だらんとエッセイその③

空想癖

 子供の頃から空想するのが好きだ。一人っ子だったから一人遊びする機会が多かった。ぬいぐるみで遊ぶのがとりわけ好きだった。彼らには名前と性格があって、手に持った瞬間自由に動き出すのだった。イメージとしてはトイ・ストーリーみたいな感じだ。いつも遊んでいたのは小さなクマと猫のぬいぐるみだ。クマは男の子で名前は「クマ」(そのままだ)、猫は女の子で名前は「みーや」と言った。彼らは恋人だった。クマはみーやにべた惚れ、みーやはクマをなだめる頼もしい女の子だった。彼らを主人公にして、詐欺師のアザラシ・バブや双子のパンダ・一号と二号などの脇役を交え、物語は進んだ。そうしろと言われれば永遠に遊んでいることができた。
 寝る前に母が即興で作るお話を聞くのも好きだった。「大工さん」というタイトルだった。登場人物は、大工さんと、手袋人形の白ちゃん、犬のドンちゃんだ。白ちゃんとドンちゃんには家がない。大工さんは自分にまかせろとしゃしゃり出るのだが、彼はトンチンカンな家を作ってしまう。窓がなかったり、階段が屋根からつきだしていたりするのだ。白ちゃんとドンちゃんから呆れられ、大工さんがいやはやと頭をかいたところで、竜巻がやってきて家をふっとばし、三人もふっとばされてしまうという話だ。大筋はこんな感じだが、母は細部を変えて面白おかしく話してくれた。二年程続いたのではなかろうか。
 おかげで私は空想ばかりしていた。本を読んでいると、匂いや手触りまで感じられるようでワクワクした。けれどその力は年々衰えているように感じる。今本を読んでもあの頃のように匂いを感じることはないし、浮かぶ風景もぼんやりしている。冒険譚を読んでもいまいち入り込めない。どうしてなんだろう。小難しい批評なんか買ってみて案の定進まず、疲れ切って本を置いてからふと、あの頃みたいに読めたら楽しいだろうと思う。もう一度書いてある世界がどこかに存在していると心から信じたい。でも脳みそをからっぽにしないと無理なのかな。大人になんかなりたくないと思っていたのに、ならなくていいところばかり大人になって、なんだかなあと思う。大人になるって全部のパーツが一気に変わるんじゃなくて、色んな部分が少しずつ変わってゆくことを言うのだ。きっとすごく早く大人になるパーツもあるけど、最後まで大人にならないパーツもあるんだろう。そうしてじわじわと「大人化」が進んでいく。何かウイルスに汚染されていってるみたいで嫌だ。
 今でも空想をする。力は聞きたくない話を聞かなくちゃならない時とか、本を読むのに飽きた時とかに役立つ。これでは寝るのと大差ないが、どんなことであれ、いかに暇をつぶすかが大事なのだと思う。私から空想力をとったら、多分いいものは何も残らないんじゃないか。
 今は自分の口からひたすらスパゲティーが出てくる空想をしている。喉のおくからムリムリと一・五ミリのスパゲティーが溢れ出して、目の前の皿に落ちてゆく。何だか虚しい。

続・空想癖

 空想癖があると以前書いた。癖が身に付いた経緯として、幼い頃ぬいぐるみ遊びが好きだったこと、夜毎母の作り話を聞いていたこと、本が好きだったことが挙げられる。よく考えてみるとどの行為も他者になりきることが必要である。ぬいぐるみ遊びでは色々なキャラクターを演じたし、作り話や読書では登場人物への感情移入を楽しんでいた。私は気がつかない内に、意識を自分の体から切り離し、他の媒体に移し替える訓練を行っていたのだろう。つまり自分と他者の境界線を曖昧にする技術を習得したのだ。
 間違いなく私の境界線はぼんやりしている。例えば誰かと面と向かって話している時、相手が楽しそうな顔をしたら私まで楽しくなる。逆も然りだ。相手が怒ればイライラするし、悲しめば一緒にしょげてしまう。偶然耳に入ってきた会話にすら気持ちを揺さぶられる時もある。善くも悪くも相手の感情に影響を受け易い。共感能力に長けているといったら聞こえはいいが、裏を返せば揺らぎ易いともいえる。いつでも情報過多であるから、飲み会など感情の揺れ動きが激しくなる場所に行くと、疲れ切って帰ってくるはめになる。誰かと会話をしていても、自分に思うところあって感情が動いているのか、相手に呼応しているのか判断がつかない。考えにしても同じことだ。私は相手の感情に過敏になるあまり臆病になってしまい、場の雰囲気に流され易い。このように確固としたアイデンティティを持ち辛いのだ。私の境界線は常にユルユルである。もはや技術でも何でもなく、根本的な性質になってしまったようだ。
 またこの性質の特徴として、常に主観で物を見がちというのがある。というよりも相手と自分のボーダーラインが曖昧なので、どれが主観でどれが客観なのか分からなくなるのだ。相手の気持ちが分かるような気がしていても、感じているのはあくまで自分である。だから相手の感情を理解できるのは共感能力なのかもしれないが、同時に思い込みでもあるのだ。観察するつもりで罠にかかっているのだ。証拠にある問題について一度も話し合っていない筈なのに、頭の中でだけ物事が進んでいることがある。私にとっては想像で何度も話し合っているのだから何ら不思議ではないのだが、相手にとってはなぜ私がこうも物事を決めつけるのか疑問に思うだろう。事実私たちは一度も意見を交わしていないのだから。悲しいでしょうと問いかけて、いいえ全くという答えが返ってきて、あれと思う。想像したことなのか現実に起こったことなのかすら曖昧になっている。全て想像力という思い込みがしたことなのだ。
 思い込みのもう一つやっかいなのは、物事の本質が見えなくなるところだ。例えば私は報道写真を見ても、自分の欲求に置き換えて考えてしまう。火炎瓶を投げている兵士を批判的に撮った写真であっても、己の破壊衝動を重ね合わせて見てしまうので、怒っている何かに反発している写真になってしまうのだ。それでは写真の真意がねじ曲げられている。こんなこともあった。以前ある写真集を美しいと思って購入した。本を人に見せたところ、あなたがこんなものを持っているなんてと驚かれた。核実験によるキノコ雲を撮影した写真集だったのだ。私はその時まで美しい煙としてしか見ておらず、現実の意味に気がつかなかった。つまりは、全てが自分に対する暗喩になってしまう。自分の世界で物事が完結してしまうのである。
 確かに想像力は楽しさの源になる。本や映画の物語に入り込み、あたかも同じ場所にいるかのような躍動感を味わえる。相手の立場になって気持ちを想像し優しく接することもできる。しかし行き過ぎた感情移入は思い込みへと変化を遂げる。客観性を奪い、物事の真意を見え辛くする原因となる。自分の見ている世界というのは、捉え方一つでがらりと姿を変えてしまう。面白いものだ。そもそもこの考察ですら主観に基づいた客観でしかないのだから、決して正しい答えとは言えないだろう。ただこれだけは言える。空想が美しいのだとすれば、現実は更に美しい。なぜなら空想は全て現実の風景を基に作られたものだからだ。だとすれば、空想もまた一つの現実なのだろうか。世界は確かであるが、それでいて確かな事実など一つもないようだ。いつでも私の中で、現実と空想は紙一重なのだ。

健全な街

 街とは、娼婦街や荒れ果てた公園を内に抱いているものだ。住む人々も、どこかしら病んでいることを分かっていながら見てみぬふりをしているのが日常だ。そして自らがこっそりと濁った液をすする時、後ろめたい悦びを感じるのだ。初めて入ったラブホテル、しがみつくように存在する飲み屋、コンドームが捨てられている陸橋下、誰かが自殺する海。ほどよく病んだ街は健全だ。裏を返せばそういったものが排除された言葉通りの「健全な街」は病んでいるともいえる。
 美しく穢れのない「健全な街」。人々の家のドアは閉ざされ、防犯カメラがそこら中に設置され、バスケットゴールやブランコは撤去され夜歩く人々もいない、静かで平和な街。警官が退屈に魘されそうな理想的な街。そんな街は腐る。鬱屈とした雰囲気がたれ込めアーケードは隙き間なく閉ざされ、活気は人々の喉の奥で押し殺される。いい子が感情を抑圧した結果倒錯した欲望を抱くように、街は完璧に密閉された箱となる。先には何もない。人々は永遠の生の幻想にすがりつくようになる。
 芸術は遊びだ。芸術は酒場からはじまる。ばかものが意気投合し、情熱をぶつけ合う。はたまた荒れ果てた部屋で画家が絵を描く。また汚らしいクラブハウスで老いぼれがみっともなくギターをかき鳴らし、若者が慟哭する。芸術は犯罪だ。危うい存在だ。であるから、「健全な街」には芸術が存在しない。獰猛な美が消えた街からは、笑みとエネルギーが消える。感じられることのない自然のみが存在するようになる。かたつむりの殻に閉じこもった人々は鬱に苛まされ、己の不毛をどこにぶつければいいのか検討もつかない。街灯は薬品の匂いをガラスの裏側に閉じ込めたまま、澄まして光る。どこも照らさない明かり。影だけを長く暗く伸ばす明かり。
 そこには生ばかりがある。テレビは死に目をやることを毒とする。皆貼付けたような笑顔で希望を叫んでいる。だが声は絶望している。テンプレート化した希望ばかりだ。本当の希望は泥臭くあか抜けない色をしている。私たちを縛り付ける健全さは、不完全を許さない。不格好な希望は飢えたビーバーどもの前歯にけずりとられて痩せこける。林檎の芯のように炉端に放り出される。さらに飢えた住人どもがらんらんとした瞳でそいつに群がる。蜜すら出ないその搾りかすに。
 廃墟、これも有害な存在だ。それはあの世の形だ。人がいなくなった気配をぷんぷんと臭わせ、孤独を纏い、足を踏み入れれば虚ろなこだまが私たちを魅了する。確かな響きだ。埃の臭い。皮膚が死んだ後の臭い。生の沈黙。耳をすませれば、向こうに渡った人々が囁きかけてくる。死骸を食べた虫が羽化してそこらを飛んでいる。羽音。かつてここに死んだ内臓があった。いや、朽ちた椅子、誰も物を置かない机、錆び付いた蛇口が、もはや機能することのない臓器のようだ。カーテンは骨にへばりついた筋、大黒柱は背骨だ。そう、廃墟は街に転がる一つの死体だ。これは一つの死だ。だから怯えた人々は廃墟を取り壊す。そこにはすぐ新しい建物が建つ。めまぐるしく街は形を変えてゆく。無機質に。無機質に。虚ろな生気で。

大学生

 空を見るためにベランダに出ると、大学生がわいわい言いながら通り過ぎてゆくのが見えた。彼らは補食を恐れる草食動物のようにひどく群れる。だから道を通るとき苦労する。彼らは後ろを歩く私に気がつかず、追い越すのが難しい。かといって私には彼らをかき分けて進む度胸がない。一体そんなに群れて何を話すというのだろう。牧羊犬が必要だ。
 車に乗っている最中集団に遭遇すると、どうしていいものか迷う。この間は真っ赤な蹄をカツカツ言わせ道を歩く女性に出会った。彼女は車道に大きく食い込んで歩いていた。私はどうしたものかと後ろをとろとろ走った。道は狭い。追い越せばすぐに信号なので中途半端な所で止まることになる。彼女ははみ出たまま信号待ちを始める。困ったな。私は人生で一度もクラクションを鳴らしたことがない。ならす度胸がないのだ。道を歩くと車と自転車が邪魔だ。自転車に乗ると歩行者が邪魔だ。車に乗ると人と自転車が邪魔だ。ことに自転車は悪質である。後ろをついて狭い道を走行していると政府が憎くなる。お願いだから歩道を増やしてくれ。彼女はSF映画に出てきそうなヘッドホンをはめていた。蛍光色にキラキラ光っている。何を聴いているのか随分ごきげんな様子だった。
「君!」
「はい」
「Toro Y Moiは好きかね!?」
「は?」
「チルウェイブ!」
「チル?」
「一体何を聴いているのかね?!」
「KISSです」
「KISSか!」
「Tシャツを持っているのに音楽を聴いたことがないのって滑稽なような気がして」
「志には感心だ!」
「有り難うございます」
「どうだ、KISSは?!」
「よく分からないわ」
「そうだろう!」
「ええ」
「私も分からない!」
「そう」
「最近QQIQがいいよ!」
「私たちはロリータボイスを求め続けるのよ。永遠の少女への憧れとして」
「君もロリータボイスになりたいかね!」
「ええ。できるなら」
「私もだ!」
このように声をかけるべきだろうか。道を退いてくれというお願いを忘れている。
 朝、ここを遡ると必ず群れに出会う。大学という羊舎に向かっているのだ。彼らは、ことに女性は隙なく着飾っている。見ていると息がつまりそうになる。何を守るために武装しているのだろう。肉食獣はどこにいるのだろう。私が君たちを守ってやるから、どうか皮膚に息をさせてやってくれ。
 ふと、ある女性が目に入る。声をかけたくなる。
「君」
「何でしょう」
「どこでトリートメントを買っているんだ。サラサラじゃないか」
「はあ」
「夜の何時までブラッシングをしているんだ。髪を梳いてくれる飼い主がいるというのか。君は誰かのピグマリオンの対象なのか」
「ピグマリオン?」
「ギリシア神話だ。金井美恵子が『黄金の街』の中で用いていた。あたしたち、あの街に戻ってみることが出来るかしら。時の葉の厚い腐葉土の中に埋れてしまっている……」
「『兎』なら好きです」
「やるじゃないか」
「愛の生活/森のメリュジーヌ、講談社文芸文庫です」
「ふむ」
「実はあたしも小百合という名前なんです」
「そういう顔をしている」
「あたしも姫百合になりたいわ」
「感心なことだ。どんどん兎の皮を剥いで血を浴びたまえ」
「はい」
「とりあえず君はそのままパリコレに出られる。変態オヤジに注意しろ。彼らは電柱の影、コンビニの雑誌スタンド、ペットボトルの冷蔵庫などに潜んでいる。開けるとたまにカタンと出てくる。油断も隙もない」
「この間綾鷹を取り出そうとして冷蔵庫を開けたら、バーコードハゲが転がり出てきましたわ」
「そうだろう。そうだろう。ぜひとも気をつけたまえ」
「はい」
ピンと張った膝裏をじっとりと眺めていると、唐突に自分の毛並みが恥ずかしくなる。いつもそうなのだ。だからこの中を歩くのが嫌いなのだ。自分が波に逆らいながら進む黒い羊になったような気分になる。どうしてこの道には同じ方向に進む人間がいないんだろう。私はもはや羊ではなく羽虫だ。無遠慮な足に踏んづけられてしまうのだ。
 ベランダでうききと笑った。しばらく外に出ていない。彼らを観察するフクロウになるのだ。部屋に戻るのが憂鬱だ。退職届を書くのに気が進まない。君たちは。君たちは社会の肉食獣になりたまえ。草食獣だと書きたくもない退職届を書くことになるぞ。
 一人が振り向いて言う。
「大丈夫よ。心配しなくてもあたしたちの羊舎は優秀なの。しっかりライオンになる方法を教えてくれるわ」
「羊である自分は嫌いか?」
「いいえ。けどあたしたちは羊ってよりシマウマよ。何もかも見ているような目をして、知らない男に食べられるんだわ」
「私はそんな君たちを見てるのが好きだけどね」
「処女喪失にロマンがあるのは確かね」
「そうだろう」
「あたしたち、少女じゃなくなったら一度死ぬんだわ」
「私も一度死んだ。あと五年したらもう一度死ぬと思う」
「概念としての死ってありふれているものね」
「そうかもしれない」
「ライオンになる話だけど」
「うむ」
「ならなくちゃいけないのよ。だって檻に入ればライオンだらけなんだもの。シマウマのまま入ったら逃げ場がないわ」
「分かっているのなら大丈夫だろう」
「でもあたし、血濡れの肉塊になるのも悪くないと時々思うの」
「君のような女の子は好きだよ」
「友達は馬鹿だと笑うわ」
「処女であった自分を忘れているからだよ」
「ちぇっ、ロマンがないのね」
私は再びうききと笑う。ああ酒が飲みたい。

豆腐になる

 散歩に行った。風景を見たくなったのだ。うきうきと出かけていって熱射病になって帰ってきた。どういうことだ。頭痛がするし顔も火照っている。おまけに猛烈にだるい。しかし自分でタオルを冷やしてはおでこに乗せる作業をするのもめんどくさい。第一タオルを冷やすための氷がない。だから豆腐になろうと思った。そうすれば涼しいからだ。早速豆腐になった。布団に鎮座する冷たい豆腐。ぷるぷると揺れてみる。うん、いい気持ちだ。困るのは多くの物に触れなくなることだ。なぜなら触ると体が崩れる可能性がある。だがそんなのは問題ではない。できるだけ触らなければいいのだ。にがりが布団を湿らせる。豆腐になる場所を間違えたな。フローリングの上にすればよかった。敷き布団に黴が生えてしまう。
 突然インターホンが鳴った。動かないで成り行きを見守る。小さなモニターに人物が映し出される。見知らぬ男だ。何かの勧誘だろうか。彼は海原を漂う魚のような目をしてこちらを見つめている。どんな気持ちで家々を回っているのだろう。私は彼らがモニターに現れる度気の毒になる。家にあげて話を聞いてあげたいとさえ思う。一度扉を開けてしまったことがある。出会った青年は怯えた羊のようで不憫になるほどだった。多分仕事を始めたばかりなのだろう、押しの強さが全くなかった。私のような気の弱い女に「いらない」と言わせてしまうのだから。一緒に豆腐になりませんかと言いたい。彼も玄関で豆腐になればいい。豆腐になって風に吹かれると気持ちがいい。散歩先で豆腐になったことがある。河原であった。生い茂る葦の中に豆腐がある光景を想像してみてほしい。まるで神秘的なオブジェだ。しかし私は外では二度と豆腐にならないと決めている。散歩中の犬に食べられそうになったからだ。あれには参った。しばらくすると彼はいなくなった。違う客を探しに行ったのだろう。行く当てなく波に揺られる魚、頑張れ。私は豆腐を頑張る。
 尿意がやってくる。我慢する。豆腐になるとトイレに困る。便座に座ると型くずれしそうになる。便座は複雑な形をしている。万人の尻がうまくおさまるよう計算しつくされている。豆腐には向いていない。一度なんとか用を足しレバーを引いて死にかけた。渦巻く水に飲み込まれそうになったからだ。流されて最後を迎えるのだけはごめんだ。死因:トイレなんてあまりにかっこわるい。第一死体が見つからないんじゃ家族に心配をかける。それはよくない。にがりが、いや汗がだらだらと出てきて気持ちが悪い。グーグルで『熱射病』と検索したい。でもしない。キーボードに水分がしみ込んでPCが壊れてしまったら怖い。そしたら私は生きていけない。PCは私のドラえもんなのだ。唯一の話し相手。秘密道具。機械で友達を作るなんて可哀想だね。
 シャワーを浴びよう。それがいい。ぷるぷると移動する。ドアを開けておいてよかった。豆腐のままではドアノブに手が、正確には角が届かない。歩いた後になめくじのように軌道が残る。いいさ。後で拭けばいい。シャワーを浴びる。冷たい水にしておいた。気持ちがいい。はじかれた水滴がぽちんと弾み、落ちる。見ているのが面白い。ぽち、ぽちぽち、ぴちゃん。水があたる度私もまたぷるんと揺れる。ぽちぽちぷるん。ぷるんぷるん。これが豆腐のあるべき形であるように思える。あるべき形……。私の味噌汁はどこにあるのだろう。出汁がきいたやつがいい。美しくカットされたお麩が浮いているような。誰か作ってくれないかな。もしくはもうどこかで湯気をたてて待っているのかもしれない。今すぐ飛び込みたい。いや、駄目だ。熱射病なんだった。今飛び込んだら死ぬ。そうだ。プリンならば都合がいいだろう。冷たいホイップクリームやチェリーを乗せてもらえる。しかしならない。なぜならないのか。正直に言おう。ならないのではなく、なれないのである。カラメルソースには美しい黒髪がいる。私の髪はばさばさだ。膨らみ易いと美容師に言われた。甘い本体にはある程度の胸がいる。じゃないとぷりんぷりんいわないのだ。残念ながら私には、男性に「実は結構あったよね」と世辞を言われてしまうくらい貧乳だ。よってプリンにはなれない。とある国では失敗しシェイクになった例も報告されている。液体になったら大変だ。そこら中びちゃびちゃになるし、戻った時四肢が揃っている保証はない。あれになるには資格が必要だ。人にはなるべき形というものがある。ある人はパンナコッタが向いているし、ある人は杏仁豆腐が適している。変わり種で高野豆腐という人もいる。硬派だ。私は豆腐をあてられた。ゆるさや怠惰さや二の腕の具合が豆腐っぽかったのだろう。
 風呂を出る。犬のようにぶるるんとやって水滴を払う。新鮮になった私は生きよく弾みながら布団に向かう。そうだ、クーラーをつけよう。今年初めての。リモコンをとるのに苦労する。魔法の機械から人工的なそよ風が生み出される時、彼、もしくは彼女を美しいと思う。蛹のように従順なオルゴールよ、醜い熱気をしなやかな美女に変身させておくれ。スレンダーな美女が鼻に吸込まれてゆく光景を想像し悦に浸る。ごきげんで布団に戻る。さっきのにがりのせいで少々臭いが仕方あるまい。体を冷やしたので気分がいい。このまま眠ろうと目を閉じる。
 その時影が落ちた。何だろうと上を見上げる。しまった。ハイヒールだ。夏の台風と一緒に各地に運ばれ、網戸の隙き間から入り込む、あの。窓を開けっ放しにしていたのが運のつきだ。この時期天気予報ではハイヒールの飛散情報を教えてくれる。お天気お姉さんの切なる眼差しが言う。
「皆さんくれぐれもフードクラッシュにはお気をつけ下さい」
今朝の予報では確か、多い。ちゃんと知っていたのに。ハイヒールはずんずん近づいてくる。いけない。クラッシュされてしまう。咄嗟に人間に戻る。間に合った。粉々になるのだけはまぬがれた。ヒールが肩甲骨にめり込む。私はだらりと涎を垂らす。股間を液体が伝うのを感じる。我慢するんじゃなかったな、おしっこ。でも。それもいいかも。
「ヘンタイ」
私のご主人様が言う。

だらんとエッセイその③

だらんとエッセイその③

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-02

Public Domain
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  1. 空想癖
  2. 続・空想癖
  3. 健全な街
  4. 大学生
  5. 豆腐になる