変異性パラノイア

簡易性ジェノサイド

「空を飛んでみよう、とか考えた事ない?」
 入舞(イルマ)はいつも鳥になりたがっていた。あの小さな身体に、綺麗とは呼べない脳みそに、色鮮やかな眼に憧れを抱いていた。
「またスピッツの曲でも聴いたの」
 私は消去法で人間を望んでいるだけだが、たまには翼を生やすのもいいかな、なんて考える程度だ。彼女ほどの情熱はない。だから雲の上の風よりも、大地に頭を垂れる雑草を愛でる。
「違うの、例えば高いところから飛び降りたとして、その時ってどんな気持ちになるのかなとか、そういう好奇心って無い?」
「無い」
「冷たいなあ、祝(トキト)は」
 彼女は気分で髪の毛を真っ青に染めるような娘だ。そして色んな人に怒られたり話題に出されたりする。それを良いとも悪いとも思っちゃいない。だから普通のロジックが通用しないことはよく知っているけれど、しかし同調したって得をしない。
 助かるのは、私が否定しようと、馬鹿にしようと、ごく稀に共感しようと、入舞は怒ったりしない。私は私が思うことを口にするだけ。貴方は貴方の思うままに返せばいい。返さなくてもいい。それが彼女の生きるスタンスなのだ。故に、いつも側にいたくなるのだろうか。
「ところで」
 電気のつかない五階の階段は、暗いのはもちろん、寒い。スカートを翻して、入舞が一段下に座り込む私を覗き込む。
「これ、何でしょう」
 目の前に、ちゃりん、と小気味よい音が鳴る。銀色の小さな物体。つるんとしたフォルムに、丸と四角の彫り込まれた身体。いちいち聞かれるまでもない。
「鍵だね。屋上のでしょ」
「正解」
 ああ、この先の展開が一瞬で想像できる。腰を上げ、行くの、と上を指す。そこには屋上へ続く重い扉がある。言葉を介するまでもなく、彼女はそこへ鍵をねじ込んだ。


「おっ、良い天気。風が少し強いけど」
 街は一面、灰色を羽織っている。くだらない巨大広告も、毒電波の如き街頭演説も、蟻に似た通行人も、そこにはいない。
 あるのはしみったれた景色と、目には見えない毒物の味。今日は『消毒日』だから、誰も外へ出たがらないのだ。
「いま何時?」
 尋ねる彼女は、素肌を目一杯さらけ出して、二日ぶりの娑婆の空気を楽しんでいる。時計を見る――午前四時五十二分。予定では午前五時より『消毒液』が散布されるが、人間のやることだ、多少早まる時もままある。
 時刻を伝えると、別段焦る様子もなく、
「まあ、大丈夫でしょう」
 と笑いかける。入舞はよくても、私は良くないんだよ、と言いたい。最悪の場合は、腰に巻きつけてあるマスクを一足先に付けさせてもらう。それでもきっと許されるだろう。彼女だけが死のうとも。それを運ぶこともせず、一人でシェルターに帰ろうとも。
「さっきの話の続きだけど」
「鳥の話?」
「そう。もちろん人間は飛べないけどさ、落ちることはできるでしょ?」
「そうだね」
「林檎の味はみんな似たようなイメージを持てるけれど、落下する景色は『実際に経験した人』しか分からない」
「『だから落ちてみたい』?」
 まあ、誰だって分かる。分かるけれど理解できない。それが普通だ。あと五分余りで『消毒液』が散布され、シェルターへの入居契約を持たぬ者や防護マスクを買えぬ貧民層が根絶やしにされるっていうのに、制服姿で屋上に出る馬鹿を、理解しろという方がおかしい。
 ただし私は適度におかしい人だから、死の危険がくる三秒前までなら、彼女に付き合うと決めている。
「なら飛んでみなよ。貴方、マスク持ってないでしょ。どの道あと四分でシェルターに着かない限り、死ぬんだもの」
「『ジュシュレ・イーブゥル・プレッラ(どうせ死ぬんだから)』。本当、その無関心っぷり大好きだよ」
 馬鹿で頭のおかしい人だけれど、入舞はそれ相応に美しい。美しいから不気味であり、不気味であるから惹き込まれる。そういう女だ。私は誰からもほどほどの評価をもらえるだけの顔だから、羨ましく思う。
「さて、祝に迷惑かけるわけにもいかないからね。飛びまーす」
 まるでバンジージャンプか高飛び込みでもするようなノリで、右手を掲げる入舞。助走を付けてフェンスを一発で乗り越える。
 金網を隔てて、あちらとこちら。仕方なく私もその境界へと足を運んで、あちら側に立つ彼女のすぐ目の前に着く。
「本当にやるの」
「本当にやるよ」
 ガリガリ君のあたり棒を引いた時と同じ笑顔で、彼女はそれが嘘偽りのない決心だと証明する。例えそれが、引き返せない選択だとしても。私はそれを止められないし、彼女もまたそれを止めようとは考えやしない。
 つまり、
「一人は嫌だったんだね」
「そうかもね」
 立会人が欲しかっただけ。私にとって付き合いやすい人柄を演じていたのかもしれない。いつからか――空を飛ぼうと思ったその時からだろう――ずっとずっと前から。仲間とも同志とも異なる、ただ側にいてくれる人を探していたのかもしれない。
「あと二分」
 午前四時五十八分。このビルは十階建てだから、飛んで落ちるまではものの数秒だ。踵を返し、走って帰ればぎりぎり間に合う。私だけは。
「ごめんね、何だかんだでもうそんな時間かぁ」
 彼女は防護マスクを持っていない。買おうと思えば百個だって買えるだろう。盗もうと思えばいつでも盗めるだろう。私は自分のものを買うだけでも精一杯なのに。彼女には、私に無いものをたくさん持っているのに。
 何が不満なんだ。何が嫌なんだ。
 そんなに嫌なら、さっさと死んでくれ。時々、そう思う時があった。今もそうだ。落ちるなら早めにね。『消毒液』は吸引しなければ害はないはずだが、肌に良いとも思えないから。
「さて祝、あと一分二十三秒くらいかな? それくらいで『浄化活動』が始まるわけだけど、あれがどうして実施されるようになったか、分かる?」
「社会的リソースにならないような、つまり利益にならない人を皆殺しにするためでしょう」
「それなら、『マスクの付け忘れ』とかみたいなヒューマンエラーを引き起こしかねない手段はとらないよ。もっと単純で、もっとバカバカしい理由だと思うよ」
「それじゃあ、何?」
「それはね」
 午前五時。時計のアラームがけたたましく鳴り出した。年に一度、もしくは二度。その瞬間がやってくる。
「私がこれからする事と、きっと同じ」
 軽く手を振って、彼女はその身を空中へと預けた。
 ふわり。一瞬だけ、この空間から重力が無くなったような気がする。呼吸が止んだ。アラームの音も消えた。この瞬間を知覚しているのは私達だけなのか、と錯覚するほど、世界が静寂に包まれた。
 そして次の一秒で、彼女の姿が消えた。


 ぐしゃっ。この効果音は、私自身が想像で付け足したものだ。たぶん、そういう音を立てたんだと思う。
 こう言うと、入舞なら「人間は水分で出来ているから、水風船が弾けるような音だと思うよ」なんて、あっけらかんに解説するだろう。
 時間にして三秒かそこら。風が私の髪を一払いするのを感じて、フェンスに背を向けた。死を、確認するまでもない。いや、それは強がりだ。確認したくなどない。
 彼女は何でも持っていて、私に無いものをたくさん持っていて、なのに空を飛ぼうなんて事を考えていた。そしていとも容易く成し遂げた。最期まで自分の思い通りに生きてきた彼女を、正直羨ましく思う。
 でも、だからといって両手を揚げて喜べるはずもない。いなくなればそれは、確かな喪失感へと変わる。当たり前の話だ。好きな人も嫌いな人も、それが必要だと感じているから記憶に居座るのだ。私にとって彼女は――。


「おはよう、祝」
 屋上の扉の前で、入舞はついさっきまでと変わらぬ笑顔で立っていた。
「どうだった? 格好良く飛べたかな」
 頭部から絶え間なく血を零しながら、変わらぬ笑顔で立っている。
「いてて、右脚が壊れちゃったよ」
 指先があらぬ方向へ折れ曲がっているというのに、痛そうな素振り一つ見せず、右脚を引きずりながら歩み寄ってくる。
「どうしたの、祝?」
「なんで……」
「『なんで生きているの』、かな」
 頷くことすらできず、ゾンビのように成り果てた彼女を見つめる。見つめたくなどないけれど、目をそらすこともできない。
「それはさっきの問の答えと同じだよ?」
 制服のネクタイを取って、入舞はそれを空高く放り投げた。風に乗って、それは私達とは反対方向に飛んでいった。あのフェンスの向こう側へ。彼女の死体があるはずの場所へ。
「この地域だと、『消毒液』は駅から散布される。液と言っても立派な生き物で、木や花といった植物に反応して流れを生む。蜜を求めて野原を飛ぶ蜜蜂みたいにね」
 けほっ、とひとつ咳をすると、小さな口から血の塊が吐き出された。そんな状態になってなお、彼女は喋ることをやめない。
「それが何だって言うの? 人口が増えすぎたって言うなら、税金でも増やして少子化を作ればいいじゃない。邪魔なやつを根絶やしにしたいなら、そうすればいいじゃない。わざわざシステム化して選民意識を生み出す理由はただ一つ」
 一、と人差し指を掲げられても、それは私から見て二時の方向に折れている。裂けた皮膚の中から、驚くほど白い骨が見えている。
「理由なんてないんだよ。ただ、そうしてみたいから。そうするとどうなるか、知りたいから。私と同じだよ」
「でも、そうだとしても」
「私が生きている理由にはならない?」
 ようやく、私は首を動かすことができた。悔しいけれど、彼女の声を聞けば聞くほど、心が落ち着いてくるのを感じてしまう。
「その前に、マスクを付けなくていいの」
 言われてようやく、時計を確認した。午前五時四分。早まることはあっても遅れることはない。確実に『浄化活動』は始まっている。金か人脈のある者はシェルター内で毒のない酸素を吸い、外の景色を想像している頃だ。
 マスクに手を伸ばしたけれど、やめた。間に合わないだろう。これだってきっと、死ぬ間際の幻覚なのだろう。彼女に付き合ってしまったばかりに、とうとう死の道連れに遭ったのだ。
「安心して、ここは消毒液が届くまで少し時間がかかる。それに今日は風が強い。こちらからあちらの方向にかけてね」
 放り投げたネクタイは、フェンスの方へ、つまり駅のある方向へと飛んでいった。入舞は消毒液を蜜蜂に例えたけれど、言い得て妙だ。指向性をコントロールできるといっても、風や雨といった自然の力にはある程度影響を受ける。マスクを持たぬ難民が「アタリ」と呼ぶ気候だ。
「それにね、貴方は消毒液で死ぬ人を見たことがないでしょう? 私もないよ。ニュースではモザイクをかけられるし、避難勧告が解除されるのは三日後、『遺体を運び終えた後』とされている。でもそれが、最初から『遺体なんて生まれない』と考えたら?」
「……全部、嘘だって言うの」
「それは分からない。目で見て確認しない限りは推論でしかない。でも、金持ちの娯楽か何かで、巨大なエイプリルフールを繰り広げているなんて、そんな妄想も楽しくないかな」
 午前五時七分。まだ息苦しさも体内の異常も感じない。いくら好条件が重なろうとも、とっくに消毒液を吸引してしまっているはずだ。情報では吸引から一分で、咳や目眩、頭痛が起こる。そして数分ののち、死に至る。そのはずだった。
「全ては思い込み、誘導された妄想なんだよ。消毒液も、浄化活動も、生死の概念すらも」
「だから……?」
「今日の祝は、頭の回転が鈍いね。死ぬなんて事、ありえないんだよ。私達は生まれつきの不老不死なんだよ」
「でも、寿命による死はちゃんと見たことあるよ」
「うん、それは確かにある。でもそれって、『死ぬんだな』ってふと感じたから、そうなっただけでしょう。長い長い歴史のうえで、死ぬ人がたくさんいたから、『ああ、いつかは死ぬんだな』って思い込んだだけじゃないの。『死なないよ』って信じていれば、死なない。それくらいシンプルな世界になっているって、信じられない?」
 信じられない。信じたくもない。私だっていつかは死にたい。いつまでも生きるなんて真っ平ごめんだ。いつか死ぬから生きるのだろう。いつか死ななくてはならないから、生きて幸せを知りたいのだと願うのだろう。
 数多の反論は声にならず、かすかなうめき声となって風の音に消される。
「祝、楽になりなよ。妄想でもいい。幻覚でもいい。ただ、どうせ死ぬんなら、一度確かめてみればいい」
 確かめる――空を飛んで。地上にぶつかって。水風船みたいな音を立てて。死んだらそこまで、生きていたらおめでとう。何それ。
「まあ良いよ。私は待っているから」
 扉を開けて、階段へと促される。ロボットのようにぎこちない動きで、私はそこへと歩き出す。どうして帰るの。今から帰っても間に合わないよ。私が私にそう告げ口をする。
 でも、そんなの、分からないんだ。理由なんてないんだよ。林檎を齧ることに、理由が必要? それと同じことだ。
「ねえ、祝。繰り返すけど、私は待っているよ」
 薄暗い階段の向こう側、扉のあちら側で、入舞はにこやかに笑う。ガリガリ君のあたり棒を持つかつての姿が、ふわりと重なる。
「たくさん死んで、たくさん笑おう?」


 扉は閉ざされた。冷たい空気と、どこかで響く水滴の音と、私の呼吸音だけが存在している。
 もう一度、この扉を開けたら。入舞はそこにいるのだろうか。それとも、これから地上階まで降りて、死体があるか見てみようか。
 そのどちらも、今は実行する気になれない。ひどく疲れた。それに、シェルターにいないと他の者に気づかれたら面倒だ。
 避難民が全員寝ていることを祈りつつ、戻るしかない。私は生きているから、生き続けられる方法を模索するしかない。
「空を飛ぼう、か」
 ふと私は、もう一度だけ、屋上に行こうかと考えているのに気づいた。消毒液よりも強力で、依存性の高い猛毒。
 彼女のあの声がまた聞こえてきそうで、それが怖くて、私はシェルターのある方へ走り出した。

遅効性タイムトラベラー

「タイムマシンって要ると思う?」
 西暦二〇一五年三月三十一日。彼女は私にそう尋ねた。
「要る、要らない以前に、有り得ないよ」
 たしか私はそう答えた。
「実はね、マナ」
 西暦二〇一五年三月三十一日。あと半日で学生でなくなるというその日。彼女は私に打ち明けた。
「タイムマシン、出来たんだ」
 彼女の吐いた、最初で最後の嘘だったと思う。


 ――西暦二〇二〇年。埃一つないワンルームの真ん中で、私は目覚めた。隣にはハンガーにかけるのも面倒くさがったのであろうスーツと、横に倒れ込んだビジネスバッグ。
 五年と五ヶ月前に学生という素敵な肩書きを剥がされて、私もみんなと同じありふれた荒波にもまれた。社会っていうのはいつまで経ってもロクなことがなく、人間関係という欠陥、夢のない日々という不具合は二十一世紀でも健在だ。
 時計を見ると、午前十一時を指している。せっかくの休日も、ほぼ半分が睡眠で浪費されている。寝すぎたか、と身体を起こす。
 ベッドのすぐ脇にあるスマートフォンを取り出し、起動する。この五年間で変わったこと。ちょっと便利な世の中になって、文明の利器はほどほどに進化した。車はまだ空を飛ばない。ホバーボードも靴紐いらずの靴もホログラムの広告塔も存在しない。
 だけれど一つだけ、スマートフォンがキーボードを装備してくれた点だけは感謝したい。画面はタッチ一つで拡張され、五インチ程度のものは十インチまで伸びる。液晶は今やスライムみたいに伸び縮みするのだ。
 スタンドに立てれば、机の上にLEDが投影される。三十年間、変わることのないQWERTY式キーボード配列。両手で机を叩けば、そこに表示されているボタンが認識され、入力される。ピアノを弾くような感覚だ。
「ミナは何処へ?」
 合言葉のように、SNS上の何者かへ発信する。
「やあマナ。随分待たせたが、ようやく情報が出揃った」
 彼は『代理人(エージェント)』という。もしかしたら彼女なのかもしれない。匿名性が失われつつあるネット社会で、未だに偽名と顔出しNGを貫く人物だ。
 しかし仕事の腕は確かなもので、大抵の依頼はあっという間に解決してくれる。飼い猫の捜索から裏金の洗浄(ロンダリング)まで、何でもだ。
 一週間と少し前、彼にコンタクトを試みた。依頼内容はひどく幼稚なものだった。
「ミナという女性の今を調べてほしい」
 それだけだった。
 年賀状すら電子の世界でやり取りされるご時世だからか、よくよく考えると彼女の住所や連絡先というものをほとんど知らなかったのだ。学生時代の記憶と、今はもう使われていない電話番号が数少ない手がかりだった。
 それでも彼――という呼び方に統一しておく――は、
「夏の間に解決しよう」
 と快諾してくれた。そして今日、ついにその答えが明かされるのだ。


「タイムマシンなんて、たかが学生に作れるものなの?」
 西暦二〇一五年、三月三十一日。学生最後のお昼時、私は彼女の家でそう尋ねた。
「もちろん、身体ごと飛ばすなんてのは無理だよ。ただ、意識だけを加速させる事はできた。詳しく説明すると二日くらいかかりそうだけど」
 彼女は巨大なヘッドセットを取り出して、自身の頭にはめ込んだ。
 今にも折れてしまいそうな首筋。瞳を閉じると、長いまつげやなめらかな肌がきらきら光る。美しい人なのだ、彼女は。それも病的なほどに。
「車や飛行機なんかと同じだよ。移動する方法が一つ増えた。それだけの話だよ」
 ミナはその時、西暦二〇二〇年八月三十一日――つまり今日、この日にタイムトラベルを果たしたのだと言った。


「君を過剰に悲しませたくないから、先に言っておく。彼女に会うことはできない」
 『代理人』はそう前置きをして、西暦二〇一五年四月一日からの、私の知らない彼女の足跡を説明してくれた。
 ごくありふれた企業へ就職した私とは裏腹に、彼女はフリーのジャーナリストまがいの活動をしていた。
 はじめは国内を、一年後にはアジア諸国、そのすぐ後にヨーロッパへも。ロシア、台湾、パプアニューギニア、オーストリア、フランス、リビア、グルジア、アフガニスタン、トリニダード・トバゴ、キルギス……めったに聞くことのないような国に至るまで、幅広く。
 中には未だ内乱の続く国の名まであった。それらを見ていくと、彼女は徐々に危険地帯へと歩を進めているようにすら見えた。そして、
「西暦二〇一九年三月三十一日、ミナはロシア国境付近で死亡した」
 最後に会ったあの日。タイムマシンを見せてくれたあの日と同じ日付に、彼女は死んでいたのだ。
「どうして日付まで分かったの?」
「彼女はドナー登録をしていた。遺体はモスクワの大病院に運ばれ、臓器提供に遣われたんだ」
 机のうえで、ピアノのように奏でていた指が止まった。かすかに震える指先を、スマートフォンは空気も読まずに認識する。
 ffffffff。熱暴走のように狂い出す文字をまとめて削除し、ゆっくりと文字を打ち込む。
「ありがとう、また後で連絡する」
 そう言うと、彼は「まずは落ち着いて受け入れてほしい」とだけ返した。


 西暦二〇一五年三月三十一日。あれは午後五時あたりだっただろうか。
「本当に、タイムトラベルしたの」
 そう尋ねた私に、
「もちろん。西暦二〇二〇年八月三十一日。たぶん午後五時くらい」
「何があったの?」
「うーん、見た感じは、あんまり変化なかったかな」
「本当に飛んだの?」
「そう言うだろうと思って、証拠を残しておいたよ」
「どんな?」
「さっき言った日。西暦二〇二〇年八月三十一日の午後五時。私は貴方の頬にキスをする」


 ――それから五年と五ヶ月と四時間五十二分後。私はワンルームのど真ん中にいた。特に何をするでもなく、ベッドのうえでぼうっとしていた。
 ミナは死んだ。どこの誰か分からないとはいえ、『代理人』の実力は多くの人が認めている。五百ドルでいいと言われた時には怪しんだものだが、医師協会のbotサービスに問い合わせたところ、ミナの臓器提供の履歴がきちんと出てきた。つまり、少なくとも結末だけは真実なのだ。
 この五年間、あの娘のことは時々思い出していた。学生時代の思い出なんて大して残ってやいないけれど、彼女の顔や言葉、二人で話した未来予想図なんかは、ハッキリと残っている。
 あのタイムマシンは、やはり嘘だったのだろうか。いたたまれなくなって、嘘だと白状する勇気もなくて、それで海外を飛び回って死に場所を探した――と言うと、辻褄が合わなくもない。
 非現実的だ。何より、そんな風に悪く考えたくない。彼女は本当にタイムトラベルをして、何か目的があって海外を飛び回って、たまたま死んでしまったのかもしれない。未来は不確定であり、彼女の飛んだ未来は別の世界線のものだったとも考えられる。
 けれど、考えれば考えるほど、完璧な答えを見つけられないでいる。


 西暦二〇一五年、三月三十一日。
「タイムマシンってさ、私には使えないの?」
「ごめんね、今は私しか使えない」
「どうして?」
「未来における座標指定が問題なの。何年後のこの日、私はここにいますっていう確信が無ければ失敗するし、違った時にどうなるかまだ分からないから」
 危険な目にあわせたくない、というのが彼女の言い分だった。
「それじゃあミナは、二〇二〇年に自分がどこにいるか、分かっているの」
「もちろん」
「じゃあ、どこにいた?」
「私は……」


 どうしようもない袋小路に追いやられたように思えて、私は今一度身体を起こした。コンビニでも行こう。何年経っても、便利の権化みたいな役割を担う場所へ。
 特に買うものもないのだけれど、外の空気を吸いたい。そして先ほど知った事実を、早く別の何かで上書きしたかった。私はミナの行方を未だ知らないし、いつかまた会えたらいいな、と思いつつ生きている。そう思い込みたかった。
 エレベーターを降りて、最寄りのコンビニのある方向へ歩き出す。大通りには未だタイヤをつけた車がびゅんびゅん走っていて、騒音を出さないことだけが唯一の変化と言える点だった。
 道行く人の服装も相違ない。見える景色も劇的に変わったわけではない。「未来はあまり変わらない」と言った彼女の言葉がリフレインする。
「あの」
 声をかけられて、背後を振り向いた。一瞬、それがミナに見えた。しかしよく見ると、確かに美人な女性なのだけれど、彼女のあの病的なまでに整った顔立ちには、到底敵わない。
 が、そんなことはどうでもいい。
 それよりもずっと衝撃的な感触を受け、私の思考回路は熱暴走を起こしそうになった。


 名も知らぬ女性は、私の頬にキスをした。
 入れ替わるように、また別の人が私にキスをした。大して歳の離れていないであろう女性が、次々と私の方へ近寄ってくる。そしてキスをし、何事もなかったようにまた歩いていく。
「西暦二〇二〇年八月三十一日の午後五時。私は貴方の頬にキスをする」
 彼女の言葉がリフレインする。時刻は午後五時ちょうど。あれから五年と五ヶ月と五時間後。偶然ではない。嘘だと思っていた約束が、確かに果たされた。
 そしてもう一つ、あの日の会話を思い出した。


「それじゃあミナは、二〇二〇年に自分がどこにいるか、分かっているの」
「もちろん」
「じゃあ、どこにいた?」
「私は……」


 私は、いつも貴方の側にいる。

可逆性クラスメイト

「じゃあ君たちは、本当にそっちを選ぶんだね?」
 担任の言葉がずしんとのしかかる。たかが学生、それもありふれた一つのクラスに過ぎない私達には、非常に荷が重い選択だ。
 時刻は十八時を回っていた。窓の向こう、反対側の校舎の窓は全て消灯されている。本来ならば、二時間前には帰宅の途にあったはずであり、部活やらアルバイトやら、各々やるべき事を実行していたはずである。
 それでも、誰一人として文句を言わず、誰もが真剣に黒板と向き合い、普段挙手をしない消極的な者も含め、全員で答えを出した。
 それはある種の奇跡だったと思う。これほど団体としてまとまった瞬間が、ごく普通の公立校で完成されるだなんて。それだけで賞賛に値する。しかし。
「僕はみんなの気持ちを否定しない。だから今回の決断を止めたりしない。でも」
 一度言葉を切って、一回り年上の担任は、ぐるりと教室中に視線を巡らせた。
「僕はきっと、後悔すると思う。心から笑顔で送り出すけれど。公後悔なんてしない、と今は信じているけれど」
 卒業式がやってくる。


 卒業式というものは、一種のテンプレートだ。
 校長の長い話。初めて見るPTAやら役員やらの講話。祝辞。花束贈呈。機械的に行われるそれらに、いちいち価値や意味を考えるものはいない。
 それが儀式なのだ。お葬式や結婚式と同じ。信じる信じないではない。そうすると大人になるから、そうすると未来が開けるから、だからそこにいる。
 一人ひとりの名が呼ばれ、卒業証書という紙切れが渡されていく。それに異を唱える者がいたとしても、彼らは紙の持つ真意を問うているのではない。それしか否定を示す方法を知らないだけなのだ。
 幸い、不良というほどの生徒はいない。粛々と儀式は続き、最後に私達のクラスがやってくる。三年五組。我々の選んだ路を、他のクラスや教員、保護者もまた知っている。
「三年五組、一番――」
 名前を呼ばれる。はい、と高らかに返事をする。一人、また一人と席を立つたび、本来ならば「ああ、もうすぐ終わるかな」なんて呑気なことを思う頃だろう。
 しかし今年に限っては、皆固唾を呑んで行く末を見ている。三年五組、三十番。その数字へたどり着いた時、私達は誰も見たことのない景色を見ることとなるのだから。
 二番。三番。その数は、三年生全生徒という母数から引き算されていくのではなく、これは凄く失礼な言い方なのだろうけれど、断頭台へのカウントダウンに近い意味合いを持っている。
 手を合わせる人がいる。席を立って気持ちを落ち着けようとする者もいる。誰もが三十番というごく普通の数字を恐れて、どこか「来ないでくれ」もしくは「飛ばしてくれ」と祈ってしまっている。
 しかし、私達の代の最後の点呼をおこなう担任はというと、いたって冷静に、努めていつも通りに、その名を呼んだ。
「三年五組、三十番――」
 ルナの名が、静かに告げられた。


 どこの世界でも同じだろうけれど、私達は今、パイプ椅子に座っている。当日か先日かに、下級生たちがガチャガチャと並べた、随分と固く古びた備品だ。正直、座り心地は最悪だ。
 立ち上がろうとすれば大げさな音を立て、湿気を含んだ床がきゅうっと嫌な声をあげる。
 ルナ、と呼ばれた少女は、左右に座るクラスメイトらの手を借りて、ゆっくりと立ち上がる。
「頑張れ、ルナ」
「ゆっくりだよ」
 こういう時、頑張れ、という無責任な言葉以外のものを思いつかない。もっと真面目に国語を学んでおけば良かったのだろうか。それとも、日本語には他者を励ます有益な言葉に乏しいのだろうか。
 とにかく、自分が言われれば腹を立てかねないぼんやりとした文字列でしか、彼女の努力を讃えられない。
「ルナ」
「ルナ」
 囁くような声で。叫びたいほど軋んだ声で。
 一歩。また一歩。彼女は歩をすすめる。歩を進めさせられる。
 残酷だろうか。傲慢だろうか。彼女がそれを望んでいるかどうかも分からないのに、さもそれが当人の本心であるかのように、三年五組は彼女の卒業を望んだのだ。
「ルナ、階段に気をつけてね」
 左肩を支えるクラスメイトが、ルナに――そして何より、右肩を支えるもう一人のクラスメイトに――穏やかな声色で囁く。
 卒業式は静かに行われるものだけれど、この沈黙は最早異常だ。病的と言ってもいい。胃がキリキリと痛み、七割の窒素と一割の酸素は過酸化水素のようにビリビリと爪を立てる。
 かつん。かつん。足音が三つ。


 がたん。
 階段の真ん中あたりで、ルナはよろめいた。もともと幅の狭い作りであるから、支えになっていたクラスメイトもまとめて、地面に倒れ込んでしまった。
「大丈夫? ごめんねルナ」
 耐えられなくなったか、私を含むクラスメイト全員が椅子を飛び出し、山積みになった三人の元へ駆け寄る。
 まずクラスメイト二人を救い出し、次にルナを抱きかかえる。彼女は何も言わない。
「しっかり、ルナ、痛かったね、ごめんね」
 まとまりのない心からの悲しみを口々に伝えて、今度はみんなで彼女を運ぶ。
 朽ちた木々が、表面の木くずを零してゆくように。ルナの身体は小さな衝撃でたやすく壊れる。慎重に、三年生全員の卒業は彼女にかかっていると言わんほどの緊張の中、壇上へと運ばれる。
 校長のもとへとたどり着き、私達は息を吐いた。苦しい選択ではあったけれど、私達は誰一人欠けることなく、今日卒業を迎える。
 そう思えただけで、ごくありふれた生徒たちである我々は、もう十分に責務を全うしたのだと感じた。
 それを責められる人は、たぶんどこにもいない。彼女を支える手が、ほんの一瞬、離れてしまったとしても。


 がしゃん。
 盆をひっくり返したような音。人って、落ちるとこんな音が鳴るのか。壇上から地面を見下ろし、私はそんなことをまず思った。
 ルナは、支えを失った少女は、いとも容易く地面へ転げ落ちた。支えを失った頭部が転がり、機能を失った手足があらゆる方向へ曲がり、悲鳴の一つもなくそこに落ちた。
「ルナ」
 誰かがその名を叫んだ瞬間、私達は立つための力を無くし、壇上で跪いた。
 彼女を、正しく導けなかった。あと少しで「ありふれた卒業式」が終わるはずだったのに。ルナもクラスメイトの一人として送り出せたのに。
 次々に涙を流し、嗚咽を漏らし、誰も何も言えぬまま、冷たい空気の層が空間を支配した。


 ルナは数ヶ月前、事故で亡くなった。悪性のガスを誤って吸引してしまい、ものの数分で絶命した。なんの病気もなく、いたって元気に過ごしていた彼女は、干からびた烏賊か何かのようにやせ細り、からからに枯れた皮膚を携えて帰ってきた。
「彼女も一緒に卒業させたい」
 それが私達の総意だった。どれほど辛くとも。成功しようと失敗しようと、誰も幸せになれないと分かっていても。
 私達は、ルナのことをクラスメイトとして愛していたから。ボンタンを引きずり、行事を荒らす不良がいないように、下らないいじめ――もとい、犯罪行為――を企む生徒もまたいなかった。
 だから不幸なのだろうか。純粋すぎるがあまり、高望みをしてしまったのか。
 まさかこの世で、死体を卒業式に参加させようなんて考える者がいただなんて。後世にはそう笑われるのだろうか。でも少なくとも私達は真剣だった。


 水分を失った髪は、ウィッグのように不自然な動きで舞った。手足はマネキンのように固かった。肌は氷のように冷たかった。呼吸をしない身体は、不気味さすらあった。
 でもそれは、間違いなくルナという少女であったのだ。魂がなくとも、こころが無くとも、私達はそれをルナだと信じて、彼女を運んだ。
 担任は、一言だけ、「ごめんな」と呟いた。
 私たちに? ルナに? それともここにいるすべての人に?


 卒業式という儀式は、未だ再開されない。三十余名の嗚咽の声と、倒れ込みバラバラになった遺体の姿と、渡されることのない卒業証書とが入り混じって――。
 私達は、ありふれた学生生活を、今この瞬間、粉々に破壊した。一人の少女を手放したという記憶で上書きして。
「僕はきっと、後悔すると思う」
 担任の言葉はきっと、本当にその通りになったのだろう。しかし私は、少なくとも私だけは、後悔なんてしていない。ルナは、きちんとここに辿りつけたのだから。
「ルナ、行こう」
 もう人としての体を成していない右腕を拾い上げて、私はもう一度階段に脚をかける。

反逆性ネクローシス

 ぱしゃん。開かれた扉から、液状の塊が溢れ出た。決壊したダムのように、私の身体を飲み込んでいく。それが単なる水たまりや雨漏りといった規模のものではない、と知った時には、私の口内は水分で満たされていた。
 ぐるり、ぐるりと身体が反転する。一回転したのだろうか。いや、目の前にある灰色の壁は、地面なのではないだろうか。目まぐるしく統率の取れていない色彩が、次々と視界に表示される。
 時間にして、恐らく数秒だっただろう。吸い込んだものが液体ではないと知覚した瞬間、私は酸素を取り戻したのだと気づいた。
 皮膚に張り付いたシャツを直して、目にかかった髪を払い、眼前にある景色を観た。
 そこは漂流した街であった。そうとしか言いようがない。開け放たれた扉のほぼすべてから、先刻飲み込まれた液体が溢れ出ているのだ。
 家屋、もしくは店舗の中から、それは放出された。そうとしか考えられない。これがただの水であったのなら。水道管が破裂して、屋内が水で満たされて、硝子が割れるようなこともなく、扉を開けたことで溢れ出た。不自然とはいえ、そう考えれば納得もできた。
 しかしこれは水ではない。水は透明に限りなく近い色をしている。足元にしたたるそれを、指先でなぞる。少し粘度があり、仄かに鉄の香りがする。
 ――血だ。
 これほどの量が? 目につくあらゆる場所から、洪水のように? 一体どうして? ただのありふれた街のはずだ。民家が並び、時折なにかの店があって、ほどほどの人口で回っているただの街ではないか。
 一体何が。私はまず、ここへたどり着くまでのことを思い返した――。


 百円玉を落とした時の悲しみ、というのを時々考える。
 それ一枚では、せいぜい駄菓子か飲み物を買う程度しか使いみちがない。しかし、立派に喉を潤し、多少小腹を満たすだけのものと交換できる。そのため、全くもって不必要とは思えない。
 使って無くなるのは当たり前だが、自らの不注意で、もしくは何者かの悪意でそれを失ったとなると、妙な苛立ちを覚える。少なくとも私はそうだ。
 交番に届けよう、だとか、盗んだ相手に報復しよう、とまでは考えない。しかし一分二分程度は、返ってこないだろうかと思案する。
 その程度の痛みを、昨日味わった。机の上に置いていた花が無くなっていたのだ。
 アネモネ。色とりどりの身体で私を癒やす友だ。たしか、枯れてしまったのか。それとも茎が折れてしまったのだろうか。あまり覚えていない。
 私が捨ててしまったのか。はたまた、何者かが取り払ったのか。ここ最近は疲れていたから、家にいる時の記憶が定かでない。
 ただひとつ、今朝まとめたゴミ袋の中には、花弁がひとひら含まれていたのだ。それが何を意味するかはまだ分かっていない。


 一昨日の話だ。私は奇妙な空を見た。
 その日は雲がうっすら伸びる軽やかな天気で、休日ならば散歩にでも出かけたいと思えるほどに良い日であった。しかし夜になるとやや不気味な色をしていて、青と白とが反転したような様相に変わっていた。
 雲が青く光っているように見えて、反対に空は穴が空いたように白の斑模様に広がっていたのだ。
 日没時間かなにかで稀に見える光景ではあるが、見るたび不安な気持ちに駆られる。しかし同時に、美しいとすら感じられるのはおかしなことだろうか。
 私はというと、勿論散歩などせず、脂汗を拭いながら、部屋にこもっていた。『空白の時間』が始まっていたからだ。
 年に一度だったと思う。ややこしい名前の化学物質――通称『消毒液』が散布されていたのだ。害虫駆除なんてレベルではない、明確な殺意を持った兵器だ。
 植物や他の動物に害はないが、人間にだけは効果を発揮する、使いみちなんてひとつしかないだろう、と言わんばかりの代物だ。
 こめかみに銃口をつきつけられた状態で、目の前の女を喰らえ、と言われ、否定するだけの勇気を私は持ち合わせていない。むしろそんな事態が来たならば、その胸は、その脚は、その首筋は、心の臓腑は、どんな味がするのか。懸命に自らの好奇心を呼び起こそうとする。そういう人間だ。
 つまりこの『浄化活動』を、役に立たない人間を根絶やしにするための行為を、そうやすやすと止められる者などいなかった。金や地位のあるものは防護マスクを手に入れ、屋内でがたがたと震える。そうでないものは、どうか私の元には飛散するな、と祈るしかない。
 いらないものは廃棄する。残飯と同じように、ちり紙のように。それがただ人間であるというだけで、あらゆる人種が残酷性を叫ぶのだ。
 私は特に恐怖もなく、口元にマスクを押し当てているだけだった。浄化活動中の外出禁止期間は、その時その時で変化する。巨大なスピーカーから音楽が流されたら、それが解禁の合図なのだ。一昨日には確か、ノクターンかG線上のアリアかが流れていたと思う。
 街にはすでに、息絶えた者などいなかった。死体は調査員が回収し、元通りの姿でそこに再構築されているのだから。
 消毒液が自然消滅したことを確認できたら、ようやくマスクを外すことができる。
 私はしばらくぶりに空気に触れた口元をさすりながら、明日は仕事か、なんてぼんやりと考えていた。
 ゴミ袋には、いくつかの灰が捨てられていた。


 三日前のことだ。防護マスクを付けている期間は平均して一週間。その間は満足な食事などできない。
 方法はただ一つ、粉末状の非常食をマスク越しに吸引するしかない。マスクの先端はバルブのようになっており、そこへ袋を装着して息を吸うと、非常に優れた栄養バランスの粉末が口の中に広がる。
 彼らにも人間性が多少は残っているらしく、チョコレート味やメープル味、バター醤油味やらメロン味なんてものまである。言うなればカロリーメイトだ。
 高価なものでもないから、私は日に五度ほどそれを食す。あくまで粉末なので、満腹感は得られない。代わりにペットボトルを押し当てて、水を流し込んでごまかすのだ。
 フィルターは、目の細かいメッシュといくつかの高度な生地が重なり合い、消毒液の侵入を防いでいる。とはいえ、空気は通してくれるし、水だって流し込めば少しずつ浸透してくれる。
 だがその量はひどく鈍足で、軒下で落ちる雨粒ほどの速度で落ちてくる。ペットボトルを当て、上を向いて、一滴一滴と濾過されるそれを、ゆっくりと噛みしめるしか方法はない。
 死にはしないが、生きるにしては息苦しい。そんな時間が一週間も続くのだから、自殺者が出たって無理はない。
 浄化活動で出た死者は、埋葬などされず、ゴミ収集車――普段街で見るそれとは違うのだが、そうとしか言いようがない――に積載され、ぐちゃぐちゃとミキサーされて廃棄されるのだという。
 酷い、と言うものがいる。それが牛の成れの果てだとしたら、食べきれずに残した焼き肉の余り物だとしたら、同じ感情を持てるだろうか。
 百円玉を無くしたら困るけれど、この国では使いみちのない一ドル札なら平気だろうか。
 そんなことを考えたって、なんの意味もない。人間なのだから、もしくは日本人なのだから、人間や日本円のことだけ考えていれば良いのだ。そう、人間でないもの、日本円でないものならば、ゴミ箱に捨ててしまっても問題はないのだ。
 ゴミ箱には、髪の毛の束が捨てられていた。


 四日前、もしくは五日前。さすがにこの辺りからは時系列があやふやだ。
 私は浄化活動中の避難生活を謳歌して、映画を見たり本を読んだりしていた。大抵の人間はシェルターに登録し、そこで生活をしているのだが、消毒液は吸引さえしなければ問題ない事を私は知っている。つまりマスクさえしていれば、本来は外に出たってさほど問題はないのだ。肌荒れや軽度の炎症くらいなら引き起こされるかもしれないが、わざわざお金を払ってまで狭苦しい牢獄に入る理由などないのだ。
 頬をぽりぽり掻きながら、解禁の日に会社へ提出しなくてはならない書類を記入していた。退職願、と書かれたそれを。
 ゴミ箱には、掻きむしって剥がれた皮膚がいくつも捨てられていた。


 一週間前のこと。
 明日から浄化活動が始まる、というお触れに乗っ取り、我が社もまた休日が組まれていた。精神的に参っていた私は、一週間分の『行動自粛申請』を書き、早々に帰宅していた。
 休み一つ取る、しかも国際的なテロ行為まがいを受けている時ですら、七枚分署名をしなくてはならない。そんな前時代的なやり方が、非効率的で凝り固まったやり方が嫌で、帰ってくると同時に退職願をダウンロードしたのだ。
 少しずつ思い出してきた。私は今の仕事に耐えられず、一週間をかけて決意を固めた。そして今日、つい先ほど、退職願をもって出社しようとしていたのだ。
 避難生活初日、私は夢を見た。どんな内容だったかは覚えていないが、良い夢でないのは確かだった。
 しかし目覚めはすこぶる良くて、こんな夢なら毎晩見せてくれ、とまで願っていた。
 ゴミ箱には、大量の注射器が捨てられていた。


 一週間と少し前。
 私は。私という人間は。
 廃棄所に来ていた。仕事だからだ。
 多量のゴミ袋がそこにあって、一つ一つをつかみ取り、焼却炉に放り込むものだ。
 私は調査員なのだ。
 浄化活動を補佐する、調査員。つまりは遺体廃棄係。
 大抵は、ミキサーされたものたちをホースで流し込み、溶かされていく様を眺めるだけの仕事だ。おそらく人間であった液状のそれも、いざ形を失った状態で視認すれば、大した感慨も生まれない。
 これはコンクリートなのだ。もしくは排泄物の回収なのだ。そう思い込めば、吐き気も目眩も起こらない。
 これで全部だろうか、と私が尋ねると、調査員の一人が小さなゴミ袋を手渡した。
 私ではどうすれば良いか判断しかねるので、責任者に伺いたい、と。私はその責任者という立場にはないが、調査員というのは顔見知りが作りにくい。マスクと防護服で覆われているので、どんな顔か、どんな人間なのかが判別できないのだ。
 胸のバッジを見れば立場も分かるが、あいにくその日は責任者が他所のヘルプに出ていた。そうなると、比較的キャリアのある私に訊くしかない。バイトで例えるなら、ベテランのパートのおばちゃんに助けを求める、といった構図だろうか。
 ゴミ袋を開けると、赤ん坊がいた。マスクはない。消毒液は六歳未満の子供には影響を与えない。まだ社会的リソースとなり得るかが分からないからだ。化学兵器らしく、そういうふうにプログラミングされている。
 つまり、これは浄化活動で生まれた廃棄物ではなく、ただ単純に、絶命したのだ。
 母親が死んだからか。捨て子か。可能性はいくらでもある。あくまで浄化活動の範囲内でしか活動しないけれど、ごく稀にこういった『純粋な遺体』が運び込まれる。
 調査員からそれを受け取り、労いの言葉と、持ち場へ戻りなさいという指示を告げ、赤子を抱きかかえた。
 ぬくもりはなく、呼吸も感じられない。
 振り返ればそこに、焼却炉の口が待っている。
 袋を外し、両手でそれを持つ。肉の塊。掌に収まる程度の、矮小な存在。しかも生きてはいない。
 こみ上げる液状の何かを堪えながら。
 私は。私という人間は。
 赤子を、焼却炉へと投げ込んだ。
 呪いあれ、とつぶやきながら。
 残酷な私へと、残酷な世界へと、浄化活動なんてものを考えた愚かな誰かへと、それを受け入れてしまう愚かな人間たちへと。
 ゴミ箱には、錠剤を開けた後のシートが捨てられていた。
 



 ――そして、今。
 私は血の海の中にいる。
 一週間と少し前。私は呪いあれと祈った。
 その願いは、果たされたのか。
 その数日後に見た夢。
 「内部破裂する人間の群れ」。目覚めのすこぶる良かったあの夢。
 それが叶ったのか。
 ここに住む人間たちが次々と爆発し、撒き散らされた血が建物を満たし、私がこの手で地上へと排出させたのか。
 『ギムナリア』という冠を付けた、私の職場。遺体廃棄をするための会社。遺体を運ぶ死神。それらは皆『浄化』され、あの夢のように、正しく清潔に処分されたのか。


 これは夢なのか。ひどく静寂な街も、体中を濡らした血の海も、すべて幻なのか。私は混乱している。
 そういえば、と尻もちをついていた身体を起こし、辺りを見渡した。
 そしてふと、道の少し向こうに立つ影を見つけた。
 目を凝らし、ああ、全てはたまたまなのだと安心したがっている私に対して、その影は一、二歩前へ踏み出して、手を伸ばした。少しぎこちない歩き方だ。
 その影は、少女だった。
 右脚はあらぬ方向へねじ曲がり、指先は明後日の方向へ折れており、頭からは血を流し続けている、病的なまでに美しい顔立ちの少女だった。
 彼女は私を見つめ、手を伸ばし、小さく笑った。あまりに美しく、あまりに恐ろしい笑みだ。
 その姿を見て、私は血の波で満たされた地面を強く叩いた。
 そして笑った。
 ああ、夢であってくれ、と。
 ああ、現実なのだろうか、と。
 どちらにせよ、覚めることはないのだろう、と。
 あの赤子はきっと、彼女にやどり、今まさに私へ報復しようとしているのだろう、と。
 百円玉を失う悲しみ。
 行き場のない怒り、悲しみ。
 それらを携えて、今、この街には、私と少女だけが立っている。

変異性パラノイア

変異性パラノイア

「すべては巨大なエイプリルフールだ」と彼女は言った。 「あらゆる全てに確証がなく、それらは歴史によって積み重ねられてきた妄信だ」と彼女は言った。 この世界が夢幻なのだとしたら。妄想の産物で出来ているのだとしたら。 生きようが死のうが、もうどうだっていいのだろうか。 「たくさん死んで、たくさん笑おう?」 彼女は最期にそう言った。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-28

Copyrighted
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