メビウス

 ここは古い劇場です。
 ぼくは観客席に座って、舞台の中央を見ています。そこには華奢な体のバレリーナが、はらりとポーズを決めて静止しています。シフォンのスカートは半透明に透け、痛々しいくらい細い足がぼんやりとうかがえます。
 照明は落ちています。だからか彼女の肌の白さは際立って見えます。彼女の輪郭が、闇に置いてけぼりにされた蛍のように、なまめかしく光っています。ぼくはびくともしない彼女に視線を這わせ、柔らかくすべらかであろう肌に触れたくなります。何かを暗示しすぼめられた手のひらが、どれだけ温かいのか知りたいと思います。手のひらはぼくを不安にさせるほど弱弱しく、冷たい輝きを放っているのです。
 先ほど言ったように、ここは古い劇場です。ぼくは観客で、彼女はバレリーナです。しばらくすると音楽が鳴り出し、彼女は踊りだすでしょう。折れそうな手足で何かを一心不乱で創りあげるように、踊りだすでしょう。音楽は退廃的に響くことでしょう。胸を締め上げるくらい切なく、恥ずかしく。ぼくは唾を飲み込みました。堪えられるでしょうか。永遠に続く彼女の踊り、けたたましいピアノの旋律。想像するだけでこめかみが痛みます。彼女が音とともに舞いだしたら、何かが弾けてしまいそうなのです。「何か」が具体的に何なのかはちっとも分からないのですが、それはひどく大切なものなのでしょう。壊れたら取り返しがつかなくなるものなのでしょう。ああしかし、ぼくは踊り始めた彼女を止めることはできないのです。ぼくは観客で、彼女はバレリーナなのですから。彼女は踊らなくてはならないのです。そしてぼくは彼女が踊り終えるまで待ち続けなければならない。
 息をひそめて。
 何の音もたてぬようにして。
 だってそれがぼくと彼女にかせられた、使命なのですから。
 彼女はまだ動こうとしません。ぼくの手のひらは次第に汗ばみます。今なら彼女に触れることができるかもしれません。声をあげても咎められないかもしれません。そんな衝動がこみ上げてきます。彼女を連れ出したい。踊りを制し、手をとり、狭く暗い舞台をつばめのように駆け下りて、明るい外の世界に飛び出したい。そうすれば彼女は無理して踊らなくてもよいのです。悲痛な音楽など聴かなくてもよいのです。明るく澄み切った自然の音に耳をすまし、頬を赤らめ、今までよりずっと軽やかな歩調で歩くことができるはずなのです。そんなものはぼくの妄想にすぎないのでしょうか。
 結局ぼくは一寸だって動けずに、観客席で目を凝らし、彼女を見守り続けます。ほの青い黒にかためられてしまって動けない、彼女のことを。

 それは唐突ではありません。
 彼女の指は待ち構えていたように円を描きます。トゥーシューズの爪先が地をかきます。時間に取り残されていた肢体は、風に吹かれた一輪の花ようにしなやかにしなります。ぼくは危うく声をもらしそうになります。思い浮かべた通りの悲しく鋭いピアノが耳を刺したからです。
 彼女は踊りだしてしまったのです。
 あれだけ彼女が踊りださないことを願っていたのに、ぼくはもう夢中なのです。彼女から目を逸らすことができません。周囲に立ち込める濃紺も気になりません。そんなものはあっけなく霧散してしまうのです。彼女は今にも倒れそうな体を必死で奮い立たせて踊ります。顔は凛として何の感情も浮かびません。それはぼくを孤独にさせます。胸の痛みは消えるどころかひどくなっていくのです。彼女が一心不乱に足を動かすたびぼくの心は揺れます。頭を掻き毟りたいと思います。なのにできないのです。ぼくはどうやら不動に取り憑かれてしまったようです。燐光する決め細やかな肌が空気に線を描きます。衣装の白が残像を残します。彼女は旋律を敏感に感じ取り、跳び、静止し、走ります。ぼくは息をすることすらままなりません。ピアノは転がり、ぼくと彼女を急かします。宙を走り回り彼女を虜にします。転調し、光のように響き、深い悲しみを奏でます。ぼくには奏者の横顔が見える気がします。眉間に皺をよせて狂ったように鍵盤を叩いているのです。まるで今まで自分がしてきたこと全てに対する贖罪だとでも言うように。奏者は悲嘆に縛られ、彼女は踊りに縛られ、ぼくは彼女に縛られています。誰も動くことなどできないのです。張りつめた空気を引き裂く剣をぼくらは持ち合わせていないのです。奏者の指は涙に濡れ、彼女の爪先は血に濡れ、ぼくは彼らに救いの手を差し伸べたいとこんなに願っているのに、ちっとも動くことはできないのです。叫びたい。立ち上がり、何かにむかって怒り、そのまま崩折れて泣きたい。それができれば何の苦痛もないのです。どうして彼女は暗い舞台で、独りで踊らなればいけないのでしょう。どうして彼女を悲しませたくない誰かが手を差し伸べることが許されないのでしょう。どうしてぼくは立ち上がることができないのでしょう。どうして、音楽は鳴りやまないのでしょう。なぜぼくらは劇場に詰め込まれ、こうも苦しまなければならないのでしょう。たかが観客席と舞台の距離なのです。少し歩けば彼女に触れることができるはずなのです。後ろから抱きしめてやれば、彼女は自分をぼろ切れのように扱わなくていいのだと気が付けるはずなのです。
 しかしそれらは許されない行為なのです。ぼくは観客で、彼女はバレリーナなのですから。彼女は踊らなくてはならないのです。そしてぼくは彼女が踊り終えるまで待ち続けなければならない。
 息をひそめて。
 何の音もたてぬようにして。
 だって、それがぼくと彼女にかせられた、使命なのですから。

 ぼくは思います。
 それが一体、なんだというのでしょう。

 舞台の上の彼女の顔が歪みます。くしゃくしゃに歪みぼくを見るのです。確かにぼくらの視線は一瞬かち合います。彼女の痛みは一本の棒切れとなって心臓を突き、血管を矢のように駆け上がってくるのです。細胞が暴れ出し、体中痛みでいっぱいになります。ああ彼女はこんな気持ちで踊っているのです。ぼくは震えます。ピアノの旋律も彼女の踊りももう見たくありません。ぼくたちの使命が何であろうがどうでもいいことです。ぼくは願います。劇場にほんの一筋でいい、彼女を賛美する光が差すようにと。両手は呪縛から解放され神聖に組まれます。瞼を閉じた時、旋律が止んだのです。

 それは唐突です。
 彼女は螺子が切れたおもちゃのように、ぱたりと止まります。踊りはじめる前と全く同じポーズで。ピアノは乱れた一音を残し散ってゆきます。ぼくは何だか誤魔化された感じがして、途方にくれます。何もかも元のままです。背後で音が聞こえます。劇場の扉が開いたのです。しかしぼくは立ち上がりません。彼女のことをまだ諦めていないのです。触れようと腰を浮かすと、何者かが裾を引くのです。足がよろめきぼくは再び椅子に座り込みます。何度か繰り返しましたが、駄目なのです。誰かが邪魔をするのです。ぼくは諦め背もたれに体を沈めます。最後の抵抗だと、小さく声を出してみます。
「ねえ」
声はがらんどうの劇場で木霊になります。どうやら声を出すことは許されているようです。心臓の鼓動が自分でも聴き取れるほど大きくなります。
 ぼくは問いました。
「君の名前を、教えて」
彼女はあのポーズでうつむいていましたが、やがて月が昇るように首を反らせ、猫のように笑うのです。
 彼女は答えます。
「メビウス。」
背後で軋む音がします。劇場の扉が閉じたのです。

 ここは古い劇場です。
 ぼくは観客席に座って、舞台の中央を見ています。そこには華奢な体のバレリーナが、はらりとポーズを決めたまま静止しています。シフォンのスカートは半透明に透け、痛々しいくらい細い足がぼんやりとうかがえます。
 照明は、落ちています。

メビウス

メビウス

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-04-02

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