月
月が訪ねてきた。
「初めまして。月というものです」
月はふくよかな光を浮かべ頭を下げた。優雅なお辞儀だった。
「ええ。前から知っていました。ほら、写真だって持っています。コレクションしているくらいです」
「いや、恥ずかしい。この写真、私半目だわ。きゃあ」
写真を見た月は慌てて両手で顔を覆った。ぼくは確認したがどこにも顔のようなものはなかった。
「あの。月にも顔はあるんですか」
「ありますとも。でなければ私、今どうやって話しているんだと思いますの」
それはそうだ。ぼくは謝った。
二人でこたつにもぐり和気あいあいと話をした。気心も知れてきたところで、月はぼくの顔を眺め回して言った。
「あなた少し運動不足ね」
「そうでしょうか」
「毎晩ビールを飲んでいるくせに、ちっとも歩いてやしないんでしょう」
ぼくはうつむいて顔を赤らめた。その通りだったからだ。図星だと知るやいなや、月は運動がもたらす身体的な効果なるものを厳しい声色で演説し始めた。だがぼくの耳はその話をあっという間に右から左へ処理してしまった。
二十分経った。いい加減うんざりしたので、話を切り上げるついでにお茶を淹れようと廊下に出た。すると廊下は長く伸びていた。《長く》どころではなかった。長く長く長く長く長く長く長く……。驚いて戻ろうとしたら後ろでふすまがピシャンと閉まった。引っ張ってみたがびくともしなかった。仕方がないので果てのない廊下を歩き出した。しばらく歩くとふすまも見えなくなった。ぼくは溜め息を吐いた。月の仕業に違いなかった。
歩き続けて何日か経った。体は疲労困憊して、片足を引きずらなければ歩けなかった。胃は食べ物を求めぐうぐうと鳴っていた。ぼくの怒りは最高潮に達した。月のやつめ、ぼくのためとはいえ度が過ぎる!
ようやく出口が見えてきた。ぼくは力を振り絞り、走って扉に突っ込んだ。そしてのうのうとこたつにあたっていた月に包丁を振りかざし、叫んだ。
「お前なんか空にぶら下がっていればいいんだ! 二度とぼくの前に顔を出すな!」
切っ先を振り下ろすと月の端っこが欠けた。彼女は鋭い悲鳴を上げた。ぼくは怒りのままに月を刻み続けた。
我に返った頃、月はキャベツのようにみじん切りになっていた。醤油をつけて食べた。とろけるような味がした。
月