そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(7)
七 ハーフ地点
戻って来た。市場も漁港も通り過ぎた。スタート地点だ。シンボルタワーが見える。海も見える。ヨットもフェリーも浮かんでいる。マラソン大会に関係なく、バスもタクシーも電車も走っている。そうだろう。マラソン大会に、お祭りに関係なく、日常は続いているんだ。
どうしたんだ。みんな。前の方で、走るのをやめ、歩いているぞ。たくさんのランナーが溜まっている。手には紙コップを持っている。そうか。給水所か。そう言えば、ここまで走って、水を飲んだかなあ。覚えていない。給水所はあったかなあ。いや、あったはずだ。俺が気付かなかっただけなのだろう。
喉が渇いた。喉が渇くことは感じている。よかった。本当ならば、喉が渇く前に水分を摂るのがベストなのだけど、今さら、元に戻れない。まあ、いいか。水を飲もう。体を見る。背広は汗びっしょりだ。これだけ汗をかけば、喉も渇くはずだ。顔を手で拭く。顔も汗だ。洟が出る。汗が出るのはいいけれど、洟が垂れるのは格好が悪い。それでなくても男前とはいいがたい。その上、汗だらけの顔だ。おまけに洟まで垂れていたら見られたものじゃない。何しろ、俺は六十歳なんだ。三歳や四歳の子どもじゃない。
鼻を閉める。それでも洟が垂れる。洟は俺の意思に反して、鼻の下を通り、上唇に着く。しょっぱい。洟はしょっぱい。汗もしょっぱい。洟と汗は同じ成分なのだろうか。今まで、何とも思わなかったが、六十歳にして疑問に思う。六十年間、俺は何をしてきたんだ。ろう。自分の体のこともろくに知らずに。ボケるのも無理はない。いや、これまでの六十年間がボケていたんじゃないか。ボケた今こそがボケていないんじゃないか。一体、どっちだ?、まあ、いいか。俺は手で洟を、汗を拭う。手はべちゃべちゃだ。
「水をどうぞ」給水所の高校生の女子がコップを差し出した。「ありがとう」俺はコップを受け取った。「がんばってください」高校生がハイタッチを求めてきた。一瞬、躊躇する。でも、断る理由はない。俺は、汗と洟を拭った手でそれに応えた。俺の汗と洟の結晶だ。六十年間の結晶だ。若い彼女に何かを感じてもらえれば。そんなことはないか。俺は心の中で、ごめんね、マラソン大会が終われば手を十分洗ってね、と念じながら走り出した。
「急いで。もうすぐ来るぞ」リーダーの大声が給水所に響き渡る。桃子はその声に合わせて、紙コップをテーブルの上に並べる。ペットボトルの蓋を開け、紙コップに水を注ぐ。桃子の前には、五十、いや、百以上の紙コップがある。それをひとつずつ、丁寧に水を注いでいく。
桃子は高校二年生。給水所のボランティアだ。このT市で初めてのマラソン大会が開催されることで、ボランティアが募集された。桃子は運動オンチだからマラソンには参加できない。せめて、少しでもマラソンの雰囲気を味わいたために、少しでもランナーの役に立ちたいために、ボランティアに応募した。
選手の姿が見えた。速い。走っているんじゃない。飛んでいる。確かに、両足は地面から宙に浮かんでいる。地に足が着いていない。これは、マラソンランナーや陸上競技選手にとっては誉め言葉なんだ。
「さあ、来たぞ。やるぞ」リーダーが気合を入れる。桃子たちは緊張する。次から次へと手が伸ばされる。紙コップを鷲掴みにする大きな手。柔らかく紙コップを掴む手。様々な手だ。まるでお寺の千手観音を思わせる。
桃子にはランナーの顔は見えず、手しか見えない。忙しすぎて、顔を上げる余裕がない。桃子に見えるのは紙コップとペットボトルとテーブルだけだ。紙コップが取られて空いた空間に、水が入った紙コップを押していく。ランナーが少しでも取りやすいように動かしているのだ。そして、広く開いたテーブルの上に空の紙コップを並べ、ペットボトルの水を注いでいく。再び、千手観音の手が伸びてきて、空いたテーブルの上に水が入った紙コップを移動させる。その繰り返しだ。その合間に、ランナーの顔は見えないけれど、手に向かって、「頑張ってください。頑張ってください」と声を掛け続ける。
「あっ」誰かの声がした。千手観音の手が絡まり合い、テーブルの上の紙コップが倒れた。その勢いで、何個かの紙コップから水がこぼれた。桃子は倒れて水がなくなった紙コップを掴むと素早く足下に捨てた。
「集団が行ったよ」リーダーの安堵の声がした。桃子はようやく顔をあげた。一時はどうなるのかと思うほどの混雑ぶりだった。このまま水を入れるだけで終わってしまいそうだった。過ぎ去ったランナーの後ろ姿がだんだんと小さくなる。反対方向を見る。今度は、小さな姿がだんだんと大きくなってくる。次の集団がやってくるのだ。
どういう訳か、ランナーたちは固まって走ってくる。一人一人走っているはずなのに、だんご状態になる。やはり、一人で走るのよりも、みんなで走った方がいいんだろうか。給水所で水を渡す立場からいえば、ばらばらに来てくれた方がありがたい。
やって来た。次から次へと千手が現れた。その手が次々と紙コップを掴む。黒く陽に焼け、ごつごつした手。ランナーにはふさわしくないような白く、細い手。今回も様々な手だ。その中で、血管が青く浮き出て、背広を着た手を見つけた。他の手は紙コップを掴むとさっと消えてしまうが、その手だけがゆっくりと紙コップを掴み、持ち上げる。桃子はその手の先を見た。背広姿の男だった。顔は老けている。桃子の祖父ぐらいの歳だ。桃子の祖父がマラソンはしていない。そういう意味では、その年齢で、マラソンを走るのはすごいと思う。
桃子はその男をじっと見つめた。男は紙コップの底を空に向け、水を飲み干した。「うまい」男が呟いた。他のランナーは紙コップの水を一口、二口飲んだだけで水を捨ててしまうけど、この男は、全ての水を飲み干した。急いでいない。走ることよりも、水を飲むことを楽しんでいる。男の顔から紙コップが離れた。
「もう一杯」男が紙コップを差し出す。「ええっ」桃子は慌てた。何のことか一瞬、わからなかった。
「水をもう一杯くれませんか。紙コップがもったいないでしょう」
男は微笑んでいる。そう言えば、桃子のじいちゃんもよく笑う。父に言わせれば、昔は厳しくて、家で笑うことなんかなかったのに、と不思議がる。ぼけた証拠かな。父の顔が引きつる。でも、桃子にとっては、不機嫌なじいちゃんよりも、ぼけても笑うじいちゃんのほうがいい。目の前の男もそうなのか。
桃子はようやく男の意図をくみ取り、二リットル入りのペットボトルから男の紙コップに水を注いだ。「うまい」男は二敗目の水を飲み干した。「ありがとう」男は、自分の紙コップだけじゃなく、道路に投げ捨てられた紙コップも数個拾うと、一緒にゴミ箱に捨てた。
「がんばってください」桃子は思わず男の顔に向かって声を掛け、手のひらを男に向けた。ハイタッチだ。男と桃子の手のひらが重なる。汗だ。男のてのひらは汗びっしょりだ。桃子は男の手が汚いとは思わなかった。汗はここまで走って来た努力の証なのた。桃子にもその大変さと充実感が伝わる。男は微笑みながら走り去った。桃子のハイタッチで元気が出たらしい。
ランナーの集団がいなくなった。目の前には数多くの紙コップが投げ捨てられている。足の踏み場もない。次の集団はまだ見えない。ランナーたちに紙コップを渡すのはいいが、ゴミを片付けるのはいやだ。思わず「あーあ。こんなにたくさんゴミ」と呟いた。それを聞いてか、聞いていないのか、「さあ、今のうちにランナーたちを片付けるぞ」リーダーが路上の紙コップを拾い出した。
「えっ、ランナーですか。ゴミじゃないんですか」桃子は思わず聞き返した。
「そうよ。ランナーよ」副リーダーも紙コップを次々とゴミ箱に入れだした。
「この紙コップはここまで息を切らし、汗を流し、体力を使って走ってきたランナーたちの走った証拠よ。だから、あたしたちもランナーが飲み捨てた紙コップをランナーだと思っているの」
そうか。ランナーか。紙コップ一個につきランナー一人。そう思うと桃子は紙コップを拾うのが嫌でなくなった。でも、桃子の紙コップは誰が渡してくれて、誰が拾うんだろう。やっぱり、自分で渡して自分で拾うんだろうか。そう思いながら、桃子はリーダーたちと一緒に紙コップを素早く片付けた。
こんなもんだ。サブスリーに一分五十八秒足りなかった。ゴール後、グラウンドの芝生に倒れ込んだ。昨年の大会では、念願のサブスリーになった。二時間五十八分二十五秒だ。今年は、二時間四十分台を目指して、練習を積んできた。ハーフマラソンの記録は、自己最高タイムの一時間十七分台だ。このスピードなら、フルマラソンで二時間四十分台も夢ではない。予定通り、一キロ四分のラップで走りだす。昨年よりもタイムがいい。調子のいい証拠だ。このままだ。このままいける。二十一キロの折り返し地点だ。時計を見る。予定通りだ。
三十キロ地点。足が重くなってきた。股関節も少し痛い。だが、前半の貯金がある。三十六キロ地点。おかしい。急に失速しだした。失速し始めると止まらない。一キロ五分台から、六分台、七分台まで落ちる。このままだと二時間四十分台どころか、サブスリーも難しい。スピードを出そうにも、足を前に出す度に、足の裏に出来た豆が痛む。股関節の痛みもピークだ。走る気力が失せる。気力を失いながらも前に進む。やめるにやめられない極限の状況。
最後の坂だ。このマラソンコースは、最後に上り坂がある。行きはよいよい、帰りは辛い。地面に倒れるようにして坂を登る。やっと坂を登り切ったところで、時計を見た。三時間は過ぎた。最後の力をふりしぼり、陸上競技場の中のグラウンドを走る。ゴール後、女子高校生から完走賞のタオルが肩に掛けられた。俺はそのまま芝生に倒れ込んだ。三時間を切れなかった悔しさよりも、もう走らなくてもいい、痛みから解放された安堵感の方がまさっていた。俺は空を見つめた。目は開いているものの、頭の中は空っぽで何も考えられなかった。
そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(7)