Law of Reciprocity
ユイと弓は狭いアパートに二人で暮らしている。ユイは大学浪人生で、弓はしがないフリーターだ。お互い暇になる時間が多いので、一緒に外出することも多い。今日は弓が手紙を出しに行くと言うので、ユイも付いていくことにした。外は秋も深まって、そろそろ肌寒い。弓はクローゼットから革のジャケットを引っ張りだして無造作に羽織った。ユイはニットの上着を選んだ。ほつれだらけだが気にしていないようだ。弓はくしゃくしゃになるのも構わずポケットに手紙をつっこみ、ユイに、
「行くよ」
と声をかけた。ユイは慌ててカメラを首にかけ、弓を追って家を出た。
ユイのカメラはNIKONの一眼レフだ。今時珍しいフィルム式である。本体は艶のある黒でずっしりと重たい。祖父から譲り受けたものなので、カメラ自体は相当古い。けれどシャッターを押す時の確かな手ごたえが気に入っていて、長いことこればかり使っている。今日の被写体は弓だ。家から出てすぐ、早速シャッターを切る。弓は顔をしかめる。
「あたし化粧してない」
ユイは口を尖らせた。
「だって弓ちゃんカッコイイんだもん。許してよ」
「美しさって罪ね」
「そうそう、その調子」
カシャ。
二人は何の変哲もない住宅街を歩く。どこからか金木犀の香りがする。弓が言う。
「この辺ってむやみに庭が広い家が多いのよね」
「無機質な街よりもいいじゃない」
ユイはあっちを見たりこっちを見たりと忙しい。弓はユイの視線を追ってみるが、とりたてて何があるわけでもない。
「ユイ、何きょろきょろしてんのよ。よく通ってる道でしょ」
ユイはおかまいなしだ。
「弓ちゃん。あれ見て」
ユイの指した方角には電信柱があった。
「電信柱がどうかしたの?」
「きれいじゃない?逆光に当たってさ」
弓はもう一度それを見る。
「ただの電信柱じゃん」
「あっ、弓ちゃん!スズメがとまってるよ」
「どっかしらに飛んでるでしょ」
「弓ちゃん!」
「うるさいなあ、あんたのせいでポスト行くのに何分かかってると思ってんの」
「だってえ」
ユイはグラビアアイドルを撮るカメラマンのように連写する。しかし彼女が撮っているのはただの家だ。
住宅街を通り過ぎ、坂道を登ると、そのてっぺんにポストがある。ユイはガードレールから身を乗り出し、家々の屋根を撮っている。手紙を投函した弓が戻ってくる。呆れ顔だ。
「あんたと歩くとほんと疲れる」
「ごめんね。止まらないの」
「そうみたいね。でも今はあんたがシャッター切ってる意味が理解できるよ。さっきなんて家の壁撮ってたもんね。そんな写真誰が見たがるの?」
ユイは頬を膨らまして言う。
「私が見るからいいの」
二人はポスト周辺をぶらつく。郵便局、ガソリンスタンド、空き地。一つ通り過ぎるたび、ユイはいちいち立ち止まる。弓は彼女の背中に呼びかける。
「いいよねえ、あんたは」
「何が?」
「世界の全てがきれいに見えるって前言ってたでしょ。あんたの世界には汚いものなんてないんだね」
「ないってわけじゃないけど、他の人より少ないかもね」
「あたしはきれいだって思えるものにしばらく出会ってない。毎日が退屈なの。年を経るごとに風景がどんどん色褪せていくみたい。あんたの日常って映画みたいなのかな。いいなあ。それって刺激的だろうね」
弓はガードレールに腰掛けて煙草に火をつけた。背後を車が走り抜ける。弓の長い髪がゆらゆら揺れる。ユイは弓の足元にしゃがみ、季節はずれのタンポポを撮っていたが、ふいに立ち上がると呟いた。
「弓ちゃん。私の世界は美しいけれど、私はいつも寂しいよ」
弓はアーモンド型の目をぱちくりさせる。
「何で?いーじゃない、美しい世界」
ユイはうつむく。
「私の目の前にあるものはきれいだよ。けれど、そこに私はいないんだもの。私小学校の頃から、自分は金魚の糞みたいって思ってた。誰かの後ろを着いていくだけ。先を歩く彼らの背中は輝いて見えた」
弓は手慣れた手つきで煙を吐き出した。
「ふうん、ユイ、そんなこと考えてたんだ。あたし知らなかったな。同じベットで寝てるのにさ」
「ふふふ」
ユイが笑うと唇の両端がきゅっとつり上がった。彼女は弓の隣に腰掛けて、続けた。
「私は皆が羨ましい。だから皆が美しく見えるの。この風景だってそう。本当は私がそこにいるべきなのに、私がそれを目にすることはない。私の目の前では、皆だけが主役になれる。今日は弓ちゃんが主役だよ。私は煙草を吸わないし、私の髪は長くない。私は弓ちゃんみたいに革ジャンが似合わない。弓ちゃんは私にないものをたくさん持ってる。弓ちゃん、本当にきれい」
弓の口から煙が溢れた。ユイはすかさずシャッターを切る。
「私も時々でいいから誰かの主役になりたいな。私がいることで、風景が美しくなればいいのに。今弓ちゃんがそこにいるみたいに」
弓はユイのカメラをひったくり、レンズを覗いてみた。しかしそこに映っていたのは、いつも通りの風景だった。弓は少しがっかりしながら言った。
「ユイはデジタル使わないんだね」
「うん。デジタルって嫌にはっきり映ってしまうから嫌なの。フィルムだといい具合にボケてくれる。記憶の中の風景みたいに」
「へえ」
ユイは弓のくわえ煙草を真似したくなったようだ。
「弓ちゃん、私、煙草似合うかな?」
「やめときなって。こないだむせたでしょ。別に吸ってるのがエライってわけじゃないんだから」
「だけど、そうしてる弓ちゃんきれいなんだもん」
「何回もきれいって言われると、そうだと分かってても照れちゃうなあ」
ユイは足をぶらぶらさせた。弓も真似をした。
「あたし、ユイの気持ち、分かるなあ。あたしも映画見てると、主人公になりたいってよく思う。でも日常の主人公が誰かなんて考えたことなかったな。だって意識しなくてもあたしの人生はあたしが主役だもん」
「いいなあ。私は一人でも脇役気分。夜、家に一人でいても、どこかの誰かの美しい寝顔を想像してしまう。例えば隣で眠ってる弓ちゃんのとかね」
「その時くらいユイが主役になりなって。もったいないよ、いずれあたしたち年とるんだからさ。きれいでいられる時間を、幻のフィルムにたっぷり焼き付けとかなきゃ」
「でも、私。主役になれる器かしら」
「ウジウジしないでよ、写真撮りまくってた時の威勢のよさはどこ行ったのさ」
「弓ちゃん、私、自信ないよう」
「自信云々の問題じゃないよ。あたしにとって、今はユイが主役だもん」
弓はユイにカメラを向けてシャッターを切った。
「わっ、不意打ち」
レンズの向こうはいつも通りのユイだった。けれどこのフィルムが現像されたら、美しいユイがそこにいるだろう。弓は煙草を携帯灰皿に捨てて言った。
「あたしはショートボブが似合わない。黒髪も、ワンピースも、カメラも、シャイな仕草もね。あたしはカメラ向けられたら自然にポーズとっちゃう。けどユイはそういうのできないよね。あたし、それが潔く見えるんだよなあ。汚れてないっていうかさ」
ユイは両手で顔を覆った。
「そんなことない。いつも撮る側だから慣れてないだけ」
「ユイって自分の可愛さに気づいてないのがズルイんだ。それが一番可愛いじゃんか。それが一番きれいじゃんか。どうしてあたしがハンバーガー食べると具がボタボタ落ちるのに、ユイはそうなんないのよ。どうしてユイが膨らませられない風船を、あたしは軽々丸くしちゃうのよ。あたしみたいにケンケンもの言わずに優しそうにニコニコしちゃってさ。そんで世界は美しいものでいっぱいです、なんて、あー、憎らしいな。あたしにこういうこと言わせちゃうんだからほんとにユイってズルイ」
弓にまくしたてられて、ユイは嬉しいような困っているような顔をする。弓は足を組んだ。スキニージーンズが引きつり、なめらかな太腿の形があらわになる。
「あたしを主役にしてくれるのはあんただけ。きっと皆そう思ってる。誰もが主役になりたくて、だけどなれないの。だからユイの前では主役を気取る。嬉しいんだよ。あたしだってそう。だけど思い返してみるとあたしの頭の中はあんたばっかり。大丈夫、写真が残ってなくても、あんたは皆の頭の中に存在してる。自分を主役にしてくれた人間を、皆はきっと忘れないよ」
弓はユイにカメラを返した。ユイは自分を映したカメラを眺めていた。それから顔をあげると、微笑んでそっと涙をふいた。
Law of Reciprocity