世界の神話・異聞 -外伝 奇跡を生み出す者-

幽霊

 かみさま
 どうかわたしのねがいを聞いてください。
 どうかどうか、おねがいです。
 すてきなおーじさまを、私にください。
 わる者をみんなやっつけて
 私と兄ちゃん、イスラ姉ちゃん、ヤスじい、いっしょにいるみんな、せかいじゅうののうりょくしゃのみんな
 みんなを守ってくれる みんなを笑顔にしてくれる
 かんぜんむけつ、さいきょうむてきのおーじさまを
 私にください。

 私の、いのちとこうかんで。


百々瀬が目を覚ますと、真っ白い天井が目に入った。蛍光灯の刺激が強すぎて目を細める。白い壁に光が反射して威力が倍増していた。
「まぶしい・・・」
 うめき声が口をついて出た。すると、空気を読んだか、黒い影に光がさえぎられる。
「あ。おきた」
 声を出す影と目があった。その声とともに、影はどんどん増え続け、天井からの光をさえぎるほどになりつつあった。
「な、何だぁ?」
 視界が慣れてくると、影の一つ一つが人だと判明する。それも小さな子どもばかりのようだ。みな一様に、何の飾り気もない、白色の服を着ていた。子どもが絵で描くような、一筆書きをそのまま仕立てたみたいなシンプルな奴だ。
「「おきたーっ!」」
 声をそろえて、子どもたちはわらわらと、楽しそうに走っていく。呆気にとられるとはこのことだ。半身を起こした百々瀬の何が楽しいのか子どもたちは彼を指差し、キャーキャー騒ぎ立てて、より一層はしゃぎまわる。
「本当に、何なんだ一体」
 子どもの存在に驚きながら、百々瀬は現状把握するために必死で周囲から情報を取り入れていた。彼が昨日最後に記憶した状況と現状ではあまりに差があるためだ。
 ゆっくりと過去を手繰る。まずは、昨日何していたか、だ。

「上だ! 上に逃げたぞ!」
 階下から百々瀬を指差し、警官隊の怒号がそこかしこから上がる。嘲笑うように投げキッスを返して、窓を突き破り文字通り外に飛び出した。あらかじめ用意しておいたロープにフックをひっかけてビルからビルへと滑走する。星明りの何万倍もの光量を誇るサーチライトが背後から彼を追いかける。光の円にとらわれる前に、次のビルに飛び移った。脱出プランをBに変更。さっき滑空中に上空から見下ろしたら、Aの方向にはパトカーが待機していたのが見えた。逃げきれないこともないだろうが、わざわざ危険を冒す必要もない。
 逃げ道を確認し、いざ降下しようと手すりに手をかけた時、後方から強烈な光を浴びせられた。振り返るとあまりの光量に視界が一時的に失われる。同時に、大勢の人が流れ込んでくる気配が感じられた。
 光に目が慣れたころ、百々瀬は周囲を完全に囲まれていた。
「追いつめたぞ。【幽霊】」
 警官隊中央にいた、私服警官が目の前に立った。
「よお、上川警部補。こんばんは。久しぶりだな」
「警部だ。先月おかげさまで昇進してな。お前との追いかけっこで培った知識が、ずいぶんと役に立ったよ」
 気軽に挨拶を交わせる程度には、百々瀬と上川警部と付き合いが長い。そして挨拶しながら、どちらも相手のすきを窺っていた。
「それはそれは、お役にたてて光栄だ。俺のおかげで昇進したようなものじゃないか。じゃあ、今度酒でも奢ってもらおうかな」
「もちろんいいとも。なんなら、今からでも構わんぜ? 集合場所は、刑務所の中だがな」
「いくら警部の頼みでも、そいつは聞けないねェ」
「諦めろ。警官隊に包囲され、もはや逃げ場はない。おとなしく捕まるなら、これまでのお前の功績に免じて手荒な真似はしない」
「諦めろ?」
 百々瀬が牙をむいて笑う。臆することなく、大胆不敵に。
「警部、教えてやる。悪党のルールだ」
「悪党の? ルールを破るのが悪党というものだろう?」
 警部の言葉に、百々瀬は人差し指を立てて横に振る。
「あるのさ。悪党だからこそ絶対遵守するルールがあるんだ。それが無ければ悪党じゃない。ただの獣だ」
「そこまで言うなら、ぜひとも拝聴させてもらおうじゃないか。お前のルールとかいうのを」
 後ろ手で、警部が警官隊に合図を送る。これが時間稼ぎなのは明白だった。合図を受け、警官隊は全員腰を落とし、身構える。それを知ってか知らずか、百々瀬は言う。
「ルール、その一」
 言葉の途中で、警官隊の包囲の環が一気に狭まる。話に意識が向いている時に飛びかかったのだ。いかな百々瀬でも避けられない。警部は逮捕を確信した。だが、百々瀬は慌てず騒がず続けた。
「悪党は諦めないのさ。絶対に」
 言い終えた瞬間、百々瀬は背面とびの要領で柵を飛び越え、警官隊の手をすり抜けた。空中に身を躍らせる。飛び降りるとは思っていなかった上川警部は、泡を食って飛び降りた場所へと急ぐ。柵から身を乗り出し、見下ろす。その視線は、すぐに上へと向くことになる。真っ黒な気球が彼と警官隊の眼前五メートルに浮かんで、上昇していく。気球には当然のように縄梯子がかかっており、百々瀬がそこに掴まっていた。
「野郎」
 上川警部が歯ぎしりする。目の前にいるのに、手の届かない絶妙な距離。捕まえた、と思った瞬間、幻のようにその手の中から消えている。百々瀬が【幽霊】などと呼ばれる所以だ。
「宴会はまた今度だな。警部」
 そう言って、百々瀬は真っ黒な夜空の中へと溶け込んでいった。
 翌朝、ニュースが二つ。
 良い噂を聞かない、さる企業が入っているビルに、泥棒が侵入した。現金と一緒に、癒着・賄賂・脱税等の悪事の証拠が盗み出され、それが警察、マスコミ各所にばら撒かれた。この事件は大きな騒ぎとなり、企業は世間と警察から大いに叩かれた。
 もう一つは、小さなニュース。海外に手術に行くために募金を集めていた家族数組、海外支援を行っているNPO法人、災害に遭った地域の自治体などに多額の寄付があった。

 百々瀬の仕事は泥棒だ。幽霊とあだ名されるほどの凄腕の泥棒で、テレビやニュースでは義賊など呼ばれ、注目を集めている。
 ただ、本人はそれをあまり良く思っていない。百々瀬は自分の行動が悪だと理解し、自分を悪党だと自覚している。義賊は、貧しい人々のためにやむなく泥棒を働くことだ。彼自身は常に自分のために進んで泥棒をしている。彼が金の匂いを嗅ぎ取り、盗みに入った先が、なぜか自分よりも悪党な連中の根城だったりブラックな企業だっただけだ。根こそぎ全部盗み出し、適当に処分したら、そいつらが叩かれた。ただそれだけだ。それに、悪党がため込んでいる金は世間に出せないものが多い。被害届を出しにくいのも都合がよかった。理由などその程度のものだ。
 寄付に関しては、完全にただの気まぐれだ。百々瀬は使い切れない額の金を必要としない。必要な分を必要なだけ確保したら、後はその時自分の目に付いた、自分以上に金を必要としているところに置いておいただけだ。募金箱の呼びかけに札束を突っ込んだことも一度や二度ではない。昨日も淡々と仕事を終えて、家に帰ってきて、飯を食って風呂に入って、寝た。


「そうだ。俺は家で寝てた、はずだ」
 ベッドの上で胡坐をかき、百々瀬は考え込んでいた。そのベッドの陰から子供たちが観察している。非常に落ち着かない。
「何だよ」
 目の前の少年に苛立ちを隠そうともせずに問う。ずっと目線があっていたのだ。焦れた百々瀬が反応を見せると、少年は怯えるそぶりなど全く見せず、むしろ嬉しそうにニカッと笑ってベッドの陰に隠れた。他も同じようなもので、目が合うと嬉しそうに眼を細めて隠れ、そしてまたじわっとベッドの陰から顔を覗かせる。
 鬱陶しいったらないな、と百々瀬は自分の我慢が限界に達しようとしているのを感じていた。これまでは怒りよりも、大声を出して余計な騒ぎを呼び寄せるのを嫌ったためにおとなしくしていた。だが、もともと百々瀬の気は短い。よく我慢した方だと自分を褒めても良いくらいだ。そして、彼の背中に誰かが飛びつき、抱きついたことがきっかけとなった。
「だあああああ! いい加減にしくされクソガキ共が!」
 勢いよく立ち上がり、体をひねる。遠心力で首根っこにしがみついた子どもを振り落す。ぼてん、と子どもがベットに転がり落ちたのをみて、次は歯を剥き出しにして、周りでこそこそしている連中を威嚇する。
 百々瀬の顔は、甘いマスクの反対側に位置していた。別段不細工という訳ではない。猛禽を思わせるような鋭い目と彫の深い顔立ちは、戦士のように精悍だ。ただ、人に好かれるようなものじゃないのも確かだった。百八十を超える身長と日々の泥棒稼業で鍛えられた鋼の肉体も威圧感充分だ。
その鋭い目で高所から睨まれれば、子どもなどすぐにおびえて近寄ってこなくなる、はずだった。
 彼の予想は完膚なきまでに外れた。子どもたちはきゃあきゃあと悲鳴を上げるが、皆笑顔で、逃げろなどと言いながらぐるぐるとベッドの周りを走り回る。恐れていないのは明白だ。
 舐められているのかもしれない。こうなれば後は実力行使だ。百々瀬はベッドから足を降ろし、どいつからビビらせてやろうかと品定めを始めた。
ガチャリと奥のドアが開いたのは、百々瀬が子どもの一人の首根っこを掴んで持ち上げた時だ。持ち上げられても子どもは楽しそうに手足をぐるぐる回している。子どもをあやす時の高い高いと同じ感覚なのだろう。
「ああ、気がつかれたのですね」
 入ってきたのは、温和な顔つきの、十七、八の青年だ。
「みんながはしゃいでいる声が聞こえたから、多分そうだろうなと思って」
青年は子どもたちに外に出ているよう伝えた。百々瀬の怒鳴り声など歯牙にもかけなかった子どもたちが、彼の言うことを聞いて部屋から出ていく。
「お前が、あいつらの保護者か?」
「ええ、そうですね。そのようなものです」
 子どもが出て言った後に、青年は後ろ手にドアを閉めた。
「ご挨拶が遅れました。僕はサレムと言います」
 にこやかに握手を求める。だが百々瀬はその手を無視した。幾らにこやかにされようが、こちらはいまだ現状を把握しきれていない。目の前のサレムこそ自分を誘拐し、ここに押し込めた人物かもしれないのだ。不用意なことはできないと判断した。百々瀬の警戒を知り、少し残念そうにサレムは手を下げた。
「ここはどこだ」
「ここはシナイ隔離病院。特殊な患者を収容する病院です」
「病院?」
「はい。ええと」
 そこでサレムは初めて口ごもる。百々瀬の呼び方に困ったのだ。この時点でサレムは百々瀬の名を知らなかった。
「百々瀬だ」
 仕方なく百々瀬は名乗った。情報を得るためなら自分の名前くらいなら構わないと判断した。どうせ、他にも名前はある。
 少しだけ黙考した後、百々瀬は質問を代えた。
「家で寝ていたはずなんだ。どうしてその俺がそのシナイ病院とやらにいる。お前が、俺をこんなところに連れてきたのか?」
「いえ、僕ではありません。ですが、あなたを呼び寄せた人間ならわかります」
 連れてきた、ではなく呼び寄せた、という表現が気になるが、後回しにした。
「誰だ」
「僕の妹です」
 妹? こいつの妹とすれば、当たり前だがこいつより若いわけで、見たところ十代後半に届くか届かないかというところのこいつの妹だとすると十代前半以下の子ども、ということになる。百八十センチを超える百々瀬の体を女の細腕、それも子どもが運べるとは考えられない。
「モモセさん、あなたは超能力を知っていますか?」
 訝しげな顔をする百々瀬に突如、サレムは突飛な話を持ち出してきた。質問の意図が読めず怪訝に思いながらも、記憶を探る。超能力、と聞いて、百々瀬が思いつくのは、スプーンをグニャグニャ曲げるものだ。
「いえ、そういうものではなく。もちろんそういった鉄を自在に操るものもいるのでしょうが」
「鉄を操る? ちょっと待ってくれ。お前は一体なにが言いたいんだ。そんなことできるわけ」
「できるんですよ」
 百々瀬の言葉を遮ってサレムが言った。
「この病院は、そういう超能力を持った人間が集められ、収監される監獄なんです」

祈り

 サレムが話すことを、百々瀬は全く理解できなかった。
 まずここは、百々瀬がいた世界ではないという。【マステマ】とサレムたちが呼ぶこの世界に、三十年ほど前から超能力を持つ者が現れ始めた。先天的に持って生まれる者もいれば、後天的に発現する者もいた。鉄を自在に操る者の他にも、炎や水など自然現象を操るもの、手をかざすだけで傷を癒せる者、人の思考や記憶を読み解く者など実に様々な超能力者が現れた。法則性は特に見つけられず、能力を封印したり持たないように予防することも、反対に能力に目覚めることも生まれてくる子どもに持たせたりすることもできなかった。
 周囲の反応は様々だ。彼らを崇める者、利用しようとする者。その中で圧倒的に多かったのは、恐れる者たちだ。
「当然と言えば当然の反応だと思います。私も逆の立場なら、能力者たちを恐れたでしょう。人は、自分と異なるものを恐れますから」
 現実には、能力を持ってしまったのはサレムの方だ。
「マステマの政治家たちは最初、全員殺そうとしました。能力を使った犯罪も多発していましたから、能力者に対しての反発は強かった。そこへ、人権派を称する方々の建前と思惑とが絡み合い、紆余曲折を経て、能力者たちを隔離してしまおうという方策が生まれたんです」
 それがこの隔離病院です、とサレムは言った。
「お前らの現状は分かった。いや、理解できない点もあるが、そこは良い。俺が聞きたいのは、どうして俺がその隔離病院にいるのかってことだ。記憶が確かなら、俺は一仕事終えた後、普通に家で寝てたはずだ。それがどうして、違う世界の、こんなところにいる? お前の妹は俺に何をした」
「それは」
 言いかけたところで、ドアが開く。中に飛び込んできたのは小さな女の子だった。他の子ども達と同じく白い服を着た女の子は部屋の中を見渡し、百々瀬を見つけると、それはそれは華やいだ、満面の笑みを浮かべた。
「おーじさま!」
 指を差し、確認するように言う。言われた方の百々瀬としては訳が分からず「はぁ?」と眉根を寄せることになる。構わず、女の子は百々瀬の足に抱きついた。突然のことに、百々瀬は振り払うことも忘れていた。
「こら、エル」
 サレムはエルと呼ばれた女の子の両脇に手を入れ、抱きかかえた。
「モモセさんが困っているじゃないか」
「モーセさん? おーじさまはモーセさんっていうの?」
「いや、俺は百々瀬・・・」
「モーセさん! うん、そうぞうどおり、いいえ、それいじょーの人ね!」
 こりゃ呼び方治りそうにねえな、と百々瀬は早々に諦めた。
「モモセさん、この子が僕の妹、エルです」
 ちゃんとご挨拶しなさい。とサレムが妹を地面に降ろす。ちょこんとお辞儀をして
「はじめまして! エルといいます!」
「お、おう」
 勢いに吞まれて、思わず返事をしてしまう。だがすぐにハッと気づく。目の前のエルが、自分をこんなところに呼んだのだ。
 同時に、どうやって? という疑問が残る。彼らの話を信じるならここは別の世界ということになる。幾ら超能力とやらがあるとはいえ、そんなことが可能なのだろうか。
「サレム、このガキが、俺をここに連れてきたっていうのか?」
「そうです。この子の能力があなたをここに召喚しました」
 愛おしげにエルの頭を撫でて、サレムは言う。撫でられたエルは、嬉しそうに目を細めた。
「この子の能力は【一度きりの奇蹟】。その名の通り、一度だけ、本人が望むものをどんなもの、どんな事象でも呼び寄せます」
 なんだそりゃ、と百々瀬は首をひねった。
「あのね、わたしがね、かみさまにおねがいしたの。おーじさまをくださいって。そしたら来たのがモーセさんだったの! だから、モーセさんはおーじさまなの!」
 兄妹の話を少しずつ噛み砕いて、百々瀬は考えをまとめた。信じる信じないは二の次で、目の前にある情報をまとめる。
 その一、目の前のガキは、どんなことでも一回だけ願いを叶える力がある。
 その二、ガキの願いはおーじさま、おそらく絵本とかに出てくる王子の想像でいいんだろうが、それを欲した。理由は分からんが。
 その三、なぜか俺が呼ばれた。
 二と三がどうしたってつながらねえだろう、と眉間にしわを寄せつつ、こうなったからには戻る方法を考えなければ、と百々瀬の思考は前へ進む。
「おい」
 ぶっきらぼうに、百々瀬はエルに声をかけた。普通の子どもなら怯えて泣き出すだろうに、エルはむしろ憧れのおーじさまに話しかけられて嬉しそうに元気よく返事をした。
「はい! なんですか?」
「俺を元の世界に帰せるか?」
 このような聞き方になったのは、彼女が起こせる奇跡が一度だけ、と言われたからだ。百々瀬としてはここに長居するつもりはない。子どもの夢物語に付き合うほど暇ではなく、そして、なにより彼は悪党なのだ。彼女の言うおーじさまとは対極の位置に存在する人種なのだ。子どもに愛される悪党など悪党ではない。彼のルールがそれを許さなかった。何より彼には対人スキルで致命的な欠陥がある。おーじ、などと呼ばれると気持ち悪くて拒絶反応が出そうだ。
 彼の言葉を聞き、たちまちエルの顔が曇った。太陽の様な笑顔が雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうになっている。
「モーセさん、かえっちゃうの?」
「当たり前だろうが。お前に都合があるように、俺にだって都合がある。元の世界でやらなきゃいけないことがあるんだよ」
「やらなきゃいけないことって、なに?」
「何って、そりゃお前・・・」
 そこで百々瀬は言葉に詰まった。元の世界に帰ってまでやらなければならないことがあっただろうか。泥棒稼業は、生きるためだ。法で捌けぬ悪を討つなど崇高な思想は持ち合わせていない。改めて考えねばならないほど、すぐに出てこない程度に、百々瀬には元の世界に帰る理由はない。強いて言うなら今まで生きてきた世界だから、くらいのものだ。
「あるんだよ。大人にはいろいろとあるんだ。ガキにゃわかんねえだろうがな」
 と、きちんと答えられず、世の大人が子どもによく使う言い訳を使ってしまった。
「で、どうなんだよ。俺は、帰れるのか?」
 なんとなくエルに聞きづらくて、サレムの方に尋ねる。
「無理です」
 きっぱりとサレムは言った。
「無理、だと?」
「ええ、現状では。先ほどお伝えしましたように、エルの能力は一回こっきり、あなたをここにお呼びしたことでその能力は消えました。そして、彼女以外に、人を別の世界に移動させる能力者は今のところいません。残念ですが・・・」
「ほお」
 百々瀬が口角を吊り上げた。牙を剥いた獣のようだ。
「じゃあ、とりあえずここから出る。出口は?」
 ならば、他の能力者、もしくは道具や方法を探すしかない。そんな都合のいいものがあれば、の話になるが。
「ありません」
「無い?」
「ここは、超能力者たちを隔離するための病院です。超能力者を外に出さないために全てのドアにはカギがかけられています。壁も、ちょっとやそっとの力では壊せないように設計されています。壁ぬけの能力も使えません。外に出れたとしても、現在位置が分かりません。瞬間移動の能力者対策の為か、私たちは眠らされた状態でここに連れてこられました。他の人間も同じでしょう」
 百々瀬の脳に、情報は刻み込まれていく。腹の中は煮えくり返るほど怒りと苛立ちが渦巻いているが、頭は冷え切って冴えわたっていた。感情に流されていては泥棒はできない。
「ここからは出られない。元の世界にも帰れない、ね」
「申し訳、ありません」
 いらだたしげに顔をしかめる百々瀬と、頭を下げるサレムを、不安げな顔でエルが見比べていた。
「教えてほしいんだが、お前らはここに好き好んでいるのか?」
 唐突な百々瀬の問いに、サレムは「えっ?」と聞き返した。
「だから、お前らは好きでここにいるのか? 外では迫害されるから、まだココの方がマシだとか、そういう理由で、だ」
「い、いえ。そういうわけではありません。中にはそういう人もいたでしょうが、私たちは生まれ故郷から強制的にここに収監された口です。可能であれば、故郷に帰り、静かに暮らしたいと願っております」
「じゃあ、なんでそういうことを願わせなかった。超能力が消えるとか、お前らをこんな目に遭わせた連中を消すとか、今の状況を改善するための願いはいくらでもあっただろうが」
「ねがったよ?」
 百々瀬の足元から返事があった。俯くと、エルがまっすぐな目で百々瀬を見ていた。
「ぜんぶおねがいした。みんなをたすけてください。わる者をやっつけてくださいって。いつもおいのりしてた。でも、かみさまはねがいをきいてくれなかった」
「おそらく、妹の一番強い願いに反応して能力は発揮されるのではと思います。ただ、それらすべてを同じくらい強く願っていたため、叶わなかったんだと思います」
 願いは複数、けれど叶えられるのは一つ。ランダムに選ばなかったのは神様とやらの配慮かもしれない。
「あのね、ぐたいせーがないんだって」
 エルが言った。
「『だれか』が何かを、強いシンネンをもってことをなすからけっかというれきしがつくられる、ってヤスじいが言ってた」
「ヤスじいだ?」
「我々全員の健康管理を行っているお医者様です。本人も能力者です」
「だから、おねがいをかえたの。みんなをたすけてくれて、わる者をやっつけてくれる『だれか』がいればいいって。それは、ご本にでてくるおーじさまみたいな人だから、そんな人をくださいって。そしたらまっ白に光って、モーセさんが落ちてきたの」
 事象ではなく、彼女の願いをすべて叶えてくれる人材を、願いの対象にしたということなのだろう。
「あてが外れたな」
 百々瀬は屈みこみ、エルと視線の高さを合わせる。意地の悪い笑みを浮かべて、言う。
「俺はおーじさまじゃない。お前の願いをひとつも叶えてやることができない」
「そんなことないよ」
 百々瀬の言葉をエルは即座に否定した。
「エルはね、わかったよ。モーセさんを見たときから、この人だってわかったの」
「はあ?」
 百々瀬は顔をしかめた。妹の後ろで微笑んでいるサレムに目を向け、説明を求める。
「モモセさん。信じられないかもしれませんが、この子の言っていることは間違っていません。あなたには、それだけの力がある」
「んなわけあるか。お前らは俺の正体を知らないからそんなことが言えるんだよ」
 そうだ、と百々瀬は口を歪める。
「いいか、よく聞け。俺の正体はおーじさまでも、正義のヒーローでもねえ。俺の正体は泥棒。他人から金を奪い、世間を騒がせる悪党だ。ガッカリした、か・・・?」
 出来る限り悪く見せようとふるまっているのに、なぜか百々瀬に集まるのは憧憬のまなざしだ。エルどころか、サレムですらも憧れの人を見たような目になっている。
「ど、どろぼう・・・、すごい! カッコいい!」
 どうしてこのような反応が返ってくるかわからず戸惑う。
「本物の泥棒を、まさかこの目でお目にかかれるとは思いませんでした」
「お、おい。確かに俺は本物の泥棒だが、お前ら泥棒をなんだと思ってんだ?」
「伝説では、空を自由に舞い、湖の水を吞み干し、悪辣な王とその軍勢を打ち倒し、攫われた姫を助け出したといいますが」
 泥棒にそんなことできるわけないだろう。どこからそんな知識を得たのだろうかと百々瀬は口をあんぐりと開けて絶句した。目を輝かせている兄妹には、何を言っても通じない気がした。
「何を馬鹿なことを言っているの? そいつにそんな力あるわけないじゃない」
 横合いから、そんな言葉が間に入ってきた。三人の視線が向けられる。可愛らしいが気の強そうな少女が、その象徴のような目をより細くして百々瀬に向けている。年齢はサレムと同じか、少し下のように百々瀬には感じられた。
「イスラ姉ちゃん」
 エルが彼女の名を呼ぶ。おいで、とイスラが寄ってきたエルを抱く。
「まったく、エルだけならまだしも、サレムまでそんな馬鹿な話を信じてるの?」
「いや、この世界にいる泥棒ならともかく、エルの力で呼び寄せられた方だよ?」
「だとしても、よ。人間にそんなことできるわけないでしょう? それに、こんな得体のしれないやつ、信用できるわけないじゃない。あなたたち、本気でこいつに賭ける気?」
「賭ける?」
 何のことだ、と百々瀬はサレムとエルを見る。居住まいを正し、サレムが向き直った。
「モモセさん、これは、エルだけではなく、ここにいる全員の願いでもあります」
「何だよ。急に」
「僕たちを、ここから助け出してください」
 百々瀬の頬がひくっと痙攣した。
「何故だ?」
 いろんな意味の含まれた何故だった。何故助けてほしいのか、何故自分に頼むのか、何故、わざわざそんなことをしてやらなければならないのか。
「もうすぐ、僕たちが殺されるからです」
 百々瀬の嫌悪感丸出しの視線に怯むことなく、サレムは言った。百々瀬は驚かなかった。彼のこれまでの話から、その程度の想像はついていたからだ。
「この病院に能力者は僕たちしかいません。でも、世界中から能力者たちは捕らえられ、集められます。一定期間は人権団体向けに『彼らをこうして保護している』と、能力者に敵意を持つ団体には『こうやって捕らえている』というパフォーマンスを行います。そして、一定期間が過ぎると、能力者たちは不慮の事故、病気、あるいは原因不明の心停止で全員が死亡します。その一定期間がどれくらいかというと、次の能力者がここに運び込まれてくるまでです」
 だから、能力者の隔離する施設が全世界でここだけなのだ。ここだけで充分なのだ。外の普通の人が欲しいのは能力者、というカテゴリの人種がそこにいるという認識であって、サレムたち個人ではない。病院に一定数の能力者がいれば誰でもいいのだ。必要なのは能力者本人ではなく収監されているという事実だけ。
「その日はいつだ?」
「明日です」
 明日、僕たちは殺されます、とサレムは言った。

死の宣告

「明日だと?」
「はい。新しい能力者が収監される、という情報を得ました。子どもたちの中に携帯電話や無線などの会話を傍受できる能力者がいます。その子からの話ですから間違いないでしょう」
 壁に耳ありどころの話じゃないな、と百々瀬は感心した。もしその能力があれば、自分の泥棒稼業はもっと楽になる。警察無線を傍受できるからだ。
「次は自分たちの番だ、そう覚悟を決めて、いや、違いますね。諦めていた僕たちの前に、モモセさんが現れた。一縷の望みが出てしまったんです。だからお願いです。せめてエルや、子どもたちだけでも逃がしてやれませんか」
「ちょっと待て」
 頭痛をこらえるように額に片手を当てて、百々瀬は前のめりのサレムを空いた方の手で押さえた。
「色々とおかしいだろうが。勝手に人を呼び出して助けろだと? 引き受けるわけないだろうが」
「お怒りはごもっともです。ですが」
「違う、いや、違わないが、それだけじゃない。お前は舐めてんだ」
「舐めてる、とは? 辛酸ならかなり舐めましたが」
「そういうことじゃない。上手いこと言えなんぞ言ってない。脱出させてくれなんて簡単に言ってくれるが、どれだけ難しいか一つもわかっちゃいないってことを言いたいんだよ俺は。
 ここは能力者を隔離するために作られたんだろう? なら、それ相応の設備があるってことじゃねえのか? 壁が分厚いのも当然だろうし、ロックだって厳重のはず。監視体制だって厳しいだろう。今こうして話していることだって筒抜けかもしれない。一応周りを見渡してカメラとかないことは確認したけどな。また、ここに勤める人間も気にしないといけない。能力者相手にするんなら、監視員は武器を携帯しているはずだ。軍隊なり警察なりにいた経験者が大勢いるはずだ。そいつらが見張ってる中を、足手まといのガキを何人も連れて逃げ切れると思うのか?」
「それでも、やってもらわなければなりません」
 サレムとて、困難さは重々承知していた。それでも実行に移さなければならない。家族にすら捨てられた子どもたちと、その子らをケアするイスラとヤス先生と、唯一の肉親であるエルを守らなければならない。そのためならば、自分はどんなことでもする覚悟がある。百々瀬の恨み言や文句などそよ風と同じだ。
「それに、モモセさんに拒否権はありません。あろうはずがありません」
「面白え。何故か理由を言ってみろよ」
「今ここにいる、ということは、あなたも能力者だと言っているようなものですから」
 先ほどのサレムの話だと、大多数の人間は能力者個人ではなくそのカテゴリに属しているかいないかで判断する。であるなら、能力者がいるべき場所にいる人間は全て能力者だという認識になる。百々瀬がいくら能力を持っていないと叫ぼうと、持っていない人間がこの監獄にいるはずがないので、その訴えは却下される。
「このままでは、俺も明日までの命だ、そう言いたいわけか?」
「はい。それに、ここから脱出するのに、僕たちの情報をあなたは欲しているはずです。取引できる情報だと思っています」
「俺は悪党だ。その情報を引き出すだけ引き出したら、俺が裏切らない保証など何一つない。泥棒は、嘘を吐くのも仕事だからな」
「いいえ、それこそありえません」
 はっきりとサレムは断じた。
「だってあなたは、良い人だから」
「は?」
 何を言いだすのやら、と百々瀬は呆れた。だが、サレムは大まじめな顔で続けた。
「モモセさん。能力を持って生まれた子どもたちには共通した特徴があります。それは、人の本性を見抜く力です。自分の身を守るために本能に近い部分で、敵か味方か、良い人間か悪い人間かを直感的に見抜くのです。その子どもたちが、あなたから全く逃げようとしなかった。恐れるどころか、むしろ自分から近寄るほどあなたに気を許している」
「おいおい、そんな不確かなもんで信じるのか? 言ったはずだぞ。俺は、悪党なんだって。元の世界では警察に追い掛け回される身の上だ。そんな奴が良い奴なわけあるか」
「法律上の善悪は関係ありません。大体この世界の法律は僕たちにとって害悪以外の何物でもありません。そして、あなたが自覚しているあなたの性格も、子どもたちにとっては関係ありません。人を見抜く子どもたちが善だと判断すれば、あなたは善人なのですよ」
 百々瀬の脳裏に、元の世界のニュースが思い出され、苦い顔をする。悪ぶってんじゃねえと言われるのが嫌いなのだ。思い当たることがあるようですね、とサレムに知ったように言われたのでなおの事腹が立つ。
「それこそありえねえ。だって俺は、他の人間が大嫌いだからだ。対人恐怖症ならぬ、対人嫌悪症だ。そんな俺が、ガキどもを助けるヒーローになんぞなれるわけないだろうが。そのへんガキどもは見抜けなかったか?」
 百々瀬が持つ致命的欠陥にして、彼を社会不適合者足らしめている性質だ。そして彼にとって、助ける気はないですよ、頼らないでくださいねという意思表示のための切り札だった。だが、サレムは慌てることなく「どうして嫌いなんですか?」と返した。
「俺を含めて、人間は汚ねえ奴ばっかだからだよ。右を見ても左を見ても悪党ばっかりだ。ガキの時から、そういうのが何かわかっちまうから、俺は人間が大嫌いなんだよ」
 この時百々瀬は、自分が今話したことが、先ほどのサレムの話と似ていることに気付いていない。気づいたのは表情を崩さないサレムと、後ろで聞いていてハッとした表情のイスラだけだ。そのことには触れず、サレムは言う。
「僕は、子どもたちの感覚を信じます。だから、あなたに情報を渡そうと思う」
 にこりと、笑顔で。
「サレム! あなた本気?」
 イスラが声を荒げて詰め寄るのを、サレムは押しとどめた。
「わかってるの? その情報の有効性は一回こっきりなのよ? 一度使えば、あいつらにばれる。二度と同じ方法は使えなくなる。それを、こいつに使う気なの?!」
「大丈夫」
 静かに、強く、サレムはイスラと、その腕の中にいるエルと、百々瀬に向かって言った。はんっ、と百々瀬は鼻で笑ってそっぽを向いた。
「好きにすればいい。俺はそれを勝手に使わせてもらう」
 噛みつかんばかりの形相でイスラが百々瀬を睨んだ。
「ついてくるなら、勝手についてこい」
 そう言って百々瀬はつまらなそうに顔を背けた。サレムは「はい」と素直に返事した。

割れる

「まずは、ヤスじいに会ってもらいましょう」
 一応、共に逃げることになった百々瀬に、サレムは提案した。
「医者であり、僕らの相談役です。彼の能力は『インスタント診断』。その人の体調も診れますし、その人がどんな能力を持っているかまでわかります」
「俺が会ってどうすんだ。俺は能力者という訳じゃないぞ」
「モモセさんは異世界の方です。今は普段通りですが、この世界の空気や何らかの細菌、病気にいつのまにか感染している可能性も否定できません。検査の意味も込めてぜひ受けてください」
 僕は先に行って、ヤスじいと話してきます。エルと手をつなぎ、サレムは先に行ってしまった。残ったのは百々瀬とイスラだ。
「能力ってのは色々あんなぁ。けど、どうして、能力者ってのは迫害されるんだ? その爺さんのもそうだし、エルの能力も、使い方によっては役に立つ。病気を治す能力だってあるらしいじゃねえか」
「役に立つから、優れているからでしょうよ」
 吐き捨てるように言ったのはイスラだ。
「あんたが言うように手術なしで怪我も病気も治してしまう能力者は、医者にとって商売の邪魔にしかならない。相手に頭の中を読まれて困らない人間などいない。その価値でなく、その価値を自分が持たない、ということに、人は恐れるわ」
「ふうん」
 どうでもよさそうに百々瀬は言う。事実彼にとってはどうでも良い。自分以外のことはほとんどどうでも良いのだ。ある意味、百々瀬は希少な感覚を持つ方だ。イスラたちがどのような能力を持っているかも知らないのに、平然とした顔でついてくる。ちょっと脅しつけるつもりだったイスラは、暖簾に腕押しといった百々瀬の態度にむっとした。
「私も、あんたくらい簡単に殺せる能力をもっているのよ」
「ああ、そうかい」
「本当よ? 私の能力は『ライト=ボルト』。電流を体内で生成して、自在に操ることが出来るの」
 軽く指を鳴らす。彼女の周りをバチバチと雷光が走る。
「このとおりよ。いい・・・」
 これを見ればさすがに百々瀬も怯えるに違いない。そう思いイスラが振り返った先に、百々瀬は既にいなかった。さっさと先へ行ってドアをくぐろうとしている。
「ちょっと!」
 一足飛びに追いつく。閉められようとしたドアノブを掴んだ。ドアを挟んでイスラが怒鳴る。
「あんた! ふざけてんの!」
 脅しつけて言うことを聞かせようとしたのに、当の本人は恐れるどころか無視して行ってしまうなど、こちらは間抜け以外の何者でもない。
「ふざけてんのはそっちだろ。この時間が無いってぇ時に、てめえのパフォーマンスなんぞに付き合ってられるか」
百々瀬は自分より頭一つ分低い彼女を見下ろした。
「てめえがどんな能力もってようが知ったことか。俺にとって重要なのはてめえが味方かどうかなんだよ。てめえ脱出する気あんのか?」
「あ、あるわよ! 当然でしょうが!」
 多少動揺しながらイスラは言い返す。
「じゃあ、いちいち突っかかってくんな鬱陶しい」
 ドアを手放して、百々瀬はすたすたと行ってしまう。後に残ったのは、呆然とするイスラだけだ。はっと我に返り、急いで百々瀬の後を追う。

「ほいほい、お前さんがエルの王子様か?」
 百々瀬に会うなり、ヤスじいはからかうように言った。白い髪を後ろになでつけた、すらっとした紳士だ。わざとらしく老眼鏡をかけ直し、覗き込むように下から百々瀬の顔を見上げる。
「クソ爺、ケンカ売ってんのか?」
「おお怖。じゃあ、ちょいと診てみようかね。そこに座んなさい」
 百々瀬を丸椅子に座らせて、自分も向かいの椅子に座る。
「ほい、こっち見て。そう、じっとして」
 ヤスじいが右手を差し出す。その手の先がぽうっと灯る。
「うおっ」
「そんなに怯えなさんな。痛くもなんともない。少しまぶしいだけだよ」
 ヤスじいの手が百々瀬の額に触れる。すると、明かりが百々瀬の額に移った。明かりはそのまま広がり、彼の体を薄い膜となって覆った。
「病院にあるMRIのようなものだよ」
 そう言いっている間に、明かりは頭のてっぺんから消えていく。百々瀬の足の先まで消えたところで、ヤスじいが「はい、終了」と柏手を打った。
「うん、全然問題なし。骨も丈夫で歪みなし、内臓も綺麗。虫歯もない、疾患なし、多少擦り傷があったものの、かさぶたになってて、もう一日、二日で治るだろう。健康そのものだね」
 この短時間で診断されたことに驚きつつ、確かにこれは病院や医療機器メーカーの敵だと百々瀬は感じた。最先端の医療機器、その開発費、販売利益、検査で人々から得られる利益が、全て無に帰す。
「じゃあ、一緒にエルちゃんも検査しようね~」
 好々爺となったヤスじいは、後ろでおとなしくしていたエルに向かって手を振る。エルも嬉しそうに手を振りかえす。
「あのガキも? どっか悪いのか?」
 百々瀬が尋ねると、ヤスじいは一瞬顔を硬直させた。百々瀬は気づかなかったが、彼の背後にいるイスラの顔が苦痛を受けたように歪み、サレムの笑みが固まった。
ヤスじいはすぐにもとのにやけた顔に戻った。
「ああ、検査だよ。君を召喚したことで、この子からは能力が失われている。能力が失われることで、どんな作用があるかわからないからね」
 そんなもんか、と百々瀬は簡単に引き下がった。
「そんなもんです。じゃあ、はい。男どもは出て行ってね。レディの検査をするんだから」
 そう言って百々瀬とサレムを追い立てる。あとでね、と百々瀬に向かってエルは手を振った。

「で、どうなの?」
 ドアが閉じられたのを確認して、イスラが尋ねた。百々瀬を調べたのは、彼が能力を持っているのか調べるためだ。彼の、子どものころから人が嫌いという話は、まるっきり能力を持つ子どもと同じ感覚だからだ。その能力は大人になれば鈍化して、いずれ消えていくものだが、稀に消えない例もある。本人の能力が極めて強力なパターンだ。かつて、その能力で悪逆の限りを尽くし、全世界を敵に回した最高ランクの能力者は、長期にわたり人の悪意に曝され続けたあげくに狂ってしまったと言われている。
「ふむ、微妙、じゃのう」
 ヤスじいが椅子に座り込む。
「微妙って何よ。あいつには能力があるの? ないの?」
「有る無しで言えば、ある。間違いなく。ただ、その効果が良くわからん」
 頭をかいて、自分の脳に蓄積された情報を吟味する。ただ何度吟味して、反芻して、これまで幾人もの能力を見てきたヤスじいですら、百々瀬の能力は良くわからない。
「彼の能力なんだが、彼が本気を出すと」
「本気を出すと?」
「割れる」
 または分解、分割、とヤスじいは割れる、分ける、の類義語を列挙していった。
「割れる?」
 おうむ返しに尋ねる。二人は顔を見合わせる。意味がよくわかってないエルも二人の真似をして首を傾げる。
「割れるって、何が?」
「わからない」
「わからないって、何でよ。割れるってことは、何かを壊せるってことでしょう?」
「それもよくわからん。こんなことは初めてだ。いつもなら、医薬品の裏面に書かれている説明みたいに能力の詳細が出るんだが、言葉が並ぶだけってのは」
 二人して頭を悩ませるが、答えは一向に出ない。
 ごほっ ごほっ
 イスラの隣で、エルが咳き込んだ。思考の迷路にはまっていた二人は現実に引き戻される。
「エル、大丈夫?」
 小さな彼女の背中をさする。
「イスラ、ちょっと支えていなさい。はいエルちゃん、お薬、飲もうね。はい、あーん」
 ヤスじいは素早く水を用意し、カプセルを取り出す。コップを両手で包ませて、開かせた口にカプセルを含ませる。エルは苦しそうに両目をぎゅっとつむったままコップの縁に唇を付けた。
「薬飲んだら、ちょっと寝ようね」
 イスラがエルの頭を愛おしそうに撫でる。小さな喉を鳴らしながら頷いた。彼女を抱き上げて、イスラがベッドまで運ぶ。横になったエルは、すぐに小さな寝息を立て始めた。

「ヤスじい。あの子は」
 ベッドに寝かしつけた後、イスラは一番大切なことを聞いた。険しい顔で、ヤスじいは首を振る。
「もって、後、半年、といったところじゃの」
 半年。たった六歳の子どもの残りの寿命というには、あまりに早すぎる。
「あのモモセ君が救世主でないなら、残り一日じゃがの」
 儂ら全員な、と自嘲交じりに笑えないジョークを飛ばした。
「大丈夫よヤスじい。あの子は私が守る。この身に変えても、どんな手を使っても」
「イスラよ。お前さんの気持ちはわかるが、そう気負うな」
 彼女の肩に軽く手を置く。それを、イスラは勢いよくはねのけた。まるで汚物にでも触れられたかのような過剰な反応だった。茫然と、自分が払ったヤスじいの手を見つめる。完全に反射的なものだ。
「ご、ごめん」
「いや、儂が悪かった。すまん」
 お互いに謝り合い、そして、どちらも大きなため息を吐いて椅子に座った。
「その、何だ」
 気まずくなった空気を何とかしようと、年長者たるヤスじいは白髪頭をボリボリ搔きながら言った。
「エルの能力は間違いなく本人の希望を叶えているはずだ。だから、あのモモセ君にはそれだけの力がある、ということになる」
「でも、ただ割れるってだけでしょ? 何が割れるのか知らないけど。そんなの、ここから脱出するのにどうやって使うっての」
「ふむ、確かに、割れると言って思いつくと言えば、皿とか、そういう脆い壊れ物だの。ならば、能力自体に期待はできんか。それよりは、彼がこれまで培ってきた技術の方が役立とう。彼は、サレムの話じゃ泥棒だったそうじゃないか」
「ええ、ウソかホントか知らないけど」
「本当なら、今頃何か良い案でも浮かんでいるやもしれんぞ?」

砂漠に咲く花

 イスラとヤスじいが百々瀬について話している時、当の本人は、サレムと脱出についての作戦を練っていた。
「ビャァックショイ!」
 唾をまき散らしながら、百々瀬はくしゃみを炸裂させた。
「大丈夫ですか?」
 サレムがトイレットペーパーを千切って渡す。トイレットペーパーはトイレだけではなく、鼻をかむこともできれば汚れを拭いたりすることもできる万能道具だ。
 盛大な音を立てて鼻をかんだ百々瀬だが、勢いがありすぎたのか鼻水は紙を突き破って手に付着した。
「手、洗ってきていいか?」
 ちょっと悲しい気持ちになりながら、サレムに断って洗面台で手を洗う。万能道具トイレットペーパーの利点であり弱点は水に溶けることだ。高級品になればそれも解消されるのだろうが、ここに置いてあるのは再生紙を使用していてエコロジーが売りの最安値の物だ。ダブルロールではない。
「で、何だっけ。どこまで話したっけか?」
 手を振って水を切り、それでも残った水気を服で拭いながら百々瀬が戻ってきた。
「はい。ええと、看守の人員交代と、この施設の見取り図の説明ですよね」
 おう、と百々瀬は頷く。
「看守の交代は六時間おきで間違いないのか?」
「多少の誤差はあるかと思われますが、それも数十秒、長くても一分かそこらでしょう。まず間違いありません。毎日〇時、六時、十二時、十八時に交代します。交代要員は十五分前に現れ、引継ぎ作業を行います」
「そうかい」
 百々瀬はテーブルの前に広げられた地図を見る。地図と言っても、建築に使う様な、精巧なものではない。誰が見ても素人と分かるような手書きの地図だ。ここに来てから、サレムたちが実際に歩き、目にした場所が俯瞰図で描かれている。それを、百々瀬は食い入るように見つめていた。
「その、すみません。こんなのしか用意できなくって」
 自分たちの地図が信用に足らないと思われている、サレムはそれを危惧して、少しでも信じてもらえるよう、記載されている部分に関しては何一つ問題ないことをアピールしようとした。
「ああ、別に、コレ大丈夫か? なんて思ってねえよ」
 苦笑しながら百々瀬は言った。
「そんなもん心配する時期は、とうの昔に過ぎ去ってんだよ」
「すみません・・・」
「謝るのも無しだ。謝って済むならこの世の問題の全ては土下座一つで丸く収まるんだよ。言っても仕方ねえことを言っても仕方ねえだろうが。いいか、これから脱出成功するまで、弱気な言葉、否定的な言葉を使うな。俺のモチベーションが下がる。わかったら、返事は?」
「はっ、はいっ」
 それでいい、と百々瀬は再び地図に意識を向ける。
「今あるものでどうにかするしかないんだから、こいつを疑うなんてことはしない。俺としては何もない状態から手探りで脱出するつもりだったんだから、情報としては充分価値がある。なんでもいいから確実な道があれば、使いようはあるんだよ。選択の幅を狭められるから、迷う時間が減る」
「では、いったい何を気にされてたんです?」
「ん、まあ、色々とな」
 百々瀬が気にしているのは、この地図に出口まで書かれていることだ。つまり、彼らは出口付近まで移動したことがあるということになる。眠らされて、気付いたらここにいたということは、彼らはこの施設に入れられるところを見てないはず。ならいつ出口の存在を知ったのかが問題になってくる。
 検査か何かで出口付近まで移動させられた時、偶然誰かが外に出た、あるいはそれを見た可能性? しかし、すぐに首を振ってその可能性はかなり低いと断ずる。百々瀬の持つ常識ではありえないことだ。出口を知られてしまえば、当然脱走のリスクが高まる。ましてやどんな能力を持っているかわからない連中を閉じ込めるのに知らせるメリットがない。
 看守が知らせたんじゃないとすれば、子どもたちの中の能力、たとえば空間把握能力の凄い版を持ってるなどが考えられる。自分の半径何メートルまでにある空間を壁越しであろうとも把握できるとかだ。
 しかしその推測も怪しい。もしそれならば他にも情報が載っているはずだからだ。
 では先ほどの話に出てきた無線を傍受できる子どもの能力か。もしくはそれに似た能力、たとえばどんな些細な音も聞き分けられる能力とか。
「それも、考えづらいか」
 超能力がどれほど便利かわからないが、そこまで万能ではないはずだ。それならばすでに彼らは脱出できている。
 ならば、残っている可能性はそう多くない。だがそれは、聞いても素直に話してくれなさそうな内容になる。無暗に藪を突いて警戒されるよりは、知らないふりをしておいた方が良いと百々瀬は断じ、話を変える。
「お前は本当に良いのか?」
 地図から顔を上げ、百々瀬はサレムの顔を見た。
「と、言いますと?」
「さっきの話だよ」
 さっきの話とは、サレムが百々瀬に語った覚悟のことだ。その覚悟は、他のメンバー、先ほどのイスラやヤスじいは知っているのか、という意味もある。
「ええ、その方が作戦の成功率も高まるはずですから」
「そりゃ否定しねえけど、俺が聞きたいのはそう言う事じゃないんだがな」
 わざとその辺をはぐらかしていることが分かったため、百々瀬はそれ以上の追及をしなかった。
「じゃあ、予定はこうだ。明朝六時の見回りの看守が入れ替わるタイミングを突く」
「深夜〇時ではなく?」
 サレムの想像では、闇にまぎれる深夜の交代時間になると考えていた。
「それも考えた。が、今回は子どもがいるからな。あいつらが夜更かし大好きなら話は変わるが」
「みんな、規則正しく九時には寝ますね」
 納得の理由にサレムは苦笑いを浮かべた。
「それに、早朝も選択としては無くは無い。夜明け前が一番昏いもんだ」
 なるほど、と感心した様子でサレムは相槌を打った。
「途中のカギがかかった通路などはどうします?」
「それなんだが。もう一度確認するが、ここのカギ、お前らが見たのは全部ウォード錠、こういうテルテル坊主みたいな、頭が丸くてその下に扇みたいな形をした穴のある、シンプルな奴だな?」
 あれと同じ奴だな? と百々瀬は自分の背後にある扉を指して、念を押した。
「ええ、はい。覚えている限りでは、全てそのような形だったと思います。外側には、こう、ツマミがあって、それを回すことでカギをかけることが出来るタイプのはずです」
 百々瀬は腕を組み、唸る。
「その、何か懸念事項が? その、解除するのに手間がかかる、とか」
「逆だ。ウォード錠は他のカギ、一般的に普及しているビンタンブラーとかよりもセキュリティ性能が低い。ぶっちゃけ針金一本ありゃ簡単に開けられる。コツさえつかめばお前らでも開けられるはずだ」
「そ、そんな簡単なのですか」
 強固に閉じられた扉が、実は簡単に開けられると知って愕然となる。
「そうだ。それが逆に怪しいっちゃ怪しいんだが」
 がりがりと頭を搔く。
「なあ、本当に、今までここから脱出できた奴はいないのか?」
「記録上では、一人もいないはずです。仮にこの施設から脱出できたとしても、我々がそうだったようにここに来るまでの道を知りません。収容所ですから、どれだけ人里から離れているかもわかりません」
 山奥だったり、砂漠のど真ん中だったりする可能性もある、ということか。
「それでもどうにかして逃げおおせたやつとかいるんじゃないか?」
「否定はできません。けれど確認もできません」
 全員死んでいるのだから、確認のしようもないし、逃げ出せて生きていたとしても複数の意味で記録は残らないだろう。逃げた本人が名乗り出ることなど間違ってもあり得ないだろうし、施設側としても逃げたなどと世間に知られるわけにはいかないからだ。この施設に能力者が放り込まれることで、それ以外の人々は一時の安息を得る。ああ、能力者がまた一人収監された、だから危険が一つ減った、安心だ安心だ、そんな風に。もしこの施設が完全でないとわかれば、人々は勝手に恐れて勝手に暴動を起こすだろう。
 それもそうか、と百々瀬は頭を切り替えた。
「分かった。じゃあ、ガキどもを連れて来い。あいつらにも説明をしておく必要があるからな」
 わかりました、とサレムが席を離れる。入れ替わりに、今度はヤスじいとイスラが戻ってきた。エルはヤスじいの背中で眠っている。
「方針は決まったかの?」
「一応な。ガキどもが来たら、まとめて話す」
「それは何より」
「大丈夫なの?」
 ヤスじいの隣でイスラが疑念に満ちた顔で尋ねた。
「あんたの考えがどんなのか知らないけど、子ども達全員を無事逃がせるんでしょうね?」
「悪いが。大丈夫、なんて安請け合いはしない主義だ」
「ちょっと!」
「勘違いをしているようだからもう一度言っておく。前提として、俺は泥棒、悪党なんだよ。安心と安全を売っているわけじゃない。その安心と安全をぶち壊しにする商売をしてたんだ。この時点で、そもそも依頼をする人間を間違っている」
 そう言う保証が欲しけりゃヒーローにでも頼め、と百々瀬は皮肉げに言った。
「残念ながら、そんな都合のいい者はおらんのう」
 バチバチと放電させて怒りをあらわにしたイスラを抑えるようにして、ヤスじいが先んじて笑い声をあげる。
「そもそもが、儂らはこの世界では悪なのじゃから、正義のヒーローが救うべき対象ではないしの」
「はっ、救う対象をえり好みするような奴はヒーローじゃねえよ」
「おや、ヒーローに詳しいのう。元の世界におったか?」
「いいや。お目にかかったことはねえ」
 そうか、とヤスじいは目を細めた。百々瀬の世界もまた、この世界と同じように理不尽が横行しているのだ。
「こちらがお前さんに無茶を言っているのはよく理解しておる。ただまあ、この子の不安も少し汲んでやってくれんか。イスラは、ここの子どもたちを守る為に今まで必死で頑張って来たんじゃ。母代わり、姉代わりとして子ども達に面倒を見てきた。その子たちが明日にも殺される、そう訊いて不安にならないはずがないじゃろう」
「だから大丈夫だ、安心しろって気休めを言えってのか? それで仕事の成功率が上がるならいくらでも言ってやる。けどな、実際はそんなことは起こらねえし、俺に誰も彼も救えるほどの力があるわけじゃねえ。俺の腕は二本しかねえんだ」
「なによ、結局自信がないから頼るなってことじゃない。情けない。任せておけ、くらいズバッと言えないの?」
「その自信のねえ男しか頼る術がねえんだろうが。藁をもつかむ状況の癖にぐだぐだ文句抜かすなクソガキ」
「な、く、クソガキですって! あのね、私、今年で十六、もう立派な大人!」
「俺から見りゃお前ら全員クソガキだ」
「おや、儂もか? そんなに若く、見えるかの?」
「うるせえクソ爺」
 言葉を区切りながらいちいちポーズを決めるヤスじいに、うんざりしながら百々瀬は吐き捨てた。

「じゃあ、みんな。今日は早く寝ようね」
 サレムが言うと、子ども達ははーい、と手を上げて元気よく返事した。そこには悲壮感も緊張感も感じられない。明日の脱出を遠足か何かと勘違いしてるんじゃないだろうかと百々瀬は不安になった。そりゃ、分かりやすく言えば明日は朝早くから出かけるので早く寝ろ、ということになるが。事は自分の命にかかわることだと言うのに、その重大さを理解しているのだろうか。
「残念じゃが、理解しておらんよ」
 隣に立ったヤスじいが言った。
「ガキに理解を求めるなってことか?」
「そうではない。この子らが、自分の命が大切だということを理解してない、ということじゃよ」
「どういうこった?」
「この子らは、能力があるからと実の親にすら憎まれ、捨てられた子たちじゃ。お前らなど不要、生まれてこなければよかったと面と向かって言われたのじゃ。子どもたちは『自分の命は大切な物ではない』と思い込んでおる」
 子ども達は明日自分が死ぬことに対して、そうなんだ、くらいの感想しか持ち合わせていない。
「そんな子らに愛情を与え続けたのがイスラじゃ」
「ふん、砂漠に花を植えるような話だな」
「儂もそう思う。けれど、イスラの献身によって枯れることなく元気に成長しておる」
 ヤスじいが優しい目で子ども達と、彼ら一人一人に布団を賭けているイスラとサレムを見つめる。
「のう。人はこの子らを悪と呼ぶ。忌み嫌う。では人の言う悪とは何じゃろうか? 自称悪党殿」
「自称じゃねえ。自他ともに認める悪党だ」
 こりゃ失敬、と笑うヤスじい。
「悪ってのは、平気な顔で人を傷つけられる存在だよ」
 ぽつりと百々瀬が呟いた。それがいまさっきの自分の質問の答えだと気づいたヤスじいは、百々瀬の顔を見上げた。
「俺の、数少ない知り合いの話だ。そいつは普通の人間だった。ダチとつるんだり、学校で勉強したり、笑ったり泣いたりしながら普通の生活を送っていた。あるとき、ダチの家族が死んだ。詳しくは分からずじまいだが、殺人だった。けど、法律では殺した相手を捌けなかった。悪じゃなかったからだ。法律的に。そして、ちとシスコンなのが欠点なだけの、いたって普通のそいつは変わった。全く笑わなくなり、そのうち学校にも来なくなった。家に行っても不在で完全に行方をくらませた。何年か後、そいつの家族を殺した連中の一人が、死体となって発見された。それから次々と殺人の首謀者たちは数を減らし続け、やがて全員くたばった」
「それは、まさか」
「街で、偶然あいつを見つけた。で、いなかった間の話を聞いた。今あんたが想像した通りのことを、平然とした顔で行った、と平然とした顔でぬかしやがった。だから、もう俺たちと顔を合わせる資格は無いからと、そいつは俺や、ダチの前から姿を消した」
 それ以降、奴とは会ってない。百々瀬は話を締めくくった。
「そいつが言っていたことなんだが、結論として悪党と普通の人間は別の生き物なんだそうだ。遺伝子学とかその辺のことは良くわからねえけど、悪党は脳とか、魂だか心だかわからねえが、どこかが変異する。一線を超えると、ああ、変異したな、ってのが分かる。その一線は一度超えると二度と戻れない不可逆性がある。悪党は人間には戻れない。逆は簡単に超えられるけどな。だから、普通の人間でいられるというのは、実は凄えことなんじゃないかと俺は思う」
 そして、百々瀬は寝息を立て始めた子どもたちを見やる。
「あいつらは悪ガキどもではあるが、まだ悪にはなってねえよ」
 面倒臭そうに話す百々瀬を見て、ヤスじいは思わず笑みを浮かべた。悪に関する考えは、そのまま反対の性質についても理解できる。
「んだよ爺。気味悪い」
「ふほ、いやなに。悪党殿から見れば、この子らは悪ではないのだな、と思ってな」
「はん、悪と名乗るのもおこがましいぜ」
 そうかそうか、とヤスじいは顔を綻ばせる。百々瀬は、言葉だけの気休めなど何の役にも立たないと言うが、そんなことは無い。ヤスじいはこの中で当たり前だが最年長。この世界の【常識】に一番長く浸っている。彼自身、能力が発言するまではこの世界で言うところの一般人であり、能力者を何の理由もなくただ恐れた。その考えはやはり頭のどこかに染みついており、どこかで能力者は悪、という考えは正しいと思っている。
 異世界の人間の常識は違った。そのことがヤスじいの頭についた常識のシミを消し去った。これまでどこか口だけであった、能力者とは言えど善人と悪人がいる、という考えを、ようやく心の底から信じることが出来た。ヤスじいにとっては大収穫だ。これからは胸を張って、この子たちは悪ではない、と断じることが出来るのだから。命を賭けて守る価値がある、と信じ切れるのだから。
「百々瀬殿。改めて頼む。イスラが育てたこの子らを、砂漠にようやく芽生えた花のつぼみたちを、咲かせてやってはくれんか」
「だから、爺。あのな」
「頼む。この通りじゃ」
 深々と頭を下げた。チッ、と百々瀬は舌打ちして、ヤスじいから顔を背けた。
「・・・咲かせるのは、結局本人の努力次第だ。俺の知ったこっちゃない」
 俺も寝る。と移動して、部屋の片隅で丸くなった。脱出の手助けはしてやる、という分かり難い回答だった。

夜明け前

 四時五十分。消えていた部屋の照明が点灯した。
「全員起きろ」
 スイッチを入れた百々瀬が振り返ると、目をこすりながら布団から這い出てくる子どもたちの姿があった。目をこすったりあくびをしたり、まだ眠そうだ。体を起こしたまま二度寝している子どももいる。
「ちょっと、まだ五時前よ・・・」
 あらかじめ起きてはいたが、イスラもまだ眠そうだ。
「馬鹿野郎。六時丁度に動き出してどうして交代前に出口付近までたどり着けるんだよ。その前に色々と準備する必要があるだろうが。ここを抜け出してからはノープランだ。ここが山奥かもしれないし砂漠の真ん中かもしれない。色んな想定をして、そのための準備を今しなきゃいけねえんだよ」
「準備って何よ。持ち出す物は昨日のうちに準備したじゃない」
「食料とか水だけの話じゃない。ガキどものコンディションも準備の打ちなんだよ。熱出した風邪ひいたなどの体調管理はもちろん、出かける前に便所に連れて行っとけ。出発前に便所行きたくなったからって行かせるわけにはいかんだろうが。今のうちに済ませられるもんは全部済ませろ。それかオムツでも履かせとけ」
 そういう準備ね、と納得したイスラは素直に従う。一人一人を起こし、半分寝ぼけている子どもたちを洗面所へ誘導する。
「おはようございます」
「おはよう」
 サレムとヤスじいが荷物を担ぎながら近寄ってきた。
「いよいよ、ですね」
 そう言うサレムは、笑顔が若干固い。さすがに緊張しているのだろう。
「そう固くなるな。お主がそれでは子どもたちまで緊張してしまうぞ」
 ヤスじいはさすが年長者というべきか、さほど緊張しておらず、サレムを気遣う余裕があった。
「とは言っても、どうしたって緊張はしますよ」
 苦笑を浮かべる。
「モモセさんは、緊張はなさらないのですか?」
「緊張だぁ?」
「ええ」
「するぞ? ・・・・・何だよ。その顔は」
 あまりに予想外の答えに、サレムは目を真ん丸にして百々瀬の顔をまじまじと見た。
「俺だって緊張くらいする。むしろ緊張しない日は無い」
「そ、そういうものなのですか?」
「緊張は悪いわけじゃねえ。緊張で体が強張ったり、パニックになるのがまずいだけだ。程よい緊張は感覚を研ぎ澄ませることが出来るし、眠気も飛ぶ」
「それは緊張しているというより、緊張を飼い慣らしている、というような」
「飼い慣らす、ん~、そんな大層なもんじゃねえんだがなぁ」
「何か、コツのようなものはあるんでしょうか?」
 コツ、ねぇ。と百々瀬は頭をガリガリ搔く。
「コツ、というほどのものじゃねえが、少しは気が楽になる言葉なら知ってるぞ」
「ぜひ教えてください」
 期待に目を輝かせて、サレムは言った。期待に応えるように百々瀬の口から出たその言葉は

「どうせ死ぬ、だ」

「・・・・え? 死ぬ? えっ・・・・」
 冗談だと思いたかったサレムの思いをあっさり裏切り、百々瀬は頷いた。
「どうせ死ぬんだよ。脱出に失敗しても死ぬし、諦めて動かなくても死ぬ。ただそれだけだ」
「で、ですから失敗しないように、ということで・・・・」
「違う。人間はいつか死ぬ、って話だ。逃げ切っても病気で死ぬ、また掴まって死ぬ、何十年後かに老衰で死ぬ、事故で死ぬ、何をやろうが遅かれ早かれ人間は死ぬんだ」
 いいか? と百々瀬はサレムの額に人差し指を突きつけた。
「お前のせいで全員が死ぬんじゃない。あいつらはあいつらで勝手に死ぬし、俺は俺で勝手に死ぬ。誰かの命を背負ってるなんておこがましいと思え。お前が背負えるのはお前の命だけだ。お前が命を賭けてやろうとしていることに、他の多数が勝手に自分の命を賭けているだけだ。失敗しても失うのは自分の命だけだ。他のことなんぞ考える必要はない。それで例えば俺が死んでも、計算違いを見抜けなかった俺が馬鹿だったというだけだ。わかったか? わかったら、返事は」
「は、はい」
「よし。じゃあお前も便所行っとけ。それだけでだいぶ違う」
 納得できているのかいないのか首を捻りながらも、サレムは素直に従い便所に行った。
「どうせ死ぬ、か。なるほどのう」
「何だ爺。文句でもあんのか?」
「いいや。心に沁みる言葉に感激しておったところじゃ。儂のような爺にはいつ死が訪れてもおかしくない。その時まで、必死のパッチで生きねばならんということを、今更ながらに思わされたわ」
「老いも若いも関係ねえ。今死んでも後悔しないように生きる。それが悪党のルールだ」
 いつ殺されてもおかしくない世界にいるんだからな、と百々瀬は語る。
「悪党にもルールがあるのか? てっきりルール無用が悪党のルールだと思っておったぞ」
「当たり前だろ。悪党だからこそ守らなきゃいけないルールやポリシーがあるんだよ。超一流の悪党ほど自分のルールを遵守する」
「是非とも教えてもらいたいもんじゃ。後学のためにも」
「また今度、気が向いたらな」
 百々瀬とヤスじいの視線が時計の方に向けられる。話しているうちに良い時間になっていた。トイレに行っていた子どもたちや、サレム、イスラも戻ってきた。
「時間だ。準備は良いか?」
 全員が百々瀬の顔を見返して、一つ、大きく頷いた。
「作戦開始だ」
 にぃ、と百々瀬は唇を歪めた。

 しゃがみ込み、ウォード錠の穴に針金を二本刺し込む。二度、三度と中をこね回すようにして針金を動かしていると、手応えが返ってきた。そのまま力を込めると、かちゃり、音と共に結果が返ってきた。時間にして、僅か一分足らず。
「本当に開いた・・・」
 感心した様にイスラが言った。当たり前だ、と内心で毒づく。百々瀬としては馬鹿にされている気分だ。この程度のセキュリティはセキュリティではない。
 音もなく扉を少し開く。耳を澄ませる。足音は無い。扉のわずかな隙間から、百々瀬は滑り出た。巨体からは想像できないほどの素早さと静かさだった。
 廊下は足元の非常灯しかついておらず、大分薄暗い。人の気配がないことに違和感を覚えながらも、百々瀬は合図を出した。隙間から見ていたイスラがまず外に出て先頭を行く。その後を、カルガモの親子よろしく子どもたちが続く。最後に出てきたのがサレムだ。
 地図では、収監されていたこの部屋は地下三階。収容施設らしく、出口となる階段は三階から二階へは西側、二階から一階へは東側に設置されている。どうしても施設の端から端までを移動しなければならない。移動する距離があればあるほど、発見されるリスクも上がる。また、途中にある扉の鍵を開けるために、どうしても立ち止まる時間がある。いかにガキどもを誘導するかが鍵だ。あらゆる場面を想定しながら先を急ぐ。

「と、悩んでいたんだけどな」
 百々瀬は最後のカギを開けながら内心で呟いていた。鍵は次々と開けていったが、ここに至るまでに彼の頭には疑問がわんさと積み上げられていく。
 この施設はおかしい。そう思い出したのは地下二階に上がっても何ら障害が発生しなかったことだ。
 まず、監視カメラなどの設備が見当たらない。巧妙に隠してあるのかとも考えたが、どうもそういう訳ではない。ならば、そういう道具が存在しない文明水準なのかというと、そういう訳でもない。サレムやイスラ、ヤスじいと異なる場所で捕まった人間が知っていた。それどころか看守すらいない。こういうところのお約束では、必ず歩いて見回り、異常がないか確認するものだと思い込んでいた。ガキどもを連れたままで、それをどう躱すかで悩んでいたのに。いよいよきな臭い、怪しい空気になってきた。この脱出劇自体が、こちら側ではなく別の人間の意図によって仕組まれている、そんな考えが浮かび始めた。
 ガチャ
 思考とは関係なく体は動き、カギを開けた。ドアノブを回し、ゆっくりと開く。隙間から空気が流れ込んでくる。密閉されていた中の淀んだ空気を洗い流す、濃密な緑の匂いだ。
 慎重に外へ出た。施設の外は、匂いから推測した通り森の中だった。どこかの山中だろうか。まだ薄暗く星空が木々の枝葉の隙間から覗いている。
「出てこい」
 特に監視もない―そのことも怪しいのだが―ので、百々瀬は扉の向こう側に声をかけた。ドアの隙間から子どもたちが出て、最後にヤスじいが出てきた。彼は百々瀬に目くばせをする。百々瀬も了解の意味を込めて頷いた。さて、どうやらここまでは上手く行ったようだが、これからが本番だ。一刻も早く、少しでも遠くへ逃げて、追っ手を巻く必要があるが、無暗に逃げても意味がない。まずは現在地を知ることだ。
「爺。ここがどのあたりか見当ついたりするか?」
「さすがの儂も、この景色だけでは皆目見当もつかん。看板なり、何か書いてある物があれば、その文字でどの地域かなど辺りは付けられると思うんじゃが」
「なら、人里付近に行く必要はあるか」
「しかしそれはリスクがあるのう。儂らだけならともかく、これだけの子どもを連れてうろうろしておったら怪しまれる」
「それよりも街がどの方向にあるかだな。ガキどもに関しては隠れるなりなんなり工夫次第でどうとでもなる」
 そんな時、子どもの一人が百々瀬の服を引っ張った。
「ねえねえ」
「何だよ。今忙しいんだよ」
「あっちに海が見えるよ?」
 海? その単語に百々瀬とヤスじいは顔を合わせた。たしかに、言われてみれば微かに潮の香りがする。
「海岸線付近ってことか」
「ふむ、それなら少しは居場所を絞れるかもしれん。それに、海沿いに進めば街や、そこに続く大きな道路に出るかもしれんしの」
 逃げ切れる確率が上がった。そう思い、百々瀬たちは海へ向かう。
 森を抜け、彼らは海岸線へたどり着く。
 辺りが徐々に黒から暗緑色、瑠璃色へと変わる。夜明けが近い。朝という獣に追い立てられるようにして、徐々に星が姿を暗まし始めていた。星明りも失せ、朝日もまだ遠い。最も昏い時間帯だ。
 サアッと光の筋が天に通る。その輝きに百々瀬は顔をしかめ、手で直射日光を遮った。指の隙間からも、海面に反射した日光が目を焼かんばかりに乱反射している。そこかしこで子どもたちがまぶしいまぶしいと騒いでいた。隠密行動もへったくれもない。
「おい・・・」
 静かにしろ、と怒鳴りつけようとしたところで、耳を劈く機械音が響き渡った。
「警報か?」
 逃走が発覚したために誰かが警報を鳴らしたのか、音の鳴る方へと視線を向ける。
『あー、あー。マイクテスマイクテス』
 続いて響いたのは男の声だ。嫌な声だ、と百々瀬は思った。相手を押さえつけるのが趣味そうな、性格の悪さを感じ取ったからだ。おそらくこの声の主とは友達にはなれない、どころか、会ってあいさつした瞬間に殴る気がする。百々瀬に嫌われていることなど当然わからない声の主は続ける。
『外に出ている能力者諸君に告ぐ。君たちは脱獄というとてつもない罪を犯している。我々は君たちに対して、断固たる処置を取らなければならない』
「断固たる処置だ?」
 あまり愉快な処置にはならなそうな予感がする。
『残念だ。本当に非常に残念だ。我々は、外で迫害されている君たちを保護していた。そりゃ、外には出せはしなかった。しかし、それは仕方のないことだったんだ。君たち能力者を快く思わない人間は多い。君たちが外にいては、悲しいかな、争いのもとになる。だから、我々は涙を呑んで、心を鬼にして君たちを人々から隔離したのだ。いつか人々が、君たちに対して理解を示してくれるその時まで』
「おうおう、好き勝手なことを上から目線で言ってくれるのう」
 苦笑しながらヤスじいが言った。
『だが、君たちは我々のその思いを踏みにじった。罪を犯した君たちに対して、我々がしてやれることはただ一つ。君たちが罪を犯す前に殺すことだ』
 ひどく悲しそうな声で言った。しかし、その奥に含まれる真意を覆い隠すことはできていない。声には言葉の内容とは真逆、嗜虐心が覗いていた。
『悪く思わないでくれ。法がそう定めているのだ。従順ならざる能力者は殺すべしとなっている。法を遵守する我々善良な一般市民は、これから君たちを止めるために、殺す。多くの人々を守る為に』
「ずいぶんな大義名分を掲げてくれるじゃねえか」
 百々瀬はここにきて、施設の連中の思惑をようやく理解した。自分たちは逃げ出せたんじゃない。泳がされているのだ。監視カメラも看守も、見張りすらいなかったのも、全て奴らの予定通りだった。彼らの目的のためだけに、自分たちはワザと逃がされたのだ。
『ただ、我々も、本当は君たちを殺すことなんてしたくない。だから、時間を上げよう。一時間だ。一時間は、我々は施設から出ない。その間に逃げ切ってしまえば、我々は追わない。我々が殺すのは、我々に見つかった能力者だけだ。それ以外は管轄ではない。遠くへ、出来るだけ遠くへ逃げると良い。東西五百メートル、南北百八十メートル、この絶海の孤島、シナイ島からな」
 逃がすつもりなどハナっからなかった。彼らの目的は狩りだ。殺してもいい命を、いかに自分たちが楽しく殺せるか、それを突き詰めていった結果、悪趣味な鬼ごっこに行きついたという訳だ。
 百々瀬の頬に崖で弾けた波の雫があたり、つつ、と垂れた。

悪党の辞書に載らない言葉

「さて、皆さま。狩りの前に乾杯といきましょう」
 そう言って、シナイ隔離病院の院長ラムセスは盃を掲げた。黒々とした髪をオールバックにした偉丈夫で、先ほどの放送はこの男によるものだ。
 院長室、と呼ぶよりも豪奢なパーティ会場のフロア、と呼んだ方がしっくりくる部屋に集まった面々は、顔を醜く歪めながらそれぞれの前にある盃を手に取る。彼らの正体は大企業の重役や政治家など、権力と金と時間を持て余している名士たちで、ラムサスの同好の士、共通の趣味を持つ者たちである。シナイ隔離病院の院長室は、三か月に一度、こうして彼らの拠点として使われる。
 彼等の共通の趣味とはハンティングのことだ。最初は狐やウサギなどの小動物を、更にスリルと興奮を求めてクマや虎、ライオンなどの肉食の大型獣を狩るようになる。だが、それにも飽いてきた。もっと自分を楽しませる狩りは無いのか。そこへ、ラムサスは話を持ちかけた。殺してもいい命を使って、最高のハンティングを提供すると。
 ラムセスは常々、定期的に処分する能力者たちを、もっと有効活用できないかと考えていた。彼らを隔離しておくにも、死体の処理をするにも金がかかる。どうしてゴミみたいな連中の為に金を使わなくてはいけないのか。どうせ死ぬなら、もっと病院の為、自分の為に死ねばいいのに。
 そんな時、一人の能力者が脱獄した。シナイ隔離病棟始まって以来の失態に彼は焦ったが、すぐに問題は解決された。シナイ島は沖合三十キロに浮かぶ絶海の孤島であり、島の周囲は潮の流れが速く、水も冷たい。泳いで陸に戻ることなど不可能だった。ラムサスはその能力者を捕らえ、自分の手で処刑した。また、脱獄の事実をもみ消した。
 そこで彼は思いつく。脱獄の事実をもみ消せるということは、この島で起こることは誰にも知られることがない。ならば、ここを自分の好きなように管理できるということではないのか。ここを、【狩場】にすればいいのではないのか。
 ビジネスチャンスだ、ラムセスは確信した。富も名声も権力も持った者たちの最大の敵は退屈だ。そんな彼らに、最高のエンターテイメントを提供できる。会員制のクラブにして高額な会費を徴収すれば資金も得られる。秘密のクラブなんて金持ちが好きそうな言葉だ。それらはやがて金持ちの間でステータスになるだろう、そうすればもっと多くの会員が集まる。金が金を呼ぶ仕組みだ。警察や政界の人間を巻き込めればもっといい。こちらの行為は世間的にはさすがに認められないが、彼らの協力があれば司法の目がこちらに届くことは無い。この島と、クラブは自分たちが気にしなくても会員の手によって守られる。自分たちは場所さえ提供すればいい。獲物はただで手に入る。世界中の善良な人々が能力者を捕らえて送ってくれるのだ。元手はかからず、宣伝も会員たちが勝手にするため不要。これ以上ないビッグビジネスの到来だった。
 ラムセスの思惑通り、クラブの会員は同じ知恵や感情を持つ、同じ人を殺す背徳感を覚えてしまった。時にこちらを欺き、時にこちらを罠にかけようと足掻く彼らを真っ向から力尽くでねじ伏せる、他者よりも自分が優れている、自分は強いと実感させてくれる最高のハンティングに、彼らは酔いしれた。いくら払ってでも良いから会員になりたいという者たちが後を絶たなくなった。

 そして今、彼らは自分の手元にある島の地図を熱心に見ている。地図には所々に印がつけられている。過去に行われた狩りから得られた、能力者たちが隠れやすい場所だ。ここにいるだろうか、どう追い詰めようか、何匹狩れるだろうか、会員たちは楽しげに今日の狩りの予定を話し合っている。この日だけは、島に仕掛けられた監視カメラは全て電源を落とされ、看守たちも最低限の人間を残して休暇を与えている。万が一にもこのことを外部に漏らさないようにするためと、狩りをより楽しむためだ。始めから獲物の位置が分かっては楽しみも半減してしまう。自力で獲物を見つけ出すのも、楽しみの一つだからだ。
 ワイワイと遠足前の子どもの様に浮かれる彼らを見ながら、ラムサスは満足げに頷いた。
「よくやってくれたな。サレム」
 後ろに控える青年に声をかけた。呼ばれた青年は、恭しく頭を垂れた。
「今回集まったのはガキどもと爺だけで、逃げると言う発想が出たかすらも怪しかった。お前が扇動したおかげで、ようやくゲームが始められる」
「お褒め頂きありがとうございます。院長に頂いた慈悲に少しでも恩返しが出来ればと思い、尽力させていただきました」
「殊勝な心がけだな」
 鷹揚にラムセスは頷く。
「ですので、院長。厚かましいお願いではございますが、なにとぞ・・・」
「分かっている。お前の妹だけは生かして保護してやる。会員たちにも、妹に危害は加えぬよう誓約書まで書いてもらっているから、安心しろ」
「お心遣い、感謝します」
 床に頭をこすり付けんばかりに下げるサレムを、ラムセスは汚物を見るような目で眺めた。彼の目の前にいるサレムは、どこから嗅ぎつけたのかこのクラブのことを知っていた。そして、みじめに命乞いをした。妹の命を助けてほしい、そのためなら何でもする、と。始めはラムサスも相手にしなかった。サレムは、自分を利用したときのメリットをいくつか挙げた。自分なら、今後も送られてくる能力者たちを上手くそそのかし、ラムセスの手を煩わせることなく能力者をまとめ、脱獄させるよう仕向けられる。また、サレムの妹であるエルの能力も、そのまま捨ててしまうには惜しかった。自分なら上手く妹を操り、ラムセスの役に立つような能力の使い方をさせられると言った。彼は、自分たちが助かりたいがために、他の能力者の命を売ったのだ。
 流石は薄汚い能力者だ、とラムセスはサレムを蔑んだ。けれど、彼の提案がなかなか魅力的なのも事実だった。ラムセスはサレムの願いを聞き届け、彼を能力者の中にスパイとして潜り込ませた。
「感謝よりも、だ。サレム。貴様こそ、約束を忘れてはいまいな?」
「もちろんです。むしろ、今回のことで命を奪わないでいてくれた院長に妹は感謝し、自ら院長の為に能力を使うでしょう。ただ・・・・」
 サレムが顔を曇らせるのを見て、ラムセスは眉根を寄せた。まさか、ここまで期待させておいて出来ないと言うつもりか。
「ただ、何だ?」
「いえ、院長の願いを聞いていないものですから。具体的な願いが分からないと、いかに妹とて叶えることはできません」
「ああ、何だ。そう言う事か」
 ホッとしながら、ラムサスは自分の顎を撫でた。いざ願いと言われるとありすぎて悩む。一生遊んでも使い切れないほどの金か? ありとあらゆるものを平伏させるほどの権力か? 願いは尽きない。
「今すぐには決められんな。この狩りが終わるまでには答えを出しておく」
「よろしくお願い致します」
 そう言って、サレムは下がった。
「ふん、自分のことしか考えない、浅ましき能力者が。一丁前に俺と交渉したつもりか」
 出て行ったサレムを、ラムセスは吐き捨てた。ラムセスは彼を生かすつもりなど毛頭なかった。むしろ、ホッとしたところを殺そうと考えていた。
「願いさえ叶えさせたら、貴様ら兄妹も用済みだ。揃って追い立てて、仲良く殺してやる」
 だが、まずは会員たちを満足させてからだ。ラムセスは頭を切り替え、顔を経営者に切り替えて、会員たちを労うために彼らの話の輪の中に混ざりに行く。


「駄目だ。何もありゃしねえ」
 ぐるりと島を回ってきた百々瀬に分かったのは、船などの道具がなければ脱出が困難だという事実だった。仮にあるとするなら、シナイ隔離病院の中だろう。今から戻るのは無謀すぎる。
「打つ手なし、か」
 ヤスじいが肩を落とした。
「打つ手なしと決まったわけじゃねえ。まだやれることがある」
「やれること、とは?」
「例えば、これから出てくる連中を一人ずつぶちのめす」
「ぶちのめす、とは、なかなか過激な発想だが、可能なのかえ?」
「不可能じゃない。ぐるっと回ってきたついでに下見をしておいた。もし追っ手が来た時を想定して、いくつか待ち伏せが出来る場所を見つけた。もちろん、相手もそのことを知っているだろうから、そこを逆手に取れば何人かは倒せる。で、倒した相手の武器を奪って、ゲリラ戦でも仕掛けて敵を施設から全員引きずり出す。島に施設を創るくらいだ、自分たち用に脱出用のヘリなり船なりあるはず。俺が引き付けてる間に、あんたがそいつを奪えばいい」
「老いぼれに無茶を言う」
「言ったろ、出来なきゃ死ぬだけだ。『あいつら』もこの程度のことは想定してんだろ。連携はとれねえが目的が一緒なら、俺たちがこれからどういう手に出るかぐらい察しが付くとおもうぜ。イスラはともかく、サレムは察しがよさそうだからな」
「まあ、そうじゃな。嘆いていても始まらんか。しかし、そうなると」
 ヤスじいがちらりと子どもたちを見た。つられて、百々瀬も目をやった。彼らを守りつつ、敵を倒す。言うは易し行うは難し。現実は難しいことばかりだ。想定外のことだって起こる。だが、やるしかない。出来る出来ないではない。やるのだ。

 ごほ、ごほ、げほ

 ヤスじいはハッとして、すぐさまそっちに向かう。エルが蹲り、息苦しそうに両手を口に当てながら咳き込んでいた。
「エルちゃん!」
 すぐさま体を支える。エルの顔は真っ青で、口元にあてた小さな手からは血が漏れていた。
「お、おい。爺」
 さすがの百々瀬も驚きを隠せない。答える余裕のないヤスじいは、ポケットから薬を取り出し、エルに含ませる。荷物から水の入ったペットボトルを取り出して、ゆっくりと吞ませた。薬が効いてきたのか、エルの顔色は徐々に戻り始め、呼吸も落ち着いてきた。
「まさか、エルの奴・・・」
「言うな!」
 ヤスじいが怒鳴った。穏やかな人柄からは考えられないほどの、悲痛な叫びだった。だがそれだけで、百々瀬は察してしまった。彼女はもう、長くないのだと。そう言えば自分が検査を受けた時、彼女も同じように検査をすると言っていた。もしやこのことだったのか。
「能力が消えたからか」
「・・・いや、それよりももっと救われん話さ」
 ヤスじいがポケットから薬を取り出した。先ほどエルに吞ませたものと同じ物だ。
「こいつがなんだかわかるか」
「薬、じゃねえのか」
 まさにそれを飲んでエルは回復したのだから。
「毒じゃよ。シナイ病院のラムセスは、エルの力を恐れてこれを飲ませたんじゃ。『寄生木の根』という最低の毒じゃよ。体内に入れば徐々に体を蝕み激痛を与える。解毒薬は無く、症状を緩和させるしかない。が、その緩和させることが出来るのもこの寄生木の根だけなんじゃ」
 麻薬みたいなものか、と百々瀬は辺りをつけた。
「一息に死なせてくれず、また、いくら緩和しているとしても同じ毒を飲み続けているのだから体には毒素が蓄積し、症状は進行する。じわじわと、真綿で首を絞めるように。これで相手に死神の足音を聞かせて、生きる気力を奪う。生きる気力を失えば、人は全てがどうでも良くなる。そうなった人間を意のままに操るための毒なんじゃ」
 そんなものを、こんなガキに飲ませたのか。
「それは、こいつの力で願いを叶える為か?」
「それ以上に、自分たちの命を守る為じゃ。寄生木の根の厄介なところは、毒の成分を簡単に変えることが出来るということじゃ。十人が作れば十通りの毒が作れてしまう。そして、同じも成分のものでしか症状が緩和できない」
「つまり、その毒を作ったラムセスとかいうクソ野郎は、自分たちを殺せば自分も死ぬ、というような状況を作ったってことか」
 そうじゃ。とヤスじいは頷いた。
「おい、じゃあ、あんたが持ってる薬が切れたら」
 その問いに、ヤスじいは答えられなかった。
「だいじょうぶよ」
 代わりに応えたのはエル本人だ。
「あのね、ヤスじい。わたし知ってるよ。わたし、もうすぐしぬんでしょ?」
「エル、お前」
「おくすりをのむかいすうがおおくなってきたから、そうかなって」
 ヤスじいは痛ましげに顔を歪めた。
「モーセさん」
 エルが百々瀬の顔を見上げた。
「わたしはもうすぐしんでしまうけれど、ほかの子たちはにがしてあげてね」
 こんな時、普通なら「死ぬなんて言うな」など慰めの言葉を使うだろうが、百々瀬はそれを口に出来なかった。気休めにしかならない言葉を、大人顔負けの覚悟を決めたエルに通じるとは思えなかったからだ。それよりも、彼女の願いを叶えた方がまだ彼女の生きる活力になるだろう。
「・・・最善は尽くしてやる」
 そう返すにとどめた。それでもエルは満足したか微笑む。
「へへ、ありがと」
 そのまますっと瞳を閉じた。
「おい!」
 百々瀬は慌てて膝をつき、エルの肩を掴む。隣でヤスじいが慣れた手つきで脈拍や呼吸を確認する。
「安心せい。眠っただけじゃ。寄生木の根の後遺症で、飲んだ後は体力をかなり奪われる。大人でも体が動かせないほどだるくなるんじゃ」
 そんなものを、今まで飲み続けていたのか、そんなものをこれからも飲み続けなければならないのか。ふつふつと、百々瀬の中に積もる。
「有言実行してやる。自分の言葉に責任を持って、このガキどもを逃がしてやるさ」
「悪党のルール、かの?」
「いいや、俺のルールだ」
「僕たちのことは、別にいいよ」
 覚悟を決めた百々瀬とヤスじいの間に、いつのまにか一人の子どもが近づいてきていた。サレムやイスラを除けば、子どもたちの中で一番の年長者だ。とは言っても十歳なのだが。
「何だよ別にいいって」
 顔をしかめながら百々瀬は尋ねた。彼は自分の仕事の邪魔をされるのが嫌いだ。それは物理的な妨害だけに留まらず、自分のテンションを下げるようなことも含まれる。だからサレムに否定的な言葉を使うなと言い含めていた。
「僕たちのことはほっといてくれていいよ」
 そんなことは露知らず、子どもはあっけらかんとして、微笑みながら言った。見れば、その子の後ろに控える他の子どもたちも、同じような顔をしていた。
「・・・何でだ?」
 百々瀬の眉間のしわが深くなる。
「モーセさんたちだけなら、逃げ出られるんでしょ?」
 気づいているのかいないのか、子どもは続けた。
「僕たちを連れていると、モーセさんやヤスじいは逃げられないんでしょ? だったら、僕たちをほうっておいて逃げた方がいいよ」
「お前、それ本気で言ってるのか?」
 ともすれば震えそうな声を押さえて、百々瀬は聞いた。子どもは、なぜ百々瀬がそんなことを訊くのかが不思議なようで、首を傾げながら答えた。
「だって、大人は邪魔になったら子どもを捨てるものでしょ?」
 当然の常識を話すかのように。昨日、ヤスじいも言っていたことだ。親からも生きていることを疎まれた子どもたちは、今目の前に迫っている危機を危機として認識していない。なぜなら、自分の命は大事ではないからだ。大人の勝手な事情でここに連れてこられたことも、全て自分のせい、いや、そういうものなのだと思っている。死ぬことが普通だと。
 人間はいつか死ぬ。必ず死ぬ。百々瀬がサレムに言ったことだ。だが、それにはもう一つの意味がある。しかし、この子供たちが考えている『死』には、それがない。
 さっきから我慢していたが、もう限界だった。臨界点を超えた百々瀬は、何も言わず、目を細め、拳を振り上げ、振り降ろした。情け容赦など微塵もなく、その子どもの脳天に。

 ゴッ

 子どもは悲鳴すら上げられず蹲った。それを見ていた子どもたちは驚きに目を丸くさせ、蹲る子どもと百々瀬を交互に見比べた。
 百々瀬と、子どもたちの目が合う。彼らに向かって、百々瀬はつかつかと歩み寄る。子どもたちは蛇に睨まれた蛙のように固まり、その場から一歩も動けないでいた。

 ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ ゴッ

 ピアノの鍵盤をドから順に奏でるように、百々瀬は子どもたちの頭に拳骨を落としていった。音階は全く変わらず、子どもたちのうめき声も低音ばかりだが。
「ざけんなクソガキ共が!」
 蹲った子どもたちに、頭上から百々瀬が怒鳴りつける。
「なぁにが別に良い、だ。何が良いってんだ答えて見ろ!」
「そ、それは、僕たちのことなんて」
 涙目になりながらも、最初に殴られた子どもが、懸命に答えようとして

 ゴチッ

 再度拳骨が落ちて強制的に黙らされた。
「何が『僕たちのことなんて』だ! 俺たちは『なんて』扱いされるクソガキ共を助けてるってのか! あぁ!?」
 百々瀬はそう叫び、エルを抱きかかえ、彼らの前に見せつけるようにして掲げる。
「そんな奴らを助けるために、こいつは命張ってるってのかよ!」
「だって、だって、しょうがないじゃないか。僕たちは、この世にいてはいけないんでしょう? 何の価値もないから、生きてるだけで罪なんだから」
「笑わせんなクソガキ。いいか、この俺がお前らに教えてやる。人間はな、誰も彼もが生まれた瞬間に罪を背負うんだよ。お前らだけじゃねえ。お前らをここに送った連中も、世間で知らん顔して生きてる連中も、俺もお前もこいつらも全員だ。それでも俺たちはここにいるんだよ。そうやって人間は生きてるんだよ。罪を帳消しにして余りあるくらいの結果を残すためにだ! 価値がねえ? 当たり前だ。はじめっから価値のある奴なんぞいるわけねえだろが! 価値ってのはな、自分でこさえるしかねえんだよ! 自分が生きて歩いた分が、自分の価値なんだよ。お前ら自分の意志と足で歩いてもねえくせに自分の価値を語るんじゃねえ!」
 百々瀬は子どもたちを睨みつけた。
「でも、無理なんだろ?」
 他の子どもたちも立ち上がり、百々瀬を囲む。
「逃げられないんでしょ?」
「どこにも帰るばしょなんてないんでしょ?」
「どうがんばってもむいみで、死ぬしかないなら、もう、諦めるしかないじゃない」
 彼らは一様に笑っていた。今まで、そうやって少しでも相手からの悪意を減らそうとしてきたのだ。笑顔は彼らにとって自分の身を守る武器であり、その鋳型で作られたような鉄の仮面は彼らの心を内側に抑え込む壁だったのだ。だが今、百々瀬の拳骨による痛みが、彼らの心の壁に一時的にヒビを入れたのだろうか。胸の奥から湧き出る何かが、子どもたちの目から噴き出していた。押さえつけられてきた子どもたちの初めての感情の吐露だった。
 そんな彼らを、百々瀬は鼻で笑い飛ばした。
「決めたぜ。これまでは頼まれたからお前らを助けようとしてた。けど、これからは違う。俺自らの意志でお前らを完璧に脱出させる」
 百々瀬は宣言した。己の言葉に責任と絶対の自信を持つ男からの言葉に、子どもたちは聞き入った。
「お前らに聞くぜ。俺は何者だ?」
「え?」
 子どもたちがきょとんとした顔で彼の顔を見返す。
「元の世界では泣く子も黙る大悪党、かの?」
 にや、とヤスじいが答えると「その通り」と返答が来た。
「お前らに一つ、悪党のルールを教えてやる。あらゆる悪党に共通するルールだ。それは、正義の味方以上に諦めないんだ。諦めたらそこで殺されるからだ。悪党は悪を成すために生きなければならない。正義は誰かがその意志を引き継ぐからまだましだ。悪党の悪は、そいつ一人きりだ。死んだらそいつの悪は終わる。だから悪党は諦めない。俺は諦めてやらない。そして、諦めの悪い俺は、いつだって自分の願いを力尽くで叶えてきた。今回だって必ず叶える。お前らをここから助け出せばどうなると思う? まず、あのクソ生意気な放送しやがった連中とこの病院の信頼は一気に失墜して世間から袋叩きに遭う」
「ざまあみろ、じゃな」
 百々瀬の言葉に、ヤスじいは合いの手を入れる。
「そして、能力者は捕まえても簡単に逃げることが出来る、それどころか、これまでされるがままだった能力者たちが反旗を翻したと世間の皆々様は思うだろう。お前らを迫害することで保たれていた仮初の平和は終わりを告げ、この世界の安全神話は崩壊して治安が不安定になって暴動が起きる」
「悪党の本領発揮じゃな」
「ああ。ようやく分かったぜ。俺がここで成すべき悪を。この世界を混沌の坩堝へ放り込むことだったんだ。お前ら能力者を生かすことで、だ。以上の理由によって、俺はお前らを全員助けるし、これから先出会う能力者たちを助けてこの世界を大混乱に陥れる。俺こそが悪、世の平穏を乱し常識を嘲笑い脅かす大悪党だ。だから言えよ。お前らが助けてほしいと言うなら、生きたいと言うなら、心から願うなら。お前らが無理だ無茶だ不可能だと嘆くその常識、この俺が見事ぶっ潰してやる。だから、言えよ」
 子どもたちは各々顔を見合わせ、それからヤスじいを見た。良いのか。その言葉を、自分たちは本当に言っても良いのか。ヤスじいは優しく微笑み、頷いた。当たり前だ、と。当然の権利だと。声高に叫べと。
「まだ、生きたい」
「生きて、色んな所に行きたい」
「もっとみんなといたい」
「たくさんおいしいものがたべたい」
「みんなとあそびたい」
「「「だから」」」
 ―助けてください―
 真摯な願いは、この世界にとっての悪に届く。悪は口の端を吊り上げ、牙を剥いた。
「任せておけ。悪党の本気、見せてやるよ」
 その時だ。地鳴りのような音が響き、突風が吹き荒れた。木々が折れんばかりに揺れ、砂埃が視界を覆い隠す。
「なん、じゃ、こりゃ・・・」
 最初に気付いたのはヤスじいだ。砂埃が収まり、顔を上げたところでそれに気づいた。やがて、子どもたちもその『異変』に気付く。彼らの方を向いていた百々瀬だけがまだ気づいていない。彼らは、自分の後ろの光景を、信じられない物を見るような、呆然とした顔で見ているのだ。
「何だってん・・・・」
 そして、振り返った百々瀬もまた、固まった。
 
 海が、割れていた。
 
 まるで悪党の本気に恐れをなしたかのように、何万トンでもきかない莫大な量の海水が百々瀬の前に道を開けていた。

憎しみと、その反対

「何だあれは!」
 ラムセスは手に持っていた盃を取り落しながら、窓に張り付いた。何人もの能力者たちの希望を吞み込み絶望に沈めてきた海が、今は王の凱旋を祝う群衆のように能力者どもの前に道を作っている。
 ありえない。その言葉がラムセスの脳内を占めていた。これほどの能力を有している能力者など今まで存在しない。かつて能力者摘発の発端となった、世界最悪の能力者ですらここまでの力はなかった。では、あそこにいるのは何者だ。自然すら屈服させるその能力とは何だ。
「・・・まさか!」
 考えられるのは、どんな願いでも一つだけ叶える「一つだけの奇跡」の能力。あの娘の能力に違いない。それをこんなくだらないことに使ったというのか。
 驚愕から怒りへと感情が推移していく。その力は自分の願いを叶えるために使われるべきだったのだ。自分のために使われてこそ価値がある。能力者どもは皆すべからく自分のために役に立って死ぬべきなのだ。それが能力者どもの唯一の価値なのだ。なのに、やつらはその役目を忘れて、あろうことかこの島から逃げ出そうとしている。
 許されるはずがない。そんな勝手なことをして良いわけがない。
「ラムセス殿!」
 銃を抱えていた会員の一人が焦ったように呼ぶ。それを見て、ラムセスはハッとなる。そうだ、まだゲームは終わっていない。
「すぐに車両の準備を致します。皆さまはそれに乗り、逃げたやつらを追ってください」
 ラムセスは会員たちに向かって声を張った。ここで動揺を悟られるわけにはいかない。醜態を曝せば、彼らの口を伝ってすぐさま悪評は広がるだろう。それは、ラムセスのビジネスに影響を与えるどころか、彼の院長としての地位も危ういものにする。
「予想外のことが起こりましたが、なに、心配はいりません。少し趣向が変わるだけです。どのみち奴らは徒歩、こちらは車。平野でガゼルを追うのと同じです。走行しながらの射撃になりますので難易度は高めですが、いかがですかな?」
 ラムセスの言葉を聞いて、会員たちの顔に笑顔が戻る。ゲームが中断されるわけではないことに安心したのだ。会員たちの機嫌が戻ったのを見てほっと胸をなでおろしたラムセスは、すぐにサレムに連絡を取る。が、電話は不通。
「肝心な時に役に立たん!」
 憤りながら、島に残っているわずかな部下たちに連絡するが、これもまた不通。
「あいつら、サボっているのか?」
 確かにこのゲームは定例化しており、監視の目を緩めるように指示はしてある。仕事をしなくてもいいのと同義だ。最近では、ゲームの開催日だけは酒を持ち込んでいる者もいるらしいと小耳に挟んだ。そのせいだろうか。
 どいつもこいつも、俺を苛立たせてくれる。あいつらは減給だ。荒々しく廊下を踏みしめながら、ラムセスは管制室のドアを開いた。
「貴様らァ! ・・・・・・え?」
 ラムセスは声を失った。
 彼の目の前に広がるのは、赤。管制室で施設内を監視していたはずの部下たちは、全員血の海に沈んでいた。そこかしこに彼らの血が吹きつけられていて、まるで下手くそなスプレーアートのようだ。
「ど、どういう」
 口元を手で押さえて、ラムセスは後ろによろけた。医者としての意地か、こみ上げる吐き気だけは我慢できた。
 一体何が起きたというのだ。混乱の極みにある頭で必死に考える。現場を見るに、争ったような跡は見当たらない。部下たちは、全員武器を抜いた様子がない。武器を抜く間も与えられず殺されたというのか? もう一度、変わり果てた部下を見る。服に血は染み込んでいるが、刺し傷や銃による傷は見当たらない。外傷が全く無いのだ。
 ならば、考えられるのは毒か、もしくは病原菌などによる感染。
「~~~っ!」
 慌てて口を塞ぎ、管制室のドアを閉める。もし仮にバイオハザードだったとしたら緊急事態だ。ゲームどころではない。会員たちを速やかに脱出させなければならない。彼らに対する補償金を支払ってでも速やかに脱出させなければ、彼ら一人が病気にでもなったら自分の命すら危うい。それだけの大物たちがここに集っているのだ。
 急いで院長室に戻らなければならないときに、胸ポケットから呼び出し音が鳴り響く。走りながら電話を取り出し耳にあてる。
「院長、申し訳ございません。電話に出ることが出来ませんでした」
 聞こえてきたのは、のんきなサレムの声だった。沈静化していた怒りが、その声によって一気に活性化し、体中を埋め尽くす。
「貴様、この大変な時に何をしていた!」
「申し訳ございません。少々雑用を済ませておりまして」
 悪びれない調子でサレムが言う。その声に再び怒鳴り返そうとしたが、そんな場合ではないと思いとどまる。こいつならいつでも殺せる。それよりも会員たちの身の安全が最優先だ。
「もういい! 今すぐ脱出の用意をするよう、会員たちの部下に伝えてこい。控室にいるはずだ」
「何か、あったんですか?」
「貴様は言われたことだけやってればいい! 口答えせず、さっさとしろ!」
「・・・わかりました。しかし、困りましたね」
 サレムのその言葉に、ラムセスは怪訝な顔をした。
「何が困ったって言うんだ」
「いえ、それが、控室にはもう誰もいらっしゃらないのです」
「どういうことだ。連中が、自分の主を置いて逃げたって言うのか?」
「いえ、そういう訳ではありません」
「じゃあどういう訳だ!」
「誤解を与えるような言い方をして、申し訳ありません。正確には、控室に『生きている方』はいらっしゃいません」
 再び、ラムセスは声を失った。構わず、サレムは続ける。
「分かりやすく申し上げますと、全員死んでいらっしゃいます。口から、鼻から、耳から、毛穴から、全身のありとあらゆる穴から血を垂れ流して倒れています。ぱっと見ですが、おそらく助からないでしょう」
「な、な・・・な、ぁ・・・!」
「そうそう、おそらく院長は会員の方々のところに戻ろうとしてらっしゃるのですよね。差し出がましいかもしれませんが、御忠告を。速く戻られた方がよろしいかと」
 会話の途中で、ラムセスは電話を壁に投げつけた。言いようのない恐怖に駆られたが故の反射的な行動だ。ガシャンと音を立てて破片をまき散らしながら、電話は床に落ちた。
 震える足を必死で進めて、院長室まで戻ってきたラムセスを待っていたのは、待たされた怒りで顔を紅潮させた会員たちではなく、自らの血で顔を赤くした会員たちの死に顔だった。足から力が抜けたラムセスはその場に尻もちをついた。抑えてきた物を盛大に吐き出す。胃の中の物をすべて出し切っても、胸の中にある何かが取れず、何度もえずいた。
 どれほどそうしていただろうか。コツ、コツと廊下を誰かが歩いている。この死人しかいない中で歩けているのは。
 ラムセスは足音の方に目を向けた。同時に、足音も止まる。
「どうかなさったんですか。院長」
 別れた時と全く変わらない微笑を浮かべて、サレムが立っていた。先ほどこの笑みを見たときは、薄汚い、汚らわしいものを見るようだった目が、今では恐怖に慄き、限界まで見開いている。
「さ、サレム、き、きさ、貴様が・・・」
「僕が、何でしょう。どのことで尋ねられているのかよくわかりませんが・・・。そうですね。管制室にいたあなたの部下を殺したのは、というなら、答えはイエス。僕です。控室に待機していた会員の部下を殺したのも、ええ。僕ですね。そして、その会員を殺したのも、はい。お察しの通り、僕です」
「ど、ど・・・」
「どうやって、ですか? ああ、知らなかったんですね。僕の能力を。無理もない。世にも珍しい、後天的に能力が変化した例だそうですよ。元は半径三百メートル以内にいる生物の気配を察知するだけの能力だったのですが、この施設に連れてこられてから少し変わりまして、半径三百メートル以内の生物を全て殺す力『降りかける厄災』となったんです。これは、僕が相手に対する憎しみが深ければ深い程、相手は苦しんで死ぬ、というものでして」
 にこにこと、この施設内の人間を虐殺させたことを告白するサレム。三百メートル以内にいたら死ぬ力。そんなものを持つこいつと、こんな近くにいる。
 人の声とは思えないような悲鳴を上げて、ラムセスは院長室に飛び込んだ。這いずりながら、倒れ伏した会員たちの屍を越えながら、その先にある執務室に飛び込んだ。
「逃げても無駄ですよ」
 その後を、サレムは追って部屋に入った。
「来るな!」
 同時に、サレムの後ろに合った木目のドアに穴が穿たれる。
 ラムセスが拳銃を両手で構えていた。警告ではなく殺すつもりだったが、震える手のせいで照準が合わなかった。あぶないなあ、と苦笑しながらサレムはそれでも歩みを止めない。
「来るなと言っただろうが!」
 再度発砲。今度の弾はサレムの肩を掠めた。少しよろめくが、致命傷には程遠いかすり傷だ。
「無駄ですよ。僕を殺しても、能力は止まらない。すでに災厄はあなたにも降りかかっています。僕の憎しみがどれほど薄くても、必ず死ぬ、そういう能力です。発動した際にあなたも僕の半径三百メートル以内にいたのですから、手遅れです。証拠に、ほら」
 サレムが指差すのは、ラムサスの右腕。わけもわからず、自分の腕を見ていると

 どろり

 アイスが熱で溶けるように、自分の右腕、ひじから先が溶けた。原型のなくなった腕が銃と共に床に落ちた。骨すら残っていない。
 ラムセスが絶叫を上げた。右腕を押さえようとして、左腕が動かないのに気付く。気づけば、左腕もすでに肩から先がなかった。痛みすら感じず、失った事すら気づかなかった。
「ああああああああああああああああああああああ!」
「大丈夫ですか? まあ、腕が無くなったら、そりゃ大丈夫じゃないですよね?」
 言いながら、サレムは窓の外に目を向けた。その先には、真っ二つに割れた海がある。上手く行って良かった。この凄惨な光景を作りだした男の胸を占めるのは、安堵だ。
 この施設が海に囲まれているのはサレムでさえ教えられてなかった。だから百々瀬たちが岸壁で呆然と立ち尽くしていた時は本当に焦った。自分がラムセス側に潜り込んでいるスパイだと打ち明けられれば良かったのだが、いくらなんでも危険が大きすぎた。脱出の情報だけを漏らし、後は何とかしてくれるはずと百々瀬を信じて、その読みは当たった。流石はエルが見込んだ最強の王子様。まさか海を割るとは思わなかったが。そして、予定通り自分から三百メートル以上離れたところで合図が来た。その瞬間、サレムは生まれて初めて能力を使った。エルら子ども達が一緒にいては絶対に使えない、奇跡とは真逆の力。半径三百メートル以内にいる生物を『見境なく』死に追いやる。それは、当然自分も含まれる、一回こっきりの切り札だった。
 これが、サレムが百々瀬に語った彼の覚悟だった。逃げ出した百々瀬たちをラムセスたちが追わないように、自分はここに留まり奴らを止める計画だ。
「彼らはきっと逃げ切るでしょう。モモセさんなら、きっと彼らを導いてくれる」
 窓から離れ、ラムセスへ向き直る。
「どれほどこの日を待ちわびたか、あなたにはわからないでしょうね。僕がどれだけあなたを殺したかったか」
 いつの間にか両足も失い、床に転がっていたラムセスを見下ろしながら、サレムは言った。死んでもおかしくないような状態で今だ意識があるのは、ひとえにサレムの能力のせいだ。最も憎い相手は、一息には殺してやらない。
「俺が、憎い、だと。ふざけるな。俺が貴様らに何をした!」
 もはや観念したか開き直ったか、首を回してラムセスが言った。その物言いに、サレムは苦笑を禁じ得ない。この期に及んで何を言うかと思えば、自分は能力者たちに何もしていないような口ぶりだ。
「貴様らが死ぬのは当然の話だ。これだけ恐ろしい能力を隠し持っているのだから、迫害されてしかるべきだ。管理されてしかるべきだ。俺はこの世界のために貴様らを管理してやっていたのだ。崇められこそすれ、憎まれる覚えはない!」
「そうですか」
 では、とサレムがポケットから寄生木の根を取り出した。
「では、あなたの言う管理とは、僕の妹にこんな毒を飲ませて飼い殺しにするということですか?」
「そ、それは、貴様らがそれだけの力を持っているから、仕方ない処置だ。それに、このゲームが終われば解毒剤を渡す予定だった」
「はて? ヤスじいの話では、この毒は解毒薬がないという話でしたが」
「あ、あんな医療から離れて久しい爺と、世界の医療の最先端を知る俺の言う事の、どちらが正しいかぐらい、簡単に判別がつくだろう!」
「ええ、そうですね。ちなみに知ってました? あなたは嘘を吐くとき、一瞬目を斜め下に向ける癖があるんですが」
 そう言われて、ラムセスはたじろいだ。自分ではわからなかったが、まさか今。
「ええ、見事に」
 心を読んだかのように、ニッコリと、いっそ爽やかな笑みでサレムが肯定した。
「それに、あなたはエルだけではなく、イスラまで傷つけた」
 ビクリ、とラムセスの肩が震えた。
「彼女の優しさにつけこみ、逆らえばエルの薬を止めると脅して、彼女を襲った。それも、あなたの言う管理とやらですか?」
「そ、それは、それは」
「それでも彼女は、僕たちの前では気丈に振る舞っていた。けど、それ以降、触れられるのを極端に恐れるようになった」
 サレムの顔から表情が消える。感情が消える。
「僕は、あなたを許さない。僕の大切な人を二人も傷つけた。殺しても殺しても、殺したりない位だ。さて、僕の予想ではそろそろあなたに痛覚が戻る」
 サレムの言葉が終わるか終らないか辺りで、壮絶な痛みがラムセスを襲った。痛みの信号が多すぎて脳が破裂すると錯覚するほどだ。それでもラムセスは気を失うことすら許されず、苦悶にあえいだ。息をしただけで器官が軋みを上げる。身じろぎひとつで全身が切り刻まれているかのような激痛が走る。
「うるさいな」
 足の先で、サレムがトンとラムセスを押した。それだけで、ラムセスは死にたくなるような痛みに襲われる。
「彼女たちの苦しみ、今まで殺された能力者たちの痛みに比べれば、軽いものだよ」
「ふ、ふざ、ふざけるな!」
 血を吐きながら、ラムセスが叫ぶ。
「イスラを傷つけたのは、貴様も同じ! 貴様は、あの女が俺に抱かれているのを知っていて、苦しんでいるのを知っていて無視していた! 妹の薬欲しさに、イスラを生贄にしたのだ! く、くくく、知っているか! あの女は貴様のことを愛していた! 俺に抱かれながら、貴様の名を呼んでいた! その気持ち、貴様も知っていたんじゃないのか! あの女を傷つけたというなら、貴様だって!」
「そうだね。僕も同罪だ。だから、安心してください。あなたが死んだ後に、僕も死ぬ」
 サレムが最も憎んでいるのは、ほかでもない自分自身だ。だから、彼にとってこの能力は非常に都合がいい。愛する人を傷つけた罪の重さを、痛みとして実感できるから。
 やがて、ラムセスのうめき声が消えて、部屋にはサレム一人が残った。
「ミッション、コンプリート、かな」
 どさ、とサレムは院長の椅子に深く腰かけた。これで、いつ死が訪れても悔いはない。百々瀬やヤスじい、そして、彼女がいれば、子どもたちも安心だ。これから訪れる痛みなど、何一つ恐れることは無い。
 目を閉じて、死を待つ。どうせ死ぬ、百々瀬の言葉がよみがえる。そうだね、モモセさん。だから、生きて何をするかが重要なんだね。ようやく、意味が分かりましたよ。
「モモセさん。僕は、やりましたよ」
 キィ、と扉が開く音がした。
 風か? それとも空耳か? 閉じていた目を薄く開けて、
「えっ!」
 目の前にいる人物を認めて、見開いた。
「イスラ!」
 目の前に彼女がいた。
「何で、ここに・・・」
 彼女は、管制室の電気制御基板を破壊した後、外に逃げ出したはずだ。万が一にも追いかけられないよう、シャッターを開かないようにしてから、確かに百々瀬たちの後を追ったはずだ。自分が見送ったのだから。
「どうせ、こんなこったろうと思ったのよ」
 つかつかとサレムに近寄り、イスラは右手を振った。彼女の平手が、サレムの頬を叩く。
「嘘吐いてたわね。自分『以外』の人間を殺す能力だって。自分も殺す能力なんて、聞いてないわ」
「それは、言ってないからだけど・・・そんなことより、何でここに君がいるんだ! まさか・・・」
「そうね、普通に考えたら、私もあなたの能力圏内にいたわね」
「馬鹿!」
 イスラの両肩を掴む。
「何で残ったんだよ! ここにいたら死んじゃうんだぞ! 分かってるのか!」
「分かってないのは、あなたの方よ!」
 もう一度、イスラはサレムの頬を叩いた。二度目の平手は予想以上の威力で、サレムはたたらを踏んだ。
「私は、あなたと一緒に生きたいの。生きていたいの。最後のその時まで。そんなことも言わなきゃわからないの?」
 イスラがサレムの胸に飛び込んだ。二度と離さないよう、しっかりと彼の体を抱きしめる。
「死ぬときは一緒。これだけは譲れない。たとえあなたの頼みであっても。この我儘だけは通させてもらうわ。神様にだって邪魔させないから」
 ぎゅっと、両腕に力を込める。茫然としていたサレムの体に、彼女の体温がじんわりと染み渡る。ぎこちない動きで、サレムもまた、彼女の体を抱きしめた。
「ごめん」
「何を謝るの?」
「僕は、君を・・・」
「いいの。もう、いいのよ」
 すこしして、イスラが「あ、やっぱダメ。許さない」と言って体を離した。
「イスラ?」
「このままじゃ死ねない。だって、私のファーストキスこのクソ親父に奪われたのよ。何回口ゆすいでも気持ち悪いったらないわ。だから、あなたが上書きして」
「へ?」
「だぁかぁら! この親父に汚された私の記憶を、あなたが上書きしなさいって言ってるの! そこまで女に言わせる普通!?」
「ご、ごめん」
 ようやく、サレムも何をしろと言われているか理解した。今度は優しく、彼女の両肩に触れる。
「お、良い感じね。じゃあ、後はキスの前に、決め台詞」
「き、決め台詞?!」
「当たり前でしょ?」
 突然の無茶ぶりに、サレムは悩み
「好きです」
 いたって普通の、だけど正直な気持ちを伝えた。
「ギリギリ及第点ね」
 顔を赤らめながらイスラは彼の背に手を回し、少しだけ背伸びをした。口ではそう言いながらも、ハートに直撃したのは明白だった。
「次はもっとカッコいいの、期待してるから」
 次など来ない、二人は理解していたが、それでも次を楽しみに出来るほど、二人は今、幸せだった。
「努力するよ」
 影が、重なる。


 どれくらい、二人で寄り添っていただろうか。
「・・・・ねえ」
「うん」
 サレムも、イスラの言いたいことが分かっていた。
「これ、いつ死ぬの?」
 待てど暮らせど、想像していた痛みも死も訪れない。
「おかしいな。そろそろ来ても良いころなんだけど」
 来ないにこしたことはないが、ヤスじいの診断に誤りはない。彼がサレムの能力が無差別に死をもたらすと診断したのなら、間違いなくそうなる。そういう能力だからだ。
『あー、あー。聞こえるか?』
 そんな時、どこからか百々瀬の声が聞こえた。
『サレム、イスラ。聞こえてたら応答しろ。可及的速やかに、だ』
 音源は、一人の会員の死体が持っていた無線機からだった。サレムは慌てて無線機を手に取る。
「き、聞こえます。百々瀬さんですか?」
『聞こえてたなら早く取らねえか馬鹿たれが!』
 怒声が返ってきて、思わず耳を塞ぐ。
『まあいい。イスラもそこにいるな? じゃあ早く追ってこい』
「ちょ、待って待って!」
 サレムの持っている無線機に口を近づけ、イスラが答える。
『何だよ。まだそこで何かあるってのか?』
「追いかけるなんて無理よ。だって、私たちもうそろそろ死ぬんだもの。私たちのことは構わず逃げて」
『ああ、アレか? サレムの能力のせいか?』
「そうよ。私も効果範囲にいたから、もう助からない。そろそろ死が」
『あ、それ、いくら待っても来ねえから』
 あっさりと百々瀬は言った。彼らがさっきまで抱いた決意や想いなど何の意味もない紙屑だと言わんばかりに、百々瀬は彼らの常識をひっくり返した。
「え、ちょ、どう言う事よ!?」
『詳しくは儂から話そうかの』
 向こうの相手がヤスじいに変わった。
「ヤスじい、一体どう言う事? 僕の能力は自分も含めて殺すものだと思ってたけど」
 サレムが尋ねる。
『おう、お前さんの能力『降りかける災厄』は、確かに自分を含めた者に死をもたらす。そしてその死の苦しみは、お前さんの憎しみによって変わると。これに間違いはない。で、ここからは言うのが面倒、オッホン、説明が難しいので伝えなかったのじゃが、実は逆に、愛する者には効かんのじゃ』
 愛する者には効かない、サレムはイスラの顔を見る。今さっき、正に愛を伝えたところだ。ならその理論で行けば、イスラは死なない。ならサレム自身が死なないのは何故だ?
『そこからは少し推測になるんじゃが、お主が心から愛する者が、お主を心から愛している場合、その無効化がお主にまで行き渡るんじゃないかと思うんじゃ』
「そんな、ことって」
 なんという、奇跡だろうか。互いに顔を見合わせる。まだ信じられない。信じられないが、生きているということが何よりの証拠だ。互いを愛しているという、これ以上ない位の確固たる証明になる。
『だから、あれだ、お前らが若さに任せて○×▽■して&!$%#で☆△●Дした結果、お前らは生きてるってこった』
 青少年たちには少々刺激の強い百々瀬の言葉が無線から流れ、サレムもイスラも顔を真っ赤にして俯いてしまった。返答が返ってこないので
『え、お前らまさか、それ以上の―(以降は過激が過ぎる特殊な四十八プラスαのプレイが立て板に水を流すがごとく垂れ流されるので割愛させていただきます)―とかしちゃったのか?』
 百々瀬の横から『○×▽■ってなに~』『サレム兄ちゃんたちは&!$%#してるの?』と意味が絶対分かっていない子どもたちの無邪気な問いかけが聞こえている。
「あ、あ、あ、あんた! 子どもの前でなんてこと喋ってんの!」
『うっせえな。いずれ知るんだ。別にいいだろうが。で、やったのか?』
 からかう様な百々瀬の問いに「うっさい! まだよ!」と返すイスラ。「クク、清いねえ、プラトニックだねえ」返ってくる百々瀬の笑い声にイラつきながら、イスラは言う。
「子どもたちに悪影響よ! そういうのはね・・・」
『あのな、イスラ』
 うんざりした様な百々瀬の声が、イスラの説教を止めた。
『子どもの教育がしたけりゃ、早く追いつけ。こちとらエル抱えたままの移動だからすげえしんどいんだよ。車の一台くらいかっぱらってきな。話はそれからだ。いいか、隣のサレムもよく訊け。早く来ないと、お前らの大事な大事な子どもたちに、お前らが特殊なプレイも好んでやる、とんだエロエロカップルだと言う。言い触らす。怖いぞ、尊敬のまなざしが、一気に氷点下だ。こいつらが思春期を迎えたら、お前ら口きいてもらえなくなっちゃうんじゃないか?』
「あ、あんたねえ!」
『それが嫌なら早く来い』
 ぶつ、と無線は切れた。何の応答も返さなくなった無線機を投げ捨てる。
「じゃあ、行く?」
 照れくさそうに、イスラが言った。
「そうだね。これ以上時間を与えると、モモセさんが何を子どもたちに教えるかわからないから」
 サレムが手をさし出す。その手をイスラは取った。

奇跡を生み出す者

 シナイ隔離病院閉鎖。
 そのニュースは世界中を震撼させた。
 これまでどれだけ強力な能力者であっても、一人の脱出も許さなかった監獄が、脱出者を出した。また別のニュースでは、真っ二つに割れた海の底を、一台のトラックが大手を振って走っていくところを生中継で映し出していた。
 人間は能力者に勝てる。それが、能力者が存在するマステマという世界の平穏を維持していた。人間は自分よりも下、弱い立場の存在がいるとわかれば安心できるからだ。だがその事実が覆されようとしていた。
 古来より、人間は自然に翻弄されてきた。いかなる技術を持とうとも、自然災害によって大きな被害を受けてきた。
 自然を屈服させてしまう能力者に、人間は勝てるのか。映像を見ていた誰もが同じ考えを抱いた。
 また、その生中継の音声が途中でジャックされた。おそらく、トラックに乗っていた能力者の能力だと思われている。
『あー、聞こえるか、世界中の自称普通の、善良な一般人諸君。こちら、えー、チャールトン・ベール、今、お前らが見ている光景を創りだしてる者だ。俺たちは今、まさに、攻略不能と言われたシナイ隔離病院を脱出してきた。つまり今日、お前らの安全神話は崩壊した。おそらく今、目の前を走るトラックを爆撃なりなんなりして自分たちの力を見せつけようとか? 安全であることをアピールしたいと思ってる、自称世界の平和を維持している連中がいるかもしれないが、一応善意から止めておけと忠告してやる。金の無駄だ。俺の力が海を割るだけだと思ったら大間違いだぜ。どんなことが出来るかは想像にお任せするが、嘘だと思うなら試しに撃ってみな。そのことごとくをねじ伏せてやる。あ、そうそう。もう一つ。俺は、ここで一体何が行われていたかを全て知っている。詳しく話しても構わねえが、それだとその自称世界の平和を維持している連中の中から社会的に抹殺されちゃう奴がでるなあ。シナイ病院の狩猟クラブ会員様、とでも言えばわかるかな? バラされたくなきゃ、このまま他の連中を押さえとけ。お前らが殊勝な態度でいるのなら、こちらも交渉の席に着く心の準備くらいはしてやる。繰り返すが、妙な真似は止めておけ。こちらには相手の考えを読める能力、電波をジャックする能力、その他もろもろの能力がある。いつでも、お前らを疑心暗鬼の人狼ゲームにご招待することもできるし、問答無用で全滅させることも可能だ。
 だいたいさ、お前ら頭悪いんじゃねえの? 能力者は日に日に増えてる。後天的に能力に覚醒する者も少なくない。ってことはだ、いずれ人間は何らかの能力に目覚めるってのが当たり前になる。能力者はマイノリティからマジョリティに変わる。いずれ、必ず。その時、今能力者は危険だと思っているお前らの常識は覆される。ビジネスは勝ち馬を予想して乗るのが常套手段だが、今のお前らは、勝ち馬に乗れていると言えるかな? 汝隣人を愛せよ、なんぞ口が裂けても言えねえが、いずれ自分の身に降りかかるかもしれない火の粉は、今のうちに身の回りから火元を無くしてしまうことをお勧めするね。じゃ、世界中のお偉いさん。良い返事を期待してるぜ? 忘れるなよ。世界中のどこにでも、俺の目と手は伸びているってことをな」
 この放送の三日後、マステマの政府は、能力者に対する迫害を止め、普通の人間と等しく扱う法律を制定した。また世間も、今までの反能力者の姿勢を百八十度変え、誰も彼もが能力者も同じ人間、同じ仲間だと声高に叫びだした。

「そして、世界は少し変わった、か」
 感慨深げにヤスじいは呟き、窓の外の空を見上げた。
 あの脱出劇から一年。彼らのもとには、今まで世間から身を潜めて生きてきた能力者たちが次々と集まり、一つの街を形成するまでになった。世間では迫害や偏見は見た目上は無くなってはいるが、それでも生き辛いのは相変わらずらしい。表面上は仲良くしていても、やはり世の中の人間の心から能力者に対する恐怖と嫌悪は色濃く残っており、それをどうしても能力者側、特に子どもの能力者は鋭く感知してしまう。表面と中身のギャップに参ってしまった能力者たちは、自然とヤスじいたちのもとに集ってしまったのだ。
 それはどうしようもない。こればかりは長い時間をかけて少しずつわだかまりを溶かしていくしかなかった。ヤスじいたちは、小さな診療所を開き、心と体のケアをする傍ら、新しく訪れる能力者たちの住まいや職の世話、僅かながらも生まれ始めた偏見のない人間との交渉など、多岐にわたる仕事をこなしていた。
 だが、いつか溶ける日が来る。ヤスじいはそう確信している。
「おいこら、爺」
 物思いにふけるヤスじいを、ぶっきらぼうな声が呼ぶ。振り返ると、腕組みした百々瀬がいた。
「こんなところで何サボってやがる」
「サボっているのではない。一息入れておるのじゃ」
「どう違うんだよ」
「サボるのは、仕事を放棄することじゃ。一息入れるのは、仕事を効率的に行うために、疲れた体を一時休ませるためのものじゃ。お主だって、長く走れば疲れて一度立ち止まるじゃろう? それと似たようなもんじゃ。多くの仕事を行うために、少しの休憩は大事なんじゃよ」
「屁理屈こねてんじゃねえ。てめえそう言ってさっきも茶ァしばいてたじゃねえか」
「バレとったか」
「バレてんだよ。おら、二息も入れたんだからさぞかし効率的に仕事すんだろうな?」
「お主は老人を労わるということを知らんのか。まったく、嘆かわしいことじゃ」
「うっせえ。俺の中では性別によって診断時間を変えるような爺は労わる老人のカテゴリに入らねえんだよ」
「心外じゃな。そんな不公平なことしとらんぞ? 儂が女性の時だけ長く時間を取るようなエロ爺に見えるか?」
「ほう、そうかい。じゃ、今待合室にいるあどけない顔してるくせにバスト九十を超えてそうなナイスバディの十九歳はサレムに任すか。擦り傷だけっぽいし、簡単な消毒くらいならあいつでも大丈夫だろ」
「あいや、待たれよ。小さな傷といっても馬鹿には出来ん。きちんと、儂が慎重に診てしんぜよう」
 すたこらとヤスじいは戻っていった。エロ爺が、と悪態をつきながら、百々瀬は口の端を吊り上げる。嘘はついてない。バスト九十を超えるあどけない顔した十九歳であることに間違いはない。ムッキムキのナイスバディで筋肉キレまくりの男なだけだ。
「モモセさん」
 入れ替わりにサレムが現れた。
「ヤスじいはいました?」
「おう。今、十九歳の傷ついた少年の心と体をケアしに行ったぞ」
 遠くから「騙したなモモセェ!」と血の涙を流してる様がありありと浮かぶような慟哭が響いたが、百々瀬は無視した。
「で、何か用かよ。ようやく、俺が元の世界に戻る方法が見つかったか?」
「残念ながらそれはまだ。代わりに、政府側の交渉団の方が、間もなく到着するそうです」
「なんだよ、またあのタヌキ爺どもの相手を俺にしろってのかよ」
「お願いします。どうしてもモモセさんにも同席してほしいのです。幾ら理解者が増えつつあるとは言っても、まだ少数。訪れる交渉団も、大多数の能力者に対して否定的な人たち、あるいはその息がかかった者たちです。我々の中で、彼らの思惑を見抜けるのはモモセさんしかいませんから」
「あのな。そろそろお前らだけでそういうの回す事考え始めるべきなんじゃねえか? そりゃ俺も、あの威張りくさって上から目線で話ぶち込んでくる奴らの鼻を明かすのは嫌いじゃない。痛快なのは否定しねえ。けどな、もともと俺は部外者も部外者、別世界の人間だ。お前らが脱出するので依頼は完了。さよならバイバイなんだよ」
「それさあ、そろそろ諦めたら?」
 サレムの後ろから、イスラがニヤニヤと意地悪い笑みを浮かべながら現れた。
「あんたそれずっと言ってるけど、全然実行するそぶり無いじゃない。あれでしょ、口ではいやだいやだと言いながら、案外ここでの生活気に入り始めてんでしょ」
「ば、バッカ野郎! んなわけあるかよ!」
「またまた、そんなこと言って。あんたさ、自分の街での評価知ってる?」
「あ? そんなもん、あれだろ。怖い、とか近づきがたい、とか、そういう奴だろ?」
「ブーッ! 大外れ!」
 イスラは体の前で手をクロスさせて罰を作り全否定した。
「悪党演じてるとこ悪いんだけど、街の人たちの評価すこぶるいいわよ。例えば『口は悪いけど最終的には何とかしてくれる』『素直じゃないところがカワイイ』『なんだかんだ言って結局助けてくれる最高のヒーロー』とかよ?」
「う、嘘だろ? それどこの統計だよ。どうせ面白意見ばっかり寄りぬいたんだろ?!」
「ざんねーん。大多数の意見ですぅー。私としては正直あんたのことなんかどうでも良いけど、こんなに皆に好かれて必要とされてんだから、ずっとここに居れば? ねえ?」
 イスラが話を振った先、そこには満面の笑みでヘッドバンキングしているエルの姿があった。
「ずっといてよ! そしたら、わたしがモーセさんとけっこんしてあげるから!」
「何でてめえも上から目線なんだよ!」
「だって、ぜったいわたし、いい女になるわよ?」
 ほらほら、と、どこで覚えたか、エルは右手を後頭部に、腰に左手を当てたセクシーなポーズでウインクした。
「おかいどくよ?」
「うっせえ! 誰だこいつにこんなしょうもないこと教えたの! ますますクソガキになりやがって。一年前のしおらしく「もう死ぬんでしょ」とかぬかしてたガキはどこ行った!」

 半年前がエルの寿命のリミット、のはずだった。だが、彼女は今もこうして生きており、どころか、以前よりも元気になっていた。
 半年前、全然弱っていく様子のないエルを嬉しく思いながらも首を傾げながら、再びヤスじいが精密検査した結果
「毒が・・・寄生木の毒が・・・・消えておる・・・・」
 驚愕に目をひん剥いた。
「どういうこと?」
 イスラの問いもヤスじいの耳には入らない。肩を揺さぶられて、ようやく我に返る。
「エルは、どうなったんですか?」
 心配そうな声で尋ねるサレムに、ヤスじいは、何度か深呼吸して答える。
「エルの体に蓄積していた、寄生木の毒がすっかり消えておる。寄生木の毒が消えるなど、儂も初めてじゃ」
「そ、それは、つまり」
 サレムの胸に広がる期待。それを後押しするように、ヤスじいは深く頷いた。
「うむ、あの子がもう、毒で苦しむことは無い」
 その言葉に、サレムは泣いた。彼はようやく、涙を流すことを許された。その涙が暖かいものであるというのは幸せなことだ。サレムの肩を抱きながら、自分も流れてくる涙をぬぐうイスラ。ヤスじいもそんな二人を見て、自分が言った言葉がようやく自分が理解できて、実感が込み上げて来た。
「しかし、何故こんなことが起こったのか、が謎じゃのう」
「そう、ですね。たしか寄生木の毒って、絶対解毒できなかったんですよね?」
 泣きやんだ男二人が、真っ赤な目をしながら首を捻っていた。すると、二人の言葉を聞いていたイスラが、ふと何かに気付いたようにポンと手を打った。
「もしかして」
「? どうした、イスラ」
「ヤスじい、もしかして、あいつのせいじゃない?」
「あいつ、もしかして、モモセのことかの?」
「そうよ。確かヤスじい、言ってたわよね。あいつの能力は割れる、って」
「確かに。よもや海まで割れるとは思わなんだが」
「そのほかにも、何か色々言ってたわよね。確か、分解、とか分割とか」
「確かに言ったの。・・・え、嘘じゃろ?」
 ヤスじいも言葉からその考えに行きつく。サレムだけが一人、何もわからずに二人の顔を見比べていた。
「二人とも、もったいぶってないで教えてよ」
「え、ああ、ごめん。でも、あまりにご都合主義というか、ねえ?」
「そうじゃな。いや、むしろ必然というべきか。なぜなら、彼はエルの王子様なのじゃから、それくらいできて当たり前、というか」
「それって、モモセさんの力ということですか?」
 イスラとヤスじいが頷く。
「あの男の力は割れる、という言葉の類義語に当たることも出来るということかもしれんのじゃ」
「割れる、分解する、分割する・・・まさか、モモセさんが毒を分解したってことですか?!」
「そうかもしれないってこと。嘘みたいな話だけど」
「しかし、そうとしか思えんのじゃ」
 以前、モモセが子どもたちに言っていたことを思いだす。今ある常識をぶち壊してやると。そして脱出後、この世界に蔓延する常識は崩壊していった。能力者の地位向上、能力者を守る法の制定、現行人類との共存、一体誰がそんなことを予測できた? そしてそれらは、間違いなく百々瀬が起因となって発生している。頭の固い連中の石頭をぱっかーんと叩き割ったからではないのか。
 ヤスじいの推測が確信に変わるまで、そう時間はかからなかった。それだけの奇蹟の軌跡を、彼は見てきたからだ。そして、これからも、死ぬまで見続けることになるだろう。

「あと十ねんまって! そしたらわたし、せもこぉーんなにおおきくなって、むねもボンッとなってこしはキュッとしておしりボンッのぐらまらすびじょになるから! シャッチョサンさーびすするからよってって!」
 相も変わらず、エルは百々瀬に付きまとっている。百々瀬が言うように、彼女のアタックは日に日に過激の一途を辿っていた。城壁なら穴だらけになって砂塵に帰すレベルだ。
「やかましい! なってから言え! 後サービスの意味をイスラから学んでこい!」
「何でここで私に振るの!?」
「え、だってお前、サレムに毎晩熱烈なサービスしてるんだろ?」
「し・て・な・い・わ・よ!」
「そうなのか? ・・・・本当か?」
 顔を真っ赤にして押し黙るイスラ。ちら、ちらとサレムの方を見る。サレムも顔を真っ赤にして、俯いてしまった。嘘の下手くそな奴らだ。百々瀬はニタア、と悪い顔をする。
「よかったなエル。もうすぐ姉ちゃんになれるぞ?」
「あんたねえ!」
「ま、まあまあ。落ち着いて」
 サレムがイスラをなだめる。
「そろそろ時間ですんで。モモセさん、お願いします」
「しょうがねえな」
 がりがりと頭を搔きながらも、百々瀬は手伝うことにした。元の世界に帰るまでの我慢だ、ちょっと手伝うだけで衣食住がまかなえていると思えば安いものだ、決してこいつらに馴染んでなどいない、馴染んでなどいないと自分に言い聞かせて。
「モーセさん、何しに行くの?」
 首を傾げながら、エルが尋ねる。
「決まってんだろ」
 百々瀬は応える。
「悪を成しに、だ」

世界の神話・異聞 -外伝 奇跡を生み出す者-

世界の神話・異聞 -外伝 奇跡を生み出す者-

少女は祈る。ただ真摯に。それが彼女に出来る唯一のことだからだ。 家族を、友人を、この世界で理不尽な目に遭っている全ての同朋たちを救うために。 神は願いを聞き届けた。だから、彼女の前に彼が現れた。 彼女の願いをすべて叶えてくれる、幽霊と仇名される凄腕の泥棒が。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-03-26

Copyrighted
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  1. 幽霊
  2. 祈り
  3. 死の宣告
  4. 割れる
  5. 砂漠に咲く花
  6. 夜明け前
  7. 悪党の辞書に載らない言葉
  8. 憎しみと、その反対
  9. 奇跡を生み出す者