アンパムマン
「痛え! 死ぬほど痛え! 畜生! 地獄だ、まるで! くそったれ! 畜生! 畜生っ!」
頭部が確実に減っていく感覚の中、男は絶叫した。
ツインテールの少女が、泣きわめく男の頭を必死に食べている。男の頭の皮を噛みちぎり、中身をすすり、飲み下す。
少女の口元は、男の頭の中身が付着して黒くなっていた。
「あなたが、食べてくれって言ったんじゃない!」
少女が涙を流して叫ぶ。だが、その泣き顔はもう、男には見えていなかった。男の眼球は、すでに少女の胃の中に収まっていた。「なのに、泣きわめくなんてずるいっ!」
男は、少女に食われていく。
匂いがしなくなった。鼻が食われた。
視覚も嗅覚も無い。だが、聴覚はまだ残っている。
男には初めから耳がなかった。音は、心に直接響いてくる。
その心の耳が、げぼっ、と、何かが吐瀉された音を聞いた。そのあとに、少女が咳き込む音。
「吐くんじゃねえ畜生! 食え! もっと俺を食ってくれ!」
叫んだ男の体が突き倒された。駆け出していく足音を男は聞いた。少女が逃げていくのだとわかった。
「待て! 待ってくれ! まだ口が残ってる! ちゃんと全部食ってくれよ! なぁ、食ってくれよ! それが俺の幸せなんだ!」
男の声は、もう少女には届かない。
『アンパムマン』
マーマレードおじさんが死んだ。脳卒中だった。
その日からアンパムマンを含め、アンパムマンを取り巻く全て人達の人生は狂い始めた。
マーマレードおじさんには、ヤクザ関係の金融機関から借りた多額の借金があったらしく、一人娘のマーガリン子さんはソープに沈められた。愛犬のカマンベールは首輪をなくし、保険所のガス室で処分された。
残ったのは、アンパムマンと食パムマンだけだった。
カレーパムマンは、新しい首を作ってる途中にマーマレードおじさんが倒れたため、首がない。死体だった。
そして、残された二人は絶望した。
新しい首を作ってくれる人はもういないのだ。つまり、今ある首を、賞味期限が過ぎるまでに誰かに食べて貰わなければならない。今までのように、賞味期限が過ぎたら首を代える、なんて事はできない。
二人にとって、食べられることこそが存在理由だった。
そのために生み出されたのだ。食べられなければ生きている意味などない。生きていく意味さえない。
呆然、悲嘆、虚脱──を経て、16時間ほど賞味期限をすり減らして絶望から立ち直った二人は、お互いに背中を向けて、それぞれ反対の方向へ旅立った。食べてくれる人を探すために。誰かに食べてもらうために。賞味期限が過ぎる前に。
二人とも、まだ一度も、誰かに食べてもらったことがなかった。
「……アンパムマン」
肩を揺する男の声で、アンパムマンは意識を取り戻した。
どうやら、少女に逃げられた絶望のあまり気が違わんばかりに絶叫したあと、事切れたように気絶していたようだ。
「食パムマンか?」
肩に置かれた男の手に自分の手を重ねると、弱々しい声でアンパムマンは男の名前を呼んだ。「うん…」という優しい声。食パムマンの顔は、もうアンパムマンには見えない。
「ちゃんと食べてもらえたんだね」
食パムマンの言葉に、アンパムマンは首を振った。
「見えてるんだろう? 地面に吐き出されたゲロが、さ。あいつ、吐きやがった。俺を吐き出しやがった」
アンパムマンは悔しくて泣いてしまいたかったが、涙腺は吐瀉物に変わって地面にこぼれていた。
「…僕には見えない。見えないよ」
食パムマンは小さく首を振ると、地面に横たわるアンパムマンの上半身を起こし、強く抱き締めた。吐瀉物は視界の中にしっかりと存在していたが、そんな悲しい話は聞きたくなかった。
「見えない? ああ、そうか。ちゃんと食ってもらえたんだな、お前も」
アンパムマンの安堵の声。その声を聞いて、食パムマンは一つ息を飲んでから、「うん。キミと一緒で、口だけ残されたんだ」と嘘をついた。
実際は、食パムマンはまだ食べられていなかった。
しっかり首がついていた。
放浪の旅の末に食パムマンが思い知ったのは、誰も素の食パンなど食べない、という事だった。何かジャムのような物でもあれば別だったかもしれない、食パムマンの頭がせめてトーストされていたら別だったかもしれない。
だが、そのどちらでも無かった食パムマンは、結局、誰かに食べてもらう事なんてできなかった。
食パンで出来た顔には、今では無数の青い斑点が浮いている。カビだ。
食パムマンの背中にトレードマークのように張り付いている白いマントには、赤い文字で、『食べられません』と落書きされていた。道で寝転がっていたら、子供に書かれた。
その瞬間に、その文字に、放浪生活の中で初めて食パムマンは大きな笑い声をあげた。自分の顔の表面のように、乾ききった笑い声を。
食パムマンの賞味期限は、とっくに過ぎていた。
「…なぁ、食パムマン。俺って、最後の最後まで不細工だったよなぁ。せっかく食べてもらえたのに、吐かれたんだぜ? 不細工だよなぁ」
アンパムマンが自嘲気味に笑う。
「そんなコトないよ!」
食パムマンは言った。「一度は胃の中に収まったんじゃないか。じゃあ、それでいいじゃない。充分だよ」
食パムマンは、アンパムマンが羨ましかった。まがりなりとも、一度はちゃんと食べてもらえた彼が。自分にはもう、食べてもらうチャンスなどないのだ。
「ありがとなぁ、食パムマン。だけど、そうやって慰められると逆に悲しくなるぜ…」
「…ごめん」
でも──食パムマンが言葉を続ける。「食べられたからって、それが何になるっていうんだろうね?」
その言葉に、アンパムマンはひどく驚いた。
「何を言ってるんだ? ちゃんと食べられることこそが俺達の存在する理由じゃないか。生きる理由じゃないか。食べられないなら、俺達の存在に意味はない」
食べられなければ意味はない──その言葉に、食パムマンの胸がちくりと痛む。だが、食パムマンは平静を装って言った。
「たまに、こんなコトを考えるよ。僕達は所詮パンだ。栄養価なんてないに等しい。食べて貰えたからってどうなるモノでもないでしょ。血にも、肉にもならない。
昔、どこかの神様が言ったよ。人はパンのみによって生きるにあらず、って。パンだけじゃ生きられない……いい? パンだけじゃ人は生きられないんだ!
誰かを生かすこともできない僕達が生きてることに、なんの価値があるっていうのっ! 食べられたってどうにもならないじゃないか! 血にも肉にもならないままに、キミのように上から出されるか、よくて下から出されるか、それだけだよ!」
激高した食パムマンの瞳から涙がこぼれた。こぼれた涙は、抱きしめたアンパムマンの体を濡らす。
アンパムマンはそっと腕をのばして食パムマンの顔に触れた。手探りで、優しく涙を拭いてやる。「泣くなよ…」
「ごめんね、アンパムマン。僕、食べられたって嘘をついちゃった。本当は、賞味期限なんか過ぎちゃってるのに…」
「いいさ、気にすんなよ」
アンパムマンが口だけで微笑む。「俺、一つだけ、わかったことがあるんだ」
「…なに?」
食パムマンは涙を跡をぐしぐしと拭いた。
「たしかに俺達が食べられることには意味がないのかもしれない。でも、食べられてた時、俺は生きてた。生きてるって思った。不思議な感覚だった。頭を噛み砕かれ、激痛にのたうち回っていても、不思議と心地良かった。痛いのが気持ち良かった。死んでいくのが気持ち良かった。
少女の舌が俺の頭の中に入り込み、噛み、口の中で溶かしていく時に、俺の体温は少女の体温と同じ温度だった。一つになるのだと思った。これが『生きてる』ということなのかと思ったよ。
俺は死にゆき、そして生きゆく…」
満足そうに呟くアンパムマンの言葉に、食パムマンが言えることなど何もなかった。ただ、黙って聞いていた。
「お前も、いつか食われるといいな」
アンパムマンが、優しく食パムマンの顔を撫でる。
乾燥した食パムマンの表皮が、止まった涙の代わりにぽろぽろと落ちた。
「………食べたい」
食パムマンの小さな声。
「え?」
「アンパムマン、僕はキミが食べたい」
はっきりとした口調。「僕はもう誰にも食べてもらえないだろうから、せめて、キミを食べたい!」
食パムマンの言葉に、アンパムマンはゆっくり頷いた。「ああ、食べてくれ。お前と俺とは同じパンだ。より一つになれそうな気がする」
「うん…ありがとうアンパムマン…。僕と、一つになろうね…」
食パムマンは、アンパムマンの頬にそっと自分の唇を寄せた。
「痛え! 死ぬほど痛え! 畜生! 地獄だ、まるで! くそったれ! 畜生! 畜生っ! でも……ああっ!!」
アンパムマン