きらめくジャズをあなたに

「うちでやるディナーショーのチケットが1枚あるんですが、新藤さん、ジャズはお好きですか?」
 いつも野菜を納品しているホテルの担当者からそう言われ、平八は(来たな)と思った。
「あ、いや、とんと不調法でして。ご協力したいのは、山々なんですが」
 すると、担当者は「やだなあ」と言って笑い出した。
「違いますよ。押し売りじゃありません。今は公取(公正取引委員会)がうるさいですから、昔みたいに『販売協力』なんてことはしてませんよ。純粋にプレゼントです」
 以前は『販売協力』と称して、行きたくもないディナーショーのチケットを売りつけられたものだが、時代は変わったようだ。平八はややホッとしたものの、まだ半信半疑であった。
「はあ。でも、お高いものでしょう?」
「実は、ここだけの話ですが」
 担当者が声をひそめて話したことを要約すると、VIP用にキープしてあった最前列の席が、先方の都合でドタキャンになったらしい。空席にするわけにもいかないし、ペアの参加者がほとんどだから、1席だけではなかなか売れない。そこで、日頃取引きのある会社にプレゼントしよう、ということになったという。
「うーん、ありがたいお話ですが、わたしにとって音楽といったら、酔ってカラオケで唄う演歌ぐらいでして。とてもとてもジャズなんて高尚なものは、ネコに真珠、あ、いや、ブタに小判、あ、いえ」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。ディナーだけでも楽しんでいただければ、後は、ねえ」
 そう言って、担当者は片目をつむった。要は、サクラであろう。
「そうですか。それでは、お言葉に甘えます」
「良かったあ。ありがとうございます。今週の金曜日、夜7時からです」

 当日、平八は慣れないネクタイに息苦しくなりながら、テーブルに付いた。驚いたことに、最前列の中央のテーブルの一番前である。同じテーブルに座っているのは、どう見ても一流企業の重役と連れの女性たちであった。居たたまれないとは、まさにこういう状態だろう。
(こりゃ、早く酔った方がいいな)
 最初に注がれたシャンパンを一気飲みして、少し落ち着いた。さすがに次々出てくる料理はすべて絶品で、ソムリエが薦めてくれたワインの酔いも手伝って、平八はすっかりいい気持になった。
(まあ、演奏が始まったら、目をつむって聞くふりしてりゃ、いいだろう)
 平八にとってジャズとは、喫茶店の退屈なBGM、というイメージしかない。場合によっては、こっそり寝てしまおうと考えていた。
 ディナーが一段落したところで、まもなくショーが始まる旨のアナウンスがあり、照明が落とされた。ステージにはグランドピアノが1台あるのみ。会場はシーンと静まっている。
《みなさま、お待たせいたしました。原ひみこさんの登場です!》
 司会者の紹介に続いて、華やかなドレスに身を包んだ若い女性がスポットライトに照らし出された。
(有名なジャズピアニストと聞いたが、ずいぶん若いな。それに、思ったより小柄だ)
 原は深々と礼をすると、ピアノのイスに座った。静寂の中、原の両手が上がった。次の瞬間、指を突き立てるように鍵盤に振り下ろした。
(な、なんだ、これは)
 二度、三度、不協和音を響かせた後、一体に動いていた指がほどけ、目にも止まらないスピードで鍵盤の上を舞い始めた。超絶的な技巧である。
 最初、口をポカンと開けていた平八は、引き込まれるように前のめりになった。
 原の演奏は激しさを増し、まるで全身を鍵盤に叩きつけるかのようであったが、不思議なことに、一つ一つの音が極めてクリアに聞こえてくる。
 いつの間にか平八は、その一つの音も聞き逃すまいと、全神経を集中していた。
 原の演奏は、彼女の内面にある情念そのものをピアノにぶつけるかのように高まっていった。両腕を振り上げ、振り下ろし、それでも足りぬかのように肘を打ちつけた。
 原が最後のフレーズを弾き終わった瞬間、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
 平八も思わず立ち上がり、叫んでいた。
「ブラボー!ブラボー!」
(おわり)

きらめくジャズをあなたに

きらめくジャズをあなたに

「うちでやるディナーショーのチケットが1枚あるんですが、新藤さん、ジャズはお好きですか?」いつも野菜を納品しているホテルの担当者からそう言われ、平八は(来たな)と思った。「あ、いや、とんと不調法でして。ご協力したいのは、山々なんですが......

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted