周ちゃんの幼い頃

周ちゃんの幼い頃

     (児童文学)周ちゃんの幼い頃


                     作者 桜花周一

 (一)
 周ちゃんは三歳の男の子です。周ちゃんには生れたばかりの妹の郁ちゃんがいました。お母さんは、「わーん、わーん」と泣く郁ちゃんの声を聞くと、郁ちゃんのおむつを替えたり、おっぱいをやったり、だっこしてあやしたりしました。周ちゃんはお母さんが妹にとられたように思いました。
 ある日、おばあさんが周ちゃんの家に来ました。
「周ちゃん、元気にしてたかい」
「うん」
「郁ちゃんは元気かい」
「知らん」
「知らんって何やね」
 周ちゃんは、妹の郁ちゃんの話が出ると、どこかへ行ってしまいました。
 先ほどまで眠っていた郁ちゃんが「わーん」と大声で泣出しました。おばあさんが行ってみると、泣いている郁ちゃんの側に周ちゃんがいました。周ちゃんが言います。
「また、泣きよる。よう泣くな」
 お母さんが台所から急いで来ました。
「ああ、よしよし、郁ちゃん、今おしめ替えるからね」
 お母さんがおむつの中に手を入れてみましたが、濡れていませんでした。
「ああ、よしよし、郁ちゃん、おしめじゃなかった。お腹、空いたん。おっぱいあげるからね」
 お母さんは郁ちゃんをだっこして、おっぱいをあげました。周ちゃんは言います。
「お母さん、僕にもおっぱいちょうだい」
「周ちゃん、何言うとるの。あんたはもう、赤ちゃんやないんやから」
「でも、僕もおっぱい欲しい」
「周ちゃんは赤ちゃんの時、一杯お母さんのおっぱい飲んだやないの」
「でも」
「でも・・・・じゃないの。周ちゃんはもう赤ん坊じゃないんやから、大人と同じご飯を食べたらええの」
 その時、郁ちゃんの足をさすっていたおばあさんが「あっ」と小さな声を上げました。郁ちゃんの太ももが赤くなっていました。おばあちゃんは言いました。
「周ちゃん、これどうしたん」
「知らん」
「知らんじゃないでしょう。あんたがつねったん違う」
「・・・・」
 お母さんも言います。
「どうしてこんなことしたん」
「知らん」
「また、知らんって。あんたをそんな卑怯な人間に育てた覚えはありません」
「・・・・」
「正直に言いなさい」
「・・・・」
「誰がこんなことしたん。正直に言いなさい」
「僕がやりました」
「どうしてこんなことしたん。あんたは郁ちゃんが憎いん」
 周ちゃんの目には涙が一杯たまっていました。おばあちゃんが言いました。
「周ちゃん、分った。もう、涙ふき。お母さんが郁ちゃんばかりかわいがるから、・・・・」
 周ちゃんはわーんと泣出してしまいました。
「周ちゃん、もう、ええ。泣かんとき。周ちゃんな、おばあさんの家に来るか。おばあさんとおじいさんと一緒に暮すか」
 こうして周ちゃんは、おばあさんとおじいさんの家で暮すことになりました。

 (二)
 おじいさんとおばあさんは家で呉服屋を営んでいました。
 周ちゃんはおじいさんの家では大人しく、いい子にしていました。夜、寝る時には着ていた服をきれいにたたみ枕元に置き、パジャマに着替えます。朝は、おじいさんと一緒に起き、顔を洗います。ご飯を食べる時には、手を合わせて「いただきます」と言います。ご飯が終れば、「ご馳走さま」と言います。
 今まで、服をたたむことも、顔を洗うことも、手を合わせて「いただきます」「ご馳走さま」も言うこともありませんでした。
 おばあちゃんはいつも周ちゃんの頭をなでなら言っていました。
「いい子になりや。賢い子になりや。嘘をついたらあかんよ。人様に迷惑をかけたらあかんよ」
 周ちゃんはおばあさんとおじいさんの言いつけを守っていい子になろうと思いました。周ちゃんはいつも呉服屋の店の奥で一人で遊んでいました。
 ある時、周ちゃんの頭に大きなおできが出来ました。おばあさんもおじいさんも周ちゃんの頭に出来たおできのことを心配しました。店を訪ねてくるお客さんにおばあさんは聞きます。
「この子の頭見て、ほら、こんな大きなできものが出来た。どうしたら治るやろか」
 ある人が「ドクダミの葉を煎じて貼ったらええ」と言うと、おばあさんはどこからかドクダミの葉を手に入れて来て、それを煎じて周ちゃんの頭に貼ります。また、ある人が「ユキノシタの葉をつぶして貼ったらええん違う」と言うと、おばあさんは店の中庭に生えていたユキノシタの葉を取ってきてすりつぶし、周ちゃんの頭に塗ります。どこそこの寺の護符がいいと聞けば、それをもらってきて周ちゃんの頭に貼ります。しかし、ドクダミもユキノシタも、護符も効目がありませんでした。護符を貼ってしばらくした時にはもっとひどく腫れあがり膿がどくどく出たほどでした。
 おばあさんは周ちゃんの頭を抱きかかえて、
「周ちゃんのおでき治れ、周ちゃんのおでき治れ、周ちゃんのおでき治れ」
 と言います。万策尽きたおばあさんは気分を変えようと思ったのでしょうか、
「さあ、周ちゃん、そんなら風呂にでも行ってさっぱりしようか」
 と言って、銭湯に行くことにしました。おばあさんは銭湯のかみさんにも聞きました。
「あんたな、この子の頭、見てみて。このおでき、どうしたらええと思う」
「さあな」
「今まで色々試してみたけど、どれもこれも駄目やった」
「まあ、きれいさっぱり風呂に入って、頭も丁寧に洗って、ポマードでも塗ったらどうやろか」
「何冗談言うとるん。こんな子供の頭にポマード塗ってどうするん」
「まあ、これも試しやな。今日なポマードの試供品が入ったよって、これあげるさかに、試しに塗ってみい」
 おばあさんは半信半疑でしたが、わらをもつかむ思いで試してみることにしました。おばあさんは周ちゃんの体と頭をきれいに洗い、頭をよく乾かしてから試供品のポマードをおできとその周りに塗りました。
 二、三日すると、どうしたことでしょう、周ちゃんのおできはぐんぐん小さくなり、四日後にすっかり治ってしまったのでした。その間ずっとおばあさんは朝晩、周ちゃんの頭を抱いて、
「周ちゃんのおでき治れ、周ちゃんのおでき治れ、周ちゃんのおでき治れ」
 と祈っていたのでした。

 (三)
 ふた月に一度、おじいさんは反物の仕入に京都、大阪に行きます。その日もいつものようにおじいさんは出かけました。
「ほんなら、行ってくるでな。四日には帰れるから、周ちゃんを頼んだぞ」
 おじいさんが反物の仕入に京都・大阪に行って、三日後でした。いよいよ明日にはおじいさんが帰って来るという日でした。朝から台風が近づいていて、風が段々強くなり、昨夜から降り続いている雨もガラス窓をたたきつけています。戸もガタガタ音がしています。
 それまで、おばあさんはおじいさんに代ってお客さんの相手をして店を切盛りしました。お客さんのいない時には、帳簿をつけたり、お金の計算をしたり、食事の用意をしたり、掃除・洗濯をしたり、と大忙しでした。
 でも今日は風と大雨でお客さんはいません。おばあさんは川を見に行こうと思いました。ひょっとして川が溢れるかもしれないと思ったのです。長靴を履いてカッパを着て出かけようとしている時、周ちゃんは「僕も行く」と言い出しました。
「すぐそこの大川を見てくるだけやから、心配せんでええ。すぐ戻ってくるから」
「僕もカッパ着て行く」
 おばあさんは、大川まではすぐ近くだから一緒に行ってもいいだろうと思い、周ちゃんにもカッパを着せ、長靴を履かせて、風と雨の中、外に出ました。大川には何人もの大人の人がいます。
「こりゃもう溢れるぞ。大水や」
 川の水は生き物のように勢いづき、うねりながら、もう道路に溢れ出るすんでの所に来ていました。周ちゃんはいつもとは全く違う川の濁流をじっと見ていました。しかし、おばあさんは周ちゃんを連れてすぐに引返しました。
「周ちゃん、ええか、よう聞きや。大水になるかもしれん。おばあさんは店の反物を二階に上げなならん。周ちゃんは二階でじっとしときなさい。大人しくしとんやで」
 周ちゃんは心に決めました。じっと大人しくしとかないといけない。おばあさんはこれから忙しくなる、おばあさんの邪魔をしたらいけない、大人しくしておかないといけない。
 おばあさんは周ちゃんを二階に一人置いて、下に降りて行きました。今度二階に上がって来る時には、両手に反物を抱えています。それを二階の棚の前に置き、また下に降りていきます。また、両手に反物を抱えて上がってきます。二階の棚の前には反物が段々積まれていきます。
 外は何だか暗くなってきています。風はドンドンと戸を打付けます。雨はますます激しく降っています。ドーンという音がしました。周ちゃんは怖くなり、おばあさんの後について下に降りました。店の座敷から店の全体を見回しました。コンクリート打の土間にはもう水が入ってきていました。その水は流れており、外から中へ入って来るのが分りました。そして、水位がゆっくり上がって来るのです。値段の高い反物が入っていた座敷の棚は下の方は空になっていました。しかし、座敷から降りた所にある棚の物はほとんど残ったままになっています。おばあさんはその棚の物を二階に運ぼうとしていました。長靴を履いて土間に降り、棚から反物を座敷に運びます。次から次と棚から反物が出され、座敷に積まれていきます。
「今度はこの反物を二階に運ぶから、周ちゃんは二階に行きなさい」
「僕も運ぶ」
「周ちゃんはいいから、二階に大人しくしておりなさい」
「いや、僕も運ぶ」
「周ちゃん、これは急いでやらなならん。早く二階に上がりなさい」
「いや」
「ほんなら、おばあさんと一緒に二階に上がろう」
「うん」
 周ちゃんは反物一反を持っておばあさんと一緒に二階に上がりました。でも、周ちゃんにとって反物を持って階段を登るのは大変でした。一段ずつゆっくりゆっくり上がったのでした。
「周ちゃん、いい子やから、ここに大人しくしといて」
 その時、またドーンと大きな音がしました。周ちゃんはおばあさんにしがみつきました。小さな体を震わせています。そして、今にも泣出しそうな顔をしています。
「周ちゃん、大丈夫やで、心配せんでええから、おばあさんがいるからね」
「うん」
「ほんなら、ここにおるんやで」
 おばあさんは口を真一文字に結んで下に降りていきました。両手に反物を抱えて上がってきます。階段の上がり口におばあさんの顔が見えた時、周ちゃんはわーんと泣出してしまいました。おばあさんは急いで上がって来ました。反物を置き、泣いている周ちゃんをぎゅっと抱きしめました。周ちゃんはひっくひっく言いながら泣いています。おばあさんは決心をしました。
「周ちゃん、おんぶしてやろ。それなら、ええやろ」
 おばあさんはビロードのおんぶ紐を取出し、周ちゃんをそれに乗せ、おんぶしました。そして、店の反物を二階に上げる作業を続けることにしました。
 周ちゃんはおばあさんの背におんぶされながら、周りを見ました。階段から下りる時、底知れぬ谷底に降りて行くように怖いと感じました。店の座敷に降りて来ると、水は先ほどより上がっています。おばあさんは周ちゃんを背負い、座敷に積んである反物を抱え、階段を登っていき、また降りてきます。それを何回も何回も繰り返します。
 座敷に積んであった反物がなくなり、棚も中段より下が空になった頃、大水は座敷一面を濡らしました。おばあさんはそこで反物を二階に運ぶ作業を止めました。
 おばあさんは周ちゃんを背から降ろし、おしっこをさせ、二階で寝かしつけました。周ちゃんが寝ている間も、大水は水位を増し、店の座敷も一階の台所も奥の間も水浸しになりました。

 (四)
 翌日、水は引いていました。しかし、畳は水を含んでぶよぶよになり、店の棚も下の方は泥だらけ、土間も廊下も泥だらけでした。
 おじいさんが仕入から帰ってきたのは、大水の翌々日で予定より一日遅れでした。おじいさんは大水の後を見ながら、涙を流して言いました。
「わしのいない間に大変な苦労をかけてしもうた。小さい周ちゃんをおんぶしながら店の反物を全部二階に上げたのは、本当に偉かった。お前のおかげでこの店も潰れんとやっていけるじゃろ。本当にご苦労じゃった。お前がいなかったら今頃はどうなったいたか。ばあさんや、ほんまにありがとう」
「周坊主、泣かずにおばあさんの言うことをちゃんと聞いていい子にしとったか」
 周ちゃんは照れながら、「うん」と言った。
 大水の上がってきた位置が今でも奥の間の壁にくっきりとその跡を残しています。

 (五)
 大水があって、一週間後には呉服店は再開されました。
 それまで、おじいさんとおばあさんは、泥やゴミを拭取り、畳を入替え、棚をきれいにし、二階に上げられた反物を下に降ろし、反物以外の雑貨類の並べ替えをしました。二人とも大忙しでした。周ちゃんは邪魔をしないように一人で遊んでいました。
 店が再開され、お客さんが戻ってきました。店も再び活気づいてきました。それに伴って、おじいさんの呉服屋から仕立を請負っている針子さんも頻繁に出入りするようになりました。おじいさんの呉服屋には三、四人の針子さんがいましたが、その中で最もおしゃべりで元気なのは二谷(ふたたに)さんです。
 二谷さんは仕上げた着物をおじいさんに渡し、新しい注文を受けると、後は世間話をしたり、周ちゃんに話しかけたりしていました。ところが、最近店に周ちゃんの姿が見えません。二谷さんはおばあさんに聞きます。
「周ちゃんはどこ行ったが」
「奥で一人で遊んどるやろ」
「ほんなら、ちょっと見てくるわ」
 二谷さんは店の座敷に上がり、つかつかと奥に行きました。奥の板敷になった薄暗いところで周ちゃんは一人で豆を升で計って遊んでいました。
「一合、二合、三合、・・・・、九合、十合、あっ、一升になった」
「周ちゃん、こんな所で何しとるが」
「豆を計ってん」
「いつも一人で遊んどるが」
「うん、おじいさんもおばあさんも店が忙しいから」
「一人で遊んでて寂しいことないか」
「うん」
「でも、友達がいた方がええやろ」
「そうかな」
「おばあさんは忙しいから、遊んでもらえんやろ。周ちゃん、保育園へ行ったらどうやろか」
「保育園って何」
「友達が一杯いて、みんなで遊んで楽しい所や」
「ふーん」
 二谷さんは、おじいさんとおばあさんに周ちゃんを保育園へ入れることを進言しました。周ちゃんがいつも一人で遊んでいるのをかわいそうに思ったからでした。
 おばあさんは余り乗り気ではありませんでしたが、二谷さんが熱心に勧めるので、周ちゃんを連れて一度近くの保育園を見に行きました。保育園の庭では大勢の子供たちが元気に遊んでいました。滑り台やブランコで遊んでいる子や、鬼ごっこしている子、砂場で遊んでいる子、低い鉄棒にぶら下がっている子、何かわいわいきゃあきゃあ言いながら走っている子、どの子も元気に楽しそうにしていました。
 おばあさんはそれを見て、周ちゃんもこんな風に元気に走り回って遊ぶなら保育園も悪くないと思いました。
「周ちゃん、この保育園に来て、みんなと一緒に遊ぼうか」
「おばあさんはどうするん」
「おばあさんは店の用事があるから、ここには来られん」
 周ちゃんはどう答えたらいいのか分かりませんでした。でも、おばあさんは入園の手続きを進めました。数日後、おばあさんは周ちゃんを連れ保育園に行きました。事務室でおばあさんは女の先生に挨拶をしました。
「それでは、よろしくお願いいたします。周ちゃん、ほんならいい子にしてるんやで」
 そう言っておばあさんは帰っていきました。保育園の先生は周ちゃんを下足室に連れて行きました。下駄箱には色々な小さな絵が貼ってありました。先生はそれらの絵の内、クマの絵を指さしながら言いました。
「周ちゃん、このクマの絵が貼ってあるところに、脱いだ靴を入れるんやで」
 また、傘を掛ける所にも色々な絵が張ってあって、先生はまたクマの絵を指さしながら、
「雨が降って傘をさしてきた時は、その傘をたたんだ後、このクマの絵が張ってあるところに傘を掛けるんやで」
 と教えるのでした。周ちゃんは、クマは僕のマークだと分かりました。次に先生は周ちゃんを部屋に連れて行きました。部屋の後ろに棚があり、そこにも色々な絵が張ってありました。周ちゃんはずっと見て、クマの絵を見つけました。周ちゃんは他の子がしているようにカバンをその棚の中に入れました。周ちゃんは黙ってそうしたのでしたが、先生は満足そうにうなずきました。
「周ちゃん、カバンを置いたらしばらく遊んでおいで」
 と先生は言ったまま、事務室に帰っていきました。周ちゃんは遊んでおいで言われてもどうしたらいいのか分かりませんでした。外では大勢の子供たちが遊んでいました。でも、周ちゃんにとっては知らない子ばかりで、どこへ行って誰にどう声を掛けたらいいのか、何も分かりませんでした。独り部屋でじっと座っていました。部屋にはちょくちょく顔を出す子もいましたが、誰もこの見知らぬ子には声を掛けません。先生も来ませんでした。周ちゃんにとっては何がどうなっているのか、どうしたらいいのか、分かりませんでした。
 一人で遊ぶにも何もありませんでした。おじいさんの店にいる時にもほとんど一人でしたが、お客さんが何やかやと声を掛けてきましたし、何と言ってもおばあさんやおじいさんが見守っていることが分かっていましたから、何も不安はありませんでした。しかし、ここでは何をしたらいいのか分からず、何がどうなっているのか分からず、不安が一杯でした。何もすることがないとなると、これほど退屈なことはありませんでした。
 昼過ぎにようやく先生が声を掛けました。
「周ちゃん、もう帰っていいよ」
 それを聞いて、周ちゃんは急いで帰りました。おじいさんの店に着くと、おばあさんが話しかけてきます。
「周ちゃん、保育園、どうやった、楽しかった、何して遊んだ」
「なにも」
「えっ、何もしてないん、誰とも遊んでないん」
「うん」
「ほな、何してたん」
「座ってた」
「座ってた? ただ、じっと座っていただけかいな」
「うん」
 翌日の朝、いつものように周ちゃんは起きました。ご飯も食べました。しかし、おばあさんが「保育園に行こうか」と言っても、周ちゃんは決して「うん」とは言いませんでした。「いや」と言うばかりでした。おじいさんも念を押して聞きました。
「周ちゃん、ほんまに保育園に行かんが」
「うん、ここにいる方がいい」
 おじいさんはそこに周ちゃんの固い意志を感じ取りました。おじいさんには、もう周ちゃんは保育園に行かないと決めていることが分かりました。
「周ちゃん、分かった。もう、保育園に行かんでもええ。ここにおったらええんや。ばあさんや、周ちゃんをもう保育園にやらんでええぞ」
 おばあさんにも周ちゃんの気持ちが分かりましたし、おじいさんの決断も分かりました。おじいさんもおばあさんも、もう二度と保育園の話は一切しませんでした。
 周ちゃんはたった一日保育園に行っただけで、翌日には今の言葉で言えば登校拒否あるいは不登校になったのでした。でも、おじいさんにとってもおばあさんにとっても、身近なところに周ちゃんを置いておけることにむしろ安心していたのでした。そして、何より保育園より店にいる方がいいと周ちゃんが思っていることを知って嬉しく感じていたのでした。
 周ちゃんは以前と同じように店の奥で一人で遊んでいるのでした。

 (六)
 妹の郁ちゃんは三歳になり、地元の保育園に通うことになりました。ついでに周ちゃんも一緒に保育園に通えば、お母さんにとっても都合が良かったので、周ちゃんは実家に呼び戻されました。
 五歳になった周ちゃんはもう郁ちゃんに打擲(ちょうちゃく)することはありませんでした。周ちゃんはお兄ちゃんらしく妹の郁ちゃんを連れて保育園に通いました。
 周ちゃんにとって、ここの保育園はおばあさんの家の近くの保育園ほどよそよそしくはありませんでした。先生たちは周ちゃんのことを知っていて適度に声を掛けに来ました。だから独りで座っていること以外何もすることがないということはありませんでした。
 保育園では、朝の挨拶から始まり、みんなで歌を歌ったり、お遊戯をしたり、紙芝居を見たり、おやつを食べたり、昼寝をしたり、と日課が決まっていました。それ以外は園庭で自由に遊ぶのでした。
 周ちゃんは、歌もお遊戯も余り得意ではありませんでした。どう歌っても調子が外れていたし、お遊戯ではみんなのやっているのを見よう見まねでやるのでワンテンポ遅れていました。踊りの振り付けはいくらやっても身につけることが出来ませんでした。
 でも、紙芝居は簡単でした。ただ見ているだけで良かったからです。それらの紙芝居はどれもこれも、大人が子供用に縮こまって作っているように思えました。しかし、その日の紙芝居はいつもと違っていました。話はこうです。
 ある山にタヌキの家族が住んでいました。お父さん、お母さん、子供のポンタと妹のポコちゃんです。ポンタは食べ物に好き嫌いがあり、嫌いな物は食べようとしません。ポコちゃんは何でも嫌がらずに食べます。
 今朝もお母さんがポンタににんじんを食べさせようとしています。
「ポンタや、今日はにんじんをちゃんと食べないといけませんよ」
「嫌いだもん」
「嫌いでも食べないといけません。にんじんを食べていかないと、今日の腹鼓の練習でいい音が出ませんよ」
「そんなことないもん」
「諸処寺の和尚さんも嫌いな物でももりもり食べて元気に腹鼓をたたきましょう、と仰っていたでしょ」
「そんなこと知らないっと」
「ポンタ、そんなこと言うもんじゃありません。ポコちゃんを見てご覧、にんじんを全部食べてるわよ。ポンタも一つだけもいいから食べて行きなさい」
「そんなら一つだけ」
 そうしてポンタはにんじんを一口だけ嫌々食べ、ポコちゃんと一緒に諸処寺へ行きました。諸処寺では和尚さんがいつものように言います。
「皆さん、今日も朝ご飯をしっかり食べてきましたか」
「はーい」
 でも、ポンタだけは返事をせず、浮かない顔をしていました。和尚さんがポンタに言います。
「ポンタ、朝ご飯はどうした」
「一口だけ食べて来ました」
「何を一口食べたのかな」
「にんじんです」
「ポンタはにんじんが嫌いか」
「はい」
「それで一口だけ食べたのか」
「お母さんが食べなさい、食べなさい、と言うので、一口だけ嫌々食べました」
「それで、ポンタはお腹が一杯になったのかな」
「いいえ、ちっとも。でも、いいんです。嫌いな物は食べたくありません」
「ほほー、それじゃ腹鼓もちゃんと叩けないな」
「そんなことありません。ちゃんと叩けます」
「そうかな。まあ、良いわ。それじゃ、皆と一緒に腹鼓の練習をしようか。さあ、みんな用意をして、はい、始め」
 タヌキの子供たちは一斉にぽんこぽんといい音を出しています。妹のポコちゃんもとてもいい音を出しています。
「よし、よし、みんなとてもいい音が出ているな。ポンタ、お前もやってみなさい」
 ポンタは一人で腹鼓を叩きました。ところがどうでしょう。その音は、ボコボコと張りのない弱々しい音でした。タヌキの子供たちは一斉に言いました。
「何、その音」「ボコボコ言うてる。変な音」「元気ないの」
 ポンタは「そんなことないよ。ほら、いい音が出るよ」と言いながら、腹鼓をたたきました。でも、その音はポンタの耳にも貧弱に聞こえました。
 その時、ポンタは初めて分かりました。朝、お母さんが嫌いなにんじんでもしっかり食べないと腹鼓の練習の時、いい音が出ませんよ、と言っていたことが本当だったんだと。和尚さんもそのことを教えてくれたのだと。
 次の日から、ポンタは嫌いなにんじんもしっかり食べ、お腹いっぱいにして諸処寺に行きました。そして、ポンタの腹鼓からは、ポコちゃんや他のタヌキの子供たちと同じように元気ないい音が出るようになりました。
 紙芝居はそんな話でした。周ちゃんはその紙芝居を見てあることに気づきました。
「ふーん、大人はこうやって子供の食べ物の好き嫌いをなくそうとしているんだな」
 と。周ちゃんは紙芝居の意図を見抜いてしまったのです。紙芝居だけではありません。先生の話もそうでした。話には何らかの意図があり、その意図を理解しないといけないんだな、と分かったのです。それ以来、周ちゃんは紙芝居や先生の話を注意深く聞くようになりました。そして、その意図を見抜くことはとても楽しいことだったのです。

周ちゃんの幼い頃

周ちゃんの幼い頃

子どもの心を描写した児童文学作品

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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