時の砂時計

時の砂時計

サークルの文集に掲載したことのある作品です。 画像の白いアネモネは「K'sBookshelf 辞典・用語 花の名前小辞典」から拝借しました。

 余命一ヶ月と担当の医師から宣告された時、不思議なことに私はショックを感じませんでした。こう言ってしまうと懸命な治療を施してくれた医師やお世話になった看護婦はさながら、毎日私の病状を心配して来てくれる両親に申し訳ないけど、むしろ牢獄のような無菌治療室やら薬の副作用やら発病と治療やら後先真っ暗の人生等に悩まされること、考えさせられること、いろいろなこと何もかもから解放されるのだと、そんな冷静で残酷な考えが一瞬もしない内に頭の中を駆け巡ったのでした。
 別に生きることを諦めたわけでは決してないのですが、どうやらそれと並立する形で、私は自分の死を受け入れもしていたようです。はい。受け入れてしまったのです。
 けど思い返してみれば、最初に病院を訪れた時に、医師と両親から病名を告げられた時既に、自分の死を八割方悟っていました。だって中学生の時も高校生の時も保健体育の授業で嫌でも名前を耳にしたような病気を、しかもその病気の進行を遅らせる薬はあっても完治する薬は未だにないような病気を私は患っていて、さらに言うなら発病期というとても危険な段階に入りかけていると告げられたのですから、私のどうしようもない小さな脳ミソでもそれぐらいのことは安易に導くことは出来ました。
 病名(というか症状名?)を聞いて、即座に「あっ、私死ぬんだ」と思ってしまったぐらいですし、その時に十分悲しんだこともあって、その後の闘病生活は抜け殻のような心地のまま、後々で思い返してみると本当にあっという間に過ぎていってしまいました。だから余命を伝えられた時、残りわずかの人生を嘆くこともなければ、何かしら特別な思いが込み上げてくることもありませんでした。
 本来なら、やり残したことや最後にやりたかったことにできる限り時間を費やすのが理想的で、感動ものの映画によくある展開なのでしょうが、現実はそんなに甘くはありません。余生を満喫するどころか、私は無菌室でほぼ寝たきりの生活を余儀なくされてしまいました。監禁状態と言っても過言ではありませんが、私にとっては他の人達が平気な外の世界が猛毒と言って差し支えないほど危険な場所でありました。それまで自分は広々とした世界の住人だったのに、今やその世界から弾き出された罪人のような気分です。
 そんなわけで、死が訪れるその時まで私にできたことは、ガラス越しに外の世界を傍観することでした。「外の世界を傍観する」というものはずいぶん聞こえは良いですが、実際に見えるのは、日時によって変化を遂げてゆく空とたまに飛び去ってゆく鳥ぐらいしかありません。たったそれだけのことなのに、なぜか私は一日中ずっとそうして過ごすことができました。寝たきりですと腰がとても痛くなるので起き上がったり横になったりと、自分の体を拘束する鎖のようなチューブや医療機器が邪魔にならない程度に態勢を整えながらでしたが、そうして時間を貪るように世界を傍観することは苦ではなかったのです。
 以前の私なら、そんなふうにじっとガラスの向こうを眺めることに耐えかねたでしょう。その頃になると日に日に身体が弱っていくのを自覚することができましたし、もしかしたら心の方も徐々に蝕まれていたのかもしれません。
 余命を宣告されてから、どれくらいの日が経ったのでしょう。傍観する日々を過ごす内にいつしか私は時間を気にしなくなりました。さっきまで朝だったのに、ふと気がつけば夜になっているのです。それは世界から自分だけが取り残されているようでもありました。
 世界は常に動いている。けれども自分がいるこの十畳ほどの空間だけが、外とは別の時間の流れを形成していて、私はその場所から外の動き続ける世界をただ眺めているのだと。
 ほぼ寝たきりの生活に思考だけが活発に働きながら、私はただ漠然と余生を送っていましたが、最近は身体を動かすことも思うようにいかないほど弱り、外の世界を眺めることもままならないまま、真っ白な天井を見つめていました。もうそろそろのようです。無情にも時間というものはやってきます。
 私はそっと首を動かして、ベッドの横にある、今日お母さんが置いて行ったお見舞いの品を見つめました。プラスチックのケースに入った白い花。私が一番好きな花です。
 担当の医師に頼み込んで、プラスチックの密封ケースが絶対という条件で承諾を得ましたが、これではまるで今の私そのものです。無菌室に隔離され、白いベッドに白い病人服に白く細くなった私の肌。花はその30cm四方の空間の外にいる私を見つめています。
「あなたが見ている世界はどんな世界?」
 問いかけても返事は返ってきません。とても静かな夜でした。
 私はそのプラスチックケースの隣にある、横に置かれた砂時計へと手を伸ばしました。これもお母さんが置いて行ってくれたお見舞いの品です。……勘違いしないように一言つけ加えるなら、どちらも持ってくるように私がお母さんに頼み込んだものです。病人に砂時計というのもいささか不謹慎かもしれませんが、今の私にはどうしても必要なものでした。
 横倒しの砂時計を手に取ろうとしましたが、寝たままの状態ではあとわずかのところで届きません。咳き込みながら手を伸ばしても指先に触れるだけで、それ以上こちらに近づけることはできませんでした。
 そうしている内に咳は酷くなり、痰を吐き出すこともままならないまま、私は急に込み上げてきた寂しさに押しつぶされそうになりました。ひとりで、このまま世界の片隅のちっぽけな一室で、死を迎えることが急に怖くなったのです。ガラスの向こう側は雲がかがっているのか暗くて何も見えません。次の朝日を見るまで持つ自身はありませんでした。
 せめて最後ぐらい、死にかけの少女のお願い事ぐらい叶えてよ、神様。別に何か大それたことでも、我が儘なことでもないから。
 力を振り絞って手を伸ばしましたが、砂時計には届きませんでした。ベッドの隣にある机とは距離が遠く離れているわけではありません。もう私は手を完全に伸ばすことすら、ままなりませんでした。伸ばした手は触れることはできても届くことはなく、やがて力尽きてしまいました。
 胸のあたりに感じていた違和感は確かな痛みとなり、激しく咳き込むと喉には焼け爛れるような熱、口の中には鉄の味が染み込んできました。
 私はもう一度力を振り絞って右手を伸ばしました。緊急ボタンではなく、砂時計へと手を伸ばしました。指先に触れるガラスと支柱、でもあと少しのところで届きません。手で掴むことはできませんでした。
 それはまるで私の二十年ちょっとの人生を表しているようで、そう考えてしまうとこうして掴めないものを掴もうとしていることに、行き場のない虚しさと寂寞を抱かずにはいられなくて、そして最後のこれっぽっちの望みも叶わないことに、涙が込み上げてきました。
 視界は歪み切って、砂時計がどこにあるのかもおぼつかなくなり、声にならない呻き声を立てながら涙を拭おうとしましたが、溢れてくる感情は左手だけでは拭いきれませんでした。止まることなく目の奥から次々と溢れ出て毛布に染み込み、咽びと咳を混じらせた奇声のようなものは静かな夜へ溶け込んでいきました。
 その時でした。私が、私のあとほんの僅かしか残されていない人生の中で、彼女と出会ったのは。
「泣いているの?」
 咽び声が響く、世界の片隅の一室の中で、鈴の音のような凛とした声が響きました。若い女性の声です。私の声ではありません。その声は私の涙を拭い去るような余韻と、頭の中で反復するような木霊を残しました。
 私はその声によって、それまで抱いていた負の感情をどこかへ見失いました。正直に簡潔に言うならば、とても驚きました。今は夜中で、しかもここは限られた人しか入ることのできない無菌室という閉鎖された空間で、私のすぐ隣から突然声が聞こえてきたのです。それも夢や幻のようなものでもなければ、幻聴や幻覚のようなものとも言いがたい、はっきとした声を。
 反射的というには実にゆっくりとした動きでしたが、無意識的に私は声のした方向へと身体を向けました。涙で周りがぼやけていたので毛布で拭うと、歪んだ視界が少しずつはっきりとしてきました。
 黒い着物を纏った、和服姿の少女がそこに立っていました。黒く長い髪の少女。体つきは中学生くらいで小柄でしたが、肌はこの部屋にあるどの白よりも白く、どの白よりも澄んだ色をしていて、黒々とした和服から垣間見える肌は女子の私でさえ見蕩れてしまうほど美しく、整った顔立ちには幼さと儚さが残っていて、日本人形を連想させるような妖しくも麗しいかんばせの少女でした。
 いつの間にか雲が晴れたようで、彼女の顔の形から着ているものまで月の光に淡く照らされ、窺うことができました。光源として月明かりは物足りないものでもありましたが、十分なほど少女の姿を照らしていました。彼女の耳元の髪に、花弁の先端にある緑色の模様が特徴的な小さな白い花が三つほど飾られているのも、それがとても似合っているのも窺うことができました。そして、黒くどこまでも透き通った目が私を覗いているのも。
「あなたは誰? どうしてここにいるの?」
 痛む肺を押し殺しながら問いかけます。痰が喉に絡んだわけではないのに、声が途切れかけます。決して寒くはないはずなのに、身体が小刻みに震えているのがわかりました。
 そう、私はそんな問いかけをするまでもなく、もうなんとなく彼女の存在に心当たりがあったと正直に言いましょう。だって、夜中の病棟に、しかも無菌室にこうして入ることのできる存在と言ったら少なからず人間ではありませんし、黒い和服を着ている少女はどう見間違えたって看護婦さんではありません。
「幽霊なの?」
 黒い和服の少女は少しばかし首を傾げながら、「なぜそんなことを聞くの?」と言いたげな視線を(表情は何一つ変えませんでしたが)私に向けていました。少なくとも私にはそう見えました。
「わからないわ」
 鈴の音のような凛とした声が響きます。ふと意識を離せば聞き漏らしてしまうかのような儚い声。だけど一度耳を通るといつまでも余韻が残っているようなそんな声でした。
「それじゃー、……死神?」
「たぶんそう」
 我ながら半分冗談のつもりで言ったのに、肯定されてしまいました。最期の最期で死神に出会ってしまうなんてシャレになりません。
「そっか、死神なんだね」
「これまでもそう呼ばれてきたわ」
「そうなんだ。ふふふ」
「どうして笑うの?」
 黒い和服の少女は首を傾げます。
「だって私が知っている死神は骸骨の顔で、魂を刈り取る大鎌を持っていて、黒い破れたローブを……まぁ黒い和服でもいいけど、ちょっとイメージと違ったかな。ふふふ」
 彼女の表情は依然として変わりません。透き通った目で私を写していました。
 死神というものについての知識など、ファンタジー作品を手に取った程度のことしかしりませんが、不思議なことに私はこの少女がフィクションとして描かれているどの死神とも違って、怖ろしく悍ましい存在とはかけ離れた存在であると思いました。女の勘です。根拠はありません。
「ねぇ、あなたの名前は?」
「スノーフレークス」
「え?」
「……カケラ」
 私は死神の少女の声に静かに耳を傾けました。
「ユキノカケラ」
 凛とした声が静かな無菌室の中に響き渡しました。ユキノカケラ。それは彼女の醸し出す雰囲気にピッタリの名前でした。
「それがあなたの名前?」
「そう」
「本当にあなたは死神なの?」
「たぶん」
 たぶん、というものはどう言う意味でしょう。本当にわからないのでしょうか。それとも言葉を敢えて濁しているのでしょうか。彼女の表情からは何も読み取れませんでした。
「そっか。私の名前はね、」
一華(ひとはな) 牡丹(ぼたん)
 告げる前に彼女から告げられてしまいました。名前を言いかけた口が、そのまま虚しく開いたままになってしまいます。
「どうして私の名前を知っているの?」
「もうすぐ死ぬからよ」
 心臓を突き刺されたようでした。私の命があとわずかなのはわかっていたつもりなのに、こうも単刀直入に言われてしまうと、言葉の切れ味に心が切り裂かれます。
 彼女は正真正銘の死神なのでしょう。おそらく私の魂を狩にやってきた死神。そういうことなのでしょう。そうでなければ、私の名前を当てたことに説明がつきません。
「そう……。それじゃー、私って地獄に落ちるのかな」
「地獄?」
 何なのそれ?とでも問いかけるように死神の少女は聞いてきました。
「えっ!? 死神に狩られた魂って地獄に行くんじゃないの?」
 少女は首を傾げます。表情は変わりません。
「私の役目はあなたが死んだ後に身体から魂を切り離して、元あった場所へ還すことよ」と少女は答えます。「狩るのではないわ」
 訂正が入りました。いささか不適切な表現だったでしょうか。
 要するに死神である彼女の役目は、死者の魂を肉体と切り離すことのようです。そして今回の彼女の目的は私……ということなのでしょう。
 私は考え事をして思考を巡らすのは得意ですが、ファンタジーものについては門外漢もいいところなので、彼女の話についていくので精一杯でした。ただ単に、この非現実的な出来事と状況をうまく飲み込めないのかもしれません。
 そうして今の状況を自分なりに咀嚼していると、一際大きな咳ができました。肺が内側から突き刺されているように痛みます。喉は熱した鉄を当てているかのように燃えます。口の中に押し上げられた痰には確かな血の味を感じました。
 寝ているままの姿勢では咳き込んだ時に苦しいので、ちょっとずつ身体を動かしながら這い出て、枕を背もたれ代わりに寄りかかりました。自分の身体なのに思うように動かずことができず、長い時間をかけました。枕もとの机にあるティッシュ箱から何枚か抜き取って、口の中のものを吐き出すと、白い生地は赤く、濃く染まりました。
 血というものはどうしてこんなにも赤いのでしょう。その色を見ただけで、現実に突き戻される感覚に陥ります。
 血は白いティッシュを染めていきます。咳をするとまた溢れてきて、その度に私は肺に走る激痛と息苦しさにひたすら悶え苦しみました。何枚取っても赤く染め上げていきます。
 咳が落ち着いたところで、私は近くにゴミ箱がないことに気がつき、仕方なくティッシュをプラスチックケースと砂時計がある机のところに置きました。少女はその間もずっと表情を変えずに、私をただただ見つめています。彼女には一体どのように移っているのでしょうか。私には想像もつきません。
「綺麗」
 それまでじっと私に向けられていた彼女の視線が、この時初めて外れました。依然として顔つきは同じでしたが、花に興味があるようでした。
「その花はアネモネって言うのよ。私の好きな花。毒があるけど、とっても綺麗な花よ。品種もたくさんあってね、色や花弁の形も様々な種類がある花なの」
「白い色のものが好きなの?」
「とくに白の八重咲しているアネモネが好き」
「元気がないみたい」
「ずっとケースの中だったから。それに春に咲く花だから、もう散ってしまうの」
「あなたみたい」
 うん。本当にそう思う。
 一回だけ首を縦に振りました。すると、彼女は机のところまで歩み寄ります。わずか一歩あるかないかのとても短い距離でしたが、ずっと私の隣に立っていたままだった彼女がそうして動くのを眺めていると、彼女が確かに目の前に存在するのだということを改めて感じました。
 ちゃんと足もあります。裸足で、肌はやはり雪のように白く、無駄がない肉つきで綺麗でした。
 彼女は白いアネモネを、白い花弁が重なりあうように咲いているその花を、透き通るような黒い瞳の中に写しているようでした。
「アネモネの花言葉を知っている?」
「うん」と私は答えます。「あなたは?」
「わからない」と彼女は答えます。
「教えて」
 花を見つめながら彼女は言いました。それは花に話しかけているようにも見えました。
「花言葉は『期待』、『辛抱』、『真実』、『はかない恋』、『薄れゆく希望』、『見放される』……他にもいくつかあるけど、どれもあまりいい意味ではないわ」
「それでもこの花が好きなのね」
「うん。ケースに入れて無菌室に持ち込むぐらいにね」
 ふと、私もケースの中のアネモネを見つめます。アネモネは所々萎れてしまっていて、白い色が褐色になりかけている花もありました。ケースの床には枯れかけた花びらがまばらに落ちていて、同じ机の上にある、血で汚れたティッシュと形が重なり合いました。
「……本当に、私みたい」
 その言葉はしばらくの間、狭い空間の中に残留し、辺りを揺蕩いながらやがて消えていきました。いつの間にか私は花から目を逸らしていました。
「とても美しいわ」
 また、鈴の音が響きました。彼女の声は波紋となって、無菌室の中を反響するような錯覚を受けます。相変わらず淡々とした口調の彼女でしたが、その一言は彼女の心からの言葉のように思えました。私にはそう聞こえました。
「あなたも」
 彼女の声はとても不思議でした。言葉は頭の中で反復を繰り返し、余韻は私の心を揺さぶります。これは死神特有のものなのでしょうか。私にはわかりません。ただ、気持ちが不安定になってきているのがわかります。落ち着きませんでした。
「私は美しくなんかないわ」
「どうしてそう思うの?」
「だってもう体中ボロボロよ。胸の辺りが痛むし、呼吸も苦しいわ。咳き込めば血を吐くし、それにもう長くないしね」
 自分の最期を想像しました。激しい咳と共に、これまでにないくらい口から血を吐きだして苦しみながら死ぬ、その結末を。
「病で侵された、穢れた血を巻き散らす最後は、とても美しいとは呼べないわよ。それにたとえ綺麗で美しい花を咲かせても、最後に枯れて散るときは惨めなものよ」
 私は続けます。終わりが来る前に、言葉を吐きます。
「私の身体はね、病気で穢されてしまったの。
 子供の頃事故にあって、私は一度死にかけたことがあった。その時は手術が成功して助かったけど、今思えば、あの時に大人しく死んでおけば、きっと綺麗な身体のまま苦しむこともなかったんでしょうね。
 輸血をした時に、私の身体の中にとても悪い病気が入ってきたの。その病気は、私の身体を守ってくれる抗体を長い時間をかけて浸食していって、気がついたら私はただの風邪でも命が危うい身体になっちゃった。
 みんな私から離れていったわ。友達も、知り合いも。彼氏にも見捨てられたわ。家族だって、少なくとも私を敬遠した。周りからは、触れると病気がうつるって言われたこともあったし、援交していただとか風俗で働いていただとか、そんな事実無根の噂だって広がったわ。みんな私を汚らわしいものを見る目で見た。だから、私は、美しくなんかない」
 いつの間にか声を張り上げていました。肺の痛みも、息苦しさも忘れて。訴えかけるように、自分の中に溜まっていたものを吐き出しました。
「アネモネはね、彼氏から初めて貰ったプレゼントだったの。あいつバカでさ、毒があることも、不吉な花言葉のことも何にも知らないで、ただ綺麗だからって理由で私にプレゼントしたのよ。笑っちゃうよね。
 喧嘩したこともあったし、一緒に悲しんだことも、笑い合ったこともあったのに、どうして最後はあっけないんだろう。それまでの何もかもが全部否定されたみたいだったわ。
 でもね、だからって彼を責めることも、みんなを恨むことも私にはできなかった。だって立場が違かったら、私だって加害者になっていたもの。友達や彼氏がこの病気に侵されていたら、きっと彼らと同じことをしていたわ。もしかしたらもっと酷いことをしたかもしれない。人なんて自分がどこに立つかで、被害者にも加害者にもなれてしまうものなのよ。でも、そのことに気がつくのは自分が被害者の側にまわってしまった時なの。何もかもが手遅れだったのよ。私の人生は」
 気がついた時には全てが遅かったのです。まっすぐ自分の道を歩いていたはずなのに、ふと顔を上げたら、そこにはもう元の道なんてものはなくて、ただ先が行き止まりで、これ以上進めないところまで来てしまったのです。
「けど、それももう終わりよ。死んでしまえば自分がどうであったかなんて、どっちの立場だったかなんてことは無意味になるわ。だからもういいの」
 彼らのことを許せるかと問われれば、私は許せないと答えるでしょう。それは、例え私の立場が加害者であったかもしれないという可能性を踏まえても、揺るぎません。許せないものは許せないのです。でも、許せないからといって、死に掛けの私にできることなんて皆無なのです。呪うことや恨むことをしたとしてもそれが一体何になるのでしょう。それで人は死にませんし、まして実行できたとしても、私自身が満足して終わりです。それだけです。
 足掻いて無駄なことをするほどの気力は、もう私には残されていませんでした。はっきり言ってしまうなら、もう諦めていたのです。今更周りの人たちのことを考える必要はないです。そう、私はもう死ぬのですから。
 結末なんて美しいものでないことぐらいわかっていたので、せめて最期くらいは、(しがらみ)のように付き纏うものをすべて振り解いて、死を受け入れたかったのでした。
 私は、机の上に横倒しになっている砂時計を手に取りました。さっきまでは手が届かなくて心が折れもしましたが、今は枕に寄りかかっている体勢なので容易でした。
「でもね、どうしても考えてしまうことがあるの。もし私の病気がなかったら、今頃私はどうしていたのかなって。……都合がいいことはわかっているわ。けど、あったかもしれない、ありえたかもしれない可能性や未来を考えちゃうの」
 姿勢を変えただけで取れなかったものが取れたように、何かちょっとしたことで結果は大きく変わってしまうのです。変化の始まりは大きいものとは限りません。案外、些細なことから始まったりするものなのです。
「もし病気がなかったら、私はきっと大学へ進学していたでしょうね。成績はそれなりだったし、そこそこの大学に行けたはずよ。いや、彼氏と同じところかな。色々な友達も作って、サークルに入って、あいつとデートしたり、遊びに行ったり、たくさんの思い出を作って……。春になって私の誕生日が来たら、たくさんのアネモネをプレゼントしてくれるの。あいつは『綺麗な花だよ』って言いながら花をくれるけど、私は『その花には毒があるでしょ』って言って、そしたらあいつは少し困った顔をしながら微笑んで、『それでも、綺麗な花だから僕は好きなんだ』って言いながら、私にアネモネを手渡しするの」
 我が儘です。これは死にゆく少女の妄想なのです。それでも私は考えてしまいます。私の、永遠に失われた時間を。
「私の時間はどこへ行っちゃったのかな。私が歩みたかったはずの時間はどこへ消えちゃったのかな。どうしてこんなふうになっちゃったのかな」
 砂時計を握り締めながら、考えてしまうのです。こんなはずではなかったのにと。そして誰のせいでもない真実に、このどうしようもない現実に、絶望するしかなかったのです。
 話過ぎたようです。また咳が出始めました。
 悶えながら、落ち着くのを待ちました。ティッシュで口元の血を拭いとります。
「ねぇ、時計って何のためにあるのか知ってる?」
「時間を計るため」と彼女は答えました。当たり前の問いかけに対し、当たり前の答えが返ってきます。依然として彼女の表情は変わりません。淡々とした口調も、鈴の音のように儚い声も。
「その通りよ」と私は答えます。「時計は時間を計るためにあるの。回り巡る針や数字列の繰り返しで、時間を計る物。そうして多くの人は『今』を認識するのよ。スポーツ選手とかはスピードを競うのに使ったりしているけど、大部分の人達は今という時間を知るために使っているわ。私も今が何時かを知るのにデジタルの腕時計や壁にかけられたアナログ時計をよく見る。
 でもね、そういう時計で『今』を計るのは適切ではないと思うの。時計では計りきれないと思う。だって、ああいう時計は回り巡る針や数字列の繰り返しでしかないのよ。規則正しいリズムを延々と刻み続けながら、また元の場所や数値に戻ってくるように作られた機械なの。でも人はそんな風にはいかない。人は限られた時間の中でしか生きることができないのよ。生きる中で、人はその限られた時間を消費していくの」
「砂時計のように?」と彼女は問います。
「砂時計のようにね」と私は答えました。
 私は手の中にある砂時計を見つめます。砂時計は横に倒した状態のまま持っているので、一方のガラス管の中に砂が溜まっています。私に残された時間です。
「人はそれぞれ自分の砂時計を持っていて、そしておのおのの時間を生きてゆくの。違いはガラス管の大きさでも、中にある砂の量でもないわ。砂が落ちる穴が少し広いか狭いかのちょっとした違いなのよ。それだけなの」
 あらかじめ大きな差があるわけではないのです。差はとても些細なもので、それが大きな差を作ってしまうのです。
「落ちていく砂、自分に残された砂を見て『今』を計ることが大事なことだったのよ。機械仕掛けの時計のようにまたやってくる明日だとか変化のない今日だとか、そんな考えを捨てて、その日その日を自分の人生の中の、一粒の砂なんだって思うことが大切なことだったの。そうすればきっと、やりきれない思いを抱きながら後悔して、辛抱しがたいほどの現実に絶望することもなかった。そのことにようやく気がついたわ」
 ――すべてを失ってね、と最後に一言だけつけ加えました。
 そして私は、手の中にある砂時計をそっと机の上の、アネモネの隣に立てました。上部分に入った砂は穴を通って落ちていき、下に小さな山を作っていきます。
「人は限られた時間を消費していくと言ったけど、砂時計の下に溜まっていく砂はその人の『過去』だけじゃないと思うの。あったかもしれない時間、ありえたかもしれない未来、起こったかもしれない事、起こりえたかもしれない可能性、生きていく中で失われていた様々なものが溜まっていくのよ、きっと。
 砂時計はね、そういった『時』も計れるのよ。機械仕掛けの時計は『今』しか教えてくれない。でも砂時計は、残された砂を見て『今』を計るだけではなく、失った時間も計ることのできる、『時』を計る時計なの」
 机の上に立てられた砂時計の底には、落ちてきた砂が徐々に溜まっていきます。そう、私の失った時間も、きっとそこにあるのです。
「ねぇ、ひとつだけ……ひとつだけでいいから教えて。死んだあと、あなたが私の身体から魂を切り離したあと、その魂ってどこへ行くのかな。元あった場所って言ってたけど、それはどこなんだろう?」
「わからないわ」
 ごめんなさい、と謝られた気がしました。それは今までの「わからない」とは、少し違っていたように感じました。
「魂は元あった場所へと還って行く。それは過程のようなものよ」
「砂時計の砂が移動するみたいに?」
「そう」
「なら安心。消えてなくなっちゃうわけじゃないみたいだしね」
 声が潤んでしまいます。視界が歪んでいきます。
「生まれ変われる可能性があるなら、それだけわかったなら、もう十分。思い残すことはないわ。私はもう死んじゃうけど、次に生まれた時はもうちょっとだけ物事を考えながら人生を歩みたいところね。ふふふ。まぁ、次が人間に生まれてくるとも限らないけど。
 砂時計も生まれ変わる時に新しくなるのか、それとも元々あった砂時計が反転するのかはわからないけど、もうちょっと長生きしてみたいなーなんて、儚い夢や期待を持ってみたりね」
 もう、止めることはできませんでした。
 私の中に溜めこまれていた感情が零れ出てゆきます。涙や声となって溢れていきます。両手で拭いきれないほど流れていきます。
「なのになんで……。もう私に残されている時間はないのに、それなのになんでなの? 洗いざらい全部話したのに、とっくに死を受け入れていたと思っていたのに、どうしてこんなにつらいの? 悲しくて、苦しいの?」 
 私は壊れてしまったのでしょうか。溢れ出てくる感情をコントロールすることができませんでした。声にならない呻き声を立てながら、ひたすら「どうして?」と自問自答を繰り返しました。胸が熱くなって痛みます。それは病に犯されている肺とは別の痛みで、私はその痛みに耐えることができずに、身を焼かれるのでした。
 私は急に怖くなりました。込み上げてくる感情の本流に対する恐怖、自分が自分でない恐怖、わけのわからぬまま死んでしまうのではないかという恐怖に犯されました。誰かにしがみつきたい衝動に駆られて、私は助けを求めるように彼女に胸の内を自分なりの言葉で表現しようと口を開きかけました。開きかけたまま、そのまま言葉を失いました。
「え?」
 私の発した音はどこかへ消えていきました。高ぶっていた感情や出芽しかけていた恐怖も、その間が抜けた声のようにあっけなくどこかへと飛んでいってしまったのです。情緒が不安定で、半分狂乱していた私が我を取り戻したのは、驚愕によるものでありました。
「泣いているの?」
 私は問いかけました。無意識的に言葉を疑問として吐き出しました。
 驚かないわけがありません。私がいくら話をしても表情を変えずに、まるで人形みたいに無機質的で、何を考えているのか見当もつかないほど変化がほとんどなかった彼女が、涙を流していたのです。涙は頬を伝って次々と落ちていきます。雪のように降っていきます。
「わからない」と彼女は答えました。「とても悲しいの」
 凛とした声に、彼女の心がほんの少し垣間見えた気がしました。彼女は手で自身の頬を、伝ってくる涙をそっと触れます。
 私はなぜか彼女の涙につられてしまって、再度泣き始めました。何がなんだかわからないまま、彼女へ叫びます。
「死神なのに、どうして泣くのよ。らしくないわ。まったく、あなたは本当に死神なの?」
 彼女は私の問いに返事を返しませんでした。彼女は手を握り締めて胸のあたりを押さえます。そして涙を目に溜めながら告げるのでした。
「寂しくて、つらいの」
 不思議なことに、その瞬間、彼女の姿が私と重なりました。見透かされたようでした。自分でも見ることのできなかった心の奥底を。
 その言葉で私は気がつきました。彼女に気づかされたのです。
「ああ、そっか。私、ただ寂しかったのね……」
 言葉にすると痛みは増しました。自分の中で何かが合致しました。見えていたのに見ようとしなかった自分の感情にようやく気がついたのです。思えば些細なところで、私は自分の寂しさを露見させていました。アネモネの花を飾ったり、ありえたかもしれない時間を想像してみたり、意味もなく長ったらしい話をしてみたり……。でも、いくら言葉や理屈を並べても、寂しいという感情を埋められずにしたのでした。
「本当にバカみたい。いつも気がつくのは何もかも終わってからなのね」
 私は辛抱する必要なんてなかったのかもしれません。寂しいなら寂しいと、ただ言えばよかったのかもしれません。少しだけ、ほんの少しだけ勇気を出していれば、運命までは変えられなくとも、過程は変えることができたのでしょう。
 ふと気がつくと、私は彼女に抱き締められていました。突然のことに私は思考が追いつきませんでしたが、彼女を拒む理由もなく、むしろ誰かに縋りたくて彼女を抱きしめ返しました。思えば、誰かとこんなに近くに身体を寄せ合うのは久しぶりで、こうしているのがとても心地よく感じました。涙が込み上げてきて、声が震えます。
「死神なのに……こんなに温かいのね」
 最期の最期で私は誰かの温もりを胸の内に噛みしめたかったのでしょうか。また咳が出てきました。視界が歪んでいくのは、今度は別のもののようです。砂時計はあとわずかのようです。
「ありがとう」と、静かに涙を流している彼女に告げました。そして最後に、彼女を見つめます。その顔を忘れないように。こんな私を美しいと言ってくれた、私のことで涙を流してくれた彼女を忘れないように、私は記憶の中に刻みます。私の最期の時間を一粒の砂に込めます。時の砂時計に溜まっていく砂は『過去』だけではありません。私の記憶も、思いも、涙もひとつひとつの砂粒となって、積み重なっていくのです。
「美しく咲いた花は、散る時も美しいわ」
 鈴の音のような声が聞こえました。すぐそこに彼女がいるのかはもうわかりません。私は残された力で、精いっぱいの笑顔で答えます。

 砂時計の砂がすべて落ち、私の二十年にも満たない短い人生は幕を閉じました。最期の、一粒の砂が落ちるほどの刹那、走馬灯に現れたのは彼女でした。小さくて可愛らしい、特徴的な花を髪に着けていました。

――あなたも美しい花よ。

時の砂時計

ご精読ありがとうございました。

時の砂時計

砂粒ほどの、残りわずかの人生の中で、 私は黒い和服を着た死神の少女と出会いました。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-30

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND