四月の雨
第一章 冷たい雨
空は厚い雲に覆われている。暖かい陽の光は遮られ、周囲に暗い影を落とす。まだ昼過ぎのはずなのに、降り続ける雨のせいで濡れた肌に空気が冷たかった。足元には散り急いだ桜の花びらが無残な姿を晒している。
高台にある学校から街へと続く緩やかな坂道には、桜の木がどこまでも植えられている。心を賑わせる季節はもう終わったのだ。花の盛りも峠を過ぎて、空に向かって限りなく手を伸ばす枝々には新しい緑が芽吹こうとしている。
この雨は新しい命にとって生きる活力を与えるだろう。恵みの雨は生き物にとって喜ばしいはずなのに、俺の心には容赦なく突き刺さる針のようだ。
「タカノリ……」
コンクリートに打ち付ける雨音の中で、俺はあいつの名前をつぶやいて、すぐに後悔をした。身体の芯から湧き上がるものを抑えることはできない。気が付いたら涙が流れていた。
この道はあいつと一緒に歩いた思い出の場所だ。小さな未来を語り合い、二人で歩んできた道筋はいつまでも輝いているはずだった。
俺は唇を強く噛んだ。暗い雨は止む気配がない。容赦なく打ち付ける雨粒が、傘すら持たない俺の身体を少しずつ冷やしていく。この頬を濡らすものは、雨なのか、涙なのか、それすら分からなかった。
右足を踏み出そうとしても、もう脚力がなくなっていた。人影のない静かな道の真ん中で、俺は雨に押し潰され、濡れた地面に膝を落としてしまった。
次第に肩を濡らす悲しみは、流れる涙も隠してくれるだろう。いい年をした男が道の真ん中で泣き崩れている。こんな姿、普段なら誰にも見られたくない。でも今は、そんなことなんてどうでも良かった。泣いて、泣いて、泣き崩れて、それであいつが返ってきてくれるなら。
第二章 桜の出会い
三年前の春――。
長かった冬が過ぎ、ようやくやってきた暖かい日のことだ。校庭の桜は風に花びらを乗せて、美しい春を彩っている。
俺はこれから始まる高校生活に期待と少しの不安を抱きながら、教室に入った。黒板に張られた座席表で、自分の席を確認する。俺の席は、窓際の後ろから二番目だな。振り返ると、自分の場所はすぐに見つかった。俺の席の後ろ、窓際の最後尾の席には、見たことがない奴が座っている。
「よろしく!」
俺は古びた机にかばんを置くと、これから友達になれるかもしれない相手に挨拶をした。
「おう……」
腕組をして椅子にふんぞり返っていた同級生は、目だけを動かして低い声で答える。素っ気ない奴だな。初めての会話はたった二秒で終わってしまった。
俺は席に座ると、少し首を動かして横目で後ろを意識した。それにしても、でっかいやつだな。野球アニメのキャッチャーみたいな体格をしている。新品の学ランが窮屈なのか、上着のボタンを全開にして白いTシャツを見せていた。タヌキの置き物みたいな丸い腹がかなり目立つ。まるでおっさんみたいだ。
後ろのタヌキは、本当に俺と同い年なんだろうか。大人びた風貌をしている。進級できなかったダブりの奴なんじゃないか。妙な疑いを持ってしまった。
短い髪に、無骨な顔つき。飾り気も何もない。ただ、その肌は太陽の光をたくさん吸収した褐色でまぶしく輝いていた。
入学後のオリエンテーションや新入生の歓迎行事が終わると、友達ができるようになった。だが、例のタヌキは相変わらず言葉も少なく、誰かと打ち解けようとする様子がない。俺は何となく気になっていたが、気付かないふりをした。どうせ話しかけても相手にしてくれないだろ。
数日後、入学して初めての学力テストが始まった。穏やかな春の日差しが降り注ぐ静かな教室に、時々シャープペンシルのノック音が響いている。俺も目の前に立ちはだかる英文法の問題を一つずつ片付けていた。
十五分くらい経った頃、背中に何かの感触を感じた。最初は気のせいだろうと思っていたが、不自然な感触は次第に強くなる。後ろの席の奴からペンで背中を突かれていると感じ取れた。
教壇に座っている先生は、気持ち良さそうに居眠りをしている。周りの連中もテスト用紙に回答を埋めるのに必死でいた。
「なんだよ」
俺は半分苛立ちを込めて、後ろを振り返った。
「悪りぃ。問三の答え、教えてくれよ」
その言葉に、開いた口が塞がらなかった。お決まりの学園ドラマみたいな一場面が、目の前で起こっているのが驚きだった。しかも仲が良いわけでもない奴から、初めて声をかけられたのが、カンニングさせろだと!
無視してやろうか。だが、いつも仏頂面の四角い顔が、笑顔とも苦笑いともつかない表情で、不器用にウィンクまでして両手を合わせている。その様子が可笑しかった。
俺は吹き出しそうになるのを抑えると、もう一度、周囲の様子を確認した。誰も俺達のやり取りに気付いていない。
俺は素早く右手を動かして、小さな机の上に問三の答えを書き付けた。すぐに姿勢を元に戻すと自分のテストに戻った。背後からもテスト用紙を埋める音が耳に届いてくる。
英語のテストが終わると、国語・数学のテストが実施され、学力テストは終わった。クラス中には、余裕の笑顔や世界の終わりを迎えた顔まで様々な表情が浮かんでいる。
英語はいつも通り八十点くらいは取れるだろう。俺は教科書をかばんに締まって、帰ろうとするとカンニング野郎が声をかけてきた。
「お前ん家(ち)、港の方だろ。俺も同じ方向なんだ。一緒に帰ろうぜ」
今度はお前呼ばわり……。カンニングの手助けに、お前呼びって、今日一日でどれだけ友達レベルを上げるつもりなんだよ。俺は昨日までほとんど会話もしなかった相手の変わり様に、戸惑いを隠せなかった。
「都合悪いのか」
後ろの席の同級生は目を落として、急に小さな声になる。
「いや、そんなことないさ。行こうか」
別に悪いことをされた訳ではない。俺は一緒に帰ることにした。心の片隅には新しい友達への期待感が生まれようとしていた。
こいつの名前がタカノリという。
俺達は学校から桜並木の坂道を通って街へ下りていった。ここは海沿いに広がる小さな街なので、繁華街と呼べるものはない。港を中心に商店街と住宅地が広がるような静かな田舎だ。
今日も天気が良い。心地よい春風に誘われた淡いピンクが足元を、街を、空を彩っている。遠くに明るい光に照らされて輝く海が見えた。
俺はかばんを背中に担いで、隣を歩くタカノリの話に耳を傾けていた。今まで話したくて仕方なかったのか、テストが終わった開放感なのか、いろんなことを話してくれる。英語が苦手なこと、好きな音楽のこと、親が港で漁師をやっていること……。息をする間も惜しんで話を続けている。
「喉が渇いたな。ジュースでも飲んでこうぜ」
喋り続けたタカノリは自販機を見つけると、嬉しそうに駆けていく。道端にたたずむ古びた自販機で、俺は冷たいコーラを奢ってもらった。軽く汗ばんだ身体に冷たい炭酸が染み渡る。缶の中の水分は渇きを癒しただけではなく、俺と新しい友達の乾いた空間を満たし、心を結びつけたような気がした。
第三章 港町の夏
夏休みの直前、タカノリに誘われて港へ行った。地元の港は湾曲の地形をそのまま利用した素朴なもので規模も小さい。それでも、昔はたくさんの漁船が停泊し、漁獲量も県下では有数と言われたほど活気があったようだ。それも、時が経つに連れて田舎にありがちの過疎化が進み、漁師も少なくなっていったという。
港の船だまりには往年の選手たちが誇らしげに浮かび、物(もの)揚場(あげば)には刺し網が無造作に放置されている。魚のおこぼれを狙って飛び回るカモメの姿で賑わっている。俺は滅多に港へ来ることはなかったので、こんなに心地よい場所だと知らなかった。
防波堤の先に白い灯台が見えた。タカノリはいきなり走り出す。俺も誘われるように全力で後を追い駆けた。走りながら見上げた空はどこまでも青くてまっすぐに高い。強い日差しに目を奪われないように、先を行く背中を追い続けた。
防波堤の先端まで走った。猛ダッシュで上がりきった息を整えると、周囲を見渡した。遠くに水平線が広がっている。潮の香りが交わる風を頬に受け、額に浮かび上がった汗が一筋流れた。
俺達は防波堤のコンクリートに並んで座った。波打ち際に放り出した足から、ゆっくりと疲労が消えていく。足元の水面は太陽の光で輝いている。
「お前。学校出たら、どうする?」
「そんな先のこと、まだ決めてないさ」
不意の問いかけに、俺は何も考えずに答えた。
「俺はここで親父の後を継いで漁師になるんだ」
友達は夢を語りだす。その言葉には、親父さんの背中を見て育った尊敬の念と憧れ、この小さな港を大切に守っていきたいという願いが込められていた。水平線を見つめる目には、強い光が宿っている。
俺にはこいつが少し大人に見えた。隣に座る同い年の友達は、確実に未来を見つめている。その姿が大きく見えたような気がした。
高校に入学して最初の夏休みが始まった。タカノリは毎日、明け方から港の手伝いをしている。時には親父の漁船に乗って漁の手伝もしているようだ。俺は一番の遊び相手がいなくなり、ぽっかりと穴が空いたような夏の日を持て余していた。
ある日、俺が防波堤の端っこから詰まらなそうに海や港を眺めていると、真夏の光に照らされた一艘の漁船が近づいてきた。船上からこちらに大きく手を振っている奴がいる。漁師が使うゴム製の胸付きズボンを着こなしたあいつの姿だった。
「ヒマなら、手伝え!」
少し離れた船から届く声に、俺は手を振り返して立ち上がった。
港では様々な仕事がある。最初はタカノリと一緒になって、港に水揚げされた魚をせり場へ運んだり、漁から戻った船の甲板掃除を手伝ったりした。重労働でくたくたになることもあったが、それでも二人で同じ時間を過ごせることが何より楽しかった。
そのうち、漁に使う網の修繕もするようになった。太く丈夫な網でも繰り返し使用するうちに、ほつれたり破れたりするので丁寧に手作業で治していくのだ。タカノリは太い指にも関わらず、手際よく網を結んでいく。
「何だよ、これ。どうすればいいんだ」
俺は手先の不器用さを爆発させた。自分で手を入れた部分が、滅茶苦茶になっている。
「お前、ある意味すごい才能だな。この部分はこうやるんだよ」
作業の足を引っ張る俺にも、笑って根気良く教えてくれる。熱心に教えてくれたおかげで、夏休みが終わる頃にはそれなりに役立つようになっていった。
夏休みの間、昼はタカノリが港や漁のことを教えてくれたが、夜は俺が勉強を教えてやった。
「この文法は授業で何度もやったじゃないか」
俺は教科書の大切な文法が書かれたページをペンで指し示した。
「俺、英語の先生の話し聞いてると、眠くなるんだよな」
タカノリは無邪気に笑っている。授業中、枕にされている教科書は書き込みもマーカーも付いておらず新品同様だ。次のページをめくると、重要な構文が書かれている部分の紙がふやけているのに気付いた。
「これは何だ」
俺は丸いシミになった部分を指で触ってみた。教科書を枕に寝ている姿を思い描くと、丸いシミはヨダレの跡だと気付いた。
「うわっ! きったないな」
「何だよ。いいじゃねぇかよ」
タカノリは口を尖らせている。この前のテストで赤点を取るのも当然かもしれない。俺はペン先で自分の頭をかくと、授業で聞いたとおりに文法を教えた。
こうして夏休みの宿題を片付けながら、俺は英語が苦手な親友のために手助けをした。その成果もあったのか、夏休み明けのテストでは英語の点数がグンと上がった。
「ちょっと俺が本気出せば、こんなもんだぜっ!」
今まで赤点常連だった親友は点数が上がったのを自慢している。本当は俺が教えてやったからなんだぞ! マルが並んだテストを片手に小躍りする姿を横目で見ながら、俺は頬をゆるめた。
第四章 冬の出来事
秋になると、タカノリはクラスのある女子を好きになった。一人でずっと悩んだ末に告白をしたらしいが、結果は大玉砕に終わった。俺は女子連中が噂話をしていたのを耳にして、初めて事の成り行きを知ることになった。
その日の夜中、俺は家からこっそり缶ビールを持ち出して、自転車に飛び乗った。一人で抱え込むなんて、あいつらしいよ。話してくれればよかったのにな。わずかな外灯で照らされた薄暗い夜道には、人の姿なんて見当たらなかった。
いつもの防波堤に着くと携帯を取り出した。急な呼び出しでも、タカノリは素直にやってきた。
「用事って何だよ」
素っ気無い返事には、やはり元気がない。よっぽどショックだったのかもしれない。
「じゃーん!」
俺はかばんの中からビールを取り出して見せた。
「あ……」
タカノリは塞ぎがちな目を少し持ち上げて小さく反応する。
俺達は海を見ながらコンクリートの上に並んで座った。静かな波音にプルタブを開く音が交じり合う。無言で手にした缶を合わせると、少し温くなったビールを冷えた体に流し込んだ。初めて味わう麦の苦味と香り。背伸びをした味に、夜風を跳ね返すような熱を感じた。
失恋を経験した親友は目を細めて暗い海を眺めている。俺も余計なことは言わずに缶を傾けた。
しばらくして空缶が数本転がりだすと、タカノリはやっと口を開くようになった。少しずつ元気を取り戻していく。だが、少し酒が過ぎたようで、突然立ち上がると海に向かって大声で叫んだり、メソメソ泣きだしたり、手の付け様がなくなってしまった。最初は俺も調子を合わせていたが、そのうち付いて行けなくなり、少なくなったポテトチップを頬張った。
水平線に小さな光が浮かんでいる。失恋男は一人で騒いで、疲れたようだ。急に黙り込んで、その場にあぐらをかいて夜の空気を見つめている。
「んー、ションベン」
虚ろな目をして重い腰を上げた。酒に酔ったのか、体を揺らしながら、ズボンのチャックを下ろす。
「おい、大丈夫かよ」
俺は手を伸ばした。
「だ、大丈夫……って」
タカノリは、そう言いながらも、足元をふらつかせ海に落ちそうになる。俺は慌てて後ろから体を抱き抱えた。だが、力任せに引っ張った反動で、俺達はバランスを崩し背後のコンクリートに倒れてしまった。
「ああ。悪りぃ、悪りぃ」
「ちょっと、重いって!」
陽気に答える大きな体に、俺は押し潰された。背中に冷たいコンクリートの感触と、胸に親友の広い背中と熱い体温を初めて感じた。
「早く、どけって!」
腰のあたりを引っ叩いた。すると、奴は何が面白いのか急に笑いだす。やっと体を起こすと振り返って、今度は抱き付いてくる。
「おい! ふざけるなよ!」
「いいじゃんかよぅ」
俺は圧し掛かる重さに耐えかねて怒ったが、酒臭い息を吐き出す巨体はふざけて絡んでくる。
「ほげっ!」
俺はしつこく絡んでくる酔っ払いの股間を膝で蹴り上げた。思ったより力が入ってしまったらしい。タカノリは変な声を上げて、その場にのた打ち回っている。
「ったく、酔っ払いめ!」
俺はようやく体を起こすと、その様子を呆れ顔で見ていた。
第五章 降りしきる雨
俺は砕け散った心を修復するように、懐かしい思い出を蘇らせた。
「そんなことも、あったよな」
独り言は、雨音にかき消される。静かに響くノイズのような音が、永遠に広がっていく。
あの冬の夜は、他愛のないじゃれ合いだった。今の俺だったら感じるままにタカノリと関係を求めていたかもしれない。でも、あの時にはそこまでの感情は抱いていなかった。あいつだって、ちょっとした悪ふざけと思っていたはずだ。
灰色の空の下で雨は降り続いている。こぼれ落ちる恋しさに身を任せつつ、少しだけ口元を緩ませた。
誰も知らない俺とあいつの秘密。この先もずっと二人の思い出として、大人になっても懐かしく語り合えると信じていた。
雨は降り続いている。さっきまで突き刺すように感じた雨に、身体が慣れてきたようだ。冷たい雨が少しだけ温かく思えるのは気のせいだろうか。
初めてあいつと歩いたこの道で、今はたった一人で涙を流している。肩を濡らす春の雨音は、小さな俺を慰めるように優しく包んでいてくれる。
第六章 与えられた寿命
二年の夏休みを迎えた。この夏の気候は少しおかしい。晴れていたはずの空が急に黒い雲に覆われて大雨が降ったり、風が強くなり波が高くなることも多かった。
俺は去年と同じように、港で手伝いをして過ごしていた。漁船の掃除は手際が良くなり、網の修繕も去年の勘をすぐに取り戻してスピードも上がってきた。
タカノリは親父さんと早朝の漁に出る回数も多くなった。いつも大漁というわけではないが、豊富な種類の魚を持って帰港してくる。俺は毎日のように船が帰るのを見計らって港で待っていた。
「お帰り」
「今日はタコが獲れたぞ!」
タカノリは手にした大きなタコを、サッと俺の顔に近づけた。タコは元気に足を絡ませている。黒い目がこっちを睨み、今にも墨を吐き出しそうだ。
「わっ、やめろよ!」
「何だよ。怖いのかぁ」
俺が後ずさりをすると、悪戯っぽく笑って迫ってくる。俺はたまらず岸壁沿いを走って逃げた。あいつもタコを手にして追い駆けてくる。
「タカノリ! 魚さんで遊ぶんじゃねぇ!」
背後から親父さんの声が響いてくる。タカノリは立ち止まると、バツが悪そうに笑った。俺は漁から戻ってきた時の笑顔が好きだ。豊富な海の幸への喜びと、無事に陸へ戻ってこられた安心感が浮かんでいる。
俺達は岸壁に戻ると、水揚げされた活魚を選別場へ運んだ。今日はカレイやアイナメもある。魚が入った重いカゴを軽々と運ぶタカノリは、もともと地黒だった肌をさらに黒くさせていた。ますます海の男らしくなっていく。
俺は漁師から受け取った魚カゴが思ったよりも重くバランスを崩しそうになった。
「おっと、気をつけろよ」
近くにいたタカノリは自分が持ったカゴを片手で支えて、空いた手を差し伸べてくれる。潮風に鍛えられた太い腕が目に留まった。
「ああ、悪いな」
俺は作り笑いをすると、腰に力を入れバランスを整えた。
「気をつけろよ」
逞しい親友は白い歯を見せて笑うと、先を歩いていく。俺は鼻歌交じりに歩いていく背中を追いながら、こっそり頰を赤らめた。
ある日の昼過ぎ、俺も漁船に乗せてもらえることになった。漁ではなく、船の試運転と漁場の確認で沖へ出るのである。タカノリと一緒に船に乗るのは初めてのことだ。
高い夏の空はどこまでも青い。遠くに白い入道雲が見えた。強い日差しに照らされた海も輝いている。漁船が小さな湾を出るとスピードが上がり、肌に潮風を感じた。陸の方角に目をやると、港がどんどん小さくなっていく。
「そこは濡れているから気をつけろよ」
タカノリは舳先のあたりを指差している。確かに甲板が波のしぶきで濡れている。
「お前が落ちても助けないからな」
俺は、ほくそ笑んで冗談を言う背中に軽くパンチをした。
船は波に揺られていた。しばらくして、俺は船酔いをしてしまい口数が少なくなった。
「あっ、気持ち悪いのか? 今は横波が強いから、船の中央にいるといいぞ」
決して気の利く性格ではないが、俺を気遣ってくれる気持ちが嬉しかった。言われたとおりに甲板の中央に立つと、揺れを感じることがなくなった。吐き気が治まると、広い海原に心が安らいでいく。
外海に出て二時間位経っただろうか。今まで太陽の光が空を独占していたはずが、いつの間にか黒い雲が空を埋め尽くしている。今にも雨が降りだしそうだ。
そのうち俺の不安を見通すように風が強くなってきた。大きく吹きつける風に水面が波立ち、船は大きく揺れだす。
嵐に巻き込まれた小さな漁船は、容赦なく打ち付ける波の衝撃に任せて激しく踊る。甲板に置かれたブイや道具が海に放り出された。俺は大きく揺れる船に不安になって、ヘリに身体を寄せて波の様子を見ようとした。
「危ない!」
突然の大声に驚き、俺はつい腰を上げてしまった。その時、大きな横波が船を左に大きく傾けた。強い衝撃に耐え切れず、身体が荒れ狂う海へ投げられそうになる。目の前には全てを飲み込んでしまいそうな凶暴な海があった。
一瞬覚悟したが、次の瞬間には強い力で体を支えられ甲板に引き戻された。タカノリは俺を抱き抱えると、その場で丸くうずくまった。
「安心しろ。これくらいのシケで沈むような船じゃねぇ!」
親父さんの声をかすかに聞いた気がする。重い雨に打たれながら、俺は逞しいの腕の中でジッと耐えていた。
「大丈夫だ。すぐに治まるから」
声が耳元で聞こえる。ひたすらに、その言葉を信じた。
どれくらいの時間が経っただろう。死を暗示させる黒い波は次第に弱まり、再び空には明るい陽の光が差してきた。さっきまで死の口だった海は以前の穏やかな姿に戻っていく。大波が治まると、水浸しになった船は静かに港へ引き返していった。
「人には与えられた寿命があるんだ」
船酔いを覚まそうと防波堤で休んでいた時、タカノリは穏やかな湾内の海を眺めながら口を開いた。
「どんなに危ない目にあっても助かる時は助かるし、死ぬ時は簡単に命を落とすって、よく親父から言われるんだ」
俺は海に放り出されそうになった時、死を覚悟していた。そう思うのと同時に、こいつは自分の命をかけて仕事をしようとしていることにも気付いた。真剣な眼差しで夕日に照らされたオレンジ色を見つめるタカノリを、失いたくないと思った。それは友達としてではない。もっと、こう……大切なものだ。
「ありがとう」
俺は小さくつぶやいた。
静かに夕日が落ちて、空を自由に飛びまわっていたカモメがどこかへ消えてゆく。一番星が光りだしても、俺達はしばらく海を見つめていた。
第七章 秋祭りの夜
二度目の夏休みが終わった。秋になると防波堤の辺りにサヨリが集まりだす。桜の葉が赤く色づき始め、十月になると学校のふもとにある神社で秋祭りが開かれる。イベントも少ない小さな街で、この祭りはちょっとした行事だった。
俺とタカノリは神社で大昔から受け継がれている夜神楽を見物し、祭りを賑やかに彩る出店でタコ焼きと焼きそばを買った。
「よーし。これ持って、学校の方に行ってみようぜ」
タカノリは喜んで、俺を急かすように誘う。
祭りの日は港近くの浜辺から秋の花火が打ち上げられるのだ。俺達は学校がある高台まで歩いていった。見晴らしの良い場所を見つけると、夜空に打ち上げられるオレンジや緑の大輪に歓声を上げた。
「おーっ、すげえぞ!」
「たーまやー!」
大玉の花火が開くと、大砲を撃ったような音が遅れて響いてくる。俺は花火に喜ぶタカノリの横顔を見ていた。ずっと一緒にこの花火を見ていたい。
そろそろ進路を考えなくてはならない時期になっていた。こいつは高校を卒業したら、地元に残って親父さんと船に乗ると決めている。俺は大学へ進学して教師になろうかと考えていた。
大学に行くとなると、この街を離れなくてはならない。こいつとも離れ離れになってしまうことになるが、卒業したら戻ってこよう。そうすれば、ずっとこの街で、大人になっても一緒に居られるんだ。少し先の未来を心の中で思い描いていた。次々に打ち上げられる花火は小さな街の夜を彩っている。
最後の大玉花火が消えると、どこからか拍手が沸き起こる。年に一度の祭りも終わりを迎えた。さっきまで夜を照らした華の光が名残惜しかった。
俺は立ち上がって、空になった容器を手にした。
「港の方に行ってみないか?」
「いいね。行こうか」
タカノリに誘われて、港に足を運んだ。
浜辺ではさっきまで花火が打ち上げられていたはずだが、すっかり片付けられて人影もまばらだった。月明かりに照らされた港から、いつもの防波堤へ足を進めた。港へ向かう途中のコンビニでこっそりと買った缶ビールの袋は、歩調に合わせてカサカサと音がしている。
小さな灯台は夜の海へ光を放つ。防波堤のいつもの場所に腰を下ろすと、かすかな肌寒さと穏やかな波音を感じた。海は月明かりに照らされて優しく光っている。遠くで一艘の漁船が小さな灯を焚いていた。
飲み過ぎないように一本だけと決めて買った缶ビールで乾杯をした。一口の麦の苦さを味わい、また大人になった気がした。タカノリも缶を傾けて、音を鳴らして喉を潤している。
「なあ。キ、キス……しないか?」
俺がもう一口と缶を傾けた時、隣の親友は思いもよらぬことを口にした。俺は突然の言葉に驚き、ビールを噴き出してしまった。慌てて口元を腕で拭うと、キツイ冗談を言う奴に目をやった。
「ふざけるなよ」
俺は平然を作って軽く小突いてやろうと拳を振り上げた。だが、拳を振り上げた腕は固まってしまった。
タカノリは頬を赤くして、これまで見たことない熱っぽく真剣な眼差しで、こっちを見つめている。俺は行き場をなくした右手を下ろした。冗談ではない……のか? こんな時、どう反応すれば良いのか分かるはずもない。俺は不器用に小さく頷くことしかできなかった。
誰もいない防波堤に波の音だけが響いている。俺の小さな合図を確認したタカノリはそっと顔を寄せてくる。その厚い手が俺の両肩にかかり、顔の距離が五センチにまで迫って、俺は目をつぶった。
いつも大雑把な性格から想像できない優しい行動だった。肩に置かれた大きな手が温かい。鼻先が触れて、少しの酒臭さと、さっき食べた焼きそばのソースの匂いが重なりあった。
最初は一瞬だけ唇が触れあって離れた。二回目は最初よりも強く唇が重なった。俺の肩を抱く手の力が強くなり、汗ばんだ手のひらが肩を湿らせる。
俺も憧れの背中に手を回した。気持ちを確かめるように、舌を絡めてみた。戸惑いながらゆっくりと交わる粘膜の味。自然と、お互いに抱きしめ合う力が強くなる。
どれくらいの時間、唇を重ねていただろう。もう言葉は必要なかった。一瞬とも永遠とも思える瞬間に心臓の鼓動が重なる。初めてのキスを終えると、タカノリは目を細めて口元を緩ませる。俺達は身体を寄せ合って静かな海をいつまでも見つめていた。
第八章 静かな雨
嵐の日に俺を抱きしめたタカノリの腕の力を思い出した。雨に濡れた皮膚には、温かかった手の温度が蘇る。初めて交わしたキスの感触を呼び起こそうと、俺は唇にそっと手を触れてみた。身体全体から溢れる悲しみはいつまでも止まらない。スイッチが壊れたように流れ続ける涙。いっそのこと、このまま俺もあいつのそばに行ってしまいたい。
春の雨は降り続いている。ずぶ濡れの身体には雨さえも暖かく感じられた。他の音はすべて死に絶え、地面を静かに打つ雨音だけが響いている。
「タカノリ……」
もう一度、かすれる声で名前を呼んだ。それは口に出すことができたのか、それとも心の中で叫んだだけか、分らなかった。心からあいつを求めている。それだけだった。どれくらい涙を流しているのだろうか。時間の感覚が薄れていく。
ふと、何かの気配を感じた。重い頭を持ち上げると、雨音の中にうっすらと何かの姿が見える。雨のヴェールは視界をさえぎり、何があるのか、よく分からない。濡れた手で目の涙を拭うと、目を細めて道の先に見える何かを見極めようとした。
どうやら人影のようだ。その影は傘を差してこちらをジッと見つめている。俺は少し我に返って、変に思われないように立ち上がった。
第九章 無言歌
秋祭りが終わってから、俺達はより親密になっていった。
天気の良い日には海で釣り糸を垂らしたり、日曜日には電車に乗って繁華街へ遊びに行ったりした。俺はタカノリに英語を教え、あいつは俺が風邪をひいて学校を休むと好きなマンガを持ってきてくれた。傍から見れば今までどおり、仲の良い親友に見えただろう。
それでも学校の帰り道、並んで歩くお互い距離は、肩と肩が触れるかどうかのところまで縮まっていた。防波堤で肩を寄せ合って夕日の沈む海を眺めたり、人気のない神社でこっそりキスをしたりした。
時間は矢のように流れていく。三年生の春は桜の花が今まで以上に美しく見え、夏は港の日差しがあいつを逞しく照らした。秋には小さな町が紅葉に色づき、燃えるような葉っぱの赤に俺達の恋を照らし合わせた。
「俺は待ってるからな。ちゃんと帰ってこいよ」
「当たり前だろ。絶対、戻ってくるからな」
再びここに戻ってきた時、俺達はどんな大人になっているのだろう。俺は教師でタカノリは漁師で、いつまでも一緒に年を重ねていけると思っていた。
新しい年を迎えた。今年の冬はいつも以上に寒さを肌に感じる。明日はいよいよ大学入試が行われるのだ。
俺は一泊分の着替えと参考書を詰めたカバンを抱えて、駅で電車を待っていた。人気の無いホームに、遠くからばたばたと足音が聞こえてくる。俺は参考書から目を離すと、音がする方に目をやった。
「あー、間に合った!」
タカノリが息を切らしてやってきた。どこから走ってきたのか、額にはうっすらと汗をにじませている。
「何だよ。わざわざ来なくて良かったのに」
俺は口元を緩ませた。
「これ。買ってたら、遅くなっちまった」
そう言うと、厳しい漁で鍛えられた手で合格祈願の小さなお守りを取り出す。
「ありがとう」
俺は思わぬプレゼントを受け取ると、優しく握りしめた。
「しっかりやれよ。落ちたらぶん殴るからな」
タカノリは照れ笑いを浮かべて、もう一度、手を差し出す。俺はその大きな手を強く握り、右手から伝わる温かいの手の温度を確かめた。その手に目を落としていると、タカノリは空いた手で背中を引き寄せるように俺を抱きしめる。
「お前のこと、好きだから」
耳元でささやかれる言葉に、俺は頰を染めた。肩に顔を埋めると、こいつの想いと、少し汗ばんだ潮の匂いを感じる。それは短い時間だった。
潮風にさらされて錆付いた電車がきしむ音を立ててホームに止まる。俺は電車に乗り込むと、ホームに残るタカノリの方へ振り返った。発車のベルが短く鳴り、笑って手を振る姿がガラスの向こうに映る。
俺は静かに動きだす車両から、手をふり返した。真っ直ぐに伸びるレール上から、あいつの姿がどんどん小さくなっていく。その姿も駅のホームも見えなくなると、さっきもらったお守りをもう一度、強く握り締めた。
翌日、俺は大学の講堂で試験が始まるのを待っていた。慣れない雰囲気の中で、もらったお守りが心を落ち着かせてくれる。俺はお守りの上に手を重ねた。あいつのことを思い浮かべると、絶対に上手くいくと自信が湧いてきた。
同じ時、港では悲しい事故が起きていた。タカノリは漁船から落ちて溺れた漁師仲間を助けようと冬の荒海に飛び込んで、そのまま帰らぬ人となった。
不安定な天候の中で空模様が急変し、波を強く受けた一艘の漁船があっけなく海に飲まれた。近くにいた船がすぐに救助に向かい、あいつは真っ先に海に飛び込む。親父さんの止める言葉も聞かずに、溺れた男に向かって一直線に泳いでいった。
水を飲み意識を失いかけていた一人の仲間をわきに抱えると、船に引き返す。大人の男を抱えながら、上下に揺れる波の間を泳いでゆく。思うように進まず、徐々に体力は消耗していった。何とか船のヘリにたどり着くと、助けた仲間の体を甲板に上げた。
タカノリも船に上がろうとした時のことだ。強い横波にあおられて、ヘリに伸ばしていた手が離れてしまった。掴みどころを失った手は宙を舞い、そのまま暗い海に沈んでいった。
親父さんや他の漁師達の叫び声が、荒れ狂う波の音にかき消された。
無事に試験を終えた俺は、家に電話を入れた。受話器の向こうで母親が暗い口調で話す内容を理解できなった。最初は試験で疲れた脳に、何かとんでもない聞き違いをしていると思った。
「まさかな……」
俺は電話を切ると、自分に言い聞かせるように言葉を絞り出した。乾いた言葉は都会の雑踏に紛れてく。
携帯をポケットにしまうと、カバンを抱えて駅に向かって歩き出した。一歩一歩進んでいくたびに、言い知れぬ不安が広がっていく。改札を抜けると、先走る心を追いかけるように走り出し、帰りの電車に飛び乗った。
俺は田舎に戻ると、まっすぐ港へ向かった。
この時間なら普段は人もまばらで静かなはずなのに、たくさんの人が集まっている。海には港に停泊していたほとんどの漁船が四方に散らばっていた。
事故が起きてから、連日のように警察や漁師仲間による捜索が続けられた。それでもタカノリは見つからず、最後は捜索も打ち切りとなった。その後に取り仕切られた葬儀も、笑った顔のあいつの遺影を目の前にしても、悪い冗談のようにしか思えなかった。
俺が学校へ行っても、あいつの席はぽっかり空いていた。
「バカ野郎。早く帰ってこいよ」
普段と変わらない賑やかな教室の喧騒に、俺の独り言はかき消された。
タカノリが居なくなってから一ヶ月余り経った。俺の元には、大学から合格通知が届いた。これを見たら、どんなに喜んでくれるだろう。
俺達は道が違っても、この街のために一緒に居ることができたはずだった。それなのに、卒業間近の教室にも、春を待ち望む桜の下校の道にも、港の静かな防波堤にも、あの姿は見えなかった。
俺は防波堤に一人座り、もらったお守りを握りながら海を眺めていた。
『人には与えられた寿命があるんだ』
いつかの言葉を思い出した。あいつが居なくなった今、初めて言葉の重みを感じている。でも、心の底から湧き上がる怒りを抑えることはできなかった。いくら何でも、こんな別れ方ってあるか!
俺は静かな海をにらみつけ、お守りを握り締めた拳を振り上げた。それでも捨てることはできず、強く襲ってくる悲しさにこらえることもできなかった。
オレンジ色の光が海を静かに照らしている。早春の波音が響く中で、小さく身体を抱えてあいつを想い、声を漏らすだけだった。
最終章 四月の雨
雨の向こうに写る人影に、俺は何事も無かったように立ち上がって、目線を下げて再び歩こうとした。だが、俺の足は一歩も踏み出せずその場に立ち尽くす。なぜだが分からない。
遠くに映る人影はゆっくりとこちらに歩いてくる。少しずつ近づいてきて、その姿が大きくなる。俺は目を凝らした。
少し低い身長に、丸みのある体形。男の姿だ。まだこの季節に似合わない白い半そでのTシャツから、たくましく日焼けした太い腕が傘を掲げている。
影が大きくなるにつれ、俺のまぶたは少しずつ開いていった。体の中の血が逆流し、腕に鳥肌が生まれて消えてゆく。手が震えていた。
「タカノリ!」
俺は振り絞るように叫んだ。ゆっくりと向かって歩いてくる人影は、間違いなく愛しい姿だった。
あいつは俺の目の前で立ち止まると、眉間にしわを寄せて、口をへの字に曲げている。
「お前さ、なに泣いてんだよ。そんなに泣いてたら俺も辛いだろ」
声が聞こえてくる。それは耳に届いたのか、心に響いたのか。信じられない気持ちもあったが、そんなことは些細なことだった。夢でもいい。今、ここにあいつが立っていてくれる。それだけで十分だった。
「俺はお前のそばでずっと見守ってやるから。だからもう泣くな」
優しく慰めるように語りかけてくれる。俺は濡れた顔を手で拭った。好き勝手に泣いていた自分は、どこかに消えてしまった。
俺もあいつに伝えたかった。でも、何も言葉が出てこない。
「お前は前に進むんだ。前のように笑っていて欲しい。もし他の誰かを好きになっても、俺はずっとお前を愛している。だから、安心しろって!」
タカノリは白い歯を見せると、手にした傘を差し出す。その眼は、夏の防波堤で夢を語った時と同じ強い光を宿していた。
俺は手の震えを左手で抑えると、その手を差し出した。傘の取っ手を握るあいつの拳に手を重ねてみる。一瞬だけあいつの手の温度を感じた気がしたが、俺の手はすり抜けるように取っ手を掴んでいた。
受け取った傘を頭上に掲げると、降りしきる雨に身体を濡らすことはもうなかった。あいつは目を細めて、口元を穏やかに緩ませている。
もう一度タカノリに触れたかった。同時に、それは叶わないとも分っている。それでもあいつの温もりは、この手に身体に染み付いて残っている。
「ありがとう……」
再び涙が流れそうになった。
タカノリは、もう何も言わなかった。右手をゆっくり上げると、軽く左右に動かす。軽く開いていた手を静かに閉じると腕を降ろした。俺の顔を見つめながら、柔らかい笑顔を残して一歩ずつ後ずさりしてゆく。そして、ゆっくりと名残惜しそうに背を向けると、元の道を引き返していった。
俺はその場であいつを見送った。少しずつ愛しい姿が小さくなっていく。渡された傘を手に、遠く雨の向こうへ見えなくなるまで、目に焼き付けようとした。
秋の打ち上げ花火が空に消えるように、タカノリの姿は残像となる。その小さな姿はいつしか見えなくなった。
その様子を最後まで見届けると、そっと瞳を閉じた。
四月の雨――。
優しく温かい雨は、絹糸のように細く徐々に弱まってきた。もうすぐ雨も上がるだろう。俺はあいつからもらった傘を強く握りしめて、ゆっくりと前に進みだした。
空を覆っていた薄暗い雲は溶けはじめ、遠くに見える海には光が差してほのかに輝いている。一筋の暖かい風が今まで泣き濡らした道を駆け巡り、優しく包み込むように未来へ導いてくれる。
四月の雨
「線香花火」を書いて以来、数年間は全く物語を書かなかったのですが、この作品をきっかけとして執筆を再開し現在に至っています。それまで学校の先生や先輩が相手になる恋愛ものを書いていたのですが、同い年との恋愛という新しいスタンスにチャレンジした作品でもありました。
絶望に打ちひしがれる現在と、楽しかった過去の回想を交互に織り交ぜながら、ラストはファンタスティックに終わりを迎えるという、欲張った構成だったと思います。
初稿では描写や会話文が少なく淡々としている状態でしたが、今回の加筆でストーリーを崩さない程度に会話文を挿入し、少しでも叙情的な背景を打ち出せるように描写を増やしてみました。また、主人公にはカツヤという名前を付けていましたが、あえて名前を削除し、「お前」「俺」に変更しています。
自分の書く小説は、意外性が乏しく、ベタなものが多いと思います。ハッピーエンドで終わるものが好きだからかもしれません。この作品はタカノリの死により決してハッピーではありませんが、主人公が悲しみを乗り越えて前に歩いていって欲しいという期待感を込めて書き上げてみました。
この作品は二〇一三年八月に執筆を開始したものです。二〇一六年四月に小説投稿サイト「星空文庫」等で発表したものを、訂正、加筆を重ねて最終完成版としました。
最後までお読み下さりありがとうございます。