殴る
あなたは人に殴られたことがある? 私はない。
世の女性はあまり殴られたことがないだろう。私の思い込みだ。私は随分甘やかされて育ってきた。であるから、周りの女性も蝶よ花よと可愛がられてきたに違いないと思い込んでいる。それに人間関係で引き起こされる摩擦は、表情か言葉といった形のないもので表現されるのが常である。精神がぶん殴られる経験はあれど、肉体がぶん殴られる経験はまだないし、想像してもそこに痛みはない。恐らく精神的な痛みと肉体的なそれは種類が違うはずだから。経験ってやつは体験されるまで見知らぬ他人なのである。
といっても殴られた経験のある彼はれっきとした男性であるから、この前ふりには全く意味がない。
彼とは寂れた町の高架橋下で出会った。彼はコンクリートの柱を拳で殴りつけていた。みっしみっしと痛々しい音がした。指の骨が一本残らず折れているのではないかと思わせるような音であった。私は一匹の動物が走る様を追うように彼を観察した。無意識に痛みを感じているのか目元に汗を浮かべていた。唇をぎゅうっと噛んでいた。そのくせ表情は穏やかだった。後々分かるがこれは彼の癖であった。唇をぎゅうっと噛む。彼は嬉しい時であってもその仕草をする。足を踏ん張り、枯れ草を踏みつけていた。踏みつけられるために生えたような頼りない雑草だった。パーカを着ていた。肩をしならせるたび、フードがぶるんとひるがえった。彼が拳を突き出すと上半身はうち震え、衝撃をふくらはぎが吸収した。ふくらはぎは震動を受け止める瞬間鋭くよじれた。彼の体は殴るという運動によって、きりきりと捩じ上げられるようだった。
私が男性との違いを感じるのはこういう時だ。彼らが足を踏み出す瞬間、または道ばたで逆立ちができるか試し出したのを見た瞬間、または大事であるという本を音をさせて置いた瞬間。彼らの筋肉は発達し、運動せずとも存在を匂わせる。これみよがしに盛り上がり、触れれば硬く緊張して骨を護ろうとする。彼らは力に操られているように動く。それはしばしば無駄を産む。手に持っていた物を放り投げ、壊し、時には女性に「痛い」と言われてしまう。彼らでさえ思いもよらぬ力に驚いているようだ。彼もまた力を持て余しているように見えた。
がしん、ともう一発壁に打ち込んだ時、彼は私を見つけた。彼は手のひらを下ろしてこちらを見た。息を切らしていた。草食動物がするような目付きだった。戸惑っているのか、はたまた何か考えているのか。橋の上を車が通った。天井を伝うパイプが音を幾重にも膨らました。私たちが震えているのかと錯覚させるような音だった。彼の拳がぶれていた。熟れた果物のようだった。彼は不自然に大きくぶら下がっている拳を、どのように感じているのだろうと思った。彼と私はお互いに相手に背を向けることができず、しばし見つめ合った。その後も家に帰る気分になれず、二人で突き出た岩に腰掛けたのだった。
彼は見知らぬ人間と対峙する戸惑いを隠そうともしなかった。私にはそれが温かいものに感じた。彼の黒目が落ち着きなく泳いでいるのを、それとなく見ていた。そして彼の体ときたらまるで無防備だった。自意識のかけらもないようだった。寝癖のまま出てきたのか、無造作に毛先が跳ねていた。彼は手持ち無沙汰に首の後ろを撫でた。うなじには伸びかけの太い毛が真夏の芝生のように生えていた。皮の厚そうな手のひらでそこをさする度、じょりじょりと青臭い音がした。足をがばりと開いており、膝が私の足に当たっているのを気にかけてもいなかった。そういえば体が大きいのだ。筋肉の量も人より多いだろうし骨だって太いだろう。パーカの肩幅が張りつめていた。その後も彼はどこにいても窮屈そうに見えた。彼は一回り小さな私の顔をのぞき込み、ようやく口を開いた。
「あの。おれは別に。怪しい人間じゃないんで」
声は長らく仕舞われていた着物のようにかすれていた。その言葉に私はきょとんとし、聞き返すかわりに彼をじっと見つめた。そうしたら彼の目は行き場を失い、地面の何もない所を彷徨い始めた。大ぶりにしか動かせない手足とは違って黒目の動きは繊細だった。彼は絞り出すように言った。
「さつじんもしてないんで」
彼が殺人と言うと平和に聞こえた。彼はまた首の後ろを撫でた。じょり。
「だから、警察には」
「言わないわよ。そういうつもりで見てたんじゃないの」
初めて発した私の声は思ったよりも大きかった。彼は目を丸くして私を見た。まじまじ、という感じだった。そして恥じるようにうつむいた。頬に血の気が宿った。私は何がそんなに恥ずかしいのだろうと思った。何もおかしいことは言っていないのに。
「はあ。そうすか」
彼の一声には何かを飲み込むような響きがあった。そしてやはり唇を噛むのだった。それは物を殴って衝動を逃がすかわりの行為なのかも知れなかった。桃色の厚ぼったいカーブが唾液で濡れて光っていた。その色は私の唇よりも純粋な桃色だった。私の唇は皮膚が薄いせいか赤みが強いのだ。また寒ければぞっとするような青にもなる。彼の膝の上に紫色にうっ血した両手が置かれていた。手は痛みのせいか無骨に震えていた。スニーカーが小石を踏む音が聞こえた。喉の渇きを促すような風が吹き抜け、私の髪の毛がひらひらと散った。彼は私の踊る毛先を珍しいものでも見るように眺めていた。そこら中から砂の匂いがした。私はにわかに水分が欲しくなった。
高架橋の向こうはあっけらかんとした昼の風景だった。明るさの中に白っぽい草が揺れていた。暗がりにあるものよりも楽に生きていそうだった。そういう目で見始めると、他に立っている木まで白々しく感じられた。植物の逞しさは私を安らかな気持ちにさせるし孤独にもさせる。彼らは全く独立したものだからだ。何を叫んだって揺らがない。彼らを脅かすことができるのは無感情で圧倒的な行為だけだ。自然災害、機械による伐採、時間。ここだけが暗かった。薄暗い限られたスペースに初対面同士の張りつめた空気が漂っていた。彼と私だけが現実のような気がした。
「いつもここに来るの?」
私はできるだけ親しげに話しかけた。しばらく彼は牧草のようにぼうっとしていた。脳にエンジンがかかるまで時間がいるようだった。
「そうっすね」
彼は鼻という舳先を操って前方を注視した。その目は水平線を探していたた。睫毛がつややかに光っていた。体が醸し出す雰囲気は乱暴ですらあるのに、細かな部分は女よりなよやかだった。女性はそうではない。彼女たちは花のように儚いふりをしているけれども、心には刃物で刺そうがびくともしない黒い城壁を張り巡らしている。こちらを見て微笑む時分かる。目が冷たいのだ。瞳孔に底抜けの湖がある。ある女は肌が氷のような質感をしている。そういう女性は胸の弾力すらセルロイドっぽいのではないだろうか。私も恐らく、ある瞬間にそういう目つきをする。
ふいに先程から彼が私の口元を見つめているのに気がついた。私は問いかける変わりに、何かついている? と自分の膨らみに触れた。すると彼の親指がためらいもなく伸びてきて、私の唇の終わりを押したのだ。彼の指先の丸みは口の窪みにするりと収まった。強くもなく弱くもない、私にはない力加減だった。同時に指紋の面積の違いを感じた。彼が口の端の何かを拭い取り指を離してもなお、余韻は残った。彼は指をこすり合わせ、皺の地図を読み取ろうとするように手のひらを見た。
ようやく私は聞いた。
「殴られたことはある?」
と。
彼は影の下にいるのに、眩しそうに目を細めた。何かを思い出すための儀式なのかもしれなかった。彼は人と接する時、儀式をたくさん行うのだ。彼の体から小鳥の心音が聞こえてきそうだった。耳を澄ましていると、彼はなめらかに返事をした。
「あるよ」
彼はその言葉を味わうように目を伏せ、訥々と語り出した。
「おれを初めて殴ったのは親父だった。おれは確か五歳かそこらだった。当時はやんちゃだった。色々ないたずらを仕掛けて回るのが楽しくて仕方なかった。だけどある時やりすぎた。いつもは笑って見守っている親父が、怒った」
殴られたことがあるかという質問が、彼の鍵穴に嵌ったようだった。喉の水門が開き、飛沫が鈍い音を立てて流れ落ちていった。
「親父は酒も飲んでいないのにいつも赤い顔をしていた。顔だけじゃなく体も赤かった。けれどその。美しい赤さでなくて、どす黒い、と言ったらいいか……その赤い拳がおれの頬に当たった。殴られた。そう。おれは廊下を吹っ飛んで、何度か跳ねた。何が何だか分からなかったけれど、唇から血が出て初めて、はっとして、怖くなって……泣いた」
彼は罪悪感を感じたのかしきりに頬をかき、でもいい親父だったよ、と口の中で言った。
「怖くなったって言うのは、お父さんが? それとも殴られたことが?」
「分からないけれど、世界が刺だらけになったみたいな怖さだった」
彼は今殴られたように頬を抑えた。
「確か、まだある。どうやらおれは殴りたくなるような人らしい。悲しいことだけど」
その台詞があまりに平坦な響きだったので、私は危うく聞き逃すところだった。「殴りたくなるような人」?
「二度目は中学の頃だった。おれはテニス部で、いつもラケットを振っていた。軽かった。驚くほどに。力の加減が分からなくて、空振りしてはコーチに怒られていた」
彼はもどかしそうにもぐもぐと口を動かした。
「ランニングすれば『遅い』とげんこつ。空振りすれば『下手だ』とげんこつ。指をこう、立てて」
彼は拳を握り、曲げた人差し指を少しだけ突き出した。
「こうして、頭頂部をごりっとやるんだ。地味に響いて、なかなか痛みがひかない。……それにしても下手だってのは、殴る要素にならないと、おれは思う」
妙に生真面目な物言いに吹き出しそうになるが、こらえて聞く。
「最後もやっぱり中学の時だ。その年頃って皆がいらいらしていると思うんだけれど、おれの周りもそうだった。友達とつまらないことで口論になって、そいつが殴り掛かってきたんだよ。泣きそうな顔をしていた。男でもこういう顔をするのかと不思議だった。おれは悲しいと無表情になってしまう」
彼は唇を噛み、また話し出した。
「パンチが体に当たると、ばちばちと、花火みたいな音がした。殴られるたび、こいつが友達だってことを、忘れていくような気がした。おれも頭にきたから殴り返した。当たったのが嬉しいっていうか、ざまあみろっていうか、そういう気持ちと、そんな自分が醜くて忌々しいって気持ちが一緒くたになって、もうたまらなかった。振り切りたくて、さらに殴った。気がついたら友達に馬乗りになって、顔を何度も殴りつけていた。友達は歯が一本折れた……床に転がった歯の神経の色を、未だに覚えている」
「凄く痛かった?」
「痛みの度合いの説明はしない。殴られたことがなければ、あの感じは分からないから……あんたは手を握った時に感じる弾力で、手を握ってるってことが分かる。瞼を閉じる感触も分かる。でももし最初から手や瞼がなかったら、その感触が何だか分からない。それと同じことだ」
静かだが断固とした口調だった。
彼と二人で座っているだけなのに、私の心中はざわついていた。胸に何本も木が生えていて、そこに台風がやって来たような落ち着きのなさだ。脳裏に彼の動きが湿った布のように貼り付いていた。それはゼンマイ仕掛けでくるくると回るのだ。彼が何度も上半身をひるがえし、拳が宙を裂く。壁は震える。ひびわれもしないのに彼はやめない。唇を噛む犬歯。やりすぎなまでに切り込まれた爪。彼は打つ。彼は打つ。彼は打つ。壁は鳴る。壁は鳴る。壁は鳴る。私はじれったくなる。吠えればいいのに、と言ってやりたくなる。自分の体をぼろぼろにして痛みを抱えるはめになるのなら、大きな声で吠えればいいのだ。しかし彼の声帯は縮んでしまっている。体の奥で胎児のように。恐らく彼は肉親が死んでも泣こうとしないだろう。いつもするように奥歯で嗚咽を噛み殺すだろう。それは一種の美学のようでもあった。
彼は一本の若木だ。枝が折れてもぼうっと立っている、太くも細くもない木。無機質な力で徹底的に打ちのめされなければ倒れない。また自分で倒れることもできない。唇を噛もうとも、そうすることで何かを溜め込むはめになろうとも、挙げ句の果てに激情に突き動かされ壁を殴ろうとも、彼の体はせいぜい梢のようにざわめくぐらいなのだ。彼は殴る行為をきっかけに、何かが起こるのを願っているのだと思う。彼は時折意味もなく壁を殴り始める。渾身の力で。手加減することなく。きっとそこには思いの強さも含まれているのだ。
彼はどこかを見ながら自分の手をさすった。さすったら余計に痛みそうだった。痛みを感じているのかいないのか、彼は手の甲をさすりつづけた。その後、私は彼に殴ってくれないかとお願いをしたが、怒りを感じないという理由で断られてしまった。
私たちはしばしば高架橋の下に顔を出し語り合うようになった。だがそんなのはどうでもいいことだ。
彼はよく唇を噛む。私は未だに彼の笑顔を見たことがない。
殴る