窓越しの彼女

まだまだ、やっと2作目の駆け出しです。ヨロシクお願いいたします。


『窓』

 あなたは、霊を、霊現象を信じますか。

 俺は、霊なんて信じない。いや、信じなかった、といった方が正しい。でなければ、こんな薄暗くて古臭い、いかにも気味の悪いアパートを借りたりしない。それがいくら今年卒業した4つ上の従兄弟の良人兄(にい)の紹介であったとしても、大概なら断る。
「ちょっと古臭いけどさ、安いし近所が便利なのは大メリットだよ。僕が出た後、住むといいよ。」
良人兄は気味悪さなどどこ吹く風とばかりに、あっけらかんと俺にここを紹介した。
俺が最初にこの部屋を見た時、こりゃ安いはずだ、と実感したくらいだから相当だ。扉は鉄扉で重いし、ギィギィ音がする。入るなり昼間でも薄暗いし、窓が狭いせいか、部屋も薄暗い。狭いのに玄関からリビングまでの廊下と、リビングから左に折り返すような構造になっている洗面台兼浴室までの廊下だけは妙に暗く長い。しかも浴室の壁には気味の悪いシミが浮き出ているし、浴室出口やリビングにはまるで血痕のようなシミがやたら点々と残っている。
良人兄は、コタツ兼テーブルとベッドを置いていったが、ベッドにも血痕のようなものがいくつも発見された。良人兄はそれについては何も語らなかった。ただ一言だけ、
「敬くん、ここはね、出るよ。」
と、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて言ったことはある。俺はその言葉に対してわざわざ、何が出るのか、とは聞かなかった。だいたい想像はつくのだが、あえて聞く必要があるとは感じなかった。俺は“そういったもの”には無縁だと思っていたし、信じてもいなかった。
それ故に、安さと従兄弟の紹介と言うとりあえずの“安心料”だけに惹かれてここに住むことに決めた。良人兄が東南大学を卒業して部屋を出ると同時に、入れ替わりに俺が同じ東南大学に入学。それから俺の新生活は始まった。

 程なくして俺は誕生日を迎えた。19歳になったからといって、別段何が変わるわけでもなく、新しい生活は次から次へとやってくる。あれやこれやとこなしているうちに、この薄暗いアパートの一室も、今ではすっかり独り暮らしビギナーである俺の「城」になった。
問題はなかったが、少し不満があるとすれば、良人兄に似て少々皮膚が弱い俺にとっては、シャワーがあると随分助かるのだが、残念ながらそこは我慢するしかなかった。水を溜め、ボイラー式の湯沸しで沸かして入る旧式の風呂しかないのは、惜しいところだ。
それでも、近くにコンビニも本屋もある。キャンパスからも駅からもそれほど遠くない。窓が狭い分、蒸し暑さはあったが、今のところそれ程苦にはならなかった。本格的な夏になるとどうなのかわからないが、一応それまでにはエアコンを付けても良いとの確約を母から貰っていた。俺、佐倉敬介の新生活はおおむね快適だった。
ある初夏の日を境に、そう、あの日までは。

 むわり、と生ぬるい風が時折吹き込む初夏6月の夜、俺はいつものように野菜ジュースを片手に風呂上りの涼を扇風機で取りながら、6月中にはエアコンつけたいな、などと考えながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。
網戸の窓が風で時々カタカタと揺れた。最近、小さな虫がやたらと入り込んできてうっとおしいので、俺は窓を閉めた。少々暑いが、まだ扇風機で十分しのげる暑さだった。カーテンの揺れもおさまり、部屋で動くのは時計の針と俺とテレビの画面だけになった。
大学一回生の夜なんてものは、大概友人と夜遊びをしたり、友人宅でゴロゴロしたり、麻雀にでも興じるのが妥当なセンだが、俺の部屋は薄暗くてエアコンもないので、皆あまり来たがらない。俺もあえて行こうと思う快適な別荘もないので、誰のところにもいかず、ただ下らないテレビ番組をだらだらと見ているだけだった。
 少しぬるくなった野菜ジュースのストローをずずーっ、と吸い込んで、軽く握りつぶした後、ゴミ箱に投げる。ナイスイン!ポスッと音がして、ジュースのパックはゴミ箱に吸い込まれた。
しばらくすると深夜のニュース番組が始まり、うつらうつらとしかけたころ、突然、

バン!

と、何かがぶつかるような音が鳴った。ビクンと目を覚ました俺は、何が起こったのかわからなかった。何の音だ?どこから?目をすこし瞬かせながら、俺は座椅子からむくりと体を起こした。別段なにも変化はない。周りを見回して、ポリポリと頭を掻いて、のそりとベッドに向かった。ベッドに右足をかけた時、再び、

バン!

また同じような音が響いた。今度は出所がわかった。窓だ。鳥でもぶつかったか?3階にあるこの部屋に外から誰かが来るでもない。窓をじっと見つめてみるが、別に変化はなさそうだ。俺は気にしないことに決めて、もそもそとベッドにもぐりこんだ。
 その時、カーテンが少しだけ揺れていることには、俺は全く気付いていなかった。

 朝、いつもの目覚ましで目覚めて俺は、布団の中で今日は何コマ目を取ってたっけ、と二度寝しながら考えていた。2コマ目だから、まだいいか、と布団の隙間から部屋を少し見た時、取るに足らない小さな違和感を感じた。ゴミ箱の横に落ちている野菜ジュースのパック。少し握りつぶされた跡のある、昨日飲んだ覚えのあるそれ。
 あれ、ナイスイン!じゃなかったっけ。などとぼんやり考えながら、それでも本当に取るに足らないことだ、そう寝ぼけた頭で布団をかぶりなおした。もうカーテンは揺れていなかった。

 その晩も俺は、特に何をするでもなく読みかけの小説を読んでいた。テレビではニュースキャスターが明日の天気を手短に伝え、番組終了のコメントをしていた。眠くはなかったが、明日は1コマ目から講義があるので、仕方なく俺は読みかけの小説に栞を挟んで閉じ、横になることにした。目は冴えていたので、意識はしっかりしていた。あー、と背伸びをしたその時、それを遮るかのように、

バン!

窓が鳴った。さすがの俺も、背伸びを中断して固まった。何事?また鳥?それとも誰かが何かを投げてでもいるってのか?少しの間、俺は固まっていた。ふぅーと息を吐いて、窓に近寄ろうとした時、

バン!バン!

再び窓が響いた、しかも2回。これは悪質ないたずらか?と思った俺は、ゆっくりと窓に近づいてみた。特に変わった様子もないし、鳥や物がぶつかった跡もない。俺はカーテンをゆっくり、そっとつまみ、隙間を開けて外を見た。3階のベランダ越しに下に見える景色に何の変わりもなかった、はずだった。
いや、電柱の街灯の下に黒い影が見える。3階からの距離なので、細かい部分は全く分からないはずだったが、何故だか俺には、それが男だと分かった。しかも薄汚れた格好をした、無精髭の汚らしい男だ。
 あいつが何かを投げたのか、と俺は思ったが、この夜中に3階から叫ぶのも非常識だと思い、そのままカーテンを閉めて放っておくことにした。振り返ってベッドに戻ろうとした俺は、ぎょっとした。
出した覚えのない野菜ジュースのパックが、テーブルに乗っている。しかもご丁寧に、閉じた小説の上に重石の様に、真ん中に丁寧に。さすがの俺も、何か奇妙な空気を感じて、野菜ジュースを冷蔵庫に戻すと、そそくさとベッドにもぐりこんで寝入ってしまうことに決めた。
 しかし、その夜は窓にぶつかるあの音が、まだ数回聞こえた。何か、借金取りにでも追い立てられているような、不気味な圧迫感を感じながら、俺は3時を過ぎるまで寝付くことができなかった。


『男』

 次の日の朝、俺は寝不足の頭で時間ギリギリに飛び起き、昨晩のことを忘れるようにどたばたと支度をして、1コマ目の講義に出かけた。眠たくて、講師の先生が何を言っているのかはあまり頭に入らなかったが、幸いにも緩い教授だったので、少々の居眠りは見過ごしてくれた。2コマ目も同様にうつらうつらとしながら、何とか乗り切った。
 とりあえず食うモンだけでもちゃんと食うか、と学食に向かった俺の後ろから声がした。
「敬介―」
同じ科の友人、毛利大介だった。大介は、まぁ親しいといえば親しい友人の部類に入る。やや長髪気味のぼさぼさした頭で、格好も気にしないずぼらなタイプ。名前の介・介つながりで、なんとなく話し始めたのがきっかけだった。
「飯っしょ?いく?学食。金ないし。」
のんびりした声で俺を学食に誘った大介は、あぁ、だりぃだりぃ、といつもの口癖を連発しながら俺の横に並んだ。

「どったの、眠そうじゃん。」
学食の冴えないメニューを目の前に、大介が箸で俺を指差しながら聞いた。
「あー、、、昨日、寝れんかったんさ。」
答えるのも少々気だるかったが、都合上一応返事をした。
大介はチキンカツをぶすっと箸で差しながら、
「なによ、なによ、恋の悩み?言っとくけど、それオレ守備範囲外よ。」
能天気にチキンカツを口に放り込みながら、大介はニヤニヤしている。
「あほくさ、ちゃうわい。」
そう言って俺は少しの間黙々と、ややべちゃついたご飯を口に押し込んだ。パサパサのキャベツを醤油で無理やり食った後、大介に話すでもなく、なんとなく口からぽろりと言葉が漏れた。
「窓、うるせぇんだ・・・」
ぼそりと漏らした俺に、大介が顔をしかめた。
「はぁ?」
少し意味がわからないといった風に、沈黙があって、うーんと考え込んだような顔をしながら大介は聞いた。
「窓?なにそれ。」
いちいち全てを解説する気など毛頭なかったのだが、話し始めてしまった以上、なんとなくそのまま流れで話を続けた。
「いや、窓がさ、バンバン鳴るんだよ。夜中に。うるせぇったらさ・・・」
大介は、なに言ってんの?といった風に口を開けて言った。
「意味、わかんねぇ。窓がバンバンってなに。」
「いや鳴るンだって、窓が、バンバンてさ。昨日なんか2時くらいまで何回もなるんだよ。」
大介は、口をあんぐりと開けて、呆れたような顔になった。その後、ふと、あぁ!と思いついたように、
「あ、なんだ。それ、あれじゃねぇの?ホラ、怪奇現象とか。敬介んち、薄暗くて気味悪ぃじゃん。ユーレイがさぁ、こっちおいでよー、とかって窓、叩いてんだって。けへへ。」
全く冗談を言っているだけ、と顔を見てもすぐ分かるような表情で、大介がからかった。大介は調子を上げて話を膨らませる。
「そのうちさぁ、来るんじゃねぇの?長―い髪の女とかが窓からずりずり、とかって入ってきてさ、呪い殺されちゃうんだぜ。なんだっけ、映画、あるじゃん、そういうの。オレ、しーらね。お前んちには絶対行かねぇぞ。何にもなくたって気味悪ぃ部屋なんだから。」
散々好き放題しゃべったあと、学食を全て平らげて、大介は満足そうに勝手に話を打ち切って、3コマ目、心理学一緒だろ、行こうぜ、とさっさと席を立った。
 自由なヤツ。なに勝手なことばっか言ってんだか。俺は、そんなものは信じない、信じてないって。

 3コマ目を終わらせた俺は、少し早めの帰宅をした。別に何を気にしているわけではないが、何故かわずかに足取りは重かった。ギィと重苦しい鉄扉をあけて、玄関に立ち尽くす。暗い廊下。まだ薄明るい部屋。ほんのわずかに勇気のいる一歩を踏み出した後、部屋の中をぐるりと見渡す。何も変わってないじゃないか。当たり前だ。
『ユーレイがさぁ・・・』
大介の言葉がふと甦る。ばかばかしい。打ち消すように、大きく深呼吸をして、俺は明るいうちにさっさと風呂に入ってスッキリすることにした。
 日も暮れて、いつも見るアニメ番組が終わった頃、俺はまたテレビをつけたまま、昨晩の続きの小説を読み始めた。が、何故か今ひとつ頭に入らない。数ページ読んで、感情移入できないと悟った俺は、パタンと小説を閉じて座椅子を倒しゴロンと仰向けに寝転んだ。天井の蛍光灯をじっと見つめる。頭の中を何かがよぎっているのだが、俺はその都度それを打ち消すように、明日のコマ割りとか、テレビの音声とかに気を向けるようにした。
 ふぅ、と息をついて、あほくさ、つぶやこうとして
「あほく・・・」
まで言ったところで、

バン!

窓から大音量が響いた。ビクッとなって俺は半身を起こした。今度はほとんど間をおかず、

バン!バン!バン!

と立て続けに窓が鳴く。俺は跳ね起きて、窓を凝視した。何もない。何もないが、カーテンが少し振動で揺れている。何故だ?何が起こっている?絶対に何かが窓を叩いている。そうとしか思えない。
 俺は、それでも恐る恐る窓に近づいた。カーテンの隙間から外をのぞく。ゆっくりと下を見る。真っ暗な道、電柱、ぽつんと小さな街灯。その下には、またあの黒い影。
 俺は頭に血が上ったように、窓を一気に開けて外に顔を出した。
「オイ!アンタ!何を投げ・・・!」
そこまで叫んだ瞬間、男の影はすっと消えていた。街灯の下には誰もいない。俺はキツネに摘まれたように、言葉を詰まらせた。いきなり対象を失った俺の声は、くぐもったうめき声にしかならず、そのまま仕方なく窓をゆっくりと閉めた。そこに、

窓の向こうに男の顔があった。

「うわぁ!」
俺は思わず叫んで、後ろにひっくり返ってベッドに尻餅をついた。目を疑うように瞬き、もう一度窓を見た時には、何も、何もいなかった。心臓が早鐘のように打ちつけていた。俺はたらりと冷や汗を流しながら、それでも今見たものはただの幻覚に違いないと、頭を何度も振って、大きく息を吸って心を落ち着かせた。
 そんなはずがあるわけはない。ここは3階だ。何をヘンな幻覚見てびびってんだ。自分で自分を鼓舞しながら、何度も、何度も、大きく深呼吸をした。
 少し落ち着いた俺は、ゆっくりと窓に近づいてみた。何もいない、何もない。何もない。何もない。
 そこで初めて、光の反射の具合か、俺は窓にうっすらと白い何かの跡の様なものがついていることに気付いた。それが何かを近寄ったり離れたり角度を変えたりして、見極めようとした。そして、俺は気付いてしまい、背筋に悪寒が走った。

 手形だった。

それは、明らかに俺の手より少し大きい大人の、手形だった。
 俺は、背筋が凍るような思いを押さえつけて後ずさった。ぺたりと座り込んで、角度を変えてみた瞬間、その手形が、無数にあることに気付いて俺は思わずうめき声をあげてしまった。戦慄が走った。

 しばらくの間、俺はえも知れぬ恐怖と戦っていた。そのまま寝てしまおうかとも思った。しかし、あの気味の悪い手形をそのままにしておきたくはなかった。いまにもそこから手が伸びてきて、俺を襲いそうな、そんな強迫観念に駆られて俺は、腰をガクガクさせながら浴室へと向かった。
 勇気を振り絞り、タオルを手に、この得体の知れない異物をふき取ることに決めた。そうしないと、絶対に俺は今日眠れない。絶対に拭き取らないと!そう決心して、俺は窓を開けた。あの薄気味悪い男の顔が、脳裏をよぎった。あの男がこれをつけたのか?バンバンという窓を叩く音は、これだったのか?考えれば考えるほど狂気に走りそうになった俺は、目を瞑って一心に外から窓を拭いた。拭いた。拭いた。
 拭いて、拭いて、拭いて、目を開けた俺は、愕然とした。
 消えていない。何故!消えない!拭く!消えない!
 そう、その時、俺は気付いたのだ。

その手形が、窓の内側から付けられていたことに。。。


『増長』

それから俺の陰鬱な日々が始まった。窓を叩く音は、容赦なく毎晩俺を襲い、その都度、手形を残して去って行く。それも、内側から。何者かがこの部屋の中に入り込んでいることを証拠付けるようなその手形に、俺は辟易としていた。日を追うに従って、その頻度は増していき、俺はついに友人宅へ避難することを決めた。
「悪ぃんだけどさ、大介、今日泊めてくれんかな。」
大介は、先日の話など忘れたかのように、いや、実際に忘れていたのだが、あぁ、だりぃだりぃといつもの口癖を唱えながらも快諾した。
「いいけどー。珍しいじゃん、敬介から言ってくるなんてさ。」
「助かるよ。」
理由云々は特に語らず、俺は大介のアパートに転がり込んだ。とりあえず、それで安心、少しほとぼりがさめるまで様子見だ、と思った俺が甘かった。
窓叩きと手形は、俺の避難先までも追ってきたのだ。のんびり屋の大介でさえ、さすがにこれには衝撃を受けたらしく、ついに3日目には俺に言いにくそうに話しかけた。
「敬介、やっぱさ、悪ぃんだけど、、、ちょっちさすがに、カンベンしてくれや。オレ、こーいうの、ダメなんだわ。マジで。」
申し訳なさそうに目をそらす大介の気持ちもよくわかった。そこをさらに押してまで、大介の部屋に留まることはさすがに俺にはできなかった。
結局、俺は次の宿を探すことになったのだが、大介の部屋でのことを考えれば、どこに行っても同じだろうとの予想は簡単にできた。気味の悪い噂が立つのも好ましくない。俺は、そのあと誰にも声をかける勇気をなくし、しぶしぶ薄暗い自宅へと舞い戻ることになった。
アパートの鉄扉は、俺に容赦なく重く、部屋の薄暗さは俺の精神に多大な圧迫をかけるに十分な効果を持っていた。食欲はないが、食べないと気力も尽きると思い、近くのコンビニでスタミナ弁当と栄養ドリンクを奮発して買い込んだ俺は、それをかき込む事で臆病になっていきつつある自分に発破をかけた。しかし、それにしても良人兄ももしかしてこれと同じ経験をしていたのだろうか。『ここは出るよ』とニヤリと笑いながら話していた良人兄の顔を思い出すと、あまりに無責任な気がして腹が立ってきた。
「あー!もうっ!」
弁当くずを力任せにゴミ箱に投げ込んで叫んだ俺だったが、それを聞いた上で了承してここに入居したのは俺だ、という事実を思えば、その叫びに続けて出るはずの悪態は、すすすーと影をひそめて、ぺたんと座椅子に座り込んでしまった。
また、夜がやってくる。

明るいうちに風呂を済ませた俺は、極力窓の方を見ないように、できるだけ窓から離れるようにベッドに丸まって部屋を眺めていた。少しでも気が紛れるかと、テレビの音量はやや大きめにしていたが、やがて響いてくるあの音に勝てるとはとても思えなかった。

バン!

来た。また来やがった。俺はベッドに座り込んで、雪わらしのように布団を頭からかぶり、顔だけを出した状態で、音の攻撃に耐えていた。ひとしきりバン、バン、と窓が鳴いたかと思うと、やがて静寂が訪れた。その静寂は思ったより長く、やがて俺は今日はやけに早くに引き上げたもんだ、と布団を握り締めた手を緩めた。その時、

ガタン!!!

俺の目の前でゴミ箱が突然倒れた。予想外の出来事に、俺は思わず、
「ひっ!」
と小さく悲鳴をあげて、身をすくめた。ゴミ箱は倒れたままゆらゆらと揺れている。俺はそれをじっと凝視していた。もちろん身動き一つ取れなかった。ゆらゆらと揺れ続けるゴミ箱は、俺がそれに慣れるのを待つかのようにいつまでもゆっくりと揺れ、果たしてその期待通り、俺の気が少し緩んだ頃に、

ガタン!!!

と、また起き上がった。と、思ううちに今度はすぐにまた倒れ、すぐさま起き上がり、

ガタン!ガタン!ガタン!

と、それをひたすら繰り返していた。俺の頭の中はもう完全に混乱を極め、目の前で起こっているこのゴミ箱の怪現象に、何をどうしたらいいのかまったくわからないまま、震えながらじっと耐えていた。
その俺の心臓がバクッと震えたのは、今まさに起き上がったゴミ箱のその端に、

ごつごつとした大きな手だけが見えた瞬間だった。

それとほぼ同時に、俺の視界の左隅に、何か黒い影が映りこんだ。ゴミ箱を握っていた大きな手が、すぅと薄らぐように消えたのを、震える心で見届けた後、俺は恐る恐る、ほんの、ほんの数センチだけ、視線を左にずらした。

俺の左上に、黒い影法師のような人影が、まるでベッドの俺を覗き込むように覆いかぶさっていた。
真っ黒な影法師なのに、その顔が笑っているのがわかった。それは、いつか見た街灯の下の無精髭の男だと、俺は薄れていく意識の中でうっすらと、そう感じていた。

その夜の俺の記憶は、ここまでしかない。気がつくと朝になっていた。俺は布団の中の蒸し暑い息苦しさに耐えかねて目を覚ました。
「うわーっ!」
思い切り布団を放り投げて、めくらめっぽうに腕を振り回して叫び続けた後、俺は再びぺたりとベッドに座り込み、はぁはぁと荒い息を繰り返していた。朝の陽の光が、手形の付いた窓を煌々と照らしていた。


『浮遊』

それからの俺の悲惨な日々は、まるで昔観たゴーストもののハリウッド映画の如し、だった。夜になると、異変は毎日起こった。窓が鳴る。ゴミ箱が動く。突然コンロの火が点く。カンカンと正体不明の響音。影法師が覗き込む、前を横切る。何かが部屋の中を歩く音がする、男の低い笑い声がする。
俺はただ、目を血走らせながら、もしくは硬く硬く瞑ったまま、ひたすら夜が開けるのを待つしかなかった。精神が朦朧としているのが、自分でもよくわかった。そう、今にも狂ってしまいそうな夜が、何度も過ぎるのを待つだけだった。

俺の心は、完全に降伏していた。お手上げだ。もう何日も一睡もしていないし、食事もろくにとっていない。まるで断食修行中の僧侶のごとく、ベッドに丸まったまま動く力もなかった。体は衰弱していたし、声も出なかったが、精神だけはやたらと大声で叫んでいた。
もうやめてくれ!もういやだ!ここから逃げ出したい!誰か助けて!
座り込んでいるのも苦しくなった俺は、布団に包まったままごろりと倒れこむように横になった。今が昼か夜かも分からなかったが、明るさは感じない。多分、夜だ。またあの影法師の男がやってくる。そう、心では分かっているが、もう体も精神も「耐えよう」という力そのものを失っていた。
死体のように体を横たえた俺は、周囲で何が起こっているかまったくわからなくなったかのように、まどろみ始めた。頭がくらくらする。周囲がぐるりぐるりと回り始める。体は動いていないのに、くるくる回っているような気がする。軽い吐き気と、頭痛がやんわりと襲ってくる。乗り物酔いのような気分。指も動かせないような状態のはずなのに、やたらと手をぐりぐりと動かしている気がする。もわんとした気分の中で、宙をさまよっているような気になってくる。もしかしてこれが臨死体験というやつかもしれない、などと僅かに残った俺の心が感じる。
すぅ、と体が上のほうに浮かんでいくような気がした。

俺、死ぬのかなぁ

うすぼんやりと考えながら、浮き続ける体をゆらゆらと揺らす。くるんくるんと回転したような気がした俺の、その死にかけた視界の焦点がふわっと合ったような気がした時、俺は死体のような俺を見た。
俺の死体?
俺は、少し離れた上から、死体のように横たわった俺を見ていた。吐き気のような感覚はおさまっていたが、まるで酔っ払ってでもいるかのように頭はふわりふわりとしていた。ふわりとしていたのは、頭だけではなかった。俺の体全てが、ふわりと宙に浮いていた。手が動く。手を見つめる。その見つめた手の向こう側に、死体のような俺。状況は全く理解できなかったが、間違いなく俺は俺から離れて俺を見ている。
死ぬ?

「ちっ、浮きやがった。つまんねぇ。死ねよ。」

ぐるぐる回る頭の横で、低い男の声がした。ふと横を見ると、影法師の男が俺の真横に立っていた。顔を歪めて、さも面白くなさそうな醜い表情をしたかと思ったら、影法師はすぅと窓に向かって移動し、その姿を消した。
何故か俺には、それが今までの脅威の終焉のような気がしていた。幽霊は俺を襲うのを止めたのだと、なぜかそう感じた。体は浮いたままだった。
俺はしばらくその状態のままでいた。死体の俺はいざしらず、浮いている俺は、だんだんと正常な思考ができるようになっていた。何故かこの状態が心地よくも感じた。それが天国に召される前の至福なのか、それともただの妄想・幻覚の類なのか、今はまだ区別がつかなかった。
よく見ると、浮いている俺の体は、まだ部分部分がしっかりとした形を取っていないようだった。手はある。が、足はぼやけている。手で胸や頭を触ることはできる。そうやってぺたぺたとさわれる部分をなでているうちに、俺の後ろ頭にヒモのようなものがあるのがわかった。それは引っぱってもとれない。まるで後ろ頭から生えているような感覚。強く引っぱるのは怖かったのでやめたが、痛みなどはない。そのヒモは辿っていくと消えたり現れたりするが、手にはずっと感触があった。ヒモの行き着いた場所は、死体の俺の頭のてっぺんだった。
ふわふわと心地よく浮きながら、俺はだんだんとハッキリしてきた頭で考えた。俺は生きている。死んではいない。ただ浮いたまま、動くことはできない。まだ足はぼやけたままだったし、手をどんなに動かしてみても、浮いた体は移動しない。ただじっと死体のような俺を眺めるだけの俺。幽霊だの何だのに全く興味のない俺だったが、実際に影法師の幽霊に出会った、そしてその襲撃による恐怖を体験した今では、信じないなどとは言ってはいられなかった。ということは、これはもしかして俺も幽霊になったのだろうか?疎い俺でも確か聞いたことくらいはある、幽体離脱、とかいう?
なんとなく状況がつかめたとたんに、急に恐怖が襲ってきた。このまま戻れなかったら俺は死ぬのか?いやだ、死にたくない。突然心臓がバクバクと破裂しそうに動き出し、俺は恐ろしくなってもがいた。死にたくない。今この時点で体から離れてしまっている以上、兎にも角にも、今はこの死体のような俺に戻ることが先決だ。
俺は焦って手で水かきのように空をジタバタと泳いでみるが、何の効果もない。死にたくないよ、とつぶやきながら何度も手を泳がせるが、死体の俺には届かない。何とかならないものかと、次に後ろ頭のヒモを手繰り寄せてみるが、掃除機のコードのように次から次へと伸びるばかりで、まったく体に近寄る様子もない。余計に焦りは募って、俺は死に対する恐怖に直面した。もがきにもがいてみるが、なにも変わらない。
途方にくれて俺は冷や汗(?)をかきながら下を見る。死体のような俺は、もう本当に見るからに死体で、このまま放っておくと本当に「死体」になってしまいそうな気がして、焦りは募るばかりだった。俺はまた何度もじたばたと体を動かし、ひねり、もだえ、力み、念じ、祈った。
ふとその時、背中をトンと押されたような感覚があったかと思うと、俺の体は急降下し死体の俺にどすんと(音はしなかったが)ぶつかった。再び吐き気のような感覚や、頭痛が襲ってきた。歯を食いしばり、目を開けると、

そこはベッドの中だった。


『離脱』

セミの抜け殻のようにカサカサになった俺の体は、かろうじて「死体」ではなくなった。水分、足りてない。栄養、足りてない。睡眠、足りてない。安らぎ、足りてない。ないない尽くし状態ではあったが、俺は渾身の力を振り絞ってベッドから起き上がった。気がつくと朝日が差していた。
俺は、崩れ落ちるようにベッドから転げ落ち、かろうじてテーブルの上に手を伸ばした。最後に買った栄養ドリンクを、震える老婆のような手でつかみ、ガクガクと込め切れない力で栓を開けた。俺はそれを一気に飲み下した。思わずすぐにそれを吐いてしまいそうだったが、口を押さえてぐっとこらえた。そしてそのままベッドを背もたれに座り込んだ。
朝日が、強く高い陽射しに変わろうとする頃、俺は少しだけ動く気力が湧いて来た。水分と栄養を取らないと。それから風呂に入って、睡眠もとらないと。頭が正常に働き始めた。そのうちに、ふと去って行った影法師を思い出し、俺は根拠などないままに何か妙に解放されたような気分になって、勇気が湧いて来た。
食おう。

俺はよろよろとした足取りのまま、近くのコンビニに向かった。店員はあまりにも不健康そうで薄汚れた、体臭の臭い虚ろな男が入ってきたので、少し顔をしかめて同僚の店員とコソコソと何かを話していたようだったが、そんなことは今はどうでもよかった。
俺は消化の良さそうな食品と、ビタミン系のゼリー食品、栄養ドリンク数種、野菜ジュース、アイソトニック飲料、ビタミンサプリなどを買い込んで、部屋に戻った。買い物をどさりとテーブルに置くなり、アイソトニック飲料を開け、喉を鳴らして飲んだ。生き返ったような気がした。軽くゼリー食品をすすり、パンを少しかじった。ビタミンサプリを野菜ジュースで流し込んだ頃には、風呂に入る元気が出てきた。
久しぶりに風呂が気持ちいいと感じた。壁の気味悪いシミも、なぜか怖くなかった。何の確証もないが、どういうわけか今晩はあの影法師の幽霊は来ないような、そんな自信のようなものがあった。何故だろう?
果たして、その晩は何一つ起こらなかった。窓も鳴らないし、ゴミ箱も動かない。何の気配も感じない。本当に、本当に久しぶりに俺はスッキリした体に栄養素を少しずつ染みこませながら、回復することが出来るような気がした。んー、と大きく背伸びをして、はぁーと息を吐いた。俺は、カフェインの入っていない栄養ドリンクを1本飲んで、早い時間にベッドに横になった。ベッドではぁと息を吐いたかと思うと、俺は泥のように眠り込んでいた。

深夜、時計の針の小さな音が不思議と響きすぎるような気がした俺は薄目を開けた。そして、壁掛け時計があまりにも間近にあることに驚いて目を覚ました。はっとなって俺は周りを見渡した。視点が高い。ぎょっとなって下を見ると、俺が眠っている。死体みたいではないけれど、明らかに昨日と同じ状態だった。慌てて後ろ頭をまさぐる。また同じようにヒモの感触を手に感じて、俺は大きくため息をついた。焦ってはいたが、昨晩よりずっと冷静だった。また俺は浮いている。
自分の手足を確認する。昨晩のように足はぼやけていない。妙にはっきりくっきりと体は寝ている僕と全く同じ格好をしている。改めて恐怖が襲ってはきたが、昨晩の経験が俺を少しだけ落ち着かせた。初めてじゃない。昨日は戻れた。落ち着け、何とかなるはずだ。
昨日は何かに押されるような感覚で下に下りた。同じような感覚を思い出してみよう。押される感覚。いや、自分が重くなる感覚?よくわからないが、冷静に気持ちを下降へ下降へと向けてみる。思い切り深呼吸をして、はぁーと息を吐くたびに沈んでいくような気持ちを取り入れてみた。わずかに下に下がった気がした。
気持ちだ、気持ち。下がる気持ち。心地よく下がっていく気持ち。沈んでいく。体が徐々に沈んでいく。このまますーっと沈む感じ。静かに、ゆっくり。
ゆっくり。
ゆっくり。

けたたましい目覚まし時計の音で、はっと俺は目を覚ました。がばっと起き上がって、自分の手を見る。ちゃんと戻ってる。夢かもしれないけど、大丈夫。
それから俺は毎晩、夢とも現実ともしれないその“幽体離脱”を体験した。その度に、体に戻るコツも掴んできた。夢にしてはよくできているが、夢に違いないと思いつつ、毎晩のことなのでまるでトレーニングでもしているように、俺はこの夢を自在に操れるようになってきた。
次第に俺は、上下だけでなく前後左右にも移動ができるようになっていた。動けるようになると奇妙に楽しいもので、俺は夢の中で部屋の中を飛び回った。もちろん、夢なので何もさわれないが、ふわりふわりと浮いたり沈んだりしながら空中遊泳する気分は、なんとも気持ちのいいものだった。本当に毎晩見るので、奇妙な夢だと思うようになってはいたが、不快ではないだけに、深くは考えなかった。
部屋の中を飛び回るのに飽きてきた俺は、欲が出てきた。もしかして、外には出れないもんだろうか?物にさわれないということは、すり抜けると言うこと。もしかして窓もすり抜けるんじゃないだろうか?いや、それで戻れなくなったらどうする、死ぬかもしれない。散々葛藤した挙句、俺はゆっくりと右手だけを窓の外に出してみることにした。
窓に手を近づける。窓に当たった。感触はない。少し押してみる。中指が消えた。外のなまぬるい空気を中指が感じている。思い切って、ぐっと押してみる。手首までが外に出た!俺は慌てて手を引っ込めた。まじまじと右手をみるが、なにも変わったところはない。いけるんじゃないかと言う気持ちが僕の中にふつふつと湧き上がってきた。問題は完全に体が出てしまってから、戻れるかどうかだ。これは賭けだ。
敬介、賭けてみるか?
なんだか冒険者のような気分で俺は俺に問いかけた。
よし、行こう。
俺は、右手からゆっくりと窓に近づき、ぐっと外に向かって突き出してみた。右手はすぅと窓に吸い込まれるように消え、代わりに外の空気を掴むように動かすことができた。そのまま肩口まで滑り込み、右足を差し出す。それもすぅと吸い込まれる。いける。俺はそのまま体を窓に押し当てるようにぐっと進めて下半身から外に向かって身を乗り出した。そして最後にゆっくりと顔を窓に近づけ、そのまま外に向かって押し出した。眼球の前を窓ガラスの断面が過ぎていく。すっと全ての部分が外に出た瞬間、俺は逃げるように部屋に向かって戻った。また窓ガラスをすり抜けて、俺は無事部屋に戻ってきた。
出れるじゃないか!
これは大発見だ。俺は浮いたまま外に出ることができる。しかも窓ガラスをすり抜けて。息が荒かった。妙に疲れた俺は、今日はここまで、と独り言を言って自分の体に戻った。

やけに楽しい夢じゃないか!俺は数日前まで悲惨な状態にあったことすら忘れたかのように、この夢に没頭した。しかも、ちゃんと毎晩見れる。もしかして現実なのかもしれないとさえ思ったが、そこはさすがに信じられなかった。
俺は毎晩、楽しく空中遊泳した。外にも何度か出た。あまり遠くまでは行かないが、アパートの周りをうろつく位はできるようになった。俺は有頂天だった。ふわり、ふわりと空中遊泳をするのが楽しくて仕方なかった。そうやって彷徨っているうちに、俺はとんでもないものと出会うのである。


『夢』

俺は相変わらず楽しく空中遊泳をしていた。遊泳距離は日に日に伸びて行き、キャンパス程度までも行ける様になった。電柱も電線もすり抜けるから、なにも気にしなくて良い。夜のこの世界が、まるで自分のものにでもなったような気分で、俺は飛びまわった。それほどスピードが出るわけではないが、水泳の平泳ぎ程度の速さは出る。気持ち良いなんってもんじゃなかった。
浮かれて飛び回る俺は、その背後にいるものに気がつかなかったのだ。

「浮きやがって、死にゃあよかったものをよ!」

俺はあまりに突然のことにビクリを体を硬直させた。そのせいで思わずバランスを崩し、落下しそうになった。慌てて体勢を立て直した視線の先には、

あの黒い影法師の男がいた。

一瞬にして、あの時の恐怖が甦った。全身に冷や汗が吹き出るような感覚に襲われ、口がきけなかった。
驚いて、あうあう言っている俺に、影法師は猛然と突っ込んできた。そして俺の眼前で急停止して、俺の顔から数センチのところに無精髭の強面を近づけて目をかっと見開いた。
「ふらふらしてんじゃねぇぞぉ、コラァ。邪魔なんだよぉ、新入りぃ!」
俺は、あうあうと呻くことしかできなかった。
「脅かして、衰弱死もおもしれぇと思ってたのによぉ、死ねやぁクソが。」
何故か俺は、スミマセン、、、と小声で謝っていた。
「ゲヘヘヘヘ!キモのちいせぇ野郎だ。ゲヘヘヘヘ!ゲヘヘヘヘヘッ!」
影法師は下品な笑い声を大声で上げながら、そのまま猛スピードで俺の前から去って行った。俺の心臓は早鐘のように鳴っていた。ふらふらとどこを飛んだのやらわからないような状態で自分の部屋にたどり着き、体に戻ると意識を失った。

あれは、夢ではなかったのか。俺を襲った幽霊にまた出くわしてしまうとは。これが夢なら、間違いなく俺のトラウマのなせる業だ。
夢でないとしたら?俺は本当に体から離れて空中遊泳をし、そして俺を脅かしていた影法師も実際に存在する。幽霊と言っていいのか?昨晩の影法師の言葉が甦る。
「新入り」「衰弱死」「死ね」・・・
夢にしてはリアルすぎる。自分の脳みそが作った虚構の世界とはとても思えない。特に引っ掛かったのが「新入り」という言葉だ。「新入り」つまり、そう言うモノの集団が存在するということ。影法師は、俺より長い間そういうモノでありつづけているということ。俺は、そういうモノになりたての「新入り」だということ。そう考えると辻褄が合う。つまりは、幽体離脱者の集団、もしくは同じ境遇の存在の証明。
そう考えて、俺ははっとした。すぅと恐怖が消えていくのが分かった。なんだ、俺を恐怖に陥れていたものは、霊なんかじゃない、幽体離脱したあの男が勝手に俺の部屋に入って散々悪さをしていっただけなのだと。逆に、俺も誰かの部屋に入って悪さをすれば同じ恐怖を与えることができるということになる。ちょっと大介で試してみるか、なんていう意地悪な感情さえ浮かんできた。いや、ちょっと待て。俺は今、何一つさわることができないが、影法師はゴミ箱を倒したり、コンロに火を点けたりした。姿も見せることができたし、笑い声も聞こえた。俺ができないだけなのか、それともやっぱり本当の幽霊なのか。そう、どれにしたって全てのことが“夢じゃないならば”の話だ。

俺は、この現象が夢なのか、そうでないのか、確かめることにした。そこは大介を利用させてもらう。すまん、大介。
その晩、俺は早めに就寝し、いつも通りに空中遊泳の夢(?)に入った。ふらりふらりと大介のアパートに向かった。途中でまたあの影法師に出会う可能性もあったが、少しずつ正体が分かってきた現時点では、昨日までの恐怖はなかった。
俺は、大介の部屋の前まできた。大介が夜中に何をしているのかを見て、明日、本人に確認したことが一致すれば、これは現実と言うことになる。夢ではそうはいかない。大介のプライベートに介入する申し訳なさはあるものの、そこはまぁカンベンしてもらおう、と都合よく自分を納得させた。
俺は、すぃと大介の部屋の窓から顔だけを覗き入れた。大介はいつもの小汚い格好で寝そべり、ポリポリと太ももを掻きながら携帯で電話をしていた。
「だからぁ、文哉も雅司も呼ぶからさぁ。イケメンでいいっしょ?あとはオレと茂ちゃんと、、、敬介?敬介は最近なんかヘンだからさ、やめとこ。」
何だコイツ、何かの打ち合わせか?
「で、そっちはどうよ?景子ちゃん、来んの?OK!OK!いーっすねぇ!あとはヨッシーにお任せすっからさ。イイトコ、見繕ってきてよ。な?じゃ、今度の金曜日で!うおっし、うっけーい、ではでは♪」
げ、合コンの打ち合わせか・・・。節操ないね、大介も。しかも俺はハミってコト?まぁ、別にどうでもいいけどね、興味ないから。まぁいいや、これで情報は得られた。明日、大介に確認してみればOKだ。俺ははやる心を抑えつつ、自宅に戻り明日を待つことにした。

「よ、大介。ひさしー。」
俺はキャンパスで大介を呼び止めた。のろりと振り返った大介は、なんだ、といった感じの顔で左手を上げた。
「敬介じゃん」
先日の幽霊騒ぎで泊めてもらった時のことが尾を引いているのか、大介の顔にはあまり絡みたくないといった色が僅かに滲んでいた。それはそれで仕方ない。俺も十分恐怖を味わった。気持ちはよくわかる。あまり長話をしそうな気配でもないので、俺は単刀直入に切り出した。
「あ、そうそう、今度の金曜日の合コンさー」何の話?ときたら夢。慌てたら現実。
さあ、どう出る?大介。
大介は、ギョッとした顔になって僕の方を見た。
「合コン?き、金曜日の?」
とっさに取り繕う言葉を見つけることができずに、大介は言葉を詰まらせた。
「俺、行けそうにないんでさ、大介たち、楽しんできてよ。」
大介の目が泳いでいた。
「え、あ、うん、ああ、そうするよ。ざ、残念だな・・・はは、ははは」

確定だ。あれは夢じゃない。


『遊泳』

それからというもの、俺はこの現実の空中遊泳を楽しむことにした。俺を脅かしてきたあの影法師も、幽体離脱の一人だ。そう思えば、それ程怖くはない。ただ、今の俺にはできないことができると言う点だけは恐怖を感じるが、とりあえず得体の知れないものではないというだけで、全然状況は違った。
とにかく今は、現状を楽しみたい。そして、できるならできるだけ早く飛んだり、物に触ったりできるようになりたい。まぁ、そのへんは置いておいて、楽しもうじゃないか。誰にも見えない、どこでもなんでもすり抜ける、さわれないけど。
さて、となると飛んでるだけじゃ飽きてくる。どこかに入りたくなってくる。どこにって?そんなもん、健全な青少年男子が考えることといったら、みんな一緒だ。
女子寮?銭湯?更衣室?うっひっひ。
俺は下卑た笑いを浮かべながら、そこいら中を彷徨った。銭湯はオバちゃん臭そうだな。ここはやっぱり女子寮でしょうか?ですねー。女子寮のお風呂、これしかない!と俺はみっともない平泳ぎのような格好で、よいしょよいしょとキャンパス近くの東南大学女子寮へと向かった。
街はまだ9時前、どの家にも明かりが灯り、夕食から憩いの時間をすごす家庭の温かい光で満ち溢れている。俺は鼻歌まじりでそれらの灯りを追い越して、目的の場所へと向かった。
キャンパスを越えて、大き目の交差点を越え、さらに線路を跨いだ先にお目当ての女子寮はあった。現場に着いた俺は、周囲をぐるりと回り、風呂場の窓を探した。一階のひときわ目立たない裏手の窓から、水音が聞こえてきた。女の子らしき声も聞こえる。
こ・こ・だー
俺は獲物を見つけた野獣のごとく、ふんふんと鼻を鳴らした。

しっつれい、いたしまーす!

超特急で俺は浴室の窓に突進した。

そして勢いよくその窓に、激突した!

そう、俺はすり抜けられなかったのだ。浴室の窓にしたたか顔面を打ち付けて、ずるずると地面に転げ落ちた。俺は何が起こったのかわからなかった。
何故?なんで?
もう一度、今度はゆっくりと窓に手を触れる。硬い。まったくすり抜けられない。じゃ、壁は?横の壁に手をずらしてチョップのように手をかざす。ガンとぶち当たって、俺は痛みで手を押さえた。
な、なんで?そんなはず、ないよね?
窓際でおろおろと考え込む俺の後ろで、突然ケラケラと甲高い女の笑い声が聞こえた。

「新入り君~、入れないトコには入れないの~ん、ザンネ~ン」
そういってまたケラケラと笑い声が聞こえた。
俺が振り返って見ると、敷地内に大きなクスノキが立っていた。その少し高い位置で木の枝に腰掛けるように座り、足を組んだ人影が見えた。
「だれだ?」
俺は、人影に向かって叫んだ。俺は誰にも見えないはずだ。同じ幽体離脱のモノ以外には。
影は大変不満そうにこう言った。
「先輩に向かって、だれだ、とは口の効き方がなってないなぁ~、新入り君~」
俺はふわりと宙に浮かんで平泳ぎのような不恰好な姿勢で、声の主の方に近づいた。その若い女性の声をした影は、暗い木の枝にかくれてあまりはっきりとは見えなかったが、近づいていくにしたがって学生服を着た少女であることが分かった。高校生くらいだろうか、肩より少し長い真っすぐな髪を、少しだけ内側にカールさせていた。足を組んで、膝の上にひじをつき、手の平に顎を乗せたままニヤニヤと笑うその少女は、少し小悪魔的な上目遣いの眼差しで俺を見ていた。
「まぁまぁ、お座りよ。新入り君。」
ちょっと小バカにするような言い方でそう言って、ぽんぽんと自分の横の木の枝を叩いて彼女はまたニヤニヤと俺を見た。そう言われても俺は何にもさわれない。木の枝に座ることもできない。すり抜けてしまうから。なのに、何故さっきは窓にぶつかったんだ?
「そっか、新入り君だから、まだ何にもさわれないんだ。じゃ、しょうがないね~。」
彼女は、本当はそれを知っていたのにわざと言った、という感じだった。俺は、いぶかしそうな顔で彼女に聞いた。
「キミ、だれ?」
彼女は、ちょっとふくれっ面のような顔をしたかと思うと、
「ほぉら、またぁ。先輩に向かって口の効き方がなってないよって、言ってるのにさぁ。ダメだよ、新入り君~。」
どう見ても高校生くらいの、しかも学生服を着た年下っぽい少女に、先輩と言われてもどうにも納得しにくい。
「先輩っつっても、高校生じゃん。自分。」
彼女は、右の眉を吊り上げて、ふふん、と鼻を上に向けて自慢げに言った。
「なぁに言ってんの。アタシは浮遊歴1年8ヶ月のベテランよ~。昨日今日、浮遊を始めたような新入り君とは格が違うんだって。ワカル?キミ、何歳よ?」
いきなりの質問におれは面食らった。
「え?えっと、俺?じゅ、19歳だけど。」
「なぁんだ、アタシなんてね~、延べで言うと20歳なんだから。どっちにしたって先輩じゃん。頭が高いよ。ひかえおろう~。」
彼女は、ケラケラと笑い、ほらみろと言わんばかりの顔で、ふふんと見返した。
「なんだそれ、よくわかんねーよ。高校生だろ?」
「違うって、格好がそうなだけで、延べ20歳なの。わっかんないなぁ、もう。」
俺は頭を抱えて、はぁ、とため息をついた。
「わかった。20歳ね。わかったから、さっきの、教えてくれよ。『入れないトコには入れない』ってどういうことよ?」
彼女は、チラリと俺の方を見て、ぷいっと横を向き、
「?え?ナニナニ?教えて・・・?えー、ナニ?」
うわー、なんだこいつ。えっらそうに!
「・・・くっそー。・・・教えて、ください!」
俺は不承不承、頭を下げた。彼女は勝った、とばかりにニヘッと笑って、言った。
「仕方ないねぇ。教えてしんぜよう~、新入り君。」
彼女は、うぉっほん、と咳払いのような仕草をした後、語り始めた。
「キミさ、どこでも何でもすり抜けれると思ってるでしょ。違うんだな~、これが。」
彼女は人差し指をピッピッと振って言った。
「すり抜けれるのは、キミがキミのモラルの中で、当然これはすり抜けてもいい、と認識しているものだけ。無意識でね。自宅とか、学校とか、友達ンちとか、公共施設とかね。んでー、逆にキミがキミのモラルの中で、ここは入っちゃダメだって思ってる場所、そこにはざーんねんながら、入れませーん。」
彼女は両手で大きくバツの印を出した。
「ま、分かりやすく言うとね、今みたいに女子寮のお風呂とか、女湯とかね、女の人のマンションの部屋とかさ、女子トイレとか、あと他にも無意識に自分でダメって思ってる場所もダメね。例えばちょっと悪いことしてた人とかだったら、ケーサツとかも入れないよね。ワカル?これは人によって違うのよ。いいかな?新入り君~。」
聞きながら、何で俺はこんな高校生みたいなのに講釈垂れられなきゃならんのだ、と思ってはみたものの、どうやら浮遊に関する知識や経験ではどうにも俺より物知りらしい。
「だからー、キミはイイのよ~。窓に激突したことを自慢しちゃって。」
彼女は横目で俺をチラリと見て、アハッと笑った。
「女湯に入っちゃダメって無意識でわかってるんでしょ?良識あるじゃん。エライ、エライ。これが良識のない悪人だと、女湯だって入れちゃうんだからさ。ま、逆に考えれば不公平なハナシよねぇ~。」
説明を聞いていた俺は、ナルホド、と納得した、と同時にかなりガッカリした。
「はぁ~、なるほどー、そういうこと。。。」
と、カクンと首をうなだれると、彼女がポンポンと俺の肩をたたいた。
「まぁ、そうガッカリしなさんな。エッチなこと以外でもなんかイイコトあるって。」
ぐっと親指を立ててOKマークを出した後、またケラケラと笑った。
その笑い声を聞いていた俺は、もう一つ聞きたいことに思い当たった。
「そうだ!じゃ、物にさわれるようにはなれるのか?」
彼女は腕を組んで、先生のように答えた。
「ほほう、そっちにくるかー。ふむふむ。」
俺は何か教えてくれるものと思って、期待して彼女を見た。
彼女は人差し指を顎にトントンと当てて、少し考えるような仕草をした後、言った。
「それはねー、、、また追い追いってコトで。そろそろ時間も長くなってきてるし、キミ、帰んないと。ホラホラ。」
「ちょ、ちょっと!それどういうことよ!時間、関係あんの?」
「そだよ。あんまし長い時間、本体と離れてると、切れちゃうよ。死んじゃうよ。ホラ、お帰り。新入り君。」
彼女は右手で、しっしっと犬を追い払うようにした。
「死んじゃう!?マジ?わ、わかった!わかったから、今度もっといろいろ詳しく教えて!えー、いや、教えて、ください!」
彼女はニッと笑って言った。
「いい心がけだぞよ、新入り君。じゃ、新入り君の名前を聞いとこか。」
俺は必死で木から飛び去りながら答えた。
「敬介、佐倉敬介!」
「ふーん、敬介くんね。オッケー。アタシ、由里子。じゃ、まったねー。」
彼女は、ぱたぱたと手を振りながら笑っていた。


『残像』

時間がたちすぎると死ぬ、と言われて、大慌てて自宅に戻ってみたものの、自分の体に戻って落ち着いてよく考えてみると、もう一度彼女と会える保証がない。どこにいるのか、いついるのか、サッパリわからないのだ。かろうじて名前だけは分かった。由里子、と彼女は言った。
とりあえず彼女から聞いて分かったことは、人によってすり抜けられるところは限られてくると言うこと。下品な欲望のためにすり抜けを使うのは難しそうだと言うこと。幽体離脱して時間が経ちすぎると、本体との関わりが切れて死んでしまう可能性があると言うこと。その時間がどれくらいかはわからない。それから、訓練か経験かはわからないが、物に触ったりできるようになることは可能であること。彼女が木に座っていたことや、影法師がいろいろさわれたことからもわかる。
だが、まだ聞きたいことは沢山あった。夜が来るのを待って、俺は浮遊の旅に出た。彼女を探すのが最大の目的だが、当てはない。ダメ元でふらふらしてみるつもりだった。とりあえず、昨晩会った女子寮に行ってみた。が、そこに彼女はいなかった。あてどなくふらついてみたが、結局会うことはできないまま、時間制限の方が気になって、アパートに戻った。
アパートで自分の体に戻る前に、意識の離れた自分がどうなっているか、よーく観察してみた。確かに、出かける時に比べて、呼吸の速度が落ちている。簡単に言えば段々と生命力が失われていく感じだ。いわば脳みそだけが離れてしまっているようなものだから、やがて生命活動そのものに支障が出ると言うのも頷けない話ではない。
とりあえず今日はここまで、と自分の体に戻った。

翌日、翌々日と、3日にわたって周辺界隈をうろついてみたが、結局彼女を見つけることはできなかった。暗がりの中でほんの少し会話しただけと言うこともあって、段々と顔も忘れかけてきて、もう会うこともないのかもな、と思いかけた4日目、忘れて楽しく遊泳していた俺は、会いたい相手どころか、逆に出会いたくない相手に出会ってしまった。
黒い影法師だ。前のように猛スピードで近づいてきたりすることもなく、ただ表情は以前のように忌々しそうに何処かへ向かって飛んでいた。俺のことをチラリとは見たが、何の興味も示さないかのようにそのまま飛んでいた。俺は勇気を振り絞って、逆に影法師に近づいていった。気付いた影法師は、ぴたりと止まって俺の方を向き直り、叫んだ。
「うぜぇんだよぉ!あっちいけぇ!」
以前ほどの恐怖を感じなくなっていた俺は、それでも構わず影法師に近づいていった。影法師は突然可笑しそうに笑いながら言った。
「ゲヘ!ゲヘヘヘ!死にてぇのか!お前なんざにゃ、もう興味ねぇんだよ!他の遊び相手を見つけたんだぁ。うせやがれ!ゲヘヘヘヘヘッ!」
俺はわざと丁寧に言った。
「以前はお世話になりました。お蔭様で今は楽しくやれています。」
影法師は、意外といった顔をして叫んだ。
「ゲヘヘッ!なぁに言ってんだぁ、ガキ!殺すぞ!ゲヘヘヘヘッ!!」
俺はその言葉を無視して、続けた。
「すみませんが、あなたをこの界隈に詳しい方とお見受けしてお伺いいたします。由里子という女の子を知りませんか。」
影法師は、さらに意外といった顔をして、不思議と真面目な顔をして答えた。
「ゲヘッ、はぁ?由里子?あぁ、あのガキか。」
「知ってるんですか?」
影法師は、あぁうっとおしい、という顔をしていたが、ぼそっと言った。
「県病院の大銀杏だろ。うぜぇ、うせろ!ゲヘヘヘヘッ!!!」
そう言って、またすごいスピードで何処かへと去って行った。
県病院の大銀杏。
街で一番大きい病院のシンボルマークのような存在。建物の東に聳え立つ大きな銀杏の木。俺は、とにかくそこに行ってみることにした。

県立和泉病院。略して県病院。この界隈では一番大きな総合病院で、救急、ICU、総合診療はもちろん、ガンセンターなども併設したかなり大きな病院だ。その一番東、ICUのある棟に隣接するように、巨大な銀杏の木が生えている。
俺がそこにたどり着くと、暗い銀杏の木の枝の隙間に、人影らしきものを発見した。まだ少し不器用な泳ぎ方で近づくと、影法師の言った通り、それは由里子だった。彼女は先日と同じように学生服を着たままだった。俺が近づいていることに気付かないようで、先日あった時のさばさばと明るい感じとは打って変わって、何か物悲しさを滲ませるようにうつむいて枝に腰掛けていた。
さらに近づいていくと、さすがに俺に気付いたようで、はっと顔をあげて少し驚いたような顔をしたかと思ったら、すぐに先日のような表情に戻っていた。
「あっれ~、なんだー、新入り君じゃ~ん!じゃなかったっけ、えーと、、、」
また彼女は人差し指を顎に当てて少し考える仕草をした後、
「あ、そうだ!敬介、敬介くんね!そそ、わっすれてたよー、ごめんねー」
と、照れくさそうに、でも先日と同じようにケラケラと笑った。
「忘れてたじゃねぇよ、色々教えてくれって言ったじゃん!」
4日も探した俺は、少し苛立った風に言った。
「あ、ほらまたぁ~、先輩だって言ってんじゃん。敬語、知んないの~?敬介くん。由里子先輩、色々教えてください、でしょってばさ。」
ガックリと肩を落として俺はあきらめ顔で言った。
「はいはい、色々教えて、ください。由里子先輩さま。」
彼女は得意顔になって言った。
「ハイ、よろしい。やればできる子だもんね~、敬介くんは。」
「へぇへぇ、でも由里子先輩っつーのは、どうも。。。由里子さん、くらいでどんなもんで?」
彼女はくいっと右眉をあげて、しょうがないナ、とでも言いたげだった。
「ふーん、ま、いいでしょ。さん付けを許可いたすー。」

彼女が腰掛けているのは大銀杏でもかなり高い位置だ。そのあたりからだと、ICUの窓が全て見え、ブラインドが開いているときは、その中がよく見える。影法師がすぐにここの場所を言ったということは、どうやらここが彼女のお気に入りの場所ということになりそうだ。病院の、しかもICUのすぐ見える場所と言うのも、あまり趣味のいい場所とはいい難い気もするが。俺はまだ枝に腰掛けることができないので、彼女の横でふわふわと浮いたまま話をした。
「で、由里子さん、まずどうやって物にさわれるようになるのさ。」
彼女は、しばらくじっとICUの中を覗き込むように眺めていた。おもむろにぽつっと言った。
「わかんない」
「は?」
俺は、ちゃんと答えが返ってくるものとばかり思っていただけに、愕然とした。彼女は、くるっと俺の方を向いて、ニッと笑ってもう一回言った。
「わかんない」
「いや!わかんない、じゃないっしょ!実際、枝に腰掛けてんじゃん!?」
彼女は、ぷうっとふくれっ面になって言い返した。
「だって、ホントだもん。これこれ、こうすればさわれるとかっての、ないんだもん。」
「ええーっ!どういうことよ、それ!?」
彼女はまた、えへん、と言う感じで先生ぶった表情をして語り始めた。
「しょうがないなぁー、もう。分かりやすく言うとだねー、カン!カン、よ!なんての?こう、何かのきっかけに不意に何かに触れた気がして、あー、こんな感じなんだー、みたいな感覚を繰り返し思い出してたら、いつの間にか「物」ってものがどんな感じのものかわかるようになる、ってスンポーよ。「物」が「ある」って思ったら、「ある」の!わっかんないかな~。」
もう、こまったちゃんだねぇ、と呟きながら彼女はため息をついた。
「わっかんないかな~、じゃなくて、わかんないよ!」
俺がごうを煮やして言うと、彼女は、はい、と左手を差し出した。
「ホラ、敬くん、アタシの手に触れる?ホレ、ホレ。」
俺の鼻っ面の先に手を差し出す彼女が、何を言いたいのかよくわからないまま、俺は彼女の手をパン、とはたいた。
「触れるよ!ほら!」
「でしょ?」
彼女はそう言って、はたいた俺の手をパッと握った。そして、そのまま銀杏の木の枝に自分の手と俺の手を当てて、言った。
「ホラ、今アタシは枝に触ってる。おんなじように敬くんも、今枝に触ってるの。ホントは触ってるんだよ。そこに枝は「ある」の。そこに「ある」って感覚、わかる?これに気がついたら、何でもさわれるよ。」
じっと、握った手と手と枝を見つめながら、彼女はクッと顔をあげてニッと笑った。
「かぁっこいぃ~、由里子先生ってば、なんかカッコいくない?えっへー。」
俺は思わず苦笑した。わけわかんないけど、なんだか憎めない。
「なんか、わかったような、わかんないような。ま、いいや。ありがとう。ちょっとトレーニングしてみるよ。」
「うむ、がんばりたまえ。」
どうにも、調子の狂う子だ。俺は、触る話は置いといて、次の話題に移った。
「ハイ、じゃ、由里子さん。もいっこ質問、いいっすか。」
「うむ、なんでも聞くが良い」
よくわからない言葉遣いで、彼女がニッと笑った。
「幽体離脱して時間が経ち過ぎると、切れちゃうとか、死んじゃうとかって言ってたでしょ。それってどれくらいの時間なの?」
先日、自分でも離脱直後と、4時間して戻った時を見比べたら、少し呼吸速度が落ちていた。顔色も少し悪かった。呼吸や血行、新陳代謝とかが落ちているのは明白だった。しかし、どこが限界か分からなければ困る。
「わかんない、はナシ!」
「わ!今言おうと思ったのに!ひどい、敬くん!」
彼女が拗ねたように眉根を寄せた。と思ったら、ニヘッと笑って言った。
「うそうそ、大体わかるよ~。そだね~、だいたい7時間から8時間が限界かな~。夜早くに抜け出てから、朝帰りはちょっとムリ、て感じ?」
おお、今度はまともな答えが返ってきた、と俺は少し感動した。とすると、新たな疑問が出てきた。
「じゃ、それ過ぎちゃったら、どうなんの?」
彼女がちょっと意地悪そうな顔をして、でも少し深刻に答えた。
「簡単に言えば、『脳死』。だってさ、脳の機能もひっくるめてこっちに飛んで来ちゃってるんだもんさ。一応、線で繋がってはいるけど、時間が立つとどんどん細くなって、そのうち切れちゃうの。そしたら、『脳死』。でしょ?」
うわ、シビアな回答だ。確かに、今、後ろ頭にヒモのような線が繋がってる。つまり、これが切れたら脳死ってことか…。
「コワ…。」
「あ、ついでに言っといてあげちゃお。あんまし遠くに離れすぎるのもブー、だからね。」
彼女はまた両手で大きくバツの印をかたどった。
「線はそんなに伸びないんだからさ、どこまででも行けたりしないんだよ~。トーゼンじゃん。無限だったら世界一周できちゃうよ。そりゃアタシも、モン・サン・ミッシェルとか見てみたいけどさ~、さすがにね~~~アハハ」
そうか、距離もある程度制限を受けるんだ、俺は頭の中にいろいろな情報を叩き込んだ。
「で、その距離とはいかな程度で?由里子先生。」
「うむ、半径10kmってとこじゃろうのう。」
どこぞの老師か、と言いたくなるように腕組みをして、うむうむ、と頷いている。
「今日はいろいろと、ありがとうございました!師匠!」
「なに、師匠なんていわれると、照れちゃうじゃ~ん!」
バン!と俺の肩を叩く。いや、そこは冗談ですよ、マジ照れんとってよ、と言いたくなったが、これも彼女の「素」だ。面白いと言えば面白い。
「で、由里子さんはここがお気に入りの場所なの?」
他愛ない話に戻したつもりだった。が、予想外にも、彼女の反応は暗いものだった。
「・・・ん、まぁね。」
意外な表情の暗さに、俺は少し慌ててしまった。俺は取り繕うように言った。
「そうだ、由里子さん。まだ時間大丈夫なら、どっか遊びに行かない?」
少し表情に明るみが差したことに俺はほっとした。
「どっかって、どこさ?」
「どこって・・・、・・・マックとか?」
「食べれないじゃん。」
「・・・あ、そうか。じゃ・・・、ウィッキーランドとか。」
「夜中じゃん。」
「・・・そ、そうだよね。・・・えーと・・・」
彼女はうろたえる俺を見ながら、エヘッと笑って、
「いいよぉ、もう。アハハ、敬くんてば、なにいってんのさ、夜中に行くトコなんかないじゃん。それよか、飛ぼうよ!空、ぎゅーんって!」
いいねぇ!と言おうとして、俺はまだ平泳ぎ程度の遊泳力しかないことを思い出した。俺はもごもごと口ごもる。
「・・・いいけど、俺、ぎゅーんなんて飛べないしさ…」
わかってるよぉ、と小さく彼女は呟いて、俺の手を取った。
「いいって!アタシが引っぱったげる!いっくよ~、ドン!」
彼女に手を掴まれて、急に飛び上がった俺たちは、猛スピードで天空へと駆け上がった。俺は、ただただ彼女に手を引っぱられるばかりで、目が回りそうな状態だったが、彼女は何かを吹っ切るように、スピードを上げ、楽しそうに笑っていた。
星が舞い、街灯が舞い、月が踊る。彼女は、本当に楽しそうに空を駆け巡った。俺はまるでジェットコースターにでも乗っているような気分だったが、とても高揚していた。ぐるんぐるんと回る景色と、彼女の楽しそうな笑い声だけが、いつまでも俺の心に残像を残していた。


『6日間』

それから俺は浮遊する時は、時々、県病院の大銀杏に顔を覗かせるようになった。何故か彼女は、大概そこにいた。たまにいないときもあったが、何をしていたのかと聞くと、
「そりゃもう、敬くんみたいな新入りを見つけてからかいに行くんだってば。大概、女風呂とか、女子寮とかで、窓に顔面ぶつけて鼻血出してんじゃん?これで遊ばずしてどーすんのよ。」
と、答える。が、そんなに頻繁に俺みたいな新入りが発生するのかと聞くと、そうでもないと答える。今ひとつ掴み所がない。
たまに2~3回行っても、ずっといないときもある。そんな時、どうしているのかは聞いたことがないが、彼女だって生身の本体があるのだろうし、毎晩浮遊しているわけでもないだろうから、あえては聞かない。

しかし、今日で6日目になるが、大銀杏に行っても彼女がいない。3~4日なら、まぁそんなこともあるだろう程度ではあるのだが、6日目ともなると一抹の淋しさを感じてしまう。よく考えたら、他に浮遊している人を俺は見たことがない。知っているのはあの黒影法師と、彼女だけだ。いつまでも一人で浮遊するのは、もう楽しくなくなってもきていた。俺はそれから5日ほど浮遊をしなかった。何かぽっかり穴があいたような気がして、飛ぶ気になれなかったのだ。
6日目の晩、僕はいつものように何事もなく布団に入った。浮遊する気もなく、ぼーっと布団に丸まっていた、その時、

バン!

窓ガラスが鳴った。一瞬、昔の恐怖が思い出されたが、今の俺にはそれは一蹴できる恐怖だった。またあの黒影法師かと思い、大きく息を吐いて布団に入った。寝て、幽体離脱して文句言ってやる。
俺は、すうっと眠りに入り、体が浮遊するのを感じた。よし、窓際!と思ってすっと近寄った時、窓の外に黒い影が現れた。

「敬~く~ん、あ~そ~ぼ!」

俺の緊張が一気に解けた。そこには彼女がふわりふわりと浮いていた。俺は窓をすり抜けて外に出て、叫んだ。
「由里子さん!ナニやってんの!ビックリすんじゃん!」
彼女はきょとんとした顔をして俺を見ていたが、またいつものようにニッと笑顔を浮かべて言った。
「最近、遊んでないじゃ~ん。なーんで遊びにこないのさ~」
ちょっと不服そうに口を尖らせて、彼女はくるりと宙返りした。
「な、なに言ってんの!行ったけど居なかったの、由里子さんじゃん!」
彼女は少し俯いて何かを考えるようにしていたが、ふいに顔をあげてまたニッと笑った。
「とりあえず、遊ぼ!なーんでも質問、由里子先生が答えてあげるからさ~」
彼女は俺の手を引いて空に舞い上がった。
俺たちはひとしきり飛び回った後、いろんなところに行った。俺はワンモアトライ!と言って、女子寮の風呂場に突っ込んでみたが、あえなく玉砕し、さんざん彼女にケラケラと笑われた。遊園地の観覧車のてっぺんに立ってみたりした。水族館の魚の水槽の中に突っ込んでみたりもした。彼女のケラケラと笑う声が、俺の左側で心地よく響いた。

俺たちは大銀杏に腰掛けていた。といっても、俺のは腰掛けているフリ。実際には浮いているだけだけど。楽しかった浮遊旅行の後の脱力感のようなものに二人は支配されていた。
俺は、不意に彼女に質問を投げかけた。
「6日間、どこいってたのさ」
彼女は、ぴくりと反応したがそのまま俯いて黙っていた。しばらく、沈黙が二人を包んだ。と、突然、彼女が口を開いた。
「ICUでさ、また一人死んだの。事故でね、頚椎を折って意識不明のままICUに運ばれてきて、でもそのまま死んじゃったの。」
彼女が何を言わんとしているのか、俺にはわからなかった。
「アタシね、その人が死ぬ前に意識が、まだどっかで彷徨ってるんじゃないかと思ったんだ。本当に死んじゃう前だったら間に合うかもしれないし。」
何故か彼女は、その人と自分を重ね合わせるようにしながら語った。
「彷徨うって、つらいんだ。わかるの。だからアタシ、探したんだ。でも、結局見つからなかった。もしかしたら見つけられなかっただけかもしれないし、彷徨うこともなく行くべきところを見つけたのかもしれない。わかんないけどね。でも、結局死んじゃった。意識も見つからなかった。アタシにはわかんない。」
彼女はまた少し沈黙した。すっと顔を上げたかと思うと、声の感じががらりと明るく変わっていた。
「ダメだー、って思ったらさぁ。なーんかスカッとしたくなっちゃってさ!だもんで、こりゃもう敬くんと飛び回っちゃれ!と思ったらさぁ~っ!」
少し小さな声になって、
「思ったらさぁ~…」
彼女の声が急に涙声になったのがわかった。
「敬くん、来ないじゃん。」
彼女の声が嗚咽に変わった。俺は、思わず彼女の肩を抱いていた。彼女は、俺の胸にもたれかかって、しばらくの間泣いていた。


『ココアとアップルパイ』

それからしばらくの間は、毎日大銀杏に顔を出すのが日課になっていた。俺が行くと、いつも彼女はいた。じっとICUの窓の中を覗き込んでいた。大銀杏の枝の上では、他愛ない話をするのがいつものパターンだった。俺は昨日見た映画が下らなかったとか、キャンパスの学食がまずいとか、そんな話ばっかりだった。彼女は、あの明るいしゃべり口と声色に反して、アタシは何にもしてないから、話すことがない、といつも聞き役に回りたがった。
「いーじゃん!敬くん、ガンガン話してよ。これは先輩の命令である!先輩の命令はきくべし!きくべし!!きくべしっ!!!」
そういって景気よくスパーンと俺の肩を叩いた。しかし俺は、そろそろ彼女の話も聞きたくて仕方なかったので、無難なところから探ってみることにした。
「そういや、由里子さん、いっつも制服じゃん。他の服、着ないの?」
彼女の制服は紺と白のセーラー服で、今はもう夏だと言うのに冬服のままだった。彼女は、ニヤリと笑って、答えた。
「おっ、ナニナニ?アタシの私服姿が見たいって?そりゃ10年早いってモンよぉ~!アタシがばっちりコーディネートして来たりしたら、敬くん、キミ鼻血ブー、モンよ。ん?見たい?そうかそうか、年頃の少年はそういう刺激が欲しいか。」
なに、年下の格好して言ってんだか。
ヲホホホ、と彼女は笑って、
「ま、そのうちにゃ。」
結局、はぐらかされてしまった。
「いや、いいって。別に。見たいって言ってないから。」
「なにっ!聞き捨てならんな!よーし、わかった!今度は水着で来てやるもんね!思い知れよ~、由里子さんの悩殺ショットを~~~!・・・て、ウソつきました。ごめんなさい。」
「ハイハイ。ま、そのうちね。」
俺は笑って彼女の頭をポンポンと叩いた。彼女は「また先輩に~!」とか言ってプリプリ怒っていたが、まぁそれもいつものおふざけだ。

「じゃ、由里子さんの好物っちゃ、なに?」
ころっと機嫌が直って、彼女はニッとこっちを向いた。
「好物ぅ?いろいろあるかんね~。う~ん。」
と、彼女は指折り数え始めた。あれとこれと、あれもこれも、と10本の指では足りないくらい数え始めたので、全部聞くつもりはなかった俺はその行為をさえぎって、言った。
「一番好きなもの2つだけ!」
「えっ!2つ?!2つかぁ~。そうなると~~~、やっぱアレかな。ココアとアップルパイのセット!ホラ、和泉町の大通りにジュリアンってケーキハウスあるじゃん!あそこのココアとアップルパイのセットが、たんまらなく美味しくってさぁ~。もうね、昇天モンよ。ホント、ホント!」
俺はそれを聞いてげんなりとした。
「うっわー、ココアとアップルパイ。どっちも俺、大嫌いだ…。想像するのもやだね。ココアなんて粉っぽいしさぁ。甘ったるいだけで。アップルパイがまた、あの酸味と食感がもうダメ!よくあんなもん食うよな、って思・・・」
と、ここまで話したところで刺すような視線を感じて、俺はたじろいだ。
「ナニ!?ちょっと!そこまで全否定すんの?!ええ?!敬くん、ココアとアップルパイの精に謝ってよね~!許せないよ、それは!ムキー!」
わかった、わかった、悪かった、と俺が言うまで、彼女にポカポカと殴り続けられた。しかし、その後彼女は、ふと落ち着いて遠い目をした。
「でもねー、ココアはさ、アタシの姉ちゃんもすっごく大好きでさぁ。二人でよく、飲みにいったんだぁー。美味しかったよー。」
“いった”という過去形がふと気になって、思わず俺は聞き返した。
「へぇ、由里子さん、お姉さんいるんだ。」
ふぅ、と突然彼女は大きく息を吐いて、その後、またニッと笑って言った。
「いた、ってのが正解だけどね。もう死んじゃった。アタシが17の時に自殺しちゃったの。」
俺は慌てて謝った。
「ご、ごめん。ヘンなこと聞いて…」
彼女はいつも通りに笑って肩をすくめた。
「いいのさー、それはそれで。」
彼女はまた何かを思い出すような遠い目をしながら続けた。
「自殺だったけど、半年経ってお母さんの夢に出てきたんだって。今は幸せだから安心して、って。なんか、誰かに幸せにしてもらったんだって。お母さんは今でもその夢を信じてる。アタシもそれでいいと思う。だから、全然いいの。」
「そう、それならよかった。」
俺には、それしか返す言葉がなかった。身内の死に、俺は直面したことがない。そんな俺に、彼女にかける最適な言葉など、見つかるはずもなかった。


『来訪』

季節は夏から少しずつ、初秋の薫りを漂わせ始めた。蒸し暑い真夏の夜が、ほんのりと涼やかな風に変わり、朝夕が過ごしやすくなった頃、俺はトレーニングの成果を少しずつ発揮し始めていた。
まず、今より早く飛ぶこと。これは、かなり上達したと思う。自分なりのコツを掴んだと言うか、人が泳ぐようにではなく、魚が泳ぐような、そんな感覚。今では彼女と同じくらいの速さで飛ぶこともできたし、もしも黒影法師と出会っても、遜色なく張り合える気がしていた。
次に、物にさわれること。これはなかなか進まなかったが、そこに「ある」と言った彼女の感覚は、なんとなくわかるようになってきた。目とか気とかじゃなくて、なんとなく自己暗示みたいなもの。まだ枝に腰掛けることはできなかったけど、葉っぱを揺らす程度は時々できるようになった。別段、これができたからと言って何をするわけでもないし、したいことがあったわけでもない。けど、彼女や黒影法師ができて、俺にできないのは少々癪に障る。まぁ、これはそのうち感覚がつかめるさ、程度にしかやってないので、こんなもんだろう。

俺は彼女と大銀杏でよく会い、相変わらず下らない話をしていた。ただ、彼女は会いに行くと決まってそこにいて、俺が帰ってもまだそこにいる。時間が経ち過ぎると切れちゃうよ、という彼女の言葉を考えると、随分長い時間、彼女は大銀杏に腰掛けているような気がするのだが、それについて言及したことはない。

今日も相変わらず、ICUの窓をじっと眺めながら腰掛けていた。
「よー、今日は遅かったじゃーん、おめかしでもしてたの?ん?」
俺が近づくのを見つけた彼女は、右手をパタパタと振っていつものニッという笑みを見せた。
「なわけないっしょ。テスト期間中なんですー。高校生はないのかよ、中間テストとかさ。こっちは夏休み明けからガッツリ勉強しないと、前期テストで単位落としちゃうんだって。能天気だなー、相変わらず由里子さんは。」
そう、もうすぐ俺たちは前期末のテスト週間なのだ。これが終わると、前後期間の休みがたっぷりあって、またのんべんだらりとしたキャンパスライフが始まる。その前の試練だ。とりあえず今は、ノートの貸し借りとコピーに全力を尽くしている状態だが、もう少ししたらもっと真剣に勉強しないといけない。
「なっ!能天気とはご挨拶ねぇ~!アタシだって色々悩みやら忙しいことやら、山ほどあるっての。あー、ツライツライ。敬くんにはわかんないツラさよ~。」
そういって、こめかみに指を当てて左右に頭を振った。冗談っぽくはしていたが、その後、ポツリと呟いた。
「…マジでさ…」
俺はいつもの彼女から、ちょっと違和感を感じて思わず黙りこくってしまった。
少しの沈黙が訪れた後、俺ははっと思い出したように聞いた。
「あ、そうだ。由里子さんに聞きたかったんだよ。」
「?ナニ?スリーサイズ以外なら、万事解決したげるよ~。」
片目をつぶって親指を立て、OKマークを出しながら彼女がニヘッと笑った。
「なに言ってんの。いらないって、そんなの。じゃなくてさ、この浮遊って昼間でも問題なく出来るの?陽の光に当たると溶けちゃうとか、そういうのナシ?」
「はぁ?敬くん、ドラキュラぁ?溶けちゃうワケないじゃ~ん。昼寝しなよ、コツを知ってるなら全然問題なく浮いちゃうからさ~。問題なのは時間と距離くらいのモンだって。単に夜、寝るからソッチの方が多いってだけ。昼、飛んでご覧よ。それはそれで気持ちイイよぉ~。」
彼女は、ブーンと言いながら飛行機のように空を飛ぶマネをした。
「へぇ、そうなんだ。それにしても、夜が多いって言ったって、俺、他に飛んでる人、見たことないんだけど。」
「ん、まぁね。浮くようになるには、結構大きなキッカケとかコツとか要るみたいだから。そんなに沢山はいないよ、つーか今んトコ、アタシも数えるほどしか知んない。」
彼女は、俺の方を見てニッと意地悪く笑い、
「だから、しゃあなし敬くん相手でガマンしたげてるってワケさぁ~。しゃあなし、しゃあなし。イヒヒー。」
俺は、ふっと鼻で笑って言い返した。
「そりゃどーも。ありがてぇ、ありがてぇ。」
「うむ、感謝したまえ。」
彼女に皮肉は通じない。それが「素」だからこそ、それがいい。

翌日の晩、新月の夜、俺は試験前のノートまとめで少し遅くまで、一応勉強らしきことをしていた。コーヒーのカップを左手に、カリカリと要点をまとめる。ずずっ、とコーヒーをすすって、脇に置くと、はぁ~、とため息をついた。今日は彼女に会いに行く時間はなさそうだ。そう思って、うーん、と背伸びをした時、

トン

と窓ガラスが鳴った。空耳かと思うくらい、小さな音だった。少し間を空けて、

トン トン

と再び窓が鳴った。いる。これは間違いなく黒影法師じゃない。とすると、誰?もしかして?そう思ったとき、テーブルの左隅に置いたコーヒーカップがすすーっと右に移動した。俺は大体見当がついた。よっこらせ、とベッドに横になり、俺は瞬く間にすーっと眠りに入った。

「ほら、やっぱり、由里子さんじゃん。」
部屋の中で待っているのは申し訳ないとでも思ったのか、彼女は窓越しにしゃがみこんでこっちを見ていた。ニヘッと笑ったが、いつもの屈託のない笑いからは程遠く、何か引きつったような感じだった。
「よ、お邪魔かなぁ~…」
彼女は右手をあげると、申し訳なさそうにそう言った。
「いや、別に全然構わないけど、、、中、入んなよ。」
俺はそう言って、テーブルの方に招き入れるように指差した。
彼女はそうぅっと窓ガラスをすり抜けて、お邪魔しまぁ~す、、、と言いながら入ってきた。彼女は座椅子に縮こまるように腰掛けた後、へへー、と照れくさそうに、でも少し哀しそうに笑った。
「どしたの、なんかあった?」
俺がふゆふゆと部屋の中を浮遊しながら聞くと、彼女は申し訳なさそうに口を開いた。
「あのさぁ、ちょっとココにいてもいいかなぁ…。ダメ?」
よく見ると、彼女は小刻みに震えていた。
「え?いや、全然。俺は構わんけど。ナニ。なんかあったの?」
「えへへー、いやまぁどうってことないんだけどさ、ちょっと今日はね、ココの方が安心できるかなぁって。」
彼女は、しかめっ面をムリに笑顔にしたようなぎこちない顔だった。あまりそれ以上しゃべりたくもなさそうだったので、俺は深い詮索はナシにしておくことにした。
「ふーん、ま、いいよ。時間いっぱいまでいるといいさ。話し相手になろうか?それとも放置がお望み?」
「うーん、じゃ、なんか話して。」
それから数時間、俺は彼女と他愛もない話をした。彼女は楽しそうに笑ったが、その仕草のどこかに、何かの影に怯えるような空気を、俺は感じていた。


『死神』

「もう、ここにきて6時間経つよ。そろそろ時間、ヤバいんじゃねぇの?」
俺は時計を見て、今が朝5時であることを確認して言った。
「うーん、大丈夫。アタシ、鍛えてっからさ、もうちょっと大丈夫なのさ~。できたら陽が登るまで、、、いちゃダメかな…。」
彼女は上目遣いに、少し懇願するように俺を見ながら、膝を抱いた。
「いや、俺は構わんよ。でも、時間制限も鍛えたりできるもんなんだー。知らなかったなー。」
「え、ああ、えと、そりゃもうスッゴク難しいからさ、敬くんにはまだまだムリムリ!とんでもムリ。絶対ムリ。」
彼女は慌てたように、両手を振ってダメダメという仕草をした。その後、彼女はじっと何かを考えている風に黙り込んだ。長い沈黙。耐え切れず俺が話しかけようとしたその時、彼女がぱっと顔をあげてニッと淋しそうに笑った。
「敬くん、やっぱアタシ、もう帰るわ。長居してごめんねぇ~。」
そういって、座椅子からすくっと立ち上がった彼女は、スタスタと窓に向かい、窓際でくるっと振り返り、
「んじゃ、あんがと。ばいび~」
そう言って、すいっと窓ガラスをすり抜けて行った。
突然現れて、突然去って行かれた俺は、何か釈然としない思いを胸に抱えながら、彼女が消えて行った窓ガラスを眺めた。大きくため息をついて、俺はなんとなく窓ガラスに近づき、顔だけをすっと外に押し出した。その時、

「いやーーーーーっ!」

俺はビクッとした。悲鳴?!何?彼女の?俺は慌てて外に飛び出し、周囲を見渡した。彼女の姿は見えない。俺は猛スピードで上空に飛び上がり、もう一度周辺を見渡した。

「いやーーーーっ!行きたくなーーーいっ!」

北西の方向!彼女の声!俺は声のするほうに猛然と飛ばした。その先に、黒い点のように何かが蠢くような影を見つけた。スピードを上げて接近すると、そこには彼女がいた。いや、彼女だけじゃない。

もう一つ、大きな黒い影。えも知れぬ恐怖を感じさせるような、禍々しい漆黒。

大きな黒いボロボロのマントを広げたような、彼女の2~3倍はあろうかという漆黒の影は、そのマントの先から黒い鞭のような長いものを伸ばして、彼女の左手に絡めていた。そして、マントを大きく広げて、まるで今にも彼女を飲み込まんとするようにバァッと広がった。
俺は、猛然と彼女に近づいた。俺に気付いた彼女は、泣きながら叫んだ。
「敬くん!助けて!アタシ、行きたくないっ!」
俺は、その黒マントへの恐怖のような感情と、そして今、何をどうしたらいいのかわからずに、その場で目を見開いたままでいた。紛れもなくその漆黒の影は、地獄の底の恐怖を具現化したもののように見えた。俺の体はすくんでいた。
再び、彼女の叫び声が聞こえた。
「敬くんっ!敬くんっっ!」
はっと、俺は我に返った。俺は、無我夢中で恐怖を振り払い、彼女に近づいた。大きく手を振りかざし、彼女の左手に絡みついた暗黒の鞭を、ぐっと強く握り締めた。
その瞬間、俺の手から電気のようなものがビリビリと流れ出すように光り、鞭は驚いたように彼女の手に絡めていたそれをするするっと緩め、引っ込めた。
漆黒の影は、ゴォォォォと唸るような声を上げて、目のないその大きな影のまま、俺を睨むように見据えた。
その時、確かに聞こえた。低く、地の底から響くような声が。

「イ キ タ モ ノ ガ !」

俺は、彼女を庇うように背に隠し、影を睨んでいた。全身から汗がぶわっと噴出す感覚が俺を包んだ。ものの数秒だったと思うが、俺には数十分にも感じた長い睨みあいの瞬間だった。
東の空が明るくなり、陽の光のかけらが俺の背中を射抜いた。それに気付いたか、漆黒の影は、しゅるしゅると音を立てるように渦巻状に収縮していき、その大きさをだんだんと小さくしていった。じっと動かない俺と彼女の前で、その影は渦巻きの中心に吸い込まれていくかのように小さくなっていき、やがてすぅ、と消滅した。

俺は、汗まみれの胸を大きく動かし、最大限の深呼吸をした。俺の背中で、彼女は震えていた。深呼吸を2~3度繰り返して、落ち着きを取り戻した俺は、振り返って彼女の両肩をしっかりと掴んだ。
「由里子さん、大丈夫?」
彼女は、まだ小さく震えながら、コクコクと頷いた。陽の光が強くなってくる。段々と明るくなってきた街の上空で、俺はじっと彼女の肩を支えていた。


『嗚咽』

彼女の落ち着きが戻るまでに、まだ少し時間を要したが、俺は気がつくと自分が浮遊するタイムリミットに迫っていることを思い出した。取り急ぎ、彼女を抱えたまま俺はアパートに戻り、彼女を座椅子に座らせた後、今にも呼吸の止まりそうな俺の本体にすぅと戻った。
目を覚ますと、朝の8時を回っていた。体が異様にだるかった。全身に血液が回っていないような、そんな感覚だった。麻痺したような体をゆっくりと起こして、辺りを見回した。何も変わったことはない。
そうだ、彼女は?彼女は、どうしたろうか。自分の体に戻るのが精一杯だった俺は、彼女を座椅子に座らせたところまでしか覚えていなかった。きょろきょろと周りを探すが、生身の俺に見つけられるはずもない。はぁ、とため息をついてテーブルに目を落とした。
そこにある俺のノートの隅っこに、小さな、しかし丁寧な整った文字を見つけた。

帰るね。

そう書いてあった。
俺はひとまず安堵した。彼女は自力で出て行ったのだろう。疲れた目をしばたかせながら、俺はとりあえずもうひと眠りすることにした。脱力感でいっぱいだった。

昼過ぎに目を覚ました俺は、もう体力が回復していた。体に不安がなくなると、次には昨晩のことが色々と思い出された。
あの黒い影は何者だったのか?何故、彼女を連れて行こうとしていたのか?どこへ?何のために?彼女は「行きたくない」と叫んでいた。つまり彼女は、行き先を知っている。新月の夜。漆黒の影。陽の光での退却。そして、俺に対する「イキタモノガ」の言葉。他にも、彼女自身の今ひとつ不明な素性。俺は、それから数時間、じっと考えた。

その日の晩、俺はそれまでの考えを可能な限りでまとめると、彼女が心配になって、少し早めに大銀杏に向かった。彼女はまだいないかもと思ったが、大丈夫、彼女はいつもの場所に、いつものように腰掛けていた。彼女は俺を見つけると、いつもの笑顔でニヘッと笑い、
「はっやいじゃ~ん!どしたの~?アタシのことが、そんなに心配だった~ぁ?困っちゃうなぁ~。人気者って、罪。えへっ。」
ペロリと舌を出して、彼女はいつものように明るく振舞った。俺は憮然として言った。
「心配したって!なんだよ、あれ!俺、めっちゃ怖かったじゃん!」
「まぁまぁ、そう言わないでさ。お座りな。ホレ、ホレ。」
俺は彼女の横に腰掛けた。気がつくと、自然に枝に腰掛けることができていた。俺は、急かすように彼女に質問した。
「教えろって。アレ、なに。どういうことなんだよ?」
彼女は、少し俯いて顎を人差し指をトントンと叩くと、ニッと笑って言った。
「アレ?アレね~。アレはぁ~、つまり~、悪いヤツ!」
「は?」
「そう!悪いヤツ。これがさぁ~、とんでもないことに、アタシに惚れちゃっててさぁ~。無理やりアタシをさらって、お嫁さんにしようと!しちゃってるワケよ~。」
俺は、じっと彼女の顔を見ながら黙って聞いていた。
「そんでさ、昨日は、イヤだっつってんのに、強引にお姫様をさらおうと強硬手段に出ちゃったりしたわけよ~。で、アタシが、イヤーって言ったら、そこに颯爽と王子様が現れちゃった、っての。かぁっこイイ~ぃ。ね?で、えいやっと悪いヤツを退治してくれちゃった、ってスンポーね。いやぁ~、ホンット、人気者って、罪。えへっ。」
俺は、じっと彼女の顔を見つめた。彼女は意気揚々と話し終えたが、俺が黙って見つめているのに気後れしたように、目をそらした。
「えと・・・あ、ありがと。」
ぼそっとそう言うと、軽く内側にカールした少し長めの髪をいじり始めた。
俺は、じっと彼女の顔から目を離さずに言った。
「ウソだろ。」
彼女は、驚いたように顔をあげて、慌てて言った。
「え、ホント。ホントに感謝してるって。」
俺は首を振った。
「ありがとうは、ホントってわかってる。じゃなくて、悪いヤツの話。それ、ウソだろ。」
「・・・」
彼女は、下を向いて黙ってしまった。どう答えていいか、迷っているようでもあったし、なにか小さな勇気を振り絞っているようでもあった。
俺は、大きく一息、息を吸って、ゆっくり吐いた。
「由里子さん、じゃ、俺の推測だけどさ、、、言っちゃうよ。」
彼女は、視線だけを俺の方に少し向けて、また下を向いた。俺は、そのまま続けた。
「まず、昨日会った黒マント、あれって死神、ってそう言っていいのかわかんないけど、そんなもんじゃないの?魂を黄泉の国に連れて行くような存在。」
彼女は、何も反応しなかった。俺はまた息を一つ吐いて、言った。
「そして、由里子さん。由里子さんは、」
彼女がぴくっと首を動かした。

「もう、死んでるんじゃないの?」

長い沈黙が続いた。
彼女は、すうと息を吸い込んで、大きく吐いた。そして、ポツリと言った。

「バレちゃった…」

そして、不意にクスッと笑って、大きく上を向いて言った。
「あーあ!バレちゃったぁ~!死人だなんて、思われたくなかったなぁ~っ。気味悪いでしょ?ねぇ、敬くん。」
思い切りの笑顔で、俺の方を向いたあと、突然大きな瞳からポロリと涙をこぼして、涙声で続けた。
「敬くん、気味悪くなっちゃうじゃん。アタシ、ただの幽霊じゃん。ゾンビじゃん。」
その声には涙が混じっていた。ぐすっ、と大きく鼻をすすって、制服の袖で涙をぬぐった。そして、意を決したように涙目のまま、ニヘッと笑って言った。
「アタシ、死んでんの。死んじゃってんの。もう、戻る体はないの。」
そして、少し真顔になって俺に問いかけてきた。
「気味悪いでしょ?気味悪いよね?気味悪いって言って!」
俺は、真剣な顔で、できるだけ真摯な姿勢で、できるだけ心から、力強く叫んだ。
「気味悪くなんか、ない!」
もう一度、確認するように、力を込めて言った。
「気味悪くなんか、断じてない。」
彼女の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれた。そして、嗚咽した。
俺は、彼女の嗚咽がおさまるまで、じっと、じっと待ち続けた。

かなりの時間が経った後、二人の空間は落ち着きを取り戻した。そうして、彼女はポツリ、ポツリ、と語り始めた。


『過去』

「アタシねぇ、事故死なの。」
彼女はゆっくりと話し始めた。俺は、全てを受け止める気構えで、しっかりと落ち着いた聞き手の姿勢で頷いた。彼女は、安心したように、しかし、何から話したらいいか迷うように、途切れ途切れに続けた。
「2年前になるかな。アタシ、18歳だった。高3の花も恥らう乙女。」
彼女は自嘲気味にクスッと笑った。
「チャリンコでね、学校から帰ってたの。そう、あのジュリアンのある大通りだったな。自殺したお姉ちゃんのことを思い出しながら、ちょっと悲しい歌を鼻歌で歌いながら走ってた。
その時、突然後ろからドォン!って大きな衝撃で背中を突かれたような気がしたの。何かわかんないけど、アタシその時、ふわっと自分の体が浮いたような気がしたわ。そしてそのまま宙に浮かんでるの。体が動かせなくて、一生懸命動かそうとするんだけど、宙に浮いたまま動かせなくて。
それで、ふと下を見たら、アタシのチャリンコが歩道と車道の間に倒れてんの。そこからちょっと視線を動かしたらね、アタシが車道で倒れてんの。見たこともないくらい、血がいっぱい流れてて、アタシどうしたらいいかわかんなくて、、、」
彼女は、ときどき思い出すように言葉を区切りながら、淡々と続けた。
「周りにいっぱい人が来て、救急車が来て、アタシを救急車に担ぎ入れてんの。アタシ、待って!って言ったんだけど、誰にも聞こえてないの。待って!アタシ、ここにいるの。行かないで!って。
でも、そのまま救急車は走って行っちゃった。隊員さんみたいな人が、県病院、って言ってたのだけ聞こえたから、アタシ動かない体を必死で動かしたわ。這いつくばるように、平泳ぎするように、ほふく前進するように。
なんとかじりじり動くようになって、一生懸命病院まで行ったの。すごい時間がかかったわ。どれくらい経ったかわかんないくらい。
で、病院に着いたらね、アタシの手術みたいの、終わったらしくて、アタシの体、ICUに入れられてたの。いっぱい器具付けられてさ、輸血とかされててさ。包帯ぐるぐる。ミイラみたい。」
笑っちゃうわよね、とつぶやいて彼女はまた記憶の世界を語り始めた。
「アタシね、元に戻ろうと思って必死でICUの入り口まで行ったわ。でも、入れないの。何でかわかんないけど、入れないの。扉が空かないからだと思って、誰かが出入りする時に一緒に入ろうとするんだけど、見えない壁みたいなのがあって、どうしてもそこから入れないの。ここは入っちゃダメなとこみたいな気がして、2重の自動ドアが両方開いても、見えない壁で入れないの。
アタシ、仕方ないから窓の外からじっと中を見てたわ。中の会話は少しだけ聞こえるの。お母さんがさ、しょぼんとアタシの体の隣に座って、泣いてるの。お父さんが入ってきて、お母さんと抱き合って泣いてるの。
アタシ、何度も入ろうとしたけど、ダメでさ。自動ドアと窓を行ったり来たりしてたわ。夜が来て、朝が来て、また夜が来るまで、繰り返したの。長かったなぁ、あの時の時間。
3日目の昼にね、お父さんとお母さんと、お医者さんらしき人が話しているのが聞こえたの。
『お嬢さんは、現在、脳死状態です。』って。体のケガは致死状態までは行ってなかったみたい。でも、脳は死んじゃってるんだって。機械でかろうじて生命を保ってるんだって。
ね、敬くん、知ってる?臓器移植って。脳死状態での臓器の方が新鮮でいいのかな。いっぱい使うところがあるみたい。未成年者の脳死状態での臓器移植って、両親の承諾でできるんだって。
アタシね、お姉ちゃんが死んでから、ずっと人って死んだら灰になるだけって実感があったの。だから、それ以来、お父さんとお母さんには、ことあるごとに『アタシが死んだら、アタシの臓器なんか、バンバン移植に使ってもらってね』って強く言ってたの。
お父さん、お母さんも、それは理解してくれてたからさ、ちゃぁんと脳死状態からの臓器移植、話が進んじゃったみたい。アハハ、アタシはここにいるのにね。コレ、新聞にも載ったのよ。未成年者の脳死状態での臓器移植、日本で3例目、ってね。アタシ、有名人なんだから。」
彼女はまた自分で自分を笑い飛ばした。そうでもしながら話さないと、ちゃんと話し続けられない、そんな感じだった。
「それからアタシの体はさ、もう見事に小分けされちゃったわ。心臓とか、腎臓とか、目ン玉とかね。ぜーんぶ出しちゃって、綺麗に閉じてくれたから、見た目にはキレイなもんだったわ。お葬式ん時は、もう綺麗に化粧もしてくれてたから、全然不満はないの。逆に、アタシの体が、誰かの役に立ってると思ったら嬉しかったわ。ま、そうは言うけど、嬉しかったなんて思えるようになるまでには、随分泣いたけどねぇ。」
グスッ、と彼女は鼻をすすった。
「アタシが死んじゃって、灰になるまでの話はこれでオシマイ。それが2年前。それからずっと、アタシはこの状態でやってきた。だからベテランって言ったでしょ?」
俺はそこで初めて納得した。だから高校生で、“延べ20歳”だったんだ。
「それからはもう、退屈だったわ。ふわふわ飛ぶのもすぐに飽きちゃうし、誰にも何も話せない。何にもさわれない。自分の存在自体を、誰にも認めてもらえない。アタシは、京本家のお墓の中に入っちゃったんだもん。お姉ちゃんの遺影と一緒に、仏壇に並んでるんだもん。
お父さんもしょんぼりしてるし、お母さんはずっと泣いてるし、アタシここよ、って何回叫んでも聞こえないの。お母さんがアタシのためにカレー作ってくれてるのに、アタシったらスプーンすら触れないの。
それから1ヵ月経った頃の新月の夜だったわ。敬くんの言う“死神”がアタシの前に現れたのは。アタシもう、直感したの。コイツはアタシをどこかに連れて行こうとしてるって。それが天国でも地獄でも、それは絶対にいやだった。だから逃げたわ。逃げて、逃げて、隠れて、逃げて。月に一回、新月の晩はいつもそうだった。
アタシ、飛ぶの速くなるのはすぐだったから、結構逃げ回れたの。本当に捕まりかけたのは今回が初めて。怖かった。敬くん来てくれなかったら、アタシ連れられていってたと思う。すごい感謝してる。
アタシ、まだ捕まりたくないの。アタシの体は少しは人の役に立てたはずだわ。ホントのところはどうかわかんないけど。だから、この心も、最後は誰かの役に立って消えたいの。誰かのために消えたいの。ただ連れて行かれるのだけはイヤ。」
彼女は、首を何度も何度も大きく振った。
「だいたい話したかな。こんなこと、全部話したのは敬くんが初めてだよ。」
彼女は涙顔で、ニヘッと笑った。
「そういうわけで、アタシ、死人なの。幽霊なの。ゾンビなの。ホントに気味悪くない?」
俺は優しく微笑んで、念を押すように言った。
「気味悪くなんか、あるもんか。」
「そのうち、敬くんに取り憑いて、呪い殺しちゃうかもよ。」
「それもアリかもな~」
俺があっけらかんと言うと、彼女はケラケラと笑った。よかった、笑った。
彼女は、笑っているのが一番だ。


『事故』

なるほど、道理で彼女はいつ行ってもいるはずだ。俺より長い時間浮遊してても大丈夫なはずだ。というより、24時間、どこかで浮遊しているんだ。24時間、2年間、どんなにか孤独だったことだろう。
彼女がいつまでもICUを見つめ続けている訳も分かったような気がした。彼女は、同じような境遇の人が出ないか、ずっと監視していたのだ。その人を救うために。

彼女の過去が分かったからといって、彼女が死人だからといって、俺の行動に変わりはなかった。毎日、大銀杏に顔を出し、時には2人でビュンビュン飛び回って、最近では競争もできるくらいに速くなった。大銀杏の葉が黄色く色付いて、地面を染めるようになった頃、俺は彼女よりも速く飛べるようになった。
「次、死神が来ても大丈夫。連れて逃げちゃる。」
俺は、胸を張って言った。
「おおー、ちょっと前の新入り君が、いつの間にか偉そうになったもんじゃ~ん。ちょっとアタシより速く飛べるようになったからって、偉そうな顔はさせないもんね~。まだ浮遊歴半年じゃ~ん。アタシの1/4のくっせにさぁ~。半径10kmくらいしか動けないハンパモノめぇ~。女湯にも入れんクセにさぁ~。」
彼女は、ケラケラと笑った。
俺はこんな非日常な日常が、楽しかった。今のままが一番よかった。
でも、俺は成長する。彼女はそのまま。いや、本当に彼女がずっとそのままなのか、その保証も実は不明なのだ。

新月の夜、彼女は必ず俺のアパートに来た。“死神”とやらは、生者の幽体には手出しができないようだった。たまに追いかけられることもあったが、俺の自慢のスピードで彼女を連れたまま捲いてやった。ざまあみろ。

そうやって、いつの間にか俺が幽体離脱をするようになって、一年近くが経とうとしていた。今となっては、最初に死ぬほど怯えさせてくれたあの黒影法師にも、ありがとうと言いたい気分だった。おかげで俺は彼女と出会うことができた。
夕方、俺は上機嫌で街に買い物に出かけていた。出会って一周年記念で、彼女に何かを買ってあげるのが目的だった。本当はジュリアンのココアとアップルパイをあげたかったのだが、食品はさすがにムリだ。いつも制服なので服、という案もあったが、着替えるってのもなんだか現実的ではないような気がして、まぁここは無難に身につけるアクセサリーにすることにした。物にさわれるんだから、小さなものくらい身に付けられるだろう。
俺はセンスの良さそうなジュエリーショップで、小さなハートにブルーのタンザナイトが埋められた小洒落たネックレスを買った。いいじゃん、これ。と自賛しながら、浮かれ気分で大通りを歩いていた。
日も暮れて、信号待ちで交差点に立って、買ったばかりの小さな袋を眺めていた、その時、

ドォン!

突然、背中を突き飛ばされたような衝撃が走り、俺は宙を舞った。空中を何回転もしたような気がするくらいの衝撃だった。その時、俺には交差点の信号の上に黒い大きな影を見た。それが何だったのかは、全くわからない。俺はその衝撃の勢いで、気を失ってしまった。

救急車の走り去るけたたましい音で気がついた俺は、交差点の向かいの建物の中にまで入り込んでしまっていた。建物の中?なぜこんなところに俺がいる?少しの間、冷静に考えることができなかった。壁を通り抜けている。ということは、俺は今、幽体だ!慌てて道路に飛び出したときは、もう遅かった。
血の広がった横断歩道を警察官が調べている。人だかりが、何事かと言わんばかりに覗き込みながら歩いていく。遠くに救急車の走り去っていく音が聞こえる。
俺の体!俺はとにかく救急車の音がする方に飛んだ。飛び去る直前に、道路に落ちている小さな袋が目に入った。俺は急いでそれを拾うとポケットにしまい、大急ぎで救急車を追った。突然、救急車の音が止んだ。病院に到着したのだ。方向からいって、間違いなく県病院!
俺は急いで俺の体があるはずの県病院に向かった。俺が病院に到着した頃、俺の体は今まさに救急車から下ろされ、ICUと同棟にある手術室へと移送されていくところだった。とにかく、俺の体に戻らないといけない。ストレッチャーを追いかけて病院に入ろうとした瞬間、俺の体は見えない壁にぶつかって弾けとんだ。転がる俺の体を、何か柔らかいものが受け止めた。
「敬くん!どうしたの!?」
彼女だった。
「俺、俺、事故にあったらしい。俺の体が、今、手術室に入っていった!戻らなきゃいけないのに、ドアにぶつかって入れないんだ。見えない壁があるんだ!どうしてだ?!由里子さん!」
彼女は、眉間にしわを寄せて、呻くように答えた。
「ICU・・・、手術室・・・。同じ棟なのね。ここには入れない。何故かわからないけど入れない。無意識に入っちゃいけないと思っているのかもしれないし、違う何かが張り巡らされているのかもしれない。」
今度は逆に彼女の方がうろたえ始めた。
「ア、アタシん時と同じことになってる。敬くんが、アタシと同じことになってる!ダメ!早く戻らないと!脳死になったら取り返しがつかない!」
 俺は、もう一度ドアから、窓から、壁から、中に入ろうと試みた。しかし、なにか見えない壁に阻まれて、どうしても中に入ることができない。
俺と彼女は、何度もICU棟の周りをぐるぐる回ったが、俺が入れる隙間は見つからなかった。

手術そのものはほとんど事無く済んだ様で、俺の体はそのままICUへと移された。俺の家族が意識を失った俺の傍らに佇んでいる。俺と彼女は、大銀杏からその様子を見ていた。事故で体から幽体が離れてから4時間。あと3~4時間のうちに戻らなければ、俺は脳死状態になってしまう。焦る俺に、彼女が聞いた。
「敬くん、念のために聞いておくけど、臓器移植のドナーカードとかって、書いてる?」
俺は自分の免許証の裏を思い出した。
「書いてる…。臓器を、提供する、と。」
彼女は両手で口を押さえた。どうしよう、といった風に目が泳いでいる。
「敬くん、脳死になった時点でもうダメかも知んないけど、それでも体が残されてれば何か望みがあるかもしれない。でも、臓器提供で体が切り裂かれてしまったら、もうどうしようもない!一番は、脳死する前に敬くんの体の中に意識が戻ること。でもそれと同時に、家族に臓器提供を拒否してもらうようにも伝えておかないと、取り返しがつかなくなるよ!」
俺は心臓の鼓動を手で無理やり押さえるように、グッと胸を押した。戻る?伝える?どうやって?幽体の俺は、今、ICUの中の家族に何かを伝える術はない。俺は握り拳を握り締めた。
その時、はっと俺の頭の中にある人物が浮かんだ。あの黒影法師だ。あいつは、生身の俺に笑い声を聞かせた。人に話しかける術を持っている。常識のなさそうなヤツだからICUにも入れるかもしれない。
「由里子さん!黒い、黒い影法師みたいな汚ねぇオッサン知らないか?こう、無精髭が生えてて、汚らしい格好をして、ゲヘヘヘっていう下品な笑い方をするヤツ!」
由里子は、はっと思い当たったように言った。
「もしかして、遺造さんかな。たぶんそう。それがナニ?」
「ヤツは人に話しかける力がある。非常識なヤツだから、ICUにも入れるかもしんない!頼むの、ヤだけど、とりあえず臓器移植を止める方法にはなるかも!どこにいるか、知らない?」
彼女は頭を絞るように考えていたが、自信なさそうに言った。
「よくわかんないけど、こないだ新しくできたラフィーネっていったかな、マンションの周りでうろついてた、気がする。」
「よし!探しに行こう!」
俺は、勢いよく飛び立った。残すは3時間。


『伝言』

俺は彼女の言っていたマンションの周りを何度も見回した。彼女も追いついてきて、一緒に探したが、黒影法師の姿は見当たらなかった。
「いない、いないね、敬くん。ごめん、当てにならない情報で。」
俺はキョロキョロと当たり一帯を何度も見渡した。
「なに言ってんの、由里子さん。何にも情報がないより全然マシ!ありがとね!」
そう言って、何度目かのマンションの前を通り過ぎた時、
四階の窓から、ゲヒヒヒヒッと下品な笑い声を上げながら抜け出てくる黒影法師を見つけた。
「由里子さん!いた!」
俺は急いで窓から飛び去ろうとする黒影法師に近づいた。
「すみません!えっと、遺造さん!ちょっと待って下さい!」
突然、呼び止められた黒影法師は、下品な笑みを浮かべながら振り向いた。相変わらず凶悪な顔をしていたが、今はそれどころではなかった。
「ゲヒッ?なんだテメェ、もう用はねぇっつっただろが。」
「すみません!折り入ってお願いがあるんです!遺造さんを見込んで、聞いていただけませんか!」
黒影法師は、意外な事を聞いた、という顔で聞き返した。
「あぁ?お願いだぁ?ゲヒヒヒッ!面倒臭ぇ、うせやがれ!」
そこへ彼女もやってきた。上目遣いの大きな瞳で、黒影法師を見つめた。
「お願い!遺造さん!聞いてあげてくれないかなぁ!ね!ね!いいでしょ!?遺造さんしかできないの!」
二人の勢いに気圧されて、黒影法師はどもりながら答えた。
「な、なんでぇ、ガキが二人も揃って、オレしかできねぇ?ゲヒッ、なんだそりゃぁ」
「そうなんです!これはもう遺造さんにしかできないんです!だからその力を見込んで、是非、お願いします!」
俺は、もうプライドもクソもなく頭を下げた。となりで彼女も頭を下げてくれている。ここまで持ち上げられると、シンプルな精神構造のヤツは結構落ちる。
「ゲヒヒッ!なんだぁ、おめぇら、仕方ねぇなぁ。ちょうど今、ここんとこの住人を脅かして気分がいい。おめぇら、運がいいぞ。言ってみろ、聞くだけ聞いてやらぁ。ゲヒヒヒヒッ!」
俺はもう一度大きく頭を下げた。
「ありがとうございます!それじゃ、時間があんまりないんで、病院まで移動しながら話したんでいいですか?行きましょう。」

俺は、黒影法師に簡単に今までのいきさつを話しながら病院へと飛んだ。
「ね、遺造さんって、人に話しかけたりもできるんでしょ?すっごいなぁ~、尊敬しちゃうよ~、アタシ~」
合い間に彼女が黒影法師を持ち上げる。黒影法師はゲヒヒヒッと笑いながら、上機嫌で俺についてきた。
「でさ、でさ、遺造さんってば、病院のICUの中にも、入れちゃったりします?」
彼女が、情報を仕入れつつ黒影法師を持ち上げる。
「ゲヒッ?ICU?なんだか知んねぇが、病院の中なんざぁ、どこでも入れるぜぇ~。ゲヒヒッ。」
彼女が俺に、OKマークを出した。
「じゃ、すみません、遺造さん。お願いって言うのは、そのICUってとこに入って、中にいるある人に囁いて欲しいんです。『意識は必ず戻る、あきらめるな』って。」
「ゲヒッ、なんだぁ、それだけかよぉ。楽勝だぜぇ。ゲヒヒヒヒッ!」
よし、こう言っておけば、意識が戻らなくても待ってくれる、もしも仮に脳死になっても、いきなり臓器移植には賛成しないだろう。なにより、希望を持ってもらえる。その分、長い時間、待ってくれるはずだ。

俺たちは病院に着いた。
「遺造さん、あそこです。」
俺はICUの部屋を指差した。ベッドの位置は変わらず、父と母もまだ傍らに座って俺の体を見つめ続けていた。
「あそこの手前から2番目にベッドがあるでしょう。そこに壮年の男女がいるの、わかります?」
黒影法師は、じっとICUの中を見ながら、鼻で笑った。
「あーぁ、見えるぜぇ。ちょっとハゲたオッサンと、痩せたババアだろ?」
この際、中傷は気にしない。
「そうです。あの二人の耳元で、さっき言ったように『意識は必ず戻る。あきらめるな』って2回、呟いてきて欲しいんです。」
「よーし、わかったぁ。んじゃ、ざくっと済ましちまうぜぇ。ゲヒヒヒヒッ!」
と、その時、彼女が黒影法師を呼び止めた。
「ねぇ!遺造さん!ついでのお願いなんか、ムリだったりする?」
黒影法師は振り返り、彼女の方を見た。
「ついでぇ?」
「そそ、あのベッドに寝てる病人のさぁ、中に入って『意識あるぞ』ってアピールしてくる、なーんての、お願いできたりしないかなぁ~?どお?」
黒影法師はちょっと険しい顔になり、即座に答えた。
「ゲヒッ!そりゃぁ、ダメだ。きけねぇ。ついでのレベルじゃぁねぇ!オレがやるのは、囁いて戻ってくるだけだぁ。ゲヒヒヒヒッ!」
そう言って、黒影法師はすうっとICUに向かって飛んで行った。
「ちぇ、知ってたかぁ~。知らなきゃ、上手くいくと思ったんだけどなぁ~」
彼女はちょっと悔しそうにパチンと指を鳴らした。俺には、それがどういう意味を持っているのかちゃんとした理解はできていなかった。

やがて黒影法師はICUの窓に近づいた。本人はすっと入れると思っていたようだが、何故か窓の前で立ち止まった。黒影法師が手をかざすと、バチッと電気がショートしたような光りが放たれた。ちょっと驚いたのか、黒影法師は少し後ずさったが、「入れる」と言った手前、すごすごと戻ることができなかったんだろう。単純なヤツほどその辺の思考回路は分かりやすい。黒影法師はちょっと勢いをつけるように窓にぶつかると、バチバチッと電気の火花を散らすようにしながら、徐々に中に入り込んでいった。
「やっぱり簡単には入れないんだな、ICUって。何でだろう?」
俺は、彼女に向かってぼそりと呟いた。彼女は肩をすくめながら、答えた。
「アタシも何回か挑んで、最近、手までは入れることができるようにはなったよ。でもあれ、結構イタイんだよね~。」
黒影法師は、無事にICUの中に入ることができたようだ。そのまま、俺の父と母のもとに近づいて、耳元で何かを囁いていた。父と母はビクッとしたように反応して、二人してキョロキョロと周りを見回した。2人は、顔を見合わせていたが、母が嗚咽し始めたようで、父にうなだれかかっていた。
黒影法師は、ちらっとこっちを見ると、スタスタと窓に歩み寄り、またバチバチいわせながら出てきた。ふらーっとこっちに近づき、腕をさすりながら言った。
「ゲヒッ!くっそー、おぉ痛ぇ!なんだあの部屋は、入るのにクソ痛ぇ思いをしたじゃねぇかぁ!てめぇら・・・」
と言いかけたところで、彼女が言った。
「さっすが!遺造さんじゃなきゃ、ムリだったよ~、やっぱ!すんなり出入りできちゃうとこなんて、ソンケーだねっ!」
「お、おぅ、まぁな。ゲヒッ。じゃ、オレぁこれで用無しだなぁ?もういいか?あとは好きにやんなぁ。ゲヒヒヒヒッ!」
「ありがとございましたぁっ!助かりましたっ!」
俺は深々と頭を下げた。コイツに頭を下げるのは、金輪際、御免こうむりたい。
最後の彼女のおだてで、上機嫌になった黒影法師は、すいーっと上空に上がっていった。そのまま立ち去るかと思いきや、少し離れた後ろ側で、まだぼーっとこっちを見ていた。今から何をしようとしているのか、興味でもあるのか?まぁそんなことは今はどうでもいい。次の方が難問だ。残すは1時間半。


『覚悟』

俺は焦っていた。あと1時間半でタイムリミットだ。ギリギリ上手く行っても2時間半で「脳死」。
どうやってもICUへの侵入口は見つからない。もしかして、バチバチいってでも、痛くても、さっきの黒影法師のように入れるかもしれない、と思って手を突っ込んでみたが、俺程度ではただの壁にしか感じない。バチともいわない。
とりあえずは体が残れば、ということで黒影法師に伝言を頼んだまではよかったが、やはり「脳死」になってしまっては、それからの意識回復は100%無理な話には違いない。俺にはどうしようもなく、手をこまねいて見ているしかないのか。このまま死んでいく体をじっと見届けるしかないのか。ちくしょう!と俺は大銀杏の幹を殴った。
彼女は、横で大銀杏の枝に腰掛けたまま、握り拳を唇に当てて潤んだ目をしていた。小さな声でブツブツと何か呟いていた。
「敬くんが死んじゃう。敬くんが死んじゃう。敬くんが死んじゃう。」
呟きが言葉になり始めた。
「敬くんが死んじゃう。敬くんが死んじゃう!敬くんが死んじゃう!」
声が段々と大きくなり、くるっと俺の方を向いたかと思うと、大きな声で叫んだ。
「敬くんが死んじゃう!このままだと、敬くんがアタシと同じになっちゃう!ヤダ!ヤダァ!アタシみたいになっちゃダメなの!敬くんがアタシみたいになんか、なっちゃダメなのぉー!」
潤んだ大きな瞳に溜まった涙が、ポロポロと零れ落ちた。その涙を見ているうちに、俺は奇妙に心が静まってくるのを感じた。俺は、彼女の横に腰掛けて両肩をしっかりと持った。
「ありがとう。由里子さん。でもさ、でもさ、もういいかもしんない。由里子さんとおんなじになるんなら、、、もう、、、いいかもしんない。」
そう言って俺は、彼女をぐっと抱き寄せた。背中に手を回し、力強く抱きしめて言った。
「由里子さんと一緒なんじゃん。一緒ならいいじゃん。ずっと一緒でいいじゃん。俺、それでいいよ。いや、それがいいよ。」
俺は少し涙声になりながら、彼女をしっかりと抱きしめた。彼女は、少し間を置いて、俺をぎゅっと抱き返した。
「敬くんと一緒でいい。一緒がいい。でも、でも!敬くんが死んじゃうのはいやぁ。」
彼女はポロポロと涙をこぼしながら、嗚咽した。
彼女をぐっと抱きしめながら、俺ははっと思い出した。彼女を抱きしめた右の手を背中から離し、右のポケットを探った。
あった。
俺は、彼女の両肩を持ってぐっと引き離し、彼女に向かってニコリと笑った。そして、右手の中でくちゃくちゃになっている袋を彼女の前に差し出した。
「ごめん、こんなくちゃくちゃになってるんだけどさ、俺と由里子さんが出会ってから一年になるから、一周年記念のプレゼント。どぞ、安モンだけど。」
彼女は涙でぐしゅぐしゅになった顔を制服の袖で拭いながら、俺の差し出した汚い袋を受け取った。ぐすんぐすん、と鼻をすすりながら、彼女はそのくちゃくちゃになった袋を開けた。
中からはキラキラ光る銀色の細いチェーンと、その先に小さくぶら下がっている銀色のハート、その真ん中に青く輝く宝石のはめ込まれたネックレス。
「これ、タンザナイトっていうんだって。青くて綺麗だろ。物にさわれるんならネックレスとかでも付けられるかなぁって思ってさ。」
彼女は、ううっ、ううっ、っと言葉にならない嗚咽を漏らしながら、ネックレスを握り締め、俺の首に手を回した。ぎゅーっと、抱きしめて、
「きれい、、、きれい、、、」
そういって、彼女は泣いた。手の中のタンザナイトが、彼女の胸元で月夜に綺麗に映える日が、またいつか来るだろう。俺も一緒にそれを見るのだ。俺の覚悟は、もう決まっていた。残すは約1時間を切った。


『決意』

俺は、大銀杏の枝に腰掛けて、じっとICUの窓を見ていた。彼女は俺の横で、手の中のタンザナイトをじっと見つめていた。
2人とも、もう30分近くほとんど動かなかった。もう、俺には覚悟ができていた。このまま、死んで行ってもいい。同じように体のない彼女と、同じようにこの大銀杏で座っていられれば。俺も、彼女も、年を取ることはない。新月の“死神”さえやり過ごせば、あとは2人だけの世界だ。彼女と俺は、生きていないが、生きていく。この魂ある限り。十分すぎる生涯だ。そして永遠の生涯だ。俺はしみじみと心の中で、ICUのベッドの前でうなだれる父と母に別れとお礼を言った。そして、隣に座る彼女に、微笑みかけた。
彼女は、まだじっとタンザナイトを見つめていた。しばらく見つめ続けていたが、かすかにその指が動いて、手の中のタンザナイトをぎゅうっと握り締めた。そして、手を開き、ネックレスをしゃらりと摘み上げた。くるっと俺の方を向いて、いつものニヘッという笑顔をした。
「敬くん、これ、つけて」
そういって、摘み上げたネックレスを俺に差し出した。
「ああ、いいよ」
俺はネックレスを受け取り、留め金を外した。彼女は俺の方を向いて少し内側にカールした長めの髪をうなじからかき上げた。俺は彼女の正面を向き、両方から首に手を回した。首の後ろで手さぐりに留め金を探し、カチッと留めた。そしてそのまま、軽く体を彼女の方に寄せて、顔を近づけ、彼女の整った唇に俺の唇を重ねた。彼女は、髪をかき上げた手を、そのまま俺の首に回し、2人の影は一つに重なった。
長い、長い、くちづけだった。

はぁ、と2人とも大きく息を吐いて、離れた。彼女は俺の顔をじっと見つめていたが、またいつものようにニッと笑って、言った。
「よしっ!アタシ、行ってくる!」
ぐっと彼女は右手でガッツポーズのような握り拳を作った。
「行く?どこに?」
彼女は、昔見たあの自慢げな顔つきで、ふふん、と鼻で笑い、
「ICUよ!」
そう言って、びっ!と凛々しくICUの窓の方を指差した。
俺は何を言っているのか分からずに聞き返した。
「ICU?行ってどうすんの。だいたい、入れんのか?」
「わかんない。」
「出た。由里子さんの『わかんない』。」
俺はガックリと肩を落とし、やれやれといった顔をした。
「でも、やってみる!行って、敬くんの体に入って『意識あるよー』て言ってくる!そしたら、そのうちICUから一般病棟に移るじゃん!」
彼女は意気揚々と語った。瞳が凛々と輝いていた。
「一般病棟ならさ、敬くん、入れるでしょ?まぁアタシは自分の体から意識だけ幽体離脱する方法を知らないから、そのまんまだけど、敬くんがさ、敬くんの体に戻ってきたら、アタシがポンと押し出されて、万事解決!じゃん?」
どうよ、この案、とでも言いたげに彼女は胸を張った。さっきつけたタンザナイトのネックレスが月の光りを受けてキラリと輝いた。
「でも、そんなに上手くいくのかよ。」
完全に覚悟が決まっていた俺が、いぶかしそうに聞き返した。
「行くってぇ!あとはアタシが痛いの我慢すりゃいいだけのハナシ!ね。」
彼女がニヘッと白い歯を見せて笑った。
「由里子さん、それでいいのか?」
「いいよ。大丈夫。ネックレスで勇気、もらったもん。」
胸に手を当てて、タンザナイトのハートを確認するように握り締めた。えへへ、と彼女は苦笑いして言った。
「歯医者さんより、痛いかなぁ…?」
「おいおい、大丈夫かよ。」
ニッと彼女は笑って、すっくと立ち上がった。
「じゃっ!敬くん、行ってくるっ!」
くるっと踵を返して彼女は、タンッと枝を蹴って飛んでいった。
俺は、ただそれを黙って見送った。

彼女は、少し早足でICUの窓に近づくと、手を差し出した。触れた瞬間、バチッと音がして、閃光が走った。ゆっくりと彼女は手を差し入れていく。ぐうっと苦悶に顔をしかめながら、力を込めて手を押し進めていった。
その時、俺の後ろから声がした。
「ナニやってんだぁ、あのガキぃ?」
はっと振り向くと、黒影法師の遺造が俺の後ろ斜め上に立っていた。
「ま、まだいたんですか。」
黒影法師は同じ質問を繰り返した。
「ナニやってんだぁ、あのガキぃ?」
俺は少しムッとして言い返した。
「ガキって言わないでください。俺のためにICUに入ろうとしてるんです。」
「んなもん、見りゃァわかるぜぇ。入ってなにすんだぁ?」
俺は説明するのも面倒臭いと感じながらも、一応彼女の計画を話した。
「ICUに入って、俺の体に由里子さんが入るんです。意識が戻ったら、一般病棟に移るだろうから、そしたら俺が体に入って、由里子さんが戻って、万事解決です。」
黒影法師は、いつもの嫌な笑い方をせずに、じっと黙って聞いていたが、聞き終わるとぼそっと、しかし少し強い口調で言った。

「戻んねぇよ。」

「は?」
俺は一瞬、黒影法師が何を意味して言ったのか分からなかった。
「戻んねぇ、って言ってんだよぉ。」
俺は混乱して聞き返した。
「戻んねぇ、ってどういうことですか?!」
「そん通りさぁ。一回体に入った意識は、他のが入ってきたって飛び出しちゃあ来ねぇよ。押しつぶされて、跡形もなく消えていくだけさぁ。」
俺の頭の中でぐるぐると思考が回った。どういうことだ一体?彼女が入った後の体に俺が戻って、元通り、じゃないのか?俺が入った後の彼女の意識は?彼女はどうなるっ!?
俺の中で、小さな、そして最悪の結論が出た瞬間、俺は絶叫していた。

「ばかやろうっ!!!」

俺は、豹のように大銀杏の枝を蹴って、彼女の元へと走った。既に彼女は体半分を、苦痛に表情を歪めながらICUの中に埋没させていた。
「由里子さん!!由里子さんっ!!!!」
走ってくる俺に気付いた彼女は、しかめた顔のまま、大声で叫んだ。

「来ないでっ!!!」

俺は、思わず足を止めた。彼女は、顔を歪めたまま、少し哀しそうな目をして言った。
「来ないでっ!

手をつないだら、離せなくなるからっ!

顔を見たら、泣いちゃうからっ!

声を聞いたら、戻りたくなるからぁっ!」


俺は、体をガタガタと震わせながら、一歩、一歩、と彼女に近づいた。彼女はまた少し哀しそうな目をして、それでもニッと笑って言った。
「いいの。いいのっ。アタシはこれでいいのっ。敬くんの体に入れるんだから、ウレシイのっ!敬くんは生きて。ちゃんと、生きてっ!」
俺は彼女の制止を聞かず、一歩、また一歩と近づいた。
「由里子さん、由里子さんっ!由里子っ!!」
彼女の体はじりじりと埋没し、後は顔と右手だけになった。
俺は、たまらず彼女に走り寄った。残った右手に手をかけようとした時、彼女はまたニッと笑って言った。
「タンザナイト、嬉しかった。ありがとう。アタシ、消えちゃったりしないから。絶対何かを残すから。だから敬くんは、生きて!ね。」
バリバリッと音を立てて吸い込まれる右手を掴む前に、彼女の全てはICUの中に消えた。伸ばした俺の手の甲に、ポツッと何かの雫が落ちた。

「由里子!由里子っ!!由里子―っ!!!」

俺は絶叫しながらも、呆然としてガクリと膝を折った。
それでもガクガクと震えながら、這いつくばるようにして立ち上がり、ICUの中を見た。由里子がこちらに背中を向け、ゆっくりと俺の肉体があるベッドへと近づいていった。ぐるり、と向こう側を回り、父と母の後ろを通って由里子は俺の頭の前に立った。
不意に顔を上げて、こっちを見たかと思うと、親指を立ててグッとOKサインを出し、いつものようにニイッと笑って、肉体の俺にキスをするように顔を重ねた。そして、由里子の姿は俺に吸い込まれるように、すぅっと消えていった。
シャリーン、と金属の落ちる音がして、それに気付いた母が床からそれを拾い上げた。

タンザナイトのネックレスだった。


『ひとつに』

程なくして、俺の肉体が意識を取り戻した、という朗報を知らせるように、ICU内が慌しくなった。看護婦が、右に左に走り、母が父の胸に顔をうずめて号泣していた。医師が、俺の顔を覗きこみ、微笑を浮かべながら父に何かを話しかけていた。父は、何度も何度も頭を下げながら、目頭を押さえていた。
俺は、その喜びの現場を、複雑な思いで大銀杏の枝から見つめていた。ふと周りを見る。黒影法師はとっくの昔にどこかへ消えていた。大銀杏の枝を隅々まで眺めてはみたものの、当たり前のように誰も居ないことを再認識させられ、俺は崩れるように枝に腰掛け、首をうなだれた。
今の俺は、今までになく孤独だった。

しばらくして、俺の体はICUから一般病棟へと移送された。
俺は、移送された後も踏ん切りがつかず、大銀杏の枝に腰掛けていた。俺が戻ることによって、由里子がこの世から消えてしまう。そう思っただけで、どうしてもそこに向かう勇気が出なかった。だからといって、このままにしておいても由里子は戻ってこない。体から抜け出る方法を知らないからだ。
それでも俺には由里子を消し去る決断ができず、1日が過ぎ、2日が過ぎた。ずっと大銀杏の枝に腰掛けて頭を抱えていた俺だが、由里子の最後の言葉を思い出して、ようやく重い腰を上げる決意を固めた。

『アタシ、消えちゃったりしないから。絶対何かを残すから。だから敬くんは、生きて!』

「絶対だな、由里子。絶対だよな。なぁ、由里子ぉ。」
そう呟きながら、俺はふらふらと彷徨うように一般病棟に入っていった。


[佐倉敬介]
そうかかれた病室にすぅと足を踏み入れる。
カーテンの端から、ベッドの足だけが見える。少し歩を進めると、ベッドのそばに父と母がいるのがわかった。父も母も、当然ながら俺には全く気付いていないようだった。ベッドに目を移すと、俺の姿をした「由里子」がいた。「由里子」は、目だけを薄く開けて、虚ろに天井を見つめていた。
気配を感じたのか、目だけが足元の俺の方をチラリと向いた。その瞬間、ほんの少し、わずかにだが、唇の端をあげて、由里子の「ニッ」に近いような、かすかな微笑を見せた。

(ナニやってたのさ。おっそいじゃん!アタシ、待ちくたびれちゃったよ~!)

「由里子」がそう言っているのが聞こえるような気がした。
俺は、全く無意識にポロポロと涙を流していた。

(ホラ、早くおいでよ~。先輩命令だってばさ。ホレ、ホレ)

「わかったよ。そう急かすなって。」
俺はそう言って、「由里子」に近づいた。俺は「由里子」の顔をじっと覗きこんだ。「由里子」の瞳が少し潤んでいるような気がした。
「ありがとう、由里子。じゃ、いくぞ。」
俺はそう言って、ゆっくりと「由里子」に覆いかぶさるようにした。
ゆっくり、ゆっくり、そう「由里子」を抱きしめるように、体を重ねていった。俺の体は、少しずつ、すぅっと「由里子」に吸い込まれるように染みこんでいった。
由里子を押しつぶすわけでない、消し去るわけでない、心から一つになるように、全身の感覚を一緒にするように、俺は徐々に、徐々に染みこんでいった。心の中で
「由里子、一緒になろう。」
そう呟きながら。
由里子は満足そうだった。満足そうに、俺の中に染みこんできた。お互いが混ざり合うように、染み合うように、俺と由里子は一つになっていった。

俺と由里子は、一つだった。



目を薄く開けると、病室の天井が見えた。少し左に視線をずらすと、母がコックリコックリとうたたねをしていた。疲れているのだ。父は、イスに座って本を読んでいた。俺は口を開いてみた。声は出るか。あ、あ、と小さく唸ってみる。
大丈夫、出そうだ。俺は母を呼んだ。
「かあさん・・・」
その声に父の方が先に気付いた。本からはっと目をあげ、俺の方を見た。
「かあさん・・・とうさん・・・」
俺は小さいが確実に聞こえる声で、二人を呼んだ。

「おいっ!母さんっ!敬介が、敬介がしゃべったぞ!」
うたた寝をしていた母さんが飛び起きる。
「・・・かあさん」
母は、驚いた顔で俺を見て、思わず自分の口に手を当てた。
父は、バタバタと病室を出て行き、「看護婦さんー、敬介がー!」と叫んでいた。
母が「敬介!あんた、しゃべれるのね!大丈夫なのね!」と俺の頬に手を当てて叫んだ。それから俺は医師の診察を受け、再びベッドで安静にするように指示された。落ち着いてきた母に俺は、ゆっくり言った。
「…母さん。ネックレス、拾わなかった…?青い石の入ったハートのネックレス…。あれさ、、、俺のなんだよ。どこにあるか、わかんないかな…」
母が、それがICUで拾ったものだと言うことを思い出すのに少し時間がかかった。
「ええ、ええ、わかったわ。看護婦さんに預けたから、貰ってくるね。」
そう言って、パタパタと病室を出て行った。

俺の中に、由里子の明らかな痕跡は残されていなかった。

ただ、今は無性にココアとアップルパイが、食べたかった。


退院したら、すぐに、すぐに食べに行こう、な。由里子。



(完)

窓越しの彼女

少し、泣ける話になったと思っています。前作より会話文が多く、稚拙な作品になってしまいましたが、いかがだったでしょうか。

窓越しの彼女

古臭いアパートの一室、突然の不可思議な怪異に翻弄される、ごく普通の大学生、佐倉敬介は、やがて自分の体に奇妙な変化が起こり始めたことに気付いた。そこで出会った謎めいた女性との関係から進んでいく、不思議な物語。銀杏の木の上で繰り広げられる、奇妙な関係を描くちょっとホラーな恋愛ファンタジーです。

  • 小説
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  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-05-19

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