ほうき星、見つけた

ほうき星、見つけた

ゲイ小説「先生と一緒シリーズ」第二弾作品

【一】夢、敗れて

 晴れ渡った秋空のある日、学生柔道大会は白熱する決勝戦を迎えていた。四方に囲まれた観客から多くの声援が届いてくる。
 俺はこれで最後となる優勝のチャンスに全てを駆けていた。
 これさえ、勝てれば……。
 自然と体が震えてきた。ガキの頃からずっと戦ってきたんだ。この大会で優勝し、俺の夢は大きく飛躍する。学生日本一のタイトルを引っさげて、堂々と社会人で活躍するんだ。そしてオリンピックに出場。世界中の強者達が集う大会の空気はどんなものだろう。でっかく膨らんだ夢を叶えるために、今日まで誰よりも努力を重ねてきたんだ。
 それなのに、俺は毎年この決勝戦で惜敗を重ねている。大学四年になった今年は、学生大会に出場できる最後のチャンスなんだ。
 試合開始から既に数分経っていた。たった少しの時間なのに、永遠に続く時の流れのように感じる。張り詰めた緊張感が畳を這うように漂う。肩には重い空気が圧し掛かり、俺をひたすら焦らせた。
 集中するんだ。目の前の相手だけを見ろ。隙を狙って間合いを詰めろ。
 目の前の対戦相手も、俺を睨み付け、摺り足でタイミングを狙っている。
 くっそう……。
 肩の空気がさらに重みを増してくる。その時、俺は一瞬だが自分の体が何かに支配されたような気がした。それは一秒にもならない瞬間の気の緩みだった。
 相手は俺の隙を逃さなかった。素早い身のこなしで瞬時に間合いを詰めてくる。気付いたら、俺は襟と袖を捕まれていた。
 やばい!
 低くかがんだ相手の背中に背負われると、足の裏から畳が離れ、体が浮き上がった。同時に、圧し掛かっていた空気が吹き飛ばされる。
 鈍い音が畳に響き、体に衝撃が走った。気が付いた時には背負い投げを決められていた。
「一本!」
 審判員の声が響くのと同時に、歓喜の声が渦となって会場を駆け巡る。同時に、俺に向けられていた声援は落胆の色に変わる。
 俺は呆然としていた。頭の中が真っ白になり、状況を理解できなかった。
 あ、体を起こさないと。このまま寝転がってちゃ駄目なんだ。
 それだけは脳から信号が降りてくる。操られるように、情けなく投げられた体を持ち上げると、勝者となった目の前の勇姿に一礼をした。
 畳を降りるのと同時に、自然と涙が頬を伝った。仲間達に迎えられる頃には、溢れる涙を抑えることができず、小さなガキのように泣きじゃくった。
 同期の連中が声をかけてくれるが、俺の耳には何も届かない。ただ涙を流し、自分の嗚咽する声だけが聞こえてくる。俺はコーチに肩を抱えられるようにして、ロッカールームへ引き下がった。

 白塗りの壁に金属の無機質なロッカールームが並んでいる。窓もなく汗臭い小さな空間で、俺は一人だけにされた。少し落ち着くと、現実をようやく理解できるようになってくる。ベンチに重い腰を下ろすと両手で顔を覆った。
 また優勝を逃しちまった。どうして肝心なところでいつも上手くいかねえんだ! この日のためにずっと練習をしてきたのによ。
 自分に嫌気が差していた。今まで輝くように思い描いていた世界が音もなく消え去っていく。重い身体が深い闇の中に沈み、その闇から這い上がることができない。
 少し経って、ドアの向こうから足跡が聞こえてくる。俺は涙を袖で拭った。
「一星、惜しかったな。また社会人でも頑張っていこうや」
 ロッカールームに入ってきた仲間達は下手な作り笑いで声をかける。俺はそんな連中に同調する気力なんかなかった。
「俺、もう柔道は終わりにするよ……」
 投げやりにつぶやく言葉に、周囲は何も言い返そうとしない。かつての戦友でありライバル達は黙って床の隅に目をやったり、俺の顔を哀れそうに見つめるだけだ。
 どうでもいい。俺は無言でさっさと着替えを済ませると、ロッカールームを立ち去った。汗が重なった道着を詰めたスポーツバックを片手に担いで、廊下を急ぐように進んだ。一足一足と進むに連れて、胸の内からやり場のない怒りがこみ上げてくる。
 もうたくさんだ!

 夕焼けの空の下、木枯らしが身に染みる。武道館の強靭な建物から勝者を讃える歓声が、みすぼらしい敗者のもとまで聞こえてくる。歓喜の声は外の雑音と混じり淋しく響いていた。
 俺は、最後まで自分に向けられることがなかった賞賛の声に、何度も振り返りたかった。でも、振り返れば後悔することも分かっていた。無縁となった場所に背を向けて歩き続ける。
 ただ寒さだけが身に染みていた。

【二】手紙

 大会の後、俺は気の抜けた毎日を過ごしていた。柔道部も引退して、狭い一人暮らしのアパートに閉じこもっている。本当は卒業に向けてゼミだの卒論に本腰を入れなくてはならないのだが、何もする気になれなかった。夢を果たせずに敗れ去ったショックだけが心を埋め尽くしている。
 今まで何やっていたんだろうな。
 小さなつぶやきが、狭い部屋に無意味に響く。古い壁に掛けられた時計は少し傾いていた。

 ある日、チラシで溢れたポストの中に一通の封筒を見つけた。何かの正座の切手が貼られていて、クセのある豪快な字で俺の名前と住所が書かれていた。裏を返すと高見(たかみ)謙司(けんじ)と書かれていた。
「あ……」
 俺はポストの前で立ち尽くした。
 部屋に戻ると、散らかった部屋の中からハサミを探した。机の上や引き出しを探しても見つからない。ようやくベットの下で見つけると、中身を切らないように丁寧に封筒を開いた。
 中には折りたたまれた便箋が一枚入っていた。高見謙司というのは、高三の時の担任だった先生だ。地味な白地の紙に、懐かしい筆跡が埋め尽くされている。
 手紙は卒業後してから一度も顔を見せない俺を気遣う言葉から始まっていた。一枚の便箋を真っ黒に埋め尽くすように近況が書かれている。先生は今も変らず、俺のようなやんちゃな生徒に手を焼いていること。趣味の天体観測を続けていること。手にした手紙から、先生との楽しい思い出が溢れてくるようだ。
 手紙の終わりには、今度の休暇で長野の高原へ天体観測に行くアシスタントを探していると書かれていた。手伝ってくれるなら連絡をくれと、電話番号で終わっている。
 俺は軽く笑みをこぼした。考える必要はなかった。即効で携帯を手にすると、少しずつ心が高鳴る。
「…高見先生ですか。俺、一(ひとつ)星(ぼし)です。お久しぶりです」
「おぅ、久しぶりだな。お前、元気にしていたか?」
 先生の声だ。携帯から聞こえてくる懐かしい声に、手が少し震えてくる。心にピンと張られた細い糸がほどけて、体の芯から込上げてくる何かを必死に抑えようとした。

【三】思い出

 数日後、俺は灰色の厚い雲が広がる東京を離れて長野へ向かった。列車の中には乗客が数える程度しかいない。空いているボックスシートを見つけると、大きなカバンを向かいの席に投げ出して窓際に腰を下ろした。
 カバンには数日分のキャンプ用具を詰めておいた。いろいろ重いものを詰めたつもりだったが、手にしてみると荷物は何だか軽く感じた。
 列車は都会を抜けてのどかな風景を進んでいく。ガタンガタンとレールに合わせて揺れる列車の振動に身を任せ、流れていく窓の景色をぼんやりと見つめながら先生のことを考えていた。

 高見先生は理科の担当だ。星を観察するのが趣味で自前の大きな望遠鏡を校舎の屋上に立てたり、日本中へ観測に出かけたりしていた。授業やホームルームでも、誰も見つけたことのない彗星を一番に見つけたいと、毎日のように自分の夢を語っていたっけな。
 そんな先生と俺の共通点は、意外にも柔道だった。先生も学生の頃に柔道をやっていて怪我で引退するまでは、かなり強い選手だったらしい。だから俺の気持ちをよく分かってくれていて、俺は先生とクラスで一番ウマがあっていたんだ。

 久しぶりに先生に会える。
 嬉しい反面、少し切ない気もした。俺は夢を持った豪快で男らしい先生が大好きだった。そんなことを言える勇気はなかったが、その気持ちは今でも胸を焦がしている。
 ズボンのポケットから、携帯を取り出した。中には先生とツーショットで卒業の日に撮った写真が一枚だけこっそり保存されている。礼服を着た先生が俺の肩にぶっとい腕を回して、でかい口を広げてVサインで笑っている。
 数年ぶりに再開する先生はどんな風に変わっているのか楽しみだ。早く先生に会いたい。列車のスピードに加速するように、俺の気持ちはどんどん高まっていく。

【四】再会

 電車をいくつか乗り継いで、やっと待ち合わせの小さな駅にたどり着いた。駅に降りたのは俺一人だけだ。無人の改札を通り抜けると待合室があって、壁には古くなった夏祭りのポスターが貼られている。
 薄暗い駅舎を抜けると明るい日差しが目に飛び込んできた。見上げると大きな青空が広がっている。
「すげえな……」
 思わず独り言をこぼした。本当に何もない田舎だ。かつての駅前広場と思われる場所に立って周りを見渡してみた。形ばかりのロータリーと、潰れて何年も放置された商店らしき小屋、収穫が終わった広大な田んぼだけがある。
 俺は足元にカバンを降ろして腕時計を見た。
「そろそろ時間だな……」
 顔を上げると、どこからかエンジンの音が聞こえてくる。冬の到来を静かに待つ荒涼とした風景の中から車の陰のようなものが見えてきた。次第に近づく車は赤いフォルクスのビートルだと分かった。見覚えのあるオンボロ車の窓から手を振る男はやっぱり先生だ。俺は大きく手を振って答えた。
 車はスピードを上げて駅前までやってくると目の前で停まった。先生は待ちきれないように急いで車を降りると、俺の元まで走ってきた。
 短く刈り上げた髪に、うっすらと無精髭を生やした武骨な顔は変わりない。手入れをしない毫毛な眉の下には、つぶらな瞳に真面目そうな四角いメガネをしていた。
「よう、久しぶりだな。お前、ずいぶんと太ったんだな」
 先生は少し興奮気味に俺の肩を両手で叩いて喜んでいる。先生の意地悪っぽい挨拶に、俺も負けずに言い返してやった。
「ヘへっ、そうっすか。先生も中年太りが似合うようになったじゃないすか」
 先生の自慢の太鼓腹は一段と目立っていた。それでも重量級のがっしりとした大柄な体格だ。あの頃よりもさらに先生の男前が上がっていて、俺は内心喜んだ。
「お前、ずいぶん生意気になったなぁ」
 先生は豪快に笑うと、車の中へ迎え入れてくれた。

 小さな車は男二人を乗せて、重さに耐えるようにゆっくりと走り出だした。目的の高原まではだいたい二時間位かかるらしい。広々とした平地の真ん中を貫く田舎道を走りながら、俺達は昔話に花を咲かせた。
「それで俺、仕方ないから『先生の生まれた日』って書いたんすよ」
「お前、そんなんだから呼び出されて怒られるんだぞ」
 高校の時のテストの話だ。俺は勉強がまるっきりダメで、テストで分からない問題には苦し紛れに適当なことを書いていた。その度に、思いっきり叱られていたのだ。
 あの頃は本当に楽しかったな。
 俺は先生にもう一度会えたことが、純粋に嬉しくて仕方ない。
「先生、まだコメットハンター続けていたんすね。好きな人と満点の星空を眺めたい夢は叶いましたか」
 先生の彗星探しは学校中で有名だった。授業で自分の夢を語る先生は、冗談っぽく恋人が出来た時の願望も話していたのだ。昔から結構クサい夢だと思っていたけど、それも先生らしくていいよな。
「うん、まぁ……。俺なんかダメだよ、ダメ。ハハハ……」
 先生は濁すような返事をした。その後、急に押し黙ったように運転に集中していた。
俺は横目で見ると、先生の顔はほろ酔いのような桜色をしている。どこか心の隅に引っかかるものがあった。でも、それ以上のことは気にしないで、別の話題で盛り上がった。俺は柔道のことを避けるように会話を選んだ。
 田んぼだけが広がる景色は流れ去っていく。次第に山のくすんだ緑が車窓を駆け抜けるようになった。だんだん山道が険しくなると、ボロ車はエンジンをフル稼働させる。もうすぐ目的の高原に到着するようだ。

【五】悪夢

 太陽が正午を指す頃、背の高い木々が次第に少なくなると、見晴らしの良さそうな枯れ草の大地が見えてきた。タイヤの回転が次第に遅くなり、俺達を乗せた車は草原の一角にゆっくりと停まった。
 高原には冬色の大地と、何者にも邪魔されない青い空、春の息吹を静かに待ち続ける山脈だけが広がっている。俺は思いっきり深呼吸すると、心を覆い尽くす雲が少しだけ溶けていく気がした。遅れて先生も車を降りると、隣で同じように草原を眺めた。
「ここなら、じっくり星を見れるな」
 先生の言葉に、俺は黙ってうなずいた。俺達はしばらくの間、果てしなく広がる風景を黙って見つめていた。
「観測は夜が基本だからな。昼間は寝る時間になるぞ」
 先生はトランクからテントや寝袋を取り出して手伝うように促した。小さな車に積めるとは思えないくらい大量の荷物だ。俺はトランクから一番大きな荷物を取り出した。
「お、それは気を付けて扱えよ。結構高いからな」
 先生が背後から声をかけてくる。相当の重さだから、これは恐らく望遠鏡だろう。
「これ、いくら位するんすか?」
「んー、鏡筒だけで百万くらいかな」
 さらっと答える先生の言葉に、顔が引きつった。
 一通り荷物を出すと、今度はテントを立てる。俺は指示に従って、テントが飛ばされないように杭を地面に打った。テントが出来上がると、先生は次々と指示を出してきた。俺達は休む間もなく、せかせかと動き回って天体観測の準備を進めていった。

 仕度を済ませると、太陽はまだ空の高い位置にあった。俺達は早々と今夜に備えてテントへ潜り込むことにした。先生が用意したテントは男二人にはちょっときつい。お互いに譲り合っても身体が触れ合ってしまう。
 テントの外ではかすかに風が吹いている。俺は目を閉じてもなかなか眠ることができなかった。妙に緊張してしまい、隣でいびきをかいて眠ってしまった先生を意識していた。
 先生の寝顔をこっそり見てみた。できれば抱きしめて先生の体温をこの身体中に感じたかった。自分の心が小さくなっていく。軽いため息と共に薄暗い天井を見つめた。
 無理だよな。
 俺は妙な期待を捨て、もう一度目をつぶった。しばらくすると移動の疲れが、深い眠りへ誘ってくる。いつの間にか暗闇の中に沈んでいった。

 どれくらい時間が経っただろう。
 目にはっきりとしない景色が映っている。白いもやが漂う視界の中に、緑色と白色が見える。
 何だろう……。ああ、これは畳の色か。いつもの白い胴衣に包まれている。そうか、試合をしているんだ。
 俺は組み合う相手の胸倉をつかんで技をかけようとする。だが、相手はビクとも動かない。技がまったく決まらない。額に嫌な汗を浮かべ、ひたすら焦っている。
 俺の集中しようとする気持ちの中に一瞬の油断ができた。相手はそれを見逃さず、あっという間に俺の体が宙に浮く。叩きつけられた衝撃が体に走り、目には明るい照明と、覗き込む相手の不敵な笑みが見えた気がした……。
 再び闇が広がった。

【六】彗星と流れ星

「……おい、起きろって。おい、朝まで寝るつもりか!」
 俺は遠くから聞こえてくる太い声に導かれて目を覚ました。真夏のようにかいた寝汗が不快に感じる。隣には心配そうに顔を覗き込む先生がいた。
 夢か……。
 すっかり寝坊したバツの悪さに頭をかいた。
「まったく。早く来いよ」
 先生はさっさとテントを出ていった。俺は寝起きの悪さも手伝ったひどい顔のままでのそのそと外へ出た。

 すっかり日は落ちて、静かな闇が広がっていた。冷たい空気が顔を刺激する。先生は既に望遠鏡で観測を始めていた。俺はあくびと同時に背伸びをすると、見上げた空に息を飲んだ。
 漆黒のスクリーンに針で穴を開けたような星空が輝いている。東京では見ることができない星空だ。星空に輝く月は満月に近かい。その光は俺が知っているどんな月の光よりも明るくて、草原一帯をコバルトブルー色に染めている。
 先生は熱いコーヒーを入れてくれた。俺は体の芯まで温めてくれるカップを受け取ると、望遠鏡を覗いてみた。レンズの中には赤紫色の雲のような光が映し出されている。
「これなんすか」
「それはオリオン大星雲って言うんだ。きれいだろ」
 俺はもう一度レンズを覗き込んだ。空を邪魔する高いビルやネオンの光で邪魔されない星の輝きに圧倒された。
 白い息を吐き出すと同時に、肉眼で遠い空を眺めた。すると、輝く星空を一筋の光が駆け抜けていった。
「先生、あれ彗星じゃねーの?」
 俺は跡形もなく光の矢が駆け抜けた辺りの空を指差した。
「いや、あれは流れ星だな」
 先生は白い湯気が立つコーヒーカップを口にしながらあっさり答えた。
「流れ星と彗星って同じじゃないんすか?」
 星には全くのシロウトな俺の素朴な疑問だ。
「流れ星は宇宙の塵が地球に引き寄せられて光る現象。彗星は小天体で太陽の光でガスや微粒子が反射して尾を作るんだ。尾を引いて光る姿から彗星はほうき星とも言うんだぞ」
 先生は右手にコーヒーを持ったまま、左手の人差し指を掲げて得意げに講義を始めた。熱心な講義に申し訳ないが、専門用語が多すぎて半分も理解できない。それでも俺は先生の嬉しそうに話す姿が愛おしかった。

「せっかく来たんだから、お前にもいろいろ見せてやるからな」
 先生は望遠鏡を操り様々な星座を見せてくれた。夢中になって望遠鏡を覗く俺の姿を見て、先生は満足そうに微笑んでいる。
 なんだか昔に戻ったみたいだ。
 俺は夢を追いかける一途な気持ちを持った先生に憧れていた。ほうき星を追いかける夢にひたむきな姿を見て、自分も柔道で夢を果たしたいと頑張るようになった。先生はいつも励ましてくれて、俺もその期待に答えようとしていた。
 ある日、先生は柔道も彗星探しも粘り強い努力が実を結ぶものだと教えてくれた。俺はそんな柔道とコメットハンターを重ね合わせた考え方も好きだった。先生に対する想いがほうき星になって、今日も誰にも気付かれないように俺の心の中をさまよい続けている。

【七】夢のかけら

「ところで、さっき相当うなされていたな」
 先生のストレートな言葉に、ぎくりとした。先生は心配そうな目で俺を見つめている。俺は適当に誤魔化そうかと思った。だが、隠すことが悪いような気がして、これまでのことを打ち明けた。
「それで、もう柔道を辞めることにしたんです」
 これまでの顛末を話すと、黙って聞いていた先生は胸ポケットからタバコを取り出して、一服白い煙を吐き出した。
「そうか、残念だな。夢半ばにしての挫折ってやつか」
 先生は星空を眺めながらつぶやいた。
「夢を追いかけることは並半端なことじゃねぇんだ。俺だって何度、諦めようとしたことか……」
 先生は遠い目をして星空を見つめた。俺も目線を追うように同じ空を見上げた。

 先生の夢もコメットハンターなんて言うけどさ、望遠鏡を覗きこんで見つかるかどうかも分からない彗星探しは辛いことも多いはずだ。
「先生は頑張るんすね」
 俺が言葉をこぼすと、先生は口元を少し緩ませた。
「夢は諦めたら終わり。それに、結果より大切なものがあると思うがな」
 短くなったタバコの火を消して、俺の肩を叩いてくれた。俺は少しだけ応えるようにうなずき返した。
「でも、俺は夢が絶対に叶うと思ってやっているぞ。まだまだ努力が足りねえけどな!」
 先生は茶化すように笑った。やっぱり昔と変わっていないんだな。先生の前向きな性格がうらやましかった。
 見上げていた星空に点々と残る曇のかけらが風に流されて消えていった。

「それにもう一つの夢もあるしな……」
 先生は小さくつぶやくと、目を開いて、すぐに口を両手で押さえ込んだ。俺は口元を緩めた。あれは明らかに余計なことを言った、と後悔する先生の癖だ。反応がすぐに出る姿が面白くなってしまった。
「先生、それって例のあれっすか。好きな人と満点の……」
 途中まで口にしたところで、先生は顔を真っ赤にして大声でわめいて言葉をさえぎった。俺はついに我慢できずに腹を抱えて大笑いしてしまった。
 静かな草原に俺の笑い声が響いた。ツボにはまった笑いはアクセル全開で野山を駆け巡る。先生は赤い顔をして頭をかいていたが、そのうちムッとして望遠鏡に戻っていった。
 からかい過ぎたかな。
 俺は大人になっても少し初心な先生の性格も好きだ。でも、あまりいじめるのも可愛そうだから、まじめに手伝いを始めることにした。

 手を伸ばせば輝く星がこの手に届きそうな夜空が広がっている。こんなに星があるのだから、新彗星は見つかるかもしれない。いつか先生の夢だけでも叶うなら、俺はそれだけで幸せだろう。
「コーヒー!」
 少し離れた場所でレンズを覗く先生の声が響いた。まだ機嫌が悪いようだ。俺は鼻歌を歌いながら、お湯を沸かし始めた。

【八】もうひとつの夢

 昼は眠り、夜は観測を続ける日が続いた。途中、ふもとの町へ降りて食料を買い足したりしたが、ほとんどの時間は高原で過ごしていた。
 相変わらず新彗星は見つかるはずもなく時間だけが過ぎてゆく。先生はあれから柔道の話しを持ち出すことはなかった。先生の気持ちは分かっている。でも俺はこぼれ落ちた夢を、もう一度拾う気になれないでいた。

「こりゃあ今回もダメかもな」
 先生が小さく呟いたのは、観測をすることができる最後の日だった。明日には帰らなくてはならないのだ。先生は沈もうとする遠くの夕日を眺めていた。
「先生らしくねぇよ」
 俺は夕食の準備のために火の調節をしながら、わざと大きな声で独り言のように口を開いた。
「昔、いつも言ってたじゃないすか。新彗星の発見は大海に泳ぐ一匹の小魚を捕まえるようなものだ、って」
 先生はしばらくの間、背中を向けていたが、振り返ると何時もの笑顔になっていた。
 今夜はいつにも増して晴れ渡った空が広がっている。雲のかけらさえも見当たらない星と月だけの夜。高原に照らされる光はこれまで以上に柔らかく輝いていた。
 俺はバーナーで熱いコーヒーを沸かすと、望遠鏡に付きっ切りの先生へ渡した。こうやってコーヒーを沸かすのは何度目だろう。熱いカップは寒さに震える体も心も温めてくれる。自分にも用意したカップを口に運びながら、澄み渡った夜空を眺めていた。
 先生のことを励ましてはみたものの、彗星は見つかることはなく、帰ることになりそうだ。やはり夢を追い続けることは苦しいだけなのか。先生も顔では笑ってるが、辛いこともたくさんあるのだろう。
 俺は目とレンズが一体化するのではないかと思うほど、星を追いかける先生の姿を見つめた。

「コーヒーありがとな」
 やっと望遠鏡から離れた先生がさっきの礼を言う頃には、俺はまた次のコーヒーを煎れていた。焚き火に新しい薪をくべると、並んで丸太に座り同じ星空を見上げた。
 燃える薪木からパチパチと乾いた音が響く。俺は熱いカップを傾けるふりをして、オレンジ色に照らされた先生の横顔をちらっと見つめた。今夜の先生は神話にあるアンタレスを狙う射手座のように凛々しく男らしい。それは今までに見たことのない真剣な表情だった。
 先生は無言で火を見つめている。俺は少し重苦しい空気をかき消そうと言葉を探すが、かける言葉が見つからない。心が次第に手にしたコーヒーよりも熱くなっていくのが分かった。自分をごまかすように無言でオリオン座を追いかけてみた。
「俺な、夢が叶ったよ」
 時折吹きつける弱い風にのせて、先生はかすれるような声で言葉をこぼした。
 先生の夢……。
 俺はその言葉の意味をすぐに理解できなかった。
 先生は俺を見た。その瞳は一等星よりも強い光で、六等星よりも優しい光で、俺を離さそうとしなかった。焚き火の明かりが消えて二人だけの空間が広がっていく。俺の心臓は強く脈を打っていた。
「ずっと、ずっとお前のことが……」
 この季節では見えないはずの射手座の矢が俺を射抜いた。見えない傷口から困惑と喜びが広がっていく。俺は先生の震える手に触れると、夜風に冷えた皮膚の感触と熱い血の流れを感じた。何物にも代えがたい時間が心を覆い尽くす。
 先生が、俺のこと……。
 身体の中で激しい嵐が吹き荒れていた。あの大会で優勝していたら、同じ感覚を味わえたのだろうか。俺は分からなかった。それでも、半ば諦めていた先生への憧れは、確かにこの手の中にある。
 焚き火は衰えることなく燃え続けている。先生のまなざしは静かに俺に向けられている。
「俺も、先生のこと……」
 やっと吐き出せた小さな言葉。最後まで言い切る前に、先生は俺を抱きしめた。力強く引き寄せられた反動で、俺の手にしたカップは転がり、乾いた地面にコーヒーが消えていく。背中で太い指の力を感じると、俺も先生の大きな背中に手を回した。
 先生は俺の気持ちを前から知っていたのか。
 分からなかった。でも今はそんなことはどうでもよかった。引力に引かれて落下する衛星のように身を任せ、先生の体温と軽い汗の匂いを感じると、自然と涙が込み上げてきた。
 俺も夢が叶った。
 力強く抱き合う俺達は、星が線で結ばれるように、頭上に広がる空に新しい星座を形作る。お互いの抱擁が解けると、もう一度見慣れたはずの顔を見つめ合い、二つの顔は接近して静かに唇が重なった。
 遥かずっと上では無数の星座が輝いている。

【九】新しい朝

 太陽の光が高原に降り注ぐと、朝の鳥はさえずりを始めた。俺は寝袋から手を伸ばし時計を手に取った。少し早く目が覚めたようだ。先生は隣でいびきをかいている。無精髭が伸びきった寝顔を見ていると、昨日まで知らなかった新しい世界が生まれていることに気が付いた。
 寝袋から出ると寒さが身に染みる。ダウンジャケットを着て、眠っている先生の頬にキスをした。まだ夢の中にいるようだ。先生はどんな夢を見ているのだろう。俺は静かにテントから出ると新しい光に目を細めた。
 夜露に濡れた草原は太陽の光に照らされて明るく輝いている。俺は背伸びをしながら、朝の締まった空気を身体に取り込んだ。

【十】約束

 荷造りを終えて赤いビートルがゆっくりと走り出した。やってきた時とは反対に景色が流れていく。同じ道を逆送するだけの車のはずが、光に照られた山々の風景はまぶしく輝いていた。
 スピーカーから流れるFMラジオは心地よい歌を歌っている。窓の外では冬にしては明るく雲ひとつない青空が広がっていた。
「先生、今回もダメだったな。これからどうする」
 俺はちょっと冷やかしを込めて言った。
「何言うか。コメットハンターはこんなのいつものことだ。次は絶対に見つけるぞ!」
 先生は豪快に笑い飛ばすと、ニヤリと笑った。その笑顔は、ずっと憧れの人と想い続けたことに間違いがなかったと確信させた。いつしか俺の心には温かいものが生まれていた。

 車が駅前に止まった。一足先に車を降りた先生がトランクから俺の荷物を取り出すと、そのまま抱えて駅舎の中に歩いていく。
 俺は車から降りると、高原がある方角の山を見つめた。冬の澄み切った空気に山の稜線が輝いている。
「おーい!」
 先生が呼んでいる。俺は遠くの山の姿を目に焼き付けると、後を追っていった。
 誰もいないホームで、電車の時刻を確かめた。電車が到着するまでまだ少し時間がある。
「じゃあ、また今度も絶対来いよ」
 先生は目を細め、口元を緩ませている。
「もちろん来るからさ。先生、頑張ってよ」
 俺は不器用に笑顔を作った。先生の身体をもう一度だけ抱きしめてみると、温かい体温にうっすらと汗の臭いがした。

 遠くから踏み切りの音が聞こえてくる。
「ほら、これ。忘れんなよ」
 先生は俺の荷物を差し出した。ただのキャンプ用具を詰めておいたカバンなのに、まるで別物のように重い。食料が消えた分だけ軽くなっているはずだが、手のひらに力が入った。俺はその重さを確かめると、右手のカバンに目を落とした。
 列車は音を立ててホームに入り、ゆっくりと動きを止めた。たった一人の乗車を迎え入れようとドアが開く。俺は右足から列車に乗り込むと、戸口でホームに残る先生の方に振り返った。先生はいつものように大きく笑っていた。
「先生、俺……」
「お前、柔道やめないだろ!」
 ためらいがちな俺の言葉をさえぎるように、先生の大きな声が響いた。自信に溢れた力強い言葉を、俺は自分の心に確かめるように受け止めた。
 発車のホイッスルが鳴る。俺が口を開きかけたところで、列車のドアは音を立てて閉まった。俺はガラス越しの先生に向かって無言で、強くうなずいた。列車が静かに動き出す。ホームから手を 振る先生に、俺もいつまでも手を振り続けた。
 先生の姿が小さくなり、ホームも見えなくなった。それまで振り続けた手を下ろすと、俺は自分の手のひらを見つめた。温かい先生の感触が残っている。その温度を消さないように、拳を強く握った。
 もう一度、自分の夢を!
 冬の柔らかい日差しに包まれて列車は走り続ける。最初はゆっくりと、次第に加速をつけて徐々に力強く。太陽の光は春がすぐそこまで来ているように暖かく輝いている。

ほうき星、見つけた

 この作品は二〇〇七年頃に執筆をして、二〇〇八年五月十日にミクシィで「天体観測」というタイトルで初掲載したものです。訂正、加筆を重ねて最終完成版としました。筆者として、表現力や文章力にまだまだ改善の余地はあると思いますが、ひとつの区切りとして、今回で完成版とさせて頂きます。
 自分の書く物語は、男同士の恋愛に夢や希望を加えるパターンが多いと思います。この作品は代表的なもので、後続の作品にも影響があるのかもしれません。
 豪快で明るい高見先生が優しく一星を見守ってくれる姿は、教師の理想像なのかもしれません。別れ際に一星に伝えた一言は、この物語の主題でもあり、高見先生のシンボルとなる大切な一言だと思っています。
 先生と生徒(元生徒)の設定は思い入れが深いこともあり、「先生と一緒」シリーズ(現在は第三弾まで)としました。今後、第一弾、第二段も配信をする予定です。
 最後までお読み下さりありがとうございます。

ほうき星、見つけた

俺(一星)は高校時代の担任、高見先生が好きだった。 夢を追いかける先生に憧れ、自分も大切な夢を追いかけていた。 長野の高原で二人の天体観測がはじまる。 先生との数年ぶりの再会は、俺に何をもたらしてくれるのだろう・・・。 ※ゲイ小説です。性描写がほとんどない作品です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-04-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 【一】夢、敗れて
  2. 【二】手紙
  3. 【三】思い出
  4. 【四】再会
  5. 【五】悪夢
  6. 【六】彗星と流れ星
  7. 【七】夢のかけら
  8. 【八】もうひとつの夢
  9. 【九】新しい朝
  10. 【十】約束