密星-mitsuboshi-


片側二車線の道路に
車の気配はない

遠目に見えるのは
あの時と変わらないコンビニの光

静まり返った深夜
頭上には変わらず
星が3つ並んでいた

鼻をとおる夜の空気は
冷たい冬の匂いがする

空を見ながらもう一度
胸いっぱいに吸い込んた冬の匂いと一緒に

ふわり
あなたが香った気がした

甘くて強いわがままな香り


思わず口元に小さな笑みが浮かぶ
同時にチクリと胸の奥が痛んだ

まだあなたのかけらが
私の中に残っているのか…

また小さく笑みが浮かび
冷たくなった手を
コートのポケットにしまった

1


早紀は信号待ちの交差点で
ふと空を見上げた
朝のオフィス街の空は
薄日が差して淡い水色だった

10月のはじめにしては気温が低く
足を止めると冷たい風が通る

トレンチコートの襟元を手でにぎり
赤く光る信号に視線を戻した


*間野 早紀*
短大を卒業してすぐ
求人募集をしていた
大手カード会社に入社した


《 職種は営業事務。
土日祝日休み。
賞与は年2回 》


特にやりたいことも
目指すものも無かった早紀は
条件欄にあったこの一文で
就職先を決め
今年で入社4年目になる



向かいの信号の下には
周りのビルへ出勤していく人や
乗り換えの地下鉄へ急ぐ人で
何列にも重なっている

その信号の奥
大きなビルにはめ込まれた
電子ビジョンに
今日の占いが流れているのが
目に入った


『今日のふたご座
出会いのチャンスがいっぱい
ラッキーアイテムは
携帯電話
お気に入りの靴』


早紀は手に持っていたスマホを見た


「出会いと、携帯に靴ねぇ…」

つぶやいたところで
信号の色が青に変わった
人の波に押されるようにして歩き出す

その時…

カツンっ!

音と同時に左足がもつれ身体が前に傾いた



ー あっ、転ぶっ ー


そう思った瞬間

少し甘くて我の強い香りとともに腕を掴まれて
身体がふわりと後ろに戻る

自由のきかない足元を見ると
横断歩道の真ん中にあったマンホールの溝に
ヒールを取られていた


「大丈夫?」

その声に掴まれた腕の方を見ると
少し褐色の顔が早紀を覗き込んでいた

ダークグレーのスーツに
黒のコート
少し褐色の顔
片方の目尻の少し下に小さなホクロ…
年齢は30代くらいだろうか


「あ、ありがとうございます
大丈夫です」

慌てて姿勢を戻す

「それなら良かった」

男性は口元だけ笑うと足早に横断歩道をわたり
人の波に見えなくなった

マンホールにハマったヒールを抜いて
早紀も急いでわたり終え
見えなくなった黒いコートを探したが
もう確認することは出来なかった

早紀は掴まれた腕をさすった
強い手の感触と
少し甘く、でも我の強い香水の香りが
少しだけ残っていた

2

早紀の勤務する会社のビルは
先ほどの横断歩道から少し歩いたところにある

ライトグレーを基調とした15階建てのビル
エントランスは2階ほどの高さまで吹き抜けて広々としている

出勤してきた社員たちは
奥に2機あるエレベーターの前に列を作り
自身の番を待っていた

早紀もその列の後ろに並ぶ

「おっはよ!」

後ろから肩越しにはずんだ声
振り返るといつも通りに髪の毛を
頭のてっぺんで大きくおだんごにまとめ
小さい丸顔から八重歯がニコっと笑う


「おはよう、美加さん♪」

早紀も笑顔を返した



*河本 美加*
年齢も社歴も早紀の1年先輩で
早紀が新入社員のこほに勤務指導員として
一緒に仕事をしていたのがきっかけで
何かとウマが合うのか
今では先輩ながらも
お互い何でも話せる親友のような存在になっている
すらっと細身の可愛らしい女性だ


「あれっ。間野ちゃんのパンプス、
左側のヒール傷ついてるよ?
これ、買ったばっかでしょ。
どした~?」


「えっ!うそっ」

早紀は慌てて美加が指差す方の足を
後ろに浮かせ
体をひねってかかとを見た

7センチヒールのネイビーのパンプス
ピンヒールに小さいストーンが斜めに3つ並び
一目で気に入りつい2日に買ったばかりだった

見るとヒールのストーンが取れて
斜めに削れたようなスジが入っていた


「あーもぉ…ストーンまで取れてる。
……あれだ。…あの時」


早紀は先ほど起こった小さな不幸を思い出した

「あんのマンホールめ……」

「マンホール? ハマったの??笑」


美加の口元に八重歯が覗く


「さっき交差点でマンホールの蓋に引っかか
って転びそうになってね…その時だ絶対」

軽く痛んだ左足を思い出してため息をついた

「まぁ、転がっておっきなケガしなくて良か
ったぢゃん♪」

美加がまた八重歯をのぞかせている

「そりゃそうだけど…なんか悔しい。
あ…。その時ね、転びそうにた時
助けてくれたヒトが ー」

言いかけたとき

「おーい、早くボタン押せよ」

2人のすぐ後ろから声が飛んできた

その声にエレベーターを見ると
自分達の前に並んでた列が
きれいにエレベーターの中に収まり
電子表示された階数数字がどんどん上っていた


早紀は慌てて上矢印のボタンを押した

「おはよう、林田!」

美加が振り返ってまたニコっと笑っている

「おぅ。おはよ」

2人の後ろにいたのは 林田 尚行
美加と同期だが、
大卒なので年齢は2人より上になる

同期の美加とは何かと仲が良かったが
そこに早紀が加わり
今では周りからも3人兄妹のような扱いを受けるほど仲がいい


「林田さんおはよ。まーたそんなの飲んで…」


早紀は2人に向き直り
林田が手にもっていた
ピンクの紙パックを指差した

「あぁ? いーんだよ。
朝は糖分とらないと頭がまわらんのよ
朝のエンジン、イチゴ・オレ」

そうゆうと林田は
パックに刺さったストローを
チューーっと一気に吸いあげ
中身を飲み干すと

「うまい。やっぱこれだよ」

と中の空気が無くなり
変形した紙パックを2人に見せて笑った

3

5Fの数字が点滅し エレベーターの扉が開く
早紀たち3人を含め数人がこの階で降りた

「じゃあな」

林田は降りてすぐ
早紀と美加に向かって軽く手をあげて
エレベーター前に左右に通る廊下を
右に歩いて行った
林田が歩いていった先は突き当りが
ガラス張りのスモーキングルームになっている

仕事前の一服は林田の日課なのだ

早紀と美加は林田とは逆方向 左へ歩きだした
こちらの突き当たりはオフィスになる

ロッカーに荷物をしまい
化粧直しをかねてトイレに行くのが
早紀と美加の毎日の習慣だ

エレベーターとオフィスの中間にあるトイレは
給湯室を挟んで左右に男女分かれている
男性用に比べ女性用トイレは
パウダールームが設置されていて広い


「そういえば、
今日から債権管理部の課長が
新しくくるんだっけ?」

美加がパウダールームの大きな鏡の前で
ファンデーションのスポンジをおでこにあて
洗面台で手を洗う早紀に鏡越しに話しかけた

「あー。そうだったね」

早紀も手を拭きながら
美加の隣にたって鏡を見た

「管理部も大変だよね…
カードの未払い多くて。
回収出来ないから目標数字いかなくて
すぐ責任者が変わって…。
林田も大変だ」

「そうだね。
私たち審査部とは全然違うもんね」

「誰が来るかわからないけど
同じ空間で仕事してる以上
あんまり変な人だったらいやだなぁ」


美加は前髪の癖を直しながら口を尖らせた
早紀は鎖骨にかかるダークブラウンの髪を
後ろでひとつにまとめながら


「そーだなー…
社歴が長いベテランで
すっごく怖い人だったりして…」

と鏡越しにニヤっと笑う

「え~やだ~ 空気がビリビリするじゃ~ん」

早紀の予想に美加は両方の頬に手を当てて
大げさに頭を振って見せた

「ほらもう時間 いこっ!」

早紀は笑いながらスマホに表示されてる時計の数字を見せた

二人は目の前の大きな鏡に向かって
身なりを確認し
パウダールームを後にした

4


早紀と美加は
新規でクレジットカードの申し込みをする顧客に対して与信審査をする部署に在籍している

男性2名女性8名合わせて10名ほどで
ノルマや数字に追われることのないこの部署は2人にとって、
とても居心地がよかった

同じスペースに債権管理部が引越してきたのは2年前

カードの支払いを延滞する顧客や
未払いが続いている顧客を対象に
請求行為をする部署になるが
ここ数年でそういった顧客が増え
会社としてその問題は急務だった
力を入れるため人員を増やしたため
使っていたブースが手狭に

規模の割にフロアを独り占めしていた審査部とスペースを共有することとなった


その管理部には林田が籍を置いている
早紀と林田が美加を介して仲良くなったのも
その時からになる


午前9時30分

皆が一同に席から立ち上がり
自部署ごとの朝礼が始まる

でも 今日は違った

「おはよう
今日は管理部と審査部合同で朝礼を」

審査部の吉田課長が全体に声をかけた
前に出た吉田に全員の身体と視線が向く


50歳前後で前髪に薄く白髪が混じり
丸いフレームのメガネの奥の目は垂れ目
物腰が柔らかく滅多に声を荒げたりしない
そんな吉田は審査部以外にも信頼が厚く
人気のある人物だ


「皆も知っての通り本日付けで
管理部の責任者として来られた渡瀬課長。
こちらへ…」

吉田に紹介され
管理部ブースから1人の男性が
吉田のいる前方中央へと出てきた

年齢は30前後でダークグレーのスーツに
少し褐色の肌が映える

ー あれ…? あの人 ー

早紀は驚いた
そこにいたのは
朝、横断歩道で助けてくれた人
まさにその人だった

ーあの人、管理部の新しい課長だったんだ…ー

早紀は無意識に掴まれた腕をさすった

渡瀬は1歩前に出て
自分に集中する視線を見渡した

「今日付けで管理部を任されることに
なりました渡瀬です。
知っての通り管理部の現状は
頭が痛い問題が多くこれをなんとかしないと
いけないということで…
ビシビシ!とやっていこうと思ってます。
また、審査部の皆さんには
私が来たことで、そのビシビシ!の部分で
少し騒がしくなるかもしれませんが
予めよろしく」

と言うと口元だけ笑った

騒がしくなる??
大半の社員の頭の中には
ハテナが浮かんでいたが
一部の管理部の社員は
目と目を合わせ下を向いた

それを見た吉田は面白そうにニヤっと笑った

5

時計の針が12時をまわり
お昼の休憩時間にはいる

「美加さん、今日はお弁当?」

早紀は隣のデスクでパソコンに向かっている美加に声をかけた

「ううん、今日は作って来なかったから
マス屋の日替り定食食べたい!
でもちょっとだけ待って!
これだけ入力しちゃうから!」

パソコンから目を離さずに答えた美加は
手が忙しそうにキーボードの上を動いている


「OK~マス屋ね。
私ちょっとお手洗いに行ってるね」


早紀は席を立つとロッカーから
財布とスマホを出すとトイレに向かった

歩きながらスマホの画面を開くと
1件のメールが届いていた

昨日問い合わせをしたいたことへの返答メールだった


「…やった!在庫あった~よかった♪」


ドカっ!


「キャっ」

メール内容を一読して喜んだ瞬間
男性トイレから出てきた人と
思いきり肩がぶつかった

その拍子に持っていたスマホが
男性の足元に落ちた


「おっ…と、悪いっ!
…大丈夫?」


この声
この香り

早紀は軽いデジャヴを感じた

「悪い、大丈夫?」

もう一度声がした

声の主は渡瀬。渡瀬孝久だった。


「すいません私の方こそ前見てなくて」

早紀が落ちたスマホを拾おうと手を伸ばすと
紙一重で渡瀬が拾い上げ
早紀の前に差し出した

「あ、ありがとうございます」

受け取ろうとスマホに手をかけた時

「好きなの?」

渡瀬の口元が笑い
まったく予期しない質問が飛んできた

「へっ?」

早紀は間の抜けた声を出すほど面食らった

いきなり何?何が好きだって?
この質問の主語は何だ?

早紀の頭は返答にパニックになった

「俺も ー 」

渡瀬が何か言いかけたところで

「すいませんお待たせしました!
メシどこいきます?!」

勢いよく林田が男性トイレから出てきた

「おっそいよお前。
マス屋の刺身定食終わったら
どうしてくれるんだよっ」

渡瀬は笑いながら
林田の足に軽く蹴りを入れた

「ちょっ!すいませんって…!
…ってあれ?間野ぢゃん何やってんの?」

渡瀬の蹴りをよけたところで
そのやり取りを驚いた顔で見ている
早紀に気づいた林田は
早紀と渡瀬の顔を交互に見た

「あぁ俺がトイレから出たら勢い余って
ぶつかっちゃったんだよ。
それより急ごうぜ、俺の刺身が終わる」

渡瀬はそう言うと林田の肩をバンっ!と叩いてエレベーターの方に早足で歩き出した

「いってぇ!ちょっと待ってくださぃよ~
…あ、じゃあな間野!」

林田は叩かれた肩をおさえながら渡瀬の後を追った


その場に取り残された早紀は
嵐が去ったような感覚で2人が乗ったエレベーターの方を見ていた

「ごめんね~おまたせ!いこ?」

急いでやってきた美加が早紀の顔を覗き込んだ美加の顔を見て我に返る

「あ、うん!えーと、どこ行くんだっけ?」

「マス屋だよマス屋♪日替り!」

美加が楽しそうに笑った

「あぁ、そぅだった、マス…」

ー マス屋? さっき確か… ー

「!!!」

早紀はあることを思い出した

「美加さん!ちょっとマス屋はまた今度に!
パスタにしよ!ねっ?!」

「へ??」

早紀はポカンとしている美加の手を引き
エレベーターに乗せた

6

外に出た早紀と美加は
会社の前の信号を渡り
道路を挟んで向かいにあるイタリアンのお店に入った

店内はさすがのお昼時で混んでいたが
運良く入り口横の通りに面した窓がある席が空いていた

2人はランチセットを注文すると
ウェイターが運んできたグラスの水に口をつけた


「それで?私の楽しみを奪った理由はなぁに?」

美加が目を細めてニュっと顔を突き出した

「ごめん、なんてゆうかちょっと気まずくて」

早紀は苦笑いを返す

「気まずい? マス屋が?」

「いや、あのね…
朝マンホールにハマった話ししたでしょ?
その時、転びそうになった私を助けてくれた人
がいたの。それがあの管理部の渡瀬課長でね」

「えー!朝言いかけてた助けてくれた人がどうと
かって、それあの人だったの?」

美加の表情がぱっと明るくなった

「うん。その時にろくにお礼も言えなかったから
ちょっと気になっててさ。
だから朝礼で出てきた時はもぅビックリ」

「そりゃ驚くわ~。すごい偶然。
なんか運命的だね♪」

「まぁそこまでなら運命的だね…」

美加がニヤニヤ笑っていると
ランチセットのサラダとスープが運ばれてきた

「それで??」

美加はスープをすすりながらも
目は興味深々で早紀を見ている

「さっきね、
トイレの前で思いっきりぶつかったの。
その渡瀬課長と。」

「ぶつかった?」

「そぉ。事故。
朝のお礼どころか、またお前かぐらいに思われ
たと思う。
それともうひとつ…」

ウェイターが話の腰を折らないようにそっと
メインのパスタをテーブルに並べた

「もうひとつ?」

「うん。ぶつかった拍子に落としたスマホを
課長が拾ってくれたんだけど、
受け取ろうとした瞬間にいきなり!
“好きなの?” て」


早紀のその言葉にパスタを巻いていた美加の手が止まり
眉間にしわが寄った

「…それは、俺に気があるのか?って意味?
偶然の事故は気をひくためにやったって思って
るってこと?」

「どうゆう意味かはわからない。
わからなくて答えに困ってたら
トイレから林田さんが出てきて一緒にマス屋に行くってそのまま行っちゃったの」

美加はサラダ突きながら首をかしげた

「…謎だわー。
もし私が思った通りの主語だったら
どれだけ自意識過剰なんだか…」

「でもその後“好きなの?”の後に“俺も”
って何か言いかけてたの
林田さんが勢い良く出てきたから
聞き取れなかった…」

「俺も?え、なにそれ“俺も好き”ってこと?!」

「わからない…わからなすぎて同じ空間にいるのは気まずくてマス屋はちょっとって…」

「…だめだ、ぜんっぜん意味わかんないわ。」

美加の眉間にはさらに深いシワがよった

「あ、スマホといえば…これ見て!」

早紀はあることを思い出し
スマホの画面を美加の前に出した

「読んでみて! 在庫あったよ♪」

美加は画面を指でスクロールしながら
そこに書いてある文章を読んだ

「あぁ!
林田の誕生日プレゼントにって探してたお酒か
ぁ!どこも在庫なかったけど見つけたんだ~!
へぇ~キレイ」


メールには在庫ありの内容の記載と吟醸酒のサンプル画像の添付があった。
そこに写る曇りガラスのような一升瓶の真ん中についたラベルは
薄ピンクから白のグラデーションで真ん中に
達筆な筆文字で“水歌”(すいか)と書かれていた

毎年あまり数が出ない日本酒で
このお酒が飲みたいという林田のために
2人で探してたやっと1本見つかったのだ


「このメール読んでて、
喜んだ瞬間にぶつかったの。
まーったく。理解不能な質問されるわぶつかっ
たところは痛いわで、何か疲れちゃった」


美加から返されたスマホをポケットにしまい
不満そうに肩をなでる早紀

「もぉちゃんと前見て歩きなさいよねー。
ところでさ、林田は何であの課長とランチ?
知り合い?」

「どぉだろう、今日初めましてって感じではなか
ったけど」

「へー…。あっ、噂をすればなんとやら…」

美加はそう言うと早紀の後ろ、
通りに面した窓を指差した

窓を背にして座っていた早紀は
何のことかと振り返った
スーツ姿の男性が4.5人
楽しげに話しながら信号が変わるのを待っていた

その中に渡瀬と林田の姿がある

こちらに背を向けているが
朝からのことを考えるともうこれ以上
渡瀬の視界に入りたくないと思う早紀は
反射的に前に向き直った

「確かに仲よさそうだね林田。
あとでちょっと探りを入れてみよっ」

美加は何となく楽しそうに八重歯を覗かせた

7

午後からずっと
早紀はどこか上の空だった

もぅ会うことはないと思っていたところに
思いもよらない形で現れたこの偶然

相手からしてみたら本当にただの
偶然にすぎない

ただ前を歩いいた女性が転びそうになったから助けた
出勤したらその女性がいて、たまたまトイレの前でぶつかった

そのくらいにしか思わない

きっと私もそうだったはず

謎の質問をされたせいか
助けてもらった時に掴まれた腕に残る感触のせいか
それとも
あの甘くて我の強い香りのせいか

助けてもらった時も
また目の前に現れた時も
ぶつかった時も
少し早く脈を打った自分の心臓が何かを勘違いさせているのか…

早紀のデスクから
管理部のデスク、特にひとつ出ている課長席はよく見えた

パソコンに向かう渡瀬の横顔が目の端に入るたびに
早紀はモヤモヤする頭を小さく振った


18時

終業時間を告げるアラームが鳴った
早紀は待っていたかのように席を立ってオフィスを出た

スモーキングルームの脇には
カップ式の自動販売機が2機並んでいる

早紀は小銭を入れ
ホットのミルクティのボタンと砂糖多めのボタンを押した

それを一口飲むと小さく息をついた

いつもは砂糖のボタンなんて押さないのに
今日はなんだか甘いものが欲しかった

「太るぞ、砂糖多め」

声のした方を見ると
片手にタバコとライターを持った林田が立っていた

「あぁ、ちょっと疲れて糖分が欲しくて」

早紀は苦笑った

「一服しにきたらお前が見えたから珍しい
 と思って。いつもすぐ帰るのに」

「たまにはね。でももぅ帰る。
 林田さんは?帰らないの?」

「まだやらなきゃいけないことあるから
 あと1~2時間てとこかな」

「ふーん、朝勤なのに大変ね」

審査部に関しては審査をを受け付ける時間かが決められているため、残業は少ない
なので自身の仕事が片付けば定時で帰宅できるが、管理部は違った

法律上、支払いの請求に関して電話などで連絡を取る際は
夜21時までは許容されているため
シフトを組み
朝から定時までの朝から勤務と
昼から最後までの昼から勤務というように分かれている

早紀はまた自販機に小銭を入れ
ホットのコーヒーのボタンと
また砂糖多めのボタンを押し、出てきたカップを林田に差し出した

「はいっ。ザンギョー頑張って」

「…お前これ、砂糖多め押したろ。
 俺コーヒーはブラックなんだけど」

「知ってる。人のおごりに文句言わなーい
 じゃね。お疲れ様」

早紀はミルクティを飲み干すと
軽く手を振ってオフィスへ戻っていった



ロッカーで帰りの支度をしていた美加が
早紀を見つけて声をかけた

「お疲れ間野ちゃん!
 ご飯食べて帰らない?」

「そーだね、いこっか!」

疲れてはいたが 、何となく真っ直ぐ家に帰る気がしなかった早紀は
美加の誘いが嬉しかった


会社を出ると外はもう薄暗く
周りのビルのネオンサインが光り出し
居酒屋の客引きが、
帰りがけのサラリーマンにメニュー表を片手に声をかけ始めている

「どこにしよっか?」

早紀は周りのビルを見回した

「ふふーん♪もぅ決まってるの」

美加は楽しそうに笑うと
早紀の腕を組んで歩き出した

美加の目当ての店は
お昼に入ったイタリアンの3件隣りにあった
入り口横に 今日のオススメが書かれた小さな黒板がライトアップされ
看板には大きく筆文字で

『マス屋』

と書かれている

店の前まで来て美加は

「昼がダメなら夜よ♪」

そう言って入り口にかかるのれんをくぐり
店内に入って行った

8

マス屋は 創作和風居酒屋で
夜は居酒屋を営業しているが昼はランチを出している
刺身定食や日替わりランチが美味しいと人気があり
早紀の会社の写真はもちろんのこと
周辺の会社のサラリーマンにも男女問わず大人気である

もちろん本業の夜の居酒屋営業もお客の入りはとても多い

早紀と美加は昼も夜も常連客になっている

「いらっしゃいませー!」

店内に入るとすぐに威勢のいい声で出迎えられた
声の主はマス屋の店主
カウンター席の中にある調理場からニコニコ笑っていた

開店してからさほど時間がたっていないというのに、テーブル席は半分近く埋まっていた

「ここにしよう!」

いつも2人でくる時は2人席かカウンター席に座るが
美加が選んだのは4人席だった

「あれ、もしかして他に誰か来るの?」

「あぁ、うん!林田も呼んだー!」

早紀はさっき自販機の前で林田と話したことを思い出した

「林田さん、まだ少し残業ってさっき会っ
 た時は言ってたけど…」

「そーなの? さっきメールしたら行くっ
 て一言返ってきたから、きっと早々に
 終わらせてくるでしょ♪」

美加はそう言いながら、今日のオススメが書かれたお品書きを楽しそうに眺めている

そこへ

「美加ちゃん早紀ちゃんいらっしゃい!
 何飲む?」

先ほど笑顔で迎えてくれた店主が
おしぼりとお通しを持ってやってきた

見かけは坊主で大柄で怖そうな風貌だが
笑うと可愛く人懐っこい愛されキャラだ

「とりあえず生ビール2つ♪」

美加はお通しをテーブルに並べながら答えた

「了解!
 あとこれ…サービスっ。内緒な☆」

店主は小声でそういうと小皿をテーブルの中央に置いた

「あっ♪マスターの特製ダシ巻き玉子!」

美加の目が輝いた

「今日のランチのあまりだけど、
 良かったら食べて」

そう言うと2人に向かって片目をパチッと閉じてカウンターの中に戻っていった

ほどなくしてキンキンに冷えた中ジョッキに入った生ビールが運ばれてきた

「かんぱ~い!」
「お疲れさま~!」

ジョッキの縁を合わせて一気に飲み干す

「あぁー…美味しいー…」

早紀は空になったジョッキを置いて
大きく息をついた

「なぁに~そんな一気で飲んじゃって~
 もしかして今日ずっとあの謎の質問考え
 てたりしたの?」

地味に当たっているその指摘に動揺する早紀

「まぁ確かにあれは考えるよね(笑)
 “好きなの?”の後の“俺も”って何だろ
 “俺も”、“好きなの?”……うーん」

美加がダシ巻き玉子を頬張りながら首をかしげた
何気なく聞いていた美加の言葉を
早紀は心の中でつぶやいてみた

“好きなの?” “俺も”
“俺も” “好きなの?”
“俺も好き”…

何かを自分も好き…

…!

「あ?もしかして…」

早紀は思い至ったことを確かめるため
バッグからスマホを取り出し画面を開いた

「このことかも。これ見て」

早紀は開いた画面を美加の顔の前に出した
美加が、出されたスマホを受け取ろうとした瞬間
早紀の持つスマホが横にスッと消え、同時に

「なに見てんの?
 …おっ!水歌じゃん!」

聞き慣れた声が弾んだ

見ると、テーブルの横に立ち、
片手で取り上げたスマホの画面を読む見慣
れた顔

林田が立っていた

9

「林田!」
「林田さん!」

美加と早紀の声がそろう

「人の名前でハモるな。
 お疲れ~」

林田は驚いた2人の顔を見て、いたずらに笑うと取り上げたスマホを早紀の手に戻した

「早かったねー」

美加は言いながら隣の席に置いた自分の荷物をどけた

「明日の朝早めに来てやるって出てきた」

林田は空けられた席に座ると同時に
生ビールのオーダーをかけた

先にオーダーしていた2人のおかわりも一緒に届き

3人で本日2度目の乾杯

林田は一気にジョッキを空にするとすぐに2杯目をたのみ
ダシ巻き玉子を口に放り込んだ

「俺このダシ巻き玉子今日2回目だわ。
 ランチにも出たけど何回食べても美
 味いよな」

そういえば林田は今日のお昼にもここに来ていた

話に出たついでとばかりに美加が切り出した

「ねぇ林田。管理部に今日から来た課長
 ってさ、何者?」

「渡瀬さん?…何者って、別に普通の人」

「仲よさそうに見えたけど知り合い?」

「あー。
 渡瀬さんは俺が入社2年目でファイナ
 ンス部異動した時の上司」

『そうなんだ!』

林田の答えに美加と早紀の声がそろう

「だからハモるなって
 1年だけだったけどね。なーんか気が
 合って可愛がってもらった」

早紀はお昼のことを思い出し
なるほど納得と頷いた

「でも若いのに課長職なんてすごいね。
 トシいくつなの?」

「トシは確か俺の5つ上だから33かな
 高卒で入社して、入社当時ファイナンス部
 の部長だった篠山常務に気に入られて
 仕事叩き込まれてきたから、かなり仕事
 できるよ」

「篠山常務って、“鬼の篠山”?!」

美加は目を見開いた

「篠山常務が鬼の篠山って?」

早紀は首を傾げた

「篠山常務は4年前に常務になったんだけど
 その前まではファイナンス部にいて
 死ぬほど怖かったって有名な人でね
 ファイナンス部から異動してきた私の先輩
 は篠山さんの下にいた時、胃痛で何度も休
 んだって言ってた。
 上にも下にも自分にも厳しくて、ついた
 あだ名が“鬼の篠山”」

早紀は篠山常務の姿を思い出してみたが
うっすらと、50代半ばくらいで黒々とした髪をオールバックにしている…
月に1度の全社員朝礼の時に見かけるくらいのレベルだと浮かぶのはその程度だった

「鬼の下にずっといたなんて…
 ただ者じゃないわね渡瀬課長」

「うーん、篠山さんほどじゃないけど仕事
 には厳しいよ。
 朝礼でビシビシやるって言ってたでしょ
 管理部で渡瀬さんのことを知ってる人は
 内心ハラハラしてんじゃない?
 今までみたいにはいかないからねー」

「なーるほど!
 だから吉田課長が笑ってたんだ~」

美加はポンっと手を叩いた

朝礼の時、渡瀬の“ビシビシやる”の部分にかかる圧力に
これからスパルタな日々が始まると察しがついた気まずさに
思わず下を向いた社員を見て吉田課長は笑みを浮かべていたのだった

「でも部下を大事にするいい上司だと思う
 けどね。みかけより子供っぽいとこある
 し俺は好きだよ。
 アホみたいに飲みに行ってたし。
 なぁ、腹にたまるもの頼んでいい?」

気づけば皿の上にあったダシ巻き玉子は全て林田の腹におさまっていた

早紀はメニュー表を渡しながら何気なくを装って聞き始めた

「ねぇ林田さん、
 渡瀬課長ってお酒好きなんだよね?」

「ん?好きだよ。量より質だからバカ飲み
 はしないけどね…
 あ、すいません!特製焼うどんと
 高菜の漬物、和風春巻き…大根と豆腐の
 サラダはワサビドレッシングで。
 あとイカの一夜干しお願いします」

ちょうどおかわりの生ビールを運んできた店員に、怒涛の勢いでメニューをオーダーをした林田を呆れた目で見る美加

「渡瀬さんは最初にビール飲んだあとは
 ゆっくり日本酒飲んでるんだよ。
 酒も好きは好きだろうけど場の雰囲気が
 好きなんだと思うけどね」

(日本酒…やっぱり)

早紀は気づいた難問の答えに自信が生まれた

「林田さん
 渡瀬課長って…“水歌”好き?」

10

林田は思いがけない質問に面食らいながらも答えた

「好きだよ。かなりね。
 だって“水歌”を俺に教えてくれたのは
 渡瀬さんだもん」

『そうなの?』

意外な事実に
思わず美加と早紀の声が重なる

「だーかーら、ハモるなって!
 そういや今日昼に渡瀬さんにも
 同じこと聞かれたな」

「え?」

早紀が乗り出した

「いや、俺と仲良いのかとか、
 間野も水歌好きなのかって」

「間野ちゃんが水歌を?
 林田それなんて答えたの?」

「なんてって…そのまんま。
 仲はいいけど、水歌が好きかはどうかは
 分からないって…」

そこまで言ったところで林田は自分の胸ポケットをおさえた
振動音が鳴っている
取り出し画面に表示された文字をみて

「管理部からだ。
 ちょっと電話してくる」

そう言って店の外に出て行った

早紀は今の林田の話を聞いて心でひとつ
確信が生まれたていた

林田が出て行くのを見送ると美加が少しだけ小声で

「それにしてもさ、なんで渡瀬課長がそん
 なこと聞くんだろうねー」

と不思議そうに首をかしげた

早紀は、林田が取り上げる前に美加に見せていたスマホの画面を開き
もう一度美加の目の前に出した

「この内容、水歌の在庫確認メール
 私渡瀬さんとぶつかった時にこのメール
 開いてたの。
 落としたスマホを拾ってくれた時、
 きっとこの画面が見えたんだと思う」

「え?どゆこと?」

美加は反対側に首を傾げた

「画面に出てたのは在庫ありと水歌の画像
 それが見えて思わず聞いたんだよ
 “好きなの?”って」

「…はぁ? このお酒が“好きなの?”
 っこと?」

「正確には、
 このお酒が“好きなの?” “俺も”好きだよ
 なんだと思う」

言い終わると少しの間の後
美加が笑い出した

「まったくバカバカしい!
 紛らわしいっつーの!!
 考えた時間を返して欲しいわ。
 …すいませーん!生おかわり!」

美加のセリフは
そのまま早紀も思ったことだった
こんな真相に悩んだことがバカバカしい

たまたま起きた偶然に特別な意味を重ねるなんて
テレビや本の世界じゃあるまいし
冷静に考えればわかりそうなこと

そう思うと笑えた

電話を終えた林田が
両腕をさすりながら店の中へ戻ってきた

「あー外寒かったー
 で、何の話だったっけ?
 …あぁ、渡瀬課長と水歌の話だ」

イスに座るとまた生ビールを一気に飲み干し

「あそぉそぉ!水歌といえばさ、
 さっきらお前らが見てたメールの内容
 水歌のことでしょ?
 それってもしかしてもしかすると…
 俺のための??」

林田は空のジョッキを置くと
期待でキラキラしためで美加と早紀を交互に見た

「…まったく。
 本当はサプライズにしようと思ってた
 のにねー、間野ちゃん」

美加がつまらなさそうに口を尖らせた

「マジで?!手に入ったの?!
 ヤバイじゃん!超~嬉しい!」

両手でガッツポーズを作り大げさに喜ぶ林田に呆れながらも
素直に嬉しい気持ちになって美加と早紀は小さく笑い合った

「そうだ!林田の誕生会、
 当日の20日でいい?林田のシフトは
 朝勤?昼勤?」

美加は手帳を開いてペンを出した

「20日は朝勤だよ」

「じゃ19時半から予約するね」

「美加さんどこのお店にするの?」

美加はにっこり笑うと

「もちろん! こーこっ♪」

人差し指でテーブルをトントンと鳴らした

「ここかよっ!代わり映えしねーなー」

林田が店の中を見回すと
カウンターのところでこちらを見ている店主と目が合った

「林田くーん!任せといてよ~!」

満面の笑みで手を振る店主に
林田は苦笑いしながら片手をあげた

11

22時を回った頃
明日のことも考え3人はマス屋を出た

会社からの最寄駅は地下鉄南央(なんおう)線の木賀(こが)駅になる

南央線は東京地下鉄が運営しており
東京駅から南に下り千葉県の手前までを走行する地下鉄だ
この木賀駅は始発の東京駅から4つ目の駅で
ここ15年で開発が進み
中高層の商業ビルやオフィスビルが立ち並んでいる

3人がホームにおりると
丁度千葉方面行きの下り電車が入って来た

「おっタイミングいいね~ラッキー♪」

そう言うと美加は顔の横でピースサインを作った

美加の実家は千葉県だが通勤の利便を考え
入社してから木賀から6つ目の中原駅の近くに一人暮らしをしていた

「じゃ、2人もと気をつけてね!」

美加はそう言うと電車に乗り込み、
ドアの近くに立って手を振った

「美加さんも気をつけてね!」

「家が駅から近いからって気ぃ抜くなよ~」

早紀と林田も軽く手を振ると
アナウンスとともにドアがしまり
電車が動き出した

入れ違うように反対側のホームに東京駅行きの快速電車が入って来た

2人はホームの前側、1両車が止まる位置まで移動してから乗り込んだ

平日の22時半だというのに車内は朝ほどではないが乗客は多かった
特に1両車は乗り換え駅で階段の目の前に停まるため
皆自然と1、2両車に集るのだ

もちろん早紀と林田も同じ理由
早紀は東京駅で
林田は東京駅1つ手前の川名橋駅で
それぞれ他の地下鉄に乗り換える
2駅とも乗り換え用の階段はこの1両車の目の前に現れる


乗り込んだ車内はドア付近しかスペースがなく
2人は閉まったドアの片方に背もたれた

「快速乗れて良かったね。
 あとの各駅停車よりちょっとだけど早く
 つくね」

「ま、2駅飛ばすだけだけどな
 そいえばお前、何で昼に渡瀬さんと話し
 てたの?しかも男子便の前
 知り合いなのかと思って驚いた」

「あぁあれは事故。たまたまトイレの前で
 ぶつかっただけ。
 私が前見てなくて…」

その時、電車がカーブを曲がり車体が一度大きく揺れた
その拍子に早紀の隣で同じようにドアにもたれて居眠りをしていたサラリーマンがバランスを崩して早紀にぶつかりそうになった瞬間

「お…とっと…あぶねー。」

接触する直前に林田が間に入り
サラリーマンの身体を支えた

「大丈夫か?」

「あ、ありがとう」

林田は早紀をさりげなく自分がいた座席の橋とドアが角になっているところに早紀を寄せ
その横に立った

「林田さんって実は紳士だよね
 見かけチャラいのに(笑)」

「チャラくねーだろ。
 まぁ顔は悪くないと思うけど♪
 俺は常に紳士だよ。今頃気づくな」

電車が駅のホームに入り窓の外が一気に明るくなった
快速電車は木賀駅を出ると次の停車駅は
林田が降りる川名橋駅に停まる

ドアが開くと乗っていた乗客の半分ほどがこの駅で降りた
林田は降りる人の波がおさまるのを待ち

「気ぃつけて帰れよ!
 お前も一応女なんだからな」

と早紀の頭を軽くポンっと触りそのまま降りて行った
乗り換え階段を登る列の最後尾に並んだ林田を、動き出した電車の窓から見送ると
早紀はスマホを取り出した

22:48

表示された時計を確認すると
早紀はしばし目をつぶり考えた

(思ったより遅くなったな…
 どっちから帰ろうかな)


早紀の家の最寄駅は2つ
地下鉄と地上線の両方あるがどちらも歩いてそう変わらないが
木賀駅までの経路は地下鉄が便利だった

だが最寄の地下鉄駅の出口は通りに面してはいるものの比較的人通りが少ない
地上線の駅は明け方まで営業している居酒屋や
24時間営業の牛丼屋などがあり
明るく人通りもある

この時間女性1人で歩くのであれば
少しでも明るく人通りが多い地上線の駅の方がいいのだが…

東京駅には地下鉄線用ホームと、
在来線や新幹線などが停車する地上線のホームがある
だがホーム同士は地下通路で繋がっているもののかなり距離があった

ちょっと歩くのが面倒だなとも思ったが
地上線で帰ることに決めた

東京駅で降りた早紀は目の前の地下鉄乗り換え用の階段を横目に
同じホームの後ろ側へ歩き出した
ホームの後ろ側にある乗り換え階段は地上線のホームに出るための通路に出る

折り返し電車が発車した後のホームは人がまばらで閑散としている

「一番前から一番後ろに歩くのは意外に
 大変ね…」

心の中でつぶやいたつもりが声になっていた

早紀の前を同じように乗り換え階段へ歩く人の姿が2.3人
全員仕事帰りのサラリーマンで皆、疲れが見える後ろ姿で歩いてた

ふとまだ先にある階段を見たとき
今まさに階段を上ろうとしている黒いコートの男性が目に入った

12

早紀は思わず早足で階段へ向かった

早紀が階段の下に着いた時、
黒いコートの男性の後ろ姿は階段を上り切ろうとしていた

それが目に入った早紀は階段を一気に駆け上がりすぐ前にある改札を出た

改札の先にはまた10段ほどの階段があり
それを上ると200メートルほどの長い通路が伸びている

短い階段を上ったところで通路を見ると
その男性はもうだいぶ先を歩いていた

(歩くの早い…追いつけるかな)

早紀はヒールの音が響かないようにつま先に力を入れて早足で歩き始め
通路の真ん中を過ぎたところでやっと追いつき

「課長!」

早紀は追いついたと同時に思わず声をかけていた

男性はその声に足を止め、
一瞬考えてからゆっくり振り返った

ダークグレーのスーツに黒のコート
その男性は
渡瀬だった

渡瀬の顔がこちらに向き目が合った途端
早紀は頭が真っ白になった

階段を上る後ろ姿が渡瀬だと思った瞬間
もう追いかけていた
追いついた後のことなど考えもせずに
身体が勝手に動いていた

「あ…あのっ、お疲れ様です」

取り敢えず出てきたのはあいさつで
笑顔を作って間をつなぐ

「…あぁ、君は審査部の…
 お疲れ様
 今日はよく会うね」

渡瀬は先の顔を認識してそう言うと
また口元だけ笑った

「そ、そうですね。
 私今帰りで…
 階段でたまたまみかけて…というか…」

何か、何か話題…

(あ!)

「朝っ。そう、今日の朝、
 横断歩道で助けてくださったのは渡瀬
 課長ですよね?
 私。ろくにお礼も言えなくて…
 ありがとうございました」

いいタイミングでそのことを思い出し
渡瀬に向かってペコリと頭を下げた

「あぁ、あれか。気にしないで
 たまたま君の後ろを歩いてたから。
 ケガなくて何よりだったね
 …それを言うために声かけてくれたの?」

「あ、えぇまぁ…」

早紀は気まずさに苦笑いするしかなかった

「そっか。
 じやぁ、良ければ一緒に」

渡瀬はそう言うと人差し指で通路の差をを指差した

「はい!」

早紀は渡瀬の隣に並び
一緒に歩き出した
並ぶ時、一瞬だけ渡瀬の横顔を見上げた
7センチヒールを履いている早紀よりも頭一つ分上にあるその横顔には
朝見た時と同じ
目尻の下に小さな泣きぼくろがあった

そして微かに
甘くて我の強い、あの香りがした

「こんなに長い距離を歩いて乗り換えする
 なんて、俺ぐらいかと思ってたよ
 駅はどこまで?」

「東京駅から京浜線で6つ目の#赤宮(あかみや)__あかみや__#って
 ゆう駅です。
 課長はどちらですか?」

「俺は同じ京浜線の反対方向の
 #豊森(とよもり)__とよもり__#だよ」

「え、豊森って東京駅から10駅くらいあっ
 たような…」

「そう、結構遠いんだよね」

早紀は歩きながら気がついたことがあった
先程追いかけた時はすごく早く感じた渡瀬の歩速
だが今一緒に歩いていると
それはまるで感じない
渡瀬が自分に合わせて歩いてくれている気遣いが少しだけ嬉しかった

13

話をしているうちに長い通路を抜けた
そして目の前に現れたのは長い長いエスカレーター
都内の地下鉄でもこれほど長いエスカレーターは珍しい

何重にも地下鉄が走り、巨大なアリの巣のような東京の地下
特に東京駅は地上に出ているホームだけでは足りず地下2階までは地上線が乗り入れる

地下鉄はそのさらに下
アリの巣の間を縫って地上駅構内と地下ホームを繋いでいるため
接続するのに必要な通路も、地上に上がるためのエスカレーターも長くなってしまうのだ

渡瀬は最初に早紀をエスカレーターに乗せ
自分が後に乗り込んだ

「課長はこの時間まで残業されてたんですか?」

早紀はステップの上で横向きになり、
2段下にいる渡瀬を見た

「うん、着任初日っからねー。
 色々やることがあって」

「…私、朝礼で課長を見て驚きました
 まさか助けてくれた人が管理部の課長
 だったなんてって」

「そう?俺はトイレ前でぶつかった時の
 方が驚いたけどね」

「あぁ…あの時はすいませんでした
 …前を見てなくて」

「そうだったね、水歌に気を取られてた
 んだっけ?」

渡瀬はそう言ってニヤリと笑った

「いやっあれはそぅじゃなくて…いや…
 それはそうかもしれませんが…」

しどろもどろになった早紀を見て

「あはは、悪い。
 あれは俺の不注意でもあったね」

今度は面白そうに笑う渡瀬


渡瀬が口にした
“水歌に気を取られて”
この言葉で、
落としたスマホの画面を渡瀬が目にしていたことがわかる

“やっぱり”
早紀はそぅ思って心の中で笑みを浮かべた

「課長は水歌がお好きだと林田さんから聞
 きました」

「あぁ、うん。もともと日本酒が好きなんだ
 けど水歌はちょっと特別でね。
 一度林田に飲ませたことがあったな
 水歌は置いてる店も時期も限られてるから
 なかなか飲めないのが残念なんだけど」

早紀はそれを聞いて、林田のために水歌を探しでねすごい苦労したことを思い出し
しみじみ頷いた

エスカレーターの降り口が近づき
早紀は前に向き直った

先にステップから降りて歩き出した早紀の足元が目に入った渡瀬は

「そのヒール、もしかして朝のマンホールで
 キズついたの?」

そぅ言って早紀の足元を指差した

早紀は身体を後ろにひねってヒールを見た
朝、同様に美加から指摘されたことを思い出した

「あー…そうです。
 あのマンホールでやってしまったみたい
 ですね」

早紀は左のヒールのキズを見て改めてショックを受けた

「その右側のヒールについてるキラキラしたのと同じものが付いてたんでしょう?」

渡瀬が指差した右側のヒール部分には
ストーンが斜めに3つ並び光に反射していた

「そうです。。
 星みたいでキレイだなって思って殆ど 一目
 惚れで買ったんです…
 明日元のように直せるか聞いてみます」

「直せるといいな」

少し寂しそうな顔をした早紀に
渡瀬は優しく言った

14

エスカレーターを上りきると改札が現れ、
そこからは東京駅地上線の駅構内になる

東京駅は新幹線7種をはじめ、在来線5種
上下乗り入れる大きな駅
地上線の駅構内は、各路線ホーム別に1~10番線まで数字が振られている
各線の数字がかかる階段を上ると各ホームに出られるようになっている

早紀と渡瀬が乗るのは京浜線
階段を上りホームに出ると
丁度電車が発車したところだった

「出ちゃいましたね」

早紀が残念そうに渡瀬を見た

「まぁいいさ。
 次は…10分後か」

渡瀬は電光掲示板に表示された次発電車の時刻を見上げたあと、
腕時計に視線を移した

「これ、いい?」

渡瀬は早紀に小さな白い箱を見せた
箱の真ん中には赤い丸印
その中には黒いアルファベットで
“LUCKY STRIKE”
とデザインされたタバコの箱だった

ホームの端に設置された喫煙エリア
スタンド型の灰皿のそばにはスーツ姿の男性が2.3人
それぞれ白い煙を出している

灰皿の近くで、渡瀬はタバコに火をつけた

「ごめんね、付き合わせて」

そう言いながら白く昇る煙を手で軽く払った

「大丈夫ですよ、私も喫煙者です」

早紀はニコリと笑って見せた

短大に入ってすぐに付き合った13歳年上の彼氏に合わせて吸い始めたタバコ
別れたあと、しばらくは止めていたが
なんとなく手持ち無沙汰でまた始めた

吸わなくてもいられる
タバコは間をもたせるときには特に役にたつ
早紀のバッグの奥にはいつも
キツめのメンソールが入っていた

「タバコ、吸うんだ?」

早紀の印象からタバコをふかしてるイメージがなかった渡瀬は
意外な返答に少しだけ驚いた

「はぃ。たしなむ程度ですが」

「たしなむか…(笑)
 ではご一緒にいかがですか?」

渡瀬は笑いながら手のひらを灰皿に向けて広げた

「いぇ…今はやめておきます」

早紀は小さく首を振り

「そう」

渡瀬もそう言うと小さく笑いながら灰を落とした


時刻は23時を過ぎている
日中より気温は下がり
アルコールの入っている身体の体感としては
通常より寒く感じた

早紀は無意識に自身の腕をさすった
電光掲示板を見上げると
早紀の乗る電車が到着するまであと3分ほどあった
その時ふと顔の前に何かを感じ目線を前に戻すと
渡瀬が缶コーヒーを差し出していた

「はぃ。寒いでしょ?」

驚きながらも受け取るとそれはとても温かく
早紀の冷えた身体が一瞬上気した

「あ、ありがとうございます」

渡瀬はすぐ後ろにある自販機でもう一本同じ缶コーヒーのボタンを押した

「今日は寒いね。
 俺寒いの苦手なんだよねー
 あー寒い」

そう言って開けたコーヒーを一気に飲み干した

早紀は飲み干したあとで片方の手をコートのポケットに突っ込んで少しだけ背中を丸めた渡瀬の姿が
何だか可愛くみえた

ホームにアナウンスが流れ
間もなく下の電車がホームに入ってきた
早紀が乗る電車だ

「課長、コーヒーご馳走様でした」

早紀はまだあいていないコーヒーの缶を顔の横まで持ち上げて見せた

「あぁ、気をつけてな。
 お疲れ様」

「はぃ、お疲れ様です」

片手をあげた渡瀬に軽く頭を下げて
早紀は電車に乗り込んだ

「ころぶなよ」

ドアが閉まる瞬間
渡瀬は小さくそうつぶやいて口元だけ笑った



早紀は動き出した窓から遠くなる渡瀬を目で追った
渡瀬のつぶやいた言葉はドアの開閉音でかき消され早紀の耳には届いていなかった

ホームが完全に見えなくなったあとでも
早紀は手に缶コーヒーを握りしめたまま
窓の外の黒い景色を見つめていた

たった数十分

隣りを歩き
たわいもない話しをした

笑顔を見て
別々に電車に乗る

ただそれだけのことだった

それでも

それでも早紀は
そのあいだにあったことを
何度も何度も思い返していた

15

10月20日

あの日から2週間が過ぎた

この2週間、審査部と管理部のあるこの5階フロアはピリピリした空気に包まれていた

その理由は
オフィスの入り口を入って真っ直ぐつき当った所に
長机を2つ合わせて2人づつ向かい合い
ノートパソコンとその横に置いた山積みの書類とファイルを交互に睨みつけている黒スーツの男性社員
監査部のせいだった

監査部とは、会社本体からは独立した立場で業務の管理がきちんと行われているか、
不正がないかなどをチェックする機関である

特に何か不正がみつかったからではなく、不定期に各部署を回り
検査及び監査をしていくのだが
やはり他のどの部署とも違う独特で威圧的な空気をまとい
黙々とチェックしている監査部の社員と
同じ空間で仕事をするのは何ともやりにくい
何も悪いことをしていないにも関わらず交番の前を通るとドキドキするような感覚に似た緊張感の中で
早紀達はこの2週間をすごしていた


昼の12時になり、皆が一斉にフロアから出て行く
お昼休憩なのだが、普段は自分のデスクで簡単に済ませる社員もこの空気感に息がつまり
皆外に出て行く

美加と早紀も例外ではない
1週間の半分は手作りのお弁当を持参している美加でさえこの2週間はすべて外食にしていた


会社の向かいにあるイタリアンのお店
美加と早紀は入り口付近の窓の近くの席で
ランチセットのパスタを挟んで向かいあっていた

「まーったくいつまでいるんだろう監査。
 この前は1週間くらいで帰ったのに」

美加はそう言いながらパスタの上でフォークをくるくると回し、さらに続けた

「馴れ合っちゃいけないのは分かるけど、
 あんな怖い顔で仕事してたら
 やましくなくても横通ったら謝っちゃい
 そうだよね」

美加の言葉に早紀は思わず笑ってしまった

「でもほら、今日は林田さんの誕生日会だ
 から、楽しみがあるじゃん♪」

「そだね。
 あ、一応開始時間を林田にメールしとこ」


美加はスマホを取り出し林田にメールを打ち始めた
同じようなタイミングで運ばれてきたコーヒーカップを早紀はゆっくり手に取った

あの日から2週間も経つ
同じ空間にいても挨拶をするタイミングはおろか、すれ違うことすらもなかった
ホームで手渡された缶コーヒーは結局開けられずに
自分のデスクの隅に置いてある
忙しい毎日でもデスクから見える渡瀬の横顔に目がいかない日はなかった

そんなことを思いながら手に取ったカップに口をつけふと窓の外に目をやると

店の前にの横断歩道を会社側からこちらに向かって歩いてくる渡瀬が見えた
片方の耳にスマホをあて険しい顔をしている

丁度店の前に差し掛かった渡瀬は何気なく向けた視線が、歩いてくる渡瀬を見つけていた早紀の視線と窓越しに一瞬、交わった

ドクンっ

早紀の心臓がひとつ、大きく跳ねた

渡瀬は電話の相手に返答するように自身の腕時計に視線を移した
そしてそのまま早紀の視界から外れて行った

耳元で自分の心臓の音が聞こえる
時間にすれば1秒たらず

ただ目が合っただけでこんなにも心臓は早く脈を打つものなのか
早紀は渡瀬がいなくなった景色をそのまま見つめていた

「…間野ちゃん?おーい?」

美加がボーッと窓を見ている早紀の顔の前でヒラヒラと手を振った

「どしたの?ボーッとして」

我に返った早紀は正面で不思議そうに首をかしげる美加の顔を見て

「ううん、なんでもない」

そういって笑顔を作ったが
心臓の鼓動は早いままだった

16

16時すぎ

ロボットのように無表情で仕事をしていた監査部の社員が一斉にノートパソコンを閉じた

審査部と管理部の両課長、そして監査部の主任が集まり何か話しをしている
監査部の主任がA4ファイルと書類を課長2人に手渡し、丁寧にお辞儀をした
そしてそのまま主任を先頭にフロアから出て行った

やっと2週間に渡った監査が終わったのだ

それぞれの課長が自席についたタイミングで
肩や首をまわす者がちらほら現れた

審査部課長の吉田は笑みを浮かべながら渡瀬に目くばせをした
それを受けた渡瀬は立ち上がり管理部の社員に向かって

「みんなお疲れさま、監査がようやく終わっ
 たからちょっとここで10分休憩しよう」

そう声をかけた
同時に吉田も立ち上がり

「いやーやっと終わったよ。
こっちも10分休憩しよう」

審査部の皆にそう言うと
自身はそのままタバコ1本とライターを持ってオフィスを出て行った

審査部、管理部どちらの社員からも安堵の溜息と笑顔が見える

「やっと帰ったねー」

隣りの席から美加が笑顔をのぞかせた

「ホントだね~。
 何か喉乾いちゃった
 ちょっと自販機行ってくるね」

早紀はそう言って席を立とうとした

「あ、私も行こうかな…」

美加も一緒に立ち上がった時、
早紀のデスクの隅に置いてある缶コーヒーが目に入った

「間野ちゃんそのコーヒー飲まないの?」

「え?あー…うん、これは。
 ほらっ、お昼にコーヒー飲んだから
 何かこうお茶みたいなのが飲みたいなと
 思って。ほら、いこ!」

早紀は美加の身体の向きを変え、
スモーキングルームの隣りにある自販機まで連れたきた
カップ式自販機の緑茶のボタンを押して取り出すと美加が顔をニュっとよせてきた

「間野ちゃんっ。
 あの缶コーヒーって何かあるの??」

「え?」

美加の顔の近さと、いきなりの質問に早紀は返答に困った

「いやぁ別に…ただなんとなく飲みそびれ
 てるだけだよ?」

適当に取り繕った答えに美加は目を細くした

「あのコーヒー、
 間野ちゃんが買ったんじゃないでしょ」

「え?!」

「だってあれブラックだもん
 間野ちゃんがブラックコーヒー飲んでる
 とこ見たことないもん
 それに最近なんだか上の空の時あるし」

「うっ…」

美加はもう何かに気づいている 
早紀はそう思った
先輩後輩でありながらお互いのことを何でも話せる親友のような存在の美加と早紀
当然美加は早紀の変化にも気がつくのだろう
早紀は、もはや好奇心でいっぱいの顔に変わっている美加に観念した

「…ある人にね、買ってもらったんだけど
 ホントに飲みそびれちゃったの。
 なんとなく捨てられなくて」

美加はその言葉に八重歯を覗かせ
早紀の耳元で小さく囁いた

「…そのある人ってさ
 …もしかして渡瀬さん?」

その言葉に驚いた早紀は
ちょうど飲んだお茶が気管に入ってむせこんだ
美加はニヤついたまま

「やっぱり」

そう言ってむせてる早紀の背中をさすった

「なんで…」

「わかったかって?
 ちょっとぉこの美加さんをナメないでい
 ただける?
 確信はなかったけどね
 あたり~♪」
 
目の前に出されたピースサインに早紀の顔がボンっと赤くなった

「わかりやす…
 まぁ詳しいことは夜にでもゆっくり聞かせて
 もらうからねー♪
 …そういえば、そのヒール。直したんだね♪」
 
美加は早紀の足元を指差した

「あぁ、うん。在庫もなくて
 直せないって言われたの無理矢理頼んで
 直してもらったの。
 2週間もかかっちゃった」

「えぇ?!それ高くついたんじゃない?
 …だったら違うの買えばいいのに」

美加は目を丸くした

「うん。でも何かすごく気に入ってたから…」

“気に入っていた”
もちろん嘘ではない
とても気に入っていたにもかかわらず
すぐに傷をつけてしまったことは残念だったし悔しかった

だがいくら気に入っていたとしても、
そこそこ高額な費用を支払い
2週間もかけて直すような上等な靴でもない

それでも早紀があの靴にこだわったのは
内容はどうであれこの靴がきっかけで渡瀬と出会った
キズを見て“直るといいな”そう気遣ってくれた渡瀬の言葉が嬉しかった

だからどうしてももう一度履きたかったのだ

そんな早紀の想いを知っているのか
左足のヒールに並ぶ3つのストーンがキラっキラっと光っていた

17

美加と早紀がオフィスに戻ろうと通路を歩いていると後ろから

「美加!間野!ちょっと待って」

大声で呼び止められた
スモーキングルームにいた林田は2人を見かけて急いでやってきた

「ホントにごめん!!」

2人の前にくるなり林田は
目をつぶり額の前でバンっ!と手のひらを合わせた

「何、何?いきなりどうしたの?」

何事かと驚いて美加が林田の顔を覗き込む

「今日の誕生日、どうしても外せない用事が
 できていけなくなった!」

『えー?!』

急な林田のキャンセルにさらに驚く美加と早紀
思わず声が揃う

「ちょっと!
 主役がいなきゃ意味ないじゃん」

美加の眉間にシワがよる

「ごめん!
 2人が大丈夫なら明日に変更してほしい」

林田は合わせた両手を擦り合わせながら申し訳なさそうな顔をしていた
その様子をみた美加と早紀は目を合わせてひとつ息をついた

「もぅわかったよー明日ね。
 私ちょっと今マス屋のマスターに連絡入れ
 てくるわ」

美加はそう言うと腕時計を見ながらオフィスに小走りで戻って行った
その後ろ姿を見送り、早紀と林田も歩き出した

「でも珍しいね、林田さんが飲みドタキャ
 ンなんて。よっぽどの用事?」

「まぁ、よっぽどの用事ってゆうか
 厄介な用事?の方が正しいかも」

林田は頭をかきながら苦笑いを浮かべた

「とにかくホントにごめんな。
 明日1杯づつおごるよ。
 美加にもそぅ言っておいて」

林田はそうゆうと、じゃあなと手を上げて自席に戻った

早紀が自分のデスクに戻るとちょうど美加も戻ってきたところだった

「ギリギリセーフで予約明日に変更できたよ」

そう言いながら美加は早紀の顔の前にピースサインを作った

「そっか、よかった♪」

「でもさー、珍しいよね林田がドタキャン
 なんて。そんなに重要な用事なのかね?
 …あ、女絡みだったりして?」

美加がニヤリと笑った

「どうだろうね。誕生日だしね♪
 何か、厄介な用事って言ってたよ」

林田にここ1年以上女っ気がないことは美加も早紀もよく知っていた
2人はその想像にナイナイと笑い流した

「さぁそろそろ始めようか~」

吉田の声が全体に響く

その声に皆姿勢をだだし目の前のパソコンに向かい始めた


18時
終業のアラームが鳴った

早紀は最後に回ってきた仕事が少し長引き
パソコンの電源を落としたのは18時半を過ぎた頃だった

誕生日会というイベントがなくなり予定がすっぽり空いてしまったことが少しつまらなく思った早紀は
美加を食事にでも誘おうと、
ロッカーの前にいた美加に声をかけた

「美加さんお疲れ様♪
 ねぇ、軽くご飯食べて帰らない?」

振り返った美加はスマホを手に持っていた

「あーごめん!
 今ちょうど美容室予約入れたとこ~!
 急に空いたからちょうどいいと思って出
 来るか聞いたら大丈夫ってゆうからさ~」
 
「そっか!タイミング合ってよかったね。
 私の方は気にしないで~」

早紀は謝る美加に笑顔を向けた

「ホントにごめんね~
 19時の予約だからもう出ないと
 また明日ね!お疲れ様~」

美加はバッグを肩にかけると早紀に手を振りながら慌ててオフィスを出て行った

早紀は手を振り見送ると自身も帰り支度をしてオフィスを出た

会社の入り口前で立ち止まり周りを一度見回した。

「さて。どぉしようかな…」

時間もまだ早い
久々にショッピングでもしようか
それとも
たまには1人で美味しいものでも食べようか

とりあえず早紀は駅に向かって歩き始めた

地下鉄の駅にの周りは商業ビルがいくつか立ち並んでいる

その中の1つに入りぶらぶらと
洋服、小物、アクセサリー、化粧品、本屋と目的もなく見て回った

そのビルの一番上の階はレストランなど飲食店フロアになっている
和食、韓国料理、パスタ、中華など多種にわたる店舗が入っている
早紀は最後にそのフロアに立ち寄った

エスカレーターを上がったすぐ横の柱に表示されたフロアマップをみて、
お目当ての店の場所を確認した

店の中をのぞくと客が数人入っているのが見えた

「いらっしゃいませ!」

威勢のいい声に通されて席に座ると
目の前を美味しそうな中トロが通りすぎて行った

そう、早紀が選んだのは回転寿司

早紀は
ラーメン屋、牛丼チェーン店、立ち飲み屋、寿司屋など
女性が1人で入りづらいお店に1人で入ることにさほど抵抗がない
1人で黙々とたべるのも、
たまたま隣になった人と仲良くなったりするのも割と好きだった

この日は端の席に座ったせいか隣に客はなく
1人で黙々と食べ
8皿食をお腹に収めたところで店を出た

18

ビルの外に出ると周りのネオンは一層眩しくなって居酒屋やカラオケ、キャバクラなどの客引きが通りがかる人を取り合っている

スマホに表示されてる時計は21:00
ショッピングもご飯も済ませ特にやることもない
帰ろうと地下鉄に向かおうとした時、
パスケースを出そうとポケットに手を入れると指に何かが当たった

取り出すと、青い丸いキーホルダーのついた小さなカギだった
そのキーホルダーにはサインペンで“マニュアル”と書いてある

「あっ、…戻すの忘れてた」

終業時間近くで受けた審査の内容で確認したいことがあり業務マニュアルを見ようと
カギのかかったキャビネットを開ける際に使ったものだ
カギを閉めた後、戻すのを忘れてポケットに入れてしまった

早紀はふぅとため息をついて会社に向かって歩き出した

早紀がオフィスに入ると管理部のところだけ電気がついて2.3人がパソコンや書類とにらめっこをしていたが
審査部は全員帰宅し誰もいなかった

早紀はカギを元あった場所に戻し帰ろうとオフィスを出る際、渡瀬のデスクに目が行った
デスクの上は綺麗に片付けられていた

エレベーターの下のボタンを押して待つ間

「今日はもう帰ったみたいね」

独り言がこぼれた

もしかしたらまだ残っているかもしれない
そんな期待があったのか
主人のいないデスクを見て少しだけ残念な気持ちになった


東京駅のホームに降りた早紀はいつものように
地下鉄線の乗り換え階段を上ろうとしたその時
ホームに駅員の放送が響いた
早紀の乗り換える線での人身事故のため、
1時間前から不通になっているという内容を繰り返しアナウンスしていた

早紀は仕方なく地上線に乗り換えて帰ることにした
早紀以外に同じルートで乗り換える人の波はホーム後ろの乗り換え階段に押し寄せ、
一気に早紀を追い越して行った

2つの階段を上りきると
長い通路が目の前に伸びる
2週間前早紀はこの通路の先を歩く渡瀬の背中を追いかけていた
そのことを思い出し早紀は苦笑いを浮かべながらヒールの音が響く通路をゆっくりと歩き出した

いくらか歩いたころ、まだ少し遠かったが足音が聞こえてきた

なんの気にもせずにスマホを見ながら歩いていると
ふわりと覚えのある香りが鼻を通った

あの甘くて我の強い香り

早紀の足が止まる瞬間

「お疲れ」

すぐ後ろから知っている声が響き
その声に早紀の心臓は跳ね上がった

小さく息を吸って後ろを振り向くと
そこには渡瀬が立っていた

「お、お疲れ様です…どうして…」

渡瀬は歩みを進め早紀の目の前までくると

「後ろ姿が見えたから」

そう言って口元だけ笑い、そのまま歩き出した
早紀は追いかけ隣に並んだ

「また飲んだ帰り?」

「え、あぁ今日は違います。
 本当は林田さんの誕生会だったんですけど、
 林田さんの急用でリスケになったので
 1人でショッピングとご飯の帰りです」

それを聞いた渡瀬は足を止め少し考えて

「あー。多分それ俺のせいだ」

と早紀に顔を向けた
早紀の頭の上には、?が浮かんでいる

「休憩の時にスモーキングルームで薮原に
 林田の誕生日の話になって教えちゃったん
 だよね」

「薮原って…薮原主任ですか?」

「うん。そのあと薮原につかまってたから
 多分強引に飲みに誘われて断れなかったっ
 たのかも」

薮原とは、管理部の主任
#薮原始(やぶはらはじめ)__やぶはらはじめ__#のことで
40歳すぎの大柄な体格、声も低く一見とても怖そうなのだがデスクに小さいサボテンを飾っていたりと見た目より優しく部下思いな人物だ
自身がお酒好きで付き合いのいい林田のことは特に可愛がっていた

「あー、なるほど…」

早紀は納得とばかりに大きく頷いた

「なんか悪かったね」

「いぇ、大丈夫です
 お酒がお寿司に変わっただけですから」

すまなそうな顔をした渡瀬に早紀は明るく笑ってみせた

19

「課長は今日は残業…ですか?」

早紀は隣りを歩く渡瀬の顔をチラリと伺った
先ほどオフィスにいなかった渡瀬が残業じゃないことは当然知っていたが
帰宅せずにこの時間まで何をしていたのかが気になった

「今日は吉田課長と少し飲んでた」

どこかで飲んでたのだろうという気はしていたものの、その相手が吉田というところで早紀にはかなり意外な相手だった

「吉田課長ですか?」

「うん。意外だった?」

「まぁ、そうですね」

「吉田さんはね、俺が入社したころ同じ部
 署で仕事をしてたことがあるんだよ。
 今と変わらずにニコニコ優しくて、よく仕
 事を教えてもらった」

もっと意外だった
同じ空間で仕事をしながらも、2人が会話しているところなど殆ど見たことがないというのが
正直なところだった

「もっと意外?」

渡瀬は早紀の心の中を見透かしたように笑った

「わかりやすいよね。顔に出てる」

早紀はそう言われてあわてて手のひらを両方の頬にあてた
そのしぐさを見て渡瀬はまた笑った

「まぁ今の感じしか知らない人には意外だよね」

話しながら通路を抜けると目の前にはあの長いエスカレーターが現れた

渡瀬は早紀を最初に乗せ自分はその後ろから乗り込んだ

乗ってすぐ、下りのエスカレーターにまとまって人が乗ってくるのが見えた

この乗り換え通路は距離が長い
特にこの時間になると余計にこのルートで乗り換える人も少ないのだが
下りのエスカレーターのに乗っておりてくる人の数がやけに多い

「何か今日は人が多いですね」

「そうだね、地上線でなんかあったかな?」

早紀と渡瀬はすれ違い降りていく人たちを見送った

エスカレーターを上りきり改札を抜けると地上線の東京駅構内になるが、
早紀たちの乗る京浜線のホームへと続く階段の下がやたらと混雑していた

人だかりの中から拡声器を持った駅員が

「ただいま京浜線は信号機トラブルのため
 運転を一時見合わせております。
 復旧にはまだ時間がかかるもようですので
 振替輸送のご案内をしております」

と繰り返しアナウンスしていた
それを聞いた人たちは皆腕時計を見たり電話をしていたり
他の駅員に我先にと振替や乗り換えについて詰め寄るように聞いている

「なるほど、これのせいか」
「こっちもか…」

この様子をみた早紀と渡瀬は、ほとんど同時につため息をついた

渡瀬は腕時計を見て

「22時すぎか」

小さくつぶやくとその視線を早紀に移した

「さっきさ、お酒がお寿司に変わったって
 言ってたよね?」

「えっ?あぁはい」

「もし時間大丈夫だったら一杯どう?
 電車もこんなだし、林田の誕生会リスケに
 なったお詫びにごちそうするよ」

早紀は思いもかけない突然の誘いに耳を疑った

(あれ、もしかして私いま…誘われた?)

驚きすぎて自問自答してしまう
そしてやっとひとこと

「はぃ、是非」

これがやっとだった
早紀の返事を聞いて渡瀬は

「良かった」

そう言って笑顔を向けた

20

地上に出るための改札を抜け東京駅から外に出た

「俺の知ってる店でもいい?」

渡瀬はそう言うと飲食店が多く建ち並ぶ通りへと向かった
賑やかな通りを一本横に入ると静かな雰囲気に変わる
しばらく歩くと一軒の店前で渡瀬の足が止まった

コンクリート打ちっぱなしの外観で
入口サイドにはめ込まれてるガラスケースの中には色々な種類の日本酒や焼酎の瓶が
綺麗にディスプレイされていた
渡瀬はウッド調のオシャレな扉を押して中に入り早紀もそれに続いた

店員が案内したのは奥のテーブル席
座るとすぐに

「何にする?」

渡瀬はドリンクメニューを早紀の目の前に広げた

「わぁ…すごい種類」

早紀は冊子のようなドリンクメニューを思わず手に取り声をあげた
6ページにわたり日本酒と焼酎を中心に扱っているお酒が細かく書かれていた

「ここは珍しい酒もかなり置いて
 あって気に入ってる店
 お酒、何でもいける?」

「はい、何でも大丈夫です」

「おぉすごいね。
 じゃあ俺が選んでもいい?」

「お願いします」

早紀はドリンクメニューを手渡した
渡瀬は店員を呼び、メニューの中を指差して何やら確認している

「…はい、ございます」

「じゃそれを。グラスは2つで」

「かしこまりました。
 只今お持ちいたします」

店員はそう言うとにこやかな笑顔を作り静かに去って行った
間もなく、細身の小さなグラスが入った漆塗りの升2セットと曇りガラス色の一升瓶が運ばれてきた

(あれ?この瓶は…)

ラベルは薄ピンクのグラデーション
思ったとおり、中央には筆文字で“水歌”の文字が書かれてあった

店員は置かれた升の中のグラスに水歌を注ぎ入れ溢れてなお、グラスを受けている升の中もなみなみになるまで注いだ

渡瀬はグラスに口を近づけて一口吸って升から持ち上げた
早紀も同じようにグラスを持ち上げ、

「お疲れ」
「お疲れ様です」

2人は鳴り合わさずに乾杯をした

初めて口にした水歌は 
やわらかくほのかに甘い、
でも喉を通る時はキリっとしていて

「…美味しい」

自然にそう言葉が出てくるシロモノだった
さほど日本酒に詳しくない早紀でもこれは!と素直に感じられた
林田が熱望していたのも、なるほどよくわかる

「うん美味いね。
 店に置いてるのは珍しいんだよ
 特に今の時期は手に入らないこ
 とが多いし、ネットでも探すのは
 大変だったんじゃない?」

「え?」

「探してたでしょ、水歌」

確かに林田のためにさんざん探してネットでも何件も問い合わせてやっと見つけた

「ぶつかってスマホを拾った時に
 水歌の画面が見えて、若い女性が
 水歌を知ってることにまず驚いた
 好きなのかなと思って」

そう言って渡瀬は笑った

「あれはっ贈りものとして探してて」


「ごめんごめん、
 林田の誕生日プレゼントでしょ?
 あとで林田が嬉しそうに言ってた
 からなるほどなってね
 でもあの時水歌をみたおかげで
 飲みたくなってこの店に入荷するの
 を待ってたんだ」

「そうだったんですか」

「着任する前もしてからも何かと
 忙しくて全然飲んでなかったから
 ゆっくり飲みたかったんだよね
 やっぱり美味しい」

早紀は本当においしそうに飲む渡瀬の顔を見て笑みがこぼれた

「私、普段焼酎ばっかり飲んでるの
 で日本酒はあまり詳しくないんで
 すけど、これはホントにすごい
 美味しい
 ちょっと林田さんの気持ちが
 わかりました」

「林田とは仲がいいの?」

「はい。管理部が引っ越してきて
 からなのでまだ2年くらいですが、
 仲良がいい先輩が林田さんと
 仲良しで」

「へー。
 先輩っていつも一緒にいるお団
 子頭の?」

「そうです。林田さんと同期で。」

「そうなんだ~。林田はいいよね
 人懐っこいというか、
 犬みたいでつい構いたくなる」

犬…早紀は思わず頭の中で耳としっぽをつけた林田が浮かび笑ってしまった

渡瀬はグラスの中を飲み干して、升の中にある残りの水歌をグラスに注いだ

21

23時半をまわったころ
水歌の瓶を持った店員がテーブルに現れたのはこれで4度目になる

顔色を変えずに飲み続ける早紀を見て
赤みがさした顔の渡瀬は驚き感心していた

「なかなか強いね」

「そんなことないですよ
 これでも少し酔っ払ってますよっ」

早紀は笑って見せた
身体は少しふわついていたがあくまでシラフを装っていた

偶然が重なっただけだったとしても
2人きりでお酒を飲んでいるこの状況は早紀にとってほとんど奇跡だった

目の前に座る渡瀬が
自分にだけ話しかけて
自分だけを目に映す

そのことが嬉しくて全てを覚えておきたかった


「それにしても監査、
 長かったですね」

「あぁあれは本当にまいった。
 揃える資料と書類が多すぎて集中
 して仕事ができなかったし、
 渡された評価と改善点がなかなか
 ヘビーな内容で…
 審査部もそれなりの内容だった
 みたいで
 まぁ反省会というか対策会って
 飲みに行ったんだけど…」

渡瀬は肴のホタルイカの沖漬けをつついた

「吉田さんの話を聞いてるといろいろ見直
 さないといけないところがあるなーって
 思ったよ
 社員たちには少し負担かけちゃうけど、
 少しでも昇給昇格させてあげたいから
 頑張らないと」

ー 部下想い ー

早紀は林田の言葉が浮かんだ

会社としての部署や責任者、各社員の評価基準はそれぞれあるが、監査部から受ける評価はまた別物だった
会社の評価基準よりはるかに重視される監査部の評価はいうまでもなく重要
評価が悪ければ3ヶ月後に再度監査が行われる

「…ヘビーな評価って、
 再監査ですか?」

「いや、今回は俺は着任して日が
 浅いから再監査にはならなかっ
 たけど、まぁその手前かな」

「手前…確かにヘビー」

「まぁそれはそれで実状として受け
 入れて改善するしかないからね
 腕の見せ所…」

ピピピピッ ピピピピッ

言い終わる前に着信音が鳴った
渡瀬は胸ポケットから振動するスマホを取り出し画面を見て

「ちょっと電話出てくるね」

そう言って店の外へ出て行った


早紀はその姿を見送ると自分のスマホを出し、終電時間を調べ始めた

東京→赤宮 0:28


そしてもう一件


東京→豊森 0:20


渡瀬の乗る終電は早紀の電車より8分早い
遅くても0時には店をでないと乗り遅れる

今の時刻は23:40

早紀は、渡瀬が電話から戻ったらきっとこの時間が終わってしまうと少し寂しい気持ちになった

早紀は目の前の升の中に残った水歌をグラスに移し一気に飲み干した

23:50
渡瀬が店内へ戻ってきた

「ごめんね長くなっちゃって」

「いえ、大丈夫ですよ」

早紀は次に渡瀬の口から出る言葉で夢から覚めることを覚悟していた

「さてと…
 グラス空だね、何飲む?」

「えっ…?」

「まだ水歌いく?
 それとも違うのにする?」

「えっ、あ…そぅですね
 えっと…焼酎にしようかな」

「わかった、じゃ俺もそうする」

次をオーダーしたらきっと終電に間に合わなくなる
このまま何も言わずに渡瀬に付き合い飲み続けるか
それとも終電の時間だと自分からこの時間を終わらせるか


早紀の中で答えは決まっていた
もしも渡瀬が終電のことを忘れているなら思い出してしまうまで気づかなかったことにしよう
最悪タクシーで帰ればいい
この時間を終わらせることはしたくなかった

22

午前0時をまわり
テーブルの上にはロックグラス2つと漬物が並んでいる

早紀は緊張を隠しながら時が経つのを待っていた

渡瀬は麦焼酎のロックを飲みながらタバコに火をつけ横向きにふぅーっと白い煙を吐いた

「最初、
 林田と付き合ってるのかと
 思ってたよ」

「え?
 私がですか?!」

林田をそのような対象で見たことがない早紀には、思いもよらない言葉だった

「…仲はいいですけどそうゆうの
 とは違うっていうか…
 そもそも私は林田さんの好きな
 タイプには
 当てはまらないですから」

「そーなの?」

「はぃ、林田さんの好きなタイプは
 “年上で優しく、甘えさせ上手で
 キレーなお姉さん”のはずです」

渡瀬は思わず飲んでいた焼酎を吹き出した

「キレーなおねーさんて…
 あいつそんなこと言ってんの?」

「飲むとよく言ってますょ」

「あいつ年上が好きなんだー
 知らなかったー」

渡瀬は林田の意外な好みを知り楽しそうにしている
早紀も一緒になって笑いながらチラリと壁にかけられた時計に目をやった
時計の針は0:15を指していた

豊森へ向かう最終電車が出るまであと5分
間違いなく間に合わない
早紀は少しホッとしていた
これでもうしばらく一緒に居られる
自分のズルさに心で苦笑った

それからしばらくは共通の話題として林田の話を肴に飲み続けた

午前1時をまわった頃
最初から数えて6杯目となるグラスを空けた渡瀬が腕時計に目をやった

「やべっ!もう1時じゃん。
 終電大丈夫?
 悪い、気づかなくて」

申し訳なさそうに謝る渡瀬を見て
少し心が痛んだが

「私は大丈夫ですょ
 タクシーで帰れますし…
 課長ももぅ終電終わっちゃって
 ますよね?
 私も気がつかずにすいません…」

早紀は顔色変えずに嘘がでてくることに
自分で自分に驚いた


「俺は大丈夫だよ。満喫もあるしね
 …それじゃあ、明日もあるし
 2時まで付き合ってくれる?」

渡瀬は腕時計を見てからそういうと
早紀の空になったグラスを指差した

「はい…」

早紀は笑顔で答えた

2時までだろうと一緒にいられる時間が繋がったことが嬉しい
早紀は素直にそう思った

渡瀬は店員を呼ぶと、
同じものを と一言いうと
すぐに新しいロックグラスが目の前に並んだ

「赤宮駅って言ってたけど、
 一人暮らし?」

「はぃ。
 でも実家が目の前のアパートな
 ので、ほとんど寝るだけですが」

「実家の目の前?」

「兄が結婚して同居を始めて部屋が
 足りなくなったので、
 この機会に一人暮らしするって
 言ったら実家の目の前のアパートに
 偶然空きが出て
 そこに住むことになっちゃいました」

「そうなんだ。
 きっと親御さんは近くにいて
 欲しかったんだね」

「私としてはせっかくならちゃんと
 1人でやってみたかったですけどね」

渡瀬はまたタバコに火をつけ、白い煙を上げた

「俺は高校卒業してこっちに出てき
 てからずっと一人でやってきたけど
 やっぱり近くに親がいるのはいいな
 と思うよ」

渡瀬は高校を卒業してすぐに入社して以来10年近く1人でやってきて今や課長職についている
若くしてそれなりに高い地位についているということは、
人よりたくさん苦労や努力をしてきたということ
なのだろう
早紀は渡瀬のあげる白い煙を見つめていた

23

終電時間をとうに過ぎた飲食街は人通りも少ないく
看板を彩るネオンは数時間前よりだいぶ減っていた
早紀はすっかり酔って眠気に襲われている渡瀬の腕を支えながら通りを歩いていた


数分前 ー

「…課長…課長!」

右手にグラスをもったまま肘をつき渡瀬の額が今にもテーブルにつきそうに小さく上下に揺れている

「…ん?ごめんごめん、
 なんだっけ」

「もぉお店でましょう?」

早紀の声に頭が持ち上がるが視点が合わない
渡瀬がこんなことになったのは早紀の悪ふざけの結果である


さらに1時間前 ー

終電がなくなり改めて飲み始めてしばらくして
ドリンクメニューを眺めていた早紀が、最後のページに面白いものを見つけた

「課長、日本酒と焼酎どっちが
 詳しいですか?」

「どっちかってゆうと日本酒かな
 結構色々飲んでるよ」

「それなら利き酒しませんか?」

「きき酒?」

「これ見てくださぃ♪」

早紀はドリンクメニューの一番最後のページを見せた

“お味見セット
セレクトしていただいたお酒を3種類、小グラスでお試しいただけます”

「あぁ、味見セットか」

「はぃ♪私が3種類の日本酒を選ぶ
 ので当ててくださぃ」

「いいよ、やってやろうじゃん 」

渡瀬は得意げに笑った

早紀は店員を呼び
メニュー表に書かれている日本酒を3種類、口に出さずに指定した
店員は空気を読んで口に出さずに笑顔でオーダーを受けている

去り際に渡瀬が店員を引き止めた

「すいませんこのセットは日本酒だけ?」

「いえ!こちらは日本酒と焼酎で
 ご利用いただけます」

それを聞いた渡瀬は
ドリンクメニューの焼酎のページを開き店員に耳打ちしはじめた

「かしこまりました!
 少々お待ちくださいませ」

店員が行ったあとで渡瀬は早紀に

「きき焼酎ね」

とニヤリと笑った

「えっ!
 私焼酎の銘柄なんてわかりま
 せんよっ?!」

「大丈夫、
 芋とか麦とか何焼酎か当てられれ
 ば良しとするから」

そう言ってとまたニヤリと笑った

早紀の遊び心から始まったゲームは
繰り返すこと3回
思いつきで始めたこの遊びが思いの外面白く
時刻はとっくに2時をまわり3時半になろうとしていた

6~7センチほどの高さの小さなグラスの中に入ったそれぞれのお酒、
早紀の焼酎はロックで氷の分お酒自体の量は少なくさほど回っていなかったが
日本酒は氷も何もないストレート
2口ほどでの一気飲みを繰り返していた渡瀬の方は酔いの回りが早く
3回目の利き酒の途中で渡瀬の頭が垂れ始めた

はじめは笑っていた早紀だが
このまま渡瀬が潰れたらどうしたものかと考え始めた矢先
店員が申し訳なさそうにそばへ寄ってきた

「申し訳ございません。
 そろそろラストオーダーに
 なりますが…」

「もぅそんな時間…
 わかりましたオーダーストップで
 お会計お願いします」

「かしこまりました」

その声に渡瀬が重たい頭を上げた

「…悪い…もうラストだって?」

「はぃ…それより大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫
 ちょっと眠いだけ」

「とりあえずお店を出ましょう」

早紀は渡瀬に肩を貸し支えながら外に出た

密星-mitsuboshi-

密星-mitsuboshi-

ー好きになってしまった人は 社内に恋人がいる上司だったー ひょんなことから他部署の上司に興味を持ってしまう早紀 どんどん惹かれて気づいた時にはもう戻れなくなっていた そんな中、相手には社内ではほとんど公認だという彼女がいることを知る… それぞれの登場人物が 立場や想い、いろいろな形の愛や憎しみなどの感情が交差する 実際に起こったことを軸に脚色して書いている小説です。 お読みいただけたら幸いです ページ数が多いなと感じるかもしれませんが スマホでも読みやすいように1ページに入れる文字数は1000文字前後~最大2000文字前後以内になるように書いています。 アメブロ、小説家になろう、カクヨムにも掲載しています

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2016-03-30

CC BY-NC
原著作者の表示・非営利の条件で、作品の利用を許可します。

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