鏡とケーキ
誰にでも心に闇というものはあると思うの
それが大きいか小さいかはどうやって決めるんだろうね
表に出た時の現れ方で決まるのかな
私?私はなんにもわかんない
自分にとって他人にとって大きいのか小さいのか
自分は出ちゃっているのかいないのか
義兄に初めは「犯された」と思った
でも「私」の「何」を「犯した」んだろう
彼は「昔みたいにもっと俺を拒絶しろ抵抗しろ」って言ってきた
「無表情じゃつまらない」んだって
私はとっくに昔のことなんて忘れてたし
今の私が無表情だということ言われて知ったし
そういえば昔は抵抗してたっけ、て思ったよ
「犯される」と思って「抵抗」していたんだと思う
でも私の何を犯したんだろうと思うと
何も犯されていないんじゃないか、て
犯されているのかもしれないけれどそれが私にはなんだかよくわからなくて
義兄が言った「拒絶」「抵抗」
誰かを否定する気持ち、私にはわかんないから
義兄が初めにしてきた時のように、「嫌がる誰か」を「犯そう」と思ったの
あ、言っとくけど義兄に喜んで欲しくて気持ちを取り戻そうと思ったわけじゃないよ
単純に、私の中からなくなった感情、てどんなものだったけ、ていう興味
で、私はあなたん家に来て、今あなたに馬乗りになってんだけど、男と女の力の差、てのを忘れてた
ひ弱そうで私のこと嫌がりそうなあなたを選んだんだけど、たぶん、あなたが本気を出せば私なんてぶっとばされちゃうね
今日はじめて喋ったクラスメイトの女子が僕の部屋で僕に跨り僕を見下ろしながら言う。
僕は彼女を好きとも嫌いとも思ったことはない。
ただ、なんだか妙な雰囲気を持っているなあ、と思っていた。
周りの女子が知らない何かを知っている、ような感じ。
ものすごく僕の偏見だけれど、二人乗りのバイクの後ろ、とか、高級ホテルのすっごい上のほうのレストラン、とか、冠婚葬祭のマナー、とか。
単に僕が知らないことたちだけど。
妙な雰囲気の正体はこれだったのか。
今日の放課後、荷物をまとめて帰ろうと教室を出る前に名前を呼ばれ、振り向いたら彼女がいた。
勉強を教えてくれないか、と言う。
僕は戸惑った。はじめて喋る女子。
なんで僕なのか尋ね返した。
どの教科の授業も、あてられたら正解の答えを出しているから、という理由だった。
僕は勉強は嫌いじゃないほうだと思う
疑問を解くのが好きだ
でも、あてられて全部正解だったのは、今日がはじめてじゃないかな
今日の日付と僕の出席番号が同じだったから、今日は普段よりも多くあてられた
たまたま僕が興味のある問題で、たまたま授業で習う前に解いていたから、たまたま正解だったんだ
教科書は「教科書」と思うと読みたくない
「本」と思うと面白い
歴史や国語や理科は、映画やドラマやクイズ番組で出たところを読んだりすると、楽しいよ
英語は、外国映画の日本語字幕をつくっている人が感じるニュアンスで「Yes」が「はい」以外に訳されたりしていること知って、凄い、と思って、自分だったらどう訳すんだろう、とか思いながら読んでいる
数学は、苦手だ
方程式が何故そうなったかを知りたくなるから
中学生のころ職員室に行って、数学の先生に尋ねた
先生は、とりあえず求められている式を使えて計算が間違っていなかったら正解だから、と答えた
僕の疑問は遮られた
それから、なんとなく、苦手
今日、数学なかったよね
彼女を見上げながら僕は言った。
僕は、僕の下半身を覆う下着を覆う制服のズボン越しに、彼女の下着で覆われている彼女の下半身を、敏感に感じ取ってしまった。
彼女に話すというより、僕の心を余所へやろうと思いつくことをぺらぺらと喋ったが、僕の下半身は彼女の柔らかさを感じ取り、固くなってしまった。
僕は何故今日はじめて喋った彼女を部屋へ招いたのだろう。
薄々、こんなこともあるかもしれないと期待していたんじゃないのか。
けれど、「犯された」彼女を目の前にすると、僕の性的な考えはとてもとても汚いものだと思った。
しかし、彼女はちっとも汚くなんかない。
僕を見下ろしながら話す彼女を見上げながら僕は、綺麗だな、と単純に思っていた。
彼女が僕のベルトを外そうとする。僕は彼女の手首をそっとつかみ、拒否の態度を示した。彼女はその手を払い、先ほどよりも強引にベルトを外そうとする。
彼女の目的は「嫌がる誰か」を「犯」し、それを見てなくした自分の感情を取り戻すこと。それを聞いても僕は彼女のことを嫌いだと思わなかった。嫌いじゃないから問題を解決する手伝いくらいはしたいと思うけれど、この目的の手伝いは出来そうにない。
僕は自分の身体を起こそうとした。彼女はそれをさせまいと僕の胸を両手で押し、倒そうとする。けれど彼女が言ったように、ひ弱な僕でも本気になったら女の子なんか、簡単に倒せちゃうんだ。
僕の胸に乗せた彼女の両手首を片手でつかみ、もう一方の手で彼女の肩をつかみ、僕は上半身を起こした。
床に伸ばした僕の太ももに彼女が跨り、僕と彼女は顔を見合わす状態となった。
見下ろされていたときよりも顔が近くなり、僕は恥ずかしくなった。でも、顔を逸らしたら駄目だと思った。彼女自身を否定したと思われたくなかったからだ。
恥ずかしいけれど、僕は顔を逸らさずに彼女を見た。黒目が大きく、まるで猫みたいだ。僕は猫が好きだ。恥ずかしい心を余所へやろうと、僕は猫のことを考えようとした。
彼女が猫だったらいいのに、と思った。猫だったら今すぐに保護をして、僕の猫として大切に傍においておくのに。首輪は何色が良いかな。君の髪は黒く艶めいているから、猫になっても美しい黒毛かな。それに似合う首輪の色。
僕の視線の先に姿見があった。彼女の後ろ姿が映って僕の顔も彼女越しに半分映っていた。
僕は薄く笑っていた。
僕は鏡の中で笑っている僕に驚愕した。
彼女を見ると、大きな黒目が震えているように見えた。僕は、彼女の両手首をつかんでいる自分の手を意識した。離すか、力を入れるか。
彼女を逃がしたくなかった。
彼女を自分の手元へおきたいという感情が、彼女の義兄の行動と重なり、自分自身にものすごく吐き気がした。
彼女は今、義兄と僕を重ねてはいないだろうか。
僕は彼女に拒絶されたくない。
僕は彼女の両手首から自分の手を離した。
彼女の行動に委ねることにした。もし僕を拒絶するのなら僕から離れるはずだ。
けれど彼女は離れなかった。黒目は震えているけれど、身体は僕に跨ったままだ。
どこかで聞いたことを思い出した。
虐待を繰り返されたら、抵抗するのをやめてしまうひともいること。諦めてしまうこと。
彼女は義兄からの虐待を、諦めてしまったのだろうか。
彼女がなくなったと思っている感情は奥に押しやってしまっただけで、そこにあるんじゃないだろうか。そうでないと、きっと、心ももたないから。
僕は自分の太ももをゆっくりと動かし、跨る彼女の姿勢を解いた。
ぺたんと床に座る状態となった彼女を前に、僕は向かい合わせに正座をした。
彼女の黒目は、なんだかきょとんとしているように見えた。
彼女の黒目を見たまま、正座をしている自分の両腿の上に両拳を乗せ、僕は背筋を正した。
ずっと見ているからちょっと睨んだような目つきになってしまった。それを解くために多めにまばたきをした。
黒目の彼女が笑った。
はじめて見た。笑った顔。
僕はやっぱり、綺麗だな、と思った。
あなたのおうち、ケーキ屋さんだよね?
駅前の商店街にある、可愛いケーキ屋さん
私にとって商店街は、幸せな人は普通に、何も意識なく通れる道だと思ってるの
私は商店街に入ると、暗くて窮屈な気持ちになるの
周りのみんなが幸せそうに見えるの
もう平気かな、と思ったときにまた商店街に入ろうとするんだけど、いつまで経っても暗くて窮屈なの
でも香りって、偉大ね
ふとね、甘―い、美味しそうな、香りがね、したときがあった
それを辿ったの
ケーキ屋さんがあった
香りを辿っている時、暗い気持ちは忘れていたの
お店のガラス越しに見えるケーキが、遠目にだけど、それでもすっごく美味しそうで、入ろうと思ったの
でも、ガラスに薄く映る自分が汚っくて、やめちゃった
あれから、商店街にも行ってないや
そう言うと彼女は床に座っていた体勢を変え、ベッドの側面に背をもたらせ両手を上げ、うーんと伸びをした。
僕の位置から彼女の横顔が見えるようになった。
伸びを終えた彼女は、だらんと伸ばした両足の間に両手をだらんと挟み、それを見るようなうつむく姿勢となった。
確かに僕の両親は商店街でケーキ屋を営んでいる。
彼女は汚っくなんかない。
きっと父さんがガラスを拭き忘れたんだ。
ちょっと待ってて、と僕は彼女に言って、僕は一旦部屋を出た。
冷蔵庫に昨日の残りのケーキが数種類ある。僕にとっては日常の出来事だけれど、これはたぶん幸せなことなんだろうな、という感情をはじめて持ちながら、ケーキを皿に乗せ、部屋へ戻った。
ブルーベリーチーズタルト、チョコレートケーキ、苺のショートケーキを2個づつ並べた大皿をテーブルに置いた。
「ケーキ、昨日のだけど、よかったら、一緒に食べよう。今度、ここにないケーキ、商店街に行こう」
と僕は言ったけれど、いつも手づかみで食べているのでフォークを持ってくるのを忘れていた。慌てて再度部屋を出た。
台所へ向かう途中にそういえば取り皿も必要だなと思い、フォークと取り皿を持ち戻ってきたら、彼女はケーキの前で体育座りをして、じっとケーキを見つめていた。
その姿がとても幼く見えて、可愛いとも思ったし、少し切なくも思った。
「フォーク忘れてた」
と言って、僕はフォークと取り皿を彼女に渡そうとしたけれど、今の彼女に僕の声は届いていないようだ。
彼女の斜向かいに僕は腰を下ろした。僕の存在に気付いた彼女にフォークと取り皿を渡した。
「好きなのをどうぞ」
と僕は言った。
「綺麗だね」
と受け取りながら彼女は言った。
「甘い香り。 幸せー」
と彼女は笑った。
僕はなんだか泣きそうになった。それを悟られまいと横を向いた先に姿見があった。姿見には真正面に映りケーキをどれにしようか迷っている彼女がいた。
その仕草も子供っぽくてまた切なくなったけれど、その気持ちを消すようにわざと彼女をからかい、僕たちは笑い合ってケーキを食べた。
鏡とケーキ