メビウスの花

メビウスの花

サークルのテーマ小説の文集に掲載したことのある作品です。テーマは「夢」でした。画像の紫色のリナリアは「K'sBookshelf 辞典・用語 花の名前小辞典」から拝借しました。

 ヒメこと魚草(うおくさ) 姫金(ひめか)には、誰にも言えない秘密があります。
 秘密といっても、ひょっとしたらそれはヒメが思い悩んでいるほど複雑なことではないかもしれません。でもヒメは誰かにその秘密を打ち明けようとはしませんでしたし、大切な宝物を隠すかのように、胸の内にそっと秘めておこうと思っていたのでした。
 今日もヒメは教室の後ろの席から、幼馴染の後ろ姿をぼんやりと見つめます。ふと気がつけば目で後を追っているのです。
 休み時間になると幼馴染はクラスの女の子達に囲まれてしまうので、授業中という誰にも邪魔をされることのない時間は貴重なひと時でもありました。彼らの中に何気なく混じって、他愛のない話に耳を傾けるのも悪くはないのですが、高校では挨拶を交わすくらいの間柄ですし、普段から一緒にいるというわけでもないので、彼らの形成する円の中にずかずかとお邪魔をするわけにはいきませんでした。それに向こうは幼馴染とはいえ、ヒメのことを覚えていないのですから、もっと一緒にいたいと思う反面、ただのクラスメイトという関係以上のかかわりをもつことに多少の躊躇いがありました。
 小学三年生の時に転校してしまって以来、はや七年。その短いようでとても長い時間は、かつてあった関係を消失させるのには十分だったのでしょう。例えそれが遊び仲間という子供の友情関係であったとしても、まるで最初からなかったかのように忘れ去られていたのは、少なからずショックでした。
 けれど高校で再開するとは夢にも思っていなかったし、ヒメもクラスの顔合わせの時になってようやく気がついたのですから、忘れられていても仕方がないと言えば仕方がないのです。ヒメの場合は、たまたま頭の奥深くに仕舞いこんでいた思い出の記憶と面影が合致したに過ぎません。クラスが違えば、きっと廊下をすれ違っていたとしても気がつくことはなかったと思います。ええ。たぶん、彼女(・・)に恋をしてしまうことも、きっとなかったでしょう。
 ヒメが幼馴染である彼女、中秋(なかあき) 紫苑(しおん)を好きになってしまった理由はよくわかりません。正直なところ、今までに恋をしたことがなかったわけではないのですが、その相手はみな男の子だったので、どうしてシオンちゃんのことが好きになってしまったのかヒメ自身にもわからないのです。
 それにこの好きという気持ちは、幼い頃抱いていた好きという気持ちとは少し違うものでもありました。気がつけばシオンちゃんのことをいつも考えているし、挨拶や軽いやり取りを交わす時には胸が張り裂けそうなくらい鼓動してしまうのです。他の子とシオンちゃんが笑いながら楽しそうに話していると、胸が締め付けられてとても切なくなるのです。一緒にいたいという思いは今もかつても変わりませんが、こんな風にヒメ自身が強く意識してしまうほど恋焦がれているのは今までにないことだったので、内心とても驚いています。
 教室で再会した時、シオンちゃんは昔と比べるとずいぶん背も伸びていて、体つきや立ち振る舞いも毅然とした大人の女性へと成長していました。長くしていた黒い髪はショートになっていて、昔からシオンちゃんが愛用している――彼女の名前の由来にもなっている、薄紫色の花弁と中心に密集している黄色い蕊が特徴的な――紫苑の髪飾りが、とても似合っています。
 小さい頃はとても活発で、ヒメはそんなシオンちゃんに振り回されてばかりでしたが、今では男の子達共に野原を駆け回っていた面影はなく、どちらかと言えばお淑やかな雰囲気を纏っているので、和室で茶道を嗜む方がしっくりくるかもしれません。もちろん、それはあくまでヒメの勝手なイメージに過ぎませんし、実際にはというと、シオンちゃんは入部したバスケ部でいわゆる期待の新人エースと囁かれているそうで、また体育でもその類まれな運動神経を披露して他の女子を驚かせており、今なお活発的です。
 入学して間もない時期に行われた学力テストでは学年トップになっており、シオンちゃんの名前を目にした人も多いことでしょう。遠目からでも美しさが際立った顔立ちをしており、また学校生活において学業に望む彼女のクールでお淑やかな性格と、部活動をしている時の凛々しく精悍な姿とのギャップもあってか、シオンちゃんの周りには自然と人が集まってきました。同い年であるのにも関わらず、周りとは一線を画して成り遂げていたシオンちゃんは、男子ばかりでなく女子にも人気があり、ヒメ自身気後れしてしまうくらい魅力的な女の子でした。
 ヒメがシオンちゃんの変わりように惹かれたのは紛れもない事実でしたが、本当にそれが恋の理由なのかどうか、はっきりとはわかりませんでした。理由もわからないまま好きになってしまったというのは、おかしな話かもしれません。相手に対して失礼だと指摘されれば返す言葉もございません。実際のところ、ヒメ自身、シオンちゃんに対して失礼ではないかと負い目を感じています。けれど、そう思っている一方で、ひょっとしたら理由に拘る必要はないのかもしれないとも思っていたりするのです。
 「恋は病」なんてフレーズをよく耳にしますが、ヒメもその言葉に賛同するうちの一人です。誰も好んで病気になるわけではありません。恋もそうなのです。恋も病気も自分から「する」ものではなく、恋は「してしまう」ものなのです。そして気がついた時には、もう進行中なのです。
 恋するって本当に不思議なことですよね。自分が思っている、あるいは自覚している以上に、相手へ強く惹かれていることだってあるのですから。ヒメは好きという感情について、どこらへんまでが愛でどこからが欲求なのか、その辺りの線引きをするのがとても難しくて、シオンちゃんのことが本来異性に対して抱くのと同じような意味合いで好きであると、そう気がつくことだけで精一杯でした。
 でもそれはきっと他の人達にも当てはまることだと思うのです。恋はいつの間にかしてしまうものですし、その恋が愛情のような理性的なものから生じるものなのか、はたまた性的な欲求のような欲望的なものから生じるものなのか、その線引きをすることは誰しも容易ではないことのように思えます。相手を好きである一方で、その好きな気持ちがどのようなものなのか自分自身でもよくわからないことがあるのですし、だからもしかすると、好きな理由というものはよくわからないものをうまく説明するための、いわゆる後付けのようなものかもしれません。
 恋は恋なのです。好きになってしまったのだからしょうがないのです。ヒメがシオンちゃんを好きなのは紛れもない事実なのです。嘘でもまやかしでもなく、勘違いでも思い違いでもありません。ヒメはシオンちゃんのことが好きなのです。
 ……けれど、ヒメにはわかっていました。この恋は間違っているのだと。決して報われることのないものであるということを。
 女の子に恋をしてしまったなんて誰にも言えないのです。クラスの子たちは異性の相手との恋に初々しくも耳を傾け、時に赤裸々に語り、夢に焦がれています。恋は恋でも、それが同性に向けられたものであると彼らが知ったら、きっとヒメを腫れ物のように扱うことでしょう。残酷な言葉を投げつけられ、影から蔑まれ、口も聞いてくれなくなるでしょう。
 シオンちゃんにだって、ヒメの気持ちを告げるわけにはいきません。幼馴染としての、そして友達としてのかつての思い出すら忘れられているのです。高校生活の中で特別な友達関係でもない、ただのクラスメイトであるヒメが思いを伝えたところで、一体何になるのでしょうか。拒絶されるのだけでも辛いのに、挨拶を交わすことや話をすることも避けられるようになってしまうかもしれません。恋愛にまつわる話は特に伝達が早いので、より多くの生徒たちにヒメの思いが晒されることになって、今あるわずかな関係すら破綻しかねない状況に追い込まれる可能性だってあるのです。
 でもヒメには、ひとつだけわからないことがありました。彼らの夢馳せている恋とヒメが抱いている恋に、どんな違いがあるのかわからないのです。人を好きになるそれだけのことに、なぜこのような差や偏見が生まれてしまうのでしょうか。
 考えても、その疑問の答えを導き出すことはできませんでした。もしかしたら、ヒメは答えにたどり着くことができないのかもしれません。きっとその資格がないのでしょう。だってヒメは、シオンちゃんに思いを伝えようと何か努力をするわけでもなく、ただ教室の隅からシオンちゃんの後ろ姿を眺めているだけでよかったのですから。
 ――ねぇ、姫金。ちゃんと聞いてる?
「う、うん。聞いてるよ。それでなんの話だっけ?」
 ――もう、やっぱり聞いてないじゃん。
 ――姫金はいつもこうだよねぇ~。またシオンのこと見てたの?
 突然の指摘に、ヒメは胸を鷲掴みにされた気分でした。体中の毛が逆立ち、体中の血液がその速さを増していくのを体感しながら、返す言葉を模索します。
「そんなことないと思うよ」
 ――うそ。目が泳いでるよ。
 ――姫金は嘘つくのが下手だよねぇー。
 ――授業中いつも見てるでしょ。知ってるよ~。
 クラスメイトの友達から言葉が投げかけられる度に、ヒメは彼らに衣服を脱がされ、教室中に裸を晒しているような気分になりました。どうすることもできないまま赤裸々にされたヒメは、言葉を返そうにも紡ぐ言葉が出てこなくて、金魚のように虚しく口を開閉させてしまいます。
 ――それで実際のところどうなの?
 その問いは、露わにされているヒメを陵辱するが如く、羞恥心を恐怖へと移り変えるのに十分なものでありました。女の子を好きという気持ちを、暴かれたも同然だったのです。
 ――シオンのことが好きなの?
 核心を突く問いが、一際大きく聞こえます。もうどうすることもできないのは明白でありました。穴があったら入りたい、いっそのこと本当に陵辱されていたならどれだけよかったことでしょうか。身体が犯されようとも、心まで奪われることはないのです。けれど、秘めていた恋心を知られてしまったら、ヒメは一体どうしたらいいのでしょう。彼らの問いになんと答えたらいいのでしょう。
 開きかけた口から喉のところまで言葉が出かかっているのに、それ以上は声にすらならなくて、もがきながら虚しく何かを訴えかけているようにしかなりませんでした。頭の中で気持ちや考えがまとまっているわけではないのに、あともう少しのところまでその問いに対する答えが出かかっている気がするのです。でも、その言おうとしている答えが確かな本心なのか、それともその場しのぎの嘘なのか、それすらヒメ自身がわからないほど曖昧模糊で、ふと手を伸ばしてしまえば透き通ってそのまま消えてしまいそうなくらい、朧げなものだったのです。
 どうしてなのでしょう。ヒメは問いの答えを口にすることができませんでした。
 開きかけている唇はそれ以上動かなくて、呼吸することはできるのに声を発せられなくて、でもそれがヒメの思考が揺らいでいるせいなのか、それとも無意識によるものなのか、はたまた魔法のような外部的なものなのかどうかもわからないほど、思うように言うことを聞いてくれなくて、ヒメは混乱していました。
 ――ねぇ、本当はもう気がついているんでしょ?
 誰かが言ったその一言。けれど誰が言ったのかはわかりません。
 その言葉はとても澄み切っていて、水面に立つ波紋のように虚空へと響き渡っていきました。様々な会話が飛び交ってざわついていた教室は音を失い、机と椅子だけが置かれているだけの空間が目の前に広がってしました。まるで初めから誰もいなかったかのように、です。
 本当にそう? いいえ、たぶんその表現は適切ではありませんね。初めから誰もいなかったのです。きっとそういうことなのでしょう。
 カァー。
 静止したかのような教室の空間へ、鋭い鳴き声が響き渡りました。あまりにも突然のことだったので、思わず声を上げてしまいそうでした。先程問い詰められていた時とは比較にならないほどで、全身の毛が逆立ち、肌から嫌な汗が滲み出てくるのが分かりました。心臓は音が聞こえてくるほど鼓動します。声の主はヒメをじっと見つめているのでしょう。窓の方から視線を感じました。
 恐る恐る振り向きます。グラウンドと町が一望できる、その景色の中に黒い何かがいました。外からの逆光ではっきりとした姿が見えなかったので、目を凝らします。
 そこにいたのは一羽のカラスでした。
 とても大きなカラスです。黒く艶のある羽根を身に纏い、禍々しい爪と太い脚でベランダの手すりのところに立っていました。ペンチのような幅と硬さを連想させる黒い嘴は、光が反射して鋭利な刃物のようにも見えます。盛り上がった額が特徴的で、黒い眼はあらゆることを洞察し見抜いているかのように澄んでいました。ヒメはカラスを間近で見たことがなかったので、こんなに恐ろしくて不気味な生き物だったとは思いませんでした。
 カラスは時々首を傾げながら、ヒメを睨み付けているかのように見つめていました。窓越しに空間が隔たれているので教室に入ってくることはないと思われますが、硬質で鋭い嘴を使ってガラスを割り、襲い掛かってくる気がしてなりませんでした。カラスの迫力に圧倒され、臆病風に吹かれていたのでしょう。でも、そのカラスは獲物を狙っているかのように、ずっとヒメのことを視界に捕えていたのです。
 カラスは知能が高い動物だと聞いています。胡桃を道路に置き、そこを通る車で割って食べたり、小枝を加工し、道具として使用したりするそうです。時に人が驚くような行動をやってのける生き物なのですから、ヒメはその妄想染みた不安を完全に拭い去ることはできませんでした。
 ヒメは怖くなって、カラスから目を逸らそうとしました。けれど、その不気味なほど澄み切った黒く小さな眼はヒメの心の奥まで見透かしているようで、ずっと見ていてはいけないはずなのに、まるで魅せられているかのような感覚に囚われ、気がつけば身体を思うように動かすことも視線を外すこともできなくなっていたのです。ぼんやりと意識だけが空中に浮遊しているようでした。
 ヒメは自身の置かれている状況がわからなくて、恐ろしくて涙が込み上げてきました。なぜなのかはわかりませんが、その黒いカラスがとても恐ろしいもののように思えました。カラスがカラスでないような気さえして、ヒメはもう恐怖で気が気でなかったのです。
 カァー。
 カラスはもう一度鋭く鳴きます。ヒメ以外誰もない教室へ鳴き声は響きます。やがてそれは虚空の彼方へと溶けて消え、あたかも夢幻であったかのように空間は音を無くのです。
 再び訪れる、あらゆるものが静止したかのような教室。けれど、今度は違いました。ドアのところに誰かいます。ゆっくりとこちらに近づいてくる足音が聞こえてきました。でも不思議なことに、ヒメは怖くありませんでした。姿は見えなくても誰なのかわかっていたのです。
「どうしたの? ヒメ」
 声を聞いて確信しました。ヒメのことをヒメと呼んでくれる人は他にいないのですから。
「シオンちゃん」
 ヒメも昔からの呼び名で彼女を呼びます。久しぶりにその名を口にした気がしました。思えば高校生活の中で、シオンちゃんと話をする僅かな機会には「さん」付けで呼んでいましたね。こうしてまた昔みたいに互いの名を口にする時が来るなんて夢のようでした。
 ヒメは思わず振り返りました。同じ高校の制服を身に纏い、昔の面影を残したまま美しく成長したシオンちゃんがそこに立っていました。ヒメがよく目で追っているシオンちゃんでした。嬉しくて、ヒメはそのままシオンちゃんに抱きつきました。さっきまで動けなかったことがまるで嘘であるかのように、身体は自由になっていました。
「どうしたの、急に。ひょっとして私、ヒメに何かした?」
「うんうん、違うの。怖かったの」
「怖かった?」
 シオンちゃんに尋ねられて、ヒメはカラスの迫力にあてられ怖気づいていたことを思い返す内に恥ずかしくなってしまい、それ以上何と返したらいいのかわからなくなりました。
「変なヒメ」
 シオンちゃんはヒメの頭を撫でながら微笑みます。
「カラスがそんなに怖かったの?」
「な、なんでわかったの!」
「ヒメのことなら何でもわかるよ。だって、ヒメって本当に素直だもの」
「それって単純でわかりやすいってことだよね?」
「でも私はそんなヒメが好き」
 好きと言われて、胸を中心に体中が熱くなって来るのがわかりました。傍から見れば、たぶん顔は真っ赤になっていることでしょう。シオンちゃんにそう言ってもらえただけで、ヒメはもうどうにかなってしまいそうでした。
「大丈夫よ。カラスは教室の中までは入ってこないわ」
 シオンちゃんの凛とした声は不思議と心地よくて、ヒメの心の弱さが生んだ不安を和らげていきます。恐る恐る振り向いて窓を見ると、そこにいたカラスは先程よりも幾分か小さく見えました。さっきまでヒメは一体何を恐れていたのでしょう。何も恐れることはなかったのかもしれません。
「ね。大丈夫でしょ」
 シオンちゃんはカラスを見つめながらヒメに囁きかけます。耳にかかる吐息がこそばゆく、優しい微笑みはヒメの心を揺らします。言葉をすぐに出せなくて、頷くのがやっとでした。
 カァー。
 再びカラスは鳴きます。大きな口を開けて、叫ぶように鋭く鳴きます。けれど、もうヒメは怖くありません。
 ヒメとシオンちゃんだけの教室はカラスの甲高い鳴き声だけが異様に響きます。それだけがそぐわないのです。
「ねぇ、ここじゃない別の場所に行ってみない?」
「別の場所?」
「そう。ヒメが行ってみたい場所。そこにヒメと私、二人だけで行くの」
 ――素敵でしょ、とシオンちゃんは囁きます。ヒメの手を掴んで引き寄せます。シオンちゃんは一回り背が高いのでヒメは見上げなければいけないのですが、彼女との距離はこれ以上にないほど近くて、耳をすませば互いの心臓の音が聞こえてきそうなくらい身体は密着していました。
「ヒメはどこへ行きたいの?」
 その質問は思い出の中にあるかつての記憶を呼び覚まします。子供の頃、集団の輪の中に馴染めなくて溢れてしまったヒメに手を差し伸べてくれたシオンちゃん。ヒメを喜ばすためか、あなたはいつもどこかへと連れて行ってくれました。こうして手を握りながら、あなたはいつも同じ質問をしながら微笑み、そしてヒメが行きたい場所へと連れて行ってくれるのです。
「お城に行きたい」
 決まってヒメはそう答えます。昔と同じように答えるのです。
「ここじゃない、もっと素敵な場所。他の人が誰もいない、そんな場所に、シオンちゃんと行きたい」
 シオンちゃん、あなたが「ヒメ」と呼んでくれたから、わたくしはこんなお姫様のようなわがままを言えるのですよ。
「ヒメを連れて行って」
 命令ではなく、それはお願いでありました。ヒメのわがままなお願いごとなのです。
「うん。私が連れて行ってあげる」
 シオンちゃんはヒメの手をしっかりと握ったまま、引いてくれます。
 ――走って。
 シオンちゃんに導かれるまま、ヒメは教室を出てどこまでも真っ直ぐな道が続く廊下へ出ました。走るのがとても苦手なヒメは気が遠くなりそうでしたが、不思議なことに駆ける足は疲弊することもなければ、息も切れることもありません。いつまでも走っていられるような気さえするのです。
 シオンちゃんはどこへ連れて行ってくれるのでしょう。思えば、いつもシオンちゃんはヒメが喜ぶような素敵な場所へ連れて行ってくれました。若草が生い茂る川原や高台にある広場、町を一望できる山の中腹や様々な生き物たちが住む小川、見上げるような建物に囲まれた空地や廃墟となった建物、そして森の中の秘密基地、どれもヒメにとっては初めてで見るものすべてが新鮮でした。
 シオンちゃんが転校してしまった後、ヒメは今まで行った場所へ一度だけ訪れたことがあるのですよ。あなたとの思い出に浸りたくて。けれど、どの場所も同じ場所のはずなのに、なぜかまったく違う場所であるかのような気がしたのです。
 その時になってようやくヒメは気がつきました。それもこれもあなたが一緒にいてくれたから、ヒメは笑って、楽しくて、嬉しかったのです。あなたはヒメの行きたい場所へ連れて行ってあげると言いますが、ヒメはシオンちゃん、あなたと一緒ならどこへ行っても構わないのですよ。知っていましたか。
 気がつけばヒメは、見知らぬ西洋風の廊下を走っていました。床は、黒と白二色の正方形の石マスが交互に並んでいて、チェス盤を連想とさせる模様になっています。ステンドグラスは太陽の光を受けて床を色鮮やかに装飾しており、石造りの建物は思わずずっと見上げてしまうほど天井が高く、まるでどこかの教会を駆け抜けているかのようでした。廊下の脇道の両サイドには、赤と黄色がメインの制服を着こんだ兵隊の人形が、所狭しと並び立っています。不思議なことにその人形はどれも歯がむき出しで、中には大きく口を開けているものもいました。人形は整列したまま動きません。
「もうすぐだよ」
 シオンちゃんに連れられ、廊下をひたすら走っていく内に目の前に大きくて高い扉が現れますが、近づくにつれて扉はゆっくりと開いていきます。漏れる光が眩しくて、ヒメは目を閉じます。シオンちゃんの手を少しだけ強く握りしめました。
「着いたよ」
 シオンちゃんが立ち止ったのか、ヒメは急に止まることができなくて、そのままシオンちゃんの胸にうずくまってしまいました。
「大丈夫?」
「う、うん。大丈夫だよ」
 シオンちゃんを見上げて返事をします。そしてヒメはその後ろに広がる景色を視界に捉えました。
 石造りの手すりの向こう側には、何処までも続くかのような緑の地平線と広大な海のような青い空、そして放射状に同じ形をしたいくつものの建物が立ち並び、ドイツのネルドリンゲンを彷彿とさせる町が広がっていました。太陽の日が照り、さながらその風景は精巧な一枚の写真のようです。
 目の前の現実離れした風景は、思わずそうして見つめてしまうほど美しいものでした。小鳥のさえずりが風に運ばれて遠くから聞こえてきます。川のせせらぎや生き物たちの営みも耳をすませば聞こえる気がしました。
「後ろを見てみて」
 シオンちゃんは嬉しそうに微笑みます。ヒメは後ろを振り返ります。
 そこには先程の大きな扉と、見上げてしまうほど高く聳え立つ西洋のお城がありました。長年、心のどこかに抱いていた憧れという名の夢が、今目の前に確かな形として存在していました。
 ヒメにとってお城は、現実とは違う素敵な場所であり、そして他の人が誰もいない場所の代名詞でありました。嫌なことや(しがらみ)、孤独、そういったものから身を守るための城なのです。ヒメが今立っている場所はどうやらお城の一角にある高台のようでした。
「本当にお城に来ちゃった」
 気分が高揚しているのでしょうか、胸が張り裂けてしまいそうでした。今一度シオンちゃんの方へ身体を向けると、シオンちゃんは高校の制服ではなく、煌びやかな装飾が施された衣装と赤いマントを身に着けていて、その姿はまるで王子様でした。立ち振る舞いから雰囲気まですべてが似合っていて、ヒメは呆気にとられていた一方で見蕩れてもいました。
 シオンちゃんは大理石の床に足を下ろし、握っていたヒメの手を引いて、その甲にそっとキスをします。されるがままにされてしまい、ヒメは体中が熱くなりました。そしてヒメは、自分が鮮やかで薄紫色のドレスを身に纏っていることに気がつきます。裾が長くて、薄紫の明暗が施されているドレスは、まるで一輪の花のようでした。
「気に入ってくれた?」
「うん。とっても」
 しゃがみこんでいるシオンちゃんの頬を、そして髪をなぞるように撫でます。かつての時間を取り戻し、そして欠落してしまった時間を埋めるために、ヒメはシオンちゃんにもっと触れていたく思いました。できるだけ長く、こうして一緒にいたいと思ったのです。
「シオンちゃん、お願いがあるの」
「どうしたの? 急に改まって」
「ヒメ、シオンちゃんともっと一緒にいたいの。昔みたいに話をしたり、遊んだり、同じものを見て一緒に笑いたい。一緒に学校へ行ったり、休み時間に雑談したりしたいの」
 話している内に、ヒメは自分が何を言っているのかよくわからなくなってしまいました。それでもヒメは続けます。
「ヒメはシオンちゃんみたいに何か目立つようなものがあるわけでも、秀でているものがあるわけでもないし、シオンちゃんにどんなことをしてあげられるかもわからない。不釣り合いだってことはわかってる。けれど、それでもヒメはシオンちゃんの側にいたいの。辛いことや悲しいことがあってもシオンちゃんと一緒に乗り越えていきたいの。だから、お願い、」
 これではまるでシオンちゃんに告白しているみたいです。でも、溢れ出てくる思いを身の内に留めることはできなくて、ヒメは正直に告げるのです。自分の中で根を生やして今なお育つ恋心をシオンちゃんに伝えるのです。
「ヒメを、もっと色んな場所へ連れて行ってください」
 気がつくと涙が頬を濡らしていました。雫はドレスの裾に水玉の模様をつけていきます。
 なんでヒメは泣いているのでしょう。それがわからなくて、そして泣いていることを隠そうと手で拭っているのに涙が止まらなくて、胸が張り裂けそうなくらい痛みました。どうしてこんなにも悲しいのでしょう。ちゃんと思いを伝えたはずなのに。
 声を上げて泣き出しかけていたその時でした。シオンちゃんはヒメを包み込むように抱きしめてきました。そうしていることがとても嬉しくて、今のこの時が幸せで、そしてそう思う度に胸の奥の痛みが増していくのです。
「大丈夫だよ、ヒメ。大丈夫」
 シオンちゃんが耳元で囁きます。その声を聞いていると、高ぶっていた痛みが徐々に引いてくる気がしました。
「怖い夢を見ているのよ」
「怖い……夢?」
「そう。怖い夢よ。けど、それは夢だから現実とは違うの。だから大丈夫よ。深く考えてはいけないわ。ヒメ、あなたは理由がわからないことで苦しんだり、悲しんだりする必要はないのよ。あなたは大丈夫。私がいるから何も恐れることはないわ」
 ――大丈夫。シオンちゃんは何度も言い聞かせます。ヒメはそうしてシオンちゃんと抱き合っているうちに、徐々に落ち着きを取り戻しつつありました。
「ごめんね、シオンちゃん。急に泣き出したりして」
「ヒメは小さい頃から泣き虫だからね」
 そう言ってシオンちゃんは屈託のない笑顔を浮かべます。紫苑の花の髪飾りをつけているシオンちゃんは、思い出の記憶の中のシオンちゃんと姿が重なります。シオンちゃんも小さい頃から変わりないのです。
「大丈夫。私がヒメを連れて行ってあげるわ」
 ヒメの手をぎゅっと握ってシオンちゃんは言います。「うん」と一言だけ答えました。それ以上の言葉は必要ありませんでした。
「転ばないように気をつけてね。それじゃ行くよ」
 私の手を引いてシオンちゃんは掛けていきます。履き慣れない靴にこれまた履き慣れないドレスを身に着けていましたが、走ることを躊躇したりはしませんでした。ヒメには手を握って導いてくれるシオンちゃんがいるのですから、もう何も恐れることはありません。ヒメはあなたがいればどんなところにだって行けるのですから。
 元来た道を辿るように、大理石でできたチェス盤のような西洋風の廊下をかけ進んでいると、道の真ん中に人影がありました。シオンちゃんはいち早くその存在に気がつき、手前で速度を落としてゆっくりと近づきます。シオンちゃんは手を握ったまま、ヒメを自身のその後ろへ隠そうとしてくれました。ヒメは顔を少し覗かせて、その人影を目視します。
 そこにいたのは黒い和服を身に纏った美しい女の子でした。着物から覗かせる白色の肌は大理石の色よりもいっそう白く、繊細で、華奢な身体つきは見る者を魅入らすかのような妖艶さを彷彿とさせていました。濡れ羽色の長い髪はステンドガラスを通した光を吸い込み、艶かしくも濃い黒を映していました。耳元の髪には、花弁の先端にある緑色の模様が特徴的な小さな白い花の飾りが付けられていて、少女が動く度に揺ら揺らと靡きます。
 整った顔立ちは一目で美形とわかるくらいバランスが保たれていましたが、表情のないその顔はとても無機質的で虚ろさが際立っており、人形のようでもありました。正直に申しあげるなら、ヒメは最初、等身大の日本人形が動いているのかと思ってしまいました。
 その少女は、廊下の脇道の両サイドにあった兵隊の人形を無造作に積み重ねた山の中に座っていたのですから、より人形のように見えてしまったのです。彼女は兵隊の人形を不思議そうに見つめています。彼女が手で人形の後ろにあるレバーを動かすと、兵隊はむき出しの口をカチカチと開閉させました。
「誰なの? どうしてここへ?」
 シオンちゃんは声のトーンを低くして問いかけます。少女に向けている目つきが怖くて、私はシオンちゃんの手を強く握りました。
 問いかけられた少女はゆっくりとこちらを向きます。表情は依然として変わりません。何を見てどんなことを思っているのかも、ヒメにはまったくわかりませんでした。少女は淡い色をした口を微かに動かします。
「ねぇ、あなたは彼女をどこへ連れて行くつもりなの?」
 鈴のように凛とした声が空間の中を響きます。よく耳を澄ましていなければ音を見失ってしまうくらい儚く淡い声でした。
「ヒメ、耳を貸しちゃ駄目だよ」
 シオンちゃんは頼もしくヒメに囁きます。
「何者だかしらないけど、ヒメに手を出すなら容赦はしないよ」
「私は迷い子を助けに来ただけ」
 少女は人形の山の上に立ち上がり、こちらに手を差し伸べます。「彼女から離れて」
「そうはさせない!」
 シオンちゃんは腰につけていた剣を抜き、和服の少女へと向けます。ヒメの前に立ち、彼女と対峙します。ヒメはもう何が起きているのかわからなくて、その様子をただ見ていることしかできませんでした。
「さっさと私達の前から消えなさい。さもなくば、容赦なく切り捨てる!」
 声を上げてシオンちゃんは剣を突き立てます。けれども少女は動じません。私はそんなシオンちゃんを見ているうちに、様子がおかしいことに気がつき始めました。
「シオンちゃん、どうしちゃったの? なんだか変だよ」
「ヒメ、まさかあの子が普通の女の子だと思ってない?」
 そう指摘されて、ヒメはもう一度少女を見ます。表情ひとつ浮かばない虚ろな顔、この世のものとは思えないほど白く透き通った肌、そしてありとあらゆるものを全て見透かしているかのように澄み切った目、彼女をよく見れば見るほどその異質な存在感を目の当たりにしました。
「何かおかしいとは思うけど、剣を持ち出さなくても」
「彼女が何者かはわからない。でも、ヒメを狙っているのは確かよ」
 シオンちゃんは少女の方へと向き直ります。
「ヒメを素敵な場所へ連れて行ってあげるって約束したんだから、少しは私に守らせてよ」
 こんな状況にも関わらず、ヒメはそんなシオンちゃんにときめいてしまいました。ヒメの思いはシオンちゃんに伝わっていたと、はっきりわかったのですから。
「あなたは彼女をどこへ連れて行くつもりなの?」
「ここから立ち去れ。私達の邪魔をするな」
「あなたは彼女と一緒に居て良い存在ではないわ。離れて」
 少女の声は冷気のように空気へ溶け込み、ゆらゆらと降る粉雪のように響きます。不思議な力があるかのように、聞く者の心を揺らめかせるのです。
「黙りなさい! 世迷言を吹き込もうとしても無駄よ」
 今度はシオンちゃんが一蹴します。シオンちゃんは声を鬼にして少女へ叫びます。
「大丈夫だよ、ヒメ。私が指ひとつ触れさせない」
 シオンちゃんは振り返ってそれだけ伝えると、人形の山に聳え立つ少女へと剣を振りかざし駆け出します。
「ダメ、シオンちゃん! その人死んじゃう」
 いくら守るためと言っても、シオンちゃんに罪を背負わしたくなかったヒメは声を張り上げて止めようとしますが、投げされた賽をどうにかすることはもうできませんでした。少女の頭上に剣が振り下ろされます。ヒメは目と耳を塞いでただ叫びました。
 その瞬間、辺りに金属同士がぶつかり合った音が響き渡ります。あまりにも大きな音に、ヒメは恐る恐る顔を上げてシオンちゃんと少女の方を見ました。
「そんな……」
 それはシオンちゃんの震えた声です。驚愕の眼差しは振り下ろした剣を受け止めたものへと注がれていました。
 少女の手に握られていたものは、彼女の背と同じくらいの大きさを有する大鎌でした。刃以外の取っ手の部分は黒く汚れた包帯で包まれ、刃は使い込まれているのか表面には薄らとしたシミがあり、異様なほど禍々しく見えます。
「私は迷い子を助けに来たの。邪魔をしないで」
 少女の声は透き通るように広がって、やがて消えてゆきます。
「あなた、本当はもう気がついているんでしょ?」
 訴えかけるかのように少女は告げました。
 シオンちゃんは剣を打ち終えたあと、数歩後ろに下がって体制を整えます。少女はそれまでの事の間、ほとんど身体を動かすことはありませんでした。
 大鎌を持った黒い和服の少女、それだけでヒメは彼女がどういった存在であるのか、瞬時に理解したと言っていいでしょう。人間の魂を狩る存在、「死神」という二文字が頭の中に浮かび上がってきました。
「まさかとは思ったけど、人ですらなかったなんてね」
 シオンちゃんが驚いていたのはそこまででした。道の脇に立っていた人形を一体掴むと、それを少女へめがけて投擲します。少女は大鎌を軽々と使いこなし、舞うように振り回して人形を弾きます。そして人形を弾いた瞬間、自分に向かって飛んでくる剣が視界に入ったことでしょう。シオンちゃんは人形を投げた後に、すぐさま自分の持っていた剣を次いで投擲していたのですから。
 シオンちゃんは剣を投げつけた勢いで、こちらに振り返ります。私の手を掴んで一言「走るぞ」と告げ、そのまま廊下を駆け抜けていきます。ヒメは目の前で何が起きていたのか最早頭の中で混沌としていて、シオンちゃんの後ろを転ばぬようについて行くのだけで精一杯でした。
 いくつもの廊下や扉を抜けていきます。あの少女が追ってくる気配はありませんでしたが、足を止めることはしません。迷宮のような道を虱潰しの如く駆け回ります。
 グラウンドの脇にある体育館へと続く廊下へ出ると、上履きであるのにも関わらず、シオンちゃんは校庭の中庭の方へとヒメを連れて行きます。いつの間にか、わたくし達の服は高校の制服になっていました。
 あたりを見渡して見ると、中庭は普段目にしている風景とはだいぶ違うものになっていることに気づきます。中庭には小さな池があってそこに金魚が住んでいたのですが、池がった場所はあの兵隊の人形が列をなして小隊を編成していました。池の傍に生えていたクヌギの木は名も知らぬ木に置き換わっていて、拳よりふた回りほど小さく、薄緑色をした果実を実らせていました。けれど、中庭にある小さな空き地の傍のベンチや木製の机は以前のままです。ふと、ベンチのひとつに視線が釘付けになります。
 そのベンチには兵隊の人形がひとつ置かれていて、その横で一羽の黒いカラスが薄緑色の果実を器用に突き、中からこげ茶色の大きな種を取り出していました。教室で見たカラスかどうかまではわかりませんが、初めて会った気はしませんでした。
 カラスはその大きくて表面がシワシワの種を嘴ではさみ、歯を剥き出しにしている人形の口の中へ種を入れたかと思えば、人形の後ろのレバーを引きます。すると人形の口が閉じた拍子に、種はパキッという音を立てながら割れました。カラスはそうして果実の種を、くるみを食べているのです。くるみ割り人形を使って、カラスはくるみを食べるのです。とてもおかしな光景でした。
 中庭を通り抜け、校舎の方に近づくにつれ、休み時間の生徒たちの姿が増えてきます。その中にはクラスメイトもいてシオンちゃんやヒメに声をかけてきます。
 ――シオン、姫金と授業サボってどこへ行っていたの。
 ――先生かなり怒ってたよ。2人とも後で職員室に来るようにだってさ。
 ――やったね、姫金。ついにシオンを落としたのね。
 ――ええっ。お二人はそういう関係でいらしたの。
 ――これは大ニュースですな。
 彼らに何か声をかける間もなく、わたくしたちは走り抜けていきます。一体どこへ向かっているのでしょう。シオンちゃんはヒメをどこへ連れて行ってくれるのでしょうか。
 いいえ、違いますね。もっと他に問わなければならないことがたくさんあるはずです。
「ここまで来れば、もう大丈夫そうね」
 シオンちゃんが立ち止まり、握っていたヒメの手を離します。ヒメはシオンちゃんと向き合いながら、数歩下がって距離を取りました。
 そして、ヒメは周り一面に薄紫色の花が咲き乱れていることに気がつきました。その花は、二枚の鮮やかで濃い紫色をした花弁が上向きになっており、残り三枚の淡く薄めの紫色をした花弁は垂れ下がるように下向きになっているのがとても特徴的で、遠くから見ると金魚のようにも見えました。茎先にいくつもの唇形の花を咲かせているので、さながらそれは金魚たちが泳いているかのようでした。
 夕日が傾き始める黄昏時、日の光で花は色合いを増しより、鮮やかに彩られます。淡い紫の平地はどこまでも続いていました。周りを見渡す限りそれ以外のものはありません。シオンちゃんとヒメしかいませんでした。
「ずいぶん遠くまで来ちゃったね。現実なのかどうかもわからないような所に」
「そうね。でも素敵な場所でしょ? ヒメはこれがなんの花だか知ってる?」
「わからない。わからないよ……。ヒメはいつから迷い込んでしまったの? 今日の朝家のベッドの上で起きた時から、今の今までずっと記憶は途切れることなく続いているのよ。どこからが現実でどこからがそうでないの? それともこれは全てヒメの夢なの? それともヒメの妄想? あなたは本当にシオンちゃん? 本当のシオンちゃんなら、ヒメとは挨拶をしたりするだけで、もうほとんど関わりがないはずなのよ。なら、あなたは誰なの? ヒメは本当にヒメ? 今ここにいるヒメは本物のヒメなの?」
 今の状況と今までの状況を考えようとすればするほど、様々な矛盾と疑問を口にすればするほど、ヒメは頭が痛みます。頭がおかしくなってしまいそうでした。
「この花はね、リナリアって名前なの。色合いや濃淡が繊細で、花びらも可愛らしい形をしているでしょ。本当に金魚みたいに見えるわよね。花言葉は『幻想』、『乱れる乙女心』、『断ち切れぬ想い』、そして『私の恋を知ってください』。ヒメにそっくりの花よね」
「わたしをその名前で呼ばないで。その呼び方をしていいのはシオンちゃんだけよ」
「あら、面白いことを言うのね。私もシオンよ。中秋 紫苑。あなたの幼馴染のシオンよ」
「世迷言はもういいの。あなたは一体何なの? あの少女は確かに言っていたわ。あなたはヒメをどこへ連れて行くつもりなのって。あなたはヒメと一緒に居て良い存在じゃないってことも言っていたはずよ。別にあなたをどうこうしようなんて思っていないわ。ただ、知っていることを教えてほしいの。答えてほしいだけなの。……それだけなのよ」
 ヒメにはどうしてもわからないことなのです。真っ直ぐな道を歩いていたはずなのに、いつの間にかその道はねじまがってしまって、歪なまま表と裏とがくっついてしまったのですから。例え元に戻すことができなかったとしても、ヒメは何がどうなってしまったのか知りたいのです。だからヒメは彼女に、シオンちゃんに問いかけるのです。
「ねぇ、ヒメ。本当はさ、もう全部気がついているんでしょ?」
 つぶやきかけるように、シオンちゃんはヒメではなく遠くの空を見つめているかのように言いました。その言葉はヒメの頭の中で幾度となく反復されます。
「どういうことなの?」
「それはヒメ、自分自身に問うべき問いよ。私や他の誰かに聞いているようでは、あなたはこの輪から抜け出すことはできないわ。くるみの殻を割ることができずにひたすら齧り続けることになるでしょうね」
 卑しくシオンちゃんは微笑みます。
「でも、あなたはここまで辿り着いた。ねじまがって、繋がらないもの同士が繋がってしまった輪の中で、あなたがここまで来ることができたのは、こうなってしまった原因が何なのか知っていたからよ。ヒメはとっくに気がついている。けれど、ずっと知らない振りをしているの。気がつかない振りをしていたのよ。そうしている内に振りをしていたことすら、忘れてしまったんだわ」
「ヒメがここへ来ることができたのは、シオンちゃんが連れて来てくれたからでしょ。シオンちゃんがヒメの手を導いてくれなかったら、もしヒメだけだったら絶対に来れないよ」
 そうして言葉を口にする中で矛盾と矛盾が相互に重なり合っていきます。ヒメがここへ来ることができたのはシオンちゃんのおかげだけれど、現実のシオンちゃんはヒメとは挨拶をしたりするだけで、もうほとんど関わりがないはずなのです。なら、なぜ今目の前にいるシオンちゃんは、私をここまで連れて来ることができたのでしょう。
「そんな嘘でしょ。あなたの存在も夢だっていうの? 全部ヒメの妄想だったの?」
「夢と妄想を混同してはいけないわ。妄想っていうのはね、あらゆる細部まであなた一人の意思で成り立っているものよ。妄想であると本人が認識しなくとも、そのシナリオを手がけているのは全部本人なの。自分の思い通りに、思い描くように、そして思うがままにここまで来れた? それは違うでしょ」
「夢だって、同じよ。夢を体感しているのは常に自分一人なんだから」
「そうね、確かにその通りだわ。でもね、夢は時として自分の意思とは関係のないことをされるがままにしていくものよ。本人の意識の中の一体どこから生じたのかも本人で認識することができないくらい、ひどく抽象的で曖昧なものなの。だから夢は見る者に本人が知らないような知識や発想を与えてくれるし、時として本人の何かを損なわせたり失してしまったりするのよ」
 ――まぁ、どちらも現実にはないことをあるかのように思い描いていて、現実には存在しないまぼろしに心が惑わされるって意味じゃ、ある意味『幻想』だよね。
 シオンちゃんが言い終えたちょうどその時、風が吹きつけてきました。風は一面に咲くリナリアの花から花びらを奪い、宙に舞い上げてゆきます。やがて風が弱くなり、自然の法則に従って落ちていく幾千もの花びらは、沈みかけた太陽の最後の光を浴びてより一層赤く彩り、雨のように降り注ぎました。
「もう、わかったでしょ。これが夢なのか妄想なのかは」
「ええ。でも、それなら現実は一体どこにあるの? 夢か妄想かの区別はついても、どこまでが現実でどこからが夢なのかわからないの」
「逆に聞くけれど、ヒメはそれでいいと思わないの?」
 シオンちゃんの口調は、今までで一番強く訴えかけている気がしました。
「現実はとても残酷なものよ。だから現実なのか夢なのか、区別のつけようがない輪の表面をずっと歩いていた方が、幸せなことだと思わない? ねぇ、ヒメ。あなたがお城に行きたいと言って、今でも焦がれている場所は、現実とは違ってもっと素敵な場所で他の人が誰もいない、そんな場所っていうのは、ここのことじゃないの?」
 ヒメは顔を上げて、視界に映る限りのもの全てを見ます。咲き乱れる乙女の恋を謳う花。沈みかけの夕日で茜色に染まる空はやがて星々が空一面に広がり、大宇宙の一片を覗かせるでしょう。黄昏に吹き込む風は花の雨を降らせています。そして、ヒメの目の前には大好きなあなたが佇んでいます。とても幻想的な光景でした。
「くるみ割り人形の御伽噺は知ってる?」
 いいえ、と一言だけヒメは答えます。
「あるところ女の子がいてね、その子はクリスマスプレゼントにくるみ割り人形を選ぶの。するとその夜、くるみ割り人形の所に鼠の王様たちが現れ戦争を始めるのだけれど、女の子のおかげで鼠の王様たちの迎撃に成功。でも女の子はその次の日に熱を出してしまい、そのせいで夢でも見たのだと言われて、話を聞く人誰にも信じてもらえなかったそうよ」
 シオンちゃんは物語を綴り始めます。
「そんなふてくされていた女の子のところに、プレゼントをくれたおじさんがお見舞いで訪れ、御伽噺として、鼠の王に呪いをかけられ醜いくるみ割り人形にされてしまった姫を若者が助け、身代わりとして自分が醜いくるみ割り人形にされてしまったという話をしたの。女の子はその話にめり込んでしまってね、話の中で身代わりとなった若者のくるみ割り人形を、自分が持っているくるみ割り人形と同視してしまった」
 初めて耳にするその物語をヒメは静かに聞きます。
「あくる夜、女の子はくるみ割り人形に武器を与えた。それを使ってくるみ割り人形は鼠の王様たちを倒し、そして女の子を自分の領土である人形の国に招待するのだけれど、女の子は気がつくと自分のベッドの上で目を覚ましたそうよ。人形の国の話をしてもやはり誰にも信じてもられなくて、やがて周りの人達のから冷たい扱いを受けても話続けるうちに、女の子はくるみ割り人形と人形の国の夢にひたる、空想好きな少女となってしまったの。けれどある日、女の子の目の前にくるみ割り人形の呪いが解けたと言う若い男が現れ、女の子は夢見ていたことが実現したと喜んで結婚。めでたし、めでたし、という話よ。
 夢と現実の世界がメビウスの輪のように、ねじまがって歪なまま表と裏とがくっついてしまう中、彼女は自分自身の夢に浸る内に焦がれていたものを手に入れるという、まさに自己完結された物語よ。彼女はそうして幸せを手に入れたの。夢という一つの願望を現実のものにしたのよ。さぁ、ヒメ。あなたはどうするの?」
 ――あなたは何を望むの?
 誘惑めいたシオンちゃんの声はヒメの心を妖しく揺れ動かします。
 ヒメが望んでいるもの。それは多分、シオンちゃんと一緒にいることです。もし現実の戻れるとするなら、そのシオンちゃんは、今日こうして長い冒険のような一時を経て私と思い出を共有するシオンちゃんでもなければ、かつての幼馴染としてのシオンちゃんでもないのでしょう。けれど、ねじまがって夢と現実の区別もつけられないこの場所なら、ヒメの夢はおそらく叶うのです。ヒメの報われることのない恋が成熟するのも約束されているのでしょう。きっとここがヒメの望んでいたお城なのかもしれません。
 でもヒメには一つわからないことがありました。だってヒメは、教室の後ろの席からシオンちゃんのことを見ているだけで、それだけでよかったのです。それ以上にあなたを求める必要が、果たしてヒメにあるのでしょうか。
 何を望み、何を夢見ていたのかを考え始めたその時、ヒメの頭に硬い何かが当たりました。あまりにも固くて、痛くて、ヒメは思わず涙が溢れてしまいます。足元に転がっていたのはくるみでした。次いで、ヒメが痛みで蹲っているすぐ横に、ガシャンという音を立てて何かが落下しました。涙を拭うと、そこには歯を剥き出しのまま口を開けている兵隊のくるみ割り人形が置いてありました。
 ヒメは空を見上げます。もう半分以上夜になってしまった空に、輪を描くように空中を飛ぶカラスが一羽いました。その姿が大鎌を振り回す黒い和服の少女と姿が重なります。
 どうしてなのでしょう。カラスも、あの死神と思われる少女も怖かったはずなのに、なぜだかわかりませんが今は心強く感じるのです。いいえ、ひょっとするともうなぜなのかわかっているかもしれませんね。これはきっと女の感というものなのですよ。ええ、そうです。非合理的で、どうしようもないようなヒメの妄想なのです。
 ヒメの手には、軽いのにとても硬いくるみとくるみ割り人形があります。これをどうすればいいのかはもうわかっていました。
「ねぇ、シオンちゃん。ヒメは確かにお城に行きたいと思っています。昔のことじゃなくて今でもそう思っているの。私はシオンちゃんと一緒に居たいし、きっと悲しいことだらけの現実よりも、こんな風に何かがねじまがっているメビウスの輪のような完結された場所の方が、幸せになれるのかもしれない。でも私はね、教室の後ろの席であなたを見ているだけで、たとえ昔みたいにお互いの名前を呼び合うことができなかったとしても、それだけで十分だったの。
 ……そう言い切っちゃたら、嘘になっちゃうのかな。こうして今あるこの場所が私の夢であるなら、きっとシオンちゃんと話をしたり、どこか素敵な場所へ連れていってもらったりすることも、私が望んでいたことだったのかもね。けど、それを叶える場所はここじゃないの。それはシオンちゃんの隣じゃないと叶えられないし、これからまた少しずつお互いのことを知っていく内に叶えられる願いなんだ。だからね、もうヒメは、わたしは、」
 大きく息を吸い込みます。くるみをくるみ割り人形の口に入れ、背中のレバーに手をかけます。この夢と現実との区別ができない場所はヒメの夢なのです。あらゆる現実から目を背け、逃げ場を求めていたヒメが作り上げたお城なのです。くるみのように固くて、素手じゃヒメ自身でも壊すことのできないメビウスの輪なのです。
「自分の恋心に迷ったりしない!」
 レバーを下げると、テコの原理で人形の口に挟まっていたくるみは、パキッという音を立てて割れました。
 リナリアの花が咲いていた風景はガラスのようにひび割れて、音もなく壊れてゆきます。光となって消えてゆきます。ヒメの夢の中のシオンちゃんも例外ではありません。体中に細かなひびが入りゆっくりと欠片を失っていきます。
 決して長かったわけではありませんでしたが、昔みたいにシオンちゃんと接していられた時間は、ヒメにとってたとえ自身が作り上げた夢だったとしても掛け替えのない一時だったのです。ヒメは溢れ出る涙が止まりません。そんなヒメを見て、夢の中のシオンちゃんはにっこりと、かつての面影を彷彿とさせる笑顔で見届けるものですから、ヒメは声を出して泣き始めました。
 涙を拭い去り、喉が震えながら、最後に一言「ありがとう」と言おうとしてもう一度シオンちゃんの方を見ました。けれど、すでに光の粒となって、彼女は跡形もなく消えていってしまっていました。

 視界が明るくなってきます。黒板にチョークを走らせる軽快な音が響き渡ります。古典の授業を受け持っているおじいさんの先生が生徒を指名し、ぎこちなく音読をするのが聞こえてきました。ヒメは授業中に居眠りでもしていたのでしょうか。いいえ、そんなわけありませんね。だって教室の一番後ろに立っていたのですから。
 それにちゃんとヒメの夢の中での出来事は覚えています。さながらそうなると、ここはどうやら現実の世界というわけですね。でもならどうしてヒメは教室の後ろに立っているのでしょうか。もう授業は始まっています。席に戻って授業を受けなければなりません。そして休み時間になったら、さっそくシオンちゃんのところに言って何気ない話をするのです。えーと、会話の内容はこの授業中にでも考えておきましょう。
 先生が板書し始めたタイミングを見計らって、歩き始めます。歩きながらふとシオンちゃんの席へ視線を移します。ショートヘアに、昔からつけている紫苑の花の髪飾りをつけている生徒は一目でわかりました。先程まで一緒にいたのに、なんだかもう何年も合っていないかのような気さえします。シオンちゃんの後ろ姿を眺めながら、ヒメは自分の机に座ろうとして、その場で凍りつきました。
「なんで……そんな……」
 目の前で何が起きているのかまったくわかりませんでした。どうしてヒメの机の上に花が入った花瓶が置かれているのでしょう。色とりどりの花の中にはリナリアの花も含まれています。これは一体なんのいたずらなのでしょうか。
「次のところはそうだなぁー、んじゃ、魚草さん、いってみよう」
 先生がヒメの名前を口にした時、教室の空気が明らかに異質なものへと変わったのがわかりました。
「うーん。魚草は今日欠席か」
 名簿表を見た古典の先生は、私の名前と机の位置を照らし合わせ、次第に顔が青ざめていきました。
「す、すいません。では、そうですね」
 先生が次に指したのは、ヒメのすぐ後ろの席の男の子です。席の隣にこうして立っているのにもかかわらず、先生は後ろの子を指名しました。これはもはや単なるイタズラでもなければイジメでもないことは明白でした。
「ヒメ、死んじゃったの?」
 口にしたら、それだけでとても恐ろしい事実でした。
「嘘よ、嘘よ。嘘! こんなの夢に決まっているわ。だってわたし、そしたら、そしたら……」
 ヒメは、いつ死んだの?
「ようやく気がついたのね」
 あの声が窓の方からしたので、ヒメは振り返ります。夢の中で、ちょうどカラスが座っていた位置の、ベランダの手すりの所にあの黒い着物を身に纏った少女が座っていました。
 彼女はベランダに着地して、そして窓と壁をすり抜けて教室の中へと入ってきました。その耳元に付けられた小さな白い花の飾りが、揺ら揺らと靡きます。
 突然のことに思わず後ずさりしてしまい、ヒメはその拍子に自身の足を絡ませて転倒してしまいます。けれどちっとも痛くありませんし、倒れざまに誰かを巻き込んでもないようでした。おかしいなと思いながら恐る恐る目を開けると、ヒメは自身の身に起きていることを悟らざるを得ませんでした。
 身体はクラスメイトや机や椅子などをすり抜けていて、床に叩きつけられたのはヒメだけでした。けれどヒメに痛みはありません。ありとあらゆる物理法則が適用されていないどころか、ヒメは物体に対して干渉することすらできませんでした。
「どうして? いつ死んだの? 夢が崩れる最後の瞬間? それとも」
 夢の中で少女が鎌を振っていた時? ヒメはあらゆる可能性を考えます。そうしなければ、冷静でいられそうにはありませんでした。
「あの場所へ迷い込んだ時には、あなたは既に死んでいたわ」
 少女の繊細な声が響きます。表情は夢の中と同じままでした。
「そんなわけないわ。だってヒメにはちゃんと記憶があるのよ。昨日だって、一昨日だって。これじゃ記憶と矛盾している。ヒメ、記憶力には自信があるの。何なら一ヶ月前からの記憶を順に上げてもいいわ」
「寝ている時の記憶もある?」
 少女の指摘で、ヒメはそれ以上言葉を返すことが来ませんでした。それだけではありません。人間の記憶というものは一貫して物事を全て記憶しているわけではなく、大抵の場合、その周りの風景だったり、写真などの形として一瞬を保存するものでなければ確認できないような細部だったりは、意識的に記憶しようとしない限り、脳内に記憶される際余分なものとして取り除かれたり、あるいはあやふやなものとして記憶されてしまうのです。
「それじゃヒメ、知らない内に死んじゃったの?」
「おそらく。私はあなたの死に際に立ち会っていないから、最期を見届けていないの」
 彼女は依然として表情を変えませんでしたが、「ごめんなさい」と一言謝りました。謝られてもヒメは困るのです。だってもう死んでいるのですから。
「それならなんでヒメはあの場所へ行ったの? あそこはもう最初からヒメの夢だったんでしょ。死んだら人は夢を見るの?」
「死んだ人間は夢を見ないわ」
 少女はきっぱりと答えます。それがこの世の真理であるかのように。
「けれど死んだことに気がつかない人間は生と死の狭間を彷徨う中で、自身の夢を作るの。そうしてあたかも生きているかのように偽る。放っておくと、いずれ害を織り成す存在となるわ」
 あなたみたいにね、と彼女は最後に付け加えます。
「害を織り成すって、私が悪霊になりかけていたみたいな口ぶりじゃない」
「なりかけていたわ。あなたが悪霊と呼んでいる存在に」
 少女は続けます。「夢の中で警告したわ。もっとも、夢の中であなたからどう見えていたのかまではわからないけれど」
「化け物みたいなカラスだったわよ、確か」
 意地悪なことを言ったつもりでしたが、少女は無表情のまま首をかしげていました。本当に何を考えているのか、ヒメには想像することができませんでした。
 シオンちゃんに向けていたと思っていた少女の言葉が、全部ヒメに対して向けられていたと知らされて、ヒメはできる限り、夢であった出来事を思い返しました。
「でも、シオンちゃんはヒメの夢の中の存在のはずなのに、どうして私からシオンちゃんを離そうとしたの?」
「あの場所にいた中秋紫苑は、あなたが作り出した夢の中の存在。けれどあなたは死んでいることに気がついていなかったから、無意識に彼女を死へと引き寄せていたの」
 それを聞いて私は、自分の死を悟った時よりも恐ろしいものに身を囚われた気がしました。
「もし、あのままあの場所に残っていたら、現実のシオンちゃんは……」
「近いうちに亡くなっていたでしょうね」
 それを聞いてヒメは、自分が取り返しのつかないことを仕出かそうとしていたことに、罪の意識を感じました。たとえそれが意思とは無関係であったとしても、自分勝手な夢が原因でシオンちゃんを危険な目に合わせていたのですから。そう考えるたびに、申し訳なくて涙が溢れてきました。
「死んだことに気がつかないまま生と死の狭間、夢と現実の境界を彷徨っている者は、決して少なくない」
 少女は続けます。
「死んだことを認めたくない。だから死を偽ろうと、彼らは夢を見る」
 彼女の言う通りなのかもしれません。だって未だにヒメは、自分が死んでいることが信じられないのですから。
 心のどこかで、死を納得できないという思いがあったのでしょう。死んだとわかっていても、それに気がつかないふりをして、いつの間にかそのことすらも忘れてしまったに違いありません。
「けれど夢であるから、すべてを偽ることはできない。自分自身に対してもそう。やがて死を認めようとする意識が働く。あなたの場合、それが中秋紫苑だった」
 それを聞いてヒメの中で何かが合致しました。夢の中でシオンちゃんと出会ってから最後に消えていくまでの間、シオンちゃんがヒメをいろいろな場所へと連れて行ってくれたのは、ヒメがもう死んでしまっていることを悟らせるためだったのではないかと。リナリアが咲き乱れるあのお花畑で、シオンちゃんがヒメに選択を迫ってきたのは、ヒメが自分の見ている夢から目覚めるための後押しであったのではないかと。
 そう思う度に、涙は次々と頬を伝い流れていきます。あのシオンちゃんはヒメの夢が作ったシオンちゃんで、こうして教室で授業を受けているシオンちゃんとは別のシオンちゃんです。それでもシオンちゃん、あなたは夢の中でも私のことを、ずっと支えてくれていたのですね。
 どうしてでしょう。涙が止まりません。この涙は夢の中のシオンちゃんに対する涙です。自己完結がなされている世界での出来事なのです。なのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのでしょうか。不思議なものです。死んでしまってもなお、こうして誰かに支えられ、そしてそのことに対して涙を流せるのですから。
 死んでしまったヒメにどれだけの時間が許されているのかはわかりませんが、ちょっとだけなら、こうして泣いていても誰にも怒られはしないでしょう。
「ねぇ。ヒメはこれからどうなるの?」
 泣き疲れて、高まった気持ちが静まり始めた頃、ヒメは少女に問いかけます。もちろん、彼女が夢の中にまで入ってきたことを踏まえれば、この後の結末を想像することは容易でした。
「魂はあるべき所に還らなければならない。それを遂げるために私はいる」
「あの大きな鎌で狩られるのはちょっと怖いかな」
「たぶん平気。大丈夫」
 少女は表情を変えないまま、少しだけ頭を傾けました。それを聞いてヒメは、とても不安です。
 あと数分で、授業が終わってしまう時間に差し掛かっていました。最後にヒメは死神の少女に「ありがとう」とお礼を言い、現実の世界で授業を受けているシオンちゃんに最後の別れを告げるための時間をお願いしました。死んでしまったヒメの、本当に最後のお願いです。
 シオンちゃんの斜め横に立ちます。ノートにびっしりと文字を書き込みながら、最後の最後まで真剣に授業を聞いているシオンちゃんに独白するのです。
「ヒメね、やっと気がついたの。わたし、魚草 姫金は中秋 紫苑ちゃんが好きなんだってこと。子供の頃から、ヒメの手を引っ張って、ヒメを見たこともない場所に連れて行ってくれるシオンちゃんに、ずっと憧れていたんだよ。
 高校で再会して、また昔みたいに話せるかなと思ったけど、忘れられているのが怖くてうまく声をかけられなかったんだ。だから教室の後ろから見ているだけで、それだけでよかったと思っていたのに、どうやら違かったみたい。
 こっちに戻って来て、ちょっとずつでいいから、また昔みたいに話せるようになれたらいいなって思っていたのに、私もう死んじゃっているのよ。こうして話しかけても誰にも気づいてもらえないのよ。死にたくなんかなかった。だって、まだ何も始まってすらいないのよ。もっと傍に居たかった。一緒に話をしたかった。今度はヒメがシオンちゃんを素敵な場所へ、連れて行ってあげたかった。
 でも、もうこれで最期です。ヒメの恋って、やっぱり報われなかったのでしょうか。夢の中でシオンちゃんはリナリアの花言葉を言っていたよね。『幻想』、『乱れる乙女心』、『断ち切れぬ想い』、そして『私の恋を知ってください』。本当にヒメみたいな花ですよね。
 別に恋とまではいかなくても、せめて、そう、これはヒメの我侭な願いです。クラスメイトに、魚草姫金って名前の子がいたってことだけでいいので、それだけごくたまに思い出してください。
 もう時間です。最後にありがとうって言わせてください。もう涙を拭っているうちに……言いそびれたくないのです。ずっとあなたのことが好きで、あなたの背中を追っていました。ありがとう。ありがとうね、シオンちゃん」
 全てを言い終えたヒメはシオンちゃんを背にして、教室の後ろにいる死神の少女の元へといきます。「もう思い残すことはないわ」と言おうとして、ヒメは言葉を失いました。
 ずっと無表情で、何を考えているのかもわからなかった少女は、静かに涙を流しているのです。ヒメはそれだけでもう十分でした。誰にも看取られることなく、この世を去るわけではないのですから。
 少女はきっと、私のことを忘れないでいてくれるでしょう。なぜだかはわかりませんが、そう思うのです。根拠なんてありません。
 ええ。それはたぶん、ヒメの幻想なのでしょう。都合が良くて身勝手な、ヒメの夢なのです。

メビウスの花

●参考文献
E.T.A.ホフマン「くるみ割り人形」(http://www2.tbb.t-com.ne.jp/meisakudrama/meisakudrama/kurumihofuman.html

ご精読ありがとうございました。

メビウスの花

真っ直ぐな道を歩いていたはずなのに、いつの間にかその道はねじまがっていました。 気づかないまま、ヒメは輪の中へと迷い込んでしまったのです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-31

CC BY-NC-ND
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