匕の噺

熊辺

グロテスクな表現注意

 蒸し暑い深夜零時過ぎ、私は逃げていた。小高い山の斜面を駆け下り、誰もいない夜の公園の揺れるブランコの脇を通り抜け、持ち前の身体能力でフェンスを飛び越え、高い段差から飛びおり、全身を使って閑散とした夜の街を駆けていた。
 全力で走る私の数メートル後ろを警官どもが追いかけてくる。
 山の中で、肉を剥がした後の骨を埋めているところを巡回中の二人組の警官に見つかった時、とうとうこの時が来たのかと、ある種の諦めにも似た感情が私の胸のうちに芽生えていた。
 元々、こんな人喰いの日々がいつまでも続くとは思っていなかったのだ。いつまでこんな嗜好を持ち隠し続けなければならないのかと、辟易すらしていた。
 だからこそ、巡回の警官が真夜中の山で土を掘る私という怪しい男を捕らえようと近付いてきた時に喜びに打ち震えたというのに、いつの間にか私はその警官の顔を、骨を埋めるのに使っていたシャベルで殴りつけて逃走していた。
 なぜ逃げたのか、自分でもよく分からない。ただただ焦燥に駆られるがままに、反射的に身体が動いていた。シャベルの鋭い角を力任せに眼窩の辺りに叩きつけたので、あの若い警官は失明するか、最悪だと死んでしまっているかもしれない。自衛と食べる目的以外では殺すまいと誓っていたのに、私はそれを侵してまで逃げていた。

 走りながらチラリと腕時計を確認する。もうすぐ一時半だ。もう一時間以上も全力で走り続けていることになる。道理で呼吸が上手くできないはずだ。
 酸素不足の頭は朦朧とするし、足が縺れて今にも転びそうなほど苦しくて苦しくて、肺も心臓も痛い。真夏の夜は湿度が高く、不快感を持って私の身体を包む。何度寝返りをうっても身体の置き場が見つからないような、そんな夜だ。 全身汗まみれで、顔や首に自身の赤い髪が絡み付き、長く太い尻尾のせいで走りにくさが増していた。もう止まってしまいたかったが、そんな内心とは裏腹に、私の身体はあらん限りの力を振り絞って人気のない場所を求めて街灯のない暗闇を走る。

 緊急配備が布かれたのか、入ろうとした路地からは警官が飛び出てくるし、曲がり角でも警官と鉢合わせる。いったい何人いるんだ。
 私は小路に入り、目の前を塞ぐ壁を、それに寄り添うように設置されているゴミ箱を踏み台にして飛び越え、向こう側にある川に降りた。そのまま水を蹴散らしながら走りだす。空気や私の体温とは比べ物にならないほど、川の水は冷たく、私の体力を奪っていった。

 このままでは逃げ切れないと、川岸を駆け上がって土手沿いを走り、再び街の中に逃げ込んだ。硬いアスファルトと革靴の組み合わせは足首に良くなさそうだが、舗装されている方が走りやすい。
 警官たちはまだ追ってくる。仲間を一人害されたのだから当たり前といえば当たり前だが、どの事件に対してもこのくらい真剣に対応していればもう少し犯罪も減るだろうに、と思った。そうすれば私のようなシリアルキラーを軽犯罪で誤認逮捕して自供も得られないなんて失態を晒さずにすんだだろうに。ひり付くような喉の痛みから逃れるために、私は思考を紡ごうとする。
 私は目についた路地に手当たり次第に飛び込み、警官たちを撒くのに躍起になっていた。
 だが何度目かの路地裏で、とうとう追い詰められてしまった。朦朧とした意識でくだらない事など考えていたせいで、いつの間にか知らない場所に迷い込んでいたのだ。目の前には、私の身長の倍以上はありそうな、スプレーの落書きや排気ガス、長年染み込んだ雨水を吸い上げて育った苔の類で薄汚れた、とてつもなく高い壁。辺りには踏み台にできそうな物はなにもなく、今度こそ逃げられなさそうだった。
 獣のように荒い息を吐きながら私は振り向き、壁を背にして立ち、真っ向から警官たちを見据える。すでに大勢の警官が逃げ場のなくなった私を取り囲んでいた。
 せめてもの抵抗にと、私は大腿部に装着していたベルトからナイフを抜いて構える。小型だが肉厚なその刃は、月明かりを反射して蒼鈍色に輝いている。呼応するように警官たちも拳銃を抜いて構える。銃口を向けられている私が動けないのは当たり前なのだが、警官たちも微動だにしないのは不思議だ。私の太腿なりナイフを握る手を撃てば私を無力化できるだろうに。私を連続殺人犯だと認識していないから、発砲許可が下りないのだろうか?それとも下手に発砲するとマスコミに叩かれるから、できるだけ避けたいのだろうか?警察も大変だなと、場違いな感想を抱いた。
 
 それならばと、私は全身の緊張を解き、少し顎を上げて月明かりに喉を晒す。高い建物の隙間からは、ちょうどいい具合に青白い満月が見えた。その明るさに押されて夜空は透明度の高い藍色を佩び、一つの星も見当たらない。
「いい月夜じゃないか」
 だらけた私の態度を好機と見たのか今にも飛びかかろうとしていた警官たちに、私は声をかけ、喉元にナイフの根元をあてがう。警官たちの動きが見事なほどにピタリと止まる。まるでコメディのようだ。
 こんな所で捕まって恥を晒すくらいなら、いっその事ここで死んでしまえば後が楽だ。思えば、好きなことをして、好きな物を食べて、随分と楽しい人生だったように思う。おまけに最期の夜がこんなにも綺麗な満月だなんて、畜生じみた私にしては上等じゃないか。
 ナイフを押しあてる力を強める。馬鹿な真似はよせと、警官の群れの中から誰かが叫ぶ。
 私は残った力の全てを込めてナイフを真横に振り抜いた。ヒヤリと冷たい怖気が背筋を駆け下り、一拍遅れて耳の下から喉仏の辺りにかけて熱が溢れだす。綺麗に切れたらしい。大勢の警官たちが私に向かって走ってくるのを視界の端に捉えながら、私は仰向けに倒れていく。最期の最後まで、月は綺麗なままだった。



 随分と長い夢を見ていたような気がする。よく覚えていないが、何かに追われて逃げる夢だったように思う。
 夢の内容を詳しく思い出そうとしているうちに、私は自分が起きていることに気が付いた。カーテンを閉め忘れたのか、顔に陽が当たって酷く眩しい。まだ眠くて仕方がないのだが、このままだと眠れそうにないので、布団にもぐってしまうことにした。だが倦怠感が全身を支配していて、腕が動かない。身体が泥の中に沈んでいるように重い。せめて今は何時なのかを確認するために仕方がなく目を開くと、そこには知らない天井があった。まるでフィクションのような展開だなとぼんやり考える。
 身体がだるくて動かないので、首だけを巡らせて部屋の中を観察する。清潔そうな白い壁、事務的でそっけない室内灯、ベッド脇に置いてある冷蔵庫と、ちょっとした荷物を置ける程度の広さをもったサイドテーブル。寝起きの目には朝日は眩しすぎるので、窓の方は見ない。
 そして、左腕に繋がれた点滴、複雑そうな機械から伸びたコード。テレビドラマ等でよく見かけるものだ。どうやら私は病室にいるらしい。なぜこんな所にいるのかまったく思い出せなくて困惑する。なにか事故にでも遭ったのだろうか。それとも私はまだ夢を見ているのだろうか?

「やあ、起きたのかい。随分と遅いお目覚めだね、匕」

 私が見ていた方の反対側、窓の傍から声をかけられた。
 のろのろと首を動かしてそちらを見ると、そこには私が人を食べる過程で得た情報をよく売り渡す男のボスが、安っぽいパイプ椅子に腰かけて、横柄そうに足を組んでいた。“坊ちゃん”だ。

「この前はお疲れ様。警察には僕からちょっとお願いをしておいたからね。これから君が何をしようと追われることはないから、今まで以上に好きに生活できるよ」

 坊ちゃんはいつも通りよく通る聞き心地の良い声で、つらつらと訳のわからないことを話す。私はここ数日、特別何かをした記憶がない。
 なんの事を言っているのか問おうと口を開くが、なぜか声が出ない。ひゅうひゅうと、隙間風が通り抜けるようなか細い音がするだけで、いくら息を吐いても言葉にはならなかった。はくはくと餌を食べる金魚のように口を開閉させる私を、坊ちゃんは駄々をこねる子どもでも見るような顔で窘めた。

「こら、あまり無理に喋ろうとしちゃいけないよ。まだ縫ってから二日も経ってないんだから」

 縫った?何を?
 私はとにかく状況が掴めなくて、声が出ないことにひたすら焦っていた。喉に酷い違和感がある。何かが詰まっているような、あるいは締め付けられているような、得も知れぬ違和感だった。私は力の入らない腕を苦労して持ち上げて喉をさする。手のひらにざらりとしたものが触れた。首に布が巻かれている。

「しかし君も思い切ったことをしたなあ。まさか自殺しようとするなんて」

 もっと生き汚い奴だと思っていたと、坊ちゃんが朗らかに笑う。
 その言葉で私は全てを思い出した。昨夜の出来事がぶわりと頭の奥から湧き出てくる。追われる夢は夢ではなかったのだ。追い詰められた私は確かに自分の喉を切り裂いた。
 それでは何故、私は生きているのか。万が一にも生き延びないようにと、頸骨に刃先が引っ掛かっては上手く振り抜けないからと、それに届く寸前まででできる限り深く切ったはずだ。気管も声帯も動脈も腱も、すべて纏めて切れた手応えがあったはずだ。人の肉を腑分けする過程で何度も首を切ったことがあるのだから、そのくらいは分かる。なのに、どうして。

「景気よくばっさり切れていたから、蘇生させるのにすごく苦労したらしいよ。それでもほとんど即死に近い状態の君を蘇生させられるんだから、うちの系列の病院スタッフの優秀さ、充実した設備は本当に素晴らしい」

 坊ちゃんが鷹揚な動作でパイプ椅子から立ち上がり、私が寝かされているベッドのすぐ脇にくる。空調の効いた部屋にあるカーテンは揺れもせずに坊ちゃんの背後で白く佇んでいる。坊ちゃんの顔はいつもの生意気な高校生の顔ではなく、華奢な身体に似合わない厭らしい笑みを浮かべていた。そして、その深い青色の瞳に確かな侮蔑の念を込めて私を見ていた。

「これがどういう意味なのか、君なら分かるよね?」

 坊ちゃんの言葉の意味を、私は十秒近くかけてようやく理解した。
いくら私が担ぎ込まれたこの病院のスタッフや設備が整っているからといって、私が首を切ってから救急車を呼んだのならば、私が助かることはなかった。つまり、あの場所にいたのだ。坊ちゃんの組織の系列の、優秀な医療スタッフとやらが。
 そこから導き出される結論に、私は愕然とした。まさか、あの警官の群れの中に治療用の道具を入れた鞄なんて目立つものを携えて、マフィア御用達の医者が入れるわけがない。ましてや偶然たまたま私が自殺する瞬間にあの路地を通りかかるなんてことは、何万分の一の確率だ。私が警官だと思っていた連中は、警官に扮したマフィアの構成員たちで、そもそもあの捕り物は全て、私を捕まえるために仕組まれたものだったのだ。
 私を捕まえてどうするつもりだったのかまでは分からないが、こうしてわざわざ助けたということは、少なくとも最初から殺す気は無かったということだろう。構成員たちの中に医者が混ざっていたのも、おそらくは私が重傷を負った時に応急処置を施すためだったに違いない。
 坊ちゃんは私が自殺を選ぶことを予想できなかったという言葉から推測すると、私の命を取引材料にして何か条件を呑ませるつもりだったのだろう。まさに私は助けられたのだから、何か要求されたら是という他ない。それ以前に、先ほど“警察には僕から連絡しておいた”と言っていた。坊ちゃんの要求を呑まなければ、私はすぐにでも警察に引き渡されるはずだ。
 しかし、坊ちゃんがこうまでして私に恩を売りつけようとする理由が分からない。私はただの人喰いだ。警察に圧力をかけてまで、私に何をさせたいというのだろう。私の表情から推測に詰まったことを察したのか、あるいは焦れたのか、坊ちゃんは要求を口にした。

「面倒な事はなしだ。率直に言うと、君に僕の組に入って欲しい。君の情報収集能力と、ほんの少しの不思議な力と、人殺しの腕が欲しいんだ。断ったらどうなるか、それは分かっているよね?」

 坊ちゃんの要求は、これから先の私の人生の選択肢を一つに絞るものだった。
それだけはごめんだ。警察に捕まって晒しものにされるくらいならと死を選んだというのに、このまま生かされるなんて。ましてやマフィアなんてろくでなし共の集まりに組み込まれて一生飼殺しにされるなんて、まっぴらごめんだった。
 私は反射的に、左腕に刺さっている点滴を引き抜き、両手で首に巻かれていた包帯を引きちぎるように弛めた。縫い合わされていくばくも経っていないだろう傷口に爪を突き立て渾身の力で掻き毟るように指をねじ込む。ぶちぶちと糸の千切れる音が喉の内側から響き、激痛が走る。死んでしまいたかった。
 悪寒のような痛みに震えながら傷口を広げようとしていると、坊ちゃんに両手首を掴まれてベッドに抑えつけられた。坊ちゃんの黄色い髪が垂れて、顔に覆いかぶさってくる。振りほどこうとするが、坊ちゃんの細腕はびくともしない。つい先ほどまで忘れていた倦怠感が全身にのしかかり、酷く体力を消耗していた。今の私に、坊ちゃんをはねのけられるほどの力はなかった。

「あれだけの言葉でそれだけ取り乱すほどに理解してくれるなんて、君は殺人の腕だけでなく頭の方も優秀みたいだ。絶対に死なせないし、必ず僕の所に来てもらう」

 普段の坊ちゃんからは想像できないような昏い目に射竦められ、私はますます動けなくなっていた。それどころか抵抗する意思すら削がれていく。坊ちゃんはやると言ったらやるのだ。私ごときが反駁したところで今さら坊ちゃんの意志は変えられないと、そう思わせるのに十分な凄烈な意志が坊ちゃんの目に秘められていた。
 そう思ったとたんに心臓から送り出される血液が急激に冷えたような感覚に陥り、全身の力が抜けた。抵抗の意志が消えたことを汲み取ったらしい坊ちゃんが私を抑えつけていた腕を離し、ベッドの枕元に取り付けられているナースコールを押す。私の身体はベッドに深く沈みこんだ。喉の傷口から飛び散った血液がシーツのあちらこちらに付着している。首筋を滴ってベッドに染み込んでいく。入院着は赤く汚れてしまっていた。ぼんやりと疲労にかすむ目で右手を見ると、爪に肉が詰まっていた。
 病室に医者や看護師たちが入ってくるのとすれ違うように、坊ちゃんは入口に向かう。坊ちゃんがドアの前に立つと、図ったように開く。白い横開きのドアの向こうには、私が良く取引をしている、例の男が控えていた。奴は坊ちゃんの右腕だ。坊ちゃんの護衛も兼ねて、この部屋に誰も入り込まないようにと見張っていたのだろう。男がちらりと濁った灰色の眼を私に向けて、揚々と部屋を後にする坊ちゃんの数歩後ろをついていく。陰りを含んだその色に、前回会った時のような覇気や凄味は見当たらなかった。まるで死人のような目だった。
 私は医者に何か薬を打たれながら、ドアに遮られていく二人の背中を見送った。

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