世界で一番最高なオナニー
世界で一番最低なオナニー
世界で一番最高なオナニーをしてやろうと思った。
こう言ってはなんだが、この35年、俺の性行為はオナニーのみだ。
自慰行為だけで、この、35年間という人生の荒波を乗り越えてきた。
35歳で、ブサイクで、重度のアニメオタクで、小心者で、他人とのコミュニケーションがうまく取れない。そのせいで風俗にも行けない。生身の女性が怖いのである。ゆえに、オナニーのみが俺の心の拠り所だ。
重度のアニメオタクである俺は、使用するオカズも二次元のみと決めていた。二次元の美少女は俺の天使だ。逆に、三次元の美少女は悪魔なのだと俺は知っている。
そう、あれは中学2年生の時だ。
俺は、隣の席の美代子ちゃんに恋をした。学校で一番の美少女で、笑顔がかわいくて、誰にでも優しい女の子だった。
対する俺は、学校で一番のブサイクで、体重100キロのデブで、誰からもキモがられる挙動不審の男の子だった。あだ名はキモブタだった。
ある日の数学の時間のこと。
俺がうっかり落としてしまった消しゴムは、美代子ちゃんの足下に転がっていった。
女の子の足下にある消しゴムを拾うのに机の下に手を突っ込むわけにもいかず困っていると、美代子ちゃんは、「…どうしたの?」とでも言いそうなあどけない表情で俺の顔を見てから、俺の視線を追って、足下に消しゴムが落ちていることを知った。
細くて綺麗な指で消しゴムを拾い上げて、さしだした俺のてのひらに優しく消しゴムを乗せると、
「気をつけなきゃ、だめよ」
と、ふんわり笑った。
その笑顔に俺はめちゃめちゃにやられてしまった。恋をした。愛してしまった。この気持ちは真実だ。真実の愛だ。
これは、告白をせねばならぬ。
俺はその日の放課後、さっそく美代子ちゃんに告白をした。脂汗をだらだら垂らしながら、なんとか言葉を絞り出した。
「すすすすすす、すきすす、す、す、好きですっ!」
その時の美代子ちゃんの返事は、
「…ハァ?」
だった。なに勘違いしてんのこのキモブタは、と聞こえてきそうなほど嫌そうな顔をしていた。あれっ?美少女ってこんなブサイクな顔もできるんだ、と俺が思うほど、嫌悪感まるだしの表情だった。
彼女が小さく、「ありえないんですけど…」と呟いたのを俺は聞いた。
なので、もちろん振られた。
問題はその後だ。
次の日、学校に行くと、黒板に大きく、
『ニュース! キモブタが身の程知らずにも美代子ちゃんに告白して振られた!
付き合えるわけねえだろ空気読めよ無理だよブタだもん!』
と書かれていた。
美代子ちゃんは、「やめてよー、こういうことを書いたらかわいそうでしょー」と綺麗な声で言って、黒板消しでぜんぶ消してしまった。そして俺に、
「わたしが友達に告白のことを相談したせいなの。ごめんね?」
と可愛く謝った。
が、俺は彼女の本性を見ている。陰で何を言われているかだいたい想像はつく。
そして、学校で一番の美少女に告白したキモいデブのうわさは全校に伝わり、その日から、なぜか俺に対して、全校男子による一致団結した執拗なイジメが始まったのだった。
なのでもう、三次元の女は信じられない。二次元の美少女だけが俺の心と性器を支えている。
今、もっともお気にいりの美少女は、「魔法少女リリックなのか」のなのかちゃんだ。
異世界からやってきた『妖精リリス』に選ばれたなのかちゃん(女子中学生)が、ラップ調で歌う高速淫語を呪文として(えっちな)問題を(えっちに)解決していくエロ漫画である。
この「魔法少女リリックなのか」がアニメ化し、DVDとブルーレイでリリースされるという情報が雑誌に掲載され、俺の下半身は騒然となった。これは発売日に買うしかない。もちろんブルーレイで(画質のいい方)。
そしてもう、やることは決まっている。
オナニーである。
だが、俺の純情はただのオナニーを許してくれなかった。
大好きななのかちゃんの動画でオナニーする以上、特別なイベントにするべきだと俺は思った。
それこそ、世界で最高のオナニーにするべきだと思った。
なので、ネットで仲良くなった唯一の友人、兎谷 大丸(うさぎや だいまる)にメールを送った。
「件名:10万払う。
本文:妖精リリス型のオナホールを作ってくれ☆(ゝω・)v」
返事が返ってきた。
「件名:15万にしろ。俺の仕事はミラクルだ」
本文:」
どうやら話は通じた。
大丸は俺より年上の38歳。痩せこけて、いつも鬼気せまる表情をしている職人肌の男だ。昼間は、『手打ちうどん ウサギ屋』の店主である。
こだわりの麺から作られたこだわりのうどんは、彼の店から行列を絶えさせたことがなかった。それぐらい美味しいうどんを作る。
ウサギ屋の中で俺がおすすめするメニューは、「ウサギうどん」だ。
キツネうどんなら油揚げがのっているが、ウサギうどんにはニンジンのかき揚げがのっている。細切りニンジンの甘みがサクサクの衣の中に閉じこめられていて、すごく美味しいのである。
そんな、うどんの名店を切り盛りしている大丸だが、店が休みの日にはフィギュアを作る。型から何から自分でそろえて、一からぜんぶ自分で作るのである。
仕事同様、趣味の腕前も一流で、それはそれは素晴らしいフィギュアを作るのだが、残念ながら彼の創作意欲はクトゥルフ神話方面にしか向かないらしく、「イスの偉大なる種族」だの「ユゴスよりのもの」だの、なんだかよくわからない奇怪なフィギュアばかり作っている。そのせいで、うどんに比べるといまいち評価が低い。
だが、俺は知っている。大丸は造形の天才であり、萌えキャラだって作れることを。
そして大丸も知っている。俺のペニスが39センチ(勃起時)であることを。
俺のペニスは39(サンキュー)だ。
オナニー以外では使われないこの無駄な巨根のせいで、購入した市販のオナホールはみんな裂けた。一般的なサイズでは俺の巨砲には小さすぎた。
それでも諦めもせず自分にぴったりのオナホを探し求め、そして39ものホールをずたずたに裂いた後、ようやく諦観し、俺は自分の人生からオナホールという存在を消し去ったのである。
だが、大丸ならば。
大丸ならば俺にぴったりのBIGオナホールを作ってくれるはずだ。しかも、妖精リリスの姿をしたオナホ妖精を! 俺は早速わくわくしてきた(下半身が)。
これは、さらなる高みを目指さなければならない。
迷うことなく、俺はなのかちゃんのコスプレ衣装をネット注文した。
なのかちゃんが魔法少女に変身した時に身にまとう、ピンクと白を基調としたドレスタイプの可愛らしい衣装である。
俺は中学生の頃に『キモブタ』と呼ばれてイジメられたコンプレックスから、デブを脱却するためにガチムチに体を鍛え上げており、今では同じ体重100キロでも筋肉隆々のプロレスラー並の体格になっている。そんな俺でも着れるサイズのコスプレ衣装をあつかっているのだから、ネットは最高だ。
服の次は下着だ。なのかちゃんが作中で穿いているのはピンクのパンティーなので、これをネットで注文した。俺の体格でも穿けるサイズを扱っているのだから、ネットは(以下略)。
下着の次は顔だ。なのかちゃんそっくりのアニメ調のフェイスマスク(ピンクのツインテールまでマスクに一体形成されており、かぶるだけでなのかちゃんになりきれる)を、ネットで(以下略)。
ここまでやっても、まだ俺の純情はこのイベントに特別を求めた。
買ったのは合法ドラッグである。その名も『スーパー!エクスタシー!ストリーム!』
この錠剤は、快楽中枢に作用して快感を何十倍にも高め、さらに精液の製造能力まで高めてくれる効果があるらしい。ちなみに中国製だ。これもネッ(以下略)。
まだまだ必要なものがある。
俺は筋力増強パッチなるものを買った。丸形のパッチをペニスに貼って三十分もすると、自然と筋肉がこわばって尿道が狭くなるらしい。その狭くなった部分を精液が通るため、射精する時間が通常の3倍ほど長くかかるようになるとのこと。つまり、通常ならば「アッ!」という間に終わってしまう射精が、
アーーーーーーーーーーーーーーーーッ!
アーーーーーーーーーーーーーーーーッ!
アーーーーーーーーーーーーーーーーッ!
というロングタイム射精になる。中国製だ。
そして最後に、その快感を何度でも味わうためのバイアグラを買った。もちろん中国製だ。これでつねにギンギンの俺が完成する。
俺の計画はこうだ。
なのかちゃんそっくりに女装した俺が、媚薬でメロメロになりつつ、リリスの形をしたオナホ妖精でペニスを刺激し、なのかちゃんの痴態をブルーレイで鑑賞して大量射精しまくるのだ。それで俺のフェスティバルは完成する。
いよいよ当日。
アイテムはすべてそろった。
だが、計画というのはいつも完璧にはいかない。一つだけ手違いがあった。
オナホだ。
大丸から届いた段ボール箱を開けてみると、中に入っていたのは妖精リリスではなく、『ディープワン(深きもの)』だった。ディープワンとはクトゥルフ神話に出てくる半魚人のことだ。
大丸の造形技術は天才的で、萌えキャラとはほど遠い、見てるだけで気分を害すリアルなキモキャラになっている。ウロコの一枚一枚まで微細に造られており、テラテラと光って生命力すら感じさせるほどだ。
しかし、そんな気持ちの悪い半魚人でも、ちゃんとオナホールとしての機能を持ち合わせているところが職人技だと思う。
俺は即座にメールした。
「件名:半魚人が届いた件。
本文:大丸さん、こんにちは(^_^)
妖精リリスとは違う、
クトゥルフ的なものが届いたのですが…(^_^;)」
すぐに返信があった。
「件名:ミラクルが起きた。金はいらない。使ってくれ!
本文:」
奇跡が起きてしまったらしい。天才にはそういう気まぐれな部分がある。
この際、オナホのことは忘れようと俺は思った。半魚人は今にも動き出しそうなほどリアルで、見ているとペニスが萎えてくる。
まあ、オナホがなくても、俺には使いなれた自分の右手があるので大丈夫だ。
気を取り直して、俺はスーパー!エクスタシー!ストリーム!(媚薬)を飲み、バイアグラ(勃起持続剤)を飲み、パッチ(筋力増強剤)を貼り、なのかちゃんのコスプレをし、半魚人を遠くに放り投げ、ブルーレイディスクをプレイヤーにセットした。あとは、薬が効いてくるのを待って再生ボタンを押すだけだ。
あ。
ティッシュ!
ティッシュを忘れていた。手元に置く。今日は大量に使う予定だ。
他に忘れていることはないだろうか?
もう一度確認してみよう。
うん。
なさそうだ。
他にはなさそうだったが、俺は別のことが気になりだした。
それは、「この記念すべき日に、行儀良く行事をこなしてる場合か?」ということ。
もっとハメをはずすべきではないのか?
これはお祭りなのである。
フェスティバルというのは、もっと盛大にやるものではないのか?
自問自答した結果、俺はスーパー!エクスタシー!ストリーム(中国製)を通常の3倍飲み、筋力増強パッチ(中国製)を体中に貼り、バイアグラ(中国製)(中国製のバイアグラはすべて偽物であることに、この時の俺は気づかなかった)を通常の3倍飲んだ。
効き目はすぐにあらわれた。
これは…。
まさにフェスティバル!
俺の肉体の内部で祭りが起こっていた。
媚薬のせいで性欲が体中を突き抜け、筋力増強パッチが全身の筋肉を躍動させ、バイアグラでペニス(39センチ)はガチガチに硬化し、性器というよりも「バールのようなもの」へと変化していた。
そして、次から次へと性欲の波が押し寄せてくる!
体の内側からマグマのように沸き起こってくる、熱い衝動をこらえることができない!
俺は、筋肉増強剤が命じるままに、全身の筋肉に力を込めた。
モリモリと膨らんでいく筋肉が、コスプレ衣装を内側からビリビリと裂いた。衣装は木の葉が散るように細かく四散していく。
顔にかぶっているなのかちゃんマスクを残して、俺は全裸になった。
スカートで隠れていたペニス(39センチ)が剥き出しになって、収まるところを探し始めた。
本来ならば、その性欲はなのかちゃんに向けられる予定だったのだが、どういうわけだか、テレビの中で痴態を繰り広げるなのかちゃんを見ても性的興奮を感じなかった。少しもエロさを感じない。
なぜだ。
なぜなんだ。
なのかちゃんがダメなら、この勃起したペニスは、どこに向かえばいいのか──半魚人と目があった。
突然、落雷のような衝撃がペニスを襲った!
なぜだ!
なぜなんだ!
この衝動はなんなんだ!
あれほど気持ち悪いと思っていたウロコのぬるぬる感が、強烈なセックスアピールに変わって俺の目を奪う。
死んだ魚のような目が、淫靡な熱視線を送ってくる。
俺は投げ捨ててあったディープワン(深きもの)を乱暴に拾い上げると、衝動のおもむくままにペニスを突き入れた。
大丸の仕事はまさに天才の仕事だった。外側の細工も手が込んでいたが、内部の細工も巧緻ををきわめ、俺はすぐに絶頂に達し、媚薬の効果によって大量に増えた精液を吐き出した。
それは、今まで経験したことのない快楽だった。
筋肉増強剤で強靱になったペニスは、大量の精液を噴水のごとき勢いで射精したのである。
ディープワン(深きもの)のオナホは非貫通式であったため、射精の勢いを受け止めきれず、ペットボトルロケットのようなスピードでペニスから外れて飛んでいった。
部屋の窓ガラスをガシャンと割って半魚人は空へとダイブした。
放物線を描いて飛んでいった半魚人の行方は、もう誰にもわからない。
一回目の射精を終えた俺だったが、バイアグラの効果は萎えることを許さなかった。無尽蔵に性欲がわいてくる。
しかし、この部屋の中に俺の性欲を受け止めてくれるものがなかった。
あれほど恋焦がれていた「魔法少女リリックなのか」には、もう何も感じない。
アニメは、もう卒業だ。
俺はぶんと腰を振ると、鋼鉄のペニスでテレビ画面をひと突きした。
にっこり微笑むなのかちゃんごとテレビの液晶が割れて、画面はブラックアウトして沈黙する。
エロアニメを捨て、街へ出よう。
この性欲を満足させてくれるものを探しに。
俺は半魚人のあとを追うように、2階の窓から外へ飛び出した。
世界で一番最低なホームラン
村田 幸司(むらた こうじ)はベンチに腰をかけ、酔ったサラリーマンがへろへろとバットを振る姿を眺めていた。
ここはバッティングセンターである。
液晶画面に映ったバーチャルピッチャーが振りかぶり、投球する映像と同時に、バッティングマシーンから実際のボールが飛んでくる。
このサラリーマンはぜんぜん打てない。
まず、バットを構える足に力が入っていない。腰も入っていない。もし、そんな千鳥足の酔っぱらいに150キロで飛んでくるボールが打てるなら、幸司がプロ野球チームで2軍落ちすることもなかっただろう。
現在、幸司はプロ入団3年目。
たかだか3年目にして、ひどいスランプに陥っていた。
幸司の仕事というのはごく単純、ホームランを打つことだ。
チームの4番打者である。4番の仕事は、投球でも、盗塁でも、ヒットを量産することでも、塁に出ることでもない。ホームランを打って、のんびり走ってファンに手を振り、ベンチに帰ってくるのが仕事だ。
それなのに、打てない。
高校生の頃、打席に立つごとにホームランを打っていた姿が懐かしく思い返される。
幸司はその頃、「最強のいじめられっ子」という異名で呼ばれていた。
敬遠されるからである。
敬遠とは、わざとフォアボールにして出塁させることである。強打者にホームランやヒットを打って欲しくない時に、作戦としておこなわれるものだ。
幸司は、ほぼ毎打席ホームランを打っていた。打席に出れば最低1点は約束されていた。
だから敬遠された。避けられた。
幸司に勝負を挑もうとするピッチャーはおらず、敬遠され、無視され、一塁へと歩かされた。
監督の指示を無視してまれに勝負してくるピッチャーもいたが、その場合、ピッチャーは必ず、ホームランを打たれるという現実を突きつけられたのである。
ゆえに、幸司は打席に立つごとに、いじめられっ子のごとく無視され、避けられたのである。
最後まで「最強のいじめられっ子」のまま甲子園を終え、ドラフト1位指名で『日本ソーセージ・ファイターズ(北海道が拠点のプロ野球チーム)』に入った。
プロ2年目までは絶好調だった。プロには敬遠するピッチャーもおらず、打って打って打ちまくった。いじめられっ子はいじめっ子と呼ばれるようになった。
しかし、順調な時期というのは長くは続かない。
2年目のシーズン終盤、デッドボールを喰らった。
それは運悪く股間に当たり、さらに運の悪いことに、睾丸がひとつ潰れてしまった。
その時のスポーツ新聞の見出しはこうだ。
『幸司の金玉が死んだ!』
直球すぎる見出しである。
入院し、睾丸を摘出する手術を受け、全治二ヶ月の怪我から復帰したものの、それ以来、ぜんぜん打てない。ホームランどころかヒットすら打てない。
ボールが怖いのである。
ワンスティック・ツーボールだった股間が、ワンスティック・ワンボールになってからというもの、残ったワンボールがノーボールになってしまわないか気になって、飛んでくるボールが怖いのである。
股間にデッドボールを喰らわないように、つい腰が引ける。腰を引いたままではホームランなんか打てない。
元のように腰を入れて、足に力を集めればいい。元のバッティングフォームを取り戻せばいい。そんなことはわかっているのに、フォームを直そうとしても直せないのである。
どうしても、腰が引けてしまう。意識していても、恐怖心から腰を引いてしまうのだ。
幸司は復帰してすぐに二軍落ちし、それ以来ずっと二軍のまま、打てないバッターとして無為にすごしている。
いまのところは過去の栄光によってチームに在籍させてもらっているが、この分だと除籍になる日も遠くはないだろう。
そんな状況だが、幸司は自分の野球人生を諦めてはいない。
もう一度ホームランが打ちたい。
そのために何が必要か考えて、とりあえず、病院に行ってみようと思った。
ボールが怖いというのはメンタルな部分の問題であるため、精神科に行ってカウンセリングを受けることにした。
その時にカウンセラーから言われた、
「ホームランを打つことが一番楽しかった頃を思い出して、イメージトレーニングしてみるのもいいかもしれません」
というアドバイスが心に残った。
ホームランを打つことが当たり前だと思っていた、高校生の頃の気持ち──。
それを取り戻すため、高校の時に通っていたバッティングセンターを3年ぶりに訪ねた。
店長の白石 徹(しらいし とおる)は幸司を見るなり受付から駆け寄ってきて、「よく来たな。プロは忙しいんだろうけど、たまには顔を出せよ。寂しいよ」と笑った。
白石は64歳。野球好きの白髪の老人だ。昔から、野球のことに関しては実の父親よりも親身になって幸司の面倒をみてくれていた。
プロの仕事が忙しく、不義理なことに3年ほど会っていなかったが、受け入れてくれる雰囲気は高校生の頃と少しも変わらない。
幸司が、「久しぶりに打ちにきました」と言うより早く、白石は真剣な表情で、
「大丈夫だ。俺に任せておけ」
と言った。
幸司が声もなく白石を見つめると、白石はもう一度、「大丈夫だ。もう一度打たせてやる」と言って、幸司の胸を軽く、拳で叩いた。
ぜんぶわかってくれている──。
ここに顔を出しただけで、なぜ来たのかもわかってくれている──。
叩かれた胸が熱くなった。
「おい、プロ野球選手が泣くんじゃねえよ」
「白石さんのパンチが痛かったんですよ」
不意に流れた涙を、幸司は拭かなかった。プロになってから吐けなかった弱音を、流せなかった涙を、初めてこの場所でさらけだせた気がした。
それから一週間、チームの練習も休んでバッティングセンターに通った。
まだ打てない。
打てないが、気持ちは前向きになっていた。
白石は野球好きなだけの素人で、その指導はプロのコーチに比べたら指導などと呼べるレベルではない。
だが、白石の言葉は幸司の胸に響いた。幸司に必要なのはテクニックではない。気持ちだ。白石の熱意から熱い勇気が伝わってくる。
今日は初めて、バットにボールがヒットした。
嬉しくもあったが、少し、心の中を不安がよぎったことも確かだ。
いつまでこの状態が続くのか。
ボールが怖いという状態に変わりはない。
それでも、打てるようになりたい。
なるつもりだ。
だが、それはいつだ? 10年後では遅すぎる。
そんなことを考えながら、幸司はベンチに座り、酔っぱらいのバッティングを見ていた。
酔っぱらいは相変わらず、150キロの球を打つつもりでいる。
あんなに酔っていたら60キロの球だって打てるかどうかわからないのに、それでも打つつもりでいる。
液晶画面のピッチャーが投球フォームをとる。振りかぶって、投げる。バッティングマシーンから球が飛び出す。
酔っぱらいは球の速度についていけない。
バットを振り回した瞬間、足がもつれてバッターボックスに倒れてしまう。倒れ込んだまま叫ぶ。
「おいっ! こんなに速い球を投げやがって、俺をなめてんのかー! てめえ俺と勝負しろー! 殴り合いなら負けねえぞー! 出てこいー!」
映像のピッチャーに対してこの発言。まさに酔っぱらいである。
苦笑しながら幸司が酔っぱらいを助け起こそうとベンチを立った瞬間、場内がざわつきはじめた。
ざわついたかと思ったら一転、バットがボールを打ち返す音すら消えて、急に静まりかえった。
不審に思って幸司が振り向くと、すぐ後ろのバッターボックスには白石と、見たことのない男が並んで立っていた。
その男は、全裸だった。
ヘビー級のプロレスラーのような筋肉隆々の男で、顔には、アニメの少女を模したマスクをかぶっていた。ピンク色の髪の毛をツインテールに結っている。マッチョなのに顔は可愛らしい美少女という異形の姿だ。
そして、推定40センチはあるビッグなペニスをガチガチに勃起させていた。
あきらかに変態である。
どこから見ても、通報した方がいい物体である。
だが、その異常者のとなりに立つ白石が叫んだ。
「場内のみなさん、おさわがせして申し訳ありません! しかし、聞いて欲しいのです! 今、ここにいるこの若者が、160キロの球を打ちたいと、ペニスでホームランを打ってみたいと、そう言ってきかないのです!
私は言いました、『打てるのか?』と。そしたら彼は、『これは野球と俺の性欲との戦いだ、必ず勝つ!』そう言ったのです!」
私は──白石は続ける。「挑戦させてやりたいのです! そして見たいのです、この若者がペニスでホームランを打つ姿を! みなさんには不快な思いをさせるでしょうが、どうか、この若者にチャンスを与えてあげてください!」
一瞬、しん…と静まったあと、場内から割れんばかりの拍手が起こった。
みんな気になるのだ、ペニスでホームランが打てるかどうか。
場内の期待を一身に受けて、彼の挑戦がはじまった。
バッターボックスに立った全裸の男は、腰をクイッ、クイッ、と2回振って、45度に勃ちあがったペニスの位置を確かめた。
バッティングマシーンから160キロの球が飛んでくる。
男は、一球目の球を見送った。
速さを確かめたのだろう。見送ったあと、アニメの少女の顔で、うん、とうなずいた。少女のマスクは、微笑んだ表情のまま固定されている。
男が腰をクイッ、クイッと振る。黒光りするペニスが、突進前の雄牛のようにぶるんと身震いする。
バッティングマシーンから、球をこめる機械音が鳴った。
そして、
二球目が──
投げられた!
男はなんの迷いもなく、思いきり腰を振る。ペニスが球を真芯で捉える。
ボッキーン!
と音がして、球はきれいなアーチを描き飛んでいく。ホームランだ!
男は160キロの球に打ち勝ったのだ!
ペニスに不可能はなかったのだ!
歓声が巻き起こり、反響しながら場内を埋める。
しかし、場内の感動とは対照的に、男は首をかしげていた。マスクは微笑んでいるが、少しも嬉しそうに見えない。
男は白石に歩み寄ると、何かを耳打ちした。
「それは…!」
白石が怯えた表情を見せる。
男はバッターボックスに戻ってくる。
「みなさん、聞いてください…!」
白石の声は震えていた。「その男性から、160キロじゃ俺のペニスは満足できない、との申告があり、次は当店の誇る最高スピード、230キロに挑戦するそうです…!」
大歓声が起こった。
だが、幸司は1人、喜べなかった。
無茶だ。
いくらなんでも無理だ。
230キロである。230キロの球には、金属バットを湾曲させてしまえるほどの威力がある。
それをペニスで受けたら、大事故につながることは明白である。
まがりなりにもプロとして、この無謀な挑戦は止めなければならない。
幸司は男に歩み寄ると、低い声で言った。
「ペニスが折れるぞ、やめておけ」
その言葉に、男は平然と答える。
「ペニスが折れるより、自分の心が折れる方が怖いんだ」
その言葉は、幸司の胸を打った。
心が…折れる……。
そうだ、心が折れてしまう方が怖いのだ。股間にボールが当たることより、ボールを打てなくなってしまう方が怖いのだ。
バッターとして感じるべきその恐怖を、どうして自分は忘れてしまっていたのだろう。
俺は、恐れる方を間違えていた。
恐れるべきは、球に当たることではない。
このまま打てずに死んでいく、自分の、弱い心だ。
230キロの球が飛んでくる。
男は恐れない。
腰を引くどころか、みずから腰を前に出して当てていく。
幸司には、その光景がスローモーションで見えていた。
球は回転しながらペニスに当たる。ペニスがゆがむ。だが、男のビッグペニスは不退転の覚悟で前に出る。腰が引かれることはない。
前へ、前へ、さらに前へ!
球の回転エネルギーはペニスに阻まれ、一瞬止まり、そして弾丸のような速度で打ち返される!
ホームランだ!
230キロの球を打ち返したその絶頂の瞬間、男は射精した。
バッティングした衝撃でペニスの角度は約80度まで上がり、そこから、噴水のように精液が吹き出した。ありえないぐらい大量の精液は、長く、高く、天井付近まで射出された。
大歓声があがる。
男のホームランによって、轟音のような歓声が場内を支配する。
カーニバルのような熱狂。
だが、ふと、人々は気づいた。
高く上がった精液は天井付近で雨のように広がり、やがて、落ちてくるのだということに。
感動も一転、場内に悲鳴がこだまし、人々は我先にと出口へ避難しはじめた。
シャワーのようにぼたぼたと精液が降ってくる中、幸司だけは避難しなかった。
230キロの球とペニス1本で戦い、勝利した男の姿を、ただ黙って見つめていた。
20年後──。
「村田さん、今回のホームランで867本目。王貞治選手の記録を塗り替えましたね。おめでとうございます!」
試合後、勝利者インタビューの席に幸司はいた。
ホームラン王、村田幸司。
今ではそう呼ばれている。
「ありがとうございます。プロ入団2年目、怪我をしてスランプに陥った時、支えてくれたのは地元のバッティングセンターの店長、白石さんでした。あの時、白石さんがいてくれなかったら今の僕はありません」
なるほど──とレポーターが続ける。「村田さんがバッターボックスに立つとき、腰をクイッと2回振る、腰クイック打法をあみだせたのも、その白石さんの支えがあればこそ、ということなのでしょうか」
「いえ、それは…」
幸司は目を細め、遠くを見た。それは、過去を懐かしく見る目だった。「もう1人、僕の人生を変えた人がいるのです。どこの誰だかわからない、冗談のような、そう、奇跡のような人です」
テレビカメラの向こうにいる人物に語りかけるように、幸司は言った。
「その人は、僕のヒーローです」
世界で一番最低なドラゴン退治
不意に左目の視界が暗くなって、ゴッ、と鈍い音がして、美里 里美(みさと さとみ)は後ろへ倒れ込んだ。
そのままの勢いでアスファルトに後頭部をぶつけて、痛みと共に視界がゆれた。叩きつけられる衝撃が強すぎて、ゴン、ゴン、と、二度ほど頭が地面でバウンドする。
目の前には、拳を握りしめて仁王立ちする男。
男の名前は、武堂 恩(むどう おん)。年齢は31歳。スキンヘッドで首に龍の入れ墨がある、強面の男だ。
武堂のトレードマークである長い龍の入れ墨は、背中から始まって胸を一周し、首から顔をのぞかせて睨みをきかせている。
今も、だらしなく着込んだカッターシャツの首もとから顔を出し、威嚇するように牙の並んだ口を開いて里美を見下ろしていた。
龍の威嚇とはうらはらに、この武堂という男は里美の恋人である。
里美は白昼堂々、人通りの少ない住宅街の路地で、恋人に思い切り殴られたのだ。
拳が当たった左目のまわりが、痺れたように痛い。これは後々、まぶたが開かなくなるぐらい腫れ上がって、痣になるだろう。
武堂が顔を殴る時はよほど怒っている時だ。普段、繰り返し受けているDVではここまでしない。顔や腕や足など、露出の多いところは殴らない。
でも、それも仕方ないかな──里美は思う。
だって、逃げ出したのだ。
武堂がトイレに入った隙を見て、彼のマンションから逃げ出したのだ。
それは怒る。怒るだろう。里美だって、もしも武堂が自分を置いて逃げたとしたら、かなり怒ると思う。
だから、仕方ないよね──恋人の暴力に納得して見上げる空は、気持ちいいぐらいの青空だった。
真っ白な入道雲がもくもくと遠くの空を埋めているのが見える。
思えば、こうやって地面に寝転がって空を見上げるなんていつ以来だろう。
美里は、入道雲が大好きだった。青空を覆う、ふわふわの大きな雲。空というのは青い部分が多すぎると美しくない。青一色の空なんて、小学生がやる気もなく絵の具で塗ったみたいで最低な空だ。
青空というのは、白い雲が青の大半をうずめていって、ようやく青空としてのバランスがとれる。見ていると何かいいことが起こりそうな気がしてくる青空には、雲がぜったいに必要だった。
大きな、大きな、入道雲が。
どんなに最低な一日をすごしても、次の日、青空を流れる真っ白な入道雲を見れば気分が晴れた。
何か、いいことが起こりそうな気がしてくるのだ。
遠くに見えるその大きな積乱雲の下では、激しい雨が降ってるんだとしても。
不意に青空が歪んで、視界がブレた。こめかみのあたりを鋭い痛みが打ち抜いて、何が起こったのかよくわからなかった。
そのあと、武堂の足がゆっくりと上がり、足の裏が見え、顔面を思い切り踏みつけられた時に、ようやく自分が蹴られたことに気が付いた。
恐怖のあまり閉じた目には、もう青空は映らない。ただ、目の前には闇と痛みが広がるばかり。
顔を背けても、両腕で顔をおおっても、武道の足は止まらなかった。踏みつけ、蹴りつけ、美里の顔を踏みにじった。
「なんで逃げるんだよ」
抑揚のない声。目を閉じているので見えないが、暴力を振るう時、武堂の顔から表情が消えているのを里美は知っている。
「なんで逃げるんだよ」
顔をかばう両腕を思い切り蹴りつけられた。腕と腕の間に隙間が空いて、そこから武堂の足が入ってくる。勢いをつけて踏みつけられる。
靴底に押しつぶされた鼻がベキ、と悲鳴をあげた。鼻の中から、熱い痛みと一緒に熱い液体が溢れてくる。
痛くて、怖くて、里美は泣き叫ぶ。
「やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
日常的なDVに対して日常的に繰り返している、代わり映えしないいつもの台詞。
何度許しを求めて、何度踏みにじられただろう。
「私が悪いんです私が悪いんです私が悪いんです私が悪いんです私が悪いんです私が悪いんです私が悪いんです許してください許してください許してください許してください許してください!」
ぜったいに許されることはないと、里美は知っている。
叫ぶ口を思い切り蹴られて、折れた歯と一緒に武堂の爪先が口の中に入ってきた。
ぐげ、と変な音がして舌が動かなくなる。
そのあとは激痛が脳を壊して、もう何も考えられなくなった。思考が止まる。何も考えられない中、痛みと、嗚咽と、鼻血が、勝手に溢れて止まらない。
武堂が口の中に爪先を押し込む。里美の喉がゴエッゴエッと痙攣して靴を吐き出そうとする。
「なんで逃げるんだよ」
里美の口から靴を引き抜いて武堂が言う。唾液と混じったねばりけのある血が、口と靴との間に糸を引く。
気道をふさいでいた靴がなくなり、里美の肺に空気が流れ込んでくる。大きく息を吸い込んだ瞬間、折れた鼻から逆流した血が喉に流れ込み、激しくむせて、吐いた。何も食べていない胃は、血で染まった胃液を吐き出した。
武堂は、里美の様子を見ても気にも止めない。
「なんで、俺に暴力を振るわせるんだよ」
お前が悪いんだ──。「暴力なんて最低な行為だ。どうして、その最低なことを俺にさせるんだ。謝れ。殴りたくもないのに、愛する女を殴らなければいけない俺に謝れ!」
まだむせている里美には、謝る余裕などない。
声を出さない里美に苛立って、武堂は足を振り上げて里美の胃のあたりを蹴った。痛みで息が詰まる。里美は体をくの字に曲げて、どうにか声をしぼりだす。
「ごめん…なさい…」
里美には、自分の何が悪いのかよくわからなかった。
自分の、なにが悪くて暴力を振るわれているのだろう。自分に非はない気がする。なにも悪くない気がするし、逆に、ぜんぶ自分が悪い気もする。相手がこんなに怒ってるのだから、きっと、私が悪いのだ。
私が悪いから、この人はこんなにも怒っているのだ。
そして私を愛しているから、この人は殴ってでも連れ戻そうとするのだ。
それが普通の愛し方ではないことぐらい、里美にもわかる。
だが、産まれてすぐに捨てられて、それ以来ずっと孤児院で暮らしてきた里美には、愛されるという「普通」がよくわからない。
どうやって人を愛せばいいのかわからない。
どうやって人に愛されればいいのかわからない。
誰かに無償で愛されたことがないのだ。
里美はいつも自問する。
ねえ──
誰か、私に愛し方を教えた?
誰か、私に愛され方を教えた?
誰か、いい人と悪い人の区別の仕方を教えた?
ねえ──
私のことを、ちゃんと見つめてくれる人がどこかにいた?
13歳の頃に孤児院を脱走して以来、夜の街で出会う男達の家に転がり込んで生きてきた。
それは、一夜を過ごすだけの関係で終わることもあったし、「彼女」として同居して、捨てられるまでの何ヶ月かを一緒にすごすこともあった。
そうやって3年をやりすごして、何十回目かの人に捨てられ、その後、何十人目かに出会った「私を拾ってくれる男」が武堂だった。
武堂の暴力は部屋に転がり込んだその日から始まって、1年たった今も続いている。
武堂は束縛と、暴力と、人格否定で、徹底的に里美を支配下においた。何をするにも武堂の許しが必要で、意に反することをすると殴られる。里美はいつも、武堂の行動に脅えていた。
ただ、暴力のあとはいつも優しい。
抱きしめて、傷の心配をしてくれる。愛してると言ってくれる。暴力を謝ってもくれる。
場合によっては、武堂は子供のみたいに──それも女の子みたいにぐすぐすと泣いて、自分のダメさ加減を、不甲斐なさを嘆いて、里美にすがりついて謝ったりもする。
里美は、そうなった時の武堂のことが大好きだった。
武堂の心の底を見ている気がするのだ。本当の武堂は、きっとすごく弱くて、すごく傷つきやすくて、すごく優しい。
でも、普段の武堂のことは好きになれない。表情がなくなって、感情の起伏がなくなって、ただ暴力を振るう。そんな人間を好きになれるはずもない。
だが、嫌いにもなれなかった。
表情をなくす姿に見覚えがある。感情の起伏をなくす姿に見覚えがある。静かに怒りをぶつける姿に見覚えがある。
それは、孤児院にいた頃の自分の姿──。
愛されなかった人間は、表情をなくすのだ。
石のように硬い表情になる。ストーンフェイスになって、心まで石のように冷たくなる。
誰にも見向きされない。誰にも必要とされない。捨てられるだけの、石ころのような人生。
どうやって他人を自分につなぎとめればいいのかわからない。
自分に、他人とかかわっていいような価値があるとも思えない。
そんな人生を里美も生きてきた。
だから、武堂の無表情を見ると胸が苦しくなる。
武堂の家庭環境を聞いたことはないが、彼もきっと、親に愛されなかった人間なのだろう。
私と同じ孤独を、私と同じ苛立ちを、私と同じ渇望を、彼も感じたことがあるのだろう。
どうやっても抑えられなくなるなるほどの『愛情への焦燥感』が、彼を暴力に駆り立てているような気がした。
私たちは、愛することを教えられなかった。
愛されることを教えられなかった。
どうやって愛を求めればいいのかわからない。
どうやって、他人に、振り向いてもらえばいいのか、わからない。
わからない二人がわかりあえるはずもないから、暴力を恐れて私は逃げた。武堂の元から何度も逃げた。何度も逃げて、何度も捕まって、何度も殴られて、何度も元に戻った。
暴力で、元に、戻ってしまうのだ。
武堂は、私が逃げるたびに、何度でも捕まえに来てくれる人。
暴力で支配してでも、私に、ずっとそばにいて欲しいと願う人。
人生の中で一度も、そこまで他人に必要とされたことがなかった。そこまで他人に執着されたことがなかった。
だからそれが、「愛」なのか「愛じゃない」のか、里美には区別がつかなかった。区別がつかないまま、それを愛だと信じた。
愛されるままに里美は支配され、暴力を受け続け、必要な時に体を求められ、そして妊娠した。
妊娠検査薬でその事実を確認すると、里美は逃げた。
怖くなったのだ。
武堂が、父親になれるはずがない。
暴力的で、粘着質で、働いてなくて、恫喝してる親からの仕送りと、たまに手を出す怪しいバイトだけで生きている、そんな武堂の元で子供を産んで、母子ともども、普通に生きていけるはずがない。しあわせな家庭生活を思い浮かべることができない。
逆に、子供にまで暴力の矛先が向かうことが容易に想像できた。
だから──
逃げた。
武堂の元から。
里美は家族が欲しい。家庭とは安息の場所だ。安らげる場所が欲しい。産まれた瞬間に捨てられた自分には与えられなかった、癒される場所が欲しかった。
幼い頃から何度も何度も本で読み、テレビで見た、憧れのその場所。
待っていても与えられないなら、それは、自分でつくるしかない。
里美は、一人で子供を産むつもりで逃げた。
だが、結局、すぐに捕まってしまった。
ちょうど、『今』の話だ。
捕まって、殴られて、蹴られて、地面に倒れて青空を見上げている。
このあと、また、武堂の元へ戻るのだろう。
何度も繰り返してきたみたいに。
暴力のあとに。
私を、支配する人のところへ。
見上げる青空には入道雲。
部屋の中に監禁されるとしばらく見られなくなるだろうから、今のうちに目に焼き付けておこうと思った。
里美の大好きな、青くて、白い、空。
ずっと見ていたかったが、武堂が里美の髪の毛を鷲掴みにして引っ張り始めたので、それもできなくなった。
ただ、その時ふと。
青空の端にふと、何かが見えた。
影のようなもの。
……なんだ?
なんだろう?
青空の底辺を四角く区切っている高い団地。その壁をヤモリみたいに肌色の物体が這っている。
なんの器具もつけず、握力だけで、壁のくぼみや隙間に指を入れて張り付いている。
よく見ると、全裸の人間のようだった。やけに筋肉隆々の男。たが、男の髪型は、アニメの少女のようなピンク色のツインテールだった。かなりの違和感を発している。
その全裸の男が、里美の方をちらりと見た。
目が合う。
男は視線を動かして、次に、武堂の姿を見た。
見た瞬間、壁を蹴って飛び降りてきた。
両手両足を広げて、ムササビのような滑空のポーズだ。
男は、見間違えることがないほど完璧な全裸で、下から見上げているとギンギンに勃起したビッグなペニスさえも目に入る。
顔は、何かのアニメの美少女を模したマスクに覆われていて、当然のことながら表情に変化がない。にっこりと笑った表情のまま固定されていた。
筋肉隆々(プロレスラー並)で、全裸で(フル勃起中)、美少女マスク(笑顔)の男がムササビのごとく滑空してくる姿は恐怖だった。
しかし、10メートルぐらいの高さからためらいもなく飛び降りてくるなんて、この男は死ぬのが怖くないのだろうか。あきらかに自殺行為だった。
里美のそんな心配をよそに、男はどすんと音をたてて里美の横に降り立った。
転倒することなく、骨折することもなく、全裸の男は仁王立ちだった。
当然、これには武堂も驚いた。
空から、急に、美少女が降ってきたのである。
数々のアニメで繰り返されてきた黄金のシチュエーションだが、少しだけ違うのは、その美少女はムッキムキの男で、ムッキムキに勃起した巨根を股間から生やしているところだ。
普通、そんな男が空から降ってきたら、誰もが怖じ気づくだろうと思う。
事実、里美は怯えた。身の危険を感じた。自分の意に添わずに暴力的に体を犯される時と、まったく同じタイプの危険。
逃げるべき──
里美の本能はそう言っている。
だが、武堂の本能はまったく逆だった。
いきなり降ってきた美少女に、いきなり殴りかかった。
様子をうかがうこともしない。コミュニケーションをとろうともしない。暴力から始める。それが武堂の人生だった。自分の心が傷つくことに臆病すぎて、他人とわかりあうことさえ放棄している。対等という状態が不安すぎて、つねに上に立とうとする。そのための暴力。里美を支配している力。
武堂のパンチは、男のみぞおちに突き刺さった。
力の向き、速さ、重さ、すべてが申し分ない破壊力だった。拳が半分ぐらい、男の鍛え上げられた腹筋にめりこんでいた。
常人ならば苦悶の表情を浮かべるだろう。
だが、美少女マスクは苦しまない。
ピンクのツインテールの美少女は、にっこりと萌えスマイルで微笑んでいる。
微笑みながら、その体がぷるぷると小刻みに震えだす。
瞬間。
びゅーーーーーーーーーーーーーーーーっ!
ありえない勢いで男は射精した。
水道の蛇口を勢いよくひねった時のホースの先、みたいな精液の量と水圧だった。
ビッグなペニスからほとばしった精液は、白い鞭のように武堂の両目を打った。
「ウホッ!」
と叫んで武堂が崩れ落ちる。両目をおさえて悶える。首元から覗く入れ墨の龍だけが、敵意を剥き出しにして男を睨む。
男は、追撃の手をゆるめなかった。
「なんてっ!」
大きな手で、むんず、と自分のペニスを掴んだ。「なんてエロい表情の龍なんだー!」
ガッシガシとしごいて、ガッシガシと射精する。
男の性癖はかなり特殊だった。射精の勢いも特殊だった。男は龍に顔射したいようだったが、射精の勢いが強すぎて狙いがうまく定まらず、それはすべて、大きく息をして苦しんでいた武堂の口の中に注ぎ込まれた。
目潰しをされた上に、精液の激流を飲まされた武堂は、ガブゥ!とかゴブゥ!とか、人生で一度も聞いたことのないような音をたてて溺れた。
「動くなっ!」
男が叫ぶ。ペニスが唸る。精液が噴出する。
「ガブーッ! ゴブーッ!」
武堂は精液で溺れている。白目を剥いているのでそろそろヤバイ。
──なんだこれ。
武堂が負けている。
里美を支配していた暴力が、精液に負けている。
支配を象徴するものが、馬鹿みたいな射精で馬鹿みたいに溺死しようとしている。
里美を縛っていたすべてが、変態の性欲で滅びようとしている。
なんだこれ。
なんだかよくわからないけれど、急に愉快になってきた。
とどまることなく射精する変態。
「ゴボッ! ゴボーッ! や、やめてー! 死ぬーッ!」
閑静な住宅街の真ん中で、精液で溺れ続ける人間。
なんだかよくわからないけれど。
愉快な気持ちになって、里美は大きな声で笑った。
里美は数年ぶりに、心の底から笑ったのだ。
その後、男の精液は打ち止めになって、武堂は解放された。
男はすごいスピードで走って逃げて、武堂は、里美が呼んだ救急車にのせられて、すごいスピードで病院へ行った。
あとに残ったのは、どしゃ降りの精液溜まりだけだった。
武堂はどうにか一命をとりとめ、退院の日、そのまま姿を消した。
「死にかけたら、なんだか、本当の自分がわかったような気がするんだ」
そう言って、住んでいたマンションの鍵と、母親から生活費が振り込まれる通帳を残していなくなった。
次に里美の携帯に連絡があったのは、半年後のことだ。
「お元気ィ~?」
陽気なオネエ言葉で始まった電話に、一瞬、里美は混乱した。
話を聞くと、あの日の大量顔射で何かが目覚めてしまったらしい。武堂恩は今、歓楽街のオカマバーで、「ムドオン・リュウ子」という芸名で働いているそうだ。「ハマオン・ババ子(本名:馬場 浜夫)」という店のママに可愛がられて、楽しく生活しているとのこと。
「ごめんなさいね」
電話口で武堂は、しおらしく言った。「ごめんなさいね。あなたにひどいことばかりしちゃって。つらかったでしょう。ごめんなさい。あたしね、ハマオン・ババ子さんと出会って少し変わったの。人を愛することを、人から愛されることを学んでるの」
間違うと折檻されるのよ──武堂は笑う。「ハマオンさんはね、ムッキムキの元レスラーなのよ。あたしなんか、反抗しても殴り飛ばされて終わりよ。そうやって怒られて、子供みたいにママに叱られて、普通のことを学んでいるの」
話の終わりに、里美は、「いつか、帰ってくる?」と訊いた。
「わからないわ。でも、いつか、人を愛せるようになったら」
武堂がそう言ったから、里美は赤ちゃんの話をすることをやめた。
秘密にしよう。
武堂が、帰ってくるまで。
そして、月日は流れて。
里美は男の子を産んで、育て始めた。
一人でする子育ては苦労の連続だった。子供のすることに喜び、苛立ち、悩み、戸惑いながら毎日がすぎていく。
そんな生活の中で一つだけ、わかったことがある。
人を愛するというのは、すごく簡単だということ。
子供の笑顔がそのことを教えてくれた。
どんなに疲れた日も、イライラの日も、悩んでる時も。子供の笑顔が、安らぎをくれた。
子供が少し大きくなると、里美は働き始めた。近所の小さな食品工場で、お総菜を作る仕事をすることにした。
いつまでも武堂の両親の仕送りで生活しているわけにもいかない。
そうして、仕事をして、子供を育てて、なんでもない日常の中で子供が10歳になったある日。
突然、武堂がマンションに帰ってきた。
顔面をボコボコに腫らした武堂は、玄関先で仰向けに倒れ、里美を驚かせた。
「…おかえり」
里美が言うと、女装姿の武堂は仰向けのまま手をひらひら降って、
「ただいま。もう身も心もボロボロなんだけど、久しぶりに里美の顔を見たら、なんだかホッとしたわ」
と笑った。顔面はボコボコだが、わりと元気らしい。
手当をしながら話を聞くと、昔の武堂とまったく同じ、暴力的な気質の男を彼氏にしてしまったらしい。「逃げてきたの」と武堂は言った。「もう戻らないつもりよ。ここにいてもいい?」
里美が驚いた顔をすると、「あ、もしかして──」と武堂は小首をかしげた。「もう、他の誰かと住んでるの?」
訊かれてしまっては仕方ない。子供部屋にいた息子を呼んで、父親に対面させた。
「里恩(りおん)よ。里美の里と、あなたの名前を合わせたの」
初めて会う親子は、目を丸くしてお互いを見つめていた。
一人は、自分の息子の存在を初めて知って。
もう一人は、いつか会わせるね、と言われていた自分の父親が、オネエ系だと知って。
言葉を失っている武堂に、「どう? どんな感じ?」と感想を訊くと、
「住むわよ!」
と叫んだ。「ここに住む! 住むわ! きっとね、帰ってくる時期だったの。帰ってきて親を始める運命なのよ。ここに来るのがもっと早かったら、自分のことで精一杯で子供のことに関われなかったと思うの。そして、もっと遅かったら、あたしと里恩は家族になれないまま歳をとったと思うの」
だから──。「きっと今なのよ。もう一度、あたしは『あたしが置きざりにしてきたもの』と向き合わなければいけない時期なのよ」
「お父さんとして?」
里美が言うと、武堂はキッと里美を睨んだ。
「お母さんとして、よっ!」
それからはずっとお母さん二人で子育てをして、会わなかった時間の中でお互いに学んだ、「他人を愛する」ということについて報告しあって暮らした。
他人と他人が愛し合うことについて語りながら、一年、また一年と歳をとる。
何十年も過ぎて、シワの数が増え、体が思うように動かなくなっていく頃。
里美と武堂は、お婆ちゃんと、お婆ちゃんみたいなお爺ちゃんになっていた。
このぐらいの歳になると、未来のことよりも、過去のことに思いを巡らすことが多くなる。
もしも──。
もしもあの時、あの場所に、あの変態がいなかったら。
空から、変態が降ってこなかったら。
きっと、今の人生とはまったく違う、不幸な生活を送っていただろう。
このあと、もう一度、あの人に会えたら──。
お礼を言いたい。
ありがとう、と。
ありがとう。
ありがとうございました。
おかげさまで、しあわせになれました。
しあわせに生きていけるのは、あなたがあの時、私と武堂の間に入ってくれたおかげ。
だから。
あなたは、私のヒーローです。
あなたは、私と、武堂と、里恩と、みんなを救ってくれたヒーロー。
ありがとう。
私の人生は、とっても、しあわせです。
世界で一番最低なヒーロー
気が付いたら、俺は部屋の中で寝ていた。
部屋を飛び出した後、何があったのかよくおぼえていない。
大量に飲み過ぎた薬のせいか、記憶が定かではないのだ。
あれから何時間たったのか、それすらわからない。
だが、あちこちでヘンなものに性的興奮をおぼえ、大量に射精してきたのは、おぼろげにおぼえている。
バッティングセンターで剛速球を打ち返して射精した。
ドラゴンの入れ墨に欲情した。
居眠り運転で歩道を暴走するバスのタイヤに興奮し、大量射精でスリップさせた。
運悪く銀行強盗と居合わせてしまったが、札束の詰まったバッグに欲情して、バッグの中がタプンタプンになるほど射精したら、犯人は大号泣して逃げてしまった。
他にもなんだか、あちこちで射精してきた気がする。
断片的にはおぼえているが、詳細をさっぱりおぼえていない。
だが、断片だけ思い起こしてみても、この世でもっとも最低なオナニーの旅だった。
シラフに返ってみると、あまりにも性癖が特殊すぎてもう死にたい。
しかし、死のうにも極度の疲労感によって動けなくなっていた。
それどころか急に具合が悪くなり、俺は動けないまま嘔吐を始めた。バイアグラ(中国製)と媚薬(中国製)と筋肉増強剤(中国製)がミックスされた胃液は、黄金色に輝いていた。
オーーーーーーーエーーーーーーー!
オーーーーーーーエーーーーーーー!
オーーーーーーーエーーーーーーー!
やばい。
嘔吐が止まらない。窓から差し込む太陽の光を反射してキラキラ輝くゲロが止まらない。
黄金ゲロは、噴水的な感じで約3分間続いた。
酸欠で意識を失いかけた頃にようやく嘔吐が止まったが、俺はすでに瀕死だった。
どれぐらい瀕死かというなら、ヘビー級のボクサー並だった俺の筋肉はゲロと一緒に流れ去り、ガリガリのモスキート級ボクサー並に痩せてしまったのである。
過度のドーピングによって無理やり増強させられていた筋肉が、薬の効果が切れると同時に、ギチギチに萎縮してしまったのだった。
急速な肉体の変化は急激な肉体疲労を呼び、俺は泥の中に沈むように眠った。
3日ほど床に伏してようやく体の疲れはとれたが、一つ問題が起きた。
筋肉と一緒に、ペニスも痩せていたのである。ビッグだったペニスはスモールになり、ガチガチに勃ち上がっていたはずのものが、ヨボヨボのシワシワになっていたのだ。
焦った俺がペニスにどんな刺激を与えても、ヨボヨボのおじいちゃんみたいな反応しか返ってこない。耄碌している。ぜんぜんシャッキリしない。
俺は、インポテンツになってしまったのである。
その事実に俺は悔やんだ。なぜあの時、大量に薬を飲んでしまったのか。なぜ最高のオナニーをしようと思ってしまったのか。
悔やんでも、悔やんでも、後悔先に立たず。ペニスも勃たず。
もう、元には戻らない。
俺が主催したオナニー祭りの終わりと同時に、俺のペニスも終わってしまったのだった。
その後、48時間という時間をかけて、悲しみ、嘆き、立ち直った俺は、前向きに物事を考えることにした。
ペニスが勃たなくなったということは、もう、性欲に追い立てられなくても済むということ。
煩悩から解放されたということ。
素直に、そのことを喜ぼうと思った。
未練がましく、勃たなくなったペニスを見つめていても仕方がないのだ。
今度は、今までがんばってくれたペニスのためにお別れ会を開こう。
もちろん、次も盛大な祭りにする予定だ。
世界で一番最高の祭りに。
世界で一番最低な河童伝説
お母さんが、帰ってこなくなってしまった。
肉体だけは病院にある。
点滴とチューブにつながれて、酸素マスクで口をふさがれて、ただそこにある。
意識が、帰ってこない。
お母さんを轢いていった車が、ボンネットの上にお母さんの意識を乗せたまま逃げてしまったからだ。
犯人はまだ見つからない。お母さんも帰ってこない。
お父さんはお母さんの肉体につきっきりで、話しかけたり、手を握ったりしているけれど、二週間たっても意識が戻らない。
お医者さんは、「覚悟しておいてください」と言った。
覚悟。
お父さんは覚悟してない。あきらめない。ぜったい大丈夫だって笑って、「お母さんが、俺と清美のところに帰ってこないはずがないだろう」なんて言う。
ぼくは…。
覚悟、している。
99%ぐらい、あきらめている。
現実は生きてる者に残酷だ──なんてことは、ぼくのような子供でもわかる。
小学校で習わなくても、授業でやらなくても、それぐらいは知っている。
奇跡なんて起きない。
お母さんも、起きない。
ただ、心の中で1%ぐらい現実と折り合いのつかない部分があって、ぼくは池のほとりにいる。
その池は、うち捨てられた鳥居のそばにあって、「河童ヶ池」と呼ばれていた。
住宅地の開発から取り残されて、誰も来なくなってしまった小さな森の片隅にその池はある。
「ここにはね、河童が住んでるのよ」
昔、お母さんがぼくに言った。
大きくもないが小さくもなく、汚くはないが綺麗でもない中途半端な池にまつわる、諸説のはっきりしない河童伝説。
「ねえ、清美。困ったときには、この池にお願い事をしてみて。もしも願い事の最中に河童があらわれたら、そのお願いをかなえてくれるのよ」
子供心に、そんなの嘘だ、と思った。こんなどうでもいい池に河童なんているはずがないし、河童がいないなら願い事なんてかなうはずもない。
お母さんはそういう『伝説』とか、『メルヘン』とか、『奇跡』とかを本気で信じていたけど、ぼくはちっとも信じてない。
河童なんていない。
妖怪なんていない。
幽霊もいない。
サンタクロースがいなくなってしまった日に、ぼくはメルヘンを信じることをやめてしまっていた。
それでも、今、ぼくは池にいる。
通い始めて十日目になる。
毎日願い事をして、毎日、河童を待っている。
現れるはずなんてないのだけれど。
奇跡なんて起こるはずがないのだけれど。
自分でも、わかっているのだ。
お母さんの意識が戻らないことを認めたくないだけなのだ。
どんな状況なのか理解はしている。でも認めたくない。もう二度と、お母さんに会えないんだと認めたくない。
だから。
こんなどうでもいい池に来て。
信じてない河童にお願いをしてる。
お母さんの目が覚めますように。
お母さんの声が聞きたいから。
お母さんの笑顔が見たいから。
目が、覚めますように。
だから、お願いです。
もしも、ほんとうにいるなら。
出てきて。
そうやって何回祈っても、河童が出てくることはないのだけれど。
しん…と静まりかえる池に背中を向けて、ぼくは歩き出す。
意識せずに、頬を涙が伝った。立ち止まって、ぐしぐしと袖で涙をぬぐう。涙声で、
「河童なんて…いるはずないよ……!」
と呟いた、その瞬間に。
バシャン!
背中で水の跳ねる音がした。
びっくりして振り向くと、そこには水面から顔を出す河童の姿。
それは、ぼくの想像していた河童の顔とは少し違ったけれど、頭には皿状のものと髪の毛状のものがある。
実物の河童を見たことがないから判断できないけれど、実物の河童はこんなふうに魚類っぽいのかもしれない。
生きている…。
ウロコもテカテカと光って、生気に満ちあふれている。
本物の、河童だ。
ぼくを見つめながら、ブクブクと泡をたてて池に沈んでいく河童。
その姿が水面からぜんぶ消え去るまで見送ったあと、ぼくは駆けだした。心の中で、お母さんに呼びかけながら。
ねえ、お母さん、聞いて! 河童だよ! 河童がいたよっ!
ぼく、お願い事をしたよ!
お母さんの目が覚めますようにって、何回もお願いしたよ!
そしたら、ほんとうに、河童が出てきてくれたよ!
奇跡は起こったよ!
だから、病院についたら、ぼくの話をたくさん聞いてね! さびしくて、かなしくて、いっぱい泣いた分だけ、たくさん、たくさん、話したいことがあるんだよ、お母さん……!
病院までの道を、ぼくは泣きながら走り続けた。
ここで、河童の正体を解説しよう。
清美が見たものは、大丸が作ったディープワン(半魚人)型のオナホールだった。
最初のオナニーで窓から飛んでいった、あのオナホだ。
窓を突き破った際に、半魚人の頭の部分がガラスで切り刻まれ、河童の皿と髪の毛状に破れてしまったのである。
それが空を飛び、重力に引かれて落ち、偶然着水して、ブクブクと沈んでいった先、それが河童ヶ池だった。
河童伝説や奇跡とは関係のない、ただ、それだけの話である。
だが、その『ただそれだけの話』が、実際に奇跡を起こすかどうかは、ここまでこのお話を読んでくれた貴方ならもう知っているはずだ。
『世界で一番最高なオナニーをしてやろうと思った』
これは、そういう話だ。
世界で一番最高なオナニー