海の天井

行くだけなら、宇宙よりも深海の方がはるかに難しいのだときみは言った。
人は潜ろうとしても簡単には潜れないのだと寂しそうな目で微笑んだ。
難しい話は僕にはわからなかったけど、
そのときに浮かんだ疑問は今も消えない。

潜れないのは人の身体のせいなのか。
それとも海のせいか。


僕の海はこじんまりとしているけれど、きみが僕にくれた最高の贈り物。
僕たちは毎日会えるけれど、
手を伸ばせば触れる透明な壁が、きみのいる世界と僕の海を隔てている。
でも天井だけは、きみの世界とつながっている。

この柔らかな天井を飛び越えてしまえば僕は死ぬだろう。
きみもそうなのか。
僕の海に来てくれないのは、きみの身体のせいなのか。
それとも僕の海が怖いからなのか。



「おはよう」
これが一日の始まり、僕の心ときめく瞬間だ。
きみの声で身体のすべての細胞が目覚める。
僕を見るきみの目はいつもやさしい。はしゃぐ僕に微笑んでくれたり。
けれどその視線は一瞬、とどまったかと思えばすぐ離れていく。

きみが僕を見ていないとき、
きみを見つめている僕の目はちょっといやらしいかもしれない。
眉間にしわを寄せて難しそうな本を読むきみの指先に、ひそかに興奮している。
でも気付かれることはない。
気付いて、と願っても。

涙は出ない。
そのかわりに身体の色が薄くなる。
前に一度きみを心配させてしまったから、僕はできるだけ泣かないようにしている。
いつだって楽しそうにいてみせる。
きみの前では美しくいてみせる。


「おやすみ」
穏やかな瞳が僕をとらえる。
青い電気が消える一日の終わりに、僕は天を仰いでそっと息を打ち上げる。
放たれた小さな透明な粒は、天井をあっけなく通り抜けて向こう側へ溶けていく。
僕がどうしたって行けない世界へ。
夜の光にわずかに揺らぐ、きみのいる世界へ溶けていく。

知らないだろう。僕の吐く息の中できみは生きているんだ。
僕がこうして毎日、天に送り出す粒の中で。
すごいだろう。きみに教えてやりたい。
きみは驚いてくれるか。それとも笑ってくれるだろうか。
どちらだっていい。
夜の僕は少し強気なんだ。

淡い月光もはね返すなめらかな身体。
今夜も丹念に手を入れた。
明日はもっと見てくれ、僕を。光の中の僕を。
きみの目をひとりじめにしたい。


僕は毎晩夢を見る。
きみの手に触れる夢。
この海で、青い光の中で、きみの手をとって踊る。
怖がらなくたっていい。
そうだ、きみの足のかわりに僕の尾ひれを使えばいい。
そんなに深く潜らなくたっていいんだ。
浅いところでいいんだ。
天井の下で、この海でずっと待っている。

海の天井

上にある境界ってあまり意識しないですよね。空も大気が何層かに別れているらしいけれどなかなか実感できるものではないし。
水に潜って見上げると別の世界にいると感じます。
この一線を越えると生きられない。それでも向こう側を見続けるのは酷ですがとても純な気がします。

海の天井

どこまでも一方通行。

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更新日
登録日
2016-04-01

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