書くための道具

書くための道具論の序章である

  書くための道具

 この一文は書くための道具の個人的な遍歴を述べたものである。鉛筆から始まって、パソコンに到る遍歴である。
僕は小学生の時、文字を鉛筆で書くように教わったし、多くの子供がするように書く練習もした。書くための道具は鉛筆だった。何の変哲もない。
 中学三年のある時、僕はボールペンで藁半紙の上に文章を書いていた。心の中に言葉が響く。その響いてきた言葉をボールペンで紙の上に書き留める。ボールペンは滑らかに動く。時々ペンの先にインクが溜まったり、それがぼとっと文字の周りに着いて汚くなったが、それでも思うようにボールペンは動く。ペンの先に何か小さな動物がいてするする動かしているような錯覚に陥りそうだった。
 高校に入って、僕はボールペンをやめ万年筆にした。鉛筆は縦書きで書くと手が汚れたし、ボールペンはインクの滲みが汚かった。万年筆は学校でノートをとるときも、家で勉強をするときも使った。数学もノート以外の紙の上で解くときは万年筆を使った。万年筆はインクを消耗する。僕は瓶に入ったインクを買ってきてスポイドでインクを補充しながら使った。三年間で使ったインクの量は瓶にして十三本になった。万年筆は何本か書き潰し新しい物を買ったが、安物であってもしばらく使っていると手に馴染んできてするすると走ってくれた。
 高校二年の秋に、僕はタイプライターを買ってタイピングの練習をした。アメリカ人は論文やレポートを書く時にタイプライターを使うと言う。アメリカ人に負けずにこれからの時代を生き抜くには英語が使え、タイプライターで英文が書けないといけないと思ったからだ。さらに、コンピュータが普及する時代が間もなく来る。コンピュータを使えるようになるためにはタイプライターを自由に使えないといけないと思ったからである。今から考えると、それらは劣等感のなせる業(わざ)だったが、当時は真剣にそう思い、独習でタイピングの練習に打ち込んだ。タイピングの教則本にテープが付いていて、「お馬の親子」などの音楽と合わせて十本の指でタイプライターを打つ練習システムになっていた。
 お馬の親子は
 ぽっくりぽっくり歩く
という歌がいつも耳に響いている時があったが、一ヶ月もすると、手で書くより速くタイプできるようになった。(高校の時下宿していた)僕は、家に送る手紙をタイプライターで書いた。しかし、英文の手紙は親には不興だった。不興だと知ると書く気がしなくなった。タイプライターはある程度打てるようになると、興味も薄れ、受験勉強も忙しくなったので、差し迫った必要性がないと使わなくなった。それ以来タイプライターは部屋の片隅に置かれたままになり、埃を恐れてついに箱に入った。
 それから二十年(今から十年前に)、僕は初めてパソコンに触れた。最初、「かな入力」で入力した。一文字入れるのに、いちいちキーボードの文字盤を探すような状態だった。いらいらが募るだけでとても文章など書けるものではなかった。ところが、「ローマ字入力」に切り換えてみると、何と、高校の時やったタイピングの要領が蘇ってきた。しばらく練習を積むと、難なく文字が書けるようになった。しかも手で書くよりも速く書けるようになった。僕は高校の時にやったタイプライターのタイピングの練習は決して無駄でなかったと思った。もっとも英文を書くためではなく日本文を書くためになってしまったが。
 心に浮かんだ言葉を端から次々書き留めていくには、パソコンは鉛筆やボールペン、万年筆に匹敵するような道具となる。否、それ以上に便利な書くための道具となる。(そのためには手で書く以上に速く入力できる必要があるが、それは訓練次第である。)何が便利なのか。それは修正が手書き以上に容易なことにある。心に浮かんだ言葉は書きながら心に響かせてみる。どうも響きが悪いときには前に書いたものを書き直す。書き直しは、鉛筆の場合は消しゴムで消し新たに書く。ボールペンや万年筆の場合は二重線や×印を入れて、新たに書く。しかし、いずれの場合もどうしても汚くなる。それに対し、パソコンの場合は、消したり付け加えたりすることが容易にしかもきれいに出来る。それだけではなく、いくつかの段落の順序を簡単に入れ換えることが出来る。さらに以前の文章を引用する場合、一度入力してあれば改めて書く必要はなく、簡単な操作で引用が可能である。その他検索や置換という強力な武器がある(これを説明すると長くなるから省略する)。一度パソコンで文章を書く味をしめたらもう手放せなくなる。
 パソコンやワープロを清書のための機械だと思っている人がかなりいるが、それは利用価値を著しく貶(おとし)めていると思う。パソコンは清書のためよりもむしろ、推敲しながら書くための道具である。僕は最近大学入試のための推薦書を何通か書いたが、下書きにパソコンを使い、清書はボールペンで手書きした。推薦書のように気の張る文章の場合、何度も手直しが必要である。その時にこそ修正の容易なパソコンを使うべきである。一旦推薦文が出来てしまえば、後はそれを見ながら手で書くのである。手書きで下書きを作ってからパソコンに入力する人がいるが、これはパソコンを清書のための機械だと信じている哀れな人である。
 論理だけで文章を書く人がいるとしたら僕にはほとんど信じられない。何故なら文章を書く原動力は、論理ではなく情熱であり、内から沸き起こる感情であり、天から降る霊感であるからだ。それらをまとめてパッションと言おう。人はパッションにつき動かされて文章を書く。たとえ、見かけ上は論理の塊のように見える数学書であってもその裏には書いた人のわくわくするような感情や水晶のような純粋な美しさに対する感動がこめられていて、それが伝わってくるときがある。それはその数学書を書いた人がわくわくしながら書いたからであり、数学の美しさに感動しているからである。パソコンで文章を書く場合、手書き以上に速く入力出来れば、パッションが妨げられることはない。パッションにつき動かされて文章を書くとき、それがボールペンであろうが、万年筆であろうが、パソコンあろうがかまわない。ただ、便利さから言えば、圧倒的にパソコンが優位にあるというだけである。今まで僕は、書くための道具として、鉛筆、ボールペン、万年筆、タイプライター、パソコンと遍歴してきた。そして、パソコンは今や僕の思いや感情や考えを書くためのなくてはならない道具となっている。生活の一部分である。
 自転車で学校から家に帰る途中、僕はある思いに捕らわれた。
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 言葉は天より降り注ぎ、
 地より湧き、
 胸に溢れる。
 その言葉を書き留めよ。
 その言葉を人々に述べ伝えよ。
 そは真(まこと)なればなり。

 その姿は天より降り、
 内より湧き起こる。
 目には見えねども、
 瞼に映るその姿
 しかと捉えたり。
 その姿、言葉もて書き留めよ。
 人々に述べ伝えよ。
 そは真(まこと)なればなり。
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 僕にとって、パソコンはそのための道具である。

書くための道具

書くための道具

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-03

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