真っ赤な布団

 ぼくたちは色んなものを食べる。卵、ツナの缶詰、コーン、マカロニ、パリパリのレタス、きゅうり、生のにんじん、レトルトのハンバーグ。きみはトマトホールの缶の中身をそのまま啜りながら、ぼくに言った。
「ねえ、あんた誰?」
「きみこそ」

 ぼくたちは三日前に知り合った。ぼくが声をかけたんだ。雨降りのガードレールの上で、アジを焼いたヤツを手づかみで食べてた彼女が気になったから。「何してんの?」とぼくが聞くと、彼女はおしゃれな鞄から次から次へとアジを出して食べながら、きょとんとした顔をした。何をって、食べてるんですけど、とでも言いたそうな表情で。ぼくは奇遇だね、と言いながら、リュックからマヨネーズのチューブを出してちゅうちゅう吸い、ネットに入ったままのオクラを出してぽりぽり噛んでみせた。それでようやく彼女はぼくを気に入ってくれたらしい。彼女はぼくの部屋に転がり込み、ぼくたちは生卵を割ってジョッキ一杯それで満たし、両手をドロドロにしながらそれを舐め、啜り、飲み干した。それから顔を見合わせてニヤッと笑った。

 ぼくたちはセックスをし、それから二人で食べまくった。ぼくたちが食べる物、それは手当たり次第何でも。味のついているやつ、ないやつ。タンパク質、炭水化物、レトルト食品、手の込んだシチュー。シシカバブ、精進料理、ほうれん草に調味料。彼女の唇にチリソースがこびりついていたので、ちゅうっと吸った。ぼくの唇も彼女の唇も赤く腫れ上がり、それが愉快だ。
 フード・クラッシュって知ってるかな? とあるマニアックな方たちが考えだした、下らない遊びだ。ハイヒールでバターやトコロテンを踏みつけ、普段はパリッとスーツなんか着てるようなやつらが興奮してオナニーするってそういう行為。食べ物が踏まれる光景や音、それがどうやらそそるらしいんだな。人間って不思議だね。そこにある食べ物を踏んづければ、今すぐあなたもフード・クラッシャー。そういうのって、笑えるだろ。
 でもぼくたちは、踏んだ食べ物を這いつくばって食べる方が余程楽しかったんだ。今だってきみが裸足で思い切り踏みつぶしたバターをぺろぺろ舐めてる。まろやかな油の匂いと、フローリングの木の味がぼくの口の中に広がる。一度顔を放してバターの表面を観察すると、柔らかい黄色の凹凸にきみの足の指紋がくっきり浮かび上がってて、ぼくはまるできみの足そのものを食べているようなえも言われぬ感覚に襲われる。
 まあ、その後ぼくは実際に彼女の指にこびりついたバターを食べるよ。油でギトギトになった足の指を一本一本舐めてきれいにするんだ。きみはそうしてるぼくの後頭部をただじっと見てる。長い茶色の髪の毛が、午前の日差しに透けてふわふわ揺らいでいる。レースの下着がこぼした牛乳で湿って、小さな胸に貼り付いてる。
 彼女の涙袋ってほんとに魅力的だ。クマと長い睫が落とす影が混じり合って、うっすら桔梗色に青みがかってる。その上には何とも言えない瞳の色が潤んでいて、その周りを分厚い睫が覆ってる。ぼくはきみの目尻にチョコレートを塗りたくり、べろべろ舐める。きみは目の前にあるぼくの鎖骨にマヨネーズつけて、ぼくをまるでささみ肉みたいに噛む。きみの前歯がずるっと滑り、その痕がぼくの肌にサーモンみたいな色で残る。

 ぼくの部屋はくたびれてて、何ていうか、光しかない。白の本棚に色んな物がぐちゃぐちゃに詰め込まれてるけれど、それって大事なようで全部大事じゃない。その証拠にぼくはそこに何があるのか未だに把握してない。だけど、外に出ると何かしら買って帰ってきちゃうんだな。
 きみはぼくの新品のゴミたちを拾い上げ、ぼくにそれが何か説明させようとしたけれど、ぼくは一言だって意味のある言葉を発することができなかった。あー、とか、うーとか言ってるぼくを彼女は赤い唇でいなすと、おもむろに品物を覆ってるフィルムに醤油をつけてずずっと啜ったんだ。ぼくはぽかんとしながら、その新品のガラクタが、彼女の手によって汚されて初めて意味のあるような物になった気がしたんだ。彼女は次々とゴミの山を漁り、痕跡をつけていった。CDを噛んで割り、ホイップクリームをぶちまけてぺろぺろ舐めた。本には刺身を乗っけてずるずると食べた(そのページは油に汚れて解読不能になった)。度重なる破壊により、きみの口の中からトマトケチャップみたいな血がとろっと溢れていた。
 ぼくのゴミの山が本当のゴミの山になってしまうと、ぼくはそれをまるで使い古したお皿であるかのように、シンクに置いた。それらは彼女の唇の軌道を鈍く光らせながら、黒光りしてそこに落ち着いた。
 ぼくはまだ滴っている彼女の血を舐めてみた。どの食べものとも違う味がした。子供の頃噛んだ十円玉の味だ。ぼくたちは、柔らかい無機物なのだ。

 彼女はぼくの手をヨーグルトの中につっこんで、指にこびりついたそれをもぐもぐ食べた。ぼくの指はまるでウインナーのような弾力で彼女の歯に削られていた。彼女の歯は容赦なくぼくに傷をつけたけれど、ぼくはこのまま彼女に食べられてしまいたいと思ったんだ。彼女のすてきな八重歯に粉々にしてもらいたいってね。ぼくと彼女の血でヨーグルトは苺ジャムふりかけたみたいにピンクになって、それは不完全に美しかった。ヨーグルトがぼくの服の裾にもついたので、彼女はそれもちゅうちゅう吸った。
 彼女はぼくの耳の裏に牛乳を滑らせた。それがつつーっと首から背中へ這ってゆくのを感じてぼくの二の腕に少し鳥肌がたった。彼女はしずくを追いかけるように舌を這わせるので、ぼくはその部分だけ自分が生きているような気がしたんだ。
 ぼくの肩甲骨はブルーベリージャムに汚された。彼女はその上から安いゼリーの雨をふらせた。ナタデココとタピオカも。ぼくの背中は雨にふられた沼みたいに、もしくは手術痕の内蔵みたいに薄汚くなって、ブルーベリージャムはさながらひどい痣みたいだったし、蒟蒻の類はまるでぼくから溢れ出た醜い脂肪みたいだった。彼女はその「痣」をきれいに舐めてくれた。ぼくの肩にひっかかる「脂肪」もきれいに噛み切って飲み込んだ。ぼくも彼女の耳にイカスミを垂らしてがじがじ噛んだ。黒に飲まれて、彼女の耳は傷ついているのかそうでないのか、このねばついているのはぼくの唾液なのか彼女の血液なのか分からなくなった。ああ、幸せだ。
 ぼくは彼女の涙袋をどうしても汚したくなって、彼女のおでこに蜂蜜だらだらぶちまけて、彼女の頬を両手で覆ってぺろぺろ舐めたんだ。戯れみたいに髪と肌の境目に爪をたてて、まるで新しいメイクみたいに血がにじむようにさ。彼女の前髪が蜂蜜によってとりかえしがつかないくらい絡まるのをぼくは楽しんで見つめていた。その髪の毛もちゅうちゅう吸った。彼女が、彼女が汚れていく。ぼくの手によって、とりかえしがつかぬまで。
 ゆるゆると蜂蜜が彼女の睫の間を縫い、一粒眼球に落ち込んでいった。彼女はゆっくりと瞬きをした。「痛い?」ぼくは聞いた。「分からない」彼女は言った。彼女が痛くても痛くなくても構わなかった。その時ぼくはこの見知らぬ少女を自分の物にすることで頭がいっぱいだったから。彼女が体験したことのない感情を、感触を、ぼくだけが味あわせたい。彼女にぼくの痕跡を残して、ぼくを忘れないように徹底的に、ぼくの全てを植え付けたい。それは愛なのかと聞かれればそうではないとぼくは答える。それはただの独占欲だった。彼女はぼくの「物」だった。彼女はぼくにめちゃくちゃにされる品物であり、ぼくの存在を保管していてくれるタイムカプセルだった。二度と開けることない、掘り起こされることない、その場しのぎのタイムカプセル。
 ぼくは彼女を不幸にしたかったんだ。なぜってぼくが寂しかったから。彼女はどうだったのか分からないけれど、その時彼女はぼくに応じてくれた。ぼくはそれだけで充分だったんだ。だからぼくは甘んじて、彼女に爪を立てたんだ。後に彼女がぼくを憎もうとも、蔑もうとも、嫌悪しようとも。
 そう考えているうちにぼくはますます彼女に傷をつけたくなった。彼女の体中を噛んだ。彼女の肌から伝うくらい血が滲めばいいと思ったけれど、変なところで小心なぼくは、血液をケチャップで代用することにしたんだ。ぼくらは体中にケチャップを塗りたくり、布団をニセモノの血まみれにして隅から隅まで舐め合ったさ。あーあ、ぼくの買いたてのシーツ。でも、これって気分がいいな。別にセックスしなくってもさ、ぼくはこれでいいんだ。セックスだけが彼女を汚す方法じゃない。ぼくはぼくの部屋っていう取り留めのない籠にきみを閉じ込める。きみの斑に赤い首筋をきれいにできるのはぼくだけだ。きみはそうっと目を閉じている。

 そういうお遊びを五日続けたところでぼくたちは飽きた。部屋中の生ゴミを現実的なポリ袋に押し込んで捨てた。彼女はあっさりと身支度を整えた。きれいな服を彼女はどこにしまい込んでいたんだろう? べとべとだった唇は安っぽい歯磨き粉で洗い流され、ぼくたちは生まれたてのようにつるつるになった。こんなのってつまんないや、とぼくは思った。彼女のアジがつまってたポーチには、余った生卵が並々と注がれた。「咽が渇いたら飲むわ」と彼女は言った。そう、彼女は言った。
 ぼくは彼女を、ガードレールのところに送っていった。ぼくたちが初めて出会ったところだ。ぼくの歯はもう二度と彼女を噛むことはないだろう。彼女はもう二度とぼくに舐められることはないだろう。「でもそれでいい」ぼくたちは互いにそう感じていることに気がついていたさ。お互いの体に、自分たちにしかつけられない痕をつけることができた、それが重要なんだから。たとえ一度きりだとしても。
 彼女を連れ去るバスが着た。遠くから眺めていると彼女は、まるで普通の女性だった。ぼくはどうして彼女が特別だなんて思ったんだろう、と思った。そういうもんなんだ、感情ってさ。ぼくって少し薄情かな。
 彼女の後ろで知らない人ん家の洗濯物がはたはた揺れてた。まるで昨日の記憶の亡霊みたいにさ。プシュっとバスのドアが開いた瞬間、彼女はゆっくりポーチを口元に持ってゆき、中の液体を少しだけ啜った。
 その一瞬ぼくは、稲妻のように思った。
「行かないでくれ」
 けれど彼女はぼくの手をすり抜け車内の暗闇へと溶け込み二度と現れることはなかったよ。ま、当たり前だけどね。

 ぼくたちの名前は?
 彼女の顔は?
 彼女の声は?
 そんなことはとっくに忘れた。
 ぼくにとって、あの時彼女がアジを齧っていたこと、それだけが重要だったのさ。

 ぼくは歩き出す、歩き出す。きっと明日も明後日も、真っ赤な布団だけは捨てないでおく。ぼくはその上に寝転がって、新たな女を待つだろう。下らなく柔らかい、新しい品物をね。

真っ赤な布団

真っ赤な布団

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-02

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain