手紙(連作)
手紙(一) 夏の置き土産
三十年の歳月を経てお便りします。お元気でしょうか。
三十年前のことでした。あなたから手紙が届きました。
「この夏休み中にお会いしたいと思っています。八月十二日の午後一時に弁天島に来てください。来てくれるまで待ちます」
夏休みに入る三日ほど前のことでした。僕は当時、七尾高校の一年生で初めての夏休みを迎えようとしていました。七尾高校の一部の生徒と同じように、家からは通学できなかったため、僕は七尾で下宿していました。あなたからの手紙は僕の下宿に届いたのでした。
あなたが僕のことが好きだということは、中学の時からうすうす分かっていました。言葉ではっきりとそう言われたわけではありませんが、日常の仕草で分かりました。視線が気になって振り向き、僕と目が合うと、あなたはぷいと横を向いてしまうのでした。あるいは、慌ててうつむいてしまうのでした。そういうことが何回かありました。そんな時、「言いたいことがあるならちゃんと言えよ」という気持ちで僕はいらついていました。
おそらくご存じだったと思うのですが、当時、僕は熱病にうなされたように恋に落ちていました。相手はあなたもよく知っている千代美です。寝ても覚めても千代美のことばかり考えていました。だからあなたの気持ちを思いやるゆとりはありませんでした。
あなたからの手紙は次のような物だったと思います。
朝起きて、「大森くん、おはよう」と言います。
授業中、時々大森くんのことを思い浮かべ、小さな声で「大森くん」と言います。
ご飯を食べる前に、「大森くん、いただきます」と言います。
夜寝る前に、「大森くん、おやすみなさい」と言います。
でも、その言葉は大森くんには届いていないのでしょうね。
ずっと以前から会いたいと思ってきました。この夏休み中にお会いしたいと思っています。お会いして話したいことがあります。
お盆には田舎に帰っていると思いますので、八月十二日の午後一時に弁天島に来てください。来てくれるまで待ちます。
あなたは一日中僕のことを思っている、「大森くん」と口に出してもいる、そして、僕に会いたいと思い続けてきたのだということも分かります。しかし、僕にはそれを受け止める思いやりがありませんでした。何しろ、僕の頭は千代美のことで一杯だったから。しかし、「来てくれるまで待ちます」との覚悟は真に迫っているように感じたし、長時間待たせたあげく結局行かず仕舞いにするのは卑怯だと思ったので、行くことにしました。
学校は七月末まで夏期講習があり、それが終わると、荷物をまとめ実家に帰りました。国鉄能登線の前波駅に降り立った時、懐かしさとともに夏の暑い光が照りつけました。穂のつき始めた稲が青々した葉の間から顔を出して一面に広がるたんぼを見ながら、畦道を家に急いだものです。風もなく日ばかりが照りつける午後でした。
夏休み中、もちろん勉強はしました。その合間に中学時代の男友達と会いもしました。あなたから手紙が来たことや今度会うことなどは誰にも話していません。
そして、八月十二日が来ました。朝からいい天気だったように思います。僕は昼ご飯を食べた後、自転車で弁天島に向かいました。弁天島は島ではなく、陸続きの海に突き出た岬でした。県道から外れ、足下にまで夏草が生い茂った道をしばらく行くと、弁天島の入り口に大きな松の木があります。そこにあなたが待っていました。僕は黙って自転車を降りました。二人ともしばらく黙っていました。でも、小さな声であなたは言いました。
「来てくれて、ありがとう」
「うん」
「手紙読んでくれたが」
「うん」
「私、大森くんのこと、好きやった」
「それは分かった」
「それでこれから付き合って欲しいぎけど」
「でも」
「駄目?」
「うん」
「手紙にも書いたぎけど、朝起きたら、大森くん、おはよう、と言うぎ。夜寝る前にも、大森くん、おやすみ、と言うぎ」
「そう言われても」
「大森くんのこと、思ったら駄目なが?」
「駄目なことないけど」
「そんなら何?」
「どんなに思っても、何もしてやれないということ」
「分かった。そうやろうと思うとった。本当は付き合って欲しいぎけど、何もしてくれなくてもいい。大森くんのこと、いつまでも思うから」
「何もしてやれない、それでもええん?」
「うん。最後にこれ受け取って」
「でも、それは」
「ええから、お願いやから受け取って」
「でも、悪いやろ」
「お願い、最後のお願いやから」
僕は差し出された袋を受け取りました。
「今見んといて。帰ってからにして」
「分かった」
僕は自転車にその袋を乗せて家に帰りました。あなたからの贈り物は僕の気を重くしました。しかし、それが何なのか知りたいとも思いました。開けてみると、オルゴールと小さなカエルの置物でした。オルゴールは聖書のようなブック型で、開けてみると「浜辺の歌」が流れました。「浜辺の歌」は中学の音楽の時間、僕が先生から初めて褒められた歌だったのです。カエルの置物は、指先にでも乗るようなこぢんまりとした小さな物でした。
夏休みも終わろうとする頃、母は静かに言いました。
「カエルの置物には帰ってきて欲しいという思いが込められとるがでないが」
僕はあなたの気持ちを知りながら何も出来なかった。
夏休みが終わり、僕はオルゴールと小さなカエルの置物を持って七尾の下宿に戻りました。
高校を卒業した後、何回か引っ越しをしました。あれから三十年。オルゴールとカエルの置物は今も僕の手元にあります。滅多に手に取ることはありませんが、この前ふと机の上に小さなカエルの置物を置き、ブックの表紙を開けオルゴールの音を聞きました。部屋に「浜辺の歌」のちょっと甲高い旋律が流れました。あなたの顔が脳裏に甦りました。それは「夏の置き土産」でした。
手紙(二)友美へ①
先日、中学の同級生だった川端正則から自宅に電話がありました。
「今、中学校の同級会を中島でやっている。返信のはがきに島崎友美のことが書いてあったけど、友ちゃんは死んだという噂やった」
「えっ、死んだんですか」
「そうらしい」
「ああー、死んだんですか」
「でも、それは単なる噂やった。今、ここにいるよ」
「えっ」
「ほんなら友ちゃんに電話、替わるわ」
島崎「あ、もしもし」
大森「もしもし、元気にしていましたか」
島崎「ええ、元気にしていました」
大森「中学の時のこと、覚えていますか」
島崎「ええ、覚えています」
大森「はっあはっあ、覚えていますか」
島崎「覚えていますよ」
大森「今どうしています」
島崎「孫が出来ました」
大森「もう孫が出来たんですか」
島崎「孫は六ヶ月です」
大森「もう六ヶ月の孫ですか。・・・・何か会いたいですね」
島崎「来れば良かったのに」
大森「遠いからな」
島崎「今度は四年後」
大森「四年後か。今度は行きますよ」
島崎「是非来て下さい」
大森「旦那は元気ですか」
島崎「元気です」
大森「わざわざ電話ありがとう」
島崎「それじゃお元気で」
大森「元気でね」
その後、川端が出て、今分茂が来ていると言うので、替わった。今分はあちこち行ったけど今は泉佐野にいると言う、名簿をもらったから電話する、一緒にビールを飲もう、と言っていた。
川端正則から届いた同窓会の案内。その返信用のはがきに、欠席の連絡とともに「島崎友美という子がいましたが、どうしていますか」と書いたのでした。僕が島崎友美の名前を出せば、何らかの反応があると思ったけれども、電話がかかってくるとは思いませんでした。電波状態の悪い聞き取りにくい電話でしたけど、話が出来て良かったと思いました。心が温かくなりふわふわと軽くなりました。そしてその状態が懐かしさとともに今も続いています。ここしばらくは続きそうです。
懐かしさとともに中学の時を思い出します。あなたといる時には、肩肘を張らずに自分を出すことが出来、自然に話が弾み、本当に楽しい時を持つことが出来ました。どうしてあんなにも自然に振る舞うことが出来たのか不思議なくらいです。当時はその自覚が全くなかったが、時が経るにつれてことある度に思い出すようになりました。あの頃が本当に良かったんだと思えてきます。二十歳になった夏休みに、前波の漁り火で開かれた同窓会で、何のてらいもなく「膝枕をしてくれ」と言うと素直にしてくれました。そういう自然な温かな関係が出来ていたのだと思います。今から思うと、おそらくあなたも僕と同類のB型だと思う。同類同士のつながりは温かく軽やかな感じがします。
手紙(三)友美へ②
お元気でしょうか。先日、中学の同級生だった今分茂から勤め先に突然電話がありました。
「今度、ビールでも飲みましょう」
との誘いでした。
「それでは、今度の土曜日(三月八日)に京橋で飲もう」
と約束しました。当日は大いに飲みました。その時、当然のことながら、中学の同級生の話になり、當田基晴や川端正則、谷内秀樹、大井清建、等そして先生では金谷先生、黒川先生らの名前が出てきて、随分懐かしく思いました。今分茂は名簿を持っているので、コピーして送るとのことでした。その名簿が先日、届きました。
名簿中にあなたの名前を見つけ、本当に懐かしく、どうしているかなという思いが抑えがたく、つい手紙を書いています。本当にどうしていますか。二年前の電話では、孫が生まれたと言っていましたが、もうそんな年になるのですね。と言いつつ、自分も同じ年であることを棚に上げてはいけません。もう僕も随分と年が行き、頭ははげ上がり、中年太りを通り越しています。そして、年とともに、田舎のことが思い出され、望郷の念に堪えません。実際に宇加川へ行ってみれば、何もないことは分かっているのですが、それでも遠くで故郷のことを思うとしみじみとした気分になります。
中学二年の時、どうしてあんなにも楽しかったのでしょう。給食の時、机を並べ、他愛もない冗談を言い合ってきゃっきゃ、きゃっきゃ笑い転げていました。時たま僕が変な冗談を言うと、あなたは怒ってほっぺたをぷっと膨らませました。それがまたかわいい。思わず、その膨らませたほっぺたを指でちょんと押さえたものでした。何も気取らず、自然に心が開け、自由に何でも言うことができました。生まれてこの方、あんなにも心を開けることができたのは、島崎友美さん、あなただけでした。今から考えてみると、不思議な、とっても不思議なつながりがあったとしか思えません。
二十歳の時に、前波の「漁り火」で同窓会がありました。その時、僕はごく自然に膝枕をしてくれと言うと、あなたは何のてらいもなく、自然に膝枕をしてくれました。ああ何という不思議であり、自然なのでしょう。
年とともに、遠くで故郷のことが懐かしく思い出され、島崎友美さん、あなたの黒目がちな目と、ふっくらとした色白のほっぺたが目に浮かびます。
今分茂の言うには平成二十一年の八月か十月に同窓会があるとか、その時には僕も出席してみようかなと思います。
手紙(四)友美へ③
ずっと前からどうしているのかなと気にしていました。正直に言って今回の同窓会(平成二十一年九月二十日)はあなたに会うことが第一の目的でした。お会いできて本当に良かったと思います。多少顔つきや体つきは変っていましたが、やはり友美は友美でした。同様に大森は大森でした、と言っていただけるとありがたいのですが。
皆が気を使って宴会の席を隣にしてくれました。本当は言いたいことは一杯あったのですが、ちょっと堅くなっていて十分にしゃべることが出来ませんでした。宴会の途中で、誰かが質問しました。
「三年前の同窓会の出欠のはがきに、『島崎友美という子がいましたが、どうしていますか』と書いてありました。友ちゃんは初恋の人だったのですか。」
僕はどう答えていいものか、一瞬のうちに色々なことを考えたのですが、正直な気持を言っていいものかどうか、返答に困りました。
「中学二年生の時、黒川先生のクラスでしたが、給食を一緒に食べ、とっても楽しかった」
「それだけですか」
「はい、それだけです」
それを聞いたあなたは言いました。
「がっかりした」
おそらくもっと深い話が出てくるのだと期待していたのでしょう。僕も半分くらいは思い切って言おうかなとも思いましたが、ちょっと勇気が足りませんでした。でも、あなたが「がっかりした」と言ってくれて、僕は半分以上うれしく思いました。何故なら、きっと僕が言いたくても言えなかった僕の本当の気持をあなたは期待していたのだし、その期待の中にあるあなたの気持を僕は理解してしまったのですから。これを前向きに言うと僕らには言葉はもういらない、側にいるだけでいい、そういう関係だと言うことです。
カラオケが終ってまた部屋に十人くらいが集った時も、あなたは僕の隣にいました。これと言って特別なことは何もしゃべりませんでしたが、僕にとってあなたが隣に居て一緒に時を過すことが出来ただけで十分幸せでした。
夜中の二時過ぎに解散となり、部屋で布団に入ったのですが、何故か頭の一部だけが妙に冴えて寝付けませんでした。一時うとうとしたかもしれませんが、ほとんど眠っていないと思います。その間ずっと瞼の裏には今日見たあなたの顔と中学時代のあなたの顔がダブって映っていました。
今回、一番伝えたかったことは、あなたが側にいるだけで何だか心がふわっと和み、あれやこれやと言わなくても何となく心が通じ合うように感じたこと、――これです。これは僕の一方的な思い込みかもしれませんが、そうでもないような気がします。
では、お元気で。また、いつかお会いしましょう。それまでに無理をせずに出来るだけメタボを解消しましょう(お互いに)。
平成二十一年九月二十二日 大森 秀夫
久繁 友美 様
追伸
「背中が痛い」と言っていましたね。ひょっとすれば腎臓が悪いかもしれません(僕の母親は腎臓ガンで亡くなりました。腎臓は背中が痛くなると聞いたことがあります)。あなたも言っていたように内灘の金沢医科大病院で見てもらって下さい。そして、その結果を必ず知らせて下さい。
手紙(五)友美へ④
もう十月だというのに、大阪の日中はまだまだ暑い日が続いています。お便り、ありがとうございました。わくわくしながら読みました。
それで僕も手紙を書こうと思って書きました。書いた物を読み返してみると、何だか随分と理屈ぽくっていけません。もっと分かりやすく書ければいいのですが、僕の能力不足のため理屈ぽくってごつごつした文章になってしまい申し訳ありません。我慢して読んでみて下さい。読んでみて「分からん」ということでしたら、放って下さい。
(では、始めます)
実は、お会いした時にお話ししようと思っていたことがあります。それは、あなたは僕にとって「原点の人」だったということです。正直に言いますと、僕が大阪に出て来てから多くの女性を見てきましたが、その中で僕が心を寄せた女性は、決まってあなたによく似た人でした。のみならず、その女性といずれは別れてしまったのですが、別れた後、しばらくして思い出すのは決まって中学時代の、黒目がちで色白のぽっちゃりしたあなたの笑顔でした。あなたから出発して、あなたとよく似た人を求め、いずれは別れてしまい、そして、あなたを思い出す、――このパターンをここ四十年の間に二回経験しました。二人とも血液型はB型です。あなたもきっとB型に違いありません。僕もB型です。血液型がB型の人は、感覚的に言うと、悠久の過去から深いところでつながっているように思えます。DNAのレベルでつながっていて、〈同類〉の感覚をお互いに抱くように出来ているのではないかと思います。そして、そこには得も言われぬ安らぎがあります。この安らぎは、側にいるだけで心がふわっと軽くなり、多くのことをしゃべらなくても何だか心と心が通じ合っているという安心感のようなものです。
もう一度言います。あなたから出発して、あなたとよく似た人を求め、いずれは別れてしまい、そして、あなたを思い出す、――それで、僕はあなたのことを「原点の人」と名付けました。だからあなたに帰ることを「原点回帰」と言います。僕にとってあなたは「原点の人」なのですから、四十年経とうが、八十年経とうが、忘れるはずがありません。
(あなたからもらった手紙について)
「がっかりした」と言ったことを後悔している、何故あんなことを言ったのか分からない、――というようなことがあなたからの手紙に書いてありました。でも、後悔する必要など全くありません。「がっかりした」と言われたことが僕にとってはむしろ嬉しかったのです。何故なら、あなたは僕に期待したはずです。僕に言ってもらいたい言葉を待ち望んでいたはずです。でも、僕は勇気がなくて正直に自分の気持ちが言えませんでした。当たり障りのないことをちょっとだけ言ったに過ぎません。期待し待ち望んでいたのにそうじゃなかった、だったら「がっかりした」となるのは当然です。何のてらいもなく、あなたの口からふっと出て来たことが僕にとって本当に好ましいのです。これは嘘でもなく単なる慰めでもなく、そんな次元ではなく、とても大事なことなのです。あなたが期待し、待ち望んでいたということが僕に伝わって来たからこそ、僕には嬉しく思えたのです。
「何故あんなことを言ったのか分からない」――これは後悔の言葉のようです。でも、僕はそうは思っていません。あなたはあの時、自分で自分のことを意識しない「自然の状態」に入っていたのです。何のてらいもなく、自分のことを意識しなく、思ったことを口にする、「自然の状態」になっていたのです。こんな「自然な状態」こそが、僕らにとって最も好ましい状態だと思います。だって、実はあの中学校二年の教室で給食を食べていた時、何のてらいもなく、自分のことを意識しなく、思ったことを口にする、「自然な状態」で僕ら二人はきゃっきゃ、きゃっきゃ笑いながらしゃべり合っていたのですから。世間一般の常識から見れば、「がっかりした」などと言えば相手に対して失礼だ、となるのでしょうが、僕らはそんな世間一般の常識を超えた関係でした。今回、そんな関係がちょっとだけ復活したので嬉しく思いました。
だから、後悔する必要など全くありません。元々の島崎友美に戻っただけなのですから。そして僕はそんな元々の島崎友美を好ましく思っているのですから。あなたは僕にとって「原点の人」なんですから。
そして、最後に言います。僕は原点に帰ろう、「原点回帰」しよう、いつまでも島崎友美のことを忘れないで心に留めておこう、と思っています。
では、お元気で。
平成二一年一〇月二日 大森 秀夫
久繁 友美 様
手紙(六) ミューズへ
原点回帰として、もう一つの重要な思い出を語ります。でも、これは常識的にはあなたにとってきっと不愉快極まりないことかも知れません。何故なら、かつての僕の恋人のことですから。しかし、あなたは普通の常識では計り知れない不思議な器を持っているので、今回のお別れを契機に思い出した、全く個人的な〈こと〉であっても理解してくれるものと信じています。
今から29年前、僕が大学3回生の冬のことでした。当時、僕は大学生協の組織部で仕事をしていました。それだけではなく、生協の書籍部にもちょくちょく顔を出して、書籍部の人たちと親しくしていました。12月4日頃だったと思います、土曜日の夜に生協職員の忘年会があり、書籍部の人たちが誘ってくれたのだと思いますが、僕も出席しました。書籍部の人以外ほとんど知らない人ばかりの中で、僕の目にとまった女の子がいました。その時は、特別に話しかけたわけではありませんが、書籍部の責任者が帰る時にその女の子(「クマちゃん」とみんなが呼んでいました)を僕に送るように言いました。僕は喜んでクマちゃんを阪急川西まで送りました。その時、クマちゃんは黒のマントを着ていました。そのマントは三角形の形をしており、頂点の所から首を出し、袖口はだらりとした形をしていました。その黒のマントは、黒目がちの目の丸い顔にとてもよく似合っていました。彼女のおそらく家の近くまで来た時、クマちゃんは「おっかくん、送ってもらってありがとう。じゃまたね」と言いました。僕はちょっと残念でしたが、同じように「またね」と言って、駅に向かって歩いていきました。クマちゃんはいつまでもその場に立ちつくしていました。角を曲がる時、もう一度振り返ると、クマちゃんは手を振っていました。僕も手を振ってその角を曲がりました。それ以来、ほとんど毎日僕は書籍部に顔を出し、クマちゃんもまた5時過ぎ頃にほとんど毎日書籍部に顔を出すようになりました。しばらくみんなでお茶を飲みながらおしゃべりをして解散という毎日を送っていました。クマちゃんは生協の食堂の栄養士をしており、献立を考え、栄養を計算し、食堂のおばちゃんを一応指導する仕事をしていました。僕よりは3歳上でした。クマちゃんと僕とは日常のほとんどのことが感覚的に合いました。クマちゃんが何を感じ、何を思い、何を言おうとしているのか、僕には自分のことのように感覚の深い所で解りました。いつも軽い冗談を言い合い、お互いの感性を確かめるような質問をして、同じ答えになったと言っては喜んでいました。同じ息を吸い、同じ息を吐いているような感覚でした。そう、クマちゃんは、B型の〈同類〉でした。以前にも書きましたが、「血液型がB型の人は、感覚的に言うと、悠久の過去から深いところでつながっているように思えます。DNAのレベルでつながっていて、〈同類〉の感覚をお互いに抱くように出来ているのではないかと思います。もちろん、B型の人全員がそうであるのではなく、ごく一部のB型の人の間で起こる現象のように思います。しばらくすると、お互いにそのことに気づくようになります。不思議な現象です。そして、そこには得も言われぬ安らぎがあります。」――クマちゃんの側にいるだけで、気持ちが通じ合い、心が安らぎ、楽しい思いをしました。
年が明けて1月になりました。書籍部の人たちと僕とクマちゃんとで伏尾台へスケートに行きました。僕もクマちゃんもスケートは初めてでした。最初立つのがやっとで、フェンス沿いに歩きながら滑っていました、そのうち滑れるようになりました。クマちゃんもどうにか滑れるようになり、みんなで手をつないだり、歓声を上げたりしながら滑っていました。スケートの帰りに、書籍部の責任者の家に行き、みんなで鍋料理をごちそうになりました。今から思うと、僕もクマちゃんもその頃が一番明るく元気で、無邪気だったのだと思います。
ある時、書籍部の責任者が本の取次先である柳原書店に商談に行く際に、僕とクマちゃんを連れて行ってくれました。商談はすぐに終わり、柳原書店の人が僕らにお寿司をごちそうしてくれました。僕とクマちゃんは接待のおこぼれに与ったのでした。柳原書店の人が書籍部の責任者とごく親しいのは当然として、クマちゃんのこともよく知っていました。彼は僕に言いました。
「クマちゃんは、気立ては優しいし、いつもにこにこして明るいし、ちょっと変わった所もあるけど、それがまたかわいいくて、みんなから好かれている。クマちゃんを悪く言う人がいたらお目にかかりたい。こんな人は本当に珍しい」
僕は彼の言葉を聞いて全く同感でした。本当に珍しい不思議な子でしたが、嫌味な所やすねたようなところが全くなく、周りのことや人を肯定的に受け止める子でした。クマちゃんは多くの人を受け入れ、みんなから愛されていました。僕らはお寿司を大いに食べ、ビールを飲んで、愉快な一時を過ごしました。
時が過ぎ、僕は4回生になりました。6月に2週間田舎の中学校で教育実習をしました。クマちゃんもその前に、一度田舎の徳之島に帰ったことありました。僕が教育実習から帰ってきてから、否、それ以前からだったかも知れません、クマちゃんは書籍部に顔を出さなくなっていました。書籍部の責任者に僕は聞きました。
「クマちゃんはどうしたの?」
「クマちゃん、お嫁に行くんだって」
「えっ」
「おっかくん、キミ、知らなかったの? 事務の主査が言ってたよ」
「ええっ、どうして」
「どうしてって、この前、徳之島に帰った時、お見合いをしたそうだよ」
「ええっ」
まさに青天の霹靂(へきれき)とはこのことを言うのでしょう。僕は何も知りませんでした。僕はクマちゃんに好きだと言ったこともないし、言われたこともないし、――だって、そんなことは僕たちにとって余りにも当然なことだと思っていたから――ましてや、結婚の約束をしたわけでもないので、クマちゃんがお嫁に行くのはそりゃ自由かも知れないけれど、だけど、・・・・僕の受けた衝撃は計り知れないものがありました。
生協を7月末で退職するということまで決まっていました。僕は完全に打ちのめされていました。どうしていいのか解りませんでした。ほとんど自暴自棄の状態でした。それでも、受けなければならない授業は受け、出席しなければならないセミナーには出席し、セミナーでは発表もあったので、その準備も怠りなくやりました。一方、クマちゃんとは、本人にお嫁に行くということを直接確認してから、二人だけの付き合いが始まりました。他の男の所へお嫁に行く相手と二人だけで付き合うというのは、客観的に見れば、全く変なのですが、僕にもおそらくクマちゃんにも変なことをしているという気は全然なかったと思います。
まず、始めたのは記録を残すこと。12月4日以来、二人は(二人だけではなく、僕らの仲間も含めて)いつ、どこで、何をしたか、記憶を呼び起こして、ノートに書き記していきました。(大切に残しておこうとした記録ノートは、独身時代の何回かの引っ越しでどこかに行ってしまい、今は手元にありません。本当に残念なことです。)喫茶店でやるその作業は、絶望に向かっての記録ではありましたが、その時だけは少し心が慰められたのでした。
7月の上旬だったと思います。それまでクマちゃんはヨガの道場に通っていました。道場のロッカーに荷物が置きっぱなしになっているので、それを取りに行くのだと言うのです。その話を聞いて初めてクマちゃんがヨガを習っていることを知りました。僕はクマちゃんのことは何でも解っているつもりになっていましたが、お嫁に行くこともヨガを習っていることも知らなかったのでした。こんな重要なことを知らなかった僕が情けなくなり、気分が落ち込みました。でも、僕も多少ヨガに興味がありましたので、「おっかくん、キミも行く?」と聞かれた時、「ああ、いっしょに行くよ」と答えていました。
日曜日に、阪急石橋から京阪の黄檗まで行きました。途中、京阪の中書島で乗り換え、宇治線に乗る頃には随分田舎に来たものだと思いました。ずっと二人で電車に乗っていたのですが、何だか気の重たい雰囲気が二人を包んでいました。黄檗の道場ではいっしょに一時間足らずの練習をし、先生に挨拶をして、荷物を取りまとめて帰りました。帰りも長い間電車に乗っていましたが、気持ちは沈んでいました。
そんなある日、生協の書籍部の人たちが梅田のビアホールでクマちゃんの送別会を開きました。僕も参加しました。僕の隣にクマちゃんが座り、二人で生ビールを飲みました。二人で「乾杯して飲もうか」と言いながら、ジョッキーをカチンとぶつけながらがぶがぶ飲みました。送別会なんですから、別れることが前提の飲み会でした。それは頭では解っていましたが、気持ちとしては全然納得していませんでした。納得はしていませんでしたが、それでも別れてしまうんだと心のどこかで誰かが叫んでいました。二人はジョッキーをぶつけ合いながらやけ酒を飲むようにしてビールを飲みました。ほとんど力の感覚がなくなった頃、「乾杯!」と言ってジョッキーをぶつけた時、そのガラスの容器が割れました。辺りには泡を含んだビールがこぼれました。周りの人たちは、「おっかくん、しっかりして」「クマちゃん、大丈夫?」と言いながら、あわてて割れたジョッキーを取り上げ、こぼれたビールを拭いていました。僕は心の中で大丈夫だと叫びながら、でもそれも声にならず、どこかさめた感覚で彼らを見ていました。ああ、こうして終わるんだと思いました。
送別会の帰り、僕がクマちゃんを送っていくことになりました。クマちゃんのアパートのあった阪急川西まで行かず、途中の石橋で降りて、大学の生協の食堂まで行きました。どうしてそうなったのか、ほとんど記憶にありません。大学までの長い坂をクマちゃんと寄り添いながらゆっくり歩いていました。生協の食堂はもちろん閉まっていました。食堂の職員が使う控え室を開け、そこでしばらく酔いを醒ましたように思います。その後、川西までちゃんと送って行ったのか、僕の下宿までどうやって帰ったのか、記憶が完全に飛んでしまっています。
送別会の後も、僕とクマちゃんは時々二人で会いました。そして、かなりの日々を二人で酒を飲んでいたように思います。酒の場で僕は何をしゃべったのでしょうか。ほとんど記憶にないのですが、おそらく何の意味のないことを口から出任せに言っていた時もあったと思います。
二人で夜の石橋の町を歩いていました。
「ずっと街灯が続いています。その街灯の下を鉛の兵隊がひょっとこひょっとこ歩いていきます。どこに行くのでしょう。誰にも解りません。・・・・ああ、言いたくもないことを言い、吸いたくもないたばこを吸い、・・・・」
「そして、飲みたくもない酒を飲み、でしょ」
「いや、酒がなかったらやっていけない」
その時、初めてクマちゃんは驚いたように小さな奇声を発しました。
「ほんとね?」
「ああ、本当だよ。酒がなかったらやっていけない」
クマちゃんは、僕の言った「酒がなかったらやっていけない」という言葉で初めて僕の衝撃が確認できたようでした。僕は怒っていたわけではありません。クマちゃんを責める気持ちなど微塵もありませんでした。ただ、どうしたらいいのか解らなかったのです。二人は街灯の下で抱き合って涙を流していたのでした。その後、二人で銭湯に行きました。銭湯からあがる時、僕は女湯に向かって「クマちゃん、出るよ」と声をかけました。向こうから「は~い。すぐ行くからね」と言うクマちゃんの声が聞こえました。銭湯から出てきたクマちゃんは黄色のTシャツを着ていました。それは何だか当時はやっていたフォークソングの『神田川』のような情景でした。
7月28日。この日はクマちゃんが大阪を離れる前々日でした。生協の書籍部のカウンターで僕はメモ用紙に四字熟語を殴り書きしていました。「自暴自棄」と何遍も書いていました。「自暴自棄」と書いて「やけくそ」と読むんだとくだを巻いていました。それを見るに見かねた書籍部の女の子が僕に声をかけてきました。「おっかくん、そんなに思い詰めているんだったら、私らが君をクマちゃんのところまで連れて行ってあげるからおいで」
どうやら僕はクマちゃんのアパートの場所を完全には知らなかったことになります。送別会の帰りもクマちゃんのアパートまでは行っていないのでしょう。僕は二人の女の子たちに連れられて川西まで行きました。その時がクマちゃんのアパートまで行った初めての時でした。阪急電車の線路沿いの、電車が通るたびにがたがたと騒音のする古いアパートでした。僕はクマちゃんに会っても、気持ちの整理ができず、何と言っていいのか解りませんでした。でも、クマちゃんに宛てた手紙を以前に書いていました。詩も書いていました。その手紙と詩を取りに下宿に帰って、再びクマちゃんのアパートにきました。その時には書籍部の女の子たちはもう帰っていました。クマちゃんに手紙と詩を手渡しました。その手紙は下書きを取っていませんでしたので、再現することは不可能です。でも、そこにはきっとそれまで二人のやってきた思い出とその意味づけ(解釈)が書かれていたはずです。詩も大部分忘れてしまいましたが、冒頭だけは覚えています。それはこうです。
「
一つの時代は終わった。
そして、新しい時が始まろうとしている。
我々は決意しなければならない。
明日からまた元気よく生きていくための決意を。
黒のマントウから始まり黄色のTシャツで終わるほんの短い期間だった。
」
クマちゃんは手紙を読み、詩を読んで涙を流していました。
「キミがお嫁に行くなんて嫌なんだよ。田舎の家に電話して、止めると言って。いいかい」
「うん。電話する」
クマちゃんは公衆電話から徳之島に電話をしました。その言葉はほとんど聞き取れず、どこか遠くの外国語のようでした。英語よりも解りませんでした。
「家の人は何て言っていた?」
「今さら、止めるわけにはいかないって。親戚中に招待状も出したし、みんなもそのつもりで準備しているんだし、相手の人にも相手方の親戚にも申し訳が立たないでしょうって」
そうりゃそうだろうと思いました。僕らは社会の大きな力と壁を感じました。そんなことは頭では最初から解っていました。解ってはいましたが、心では全然納得していませんでした。・・・・どうしようもなかったのです。
この日の夜、僕はクマちゃんのアパートに一泊しました。7月29日、クマちゃんが大阪を発つ前に、僕は居たたまれなくなって田舎に帰りました。それが二人の別れになりました。クマちゃんはおそらく翌日に徳之島に帰り、お嫁に行ったことでしょう。熊山弘子から吉田弘子に名前が変わったはずです。高村光太郎の詩「人に」が思い起こされます。
人に
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
花よりさきに実のなるやうな
種子(たね)よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理窟(りくつ)に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
大風のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて
いやなんです
あなたあのいつてしまふのが――
なぜさうたやすく
さあ何といひませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買い物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグロキシニアの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまふのが――
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて (1912年7月)
これが当時の僕の心情そのままでした。田舎で心に空洞を抱いたまま夏休みをぼーっと過ごしました。まさに、〈喪失感〉そのものでした。夏休みが終わり、僕は大阪に帰ってきました。もちろん、クマちゃんはいません。雨の降る日に、生協の組織部の仕事で僕はビラ配りをしていました。雨に濡れながら、絶望を感じました。下宿に帰り、詩を書きました。「絶望の淵で」です。
絶望の淵で 1975.8.20
小雨が降り続く中、
このまま大地に横になることができたら、
どんなにか心地よいだろう。
一切の営みから逃れ、
すべての責任から解き放されて、
無心に大地に横たわることができたら、
どんなに快いだろう。
戦地でのアンドレィとはまた違った平安が、
訪れてくるだろう。
絶望の中の平安が私を包むのだ。
私は一切の束縛から逃れ、
この大地に横になりたい。
肉体が冷えきって、熱を帯び、
精神が参ってしまっている今、
周囲のすべてのことが煩わしいのだ。
公的人間のつながりが、
絶望的な義務感が、
苦痛なのだ。
私は解放されたい、この義務感から。
そして、この霧雨の降る大地に、
静かに横たわりたい。
僕の心は癒されることなく、時間だけが過ぎていきました。でも、今から考えると、時間こそが唯一の解決なのかも知れないと思っています。夏が終わり、秋が過ぎ、冬になる頃にはだいたい普通の生活に戻っていましたから。
そして、今回のあなたとのお別れも時間が解決してくれるでしょう。否、時間だけではなく、毎日の忙しさがさらに一層加速して忘れさせてくれることでしょう。4月1日から日々の雑務に忙殺され、日常の中に埋没してしまうことでしょう。でも、いつか、「原点回帰――思い出3・ミューズ」を書くことがあるように思います。
手紙(連作)