天使
「その日、ボクは、肉体を捨て去りました。
自殺ではありません。肉体というものはボクの本体ではなく、ボクという精神を内包する、転生可能な、乗り物にしかすぎないのです。死んだわけではありません。また転生しただけです。
肉体というモノは『第三次元意識界』の産物にすぎなくて、ボクの使命、つまり、『第六次元意識界(天使の世界です)』に人類を到達させるための過程でしかないのです。使命を果たしたら、肉の身体など捨て去ってしまって構わないのです。
ボクの過去世は天使でした。しかし、キリストやマホメット、ブッダがそうであるように、ボクもこの『第三次元意識界』に転生し、人類を導く仕事を与えられたのです。
それも、今、終わりました。
ボクは、過去の先人達に比べると、あまり上手に仕事をこなせなかったようです。
ですが、少なくとも人類の罪を自分の肉体に刻み、捨て去ることによって、キリストがそうしたように、人類の罪悪を浄化できたように思います。
ボクのことなら心配しないでください。ボクは肉体を捨て去り、天使に還って、大いなる父の腕に抱かれるのですから。
それが、転生してからのボクが焦がれていた、唯一の幸せなのです。
その日、ボクは、肉体を捨て去りました。」
『その日、俺は、くだらないことをしてしまいました。
くだらないことをして、逮捕されました。
でも俺は、弟の遺言を守っただけなのです。それがどんなにくだらないことか分かっていたのですが、それ以外に俺が弟にしてやれることはなかったので、そうしました。それだけのことです。
ごく当たり前の結論を言わせてもらうと、何事も起こりませんでした。起こるはずがありません。笑ってください。何事も起こりませんでした。
それでも、弟は天使でした。愛らしい天使でした。
少なくとも俺にとっては、大事な、かけがえのない、天使でした。
俺は清美の兄です。世界中の誰もが弟のことを天使じゃないと言っても、俺だけは弟を信じます。弟は天使でした。自分を天使だと信じて疑わないまま、死にました。
その日、俺は、くだらないことをしてしまいました。』
「ボクには、暖かくて優しい、お父さんがいます。
いえ、肉体レベルの話ではありません。天使としてのボクを、いつでも優しく見守っていてくれる、お父さんです。この『第三次元意識界』では、神、と呼ばれています。
お父さんはボクが可愛くて仕方ないみたいです。ボクが上手にお仕事ができるか、いつも心配してくれています。
人類の罪深さに触れて、ボクが怖くて泣いてしまった時は、お父さんが優しく慰めてくれます。ボクにしか聞こえない声で、『清美は天使なんだから、くじけちゃいけないよ』と、暖かい言葉をかけてくれます。
ボクは、お父さんが大好きです。
人類はみんな、お父さんの声を聞ける能力があるのに、まだこの世界が『第三次元意識界』であるために聞けないのです。可愛そうです。お父さんはあんなに優しいのに。
早く、人類が意識の進化を迎えられるように、ボクの使命を果たそうと思います。」
『弟と俺は、腹違いの兄弟です。
俺の父親の浮気の果てにできたのが清美でした。
浮気と妊娠の事実が俺の母親にバレたあと、父は母に土下座し、平謝りし、ご機嫌をとり、結局、離婚することもなく、俺の父親で居続けました。
清美の母親は独りで清美を産んで、誰か他の男性と結婚することもなく、母子家庭として清美を育てました。それが悪いことだとは思いません。
しかし、自分を捨てた俺の父への嫌がらせとして、清美を産んだのは最低の選択でした。あの女は最悪です。
それだけに留まらず、清美が幼い頃から、「お前の顔を見る度にあの男を思い出して不愉快だ。イライラする」と言い続け、近所にも平然とそう吹聴し、何かあるごとに清美を虐待していたのです。
育児放棄され、暴力を振るわれ、自尊心をズタズタにされてきた清美は、他人とうまくコミュニケーションをとる能力を持っていませんでした。
それゆえに、同じ年頃の子供達からもイジメられていたようです。子供らしい残酷さでもって、『変わり者』の清美を罵倒し、無視や嘲笑、暴力の対象にしていたようです。
そういった環境にあって、清美が自分の傷ついた心を癒すために、ありもしない『理想の父親』という妄想を作り出し、逃げ込んだとして、誰が責められるでしょうか。
家庭にも学校にも逃げ場のない清美が、過酷な現実から逃避する最後の手段として、自分を『天使の生まれ変わり』だと信じることを、誰が責められるでしょうか。
正月、気分よく酔った父親の口から、腹違いの弟の存在を初めて聞き、それから興味本意で清美に会いに行った時、清美はもう中学生で、もう、天使でした。
俺は、清美が可愛そうで仕方ありませんでした。
極論してしまえば、俺には父親がいて、清美にはいなかった、ただそれだけのことです。
ただそれだけのことが、この子を天使にしてしまったのなら、俺は血を分けた兄として、また、父親を独占していたことについて、清美に対して責任があると思いました。』
「陽介さんは、過去世において、天使であるボクを補佐する役割でした。
それは、現世に転生したあとも変わりません。
ボクの、天使として人類を導く仕事を手助けするのが、過去世においても、現世においても、あの人の使命です。ボクより早く産まれて、現世の調査を先に済ませていたことも、その証拠なのだとお父さんが教えてくれました。
だから、多少無茶なことを言ってもいいのです。あの人はボクに仕えるために転生してきたのだし、それがあの人の喜びであるに違いないのです。
ボクが、
『この世界は暴力や排斥や、たくさんの罪に満ちているけれど、それを善い方向に導く使命を受けてボクらは転生してきたのだから、一緒にがんばろうね』
と言った時、あの人はその言葉に感動して泣きました。
泣いているあの人を見たら、なんだかわからないけれど、ボクの瞳からも涙がこぼれました。
きっと、精神感応に違いありません。
同じ第六次元意識界から来た同志として、精神が呼応し、ボクも嬉しくて泣いてしまったに違いありません。」
『結局、清美が俺のことを「兄さん」と呼んでくれたことは、一度もありませんでした。
それもそうだと思います。清美は直接なにも言いませんでしたが、多分、俺のことを憎く思っていたに違いないのです。同じ兄弟でありながら、こうも境遇の違う俺のことを、心のどこかで憎く思っていたとしても、仕方のないことなのだと思います。
俺は、清美に恨まれていた分だけ、いや、それ以上に、清美に優しくしました。
偽善ではありません。心の底からそれを望んでいたのです。
多少無茶なことを言われても、それをかなえてあげたかったのです。
と言うのも、清美は天使であるがゆえに、中学校でも差別や無視、暴力などのひどいイジメにあっていて、殴られるのでしょう、身体に青黒いアザをたくさん作っていました。
そんな清美を見ると、自然に、優しくせずにはいられなかったのです。
日曜日、顔を少し腫らせた清美を連れて遊びに行き、お昼をマックで済ませた時、清美はハンバーガーを片手に、
「この世界は暴力や排斥や、たくさんの罪に満ちているけれど、それを善い方向に導く使命を受けてボクらは転生してきたのだから、一緒にがんばろうね」
と微笑みました。
俺は、その言葉に泣きました。悲しくて、悔しくて、ただ、泣きました。
清美が何をしたと言うのでしょうか。
清美は、ただ、天使なだけです。
つらい現実を耐えるために、心の防衛本能が、清美を天使にしただけです。
清美が欝病の患者だったら優しい言葉もかけるだろうに、どうして天使にはそうしないのか、俺には分かりませんでした。
顔を上げると、清美も、泣いていました。』
「何百年かに一度やってくる彗星が、地球に近づいているとテレビのニュースで聞いて、合図だ、と知りました。
ボクが肉の身体を捨てて、天使に還り、『第六次元意識界』に旅立つ合図なのです。
肉体にアザとして刻み込まれた人類の罪を身体ごと浄化する時期なのだと、お父さんが教えてくれました。彗星に乗って還っておいでと、優しく言ってくれました。
しかし、還るにはちょっとした儀式がいります。
あの人に手伝ってもらうことにしました。
ボクは、夕日の照らすマンションの屋上、柵の外に立ち、携帯からあの人に電話をかけました。」
『取った電話が、俺の家の隣に建つマンション、その十三階の屋上からであると知った時、俺は、嫌な予感にかられました。
携帯を切らずに話を続けながら、すぐに家の外に出ました。
マンションの屋上を見上げると、夕日を浴びて、清美がそこに立っているのが見えました。電話口から聞こえる清美の声が、
「彗星に乗って、還る時期が来たんだ」
と告げました。』
「ねぇ、陽介さん。貴方に、最後の使命だよ。
ボクはこれから飛び降りるから、そしたら、ボクのおなかをナイフで裂いて。そこから手を入れて、ボクの心臓を取り出して、日が沈む前に太陽に捧げて。それでボクは翼を取り戻して、お父さんのところへ還れるから…」
『「いやだ! やめろ、清美! そんなのは全部嘘だ! 妄想だ! お前が死んでも、心臓を取り出しても、翼なんか生えるはずがない! やめてくれ…!」
俺の言葉は、清美には通じませんでした。』
「貴方とも、もうお別れだね。でも、貴方もあっちの世界に還って来たら、また会えるよ。悲しまないで。
ボクはあっちの世界に還れることが嬉しいんだから、貴方も、笑顔で見送ってね。
ああ……、今だから言うけど、正直な話、ボクはこの世界が大っ嫌いだったよ! もっと早く、こうしたかった!」
『その言葉を残して、清美は落ちてきました。
頭から地面に落ちた清美は、堅いアスファルトで頭を割って、血と脳と肉片を巻き散らしながら一度バウンドし、どさりと音を立てて地面に横たわりました。飛んだ肉片の一つが、俺の顔を打ちました。
時間が一瞬、止まったように思いました。
清美の腕も、足も、首も、変な風に曲がっていましたが、その時の俺は、心が一瞬の内に凍ってしまったのか、それを気持ち悪いとも何とも感じず、清美のそばにしゃがみこんで、アザと血にまみれたその体を抱きかかえました。
涙は、出ませんでした。
清美の死と一緒に、俺の感情も死んでいました。
抱いた清美のズボンのポケットから、コトンと、安物の折り畳みナイフが一つ、落ちました。夕焼けの空から差し込む茜色の光線が、ナイフをオレンジ色に染めました。
そのナイフをなんに使うのか、俺には分かっていました。
それは、儀式のための神具でした。
腹を裂いて、心臓を取り出し、太陽に捧げるための、安物で、粗末な、清美のおこずかいで買えた精いっぱいの聖なる刃でした。
弟の最後の願いをかなえてやるのは兄としての責任なのだと、その時、ぼんやりと思いました。
俺は、ゆっくりと、ナイフを拾い上げました。』
「その日、ボクは、肉体を捨て去りました。」
『その日、俺は、くだらないことをしてしまいました。』
天使