しあわせのかばん

しあわせのかばん

 人間は忘却の生き物で、だからわたしも日々忘れ続けて――記憶を消し続けて生きている。
 
 
 人生で反抗期と呼ばれる時期を、わたしは大人たちへの反抗のみで生きてきた。近所のおじさんおばさんたち、学校の教師、そしてとりわけ両親にはきつく当たった。
 それは高校に入学する頃にゆっくりと影を潜め、卒業を間近に控えた今となっては、当時はなぜそこまで腹を立てていたのかすっかり忘れてしまうくらい丸くなったと自負している。
 とはいえ例外はある。わたしはいまだに母の素行が鼻につくのだった。
「あのさあ」
 眉間(みけん)にしわを寄せて母を睨むと、彼女は決まっておどおどと顔を伏せる。わたしはそれが気に入らない。
「わたし、月曜の朝はパンにしてって言ったよね? なんでご飯が出てくるわけ?」
 テーブルに置かれたお茶碗。うんざりして大きく息を吐くと、母は「ご、ごめんなさい」と頭を下げた。
「つい忘れちゃって……。い、今から用意するから」
「いいよ、もう。今日は食べたくない」
 ものすごく些細で瑣末(さまつ)なことだと思う。思うというか、分かってる。自覚してる。でもだからといって、この態度を改めることなんてできない。わたしを見るたびにおどおどして、わたしが何か言うたびにびくびくして。そんなにわたしのことが怖いのだろうか。こちらが何のアクションも起こしていないのにそんな反応をされたら、誰だって良い気分ではいられないだろう。
 嫌われたら、それ以上に嫌い返す。それだけだ。
 それを友人に話すと、彼女は同意してくれる。
「分かるわ、それ。母親ってマジうざいよねえ。いっつもこっちの顔色(うかが)ってさ。あんたはアタシの奴隷かっつーの。マジキモいわ」
 そう言って笑う友人と話していると、自然と心が落ち着いていった。今朝のことも、日頃のあれこれも、同じ境遇の友人と情報を共有することで、それらはあっという間にフェードアウトするのだった。
「でもまあ、そういうことは忘れちゃうのがいいよ」
 友人は言う。
「忘れるって?」
「そう。嫌なことなんて全部忘れちゃうのが一番だよ」
 パックの野菜ジュースを机に置き、彼女はぱたぱたと手を振ってみせた。
「どうせ人間の記憶力なんて、そんなに容量あるわけじゃないし。んでもって、アタシたちバカだから、平均よりきっと容量少ないだろうしね」
「んー、まああんたは確かにバカだよね」
「なんだとう。お前もだよ、お前もー」
 友人に頭を掴まれて揺さぶられると余計に、大事な何かの記憶が耳や口からぽろぽろとこぼれ落ちそうで――でもそんな日常がなんとなく楽しくて、やめてよーとか言いながらも、わたしは日々の鬱憤(うっぷん)を晴らすように、友人とじゃれあうのだった。
 
 人間は忘却の生き物――現代では使い古されたこの言葉を、最初に口にしたのは誰だろう。
 誰でもみんな、『記憶』という名のかばんを持っていて、その大きさには人それぞれ違いがある。たくさん詰め込める大容量の記憶の持ち主もいれば、小振りながらも用途ごとに収納しやすい利便性に秀でた記憶力を持つ人だっているだろう。もちろんその逆も。
 そして――
「あのさあ、なんで逃げるの?」
 帰宅した途端目に入ってきたのは、そそくさと台所へと身を隠す母の後ろ姿だった。
「人の顔見て逃げるなんてマジ失礼なんですけど。これが親とかほんとないわ」
 娘の言うことを片っ端から忘れ続け、かばんからぼとぼとと音を立ててこぼし続け、結果、実の娘に怯え続ける母に、わたしもそろそろ我慢の限界だった。友人とのやりとりが楽しい分、そのギャップもあるのかもしれないが、それでもこうも毎日イライラさせられては、わたしだって感情を抑えきれない。
「やめろって言ってんだよ、その態度!」
 ここが玄関だということに――こんな所で叫んだらご近所に声が丸聞こえだということに気づかないまま、わたしは怒声を張り上げる。気づいたところで止められなかっただろうけれど。
「いっつもいっつも人の顔見てビクついて! わたしの何が怖いの? 言ってみなさいよ!」
「ご、ごめんなさい……明日のパン、買い忘れちゃって……」
 今はそんなことで怒っているわけじゃない! 母の見当違いな答に、よけいに腹が立つ。
 こんなやつ……、こんなやつ……!
「あんたなんか、母親でもなんでもない!」
 そう叫んで、わたしは早足で彼女の脇を通り過ぎ(ここでもびくっと肩を強張(こわば)らせていたけど見ない振りをした)、自室のドアを思い切り閉めた。
 ドアに背を預けたわたしは、そのままずるずると座り込み、ひざを抱える。
 なんなのよ……、何が……ううん、なんで、こうなったのよ。
 なんでこうなったのだろう。いつからこうなったのだろう。何がきっかけで、何が悪かったのだろう。
 自問すれども、それに明確な答が出るほど、わたしのかばんは大きくも、便利でもなかった。
 
 すっかり日は暮れ、明かりのないこの部屋は、外と同じ色に染まった。
 小さくドアを叩く音と、お父さんの声が聞こえ、わたしはゆっくりとドアを開いた。
「こんな暗い部屋でどうしたんだ? ご飯できてるから、早く食べに来なさい」
 お父さんは、母から何も聞かされてないようだった。
 わたしの口から全部話せっていうの? 母の姑息(こそく)なやり方に、黒い感情がまたふつふつとこみ上げてくる。
 そんなわたしを見て、お父さんは今度こそ心配そうに、「どうしたんだ?」と同じ問いを投げかけた。
「お母さんと何かあったのか?」
 お父さんは、わたしと母のやりとりを知らない。わたしも母も、まるで話さないからだ。
 でも今日は違う。
「あのね、お父さん……」
 わたしは今までのことを全部――母とのことを全部、打ち明けた。
 お父さんは目を丸くして、驚いて、戸惑って、難しい顔をして、それでも否定も肯定もせず、最後まで聞いてくれた。
「そうか。お母さんにそんなことを言ったのか」
「うん……」
 分かってる。悪いのは、きっとわたしだ。いつも怒るのはわたし。母はそれに、ずっと耐えてきたのだ。でもわたしだけが悪いわけじゃない。それはお父さんにも分かってほしい。
 そんなことを考えながら話していると、もっと長くなるかと思ったけれど、ほんの数分で話し終えてしまった。
 ちらりとお父さんの顔を窺うと、指先であごをさすりながら、目を閉じていた。と、不意に、
「……お前、憶えていないのか」
 目を細め、こちらを見やる。
「憶えて……って、何を?」
 わたしの問いに、お父さんは静かに言った。
「今のお母さんは、お前の本当のお母さんじゃない」
「…………」
 その言葉に、わたしは声を発することもできず、ただただお父さんを見つめ続けた。
 え、今なんて言った? 母が……え、なに?
 疑問符だらけのわたしの視線を真正面から受け止め、お父さんは言う。
「ちょうど物心がついた頃だったから、お前は憶えているものだとばかり思っていたよ」
 本当のお母さんは、わたしを産んですぐ病気で死んでしまったこと。それから数年して、お父さんが再婚したこと。今の母に、わたしが(なつ)いていたこと。
 ところどころ詰まりながら、でもちゃんとわたしにも理解できるように、お父さんは話してくれた。
「すまん……、気づいてやれなくて、本当にすまなかった」
 お父さんが頭を下げると、その向こうに母の姿が見えた。いつもわたしに怯えているだけの彼女は、でも今はただ心配そうな顔で、こちらを見つめている。わたしの視線から逃げることなく。
 その母の顔に、わたしのかばんが開く。
 昔、まだとてもちいさかった頃の記憶。初めてわたしの前に姿を現したその女の人は、とても心配そうな顔をしていた。わたしに――新しい家族に、好きになってもらえるか、これからうまくやっていけるか、不安でたまらないといった表情だった。しゃがんでわたしと目を合わせた彼女は笑った。それはひどくぎこちない笑みだったけれど、とても暖かかったのを憶えている――いや、憶えていた。
 そうだ。それが、母との出会いだった。
 わたしの人生で一番古く、かばんの一番奥で眠っていた記憶。母とのはじめての記憶。
 知らなかったわけじゃない。忘れてしまっていたのだ。大切な、大切だったはずの、思い出。
「思い出した……。思い出したよ……」
 わたしは、ぎこちなくてあたたかい、そんな母が、大好きだったのだ。
 
 翌朝。
「あのさあ」
 眉間にしわを寄せ、わたしは母を睨む。
 テーブルにはこんがりと焼かれた食パンが二枚、置かれていた。
「火曜日はご飯だって、こないだ言ったじゃん。言ったよね? わたしちゃんと言ったはずだよね?」
 詰め寄ると、母は「ご、ごめんなさい」と顔を伏せる。
「昨日間違えてご飯出しちゃったから、今日はパンかなって思って……」
「勝手に思わないでよ、そんなこと」
「じゃ、じゃあ今すぐご飯と取り替えるから……」
「いいよ、もう」
 わたしは憮然(ぶぜん)とした表情を崩さないまま、席につく。
「え、あれ?」
 今日も食べずに家を出ると思ったのだろう母が、そんなわたしを見て驚いている。
「……食べるよ。その、せ、せっかく用意してくれたんだし」
「そ、そう?」
「うん、そう」
 わたしのかばんはけして大きくない。中身だってごちゃごちゃだ。だけど、中には素敵な記憶が――思い出がたくさん詰まった、宝箱のようなものだ。
 これからも多くの経験が思い出となって、ここに詰め込まれていくことだろう。そのたびにわたしは取捨選択を繰り返し、覚え、忘れていく。それでも大切な記憶はけして消えることはない。なくしてはいけない思い出は、きっとかばんの奥の奥で、いつか再び手に取ってもらえる日を待ちわびながら、そこにあり続けるのだ。ずっと、ずっと。
 母をちらりと見やり、わたしは両手を合わせて言った。
「いただきます」

しあわせのかばん

しあわせのかばん

「あんたなんか、母親でもなんでもない!」

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-27

Copyrighted
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