キミは狼人間
黒沢くんは狼人間だ。兎族の女の子のからだを噛んでいるところを、ときどき見かける。
わたしは海底人だ。黒沢くんとは大学で知り合った。
仲が良いか悪いかでいったら、良い方ではないだろうか。わたしは黒沢くんをかっこいいと思ったことがない。周りの女の子たちは、黒沢くんはかっこいいと騒ぐ。うっとりする。黒沢くんが恋人になったら、という妄想に耽る。
黒沢くんは兎族の女の子が好みなのではなくて、狼人間の中でも黒沢くんの属する種が、兎族のからだを本能的に求めるようできているのだと聞いた。狼人間にも幾つか種類があるらしい。わたしたち海底人に魚人、貝族、甲殻類と哺乳類の混合種なんかが存在するように。
「兎族の女の子は、どちらかというと苦手。胸を、ぐりぐり押し当ててくるから」
そうぼやきながらも兎族の女の子を噛まずにいられないのは、黒沢くんの宿命なのだった。
わたしは黒沢くんの、女の子がそんなに得意じゃないところが好きなのだが、わたしの好きは恋愛の好きではなくて、友情のそれだ。黒沢くんの頭にある、小さな音にも反応する三角形の耳を眺めているのが好きで、銀色の睫毛をどんな貝殻よりも美しいと思っているのだが、これは恋ではない。断じて。
そういえば先日、半年つき合った猛禽類の男の子にフラれた。大学の近くの青いプールに金色のウナギが現れた日で、その日は朝に雨が降って、昼に雪が降って、夜には綿が降った。
雪と綿が折り重なった真っ白い道を、わたしは歩いていた。アルバイト先から家に帰る途中だった。つき合っていた猛禽類の男の子はわたしのアルバイト先であるポップコーン屋にわざわざやってきて、別れようとだけ言って帰ってしまった。せめて何か買ってけよと思いながら、わたしはキャラメルポップコーンをざくざく炒った。店長が売れ残ったポップコーンをぜんぶくれたので、歩きながら食べていた。蟹山さん、と声をかけられたのは、くらげ沼の橋を渡ろうとしたときだ。くらげ沼のくらげが、青緑色の光を放ちながら水面を漂っていた。黒沢くんだった。
黒沢くんは橋の真ん中で、道を塞ぐように立っていた。いつもの眠たそうな顔で、立っていた。
くらげが放出する青緑色に照らされた黒沢くんの口元には、黒いものが付着していて、それが血だとわかったのは黒沢くんが突然、わたしに顔を近づけてきたからだった。
「蟹山さん、泣いてる?」
と、黒沢くんは訊いてきた。わたしは首を横に振った。
「泣いてないよ」
「うそ、泣いてるよ。おれにはわかるもの」
眠たそうな顔で黒沢くんは、わたしの右手を取った。そして、わたしの右手人差し指をおもむろに噛んだ。
痛みはなかったが、痺れがあった。痺れといっても気を失うほどのものではなくて、でも、気を抜くと意識が飛びそうなほど、甘やかな痺れだった。黒沢くんの口元の血は、兎族の女の子のものだろうか。そんなことを考えていたら、黒沢くんの熱く滑った舌がわたしの指をゆっくり這ったので、なんだかとてもいやらしい気分になった。つき合っていた猛禽類の男の子の顔を、わたしはすでに思い出せなくなっていた。
黒沢くん。
名前を呼ぶと黒沢くんはわたしの指を口に含んだまま、目線だけを寄越した。噛み千切られるかもしれない恐怖と、噛み千切られて食べられるかもしれない期待とが、波となって押し寄せてくるのを感じた。
青いプールを泳ぐ金色のウナギを、黒沢くんと眺めたい。
水面を漂うくらげが宙に浮かび、破裂して、発光する青緑色の粒子がわたしと黒沢くんを包み込んだら素敵だなと思った。
柄にもなく、黒沢くんと交わることなんかも想像してみる。
狼人間と海底人(甲殻類と哺乳類の混合種)が交尾すると、海の中をすいすい泳げる狼人間が生まれるのだろうか。
試してみればいいさと、わたしの中のわたしが囁く。
けれど、これは恋ではない。
おそらく。
キミは狼人間