少年幽霊

 年少者の相談に耳を傾けるのは年長者としての義務である、と、俺は思う。
 それが家庭教師のバイトで勉強を教えていた、中学二年の少年の相談なら、なおさら聞く義務があろう。
 しかし、自宅の部屋の中、ソファー代わりにベッドに腰をかけてコーヒーを飲んでいる俺の足元に、全裸の少年がひざまづいて、
「セックスしたいのっ。セックスさせてくださいっ」
 とすがってきた時、俺は飲んでいたコーヒーを鼻から吹いた。ぶふ、と噴き出したコーヒーは手元のコーヒーカップに注がれて、こぽこぽと気持ちのいい音を立てた。
 俺は鼻で濾過されたコーヒーをテーブルに置くと、「うぅん」とうなって渋面する。
 年少者の相談を聞くのは年長者の義務だが、必ずしもそれに応える義務はない。という結論だ。
 少年は俺の様子を見て目に涙を溜め、「お願い、こんなことを頼めるのは遊遊さんしかいないの。ボク、なんでもするから遊遊さんの体を使わせて…?」と膝にすがってくる。
 上目遣いで俺を見上げる少年の手が膝にのった途端に、ざわりと皮膚がけばだって、背筋がぞくぞくと震えた。
 俺は慌てて少年の手から逃れると、「ぜったいに、イヤ、だ!」と答えた。冗談ではなかった。
 俺のかたくなな態度に、いよいよ少年の瞳からは涙が溢れ出した。
 がばっと床に突っ伏して腕に顔をうずめ、うわあんと泣き始めた。「遊遊さんのけちー。ちょっとぐらい体を使わせてくれたっていいじゃないのさぁー」
 泣き喚く少年の背中を見ながら、俺は、困ったなぁ…と眉間にシワを寄せた。


 俺の目の前で突っ伏して泣くこの少年は、名前を清美という。
 俺が大学生というステイタスを活かして家庭教師のバイトを始めた時、最初に派遣されたのが清美の家だった。清美が中学一年生の時に初めて勉強を教えて以来、もう一年ほどの付き合いになる。
 清美は、生徒として理想的だった。理解力と記憶力にすぐれている、いわゆる優等生タイプの少年であるため、基本的に自分一人でも勉強のできる子なのである。
 俺の仕事というのはおおむね、清美の母親が差し入れに持ってくるケーキを食べながら、勉強している清美の姿を眺めているだけなのだった。
 先生の手をいっさいわずらわせない生徒というのは、まさに理想的だった。バイトとしては楽でいい。
 先生と生徒ではなく、一人の人間として見ても、清美は魅力的な少年だった。素直で人懐っこく、そして、この年頃の少年には珍しいぐらい言動が可愛らしかった。子供っぽさが抜けきらないのである。苦労知らずなだけかもしれないが、ヘンに大人ぶった可愛げのない子供に比べると、随分と好ましく思えた。
 清美の人懐っこさに引きずられる形で仲良くなり、去年の夏休みには一緒にキャンプにも出かけた。
 清美は友達と三人でキャンプに出かける予定を立てていたのだが、やはり子供だけでは親の許可が下りなかったらしい。そこで、年齢的には申し分ないぐらい成人していた俺に声をかけてきたのだ。
 ただ、その話は、友達の一人が家族で田舎に帰省する日と重なって、一度立ち消えになった。
 それでも清美は、「それなら遊遊さんと二人で行く」と人員変更し、実行したのだった。友達同士で行った方が楽しいだろうにと思ったのだが、清美からしてみれば俺も普通の友達だったらしい。楽しげにはしゃいでいた。
 その夜、ならんで寝そべったテントの中で、「こういう時は好きな女の話をするんだぜ」と、中学生の恋の行方をたずねてみたところ、清美の口から付き合っている彼女の名前が出てきたので、俺は少々驚いた。
 まだまだ子供だと思っていたが、立派に男子中学生をしていたらしい。
 清美の話では、付き合っている彼女は一学年上の先輩で、名前を剛田マリュ子という。「強そうな名前だな」と言うと、清美は「うん、すごく強いのー」と笑った。女子空手部の主将だそうだ。
 からかいつつも詳しく話を聞いてみると、マリュ子嬢と付き合ってはいるものの、まだ手を握ったことぐらいしかないらしい。その辺の奥手さは俺の知っている清美だったので、なんだか安心した。
 キャンプを終えた四ヶ月後の冬休みには、一緒にスノーボードをしに行ったりもした。
 この時も俺は保護者として付き合わされたのだが、清美とは歳が離れてるといっても仲のいい友達であり、一緒に一面の銀世界を転げまわるのはなかなかに楽しかった。血液型占いなんて信じないが、血液型が同じA型であるのも気の合う一因なのかもしれない。
 そんな清美と俺の仲が永遠に断絶したのは、つい先日、ほんの一週間前のことだ。
 清美が死んだ。
 交通事故だった。
 学校からの帰り道、酔っ払いの運転する乗用車にはねられて、病院に運ばれる途中で死んだ。
 俺はその話を聞いた時、たいした感想を持たなかった。実感がなかったのだ。
 俺が最期に会った時の清美は確かに生きていた。俺の頭の中には生きている清美しかいない。死んでいる清美など想像できなかったのだ。
 それゆえに、清美が死んでしまったという事実をどうやって受け入れていいのか、わからなかった。わからないどころか、まだ生きているような気さえしていた。
 それは、葬式に出て、棺の中の清美の死に顔を眺めても変わらなかった。
 生きているかのように化粧が施された清美の顔は、勉強の途中で居眠りした時の表情によく似ていた。
 葬式の次の日、家庭教師の事務所から別の生徒の家に行くように言われた時、俺はその話を断った。その時もまだ、清美が生きているような気がしていた。他に生徒を持つなんて考えられなかった。清美はもういないのだと、頭の片隅では理解しているのに。
 バイトの日になると、清美の家に行こうとしている自分がいた。
 玄関を出ようとして思いとどまり、清美は死んだのだと言い聞かせて部屋に戻り、そして、仕事に行かなくてもいいのだと知りつつも、バイトを無断欠勤したような気分を味わうのだった。
 それというのも、すべて、清美が生きている気がするせいだった。
 明日にでも清美から電話がかかってきて、「どうして昨日はボクの家にきてくれなかったの?」と責められるような気がするせいだった。
 なぜそんなことを思うのかをずっと考えて、俺は、「別れの言葉を何も言えなかったからだ」と結論を出した。
 もしも生きている清美に別れの言葉を言えていたなら、気持ちの整理をつけられたのかもしれない。
 俺が最期に清美に会ったのはバイトの時で、別れ際に交わした言葉は、「また来週に来るからね」だった。俺に答えた清美の言葉は、
「うん。またきてね」
 と。
 せめて、
「さよなら」
 と言えていたら。
 清美が死んでからの一週間、そんなことばかり考えていた。
 今日もバイトの日で、俺はまた時間に間に合うように家を出ようとして苦笑し、気を落ち着かせるためにコーヒーを淹れてベッドに腰掛けた。
 そして、清美に会った。
 コーヒーカップを手にぼんやりと見つめていた窓の外から、突然、肌色の塊が飛び込んできたのである。
 驚いて肌色の塊をじっと見つめると、その塊は清美の形をしていた。
 柔らかそうな栗色の髪の毛、長いまつげ、子供っぽさの抜けない顔立ち、華奢な体つき――すべて、俺の記憶の中にある清美の姿と一緒だった。
 一つだけ違うのは、なぜだか清美が全裸だったということ。
 窓ガラスをすりぬけてきた清美は、ふわふわと空中を飛んで俺の前に降り、ぺたりと床に座ると、「来ちゃった」と恥ずかしそうに笑った。
 俺は、寝ぼけたような声で、「そうか」としか言えなかった。
「ボクのこと、見えてるよね?」
 その言葉に俺がうなづくと、清美は、「幽霊になりました」と言った。そのあと、「幽霊としては若輩者ですがよろしくお願いします」と頭を下げた。俺も、「生者です。よろしく」と頭を下げた。
 こういう時に何を言っていいのかわからずに、とりあえず、
「ところで、なんで裸なんだ?」
 と訊いた。清美は「んー」と首を傾げて、「わかんない。気がついたら着てなかった。まぁ、死んじゃったから? 服には霊魂がないから一緒に幽霊になれなかったんじゃないかな。不便だよね」と説明した。わからないわりには詳しい説明だった。
「幽霊になってから暑さや寒さは感じないけど、恥ずかしいのは恥ずかしいから、服があればいいんだけど……」
「幽霊用の服を売ってる店は知らないなぁ…」
 そう答えてから、「幽霊かぁ。幽霊なぁ…」と独り呟いて、俺はなんとなくこの状況に納得した。
 元々、清美が生きているような気がしていたのである。死にっぱなしで二度と会えない状況よりは、幽霊とはいえ、目の前にいてくれた方が俺にとっては現実的な状況だった。
 体がどことなく半透明になっていることと、服を着ていないことを除けば、俺の知っている清美が目の前にいた。
 床に座った清美は俺の顔をじっと見上げて、「あのね…」と話し出した。
「ボクは死んだあと、体を追い出されて、魂だけになって、この辺をうろうろしてたの。いろんなモノを見たよ。泣いてるお母さんを見た。友達を見た。自分のお葬式を見た。燃やされていく自分の体を見た。自分の体が頼りないぐらいに細い、真っ白な骨になって、小さな箱に詰められるのを見た。
 だけど、誰にもボクのことは見えなかった。この一週間、ボクは、ボクのことを見てくれる人を探していたの…」
 ようやく会えた──そう呟いて、清美は少し涙ぐんだ。「これで成仏できるかもしれない…」
「成仏? そっか、幽霊になったんだもんな。この世に未練でもあったのか?」
「うん…」
 清美は目じりの涙を人差し指で拭うと、一転して頬を赤らめ、
「あのね、ボク……」
 うつむいて、もじもじと膝をすりあわせた。「前に、付き合ってた彼女がいるって話を前にしたでしょ。それで、その彼女とね、その……」
「なんだ、恋の悩みか。彼女に伝えたいコトでもあるのか? 俺でよければ相談にのるぜ?」
「伝えたいことって言うか、その…、えっと、あのね……?」
「恥ずかしがらずに言ってみな。思い残すことがあったから成仏できなかったんだろ?」
 そう言ってコーヒーを一口すすったその時、清美は思いつめた表情で俺の目を見つめ、
「セックスしたいのっ。セックスさせてくださいっ!」
 と言ったのだった。
 しかもその後、「お願い、こんなことを頼めるのは、もう遊遊さんしかいないの。ボク、なんでもするから、遊遊さんの体を使わせて…?」と哀願を始めたので、俺は非情なぐらいにきっぱりと断った。
 突っ伏し、腕に顔をうずめて泣き出してしまった清美には悪いが、俺にも立場がある。断らなければいけなかった。清美のやりたいことがおぼろげに解ったのだ。
 清美は、俺に取り憑く気だ。
 俺の体を操って、彼女とセックスする気だ。
 幽体である清美が、生身の人間とセックスしようとしたらそれしか手がない。
 恐ろしい計画である。
 清美の彼女である剛田マリュ子は、正真正銘の女子中学生なのだ。
 俺は清美の成仏に手を貸したあと、まかり間違えば青少年健全育成うんぬんとか、児童買春うんぬんとか、そういった罪状で刑務所に行く危険に満ちているのである。「幽霊のしわざ」という主張は、法廷においてかなり不利になると思われた。
 しかし、恐るべきは男子中学生のエロパワーである。
 自分も中学生だった経験上、この年頃の男子が「性」という未知の情熱に対して興味津々なのは知っていたが、まさか成仏できないほどに未練を残すものだとは思わなかった。
 ずっと子供だと思っていたが、清美も立派に男の子だったのだろう。俺も男である以上、セックスしたいと思う気持ちが解らないでもない。
 突っ伏して泣いていた清美は、涙に濡れた顔をぐしぐしと拭いて、
「ねえ、一生のお願いだからっ! このままじゃボク、成仏できないよ…。マリュ子先輩のことすごく好きなのに、キスだってしたことがなかったんだもの…」
 と、にじり寄ってきた。幽霊に一生のお願いをされた俺はというと、清美から離れようとベッドの上を後退した。無理やり体を乗っ取られる恐れがあったし、何より、幽霊に触れられると悪寒がするのである。
 この分でいくと、取り憑かれる感覚もあまり気持ちのいいものではあるまい。
 しかし、だからと言って、なんの協力もしないわけにもいかなかった。
 わざわざ俺を頼ってきた清美を見捨てられない。
 まだほんの子供のうちに死んでしまい、そして、成仏できずにいるのだ。なんとかできるものならなんとかしてあげたいと思う。
「子供のままで死んじゃったんだもんな……」
 清美の体を見つめながら俺は呟く。
 清美は見つめる俺の視線を追って頬を赤らめると、立ち膝だった体をぺたりと床につけて、「どこ見てんのさっ」と股間を手で隠した。うぅぅ、と小さくうなって抗議する。「悪かったね、子供でっ!」
「毛ぐらい生えてから死にたかったよな…」
「馬鹿っ!」
 俺は一つため息を吐いて、覚悟を決めた。清美の目を見る。
「わかった、じゃあ貸してやるよ体。だけど、彼女に会いに行くだけだぜ? それでいいか?」
 俺の言葉に清美は考えるそぶりを見せたが、最終的には、「うん、ありがとう」と微笑んだ。


 次の日の夕方、俺は清美に連れられて外出した。
 昨日の夜にみっちりと話し合って決めた計画にしたがって、学校帰りのマリュ子を待ち伏せるためだ。
 みっちりと話し合ったわりには、『ひたすら待つ』という単純な結論なのだが、こちらにはこれしか手がない。面識のない俺がマリュ子の家に行くのも、電話をかけるのも、すこぶる怪しすぎた。
 まず、マリュ子の両親に対してどう説明したらいいのかわからない。もしも見知らぬ男が家に押しかけてきて、「幽霊のためにうんぬん」と言いだしたら、俺なら警察を呼ぶ。
 それゆえに、待ち伏せするのが一番いいという結論を出した。
「しかし、この道で待っていれば本当にくるのか?」
 夕日の沈みはじめた住宅街に浮きながら俺が言うと、俺の体は、「来るよ」と答えた。「部活帰り、いつもマリュ子先輩を家まで送っていくもん」
 そうかい──と答えて、俺は空に寝そべってふわふわと俺の頭上に浮いた。

 清美に、自分の体を貸したのである。

 方法は至極簡単だった。
 幽体の清美が俺に抱きついて、そのまま前のめりに俺の中に入ってきただけだ。
 清美の魂が体の中に入ってきた分だけ俺の魂が背中から押し出され、やがて俺がすべて外に抜け出すと、清美に体を持っていかれてしまった。
 自分の体から魂が押し出される感覚というのは、鉄の爪で引っかかれる黒板の感覚に似ているのかもしれない。
 体が黒板なら魂は爪だ。魂が抜け出すたびに体の内側が細かく切り刻まれてギギギギと神経に響く。「ぞっとする」という言葉では収まらないぐらいの悪寒がする。
 抜けきってしまえば、嘘のようにその苦痛から解放されるのだが。
 幽体離脱というものを初めて経験したが、これはなかなかに楽しい。
 なぜだかわからないが宙に浮けるのである。
 それどころかふわふわと飛べる。頭の中で動く方向を思い浮かべると、そちらの方向に体が動いていくのだ。無重力というのはこういう感じのことなのだろうか。鳥の気持ちがわかる。自由に空を飛ぶことは楽しい。
 幽体になってもう一つ知ったのは、触れるものと、触れないものがあるということだった。『生きているもの』には触ることができる。『生きていたもの』にも触ることができる。
 だが、『生きていないもの』には触ることができなかった。すり抜けてしまう。
 動物や植物、木のテーブルなどには触ることができたが、窓ガラスには触れなかった。清美が家に入ってきた時と同じように、俺も窓ガラスをすり抜けることができた。
 たぶん、『魂』だとか『気』だとかいう、エナジーを持つ物体だけにしか触れないのだろう。
 肉体がないのはヘンに不便だ。
 俺が試したところ、タバコはもともと葉っぱなので咥えられるが、Zippoライターは金属で作られているので持てないのである。幽霊になったら禁煙することをおすすめする。
 持てない物がある不便さと、幽体になると裸になってしまう羞恥心と、自分の肉体が動いている姿を客観的に見せられる苦痛を除けば、幽霊になってふわふわ浮きながら生きていくのも悪くない気がした。
「しかし、マリュ子ちゃんに会って、今の状況をどう説明するつもりだよ?」
 空中に仰向けに寝転んで、ぼんやりと夕暮れ時の空を眺めながら言うと、清美は頭上斜め上に寝転んでいる俺をちらりと見て、
「マリュ子先輩なら、どんな姿になったって一目でボクをわかってくれるよ」
 と答えた。本気で信じきっている熱っぽい声だった。
 俺はやる気のない声で、左様でございますか──と答えて、空中をごろごろした。
 人生はそんなに甘くないぞとアドバイスしたかったが、甘い人生が終わってしまった清美に言うのは気がひけたし、なにより、こういうのは言葉よりも実際に経験して学んでいくことなのである。
 俺は何も言わずに、自分のヘソから伸びている幽体ヘソの緒を人差し指に巻きつけて遊ぶことにした。
 この白色の幽体ヘソの緒は本体のヘソに結びついていて、引っ張れば伸びる。どこまで伸びるかは知らないが、このヘソの緒で幽体と肉体が結びついている限り、どこまで飛んで行っても本体を見失わずに済む仕組みだ。
 幽霊になった清美のヘソには緒がついていないことを考えると、『死』というのは、肉体と幽体を結ぶ紐が切れてしまうことのようだ。
 俺は幽体離脱しているだけで『死』んではいないので、こうしてヘソの緒で結ばれている。
 暇を持て余した俺が、幽体ヘソの緒を手ごろなサイズまで引き伸ばして幽体あやとりを始めた数分後、清美の口から「あ…」という吐息がこぼれた。見つめる視線が遠い。
 清美の見つめている先に視線を送ると、そこにはセーラー服の少女がいた。
「マリュ子先輩……」
 小さく呟く清美の声に、ほのかな熱が宿る。
 マリュ子は、紅茶色の髪の毛をベリーショートにカットした、活発そうな女の子だった。血のように赤い唇と目もとのキツさが可愛らしさを徹底的に破壊していたが、まぁ美人ではある。宝塚の男役でもやらせたら、さぞや麗人に化けるだろうと思われた。
 幽体の俺は、清美がどうやって声をかけるのか黙って見守る。
 清美は思いつめた顔でつかつかとマリュ子に近づいていき、目の前に無言で立ちはだかった。
 そして、声をかけるために小さく口を開いた瞬間に、膝に鋭いローキックを喰らった。
 痛っ、と膝をつく清美と対称的に、マリュ子はひらりとスカートをたなびかせながらバックステップして間合いをとると、
「アンタ変質者ねっ!? それ以上近づいたら、今度は無呼吸連打で百発は殴るわよ!」
 と叫んだ。
 マリュ子先輩なら、どんな姿になったって一目でボクをわかってくれるよ──という、清美の希望を容赦なく打ち砕くローキックだった。
 なんでもいいが、俺の体をあんまり痛めつけないで欲しいと俺は思った。
「マリュ子先輩、ボクだよっ。清美だよっ」
 あわてて立ちあがった清美が言うと、マリュ子は眉間にシワを寄せた。目もとが一層けわしくなる。「……なんの冗談?」
「冗談じゃないよっ。ボクがマリュ子先輩に嘘をついたりするはずないじゃない!」
「アンタみたいなオッサンに、このうら若い乙女なあたしが先輩呼ばわりされる筋合いはないんだけど」
「おい、俺はまだ二十一歳だぜ?」
 オッサンの抗議の声はマリュ子に届かない。幽霊なのである。
 抗議の声が届かないのは困るが、届いてしまうのもまた困るのだった。
 なにせ俺は裸だ。局部にモザイク無しの、まごうことなき無修正の裸だ。
 もしも俺の声が聞こえる状態なら、その時は俺の姿も見えてしまうに違いなかった。清美以外には見えないと思うからこそ、外を裸でうろついてても平気なわけで、これが誰にでも見えるとなったらさすがに俺だって恥ずかしい。
 俺の体の中に入りこんでいる清美は、「あぁ…」とか「うぅ…」とか口篭もっていた。どうやって説明するか迷っているらしい。
 マリュ子はそんな清美を、あきらかに不審者を見る目で睨んでいる。まぁ気持ちはわかる。
 清美は結局、混乱したまま弁解を始めた。
「こ、この体は遊遊さんっていう人の体で、ボクは幽霊になってて、それでこの人の体を借りてて、だからボクには見えないだろうけど、中身はボクだよ!」
「アンタは遊遊っていうの?」
「違うよ、清美だよ」
「見た目は違わないだろ」
 俺は言う。
「違うよ、見た目はそうかもしれないけど、中身はボクだからボクだよ」
「あたしの知ってる清美はこんなオッサンじゃないんだけど」
「俺はオッサンじゃない!」
「ボクだってオッサンじゃないよっ」
 マリュ子がいぶかしげな顔をする。それも当然だろう。俺(幽霊)の声が聞こえていないマリュ子にしてみれば、会話が微妙にズレている。
「あのね、ボクは幽霊なの」
「アンタ幽霊なの?」
「うんっ!」
 断言した。混乱してる清美には、なんとなく意思が通じたように思えたらしい。
「幽霊って、ローキックを喰らって痛がるの?」
「いや、だからね! この体は生きてるけども、その中にいるボクが幽霊なの!」
「その理屈でいくなら、人間はみんな生きてる間から幽霊だよな」
 俺が言うと、清美は斜め上に浮かぶ俺を見上げて、「遊遊さん、黙ってて!」と返した。
 見えない誰かと話し始めた清美を見て、マリュ子が一歩後ろに下がる。逃げの姿勢だ。
「ちょ、ちょっと待って、逃げないで…! ここに幽霊がいるんだ。ほんとだよ。この体の持ち主が──」
 俺を指差す。「この辺に」
「清美。こう言っちゃなんだが、お前、すごく怪しいぞ」
「わかってるよっ!」
「アンタ、一生懸命誰と話してるの…?」
「だから、その……」
「こんだけ説明してるんだから、この娘も幽霊の存在を信じていいと思うんだがな」
「普通信じないよ……」
 返答してから、ああ、もう!と清美が叫ぶ。「遊遊さん、話しかけないで! 向こうに行っててくれる? 邪魔っ!」
 しっしっ、と犬でも追い払う動作で邪険にされる俺。
 ちぇ、と舌打ちして、俺はふわふわと清美のそばを離れた。「向こうって、どこまで行けばいいんだ?」
「遥か向こう!」
 仕方ないので遥か向こうまで行くことにした。
 清美の頭上を越えて、家の屋根を越えて、夕暮れに染まる空まで浮かび上がる。
 身振り手振りを交えて何事かを説明する清美の姿が、どんどん小さくなっていく。
 この際、『魂はどこまで体を離れることができるのか』を調べるのもいいかもしれない。
 巣に帰っていくカラスの群れとすれ違いながら、俺は腹を下にして空を泳ぐ。クロールで空を掻いて進んでいく。念じれば前に進むので泳ぐ必要はないのだが、何事も気分だ。交互に腕を動かして、バタ足で空を蹴るたびに、するするとヘソの緒が伸びていく。
 距離にして百メートルほど進んだあたりで、不意に幽体ヘソの緒が張った。後ろに引っ張ろうとする力を感じた。
 ヘソの緒はまだ伸びるが、ゴムのように張りつめてきているのがわかる。先に進もうとするたびに後ろに引き戻す力が強くなる。
 これは、魂が体から離れすぎないようにするための仕組みなのだろう。
 そう理解したら不意に、離れ過ぎてみたいと思った。
 俺は天邪鬼なのである。
 ダメと言われればやりたくなるのが人情だ。
 体中に力をみなぎらせて、空を掴むようにゆっくりと腕を動かして先に進む。
 強力なぐらい、うしろへ引き戻そうとする力を感じる。弾力のあるヘソの緒がギリギリと張りつめる。
 ロッククライミングをする人のように、1センチ、1センチ、限界を見極めるように慎重に進んでいく。
 そして、ついに限界まで達した俺は、ヘソの緒に負けた。
 完全敗北した。
 これ以上は無理──という所まできて、油断した一瞬、力が抜けたのだ。
 張力のすべてを解放されたヘソの緒は、俺を後ろにぶっ飛ばした。
 ゴムを思いっきり引っ張ってから手を離したのと同じことが起こった。
 弓から放たれた矢のごとく俺は飛んだ。突き刺さる『的』は自分の体だ。
 ヘソの緒のレールに導かれて元来た道を引き返していく。マリュ子と話し込んでいる清美の背中が、ぐんぐん目の前に迫ってくる。
 声をかける暇もなく、ついに俺は、自分の体に猛スピードで激突した。
 背中に突っ込んだ俺の魂は清美の魂を突き飛ばした。
 突き飛ばされた清美の魂は俺の体を追い出され、そのまま、玉突き事故的にマリュ子の体に突っ込んだ。マリュ子の魂は自分の体から追い出されて背中から転げた。

 一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

 呆然とする中、最初にこの事態に対応したのはマリュ子だった。
 裸になった自分の姿を見て、わわ、と胸元を腕で隠した。
「なによこれ! 服が脱げてるじゃないっ!」
 そう叫んでから、あれ?と呟く。「……体が脱げたの?」
 マリュ子の体がマリュ子の方を振り向く。マリュ子は自分の体と目が合って、「どういうコト?」と自分に訊ねた。
 マリュ子の体は俺を見て、「遊遊さん、どういうこと?」と訊ねた。
 俺は、ことの次第を手短に語って、マリュ子の体から鋭いローキックを喰らった。「遊遊さんの馬鹿っ!」
 蹴られたスネをさすりながら、「でもまぁ」と呟いて、俺は言い訳を始める。
「これで面倒な説明はいらなくなったじゃないか。百聞は一見にしかず、自分が幽霊になったら、これまでの話を信じないわけにもいかないだろ」
 裸になったマリュ子に視線をやると、マリュ子はすっくと立ちあがって、「見るな!」と俺に正拳突きをした。「うお」と声をもらして俺は悶絶する。幽霊に殴られると背筋に効く。ぞっとするを通り越して、背骨に電流を流されたような強烈な悪寒がする。
「清美も見てるが…」
 苦し紛れに俺が抗議すると、マリュ子はふん、と鼻で笑って、「清美はいいのよ」と言った。
 不公平だと思ったが、まぁ、清美とは恋人同士なのだからそういうものなのだろう。
 マリュ子は透き通った自分の体をしばらく見つめてからため息をつき、「わかった、さっきまでの話は本当なのね。信じるわ」
 そう言った。「わかったから早く、元に戻る方法を教えて」
 幽体ってなんだか頼りなくて不安よ──マリュ子が目を伏せる。
「さっきされたみたいに、体から相手の魂を押し出せば戻れるよ」
 清美の言葉に従ってマリュ子は自分の体に手をかけた。
 ためしに両手で押してみるがびくともしない。
「なんで?」
 と呟いて、今度はタックルの体勢で力いっぱい押してみたが、それでも清美の魂はマリュ子の体から抜けなかった。
 押したり引いたり揺らしてみたり、考え付くかぎりのことをしてみたが、すべて無駄に終わった。マリュ子の体から清美の魂は出ていかなかった。
「おかしいな……」
 俺の時はすぐに清美と魂が入れ替わったのだ。それほど力が必要な作業だとは思えなかった。
 どうしてだろう──清美も困惑している。
 マリュ子は見つめる俺の方を振り向いて、険のある目つきでキッと睨むと、「だから、見るなってば変態!」と罵り、飛び膝蹴りで体ごと飛びこんできた。膝が突き刺さった分だけ魂が後ろに押されて、俺は自分の体を追い出された。背中から地面に倒れる。
「あら、簡単ね」
 女言葉で俺が言う。「この体、しばらく借りるわよ」
 困る、と抗議する前に、「乙女に裸で外をウロウロさせる気ッ!?」と怒鳴られた。
 マリュ子の代わりに裸でウロウロするはめになった俺の身にもなって欲しい。
「元はといえばアンタのせいでしょ。責任とりなさいよ!」
 そう言われれば返す言葉もない。仕方なく自分の体を諦めてふわふわと宙に浮かんだ。
 しかし、女言葉で喋る俺というのは怖い。さらに言うなら目つきも怖い。マリュ子の魂が体に入っているせいだろうか、どことなく目つきがキツくなっていた。精神が体に影響を及ぼすこともあるのだ。
 マリュ子の体を見ると、目もとのキツさがとれて、柔和で可愛らしい顔つきになっていた。これは清美の魂が入っているせいだろう。
「どうして戻れないんだろ…。ボクは出ていこうと思ってるのに、この体から出られないんだよ……」
 鈴の鳴るようなか細い声で清美が言う。
 その理由を俺も考えた。
 マリュ子は俺の体にはすんなり入れたが、自分の体には入れなかった。それには必ず、入れないだけの理由があるはずだ。
 もしかしたら、幽霊としての経験だろうか。
 俺よりも清美の方がベテラン幽霊なので、他人の体に取り憑くのが上手いのかもしれない。他人の体に入ったらなかなか出てこない――いや、それならば、さきほど俺に押された時にすんなりと俺の体から出ていくはずもない。
 俺の体からはすんなり出ていけても、マリュ子の体からはすんなり出ていけない理由。俺と、マリュ子の違い──

 ふと、思い当たった。

「なぁ、清美」
 話しかけると、マリュ子の体は小首をかしげて「なぁに?」と返した。
「お前、どうして成仏できずにいたのか、その理由をマリュ子に話したか?」
 清美は不意に頬を赤らめて、「まだだよ……。だって、恥ずかしくて言えないよ…」と答える。
「多分それだ」
 俺は、マリュ子に顔を向ける。「清美はね、キミと」
「ちょっと待って!」
 清美は止めようとしたが、マリュ子は「なによ?」と続きを促した。
 俺は続けた。「キミとセックスしたくて成仏できずにいたのさ。死にきれないぐらいだからね、キミの体に対する執着が人一倍強い。体から追い出せない理由は多分それさ。意識的にも無意識的にも、キミの体が欲しすぎて自分からは手放せないんだ。だから、清美がセックスという未練を断ち切らないうちは、キミは自分の体には戻れない」
 マリュ子はしばらく考えてから、 「それって、あたしが自分の体に戻るには、つまり……」
 と、眉間にシワを寄せて呟く。俺は言う。
「成仏させてやるんだね」


 意外なことに、マリュ子は乗り気だった。
 いや、状況がかなり異常なので意外に思えるだけで、普通の若い恋人達がすることだと考えれば、別に意外なことでもなんでもないのだろう。
 もしも死んだ恋人が生き返ってきたなら、俺だってそうする。
 たとえ理由がなくても恋人を愛するのだと思う。
 そう納得しかけた俺の耳に、「男になって自分の体を愛せる機会なんて、もう二度とないわよね」という邪悪な言葉が届いたので、やはり意外なことなのかもしれない。
 清美の方はと言うと、あまり乗り気ではないようだった。
 それもそうだろう。清美の考えていた初体験というのは、ごく普通の男性が思うような、男の立場でもって女性を抱く、というモノだったのである。
 それが、どういう因果か女の体で男に抱かれようとしているのである。清美に因果を含めた俺が言うのもなんだが、不憫でならない。人生、一寸先は闇というのは本当だ。

 俺は、逢引きの場所として、若い恋人達に自分の部屋を提供した。
 中身はマリュ子とはいえ、俺の体が俺の部屋に帰るのだから不都合はない。不都合があるとしたら、中身が清美とはいえ、女子中学生を部屋に連れこんでいるということだろう。
 この物騒なご時世である。近所の人に見つかったら通報されかねないと俺は思った。
 さいわい通報されることもなく、マリュ子と清美はベッドの上にぎこちなく寄り添って座っている。二人の間にある、その微妙な距離感が初々しい。
 ただ、二人が並ぶその光景は、俺の目には奇異に映った。なにせ、俺の体がそこに座っているのだから。
 俺の体はそこにあるのに、俺の魂はそこにはいない。離れた所から自分の体を見つめている。
 見たままを言うなら、俺と、見知らぬ女子中学生が並んで座っているのだ。違和感たっぷりだった。日常的な光景ではない。
 見たままを言わないなら、男の体に入った少女と、女の体に入った少年が並んで座っているのだ。もっと奇妙な状況である。
 そして、そんな二人がこのあとセックスするというのだから、俺としては違和感を通り越して興味深々だ。
 俺はベッド脇に正座して始まるのを待った。
 見学の姿勢である。
 だが、居住まいを正した俺の顔に飛んできたのはティッシュの箱であった。べち、と顔面に当たって落ちる。ティッシュの箱は紙──もともと木なので幽体にもヒットする。
「いつまでそこにいる気?」
 ティッシュの箱をぶん投げた俺の体が言う。
「いや、俺のような幽霊のことは気にせず……」
 取り繕ってみたが無駄だった。マリュ子は半眼で俺を睨む。
「最初は見えなかったから気にならなかったけど、今は見えるから気になるのよ! 裸でウロウロされると余計に気になるわ!」
「遊遊さん、お願いだから向こうに行ってて。恥ずかしいよ…」
 マリュ子に続いて清美が言う。
 二人にそう言われてしまえば仕方ない。ちぇ、と舌打ちして、俺はふわふわと二人のそばを離れた。「向こうってどこまで行けばいいんだ?」
「屋根の上!」
 もう、『遥か向こう』までは行かせてくれないらしい。
 俺は机の上に置いてあったタバコを手に取ると、清美に窓を開けてもらって外に出た。
 ぴしゃりと閉まった窓を越えて、屋根まで浮きあがると、ごろりと寝転がる。
 いたずらな天使達が、今日も黒いペンキのバケツをひっくり返したらしい。見上げた空は真っ黒に染まっていた。ところどころ、浸食されそこねた隙間から光が洩れる。
 俺は夜空を見上げながら、幽霊がいるのなら天使もいるのだろうと思った。
 悪魔も、妖精も、神様も、きっとどこかにいるのだろう。
 俺はタバコのケースから一本抜き出してくわえたが、一緒にケースに入れていたライターを持つことができなかった。
 幽霊の不便さを再認識する。触れない物があるのだ。
 さらに、他人には姿が見えない。これでは道ゆく人に火を借りることもできない。
 もしも借りに行ったとしたら、俺の姿が見えないままにタバコだけがぽつんと飛んでくるのだから、さぞ驚くことだろう。
 ポルターガイスト現象の正体を知った気がした。この世界には成仏しきれない幽霊がたくさんいて、その中には悪戯好きなヤツもいるのだろう。
 その幽霊たちはきっと、この屋根の下にいる子供たちと同じぐらいの年頃。
 少年少女によって自分の部屋から追い出された幽霊は、くわえたタバコを吐き捨てて、仕方なく不貞寝することにした。


 約3時間後──。
 俺が、にやにやしながら「どうだった?」と事の顛末を訊くと、清美の瞳にはみるみる涙が溜まり、やがて、うわあんと泣き出した。
 突っ伏して泣く清美を見て、俺は自分の体で爆笑した。
 マリュ子はすでに部屋に居ない。
 ことが終わったら、「門限!」とか言ってすぐに帰ってしまった。「充分に愛したから満足よ」とのことだった。
 マリュ子が自分の体に戻ったあと、俺も清美から自分の体を返してもらった。
 やはり、自分の体というのはいい。
 オーダーメイドの服のようにしっくりくる。
 清美は涙で濡れた瞳を上げると、笑う俺をキッと睨んで、「痛かったんだからっ!」と言った。「初めての時に痛いなんて考えもしなかったよー! それにボク、一回で満足だったのにマリュ子先輩は一度じゃヤメてくれなくて……」
 俺はニヤニヤしながら聞いている。「あとね、何が不満かって、相手の見た目が遊遊さんだったってコトだよっ。しかも、オネエ言葉で喋る遊遊さんだよ! 最悪!」
 俺は中学生男子の初体験の内容を聞いて、いよいよ大爆笑した。
 清美は再度、うわあんと泣き出す。「もっと素敵なものだと思ってたのにーっ!」
 成仏できないまでに思いつめたことの結果がこれならば、さすがに泣きたくもなるだろう。俺のせいながら不憫である。
 俺はこみあげる可笑しさにまかせて、涙が出るほど笑っていた。
 だが、笑い続けていたその声は、清美の体を見てふと驚いて、喉の奥で乾いて消えた。

 見てはいけないものを見てしまった。

 途切れた声が部屋の中に静寂を呼ぶ。
 清美は顔をあげて、ぼんやりと自分の両手を見つめた。
 俺は、「清美」と少年の名前を呼んだ。
「満足できなかったんならさ」
 成仏するなよ──俺は言う。
 清美は目じりの涙を人差し指で拭いて、「うん…」と答えた。
「俺の体が必要なら、また貸すよ」
「うん、ありがとう…」
「地縛霊にでもなりな。ここに居ていいからさ」
「うん」
「そんなに急いでいなくなる必要はないよな」
「うん」
「死ぬには早すぎたんだから、幽霊としてしばらく生きてたって誰も文句は言わないよ」
「うん」
「せっかく彼女と結ばれたんだから、これからじゃないか。一度で終わりなんてイヤだろ」
「うん」
「あの世って知らないけど、そこに行ったらもう会えないんだよな」
「うん」
「だったら、もうしばらく居てくれ…」
「うん」
「寂しい」
 言った瞬間に、胸をぎゅっと絞られる感じがした。
 先ほどから、清美の体が消え始めているのだ。
 ゆっくりとではあるが、透明度が上がってきている。清美の存在が薄いガラスのように脆くなっていく。
 清美は俺の言葉を包み込むように、優しく「うん」とうなづく。
 俺は、清美をこの世界に繋ぎとめる言葉を探していた。
「満足するなよ」
「うん」
「他にもやりたいことが沢山あるだろ」
「うん」
「クリスマスだって誕生日だって、生まれてから十四回しかやってないんだぞ」
「うん」
「俺がお前と知り合ってから、まだ、たったの一年だ」
「うん」
「短いよな」
「うん」
「一緒に遊びに行こう。これまで行けなかった分も含めて。時間はまだあるよな」
「うん」
「別にさ、特別なことなんてしなくていいんだ」
「うん」
「明日、映画でも見に行こう」
「うん」
「そのあとプリクラでも撮りにいこう。きっと、心霊写真になるだろうけど」
「うん」
「家に帰ってきたら、くだらないテレビ番組でも見よう」
「うん」
「夜は一緒に寝よう。同じ時間に。同じ部屋で」
「うん」
「そしたら、次の日の朝も一緒だ」
「うん」
「早いよな」
「うん」
「みんなのそばから居なくなってしまうには、早すぎた」
「うん」
「お前を慈しむには、遅すぎた……」
「うん」
「なんで死んだんだ。なんで、死ななきゃいけなかったんだ…!」
「うん」
 ごめんね──清美はそう呟いて、ふわりと宙に浮いた。「もう、行かなきゃ……」
 来た時と同じように、窓ガラスをすりぬける。
 俺は窓を開けて、消えていく清美を見送る。
 さよなら、とは言いたくなかった。
 本当に別れゆく人に、さよならは言いたくなかった。
 だから、不意にあふれそうになる涙をこらえ、そっと笑って、「またな」と言った。
 別れゆく人に言えたのは、たった三文字の平凡な言葉。
 清美も小さく微笑んで、「またね」と返した。
 俺に背を向けた清美は空に飛び去って、夜の闇に溶けた。

 もう一度別れの機会を与えられてなお、俺は、「さよなら」を言いそびれた。




 数ヶ月後──。
 年少者の相談に耳を傾けるのは年長者としての義務である、と、俺は思う。
 それが、すでに亡くなった少年を介して知り合った、中学三年生の少女の相談なら、なおさら聞く義務があろう。
 しかし、自宅の部屋の中、ソファー代わりにベッドに腰をかけてコーヒーを飲んでいる俺の目の前で、少女がふふふ、と不敵に笑って、
「妊娠したわよ」
 と宣言した時、俺は飲んでいたコーヒーを鼻から吹いた。ぶふ、と噴き出したコーヒーは手元のコーヒーカップに注がれて、こぽこぽと気持ちのいい音を立てた。
 ゲホゲホとむせながら、
「避妊しなかったのか」
 と俺が問うと、剛田マリュ子は、「しなかったわね」とさらりと言ってのけた。「別に、アンタに責任をとれって言いに来たワケじゃないから安心しなさいよ」
 父親ヅラされても迷惑だし──少し大きくなったおなかをさすりながら、マリュ子は言う。
「この子はね、あの日、あたしの魂とあたしの体の間にできた子供よ。だから、父親はいないの。マリア様がキリストを宿したみたいなモノよ。処女懐妊ではないけどね」
「両親には言ったのか?」
「言ったわ。産むつもりでいるコトも、父親はいないってコトも」
「そんな説明で両親は納得したのか?」
 マリュ子は、「したわよ」と答えた。「だって、あたしの彼氏と言えば清美しかいなかったんだもの。ウチの両親はあたしの説明を勝手に解釈したわね。母親なんかは、『そうね、全部言わなくていいわ。父親はもういないのよね』って訳知り顔よ。当たらずも遠からずだけど勘違いよね。まぁ、あれこれ訊かれるよりは全然いいけど」
 そこで言葉を区切ると、それはそれとして──とマリュ子は声の調子を落とした。「今日は、アンタと清美の血液型が同じかどうか訊きにきたのよ」
 突然尋ねられて、その真意を俺は計りそこねた。
 どうして俺と清美の血液型が気になるのか、わからなかった。
 だが少し考えて、産まれてくる子供の血液型が清美と違っていたら困る、という話なのではないかと邪推した。
 俺と清美は同じA型である。
 その旨を伝えようと口を開くと、マリュ子は俺が言うよりも早く、「A型でしょ」と答えを言い当てた。
 俺がうなづくと、「やっぱりね。そうだと思ったわ」と小さく笑った。
「あたしね──」
 自分のおなかに手をあてて、マリュ子は話しだす。
「あたしね、この子のコトならなんだって知ってるわ。好きなモノも、嫌いなモノも、大事なモノも、全部」
 優しい声だった。目もとから一瞬、けわしさが失われた。
 そうか──吐息まじりに小さく呟いて、俺は言う。
「子供の性別はどっちなんだ?」
「男の子よ。まだ調べてないけど、男の子よ」
 断言する。
「あの日、最後に清美に会ったわ。あたしのところに来た時は、もう薄れて、消えかけてた。その姿が、すごく綺麗だと思った。去りゆく清美が、愛しいぐらい綺麗だと思った。死んでいく姿が、泣きたくなるぐらい綺麗だと思った。
 あたしは清美を抱きしめた。その時にはずいぶん消えかけてたから、清美が最後に何を言ったのかはわからない。唇しか動いてなくて、声は聞こえなかった。
 だけど、これだけはわかった。
 抱きしめた清美が、溶けるみたいにあたしの中に入ってきたこと。体の奥でぬくもりを感じたこと。その瞬間に、ひとしずくの命に魂が宿ったこと」
 ねえ──マリュ子は俺の顔を見つめる。
 見つめて、小さく微笑んだ。
 その時、少女は母の顔をした。
 ねえ、幽霊がいるなら、魂があるなら──。


「人は、生まれ変わるわよね?」


 ささやくようにそう呟くと、マリュ子は「もう行くわ」と歩きだした。部屋の扉に手をかけた。
 扉を開けるマリュ子の背中に、俺は、
「子供が生まれたらさ、出産祝いをかねて、その子に誕生日プレゼントを持っていくよ。名前をいれたメッセージカードをつけて」
 そう声をかけた。
 マリュ子は振り向いて、いたずらっぽく笑った。「あら。子供の名前、知ってるの?」
 ああ、知ってるよ──俺は答える。

 ああ、知っている。
 その子供の名前を、俺はもう知っている。

 だって、あの日、「またな」と言って別れたんだ。

 おかえり、清美。
 また、会えたね。

少年幽霊

少年幽霊

家庭教師のアルバイトをしていた大学生。そんな彼のもとを訪ねてきたのは、交通事故で死んだ教え子の少年だった。幽霊になった少年は必死な顔で言う。「セックスしたいの! セックスさせてっ!」 こちら中学生、性欲をもて余す──。幽霊を成仏させるには、未練を断ち切るしかない。ということは、やることは1つ…?

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-31

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