包丁の雨
空から包丁が降ってくる。ぼくは自宅の軒下で困り果てていた。今から朝食の鮭を買いにいかねばならないというのに。このままではぼくは餓死してしまう。かつて朝食を食べ損ねたせいで、五回ほど餓死したことがあるのだ。
それにしてもこれはどこから降ってくるのだろう。包丁輸送用飛行機の腹に穴でも開いたのだろうか。それともどこかで巻き起こった台風が、包丁屋を巻き込んで北上中なのだろうか。ぼくは首が痛くなるほど空を見た。曇っている。飛行機も竜巻も見えない。包丁は淡々と落ちてくる。鼻先をひゅんと通り抜け、地面に垂直に突き刺さる。足の踏み場もない。
気がつくと軒の柱に刺が生えている。ぼくは飛び退く。するとそちらの柱にも刺が。ああああ。ぼくは身を縮める。もしかして世界中の軒下が刺だらけなのか。駄目だ。ぼくは餓死してしまう。嫌だ。あれは苦しいんだ。それに肋骨が浮き上がると、シルエットがぼこぼこしてて気持ち悪い。生理的に無理。ぼくの鮭。ぼくをスーパーで待ちわびている鮭。ああ、桃色のその姿。きみを覆うビニールの光沢。きみを焼く時の磯の香り。唇に滑り込むまろやかな油。広がる食塩。
「ああああああ」
ぼくはちくちく軒下に堪え切れず駆け出した。ひゅんひゅんひゅん。降り注ぐ包丁の柱を走り抜ける。盲滅法駆け回っていると、目の前が光った。太陽が降りてきたような明るさ。薄目を開けるとそこには羽を生やした赤ちゃんがいた。
「じゃじゃーん。天使です」
「ま、眩しい」
「すみません。では光量を200Wに下げます」
天使がぺろりとパンツを脱ぐと、尻の上にダイヤルがついているのが見えた。「あかるい」「くらい」とへたくそな文字が書いてある。天使は「くらい」方にダイヤルを回した。天使は目に優しくなった。
そうこうしている間にも包丁の雨は降り続ける。ドスドスドス。
「天使様がぼくに一体何の用でしょう」
「出血大サービスです。今ならあなたの望みを一つだけ叶えてあげます」
「お願いします。ぼくを安全な場所に連れて行って下さい。ぼくは朝ご飯の鮭を食べなければならないのです」
「分かりました」
天使は満面の笑みを浮かべた。次の瞬間、ぼくの脳天に包丁が突き刺さった。ドス。ぴゅーっ。勢いよく血が噴き出した。どうして。ころしてくれなんていっていないのに。ぼくはしゃけがたべたい、だけ、なん、だ。
ぼくは死んだ。
気がつくとふわふわしたところに寝ていた。これは布団? 違う。もっと弾力がある。そうだ。包丁は。ぼくは跳ね起きた。どこもかしこも雲の海だった。
「目が覚めましたか」
振り向くと天使がいた。
「ここは」
「天国です」
「殺してくれなんて言っていません」
「あれを見て下さい」
天使は遠くを指差した。そこには一人の老人がいた。老人は穴から包丁をまき散らしていた。楽しそうだった。
「あれは神様です」
「どうしてあんなことを……」
「神様のトレンドです。よって今安全な場所はここだけなのです。あなたもやりますか。楽しいですよ」
涼やかに笑う天使の両手に包丁。ぼくは目眩がした。まさか神様たちが刃物の雨を降らせていただなんて。
「あ、そうだ。これ、忘れていました」
天使は懐に手を突っ込みほかほかの紅鮭を取り出した。
「食べたいのならどうぞ。焼きたてですよ」
天使はぼくの足元にそれを放った。紅鮭は雲の上でぽふんと跳ねた。ぼくは油ののった鮭を見つめた。それは悲しげにてりてりしていた。
包丁の雨