坂の上の交差点
とある高校での出来事
坂の上の交差点
坂の上の交差点
作者 桜花周一
五月の夜、がらんとした職員室に電話のベルが鳴り響いた。今頃かかってくる電話はたいてい苦情の電話だった。近くのコンビニの駐車場で生徒がタバコを吸っている、公園の広場が体育祭の応援練習の生徒に占拠され音がうるさい、神社で生徒が集団で喧嘩している、自転車が集団で細い道を通って危険だ、・・・・。先生は重い気分で受話器を取った。
「はい、東山高校です」
「私、近所の森田という者です」
若い女性の声だった。「近所の」と聞いたとたん、そら来たと先生は思った。
「今日、ありましたことをお話ししたくて電話しました。実は、私妊娠していまして」
「えっ、うちの生徒が何かしましたか?」
「はい、ご親切にありがとうございました」
「どうしたのでしょうか?」
若い女性はゆっくりと話した。
「今日の夕方、自転車で買い物に出かけました。坂道を下ってスーパーに行きました。買い物を済ませ、荷物を前と後ろのカゴに入れて、坂道を登って行きました。坂道だったので自転車をこぐことはせず押していきました。いつになく沢山の買い物をして荷物が多かったので、自転車がふらついていました。歩道のくぼみに車輪がはまり、バランスを失って自転車が転けました。カゴの中の荷物もこぼれました。私は、荷物を拾わなければと思ったのですが、体が重くて思うように出来ませんでした。どうしようかと思っていたその時、側を通りかかった高校生風の若者が、
《おばさん、大丈夫ですか?》
と言って、自転車を起こし、道にこぼれていた荷物をカゴに入れてくれました。私は、とっさの出来事にただ見ていただけでした。
《ありがとうございました。学校はどこ? 名前を教えて》
と聞いたのですが、彼らは
《ええねん、おばさん気をつけてやー》
と言って通り過ぎて行きました。彼らの乗っていた自転車の後ろに学校のシールが貼ってあり、《東山高》と読めました。生徒さんに十分お礼を言えなかったので、学校へ電話しました」
「ああ、そうだったんですか」
「おたくの生徒さんにご親切にしていただき、ありがとうございました」
「ご丁寧にわざわざご連絡をいただき、ありがとうございます。生徒の名前は分からないんですね」
「そうです」
「自転車のシールは何色でしたか?」
「えーっと、確か赤だったと思います」
「赤ですか。そうしたら一年生ですね」
「東山高校の一年男子生徒三名、胸に刻んでおきます」
「ありがとうございます」
先生の心の中に和やかな気持ちが広がり、職員室がいつになく輝いて見えた。
一週間後の昼頃、職員室の電話が鳴った。
「先生、一年三組の佐藤ですが、事故に遭いました」
「場所は?」
「スーパーの坂を上がった所の交差点です」
「怪我は?」
「右足と右腕を打っています」
「相手は?」
「車だったけど、逃げて行きました」
「ひき逃げか?」
「そうみたいです。あっ、ちょっと待って。ケータイ替わります」
「もしもし、私、近所の森田という者です」
「えっ、この前お礼の電話をいただいた森田さんですか」
「はい、毎日、生徒の帰る頃、あの生徒に出会わないかと思い、散歩をかねて外に出ていました。さっき、あっ、あの子だと思った途端、事故が起こりました。相手の車は逃げて行ったのですが、私、ナンバーを覚えています。2841でした。警察に届けます。救急車も呼びます」
「ご親切に、ありがとうございます」
先生は感激した。
その後、佐藤くんの怪我も治り、加害者の車も見つかった。佐藤くんはお母さんと連れだって森田さんの家に行った。
「先日はご親切にもうちの子を助けていただきありがとうございました。お陰様で怪我も治り、加害者も捕まりました」
「それは良かったですね。私の方も自転車を転かした時、佐藤くんに助けていただき、ありがとうございました。あの時はどうしようかと途方に暮れていたんです。本当に助かりました」
佐藤くんははにかみながら言った。
「ありがとうございました。お互い自転車の事故には気をつけましょう」
「そうですね。わざわざどうもありがとう」
帰り際、坂の上の交差点で西の空を見ると、棚引く雲が橙色に染まっていた。
坂の上の交差点