そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(8)
八 三十キロ地点
かなり遠くにきたように思る。スタートしてからずっと海を見ている。このまま海を見ていたら、太平洋を渡れるんじゃないか。それぐらい海を眺めている。また、折り返し地点だ。ここはT市の端なのか。さっきが西の端だったから、今度は東の端だろう。山に木が生えていない。黄土色の土がむき出しだ。コースの沿道の空き地には、たくさんの石がピラミッドのように積み重ねられている。ここはエジプトか。知らない間に太平洋を渡り、アメリカ大陸を横断し、大西洋も渡り、アフリカ大陸に到着したのか。まさか。店舗がある。墓が並んでいる。墓石か。ここは墓石の産地なのか。
それにしても、歩いているランナーが増えてきた。みんな疲れているんだろう。そりゃ、そうだ。フルマラソンなんだもんな。四十二キロだろ。車なら一時間、自転車でも二時間はかかる。それを人間の足で走るんだからな。なんで、そんなことするんだろう。暇なのかな。他にすることがないのかな。でも、昔の人は、自分の足で歩いていたんだろう。今も、四国巡礼のお遍路さんは歩いている。
やっぱり、歩くことは大切なことなんだ。膝が痛いことはあるけれど、アキレス腱が痛いこともあるけれど、股関節が痛むこともあるけれど、痛いところばっかしだなあ、それでも足は健康だ。頭はボケても、足さえ元気ならばどこへでもいける。そう、どこへでも。でも、方向と元の場所の戻れるかどうかは保証がない。それが大切だ。そう言えば、このマラソン大会のゴールはどこだ。他のランナーたちの後ろについて走ってきたけれど、よく考えれば、ゴールを知らない。どこまで走らなければならないのかわからない。まあ、いいか。倒れた所がゴールだ。ゴールした後で、次に何をするのか考えよう。
ここからだ。ここからが勝負だ。昭は自分に言い聞かせる。これまで二回フルマラソンに出場した。いずれも、三十キロ地点でリタイアした。足がつり、動けなくなったり、足に豆ができ、股関節も激痛となり、走れなくなった。道路の縁石に座っているうちに、収容バスがやってきて乗り込んだ。あんなみじめな思いは二度、いや、二度収容されたので、今回が三度目だが、三度も味わいたくない。痛む足を引きずりながらバスの上がると毛布が渡され、空いている席に座る。誰の横にも座りたくない。
バスの中は、重く垂れこめた雲のような、沈黙のみだ。リタイアランナーたちは犯罪者のように俯いている。誰とも顔を合わそうとはしない。何を考えているのか。もっと練習しとくべきだっとか、いや、仕事に家庭に忙しかったので、練習する時間がなかったとか、足さえ吊らなければもっと走れたとか、Tシャツじゃなく長袖シャツを着ていれば寒くならずに済んだのにとか、都合のいい理由を考えているのだろうか。まさに、自分がそうだった。しかも、二回も。
今度こそ。今度こそ、完走を目指したのが、今回の大会だった。第一回目の大会だったこと、制限時間が六時間と、これまでに出場した大会に比べて長い。タイムよりは、まずは完走。それを目標に練習を積み重ねてきた。そして、課題の三十キロを迎えた。
これまでのところは順調。だが、二回参加した大会でも三十キロまでは順調だった。安心してはだめだ。ここからが自分の課題なんだ。三十キロ地点を通過したぞ。あれ、足がおかしい。そんな、馬鹿な。あれほど練習をしてきたのに。いいや、気のせいだ。ダメだと思うとダメになるんだ。大丈夫と思えば大丈夫だ。いや、やっぱりおかしい。足の裏に豆ができたのか。股関節も痛み出した。右の付け根だ。それをかばって走っていると左の付け根も痛くなってきた。やばい。このまま走り続けるか。少し歩くか。周囲を見渡す。何人かのランナーが屈伸を繰り返ししたり、歩きだしている。前の自分と同じだ。やはり三十キロの壁か。自分にはマラソンは向いていないのか。でも、ここでやめるわけにはいかない。
今回は、制限時間は六時間だ。十分、余裕があるはずだ。後ろを振り返る。関門の制限時間を過ぎたランナーを回収するバスは見えない。ずっと後ろのはずだ。バスが来る前にも前に進める。問題はこれからどうするかだ。このままスピードを落として走り続けるか、それとも少し休むかだ。無理をしてもつぶれるだけだ。だけど、休みと余計に体が硬くなって、走る気力が失せてしまう。
そうこうするうちに、スピードが落ちていく。自分では走っているつもりだが、沿道の応援する人から見れば、歩いているぐらいの早さだろう。自分でも足が上がらなくなり、すり足状態で前に進んでいるのがわかる。小石にでもつまずきそうだ。こうなれば遅かれ早かれ、ゼンマイが切れたおもちゃのように、自然に体が止まってしまいそうだ。
給水所が見えた。昭は給水所で立ち止まり、水を飲んだ。そして、そのまま走りださずに、その場で軽く屈伸を始めた。股関節が痛い。膝も痛い。肩を回し、屈伸をし、深呼吸をするものの、痛みは変わらない。本当にこのまま走れるのだろうか。
ふと横を見た。背広姿のランナーだ。すごいな。そんなかっこうでフルマラソンを走るなんて。顔を見る。どう見ても六十歳は超えている。すごいな。その歳で、自分と同じ距離と時間を走ったなんて。自分に自信がない分、他人に感心してばかりだ。背広姿の男は体中汗まみれで、背広が変色しているけれど、疲れた様子はない。なんだかひょうひょうとしている。四十キロだろうが百キロだろうが、どこまでも走って行けそうな雰囲気だ。男と目が合った。男はにこっとほほ笑んだ。「さあ、行きましょう」他のランナーの力を借りるように、男はゆっくりと走っている。昭も男の後ろに続いた。
もっと早く走りたい。もっと長い距離を走りたい。そうだ、念願のフルマラソンだ。テレビでマラソン大会を観て、俺は走り出したんだ。その夢をかなえたい。それ以来、昼間の休憩時間に、職場の近くの公園で走りだした。「よっ」既に、公園の中を走っているランナーがいる。先輩だ。二人で毎日のように、この公園の周りを走っている。
「今日は一周を三本だな」先輩が提案する。「はい」この公園の一周は約五百メートル。そのコースを全力で走る。そしてタイムを計る。スピード練習だ。フルマラソンを三時間で切りたい。サブスリーだ。市民ランナーでマラソンを走っている者にとっては、憧れの記録だ。その記録に挑むためには、スピードがいる。一キロ四分で走れば、四十二.一九五キロは二時間五十分で走れる。だが、本番に一キロ四分で走るためは、三分二十から三十秒で走る脚力が必要だ。そのために、スピード練習をしている。
「さあ、いくぞ」先輩が走り出した。俺もストップウオッチを押して、地面を蹴った。
そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(8)