングだった。
「出たなドラキュラ!」
 薄暗い蝋燭の炎に照らされたヘルシングの顔は、幽鬼にも見えた。司祭の姿をした幽鬼だ。その左手には例の杭が、そして右手には銀の短剣が握られていた。「呪われた一族の末裔めが。今この私が貴様に引導を渡してくれるわ!」
「…お前がヘルシングか」ドラキュラは言った。「噂はパパたちから聞いてるぞ。お前の一族は僕たちを目の敵にしているそうだな」
「古くはヘルシング一世の時代からな。それ以来、私たちと貴様の一族とは常に戦ってきた。今日のこの戦いも、言わばヘルシング一世と貴様の祖先とが作り上げた運命の一環なのだ。おおっと! そこから動くな化け物め。さもないとこの娘の命はないぞ」
 ヘルシングは右手の短剣を美紀の首筋に圧し当てた。
「ふふふふふ、動けまいドラキュラ」
「頼む、美紀ちゃんを傷つけないでくれ!」
「どーしよっかなー」
「お願いです」縛られている美紀も叫んだ。「私をドラキュラ様のところに返して!」
「そうは行かん。私にはドラキュラを退治する義務があるのだ」
「この人は何も悪いことなんてしてません。誰にも迷惑をかけてません」美紀は涙ながらに懇願した。「お願いです。この人を放っておいて上げて。私たちを帰らせて」
 祭壇の裏手には、教会の牧師がなぜか縛られて転がっていた。その横に立つブレナンが京子に、三人のやり取りを通訳していた。美紀も英語で喋っていたからだ。いつの間に英語なんて覚えたんだろう、これもドラキュラの呪いの一部かな…、などと考えていた京子だったが、美紀の悲痛な声を聞いているうちに、突然胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。呪いであろうとあるまいと関係ない。本気なんだ。
 美紀は本気で…。
「駄目だ」ヘルシングは美紀の懇願を一蹴した。「例え誰も傷つけていなくとも、ドラキュラは悪だ。その存在自体が悪なのだ。元はと言えば、この娘をおびき寄せるために貴様が雨を降らせたことはわかっているんだ」
「僕、そんなことしてないぞ」
「いいや、貴様が悪い。ぜーんぶ貴様が悪い。あの日雨が降ったのも、こんな可愛い子が貴様なんぞを慕うのも、人々の心から疑いと憎しみとが消えないのも、エチオピアで飢餓が起きたのもイラクが湾岸戦争を起こしたのも私の女房が逃げたのも、みーんな貴様のせいなのだ」
「…そんなメチャクチャな」
「ドラキュラ。ここを貴様の墓場にしてやる」そのおかしいヘルシングが叫んだ。「床を見るがいい!」
 ドラキュラは自分の足元を浸す水を見た。いや、どうもこれは水ではないらしい。
「油、か…?」
「そう、無臭ケロシンだ」ヘルシングは左手の杭を机に置き、燭台から蝋燭を抜いた。「これで最後だ。覚悟はいいな!」
「…僕が犠牲になれば、美紀ちゃんを傷つけないか?」
「もちろんだ。私の標的は貴様だけだ。ま、ちょっとは惜しい気もするが。聞くところによればこの娘、つい最近まで処女だったそうじゃないか」
「まだ処女だ」
「そうか、それでは尚のこと惜しいな。処女の味というのはまた格別のものだからな。私も自分の教え子に手を出してみたりもしているが、今時の大学生に処女などまるでおらぬ。もう、歯痒くて歯痒くて…。しかしまあ、私は正義の味方。品行方正な大学教授だ。取り敢えずは約束してやろう」
 などと言いつつ衣装の股間を膨らませ、コールマンのウィングタープより立派なテントをこしらえたヘルシングに大いなる不安を覚えたドラキュラだったが、未だ美紀の首に突き付けられた短剣を見ては従わないわけには行かなかった。
「わかった。約束だぞ」ドラキュラは肩から力を抜いた。「僕を殺したら、美紀ちゃんを無事に解放しろ」
「やめて…、この人を傷つけないで!」美紀は必死になって戒めから逃れようとした。「殺すなら私を先に殺して!」
 ヘルシングの高らかな勝利の笑い声が響く中、ドラキュラがそのふっくらした丸顔に寂しそうな笑顔を浮かべた。
「さあ、焼け死ねドラキュラ!」
「…さようなら、美紀ちゃん」
「いや――っ!」
「…ハワード」
 祭壇の後ろで全てを聞いていた京子が、涙のあふれる目でブレナンを見た。
「…何だい?」通訳していたブレナンも泣いていた。
「あたし、もう、我慢できない!」
「僕もだ!」
 二人は同時に飛び出していた。
 ブレナンが蝋燭を床に落とそうとしていたヘルシングに組みついた。ヘルシングを油の染みた場所から引き離そうとする。
「貴様何をする! 裏切る積もりか!」
「宗旨変えしたんですよ!」
 その間に京子は美紀を縛る戒めをほどいていた。「…京子」
「さあ、行くのよ美紀!」
「有り難う京子!」
 ブレナンとヘルシングは取っ組み合ったまま床に転がった。渾身の力を込めるブレナンだったが、ヘルシングの力もドラキュラ程ではないにせよ齢を感じさせないくらいに強かった。しかし負けるわけには行かない。ブレナンはとうとうヘルシングの上に馬乗りになり、その両腕を押さえ付けた。
 と、ヘルシングの手からこぼれた蝋燭が、油の染みた床に転がっていった…。
「危ない!」
 京子が叫んだ。礼拝堂は瞬時にして、紅蓮の炎に包まれた。
 茫然と炎を見つめるヘルシングを放って逃げ出そうとした京子とブレナンだったが、祭壇の後ろで咳き込む牧師の呻きを聞いた。考えてみれば彼もヘルシングの犠牲者ではないか。縛られたままの牧師をブレナンが慌てて担いだものの、たちまち床全面を覆った炎のために、礼拝堂の出口に向かえない。
 立ち往生したブレナンの手を、京子の手が握り締めたその時。
 黒いマントを頭から被ったドラキュラが、炎を突っ切って二人の前に立った。火の恐怖をものともせず、彼は二人を助けに来たのだ。京子と、牧師を担ぐブレナンとを抱き抱えるようにして、ドラキュラは飛んだ。一瞬にしてその体が巨大な蝙蝠に変わる。
 蝙蝠は礼拝堂の天井を突き破り、夜の空に消えた。

 区内全車両を動員したかと思われる台数の消防車と救急車とが、燃え上がる教会に殺到してきた。炎はそこまで凄まじかった。消火活動はなかなかはかどらず、火は折からの風に煽られ、燃え広がる気配を見せた。意識を失って教会の庭に寝かされた牧師を救急車に運び込み、付近の住民に退避勧告を出しに行こうとしていた消防隊員たちは見た。
 轟々と燃える教会から、炎に包まれて出てきた一人の男の姿を。
 髪は半分以上焼け縮れていた。司祭の衣装はほとんどが燃え落ちていた。剥き出しの皮膚のかなりの部分にかなり重度の火傷を負っていた。しかし自らの足で燃える教会から歩み出てきた男は、痛そうな顔一つ見せず、ギロリと辺りを睥睨した。
「…ええい、触るな! 私はドラキュラ退治の専門家ウィラード=ヴァン=ヘルシングだ。教授だぞ。しかも名家の当主、偉いんだぞ! うひひひひひひ…。ん? 何だ貴様たちその格好は? そんな変てこな銀の服を着て、こんな場所で何をやっている! さては貴様たちもドラキュラの仲間だな。心臓に杭を打ち込んでやる。そりゃああああっ!」
「うぎゃあああっ!」
「な、何だこいつ!」
「まずい。こいつ本物のキ印らしいぞ!」
「ニュースでやってたあの何とかいう博士じゃないのか?」
「警察に応援を頼め…!」
 到着した警官隊の麻酔銃攻撃を受け、何とかおとなしくさせられたヘルシングは、檻つきの護送者に乗せられて運び去られた。その精神状態から考えても実刑に問われることはあり得ないだろうが、国外退去に処されて当然、アムステルダムに連れ戻された後強制入院させられるのは間違いないだろう。ちなみにあのトネリコの杭は消し炭と化しており、飛びかかられた消防隊員は幸いにも軽傷で済んだ。だが彼はその後数カ月に亙って悪鬼に襲いかかられる悪夢に怯えることとなった…。

 教会から遠く離れた井の頭公園にて。
 巨大な蝙蝠は抱えてきた三人を美紀、京子、ブレナンの順に池のほとりに降ろした。次いで空中で翻ると、ドラキュラの姿に戻ってドスンと着地する。黒いタキシードはあちこちが焦げており、頬にも若干の火傷を負っていたが、大した怪我ではないようだった。
 彼が火の中を突っ切ってやってきたのは、京子が美紀の友達だったからだ。汗に光った丸顔をほころばせ、ニコニコッと笑うその顔は、とても不死の怪物には見えなかった。
「…ドラキュラ様!」
「美紀ちゃん!」
 京子とブレナンの目を気にもせず、美紀とドラキュラとはひしと抱き合った。見ているブレナンの方が照れ臭くなって、京子を見た。京子は複雑な顔で二人を見つめていた。その五〇パーセントは羨望で占められているのではとも思われたが。
「…ほんとに行っちゃうの、美紀?」
「うん」
「あんた、ほんとに呪いかけられてない?」
「そうかも知れない。でも、私それでも構わない。だって私もう一人じゃないもの。一人で寂しい思いしなくて済むもの。京子だって経験あるでしょう? 夜一人で帰るアパートがどんなに寒くて素っ気ないか。一人で食べるご飯がどんなに味気無いか知ってるでしょう?」
「うん、それはわかるけど…」
「私ね、嬉しかったの。確かにこの人、普通の人じゃない。でも、いつも私のこと気にしてくれる。いつも私のこと気遣ってくれる。これまでこんな気持ちになったことない。この人といると暖かいの。とっても暖かいの」
 美紀はしっかりドラキュラの太い体にしがみついた。京子はその時突然思った。「美紀、何だか急に綺麗になったわね」
「そうかしら。最近鏡を見てないからわからないわ」美紀は笑った。「と言うより、鏡に顔が映らなくなったの。これじゃお化粧もできないわ。ドラキュラ様に悪くて…」
「美紀ちゃんは素顔が一番綺麗だもーん」
「それにね、この人は私の病気も治してくれたの」
「病気? 何の病気よ。水虫? ヘルニア?」
「再生不良性貧血…」
 これにはブレナンが目を剥いた。「何だってえ?」
 発病は一年前だった。病名は身寄りのない美紀に即座に告知された。高額な治療を受ける財力もない美紀は、黙って病魔の進行を受け容れる他はなかった。一年後、遂に目眩や皮膚下の鬱血などの自覚症状が出てきた。美紀は己に残された時間が残り少ないのを知り、わずかな時間を唯一心を許せる京子と過ごそうと思った。ピクニックはそのために計画した…。
 その最中にこのドラキュラが現れたのだ。
「再生不良性貧血が治ったあ…?」ブレナンが信じられん、と首を振った。確かにこのドラキュラ、献血鬼ってくらいだから、新鮮な血をくれたかも知れないが…。
 黙ってて御免ね、美紀は京子に言った。「私、この人と一緒にいるの。一緒にいたいの。どうせ身寄りもないんだから、誰も気にしないわ」
「あたしは気にするわよ!」
「でも京子、私はどっちにせよ、あなたの前からいなくなる人間だったのよ」
 美紀の言葉に京子はたじろいだ。美紀は聖母のような微笑みを浮かべ、優しく言った。一度は死ぬ筈だった私に、もう一度命を与えてくれたのはこの人なの。この人と一緒にいることが私の幸せなの…。
「京子もガイジンさんと仲良くしてね」
「別に、この人は…」
「いい人みたいじゃないの」
 その時ブレナンが背後を振り返った。何かが近づいてくる音が聞こえたのだ。それは聞き間違えようもなく、何かを引っ張る馬の蹄の音だった。
 井の頭公園の遊歩道を、一台の馬車が走ってきた。
「坊ちゃま。美紀様!」御者を務めるのは爺やだった。「御無事でしたか!」
 馬車は四人の前に停まった。ドラキュラが扉を開き、美紀に手を差し伸べた。美紀は振り返った。「さよなら、京子…」
「あんたなんか…」京子は顔を背けた。「あんたなんかどこにでも行っちゃえばいいのよ!」
 美紀は少し寂しげに微笑み、ドラキュラとともに馬車に乗り込んだ。爺やの鞭の一振りで、馬車は走り出した。
 爺やが言った。「心配しましたぞ。しかしこれで一件落着ですな。爺も安心しました」
「有り難う爺やさん」
「これで後は、美紀様が立派な御世継ぎさえ産んで下されば、爺にはもはや思い残すことが…」
 これにはドラキュラが慌てた。「爺やは気が早すぎる! 美紀ちゃん恥ずかしがってるよ」
 しかし美紀は幸せそうに微笑んだ。「ううん、いいの。爺やさん、私、何人でも産みますから」
「ほーら、美紀様は爺の味方じゃ」
「あーあ…」
 ゆっくり走る馬車からは、その会話全てと楽しそうな美紀の笑い声とが京子とブレナンにも聞こえてきた。ブレナンは都会の真ん中に馬車が走ることをしきりに不思議がっていたが、京子が声を立てずに泣いているのに気づき、黙り込んだ。
「…美紀の馬鹿。大馬鹿」馬車が夜の闇の彼方に消え去るのを見届けた後、京子は小さく呟いた。「あたしの気も知らないで、あたしを一人ぽっちにして…」
 京子は馬車の走り去った方角に向かって、何度も馬鹿、馬鹿と呟き続けた。やがてうつむき、静かに涙をこぼし続けた。ブレナンはただ黙って、京子の側に立っていた。やがて東の空が明るみ、小鳥たちが鳴き始めた。
「…おなかが空いたなあ」
 ブレナンが明るい声で言った。京子が涙の乾かない顔を上げた。その眼差しを受け止め、ブレナンは照れたように笑った。京子も何とか微笑み返せた。
「御免ねハワード。謝礼の方、少し待ってくれる? 何しろ今あたし失業中なもので…」
「そんなこと気にするなよ。僕だって生活に困ってるわけじゃないんだ。それより今から…」ブレナンは照れながら言った。「僕のところに来ないか。何か作るよ」
「…行っても、いいの?」
「もちろんさ。当たり前じゃないか」ブレナンは胸を張った。「何しろ今度君のお父さんお母さんに挨拶に行かなくちゃならないからな。その作戦も練らなくちゃ…」
「やだ。まだそんなこと言ってんの?」
 今度こそ本当に笑えた。指で目の隅の涙を拭い、ブレナンの肩を叩く。
「あたしのお守りするの、大変よ」
 などと言いながら、京子はブレナンの腕に自分の腕を滑り込ませた。ブレナンは気取った仕草で肩をすくめて見せた。「覚悟の上ですよ、王女様」
「やだ、それじゃあヘルシング教授と同じだわ」
「違うよ。あの人が言ってたのは“女王様”で…」
 空は薄曇りだった。湿った空気が、梅雨に入ったことを感じさせた。二人は腕を組み、若葉に覆われた街路を、吉祥寺の駅に向かって歩き出した。



                 (2017 4 26)

愛しのノスフェラトゥ

お読み頂き有難う!
あったまってくれたかな?
夜の孤独な魂を、
癒せたならば最高です!
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愛しのノスフェラトゥ

東京郊外にピクニックにやってきた榎本美紀と浅川京子は、突然の大雨に道に迷い、日本のものとは思えぬ洋館に辿り着く。 そこは由緒正しきドラキュラの末裔の住む館だった。しかもこのドラキュラ、血など吸わない寧ろ上げる方だなどとほざく超高血圧のウルトラデブ。 ドラキュラに拐われた美紀を追って、ラーメン大好きエクソシスト、ブレナンとともにもう一度洋館に向かう京子。ヴァン・ヘルシングの子孫まで巻き込んでの大活劇(?)が始まる。

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  • 青年向け
更新日
登録日
2016-04-06

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