終末の英雄譚 Ⅰ

終末の英雄譚 Ⅰ

かつて世界は七種の神々の恩恵で加護されていた。
神に仕える巫女や神の信託を受ける使者達は神々の声を聞き、世界の均衡を守り続けてきた。

其の昔、誘惑、忍耐、創造、解放、挑戦、破壊、そして静寂。
此れ等を司る七種の神々が現世に降り立ち、海を大地を、そして人々を創造した。
人々は偉大なる神々を崇め、尊敬し、信仰の対象とした。
其の日から人々は七種の神のみを信じ、彼等の為に祈りと、尊い命を捧げてきた。

七種の神々の栄華を誇った時代は戦乱を期に衰退の一途を辿り、世界は無情なる争いに満ちて混沌としている。
罪なき人々が無残に命を奪われる時代、かつての秩序を取り戻す唯一の手段が、
神々が天地とは別の世界に創造した幻の郷に有る鈴を現世にもたらす事。
神のみぞ知る郷の道へ世界に散らばる七人の使者が今、立ち上がる。

未だ科学という概念すらなく、魔導や悪魔が信じられていた時代。
神の使命を帯びた者達が世界の果てで見るものとは。

復讐の少女

 未だ夜が明け切らないローナルマルエの町。薄く霧掛かった街道を吹き荒ぶ強風。
 空に溶け込みそうな程の闇に紛れた三つの影。黒い外套を羽織った其れ等は街道を行く騎乗の一行目掛けて駆け出した。
「おい、其処にいるのは誰だ。道を開けろ。」
如何やら相当な身分の者が街道で馬を走らせて居るらしく、連れの者が暗がりの人影に叫んだ。しかし三つの影は道を阻んで動こうとはしない。
「無礼者め、早く道を開けたまえ。」
影たちは互いに目配せをし、頷き合った。途端、両側の二つの影が驚く程俊敏に動き出し、貴族の男を取り囲んだ。目にも止まらぬ速さであった。
 呆気に取られた連れの者達は急いで剣を抜き放つ。
しかし残りの一つの影が其の男達の剣を振り落として行く。此れ又早業であった。
「…此の者達は一体……。捕えろ、至急王宮に送還するぞ。」
貴族を固く護衛していた者達は、そう言うものの既に逃げ腰である。
 貴族を囲む二つの影が外套の隙間から煌めく刃物を取り出した途端、連れの者達は一斉に駆け出した。今来た道を引き返し、馬に振り落とされそうになりながらも必死逃げ惑う姿は、無様極まりなかった。
「私に何用か……。」
たった一人残された貴族は俊敏な影たちに尋ねる。かように人気のない街道で襲いかかって来るのだから、相当の恨みが有るのだろう。
「そんな事、今から死ぬ者には関わりの無い事だろう…。」
影の一人が静かに呟いた。其の言葉を皮切りに、残りの二人が一斉に貴族に斬りかかった。
「……死ね。」
男は落馬し、鈍い音を立てながら地に倒れた。
名門貴族が血に塗れ無残な姿で発見されたのは、昼下がりの事であった。


***


 ローナルマルエの山間部。此処に一軒の簡素な家が立っている。其処には世間との関わりを絶つ様に三人の兄妹が住んでいた。
「兄さん、私少し出て来る…。」
見るからに聡明な色白の少女が言った。濃厚な赤毛を持ち、漆黒の外套をまとう姿は大層凛々しかった。
「スミエット、町では十分に気を付けるんだぞ。今朝の事で護衛隊が警護しているだろうから。」
好戦的な紅い眼をした青年がスミエット、と呼ばれた少女に声を掛けた。其の後に続いてもう一人の青年、此れ又美しい赤毛を持つ美青年が少女に告げる。
「変に目立たない様にね。僕達の正体が知れたら、事だから。」
赤毛と赤い瞳を持ち合わせる彼らは、ナリアン民族と呼ばれる種族の者達であった。
 ナリアン族、其れはかつて此の世界で栄華を誇った民族であった。一族の者達は皆、彼らの様に赤い髪と瞳を持ち合わせ、腕や足に赤い斑点を有する。其の姿は、いわゆる異様とでも言うべきか。
 其の見た目の異様さから何時しか彼らは、世界中の少数民族の中でも軽蔑される様になって仕舞った。異形の身体は罵られ、虐げられた。やがて彼らは定住していた土地を追われ、幾人ものナリアン族が無残な手法で殺されていった。中には国家を挙げてナリアン狩りを行う帝国もあり、種族は一気に衰退した。最後には地上にナリアン族がいなくなり、魔女狩りの様な残忍な行為は彼等の存在と共に忘れ去られていった。
 彼等の両親も炎が包む檻で焼き殺された。一族の者達は、未だ幼かった彼等の余りに儚い命を思い、檻から脱出させた。其の為、彼等は現在絶滅した、とされるナリアン民族の末裔として生きている。
 明朝の貴族殺しは彼等の所業であった。スミエットら兄妹は一族滅亡の仇を取る為に、ナリアン狩りに関わった者達を暗殺して回っている。其れが生き長らえた自らの使命だと強く信じているのだ。
「……うん。行ってくる。」
ぶっきらぼうに言うスミエットの表情は暗く、其の紅の瞳は希望の光の一切を宿してはいなかった。絶望と劣等感に苛まれた暗く、冷徹な瞳は彼女の表情の全てを作っていた。
肩まで伸びた髪を金属の管で束ねた姿は、此の紅い髪の魅力を最大限に引き出している。しかしスミエットは誰もが目を奪われる美しい赤毛を、頭から被り物で覆い目立たないようにした。此の辺りの町では彼女の綺羅と輝く其れは余りにも主張が激しいようだった。

盗賊

 草花一つ無い枯れた小道には、戦乱で傷を負った兵士達がまばらに歩いて来る。此のローナルマルエも数十年程前から近隣諸国と激戦を繰り返して来た。しかし未だに戦争は終結しない。唯、戦乱の惨状が大陸に広がって行くばかりであった。
 此の世界の残酷の象徴。スミエットは見るに堪えない重傷の兵士達から目を反らす様にして歩いた。
「……。」
口をつぐみながらその場を走り抜けようとした時、大きな影が彼女に立ちはだかった。 
「何処見て歩いてんだ、小僧。」
其の影は怒鳴りながらスミエットに体当たりしてきた。
 ぶつかったのは彼女ではない。正確にはスミエットがぶつかって来られたのだ。咄嗟の出来事に反論しようと顔を上げると、その反動で髪を隠していた被りが解ける。
「親分、此奴小僧じゃありませんよ。」
「其れに、此の独特の赤毛……。今日は良い収穫になりますねえ。」
スミエットはいかにも野蛮な三人の男が目に入った。身なりが薄汚れ、無精ひげを生やしている。腰には剣を帯びているところを見ると、兵士の落ちぶれであろう。
「……なぁ蛮族の姉ちゃん。俺達は此の辺りでは有名な盗賊だ。命が惜しけりゃ、大人しく着いて来な。」
三人の盗賊はそれぞれに厭らしく笑いながら、スミエットの肩を馴れ馴れしく触り、連れて行こうとする。
 闇夜の暗殺者であるスミエットが男三人に易々と連れて行かれる性質でもなかったが、白昼堂々下手に動く事は出来ない。幾ら負傷兵ばかりが歩いて来るとはいえ、此処は街道だ。少なからず人目がある。
 挑発に恐れる事も反発もしないスミエットに盗賊は若干の不信感を覚えたが、さして気にも留めず彼女を拘束する。
 絶滅したナリアン民族が生きている事すら珍事であるが、其れを見つけたのが盗賊ともなれば彼女の運命は決まっている様なものだった。絶滅した民族の末裔となれば希少価値が高い。其れにスミエットは少女であるから人身売買や奴隷として売るにはうってつけである。高値で買い取られる事は目に見えていた。
「此れで一生豪遊だな……。」
などと邪念にまみれた事を考えながらスミエットの腕を縄で縛る。
此処にきてスミエットが強く抵抗した。判断に迷っている隙に本格的に連れて行かれそうになって仕舞ったのだ。
「おい、こら暴れるな。女一人じゃかなわねぇよ。」
「今更、助けを呼んだって一緒だ。お前は金になる。其れに女ともなれば、売られるしかないだろう?」
激しく抵抗するも男三人に四肢を拘束されては、暗殺者とて身動きが取れない。今日は武器すら忍ばせていないのだ。
「んー。…んっ。」
叫ぼうにも口元を塞がれている為に声すら出せない。
 なす術のない状態にスミエットは落胆し、大人しく盗賊にされるがままになった。人身売買の荷車や奴隷市場で隙を見て逃げ出すしかない、そう自分に言い聞かせた。
 盗賊がスミエットを抱え込んだ瞬間、なにかが彼らの行く手を阻んだ。
「なんだ小僧。其処を通せ。」
「それは出来ないね。嫌がる女の子を強引に連れて行こうだなんて、おっさん達趣味悪いね。」
小馬鹿にした物言いで敢然と盗賊の前に現れたのは、薄汚れた肌に刺繍の施された衣装まとい、肩から大きな荷を背負った青年だった。
 馬鹿にされた盗賊は青年に一斉に襲いかかった。
 膝下まである長い裾の衣装を着ているにもかかわらず、青年は盗賊の単調な攻撃を軽やかに交わす。なんなら交わした次いでにくるりと宙で一回転してみせた。
「こしゃくなガキだ。やっちまえ。」
盗賊の首領が叫ぶと残りの二人が剣を抜き放ち、青年に襲いかかった。
 二人の男が剣を振り上げた頃には青年は其の場から消え去っていた。代わりに途轍もない衝撃が腹部に走る。
「甘いな。……此の俺をなめてもらっちゃ困るね。」
あっと声を上げる間もなく二人の男を気絶させた青年は髪すら乱れていない。盗賊の首領は青年の華麗な攻撃を目にして少しずつ後退る。
「女の子を解放してやりな。」
先程とはうって変わった低い声に大柄な首領は震えあがり、其の場からそそくさと逃げてしまった。
「はぁ。なんて事もない輩だったな。」
ぶつぶつと呟きながら、拘束された少女の縄を解く。
スミエットは心もち疲れている様だった。
「…はい、もう大丈夫。怪我とかない?」
青年が優しく微笑み座り込んだスミエットに手を差し出す。しかし彼女は一言礼を言うだけで、青年の手を借りずに立ち上がる。青年は少し残念そうに手を引っ込めた。
 青年は、外套の被りを深くかぶり直し、再び街道を行こうとするスミエットに並ぶ様にしてついて行く。
 布地に隠れたスミエットの顔は不満に満ちている様に見えた。

放浪者

 青年は隣を黙って歩くスミエットにしきりに話しかける。どうも彼は黙っていられない性分の様だ。
「……で俺は旅の果てに此処ローナルマルエにやって来た訳さ。」
彼の背に負っている荷からも分かる様に彼はどうやら旅人らしかった。若干話を誇張している部分はあるものの、彼は今まで多くの国を旅して様々な人々や動植物を見て来たらしい。
 興味を示す訳でもなく、むしろ聞き流している様にすら見えるスミエットは、彼の話に嘘を吐いている訳ではないのだと感じた。
「……そうそう、すっかり忘れていた。まだ名を名乗っていなかったな……。俺の名前はイビアン。世界中を旅している放浪者だ。」
親し気に手を差し出すもスミエットは変わらずイビアンを黙殺している。
「…君の名前は?教えてくれる?」
強引にでも聞き出そうと声を掛けると、スミエットは急に立ち止まり、
「あなたは初対面の人間に、どうしてそんなに馴れ馴れしくできるの?」
不快感に満ちた表情で尋ねた。
 イビアンは彼女の横顔に苛立ちが含まれている様に見えた。本人は決してそんな気はなかったのだが。
「……俺の態度が君の気を悪くさせたのならすまない。…謝るよ。でも初めて会うからこそ、相手を知りたいし、歩み寄れば人はきっと分かり合える、俺はそう思っているから。」
そう言ったイビアンの表情はとても明るかった。
 其れはスミエットが今まで生きてきた中で初めて見る表情であった。彼がなにを思ってそんな表情を浮かべたのか、スミエットには理解出来なかった。ただ、自分自身が彼の調子に呑まれつつあることは、勘の良いスミエットには良く分かった。
「……分かり合える…?本当にそうかしら。」
彼女の整った顔に暗い影が差す。まるで絶望した表情の冷淡な彫刻の様だった。
「…えっ、どうして?皆が歩み寄りたい、って心で人と接すればきっと理解し合えるよ。」
「…あなたは絶滅した種族の歴史を聞いても、そう思えるのかしら。」
スミエットはそう言ってナリアン族の没落の果て、絶滅までの顛末を語った。
 イビアンは彼女を助けた時に此処ローナルマルエでは見ない顔だと思っていた為、彼女がナリアン族であるかもしれないとは薄々気づいてはいた。しかし実際に見てみると、噂に聞く程の異形さはない。いたって普通の人間ではないか。
 イビアンは世の中に溢れる噂や言い伝えの他愛ないことが可笑しかった。
「ナリアン族の者は皆、どんな種族とも歩み寄ろうとしてきた。でも、其れを馬鹿にして、蔑んで、壊したのはどっちよ。…あなた達の方じゃない。」
スミエットは其れまでの冷静さとはうって変わって、感情的になっていた。
「人は決して分かり合う事なんて出来やしないわ。其れは今まで数々の戦乱や絶滅の歴史が証明している。……もし、分かり合う事が出来るのならば、どうして私達の家族は殺されなければならなかったのよ。」
スミエットの言葉には怒りが込められていた。
 其れは確かに一族の無残な最期を見た者の言葉だった。劣等民族と虐げられ、家畜以下の扱いを受けた事のある彼女にとってイビアンの言葉は理想を並べ立てた綺麗事に過ぎない。
 あの絶望の瞬間からスミエットは人を信じる事が出来なくなっていた。いや、本当は心のどこかで信じたい気持ちはあるのかもしれない。しかし裏切りに対する激しい怒りが其れを許さなかった。もし生まれも育ちも境遇も違う人間同士が理解し合えるならば、一族の死が無駄死にになってしまう。そう思えてならなかったのだ。
 イビアンの想像以上に彼女の心の闇は深かった。
「結局、人間と言うのは自分の為に弱い者を徹底的に痛めつけるのよ。そんな人達とは、決して分かり合えないわ!」
泣き叫ぶスミエットをイビアンは唯、黙って見ていた。彼女の苦しみを彼が理解する事は到底できない。そんな事は楽観主義のイビアンでも嫌ほど知っている。


***


 しばらくして落ち着きを取り戻したスミエットは柄にもなく取り乱した事を恥じた。
「ごめんなさい。昔を思い出してしまって……。」
イビアンは気にも留めず、先程と変わらぬ軽い笑いを浮かべていた。
「気にしなくていいよ、俺も変な事言って君に辛い事を思い出させてしまった。」
潔く謝るところを見ると彼はただの上っ調子の口説き屋でもない。スミエットは否が応でも彼への評価を改めざるを得なかった。
「でも、俺もただの放浪者ではないんだ。」
妙に自信に満ちた笑いを浮かべながら、イビアンはそう前置きした。
「俺と一緒に世界を旅しよう。」
「…はい?」
「君はもっと世界を見るべきだ。君自身は心のどこかで変わりたいと思っているのに、今の環境が其れを許さない。一度、職業も民族という隔たりも捨てて、人として旅をしないか?」
スミエットはイビアンに心を見透かされていた事に大層驚いた。そして突然の旅の誘いに困惑していた。
「いやっ、でも、私は……。」
こんな時に限って言葉が上手く出てこない。本当のところは断る理由など無いのだが。
「じゃあ、分かった。今日一日、一緒にローナルマルエを歩き回って、俺と旅する理由が見つからなければ、君は此の誘いに乗る必要はない。だけど…。」
スミエットになにか理由が出来れば、その時は、一緒に旅をして、世界を見に行こう。
 イビアンは賭けの様な条件を提示しつつ、スミエットを誘った。此れには彼女も断る理由が思いつかなかった。其れに、今日一日で自分の気が変わるはずもない。今日のところは彼の誘いに乗っておいて、すぐに帰ってくれば良い。スミエットはなんとなくそう考えながら、イビアンの提案を飲んだ。
 しかし、彼女は自分の見通しが甘かった事に後々気付かされる事になる。

破戒の足音

 ローナルマルエ、北半球に住まう五分の一の人口が其処に集結している、巨大国家。かつて国を流れる大河一体に文明が栄えてより、繁栄を遂げてきた。しかし、近年の戦乱で千年もの栄華は失墜している。歴史的な建造物は破壊され、書物や美術品は戦火で失われた。今、此の国は世界中で最も治安の悪い国へとなり下がってしまった。
 暗殺者と放浪者は街道に沿って町に出た。此処もかつての繁栄すらうかがえない荒れようだった。 
「此処も暗くなったな……。昔は商人が各国からの旅人を客引きする声で、とても賑やかだったのに。」
寂し気にイビアンが呟く。其の口ぶりから、以前ローナルマルエを訪ねた事がある様だ。
「……そんな時代もあったのね。…私は身を隠して生きて来たから町に出たのはつい最近で、何も知らないのよ。」
スミエット達兄妹が町に降りて来た頃にはすでに、国家を挙げた大規模な戦争が始まっていた。其の為、廃れた町しか目にした事はない。
「此処は本当に良い国だったよ。……政府さえ指針を誤らなければね。」
「…政府の指針……?」
意味深なイビアンの発言にスミエットがすかさず尋ねる。
 口が滑ったとでも言いたげに曖昧に笑った彼は、
「いいや、何でもないよ。」
と話を濁し、それきり何も言わなかった。スミエットは彼の話の続きが気になりつつも、口を固く閉ざし決して話すまい、としている彼を見て其れ以上詮索しなかった。そして次第に彼女は此の話を忘れていった。
「そうだ、俺はまだ君の名前を聞いていない。……君さえよければ教えてくれないか?」
「私は……スミエット。」
「…此の辺りでは聞かない名前だね。ナリアン族では伝統ある名なのかな?」
相変わらず無表情なスミエットに話題を振るイビアン。二人の姿は端から見ると余りにも滑稽であった。どうやら今度はイビアンがスミエットのペースに巻き込まれている様だ。
「分からない。あまりに幼かったから、そんな事は覚えていないわ。」
「そうか…なんだか残念だな。」
感情の変化が分かりやすいイビアンは目に見えて分かる程に落胆した。
 其の理由はスミエットには分からなかった。


***


 やがて町を過ぎ、風化しただだっ広い場所に出た。見渡す限り無機質な土色の世界で、建物一つ見当たらない。閑散とした其処には土煙が巻き起こり、視界は最悪であった。
 其の為、イビアンとスミエットは彼らの身に降りかかろうとしている災難に気付いていなかった。
「…なんだかやけに静かだな……。」
「人がいないのだから当たり前でしょう?」
スミエットは呆れて言った。彼女は先程から目に砂埃が入るのか、片腕で両目を覆う様にして歩いている。放浪者のイビアンとは違い外套の襟首が深くはない為、口や鼻を覆う事が出来ず呼吸器官に異物感がある。
「いや、其れにしても気味の悪い静かさだ……。なにか、あるかもしれないな。」
「……ふふっ。いい見立てだな…しかし『何かあるかもしれない』ではない。もう既に事は起っている。」
見知らぬ男の声に二人は反射的に周囲を見渡すが、其処には誰もいない。
「我らの聖なる領域に踏み込もうとは、命を恐れぬ大胆な輩だな。」
「おい、お前は誰だっ。…どこにいる?出て来いっ。」
敵意を剥き出しにして噛みつかん勢いで叫ぶイビアンを嘲笑う様に砂嵐が巻き起こった。
「貴様らの命は既に我らの手の中だ。」
其の言葉を合図に空中に舞い上がる砂は一瞬にして晴れた。開けた視界に黒装束の集団が映る。
「よく来たな、其の身に神の使命を帯びた…不浄の者達よ。」
漆黒の衆の中に一人、明らかに異彩を放つ男があった。闇の中に輝く銀髪に、曇天の空を模した様な外套、殺気漂う鋭い瞳は此の酷い世界の有様を嘲笑っているかの如く冷淡であった。
 其の男は淡々と、しかし何処かに嘲笑うような調子を含みながらイビアン達に言い放つ。
「此の世界の神は悪だ。従って其の神からの信託を受ける貴様らも傲慢な七種の神々と等しく罰を受ける必要がある。」
男が唐突に言った内容はイビアン達には到底理解出来ないものであった。
 此の男は此の世界の絶対的な神に対して何たる事を言うのだろうか。しかし其れは彼らには理解出来ない大義あっての事だった。此の世に語り継がれる神話の偽りと真実の物語を垣間見た時、人はきっと此の烏合の衆の様な思想に至るだろう。だがそんなかつての世界の事など知る由もないイビアンらにとっては理解し難い話である事は確かであった。
 男が外套を翻すと一陣の風が吹き抜けた。砂埃がイビアン達に容赦なく襲い掛かる。其れと共に男の至極美しい銀髪も揺れ動く。髪の一本一本が光りの線の様に煌めいて哀しく歌っている様だ。
「此の世界に神など…いない。」
 次から次へと巻き起こる轟音の隙にそんな呟きが聞こえた。否、正確には聞こえた気がしたのである。言葉の主すら誰とも分から無い妙な囁き。唯、其の声は救いを求める幼児の様に拙く儚げであった。

曇天の空

 漆黒の組織を此のローナルマルエの地で率いる男。彼の名はリマイアーと言った。
 透き通る銀髪に生気のない白い肌。端正な顔立ちには殺気立った漆黒の眼孔が大きく見開かれ、細い身形の特徴的な彼は、組織の中でも腕の在るかなりの強者であった。其の証拠に今、此の荒原の風を自由自在に操っている。彼が携えている剣の動きに合わせて強風やら旋風やらが巻き起こるのだ。
 吹き荒ぶ砂塵の中でイビアンは男の特異的な能力に目を見開いた。其の表情は何か心当たりのある様だった。
「スミエット、彼奴に下手に手出しするな。奴は危険過ぎる…。」
「…危険?どう言う事?」
訝しげな表情を浮かべる彼女の問い掛けには応じず、イビアンはリマイアーを見据えていた。一つ一つの動作を一瞬たりとも見逃さぬ様に。その表現は険しく、眉間には深い皺が寄せられていた。軽口ばかりの彼とはまるで別人の様である。
「ふふっ。怯えているのか…心配せずとも直ぐに楽になれるぞ。」
リマイアーは緊張感漂う二人の様子を嘲笑う。色の白い肌が模した漆黒の外套を際立たせ、不気味さを放っている。やけに自信に溢れた彼の傲慢かつ強気な態度には寧ろ清々しさを感じる。自らの実力に相当の自信を抱いているのだろう。
「朽ち果てろ、愚者達よ。」
血走った眼で吐き捨てると共に手にしていた剣を高々と掲げる。其の切っ先が天を裂くと、体感した事もない強大な風が旋回し、巨塔のごとき竜巻が現れた。其の威力は凄まじいもので、何もかもを吸い込む暗黒の様だ。
 イビアンとスミエットは其の場に留まる事に必死であった。少しでも油断をしてしまえば、眼前の龍の餌食である。普段なら暗殺術で男一人など安易に殺める事が出来るスミエットでさえ、手も足も出ない状況であったのだからその場の異常さは常軌を逸したものであるのは確かである。
 大地を揺さぶる様な振動が全身を駆け巡り、唯立っている事さえ儘ならない。
 リマイアーが振るう剣の動きに沿って大気が揺れ動く。唯の風などではない。彼の操るのは彼の意のままに自由自在に変化する風。其の力を以て人を殺める事すら可能であろう恐ろしげなものである。
 そんなものを前にイビアンとスミエットは到底叶う筈がなかった。身を裂く様な烈風が吹き荒び、呼吸が上手く出来ない。苦しみにもがきながら、何も成せぬまま、時間だけが過ぎて行く。其れに伴って心身の疲労に限界が訪れていた。意識が漸次薄らいで行く。
(もう…駄目かもしれない…。)
スミエットは薄れ行く意識でそう思った。しかし次の瞬間、夢現の区別も付かない声が聞こえてきた。ひょっとすると幻聴であろうか。
「そうはさせるかよ。」
否、其れは決して幻の声等ではなく、確かに少年のものであった。声の主には此の場の誰もが心当たりなかったのだが。  
 誰とも分からぬ影が正しく稲妻の様に此の荒原を走り抜けた。
 リマイアーの後ろで控えていた黒装束の男共からどよめきの声が聞こえる。未だ事態を飲み込めていない様だった。しかし其れはスミエットとて同じ事であった。
「…何かしら。早くてよく見えないわ……本当に人?」
暗殺者の彼女の千里眼をもってしても激しく動き回る影が何であるのか分からなかった。
(あれは…ふふっ。やっと来る気になってくれたか。)
数多の人間が困惑している中、イビアンだけはその声の主が懐かしい友のものだと気付いていた。そして安心感からか大きく一息吐いた。
「最近此の辺りが廃れたのを良い事にこんな所に身を隠していたんだな…絶対に許せねえ。」
強い怒りを含んだ影の声と共に大きな水の柱が吹き上げた。古来より乾き切った此の土地に何故水などが吹き上げたのか。其の場は一瞬にして混乱に陥った。
 唯、そんな状況下でイビアンとリマイアーだけが平然としていた。まるで初めからこうなる事を予期していたかの様に。そしてリマイアーは恐ろしく歪んだ表情で笑みを浮かべた。
「遂に来たか。待っていたぞ、愚かな使徒よ。」
水柱の向こう側に佇む影に向かって声を張り上げる。と同時に手にしていた剣の切先を水中に向けて大きく振るった。すると地の割れそうな狂風が辺り一帯に吹きつけた。
 イビアン達は思わず後ずさり、立つ事すらままならず膝から地面に崩れ落ちた。
 立ち上る水柱が風に煽られて飛沫を飛ばす。其れが雨の様に激しく荒原に降り注いだ。二人はまるで嵐の中にいる様な気分だった。
 水と風が激しくせめぎ合う。水柱を操る影、少年はリマイアーの圧倒的な強さに驚愕した。吹き上げる水の威力を高めようとするも体力が限界に近いためか思い通りに水を自在に扱う事は出来ない。噴き上げを操る指先に異常なほど力がこもり、逞しい腕は血管が浮き出ていた。
 一方でリマイアーの方はまだまだ余裕があるのか涼しい顔をしていた。弄ぶ様に剣を振る彼は髪の乱れ一つない。化け物の様な強さである。イビアンが血相を変えるのも無理はない。そんな男を前に少年一人は敵うはずもなかった。
(くそっ。せっかく此処まで来たのに俺は此の程度で終わっちまうのかよっ。)
少年の顔には悔しさが滲み出ていた。しかし無情にも彼の限界は着実に近づいてる。其の様子をイビアンはしっかりと捉えていた。しかし此の荒れ狂った状況では少年の元に近づく事も出来ない。苦しむ友と共に戦う事すら出来ないのだ。
 イビアンはありったけの声を振り絞って叫んだ。
「サーヴァル、もう止めるんだっ。」
悲痛に満ちた声が発せられた。瞬間、何故か荒ぶる風が納まった。イビアン、スミエット、サーヴァルの三人が一斉にリマイアーを見やる。其処には黒装束の者に耳打ちされ、黙って剣を収める彼の姿があった。一体何が起こったのであろうか。
「……そうか。では撤退するぞ。」
静かに命令し、三人の方に向き直る。先程とはうって変わって無表情なリマイアーは淡々と告げた。
「我らが主から帰還の命が下された。主の命は絶対だ。よって此度は貴様らの命を救ってやる。しかし次に会った時は……容赦なく叩き潰すからな。」
覚悟しておけ。吐き捨てて外套を翻すともう其処にはリマイアーの姿はなかった。無論彼を取り巻いていた漆黒の衆も共に何処かに消え去った。
 残ったのは印象的な男の横顔と柔らかな微風だけであった。

終末の英雄譚 Ⅰ

ファンタジー第二弾が始まりました。まだまだ続きますが宜しければ、お付き合いください。

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  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 成人向け
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2016-03-29

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Copyrighted
  1. 復讐の少女
  2. 盗賊
  3. 放浪者
  4. 破戒の足音
  5. 曇天の空