Girl

Girl

 春も近くなった。そう思い始めた。昨日の夜からだ。部屋の電気を消し、テレビの灯りもない僕の部屋には、その暗闇で見えるものは無く、あるのは温度と、音だけだ。僕は布団にもぐりこんで、その柔らかいに抱かれる。電気毛布の電源を点けるのを忘れていたから、布団の中はやや暖が足りていない。そうなると僕は足を胸元まで持ち上げ、膝を抱くように体勢をとる。死んだフリみたいで、生まれてくる前のような。しかし、今日はそれをしない。急いで電気毛布の電源を入れようともしない。春も近くなった。そう思い始めた。
 電話から、好きな人の声が聴こえる。真っ暗な部屋なのに、なぜか眩しく射してくるものがある。カーテンとカーテンの間に、白い月が挟まっていた。枕元からの僕の角度が、いい具合に月を絡め取っていた。射してくる。月の光。瞼を歪ませてしまうくらいの、月の光の一方通行だった。電話からしてくる好きな人の声に、僕は答える。僕が笑う。彼女が笑う。互いに笑う。また声がして、また笑う。「好きだ」と言って、「好きだ」と言われる。また笑う。月の光が射してくる。会いたくなる。
 桜の開花宣言をニュースで見かけるようになって、僕の街もそろそろ春を始めるだろう。その春は限りなく透明な薄い青を朝に飾り、その下で桜の森が笑い、夜にはライトアップさせる。そこに屋台などが並んで、街の恋人たちや男たちや女たちや子供たちが流れる。桜の森に雨が降りはじめた頃に、次は春の言葉が死体になってゆくのをニュースが届けるのだ。そうやって街は続き、そうやって街は続く。好きな人に「会いたい」と言う。それから、小さく約束をする。
 春も近くなりつつ、それを気にせず僕は眠る。柔らかいに抱かれている。そこで柔らかい春の夢を見る。抱かれるように、月の光のように。フィルムカメラの写真のような曖昧さを、僕が見ている春の夢は佩びた。
 久しぶりに僕は彼女と会った。言葉はなかった。僕は昔彼女のことを好きだった。言葉は聴こえないのか、それとも何も話していないのか、わからない。曖昧な画質と音質のまま、彼女は僕となにも求めない沈黙の中で手を繋いだ。細く、月の光のように柔らかいその右手がすり抜けるように僕の左手を汲む。僕は何も言わず、彼女も何も言わず、なのにどうしてか悲しみが見えている。どうして悲しいのかが、僕には言葉を言えない。その春の夢に言葉はなかったから、僕に言葉はなかった。だから言えない。曖昧な画質と、漠然としている悲しみが左手と右手に糸のようなものを延ばして漂っている。
 僕らは切符も買わずに電車に乗り込み、そのとき手がほどける。乗客の少ない電車に、昔好きだった彼女と僕は乗り込んで、座席に座る。そしてすぐに、まるでカーテンのように空いた二人の間の左手に、右手が重なってきてまた絡めとるように繋がれる。電車が動いて、僕らはすこし揺れる。昼か夜かもわからない。車窓から照らしている外の明かりがわからない。月の光のように白くて、言葉がない。夜なのか昼なのか朝なのかわからないそれを抜けてゆく。僕と思い出の彼女は手を繋いだまま、何も言わないまま、何もないさよなら。春のように。

 そうして部屋の天井に眼が飛び込んだとき、僕はまだ余白の街に取り残されている。まだ暗くて、でも真っ暗じゃなくて、夜明け前の寂しい色使いが街の春を近づけている。カーテンの隙間からはもう月が見えなくなっていて、射していた光が見当たらない。それについて言葉が見当たらない。
 愛、と呼んだ。恋、と呼んだ。柔らかいに抱かれたまま、もう会わなくなった彼女をすこし思い出した。右手が布団からはみ出ていた。カーテンの隙間の、彼女のような夜明け前が染まっている。彼女は夜明け前だった。        END

Girl

Girl

春が近い街。桜の森。僕と彼女。柔らかい夢。夜明け前。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-26

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