ここは一体どこなんだろう。ふいに頭が真っ白になる。
 ぼくは窓枠に縁取られた狭苦しい空を見つめていた。季節は夏であるから青く澄み渡っている。控えめに雲も浮かんでいる。誰かがちぎって置いたような小さな羊雲だ。それらは何だか白々しく見えた。何よりも空らしくありながら空でない。無名な画家が描いた一枚の絵と似ている。
 ここはアパートの自室だ。右手にはマグカップが握られていた。中には茶葉が浮いてだらしなく濁った緑茶がつがれている。取っ手は長く握りしめていたせいで生温くなっていた。中途半端な温度が汗のかいた指先をますます温めてゆくようで気持ちが悪かった。それでもぼくはマグカップを握りしめたままでいた。半分忘れ去られたマグカップは右手の中で透明になりつつあった。ぼくはベッドに座っていた。ベッドは簡素なものだった。毛布は黄ばんで足元でくしゃくしゃに丸まっていた。カバーには穴が空いていたし、リネンのシーツは毛羽立ちごわごわしていた。枕にかけられたタオルの柄はぼやけて、遠い日の思い出のような色合いになっていた。枕はぺしゃんこにつぶれて、正直に言えばあってもなくても変わりのないような代物だった。ぼくにとっては素晴らしいベットなのだが、他の人が見ればお世辞にもいいと言えないだろう。ベッドそのものは鉄パイプで出来た安物だった。だから寝返りをうったりして体の重心がずれるたびに大きな音をたてて軋んだ。もしセックスする相手がいたとすれば、行為をする度にひどい騒ぎになったかもしれない。恋人とのセックスによって隣人の安らかな眠りが妨げられることのないようベッドを買い替えたかもしれない。しかし今は相手がいない。残念ながら。隣人にとっては喜ばしいことかもしれないが。ベッドは窓際の壁に設置されていたから、窓の外の景色がよく見えた。その古ぼけたベッドに座って濁ったお茶を飲みながら、空を見上げていたというわけだ。
 なぜ空を見上げていたかというと、深い理由はない。いつものように何も考えずに朝食をすませ、何も考えずにお茶を入れ、何も考えずにベッドに座り、何も考えずに窓の外を見たのだ。だからこの行為に深い意味はないし、空を見ることによって何かが始まるといったことはない。その時空を見ていた。それだけだ。
 空を見るのをやめて、ベッドの斜め左にあるシンクに目を向けた。これもまた何かを意図しての行動ではない。先程と同じようにただ見ただけだ。これもまた申し訳程度の小さなキッチンだ。シンクとガスコンロが大半を占めまな板を置くスペースがないし、収納だって少ない。それに時々なめくじが出た。アルミの壁紙は焦げ付いてあちこちが茶色くなっていた。コンロだって何回かダイヤルを回さないと火がつかなかった。慎ましい水鳥に似た蛇口をひねると、中で何かが詰まっているゴボゴボという音がした。二三秒待ってやっと水がでる始末だった。だけれどぼくは収納棚のミントグリーンが嫌いではなかったし、ぴかぴかに磨き上げられたシンクも愛していた。もしかすればなめくじだってこの光沢に惹かれてやってくるのかもしれない。そうでなければ湿り気の権化のような生き物が、水の出の悪い乾涸びた台所にやってくる理由も見当たらないから。
 今愛すべきシンクには汚れた皿が一枚置かれていた。人の顔くらいの大きさの飾り気のない皿で、今朝焼きそばを食べる時に使ったものだった。だから皿には茶色の油がこびりついていた。ぼくは汚れを見ながら朝のことを思い出した。
 ぼくは誰に起こされるわけでもなく一人で起きた。当たり前だ。この部屋にはぼく以外に誰もいないんだから。いつものようにくたびれた犬のような毛布を足元に蹴り上げて、ぼんやりとした頭をかきながら身を起こした。一つあくびが出た。しばらく何をするでもなくベッドに腰掛けてぼんやりとしていた。外は天気がいいらしい。窓から光が差し込み背中を焼いた。巨人に虫眼鏡で背中を観察されている気分になった。巨人は窓からこちらを覗き込んでいる。手には大きな虫眼鏡を持っていて、窓を埋め尽くしてしまうくらい大きな瞳で覗いている。レンズは光を集め皮膚の一点をじりじりと焼く。そうなったらぼくはきっとされるがままにしているだろう。巨人に好きなだけ背中を眺めさせてやるだろう。巨人は何のためにぼくを観察するのだろう、と思いを巡らせるだろう。夏休みの絵日記のためだろうか、それとも啓示的な何かを得るためだろうか、などというふうに。
 そんなことを思い描いているうちに意識がはっきりしてきたので、虫眼鏡を持った巨人の妄想をやめて洗面所に向かい、冷たい水で歯を磨き顔を洗った。タオルで顔をふいてから鏡を見ると、もう一人の自分がふぬけた顔をしてこちらを見ていた。口の端に涎のあとが残っていたし無精髭が生えていた。昨日お酒を飲んだからだろう、目のふちが赤くなっていた。パジャマがわりのタンクトップの首元がよれよれになっていた。ぼくはうんざりした。自分が女だったらいいのにと思った。そうしたら毎日無精髭やよれよれのタンクトップなどを見なくてもいいのだ。
 腹が鳴ったので朝食にすることにした。のろのろとキッチンへ行き冷蔵庫の扉を開けると、ビールが二本とパック入りの焼きそばが大人しいカブトムシのようにうずくまっていた。昨日酒のつまみにと思いコンビニから買ってきて、食べずに眠ってしまったことを思い出した。パックの閉じられた蓋にソースがくっつき妙な光沢を発していた。冷蔵庫の薄暗い光源の下で見ると甲虫の背中にも見えた。
 冷えたカブトムシをつかみだしお皿にあけた。小さな引き出しから割り箸を一膳出して、ベッドの前に置かれたちゃぶ台に持っていって食べた。焼きそばは伸び切っていた。もしかしたら買った時から伸び切っていたのかもしれない。麺が口の中の水分を持っていってしまうので、何度も水を飲まなければならなかった。朝日の中で焼きそばを食べていると何だか変な感じがした。これほど朝日に似合わない食べ物はなかった。ソースも紅ショウガも茶色の麺も、どことなく夜の匂いがした。唐突にうらぶれたスナックが立ち並ぶ路地が思い浮かんだ。「あけみ」とか「チェリー」とかよく分からない名前が書かれた看板が、薄闇の中に白く浮かび上がっている光景だ。通りには薄紫の夜とどことなくくたびれた空気が漂っている。スナックの扉は全て閉められていて人の気配はない。そんな中どこからかソースの匂いが漂ってくる。店の中で誰かが焼きそばを焼いているのかもしれない。もしくはこれから店に出る女が遅い夕食をとるところなのかもしれない。焼きそばはそういう情景に似合う気がした。
 路地裏が消え、ふうっと朝の光が戻ってきて、焼きそば数本を口に運ぼうとする体勢で静止している自分に気がついた。いけない、すぐぼうっとしてしまう。食べることに意識を集中させ残りの焼きそばをたいらげた。つんとした辛さが舌の上に残った。
 ぼくは回想をやめお尻の位置をずらした。時々座る位置を変えないと体が凝り固まってしまう。右手で透明になりかけているカップの存在を思い出し、中のお茶をすすった。泥水のような味がした。茶葉がざらざらと砂のように喉を通り抜けていった。少し後悔して茶葉で黒くなっているカップの底を見つめた。もっときめの細かい茶こしを買わなければならない。これでは砂丘を飲んでいるのと変わらない。いつの間にか取っ手は手の中で別物のように冷えていた。冷たさがひたひたと這いのぼってくるのを感じ、ようやくカップをちゃぶ台に置いた。自由になった右手で何となく脛を撫でながら、シンクの隣に縮こまっている冷蔵庫に目を向けた。中にはビール二本が入ったままになっている。いざという時の爆弾のように冷たく。それから野菜室を見て、ぎくっとした。数日前キャベツを買ってきて仕舞ったままになっていたことを思い出したのだ。お酒ばかりだと体に悪いからと思い買ってきたはいいものの、すっかり忘れていたのだ。今日まで一度も思い出すこともなく。
 キャベツを買おうと決心したのは何日か前の夜で、ぼくはらしくもなく浮かれていた。なぜ野菜を買うだけでそんなに気分が高揚するのか今となっては分からないけれど、とにかく上機嫌だったのだ。薄っぺらの財布を持って近所のスーパーへ出かけた。その日は一日中晴れていて雲も出ていなかったせいか、外の空気はからっとしていた。夜を胸いっぱいに吸込みながら、はちきれた心のように丸いキャベツを一個買った。その重みを腕に感じながら帰ってきて野菜室に放りこみ、今になるまで忘れていた。
 嫌な予感がした。季節は夏だ。それに部屋には冷房器機がない。きっとキャベツは悪くなっているだろう。気の毒なキャベツ。冷たい光に照らされたキャベツの葉っぱに、茶色い斑点がでているところを想像した。さわやかな緑に散らされたくすんだ茶色の斑点を。斑点に支配されたキャベツは石ころだらけの小さな星のように見えた。
 状況はもっと悪いかもしれない。自分が野菜室を開けるところを思い浮かべた。野菜室はゴクンとおごそかな音を立てて開く。するとそこからヘドロのような液体がどんどん溢れ出してくるのだ。液体というのはもちろんキャベツが腐り切って液状化したものだ。液体は緑色をしているだろう。大雨に見舞われた後の川の水のようにどろどろとしているだろう。液体は冷やされていたにも関わらずなぜか生温い。かつてキャベツがあったところから沸き出すように溢れ出してくる。畳に染みができてしまう。
 もしくはこうかもしれない。野菜室を開けると一回り、いや二周りほど小さくなったキャベツがこぢんまりと転がっている。水分が限界まで蒸発してしまったようだ。めずらしい鉱石のように無機質な光に照らされて淡く影を作っている。幾重にも重なった葉は乾燥してチリチリと皺がよっている。白い葉脈が血管のように浮き出している。これでは食べられない。硬そうだし、それに乾いていそうだ。キャベツを取り出そうと手を突っ込むと、どうしてか野菜室の中に吸込まれてしまう。しゅううううう。気がつくと体は一円玉ほどの大きさになり、巨大なキャベツを見上げる格好になっている。キャベツは街中に現れた奇妙な形のオブジェのようにそこにある。冷蔵庫が発する機械音が細かく足を揺する。ブーン。野菜室の壁は白い。まるで別の惑星だ。壁がプラスチックでできていると知っているにも関わらず、感嘆のため息をつく。奥の方から冷たい風が吹きつけてくる。こもったような嫌なにおいがする。しかしこの風がオブジェを(キャベツを)腐敗から守っているのだと思うと、何だか神聖な気持になる。キャベツはなめらかな光に照らされてパールグリーンに発光している。触れてみるとゴムよりも柔らかい、慈悲のような弾力だ。目を閉じて右手に意識を集中させる。独特な質感は独立した海の生き物の皮膚だ。だんだんキャベツが脈打ち息をしているような錯覚にとらわれる。指先を撫で下ろすときゅうと音がした。一瞬、ここがどこだか分からなくなる。
 そういえばさっきまでベッドの上にいて、食べそびれたキャベツについて考えを巡らしていた気がする。いや、今でもそうなのだ。現にちゃぶ台の上のマグカップが見えているし、シーツのごわごわした肌触りだって感じている。キャベツのイメージがあまりにくっきりしていたせいで、現実と空想がごっちゃになってしまったのだ。頭に霧ががかり耳に何かが詰まっている。人差し指を耳の穴につっこんで掻き回すと、何かが滑り込んでくるような感触と共に音が戻ってきた。
 ぼくは相変わらずよれよれのタンクトップを着て、古びたベッドにあぐらをかいていた。毛布は足元に追いやられていた。枕はぺちゃんこだった。窓の外には描いたような青空が見えていた。ちゃぶ台の上にはマグカップが置かれていた。シンクには汚れたお皿が一枚転がっていた。冷蔵庫の電子音以外、何の音もしなかった。しばらくぼんやりしていた。首をのけぞらせて窓の外を見た。日に焼けたカーテンの向こうに青い空が広がっていた。羊雲はどこかにいなくなっていた。草でも食べに行ったのだろう。
 ふいに思った。今、一体どこにいるんだろう。ここはどこなんだろう。今すぐ誰かに教えてほしかった。誰かに古びたベッドの隣に座ってもらいたかった。一緒に空を眺めてほしかった。キャベツの話を聞いてほしかった。しかしそんな人はいない。今度は口に出して呟いた。ここは一体どこなんだろう。もしかして誰かが聞いているかもしれないと思って。深く眠っている隣人や、虫眼鏡を持った巨人や、どこかのスナックで焼きそばを焼いている女が。しかし古びたベッドの上にはぼく以外誰もいなかった。野菜室の中でキャベツがきゅうと鳴いた。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-02

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