海辺の洞窟

 リネンくんは、誰よりもまともです、という顔をして、クズだ。彼の中身はしっちゃかめっちゃかだ。どうしたらそんなにとっ散らかることができるのか、ぼくには分からない。
 彼の朝は床から始まる。ベッドに寝ていた筈なのに、いつのまにか転がり落ちているのだと言う。頭をぼりぼりかきながら起きて、顔も洗わずにそこらに落ちている乾いたパンを食べる(前日に酒を飲んでいたのであれば、トイレに行って吐く)。それから自分をベッドから蹴落とした女を見やる。それは顔も知らない女であったり、友人の彼女であったり、上司の妻であったりする。ともかく面倒くさそうな女だ。
 それから電話が鳴る。いつもこのタイミングだ。皆リネンくんが起きる瞬間を見計らったように電話をよこす。それともリネンくんの体が電話のベルに備えるようになったのか。まあ、どちらでもいい。電話の向こう側は寝ている女の関係者で、烈火の如く怒っている。朝から怒鳴り声を聞くのは気分のいいことではない。口の中から胆汁がしみ出してくるような心地になるので、黙って切る。どっちにしろリネンくんには、彼女と関係者の将来がどうなろうと関係のないことなのである。いやいや、彼の存在自体は彼女の人生に大いに関係しているのだが、リネンくんは責任を放棄しているのである。誰が何と言おうとそうなのだ。彼は彼の行動の責任を取らない。だからどうしようもない。
 そのうち彼女は目が覚め、リネンくんの消えゆく語尾から彼氏や旦那の名前を聞き取るだろう。すると彼女はヒステリックな猫のように喚き出し、リネンくんは自分の部屋なのにも関わらず追い出されるはめになるわけだ。
 リネンくんのコートのポケットにはしわくちゃのお金がいくらか入っている。この先彼の娯楽にしか貢献しないであろう、狭い世界で生きているお金だ。そのためだけに彼に稼がれた。そのようなお金は実際の寸法より縮んでみえる。リネンくんはあくびをしながらその辺の喫茶店に入り、仕事までの時間をつぶす。休日であれば、友人なのか知り合いなのか曖昧な関係の誰かと遊んだりもする。暇な輩がつかまらなければ、汚い野良猫とたわむれたりする。リネンくんは人には煙たがられるが動物には好かれるのである。
 リネンくんは出会う人々とろくでもない話をする。誰かを笑わせない日はないし、誰かを傷つけない日もない。彼はわき上がった不健全な感情を、その場で解消するだけなのだ。


「リネンくん、どこから来たの?」
ぼくが聞いても、彼はにんまり笑って答えなかった。
 彼の部屋は余計なものでいっぱいだった。年期の入った黒電話、聞きもしないレコード、放浪先で見つけてきた不気味な雑貨、または女性。彼の部屋は子どもの暇つぶしにもってこいだ。
「これからどこへ行くの?」
「嫌なことを聞くやつだなあ。お前は。ん?」
リネンくんは心底うんざりした顔でぼくを睨みつけた。けれどぼくはそうされたところで、大したダメージを受けないのだ。リネンくんは子どものぼくらと同じだ。好きなことしかしない。嫌いなことに我慢ならない。それだけ。それは子どものぼくにとって、非常に理にかなったやり方であるのだけれど。
 大人は彼をこう呼ぶ。「甲斐性なし」「我がまま」「出来損ない」「クズ」
「大人に成りそこなっただけなのにこの言い様だ。怖いね、人ってのは。おれの顔が見えなくなった途端、手のひら返して悪口始めやがる。そういう奴らに対して、おれは面と向かって言うだけさ。何が悪い?」
そう言うけれどリネンくんは潔くなかった。どちらかというと陰険だった。だってぼくには友人の彼女と寝て絶交されるのだって、半ば意図的に復讐しているようにしか見えないのだ。
「バカ言え。どうして毎朝面働なことを進んでやらなくちゃならない? おれはな、やつらなんてどうでもいいんだ。自分の好きなことをしていたいだけさ」
リネンくんはよくも悪くも自分の尻拭いができない。つまりクズっていうのは、そういうことだと思う。
 とはいえ、リネンくんはぼくに良くしてくれる。
「林檎食べるか」
彼は台所から、半分青い林檎を放ってくれた。
「ありがと」
ぼくは果実を服の袖で拭いてがじっと齧る。酸っぱくて唾液がにじむ。
「そういや隣の兄ちゃん、引っ越したからな」
なぜ、とは聞かなかった。リネンくんが原因だと察しがついたからだ。
「どうせ彼女を奪ったんでしょ」
「彼女を奪う、か。花を摘むと同じくらいロマンチックな言葉だな。お前いい男になるよ」
「また適当なこと言って」
「悪いな、またお前の花壇から花を摘んじまったよ」
「本当に悪いと思うなら、明日からでも止めにしてよね」
「駄目だよ。夜になると寂しくなるんだ。誰かが隣にいないといてもたってもいられなくなる」
「それでお兄さんはどこに?」
「海沿いの廃屋に越したって。遊びに行こうったって無駄だぜ。あいつ、彼女にふられたショックで頭がおかしくなっちまって、インクの切れたタイプライターをずっと叩いてるんだそうだ。夢の中で小説家になろうってのかね」
彼女にふられたショック? それだけではないだろう。リネンくんの言葉の槍で弱点を突かれたのだ。彼は無慈悲に(無邪気に?)そういうことをやってのける。
 人は隠そうとしてきた記憶やコンプレックスを指摘されると、呆れるほど頼りなくなるものだ。ある人は気分が沈みがちになり、ある人は仕事に行かれなくなる。廃人になってしまう人もいる。リネンくんは、大人になるってことは自分のどこかに秘密を隠し持つようになることなのさ、と言う。ぼくは想像する。ひょろっと長い体を従え道行く大人たちが、胸に抱いた洞窟を。そこに眠るのは柔らかい宝石だ。彼らは「本当に心を許せる仲間」にだけ、石を見せ合うのだそうだ。石はどんな光を放っているのだろう。それを打ち砕くリネンくんの剣の、なまめかしい銀色を思い描いてみる。蛇のように狡猾なリネンくんの言葉。非常識さ。人の大事な隠れ家に土足で上がり込む無神経さ。
 ではリネンくんの洞窟は? ふと彼の胸板に視線を走らせる。何の色も見えない。堅く堅く閉ざされている。ぼくは酸っぱい林檎をもう一口齧る。


 午後の太陽の光がのほほんと差す道を、ぼくたちは歩いた。今日の暇つぶし相手はぼくというわけだ。
「リネンくん」
「何だ」
「ぼく、これ以上先へ行けないよ。学区外だもの」
「そんなの気にするな。保護者がついてるじゃないか」
リネンくんはにやにやと自分を指差した。頼りになりそうもない。
「学校はどうだ」
「楽しいよ」
「子どものくせに嘘つくんじゃない」
「嘘じゃないよ。リネンくんは楽しくなかったの?」
「楽しくなかったね。誰がクラスメイトだったか覚えてすらいない。あー、思い出したくもない」
路地裏は埃っぽく閑散としていた。土煙で茶色くなったがらくたがそこいらに転がり、腐り始める時を待っている。プロペラの欠けた扇風機、何も植えられることのなかった鉢、泥棒に乗り捨てられた自転車……。間からたんぽぽが図太く咲いている。狭い道をすり抜けて、ぼくらは進んだ。
「友達とはよくやれているか」
「今日は大人みたいなことを聞くんだね」
「おれだって時々大人になるさ」
「都合の悪い時は子どもに逆戻りするくせに?」
「黙ってろ。小遣いやらないぞ」
「友達とはまあまあだよ」
「どんなやつだ」
「うーん」
ぼくは考えた。けれど結局、分からない、とだけ言った。だって皆、リネンくんのすり切れた個性には敵わないように思えたからだ。ぼくの脳内で神に扮したリネンくんが、腕組みをして同級生の頭上にふんぞり返った。
「どいつもこいつもじゃがいもみたいな顔してやがる。区別がつかねえのも当然だ」
まさに人間を見下ろす神のようにリネンくんは言った。けれどぼくは彼を尊敬しているわけでは決してない。むしろ彼のようになるくらいならば、じゃがいもでいる方がましだと思う。
「どこに向かっているの?」
ぼくが見上げると、リネンくんの三角の鼻の穴がこう答えた。
「廃墟だよ。夢のタイピストに会いに行く」


 廃屋は思ったよりも広かった。というよりもがらんとしていた。ぼくたちが歩みを進めるたび、虚ろな足音が反響してはどこかに消えていった。波の音が聞こえた。何だか浜から少し離れたところにある、寂しい洞窟のようだった。床は埃で汚れていた。家具はなかった。本当に人が暮らしているのだろうか。あまり知り合いが住んでいるとは思いたくない建物だった。天井が崩れ落ちて光が降り注いでいた。あちらこちらにそういう場所があった。遠くから眺めると、海の中のようだった。
「どこにいるんだ。これだけ広いと探すのも手間だぜ」
リネンくんは木の表面に穴の空いたドアを開けて目を細めた。ぼくは光の当たっている場所をくぐり抜け、ようやく奥の部屋で知っている顔を見つけた。
 彼は一心不乱にキーを叩いていた。真っ白い紙に見えない文字がタイプされてゆく。彼の前のテーブルにはそんな紙が山積みになっていた。しばらくぼくたちは息を呑んでその光景を見つめた。ぼくは彼がお兄さんだなんて信じたくなかった。頬はこけていたし、目には力がなかった。かつてお兄さんは姿勢がよかったけれど、ぎょっとするほど猫背だった。ついこの間までは筋肉質だったけれど、動くのをやめてしまったからか、痩せていた。若さでぴんと張ったお兄さんは、くしゃくしゃになっていた。
「ご熱心なことで」
リネンくんはテーブルに手をついて話しかけた。
「おい、元気か」
しかしお兄さんには聞こえていないようだ。ぴくりとも身動きをしないままタイプを続けている。リネンくんはやれやれと首を横に振った。
「聞こえてるのか」
さっきよりも大きな声だった。声は建物の壁にはね返ってこだまになり、消えた。
 ぼくたちが黙るとタイプの音だけがカチャカチャと鳴った。呼吸のように規則正しく。カチャカチャカチャ、チーン。カチャカチャカチャカチャ、カチャ。
「何を書いてるんだ。小説か」
リネンくんはこりずに話しかけた。
「いいもんだな。ちゃんと物食ってるか。誰が運んでくれてる。え? 答えろよ。答えろっつうんだ。おい!」
カチャカチャカチャ、チーン。
 かつてお兄さんはぼくとよく遊んでくれた。よく笑う人だった。時々ご飯を作ってくれた。決まって薄味の感じのいい料理だった。付き合っている女性が顔を出すこともあった。彼女もお兄さんと同じで、気持ちよく笑う人だった。リネンくんが彼女を知るまでは。
「お前、おれが彼女をとってからおかしくなったんだってな」
リネンくんはねちっこい声でお兄さんに囁いた。
「もろいもんだ、人間なんて。そうだろ? あんなにたくましかったお前がこんなに縮んじまった。どうしたんだ筋トレは、スポーツは。もうやっていないのかよ。お前の友達はどうした。会いにこないのか。そうだよな、病人なんて面倒くさいだけさ。お前みたいなやつは自分の覇気をも下げやがるからな。よかったなあ、重かっただろ。おれはお前の重い荷物を下ろしてやったんだよ。お前は何もかも失ったんだ、お前は大事なものから見放されたんだ。たかが女が逃げたくらいで自分を破滅させて、馬鹿なやつだな。本当にお前は馬鹿なやつだよ」
お兄さんは相変わらず死んだ目で、空中の文字を見つめていた。リネンくんの言葉が届いていないのか、それとも一度宝石を砕かれてしまった人は、何もかもがどうでもよくなるのかもしれない。ぼくは何も聞こえていないであろうお兄さんに毒を吐き続けるリネンくんを見つめた。それは果たして人だろうか。もしかしてリネンくんの石は、もう壊されてしまった後なのかもしれない。
 チーン。
 お兄さんが初めてタイプするのとは違う動作をした。一ページができあがったらしい。彼は機械から紙を抜き取ると、無機質な動きで新しい紙をセットした。後は同じことの繰り返しだった。規則正しくキーを叩くだけ。カチャカチャカチャカチャ。
 リネンくんは黙ってお兄さんを見て、舌打ちをした。


 リネンくんと別れた帰り道、ぼくは一人の女性と出会った。昨日リネンくんに抱かれ、今日捨てられた女性だった。彼女はぼくを見ると何も言わずに微笑んだ。
 ぼくたちは小道に唐突に生えたような階段に腰掛けて話をした。彼女はリネンくんと酒場で知り合ったのだと言った。
「友達だったんですか」
「いえ、昨日会ったばかり。一人で飲んでいたら、彼が入ってきて」
夕日がけだるかった。ぼくたちの距離を風が通り抜けていった。女の人の影は得体の知れない動物のように長くのびて、ぼくはそれを見ていると何だか、人間ではないものと喋っているような気分になった。
「お酒を奢ってれたわ。美味しかった」
「そうですか」
「それから昔の恋人の話をしてくれた」
ぼくはえっと女の人の顔を見た。恋人なんていたんだ。
「猫に似た人だったって」
彼女はかすれた声で言って黙った。ぼくも黙った。足元に生えた雑草がこすれてちりちりと鳴いていた。
 ぼくは思い浮かべた。かつてリネンくんの傍らにいた恋人。まなじりは涼しくつり上がって猫に似ている。どうにか道を連れ添って歩く二人を思い描くことはできたけれど、彼女に向かってリネンくんがどんな顔をしていたのかは分からなかった。いつでも皮肉に笑ってるリネンくん。不機嫌そうに黙っているリネンくん。何かを考え込んでいるリネンくん。リネンくんにとって今の生活は、余生でしかないのだろうか。洞窟は宝石の輝きを失ったらどうなるのだろう。心を失っても生き続けることができるのは、果たして幸福だろうか。何があろうともぼくたちは、肉体が朽ちるまで生きていくしかない。人間の体は案外丈夫なのだ。精神よりかは。
 彼女はいつの間にかいなくなっていた。沈んでゆく夕日を眺めながらぼくは、孤独なタイピストに食事を運んでいる誰かに思いをはせた。その人は薄暗い廃墟のテーブルに湯気の立ち上る料理をのせると、やせ細った彼の手に目を落とし、黙って立っていた。彼が思い切るようにタイプを止め、のろのろと皿に手を伸ばしスプーンを口に運ぶのを、伏し目がちに、いつまでも見守っていた。

海辺の洞窟

海辺の洞窟

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-02

Public Domain
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