スペア
プロローグ
スペア
屋上には夜の風が吹いている。冷たくも、熱くもない。涼しくも、温かくもない風。意味のない世界の彼方からやってきて、意味もなく僕の頬を撫ぜて、意味のない世界の果てへと吹いていく、意味のない風。これから僕らがやろうとしていることと一緒だ。
街にはほとんど光がなかった。パチンコ屋やラブホテルの派手な電飾看板と、小さなビルのオフィスの明りがちらほら見えるだけだ。あそこに残った社員達はみんな、体をおかしくしながら忙しく働いているのだろうか。こんな草木も眠る真夜中だって言うのに、全くひどい話である。
人はどうしてこんなにも、一人の手に負えないようなことばかり強いられてしまうんだろう。彼らが一体何をしたって言うんだろう。彼らは一体何を望んで、何のために心や身体を壊していくんだろう。因果関係は?ただ運が悪かったのか?
それはいくら頭を捻って考えてみても仕方がない。なぜなら、その理由はどこにもないからだ。
世の中は不条理に満ちている。いや理不尽か。違いはよく分からないけど、とにかくそのどちらか一方か、もしくはその両方が、この世のありとあらゆる「出来事」とか「運命」とかいったパズルのピースをひょいと指でつまみ上げて、間違った場所に無理やり嵌め込んでいるのだ。何も考えずに、力づくで。
哀れなピース達は互いに近くの相手を押し合い、歪めて、歪んで、使い物にならなくなってしまう。本来あるべきだったはずの場所にも嵌らなくなってしまう。そうなればもう、暗い押し入れの片隅で永遠に忘れ去られたり、埃っぽいソファやベッドの下で外の光も浴びられないまま一生を終えるより他ないのだ。
僕らは今夜、そういう不条理だか理不尽だかを新たに生み出してのうのうと生きている一人のアホに、不条理だか理不尽だかで対抗するためにここまでやって来た。
仲間は僕も含めて三人。一人は同じく屋上にいて、ボストンバッグから小型の溶接機やら溶接用のマスクやらを取り出している最中だ。あとの一人は地上にいる。駐車場の自販機の陰から邪魔が入らないように周りを見張っているらしい。作戦を聞いただけだから詳細なことはよく知らないが、とにかくまあ、そういうことになっている。
「なあ。もうとっくに準備出来てるぞ。レク」
後ろから聞き慣れた低い声が飛んできた。振り向くと、両手に溶接機を持ったアキラが悪戯っぽく笑っている。矯正器具が丸見えのチャーミングな笑顔だ。
「いつまでも黄昏てねえで、早く受け取れ」
僕は目元まで隠れる黒いパーカーのフードをまくって、遠くのリモコンを取るみたいにそれを受け取った。これだけでも肩の辺りが結構キツくて、思わず呻いてしまった。完全に運動不足だ。
溶接機は黄色くて、小さな箱みたいな形をしていた。そっちが本体だ。そこから灰色の管が延びて、先っぽの拳銃みたいな形の器具に繋がっている。
「かっこいいだろ。けっこう」
アキラが自慢げに言う。それについては僕は特に何も言わなかった。それよりも、溶接機を差し出した時に、アキラの耳元で一瞬光った小さな何かの方が僕の注意を引いた。
「なんか着けてる?耳」
「ああ、これ。イヤホン。音楽聴いてる。ミスチル」
「あ、そう」
呑気なもんだ。なんだか余計に脱力感が増してしまった。
僕は死んだ眼差しを再び手元の溶接機に落とした。試しに本体の電源を入れて、トリガーを引いてみる。ジジジといういかにも危険そうな音とともに、銃の先端が眩しく光った。
「うお」
夜目にあまりにも強い光だったので思わず目がくらみ、僕は慌てて手に持ったそれを放り投げてしまった。
「おいおい、気をつけろよ。ちゃんとマスク着けてからやれ」
そう言ってアキラは鉄のマスクを差し出した。顔を丸ごと隠せる大きさだ。目の部分に光を遮断する四角いグラスが嵌っていて、アゴのところに取っ手がついている。
「準備オーケーだね」と僕は言った。アキラは顔の前にマスクを構えて親指を立てた。マスクに阻まれてその表情は読み取れないが、多分ニヤリと笑っているのだろう。
アキラは腰に着けたホルダーからトランシーバーを取り出して、刑事モノのドラマみたいにそれを口元に寄せた。
「あー、こちらアキラ。応答せよ」
スピーカーから漏れる音がザーザーとうるさい。僕は顔をしかめて声を掛けた。
「ねえ」
「なんだ?」
「携帯でよくない?」
アキラは何か答えかけたが、そのそき丁度地上からの通信が入ってしまったので慌ててトランシーバーを構え直した。
「あいあい、こちらアキラ」
『おいすー。えー、見たところ、周りに人はいないんで、今なら大丈夫ですよー』
トラオの太い声がスピーカー越しによく聞こえてくる。ノイズが酷いものの、二メートル以上離れたこの位置からでも十分に会話が聞き取れた。
「本当か?もう一度ちゃんと確認しろ」
『ああ。はいよー』
そしてしばらく通信が途絶えた。その間僕は屋上の端から身を乗り出して駐車場を見下ろしてみたけど、辺りに電灯が少ないせいか、そこはほとんど暗闇に近かった。目を凝らしてみても車の影の形しか見えない。
「どうせなにも見えねえだろ。危ないからやめとけ」
いつになく厳しい声でアキラが言った。僕は諦めて元の位置に戻った。
『あー、アキラ聞こえる?やっぱり誰もいないよ。まあ、もうこんな時間だしね』
アキラがこちらに目配せする。僕は黙ってうなずいた。
「わかったわかった。それじゃあ、これから作戦を開始する。もしも何かあったらすぐに伝えろよ。いいな?以上」
そう言ってアキラはトランシーバーをホルダーに仕舞った。
「ま、こっちの方が気分出るだろ」
さっきの質問にさらりとそう答え、アキラは溶接機のスイッチを入れた。僕も電源を入れて、右手でマスクを構えた。あとは焼き切るだけだ。
「じゃあ、始めるぞ。出来るだけ手早く済ませよ」
マスク越しのくぐもった声。そのテンションはいつもとあまり変わらない。
「うん」
トリガーを引いて、赤黒く錆びた鉄の支柱に先端の光を押し当てる。途端に甲高い悲鳴のような音が鳴り響き、大量の火花が辺りに飛び散った。
始めに言ったように、僕らのやっていることに確かな意味なんてありはしない。「復讐」なんて大それた代物でもないだろう。それは言うなればただの仕返し。もっと砕けた言い方をすれば、ただのタチが悪いイタズラだ。
だけど。
だけど、事ここに至るまでの経緯をあえて誰かに話すとすれば、ある一人の可哀想な仲間の話を欠かすことは出来ない。同時に、彼女がいかに人に傷つけられて、彼女がいかに人を傷つけなかったのかということも。
全てのキッカケはボウリング場だった。だからきっと、その物語もボウリング場から始まる。
1.ボウリング
「やった!ストライク!私すごい!」
シューズを履き替えながらアキラ達のいるレーンを見てみたら、知らない女の子が一緒にプレーしていた。黒とピンクのウインドブレーカーを上下に着込んだりしてやる気満々な見た目だ。ストライクを取ったのがよっぽど嬉しいのか、胸の前で小さく拍手をしながら飛び跳ねている。10メートル程度は距離があるし周りの音もガヤガヤうるさいのに、ここにいてもしっかりと歓喜の声が耳に届く。けっこうデカい声だ。だけど同世代の女の子達によくある甲高いキンキンとした響きはなくて、芯が通った綺麗な声だった。
アキラはいつになく楽しそうな笑顔で立ち上がってハイタッチに応じている。奥の席に座ってストローでジュースを飲んでいたトラオも慌てて立ち上がり、控えめに両手を差し出した。その手のひらにあの子が全力でハイタッチをかまし、バランスを崩したトラオがケツから椅子にどっかり倒れる。まるで押し相撲みたいだ。彼女は口に手を当ててあらまと驚いた後、あたふたとトラオの肩に手を置いて声を掛けていた。トラオのやつは嬉しそうにニヤニヤしていやがる。
なんだか僕が来るよりも先に、すっかり良い雰囲気が出来上がっているようだ。これじゃあなんとなく行きづらい。というかそもそも、あの子はいったいどこの誰なんだろう。アキラが彼女欲しさについにナンパをしだしたのだろうか。
レーンに歩み寄り、出来るかぎり動揺を隠しながら「おーす」と声を掛ける。どれだけいつもの調子が保てていたのかは自分でも分からない。アキラが何ともなさげに「よう」と返事をして、トラオも太くて頼りなさそうな声で「ウス」と言う。この二人になんて目をくれている暇はない。明らかに異質な存在が目の前にいるのだ。もちろん良い意味で。
女の子的な空気を全身にまとった小柄な女の子が一人、浮かない男どもと一緒にその場にいる。来るべき場所を間違ったみたいに。
髪はふんわりとした栗色のショートボブ。ウインドブレーカーまで心なしかオシャレに見えてしまうから不思議だ。僕は「なんだよ、この子」という意味を含めた視線を男二人に向けて送った。トラオはちょっと気まずそうに目を背けたりしているが、アキラに至っては全く気がつかないようで平然としている。この男は往々にして鈍感なのだ。
彼女は小さく頭を下げながら「ども」と挨拶をして、ミカっていいます、と名乗った。僕も同じくらい小さく頭を下げて「ええと」と少し迷ってから、「レクって呼んでください」と言った。「みんなそう呼んでいるので」
「レク?」と彼女は大きめに首を傾げる。当然の反応だ。これだから僕は自己紹介をするのが嫌いなのだ。この後はどう丁寧にクッションを置いて説明しても、笑われるか気の毒な人間と思われてしまうのがオチだ。まあ、気の毒なのは間違いないんだけど。
「レクイエムって言うんだよ。こいつの名前。鎮めるに、魂に歌って書いてレクイエム。笑えるよな」
僕がなんといったものか迷っている間に、横からアキラがずけずけと説明してきた。僕はその場から目を背けて短くため息をついた。
親父のガラの悪い顔と似合わない金髪が頭に浮かんできた。そう悪い人間じゃないが、こればっかりはあいつのセンスのなさを恨まざるを得ない。おまけに母さんも似たようなものだから、バカな命名を止める人間など誰もいなかったのだ。親父はその後、自分の父からこっぴどく叱られたらしいけど。
「レクイエム?なにそれかっこいい!アメリカ人みたい!」
ミカは手を合わせてそう言った。
僕は驚いて彼女の目を見つめ返した。笑顔がよく馴染んだ目をしていた。
反応に困って「かっこいい名前だね」と答える人は過去にもいくらかいたけど、そういう感じとはまるで違っていた。いかにも本気らしい言い方だ。それは全く今までにない反応だった。こっちが逆に動揺させられるのも初めてだ。
「え?……でも、ほら、めちゃくちゃ縁起悪いしさ。レクイエムって何か知ってる?」と僕が解説しようとしたところで、アキラがマアマアと割って入ってきた。
「なんでも良いだろ。かっこいいんだから」
そう言って軽く流されてしまった。どうやら彼は早くボウリングを再開したいらしい。
生まれて初めての好反応にかなりの衝撃を受けてしまった僕は、呆然と彼女の横顔を見つめ続けていた。彼女はボールを持ってさっそうとレーンに向かっていくアキラを、両手でメガホンを作りながら応援している。
なんだろう、この子は。どうしてこんなところにいるんだろう。
そんな疑問が、さっきまでとはまるで違った質を帯びて再び頭に去来してきた。まるで一人きりの夜道で出会った猫みたいに、どうしてもその横顔から目を離すことができなかった。
急に周りがスローモーションになったように感じた。カメラの焦点を合わせたみたいに彼女の顔だけがくっきりと見えて、他は何もかもがぼやけていた。あれだけ騒々しかった音もなぜか遠のいて、水の中みたいにこもっている。はっきりと聞こえるのは、彼女の芯の通った真っすぐな声だけだ。それはとても不思議な時間だった。
「変わってるでしょ」
いきなり右の耳に湿った吐息が入って背筋が寒くなった。横を向くと、トラオのデカい顔面が目の前にあった。
「ゾッとするような耳打ちはやめろよ」と始めに言っておき、僕は一番気になることをトラオに尋ねた。
「それで、この子どうしたんだ」
するとトラオはさも意外そうに目を見開いて、タラコ唇を丸く尖らせた。
「あれ?レク、知らないっけ?」
その言い方から察するに、けっこう前からの知り合いということになるだろう。それもこの三人の中じゃ僕だけが知らないらしい。
だとすればやはり、アキラの彼女と断定して間違いなさそうだ。現にあの子はあんなにも大きな声でアキラに熱い声援を送っているのだから。
「俺の妹だよ」とトラオが真顔で言った。僕は「え?」と聞き返す。
「え?」
トラオの顔を見返してもう一度言った。途端にトラオは不服そうに表情を曇らせた。
「いや、え?じゃなくて。だって、見れば分かるでしょうよ」
見て分かるわけがない。僕は混乱しつつもミカとトラオの顔を交互に見比べてみたが、どこにも似ている要素が見当たらなかった。
「よく見てよ。眉毛とかそっくりじゃん」
トラオはなぜか焦ったようにそう説明する。言われてみれば、眉毛が太めな点についてはミカもトラオも同じだった。だけどミカの方は綺麗に揃っているのに対してトラオはどちらかというとゲジゲジで、共通点と言うにはいささか抵抗がある。
「他には?」と訊くと、トラオは何か言いたげに口をモゴモゴして言葉に詰まってしまった。他には特に思いつかないらしい。
「……まあとにかく、妹なわけよ。なあミカ」
トラオが変に明るく声を掛けると、ミカが半分だけ振り向いて「え?うん」と言った。にわかには信じ難い現象だ。
「知らなかったんですか?」とミカが問う。
「全然知らなかった」と僕は答えた。
しかしながら納得がいかないのは、さっきシューズを履き替えながら見たあの局面だ。ハイタッチで椅子に押し倒された後、彼女に介抱されながらトラオは確かにニヤけていた。あの反応は一体なんだったというのか。
「いや、別に……それはそれじゃない」とトラオは言う。
「そういうもんなの?」と僕が問う。
「そういうもんでしょ」とトラオは言った。どんどん声が小さくなっていく。
背中でその話を聞いていたミカが突然パッと振り向いた。ずっと声を上げて応援していたはずなのに。地獄耳とかいうやつだろうか。
「なんの話してるの?」と笑顔のミカが言った。
「いや、なんでもないよ」とトラオが手を振りながら慌てている。なぜか僕まで一緒に慌ててしまった。
僕には姉妹どころか兄弟もいないけど、案外そういうものなのかもしれないなと思った。
アキラは一投目で8本のピンを倒し、二投目に格好つけてカーブを効かせた球をガターに沈めて戻って来た。代わってミカがオレンジのボールを手に取り意気揚々とレーンに向かっていく。
投げると思いきや、急にくるりと向きを変えて足早に戻ってきた。それからミカはボールのストックの側にあるエアーで入念に手を乾かし始めた。利き手の右を乾かし、ボールを持ち替えて左を乾かし、もう一度右手を乾かす。
「あれって意味あるのかな」と僕は独り言のように言った。知らん、とアキラが返した。さっきの投球に納得がいかないのか、どこか投げやりだった。トラオはスマホに目を落としてパズドラに熱中している。
「おまじないだよ。おまじない」とミカがこっちを向いて言った。
まさか聞こえているとは思わなくて、僕は小さく椅子にのけぞった。
「あの子はすごく耳がいい」と僕は呟いた。「超能力みたいだな」
「超能力だよ」
レーンの前に立ってボールを構えたミカが首だけ振り向いて笑った。本当に耳が良い。
ミカはレーンから一歩、二歩と退き、ボールに左手を添え、肩で大きく深呼吸した。それから大股で一気に二歩前へ踏み出し、腰を低くして振りかぶった右手のボールを勢いよくリリースする。狙いは真ん中よりも少し右め。最もストライクを狙いやすいスポットだ。
ボールは勢いを落とさずピンとピンの間めがけて直進し、見事に狙い通りの位置にヒットした。それと同時にストライクを確信したミカが両手でガッツポーズを作る。
しかし最後に転がったピンが残りの一つにわずかに届かず、左の最奥に一本残ってしまった。
「あーあー」とアキラが言った。「こりゃダメだな」
アキラの横顔は困ったように笑っていた。手のつけられない子どもを前にしたような表情だ。トラオもスマホから顔を上げて同じような顔をしている。僕は何がダメなのか尋ねた。
「あいつ、残り1本になると絶対に逃すんだよ。変に緊張しちゃって」とアキラは同じ表情のまま言った。歯の矯正器具が口の端で光っている。
「じゃあ、リラックスして投げればいい」
「それはそれで失敗するから、どうしようもないんだよね」とトラオが哀れそうに言う。
ミカががっくり肩を落として次のボールを取りに来た。自然とアヒル口が出来上がっている。
「超能力だよ」と僕が声をかける。ミカは浮かない顔をボールに落としたまま「念力は使えません」と言った。
「ていうか別に、超能力とかないし」
ミカはすっかり不貞腐れていた。見かねたアキラが「よっしゃ」と声を上げて立ち上がり、両手をブラブラさせながらボールに向かった。
「俺が投げよう」とアキラは言う。それじゃあ意味がないんじゃないかと僕は思った。そう言おうともしたけど、ミカは笑顔だった。
「お願いします!」
「任せとけ」
そう言ってアキラは自信満々にレーンの前に立つ。なんだか外しそうだな、と僕は思った。
アキラは半身でボールを胸に構え、一呼吸置いて堂々のストレートを放った。
ボールは勢いを保ったまま真っ直ぐに最後の一ピンへと向かっていったが、あと少しのところで左側に逸れて、あえなくガターに落ちていった。
「あちゃー」とアキラが頭を掻く。「ごめん、ミカちゃん」
「おしい!」とミカは本当に惜しそうな顔で言った。
それから僕らは10ゲーム続けてやった。その中でミカは8回も一ピンを逃した。僕ら三人は交代でミカの為にボールを投げたけど、なぜかミカの代わりで投げたときだけはどうしても上手くいかなかった。
わざとじゃないんだよと僕は弁明した。ミカは笑って、分かってますよと答えた。アキラはミカのスペアを取るためだけに意地になってゲームを続けた。
最後の一回はミカが自分で投げた。自分でやりたいと彼女が言ったのだ。その姿は、他のときにも増して真剣そのものだった。
だけど必要以上に力んでしまったせいか、ボールはレーンの中ほどで早くもガターに落ちてしまった。皆は一様にため息をついた。
振り返ったミカはちょっと笑いながら、やっぱりダメだなあ、と言った。その顔はすごく残念そうに見えた。
「なんか、呪われてるんですかね」とシューズを脱ぎながらミカは言った。
「かもなあ」とアキラが笑う。彼も代わりをことごとく失敗したのが心残りな様子だ。
「だとしたら、幸先悪いなあ」とミカは呟いた。僕はサイズが微妙に小さくてキツかったシューズを棚に仕舞いながら、「何のこと?」と訊いた。
「私、これからバイトするんですよ。ここで」とミカは答えた。
「このボウリング場で?」
「そう」
それを横で聞いていたトラオはびっくりして手に持ったシューズを片方床に落とした。
「そうだったの?」とトラオは丸い目をしている。
「そう。言ってなかったっけ」とミカは平然としていた。兄に対する口調はいつもと違って少しドライだった。僕は思わず笑ってしまった。
外は完全に夜だった。携帯を取り出して時刻を確認すると、もう十時をとっくに過ぎていた。
「こんな時間までやってるんだね」と僕は言った。
「月曜以外は一晩中やってるよ。ボウリング場なんてそんなもんだろ」と遠くの夜空を見ながらアキラが答えた。そんなものかと僕は思った。
「じゃあミカ大変じゃん」と、さっきからずっと動揺し続けているトラオが言った。「夜中までやるの?」
「わかんないけど、まあ大丈夫でしょ」とうるさそうにミカは答えた。
帰りはアキラが黒のボックスワゴンで家まで送ってくれた。
ミカとトラオは揃って先に降ろされた。また一緒に遊んでもいいですか?とミカは言っていた。アキラはもちろん、と答えて手を振り、ウィンドウを閉めて発進した。そして車内は僕とアキラだけになった。
僕は後部座席の左端で頬杖をつきながら、ずっと窓の外の景色を眺めていた。
「……なあ。次集まるなら、カラオケにしようぜ」と赤信号でアキラが言った。慎重にタイミングを見計らったような言い方だった。
「ミカちゃん、すげえ歌上手いんだよ」とアキラは付け加えた。
ボウリングは当分やめておこうということだろう。僕もまったく同じ思いだった。
「うん」と、僕は遠くの山を見ながら答えた。山は夜の闇に溶けて黒くのっぺりとしていた。そろそろ家が近い。
「でも、トラオに妹がいたとは驚いたよ」と僕は言った。「確かアキラの家にもいたよね」
「まあいるっちゃいるけど、あんな良い子じゃねーしな」と笑い交じりにアキラは言った。僕は「ふーん」と鼻を鳴らした。
「そういうもんなの?」と僕は尋ねた。
「そういうもんだろ」とアキラは言った。
それと同時くらいに車が止まった。気がつけばもう家の目の前だった。
「着いたぞ」
アキラは缶コーヒーを口に運んで深く息をもらした。
「それじゃ、また四人で遊ぼう」
そう言って僕はワゴンのドアをスライドした。
「ああ。じゃあな」とアキラが手を挙げる。僕は「じゃあね」と言ってドアを閉めた。
テールランプの光を残して、ボックスワゴンは夜の闇に混ざっていく。僕は無意識にミカの顔を思い浮かべていた。
——やっぱりダメだなあ。
久し振りに楽しんだはずの一日は、ささやかな苦みとともに終わっていった。
2.カラオケ
結局、この前のボウリングから次に集まるときまでかなりの間が空いてしまった。僕は大学で同時に出された四つもの面倒な課題をやっていて、普段に比べれば圧倒的に暇がなかった。大学の教授がたは他の講義でどれだけ課題が出ているかなんて知りもしないから、時に容赦なく何重にも被せてくる。おかげで僕らはずっと大変だ。
だけどそれはまあ、別にたいした理由じゃない。その気になれば僕はいつだって遊びに行くし、そのせいで課題が徹夜になったって一向に構わなかった。僕はもともと、そういう優先順位のつけ方をして生きてきたのだ。理性的にスケジュールを組むのはどうにも性に合わない。今までずっとそうだったし、多分これからもそうだと思う。
直接的な理由は、メンバーの暇がなかなか噛み合わなかったということだ。皆が暇なときに限ってアキラが正体不明の変な仕事で忙しかったり(詳細はいつ聞いても教えてもらえない)、トラオが好きなマイナーアイドルグループのコンサートに出向いていたりした。
とりわけミカに関してはバイトと大学の課題が忙しいらしく、彼女の空いている日は貴重だった。ボウリング場のバイトが週に四日で入っていて、不定期に増えることもあるとミカは言っていた。ミカは僕と違って理性的に物事を片付けるタイプだったから、大学で出された課題も適当にこなすようなことはしなかった。あるいは「出来なかった」と言うべきかもしれない。
夜勤を含む週四日かそれ以上のバイトの合間に、溜まったレポートや何かを完璧な形で片付けるなんて、サボりがちの僕にしてみれば想像を絶するような所業だ。
ミカの空いている時間は日が経つごとに少なくなっていった。彼女は、「私はいいので、三人で遊んでください」というメッセージと一緒に、謝っているヒヨコのスタンプを送ってくれた。
それじゃあ意味がないんだよと僕は内心思っていた。もともと男三人ならどこへだって遊びに行っている。カラオケだってボウリングだって、時間を潰せるところならどこへでも。だけどそれは、どちらかと言えば目的もなくただ街を徘徊しているのに近い。三人とも仲は良いけどそれだけだ。ミカがいるときとは時間の輝きがまるで違う。だけどもちろん、そんなことを本人に直接言うわけにはいかない。
「また空いてたら教えてね」と僕は送った。「ムリはせず」とも付け加えた。ミカは「はーい!」と返信して、「はーい」と言いながら手を挙げているヒヨコのスタンプを押してくれた。ヒヨコの笑顔は元気いっぱいで丸っこくて、どことなくミカに似ていた。
*
街の歩道ってのはよく見ると汚い。鳥の糞がやたらに落ちている。ちぢれたタバコの吸い殻は人に踏まれて中身が散らばっているし、吐き捨てられたガムは靴底の模様をくっきり写し取って地面にこびり付いている。
道路を挟んだ向かい側に、一軒の古本屋がある。僕はその古本屋の店先を遥か遠くの景色みたいに見つめている。
角のマクドナルドから四人組の若い男達が出てきて古本屋の前で足を止めた。赤い髪の奴が適当に本棚の本を手に取って開いた。周りの仲間が一様にそれをのぞき込む。赤髪はロクに目も通さずに「わけわかんねえ」と言って乱暴に本を置き、仲間を引き連れてわざとらしいガニ股でどこかへ歩いていった。
「青だぞ。二人ともハズレ」
隣に立ってベーコンレタスバーガーを食べているアキラが言った。その直後、目の前の道路を水色の軽が通り過ぎていった。トラオはしゃがみ込んでパズドラをやっている。
「あれ、俺さっきなんて言ったっけ」と僕は聞いた。古本屋のじいさんが何食わぬ顔で奥から出てきて本を元に戻していった。
「白だよ」とアキラは言った。「んで、俺はグレー」
「ああ……」
僕は虚ろに空を見上げた。ここらは朝からずっと灰色の雲で覆われているのに、遠くの方には青空がのぞいている。電線に留まった鳩が白い糞を落としてまた一つ歩道を汚していった。ハンバーガーを食べ終えたアキラは丸めた包み紙をポケットに突っ込んで、不機嫌そうにため息を吐き出した。
「トラオ。まだミカちゃん来ないのか」とアキラが言った。
かれこれ三十分以上はこうして、潰れたコンビニのシャッターに三人揃って寄りかかっている。
「大学終わったらすぐ来るって言ってたけど。自転車で」
「お前が家から車で送ってやればいいじゃん」とアキラは言う。「免許持ってないよ」とトラオが訴えるように言った。
「自転車じゃあ、ここまで結構遠いでしょ」と僕は言った。「大丈夫かな。ミカちゃん最近疲れてるんじゃないのか」とも聞いた。ずっと気になっていたことだ。
「そういえば最近、あんまり話してないなあ」とトラオは言った。「帰ったらいつもバイトに出てるか、部屋にこもってるかだから」
「ムリしてんじゃねーのか」と咎めるようにアキラが言う。かなあ、と言ってトラオはスマホをズボンのポケットに仕舞い、考え事をするように頬に拳を当てた。
そのとき遠くから「おーい!」と声がした。あの芯の通った綺麗な声だ。見ると、ミカが自転車に跨って大きく手を振っていた。僕とアキラは大きく手を振り返した。トラオは立ち上がろうとして尻餅をついた。
ミカは肩を上下させて何度も息をしていた。風でボサボサになったショートボブの前髪をだらんと垂らして、へばりながらもこちらに歩いてくる。僕は駆け寄って自転車を押してあげた。
「大丈夫か?」とアキラが聞いた。ミカは顔を上げて「すごい疲れた」と言って笑った。その目元には、まるで誰かに殴られたように深い隈があった。僕もアキラも、何も言わずにミカの顔を見ていた。ミカは息を切らしながら「待たせてごめんね」と言った。
受付には真面目そうなお姉さんが一人立っていた。面長で髪は黒く、しっかり者を前面に押し出している感じのお姉さんだった。
「フリータイムのドリンクバー付きで」とアキラが慣れた調子で言った。はい、と受付のお姉さんは答えた。
「学生様でしたら、お安くなりますが」
「全員学生です」
アキラは即座にそう答えた。僕はちらりと目をくれただけで何も言わなかった。ミカは少し笑っていた。トラオは携帯に目を落としていた。
それから学生証の提示を求められて、僕らは各々の学生証をカウンターの上に乗せた。トラオだけは専門学校の学生証だった。情報系の専門学校だ。
お姉さんは変な名前が気になったのか、僕の学生証だけ二度見していた。まあよくあることだ。
「はい。お部屋は208号室になります。ごゆっくりどうぞ」
やや無愛想にそう言って、お姉さんはドリンクのカップと伝票を手渡した。そして僕らは薄暗い照明の廊下を歩き、ドリンクバーでジュースを淹れた。
「学生証、まだ持ってたんだ」
僕はスプライトのボタンを押しながらアキラに向かって言った。アキラは淹れたばかりのコーラをその場で一気飲みしていた。
「ああ。辞めた後も大学から返せって言われないし。持ってりゃ何かと便利だしな」
そう言ってアキラは空になったカップにコーラを淹れ直した。僕はふーんと鼻を鳴らした。
「コップ、そこじゃないですよ」
「え?」
見ると、真ん中に置いたカップの右隣でスプライトが蛇口みたいに垂れ流しになっていた。僕は慌ててカップの位置を直した。
「ボタンが真ん中にあるのに」
「ジュースが出るのは右だけなんですよ」
そう言ってミカは笑った。他の二人はさっさと二階に上がっていく。
「紛らわしいね」
「そうでもないですよ」
そうかなあ、と僕は思う。ミカはずっと笑っている。疲れ切った目元なんてまるで嘘みたいに。
そんな彼女をじっと見過ぎていたあまりに、スプライトがちょっと溢れた。再び慌て出す僕を見て、ミカは一層可笑しそうに笑っていた。
僕らが208号室に入るなり、いきなり大音量のシンセサウンドが鳴り出した。アキラが片手で耳を塞ぎながら面倒くさそうに手を伸ばしてつまみを捻る。トラオはマイク片手に立ち上がって、早くもカラオケモードに突入していた。僕はそれなりに気を遣って早足で画面の前を横切り、歌っているトラオの奥に腰を下ろした。ミカはそのまま扉の一番近くに座って白ぶどうのジュースを飲んでいた。
画面にはキラキラした目のアニメキャラがたくさん映っていた。ずっと女の子しか出てこない。「わっ、出たな萌えアニメ」とミカが言った。トラオは完全に自分の世界に入ってアニソンを熱唱し始めた。太っているだけあって、腹の底から出る声は抜群だ。「輝きたいの」とか「大好きよ」とか、力強い歌声にはまるで似合わないフレーズばかりで聞いていて奇妙な気分になる。それを一点のためらいもなく全力で歌い上げてしまうのがこの男なのだと、僕は改めて感じた。これこそ久しく見ていなかった奴の本性だ。まさに生粋のオタクだ。
これには流石に妹も辟易しているのではないかと思い目を向けてみれば、ミカは体でリズムを取りながらサビを口ずさんでいた。まさかと思った。アキラもそれに気がついた。
「ミカちゃんこの曲知ってるの?」とアキラが訊いた。ミカはちょっと恥ずかしそうに笑って「はい」と言った。
「お兄ちゃんの影響で」
「アニメも見たの?」
「たまたま見たら、たまたまハマっちゃったんです」
言い訳みたいにミカはそう説明した。それから画面に向き直って、「けっこう面白いんですよ」と言った。アキラは全然興味なさそうにへえーと言った。僕も正直なところあまり興味は持てなかった。深夜アニメは割と見る方だけど、こういうのはあまり好きになれない。
曲が終わって、採点に移行した。90点と表示され、皆はそれなりにその点数を賞賛した。当のトラオは納得がいかない様子だった。
「もうちょっといけると思ったけどな」
メロンソーダを口にしてトラオは呟いた。
「十分じゃねえか」と言いながら、アキラがマイクを手に取って次に備えた。予約リストから夜景の映像に画面が切り替わり、B’zのイントロが流れ始める。アキラは肩を揺らしながら立ち上がった。
「歌いにくいんだよなあ。金具のせいで」
アキラの歌は出だしから完全に音が外れていた。画面に表示される音程のバーも全然噛み合っていない。高い音のときは上がりきらず、低い音のときは下がりきらない。まあ、はっきり言って音痴だ。何度も聞いてるから慣れたものだけど。
もっともアキラ自身は全く気にしていない様子で、所々で稲葉の真似をしたりしながら気持ちよさそうに歌っていた。本人がそれで良いなら良いのだろう。ミカも素直に曲に乗ってリズムを取っている。トラオはパッドで次に歌う曲を黙々と探していた。
アキラの採点画面は僕が速攻でスキップしてやったから、点数はわからない。いつのまにか出来た暗黙の了解みたいなものだ。アキラも気にせず、今歌ったばかりの曲をハミングしていた。
「はい次私!」
終わるや否や、ミカは待ち焦がれたようにマイクを持って立ち上がった。選曲は大塚愛のさくらんぼだった。古いといえば古い。でも好きな曲だ。
アキラがいつか言っていた通り、ミカは本当に歌が上手かった。もともと声が綺麗だし声量もしっかりあるから、歌声に余裕がある。結構高い箇所だって顔色ひとつ変えずにやすやすと歌い上げていく。音程も意識していないのにほとんどパーフェクトだ。安定感があって、聴いていて気持ちが良い。
「上手いだろ」とアキラが言った。なぜか自慢げだ。
「ああ」と僕は答えた。「本当上手いね」
トラオが終盤で合いの手を入れた。アイドルコンサートで磨かれた熱苦しいくらいの雄叫びだ。ミカは笑いまじりになって最後のサビを歌い上げた。曲が終わると自然に拍手が起こった。
採点結果は96点だった。見たことがない高得点だ。ミカはガッツポーズをとって座り、火照った頬に手で風を送っていた。歌っているうちに熱くなったのか照れていたのかはわからないけど、たぶんその両方だと思う。
「すごいねミカちゃん」と僕は心から賞賛した。「いえいえ」とミカは一応謙遜していたけど、誇らしげな表情が全然隠せていなかった。
その後ミカは「トイレいってきます」と言ってトイレに行った。わざわざ言わなくてもと思ったけど、彼女なら仕方ないとも思えた。それから僕の順番が来て、ロビンソンのイントロが流れ出した。僕は座ったままロビンソンを歌った。
ミカが戻ってきたのは随分後だった。ちょうどロビンソンの終わり頃だ。僕が最後の「ルララ」を歌った辺りで、申し訳なさそうに彼女は戻ってきた。さっきよりも顔が痩せている気がした。顔色も心なしか良くない。
「大丈夫?」と僕は訊いた。「あ、大丈夫です」とミカは答えた。採点は85点だった。
その後三時間くらいカラオケは続いたけど、ミカはさっきほどの調子が出なかった。声量も落ちて、高い声は出しづらそうだった。僕らは何度か心配したけど、その度にミカは笑って、大丈夫ですよと答えた。心配しても逆に気を遣わせているような気がして、そのうち僕らは何も言わなくなった。ミカはウトウトし出して、途中から横になって眠ってしまった。
「あんまりうるさいのはよそう」と僕は言った。他の二人も賛同して、そこからはバラード調の静かな曲が続いた。
次にミカが目を覚ましたのは、僕がオアシスのStop Crying Your Heart Outを歌っている最中だった。最後のサビを歌っているときだ。歌い終わって気がつくと、ミカは起き上がって小さく拍手してくれていた。
「これ、聞いたことあります」とミカは言った。
「オアシス知ってる?」と僕は訊く。
するとミカはかぶりを振って、あんまり知りませんと答えた。
「でも、映画で聞いたことあるんです」
「バタフライ・エフェクト?」
「そう!それ」
確かにこの曲はバタフライ・エフェクト一作目のエンディングテーマだ。それも映画の締めくくりとして、結構印象的な使われ方をしていた。
「あの映画面白いですよね」
「うん。あれはけっこう面白かった。良い映画知ってるね」
「映画好きなんですよ」
それから先はロクに歌わずに、ずっと映画の話ばかりしていた。アキラとトラオもすっかり歌い疲れたようで曲は入れなかった。
ミカは予想以上にいろんな映画や監督の名前を知っていた。クリストファー・ノーランやデヴィッド・フィンチャーはほとんど観ていたし、ウェス・アンダーソンの映画は全部大好きとも言っていた。映画好きの僕ですらムーンライズ・キングダムとグランド・ブダペスト・ホテルしか観たことがない。
「ファイト・クラブなら五、六回は観たぞ」とアキラが話に乗ってきた。アキラのファイト・クラブの話と北野映画の話ならもう何十回かは聞かされている。トラオはアニメ映画ならけっこうマニアックなところまで知っているが、残念ながらアニメ映画の話が出てくる様子はなく、一人でスマホをいじっていた。
支払いのときに受付にいたのもさっきと同じお姉さんだった。アキラが率先して全額払い、後から他の皆が代金を手渡した。ミカは計算に少し戸惑っていた。アキラは適当で良いよと言った。実を言えば僕も適当だった。
前回に比べて、外はまだ明るい方だった。時刻はもうすぐ六時になる辺り。ミカとトラオは揃って自転車帰りだ。
「わ、駐輪禁止だって」とミカが言った。
僕は歩み寄って、自転車のハンドルに巻かれた黄色い紙切れをべりっと引きちぎった。
「これでよし」
ミカは笑ってキーを回し、スタンドを蹴って自転車を引いた。トラオはもうサドルに跨っていた。
「帰り大丈夫?」と僕は訊いた。
「平気。熟睡したから」とミカは言った。目の隈は消えていなかった。
「今度一緒に映画観に行きましょう」
「うん」
兄妹は大きく手を振りながら漕ぎ出していった。僕とアキラは大きく手を振りながら見送った。それから僕らは原付を置いた駐車場まで歩いた。
「何お前、デートすんの?」とアキラが言った。僕は鼻で笑って否定した。
「違うよ。二人きりって決まったわけじゃないし」
「でも、映画の趣味合うのお前らだけじゃん」
確かにそれもそうだ、と僕は思った。それにどうせ行くなら、流行りの大作よりも良い映画を観に行きたい。ちょうどどこかの古い映画館でリバイバル上映されているような。
「やっぱ、二人きりかも」
駐車場でヘルメットを着けながら僕は言った。アキラはもう原付に跨ってエンジンを掛けていた。
「勝手にしろよ」と言って、アキラは軽く笑った。親父の笑い方にどことなく似ていた。偉そうだけど、嫌味がない。アキラは一足先にスロットルを回して、薄暗い駐車場から走り去っていった。
3.映画館
その古い映画館は、街のとある静かな裏通りに建っている。
近所にはコインパーキングや床屋やスナックなんかがポツリポツリとあって、その隙間を埋めるようにして暗い雑居ビルや小さなアパートなどが立ち並んでいる。昔からちっとも変わらないそんな景観の中でも、その古い映画館はひときわ異質な空気を纏ってそこに存在している。
映画館の名は「Silencio」。入り口の目立つところに青い筆記体でそう書いてある。「シレンシオと読むんだよ」と、小さい頃にばあちゃんが教えてくれた。そのときそこで何を観たのかはよく覚えていない。きっとその頃の僕には難しすぎる映画だったんだろう。
僕は駅までミカを迎えに行って、シレンシオを目指して駅前のにぎやかな通りを歩いていた。この前カラオケで会ったときから一ヶ月以上経って、すっかり暖かい時期になっていた。
夜の街中を歩くのもすごく久しぶりな気がした。実際は昨日の夜だってアキラ達と一緒に街を「徘徊」したばかりなのに、それとはまるで違う新鮮さがあった。これも隣にミカがいるせいかもしれない。
「最近、よく眠れてる?」
頭一つ分くらい小さなミカに向かって訊いた。彼女はずっと細かなスキップを踏むみたいに歩いていた。一歩ごとに体が跳ねて、黄色いパーカーの二本の紐がまるでシマウマの尻尾みたいに揺れる。
「バッチリ寝てますよ」とミカは言った。その目元には相変わらず深い隈が残っていた。むしろ、前より更に酷くなっているようにすら見えた。ふっくらしていた頬もいくらか痩せて、小さな影を作り出していた。
「……ウソ。全然寝てない」
さすがに誤魔化せないとわかったのか、ミカはちょっと目を伏せて笑いまじりに撤回した。
数日前、トラオにミカの調子を尋ねたときのことを思い出す。あのときトラオはこっちも見ないで「大丈夫でしょ」と言っていた。その声には全く自信がなさそうだった。
「やっぱ、バイトとか課題が大変なんだ」
「うん。でも、ちゃんと頑張れてるので大丈夫ですよ。本当に」
愚痴くらい言ってもいいのに、と思う。ミカは本当に人から心配されるのを嫌う。今までもずっと、一貫してそうだった。何度彼女から、「大丈夫」という言葉を聞いてきたかわからない。
「好きでやってるんですよ。私」
無理やり付け足すようにミカは言った。そのとき向こうから歩いてきたサラリーマン風の男の人と肩がぶつかって、ミカは振り返ってごめんなさいと謝った。男の人は振り返らずにそのまま歩いて行った。
「……好きでやってるんです。仕事楽しいし、私、けっこう頼りにされてるから」
そこまで言われると、僕もそれ以上ムキになることは出来なかった。「頼りにされてる」という部分に突っ込みたくはなったけど、これ以上言ったら彼女に怒られてしまいそうな気もする。大丈夫って言ったら大丈夫なんです、とかいう調子で。だから僕はただ「ふーん」と答えた。ミカはあくびをかみ殺していた。
「裏通りに入ろっか」
僕が提案すると、ミカは「うん」と答えた。さっきみたいなこともあるし、やっぱり人通りは少ないほうが良い。
靴屋の角を曲がって薄暗い道に入ろうとしたら、ミカが急に足を止めて、顔を後ろに背けた。どうしたの、と僕が尋ねると、なんでもないですとミカは答えた。
「ただ、あれがなんだか苦手で」
「あれって……スターバックス?」
ミカが目を逸らしながら指差す方向には、スターバックスの円い看板があった。看板には「STARBUCKS COFFEE」の白い文字と、真っ黒い目で微笑む人魚の顔が描かれている。
「昔から怖くて、直視できないんです。夢にも出てきたし」
確かによく見れば不気味な気もする。髪の毛のウェーブなんてムンクの「叫び」そっくりだ。ミカが直視できないと言うのもわからなくはない。
「確かに、ちょっと怖いね」
「でしょ?良かった。わかってくれる人がいて」
ミカは安心して、小走りに裏道へと入っていった。暗いのは平気らしい。先回りしてこっちを振り向くミカのもとへ歩く途中、僕はなぜか得体の知れない懐かしさのようなものを感じていた。それが何の懐かしさなのかは、どうしても思い出せなかった。
シレンシオへと続く暗い裏通りを歩く途中、一匹の猫がアパートの駐車場から出てきて反対側のビルの隙間に入っていった。猫は白と黒の毛を持っていた。ミカは「猫だ」と言って駆け寄り、腰をかがめてビルの隙間を覗いた。向こうから走ってきた自転車の男子高校生が不思議そうにミカの背中を見ていった。
「いなかった」
戻ってきたミカはそう報告した。そろそろシレンシオが近い。
「そういえば、今日何を観るんですか?」
「さあ。なんだろう」
実は決まっていない。だけど、あそこでは必ず何かしら良い映画がやっているはずだ。今まで一人でふらっと観に来ることが多かったけど、どれも心に残っている。ただ、一つだけ気がかりなこともあった。
「ミカちゃん、ホラー映画観れる?」
今更になって僕はそう尋ねた。あそこではたまに昔のホラー映画が上映されている。支配人の気まぐれなのか、エクソシストとかオーメンのような怖いやつがある日思い出したようにスクリーンに映し出されるのだ。
「ホラー映画、大好きです」とミカは言った。スターバックスは怖いのに、と僕は思った。
「あと、ミカちゃんじゃなくて、ミカでいいですよ」
前から言おうとしていたような口ぶりだった。「わかった」と僕は応えた。
後ろの方で猫の鳴き声が聞こえた。振り返ると、白い電灯に照らされた道路の真ん中でさっきの猫がこっちを見ていた。
「さっきの猫!」とミカが言った。あそこまで走って戻るのかと思ったら、さすがにそれはなかった。ミカはその場で猫に手を振った。僕も手を振った。猫はこっちを見ながら二、三歩じりじりと歩き出して、そのままアパートの駐車場に素早く駆け込んでいった。
気がつけば、僕らのすぐ右側でSilencioの青い文字がぼんやり光っていた。
「ここだ」
僕は弱々しい裸電球に照らされた窓口で二枚の鑑賞券を買った。窓口では青いキャップを被ったいつものじいさんがタバコを咥えてラジオを聴いていた。
「今日は何やるの?」と僕はじいさんに訊いた。「小さな恋のメロディ」とじいさんは答えた。
「……いや、エンゼル・ハートだったか」
僕は鑑賞券を一枚ミカに渡した。窓口のじいさんがその場で券を回収する。無意味にも思えるけど、昔からこうだから仕方がない。従業員もこのじいさんと映写室のじいさんの二人しかいないのだ。
「たしか、エンゼル・ハートだ」と窓口のじいさんは嗄れた声で独り言みたいに言った。ミカはポスターも何もないその殺風景な入口を物珍しそうに眺め回していた。
上映時刻はいつも決まって昼間の三時か夜の九時。それ以外はなにもやっていない。それぞれ一つずつ別の作品を上映する。派手な音響システムも投映技術もないけど、昔の映画にはそれで十分だ。
「すごい。古い映画館、って感じ」
「実際、古い映画館だしね」
劇場の広さはだいたい学校の教室二つ分程度。まずまずの広さだ。階段状に座席が配置されていて、後ろから二番目の左の方に白髪の老人が一人腰掛けていた。茶色いセーターの老人は僕たちの方を見ると、笑顔で会釈した。僕たちも会釈した。あとは前の方に丸つばの帽子を被った貴婦人風の女の人がいるだけだった。
「空いてるね」
階段を下りながらミカが言った。「いつもこうだよ」と僕は応えた。
僕らは中央の席に並んで座り、映画が始まるのを待った。九時まであと十五分の時間があった。その間にミカはトイレに行き、僕は外の自販機でジュースを買って戻ってきた。一旦外に出てもすんなり中に入れてくれることはあらかじめ知っていた。
「エンゼル・ハートってどんな映画?」
席に戻るなり、ミカはそう訊いてきた。僕は買ってきたオレンジジュースをミカに手渡した。「ありがとう」とミカは言った。
「観たことないけど、確か怖いやつだったと思う」
「怖いやつかあ……」
そう呟くミカの目は、とろんとしてまぶたが半分沈んでいた。
「怖すぎたらどうしよう」
「目を瞑ってればいいよ」
そっか、と消え入るような声で返事したきり、ミカは首を傾けて眠ってしまった。上映まであと五分あった。
スクリーンに光が灯る。真っ白い画面が色づいて、茶色いロンドンのシルエットが映し出された。エンゼル・ハートじゃなくて、小さな恋のメロディだった。僕は眠っているミカを丁寧に揺すって起こした。
「始まったよ。エンゼル・ハートじゃなかったけど」
ミカは眠たそうな顔で体を起こしてスクリーンを見た。楽器を持って行進する少年団たちの姿が映っている。
「小さな恋のメロディ?」とミカが訊いた。「そう」と僕は答えた。
「良い映画だよ」
「なんか、知ってる気がする」
「観たことあるの?」
「わからない。でも、なんとなく知ってる気がします」
それから僕らはダニエルとメロディの恋の行方を静かに見守った。おもしろいところがあればミカは口を押さえて笑った。上映中、ミカは一度も寝ないで映画に集中していた。僕は前に一度観たことがあったけど、それでも最後まで飽きることはなかった。
CSN&Yのティーチ・ユア・チルドレンが流れる中、二人は大人たちの戒めを振り切って、トロッコに乗ってどこか遠いところへと駆け落ちしていく。それを背景にエンドロールが流れ、映画は幕を閉じた。
映画が終わってしばらくの間、僕たちはじっと画面を見つめて音楽を聴いていた。貴婦人風の女の人はすぐに席を立って劇場を後にした。やがてエンドロールも終わり、劇場に弱い明かりが灯った。ミカは体を仰け反らせて大きく伸びをした。
「面白かった」とミカが言った。
「うん」と僕は応えた。
ミカは大きくあくびをした。今度はかみ殺しもしなかった。
「なんか、明日バイトいきたくないなあ」とミカは言った。
彼女がそんなことを言うのは初めてだった。
「なんで?」
「もう、クタクタで。オーナーは厳しいし、大学の課題もまだ残ってるし」
それから何かが吹っ切れたみたいに、ミカはバイトや大学のことを何もかも話してくれた。彼女がいかに休む時間がないのかとか、バイトの仲間ともあまり上手くいっていないこととか、大学でも疲れすぎていて講義が頭に入らないとか。特にバイトのオーナーのことは聞けば聞くほどひどかった。彼女を無闇に酷使しているとしか思えなかった。
「なんか、結局色々と愚痴っちゃいましたね」と言ってミカは笑った。
「バイト、やめたほうがいいよ」
僕が言うと、ミカは笑顔のまま首を横に振った。
「やめるわけにはいかないんです。奨学金のお金を稼がなきゃいけないし、私がやめたら他の子にも迷惑なので」
「でも」
その先は何も思い浮かばなかった。何かを言わなきゃいけないはずなのに、思考が固まってしまった。
「帰ろう?」と言って、ミカは席を立った。僕はやり場のない思いを抱えたまま彼女の後を追った。
駅までミカを見送る途中、僕はもう一度「やっぱりやめたほうがいい」と言った。ミカは下を向いて微笑みながら、「考えてみます」と言った。とても静かな言い方だった。
裏通りはほとんどの建物が明かりを落としていた。月も厚い雲に隠れて出ていない。白い電灯だけがずっと同じ間隔で並んで、アスファルトを冷たく照らしている。僕らは小さな恋のメロディについて話しながらその道を歩いた。ミカはダニエルの友達の男の子が好きだと言っていた。
ひとしきり感想を言い合ってからは、しばらく沈黙が続いた。自然な沈黙だった。
どこからか、悲しそうな犬の鳴き声が聞こえてきた。夜の風は涼しかった。
「……たまに、周りが怖くなるときがあるんです」
ミカが慎重に口を開いた。僕は何も言わずに彼女の話を聞いた。
「周りの人達が皆、実は目に見えない電波みたいなもので通じ合っていて、揃って完璧な動きをしているような気がするんです」
難しい話だった。でも何となく分かる気がした。僕にも、思い当たる節がないこともない。
「そういう時、自分だけが遠くに置き去りになってるような気がするんです。……それが、たまにすごく、怖いんです」
ミカは両手で自分の両腕を抱きかかえていた。僕は静かにミカの肩を手で押さえた。
「……俺は今まで一度も電波で人と通じ合ったことなんて無いし、アキラやトラオも、多分皆そうだと思う」
それが根本的な解決になっているのかどうかは自分でもよく分からなかった。だけどミカは「ありがとう」と言ってくれた。そして僕らは駅に到着した。人はほとんどいなかった。
「また何かあったら言ってね」
改札の向こうのミカに向かって声を掛けた。ミカはこっちを向いて、「はーい」と言って手を振った。僕も手を振り返した。僕がミカの元気な姿を見たのは、その夜が最後になった。
4.ゲームセンター
僕は白いベッドのパイプに縋り付いて、目蓋が壊れるくらいに固く目を瞑った。苛立ちと悲しさと自責の念が同時に押し寄せて全身を強張らせた。
呼吸が無意識に荒くなる。今までの出来事がまるで走馬灯のように頭の中を駆け巡り、締め付けるような頭痛を引き起こした。
誰かが僕の肩に手を置いた。僕はその手を怒りに任せて振り払った。手を置いたのはアキラだった。アキラは苦々しい表情で何かを言いたげに口を開いていた。
その後ろには兄が立っている。僕はそちらに目を向けるなり肩をいからせながら歩み寄り、的外れな文句を散々ぶつけた。トラオは何も言わずに僕の言葉を聞き入れていた。それからトラオはため息をひとつ吐いて、力なくベッドの方に歩いた。
「ごめんね。俺、本当に知らなかったんだ。こんなになるほどだったなんて」とトラオは言った。そしてトラオはベッドに片手を置き、横たわるミカを細い目で見降ろした。トラオはもう一度、切なげにため息をついた。僕は床にがっくりと腰を下ろして膝と膝の間に顔を埋めた。そしてまた、固く目を瞑った。
トラオを責められないことはよくわかっていた。むしろ、責められるべきは僕のはずだった。
彼女の苦しみを面と向かって語られたことがあるのは、他でもなく僕だけなのだから。よく知っているのは僕だけだ。知っていて、何もしなかったのも僕だけだ。僕は両手でズボンの膝をくしゃくしゃに握りしめた。
そんな僕の心中を見透かしたみたいに「お前のせいじゃねえよ」とアキラが言った。またそこには明らかに、第三者に向けた静かな怒りも籠っていた。「……トラオのせいでもない」
重苦しい空気が狭い空間を圧迫していた。
夜の病室には、「手遅れ」の言葉が目に見えないガスのように充満していた。それを吸い込むたびに僕らは辛く苦しみ、乾いたため息となって再び吐き出される。その時間はいつまでも、いつまでも続いた。
知らせを受けた時、僕たちはいつものように揃って呑気に遊んでいた。一番大事なことを端に追いやって、ひたすらの惰性の中で気を紛らわせていた。
トラオの啜り泣く声がかすかに聞こえる。僕は右の拳で強く床を叩いた。
*
昔からゲームセンターというものがあまり好きじゃない。雰囲気がどうしても苦手だ。
色んなゲームの音が競うように大音量で耳に響いてくるのが苦手だ。光の洪水に目がチカチカさせられる。機械の排気とこぼれたジュースが混じったような独特の臭いも好きじゃない。
だけど矛盾したことに、僕は今まで友人と連れ立ってゲームセンターに来るのを断ったことは一度もない。ゲームセンターが苦手とはいえど、ゲームそのものは好きな方だからだ。
郊外のサードプラネットに来てから十分が過ぎた。トラオはさっきからずっとUFOキャッチャーにしがみついてフィギュアを狙っている。ピンクの髪をしたボーカロイドのフィギュアだ。少しずつ動かして5センチ程度は近づいたものの、この調子じゃあまだまだ先が長い。アキラも腕を組みながらすっかり飽きた顔をしている。
「金のムダだろ。もうやめとけよ」
「いや。コツがわかってきたから、あと二回やればいける」
真剣な表情でトラオは言う。これでもう千四百円はつぎ込んだことになるけど、僕はあえて何も言わなかった。
アームがゆっくりと降下して、箱の隙間に鉄の爪が差し込まれる。トラオは「よおし!」と叫んで早めのガッツポーズを取った。こういう仕草は何となくミカに似ている。アキラも少し前のめりになって「おっ」と声を発した。僕もちょっと真面目に結果を見守った。
皆の期待とは裏腹、アームは予想以上に非力で、そのまま箱を引き上げるには関節が緩すぎた。箱は微動だにしないままアームだけが上昇して、ダクトの上で景品を落とすジェスチャーをした後、元の場所に戻っていく。トラオは筐体に寄りかかって大げさに嘆き出した。アキラは拍子抜けしたように鼻で笑って背中を向けた。
「買ったほうが安いよ」
「そういう問題じゃないんだよなあ」
言いながらも、トラオは流石に諦めたようだ。アキラは他の台でピカチュウのぬいぐるみを取ろうとしていた。妹にあげるつもりだろう。
「なあ。最近ミカの調子どう?」
僕が訊くと、トラオは露骨にびっくりした表情を浮かべてこちらに向き直った。
「ミカ?」
「ああ、ほら、月曜に映画観に行った時さ。そう呼んでって言われたから」
「ミカがそう言ったの?」
「そう」
絶句するトラオの元にピカチュウを持ったアキラが駆け寄ってきた。アキラはピカチュウの両耳を持ってこれ見よがしにトラオに突きつけた。
「おい、これ一発だぜ。すごくね?」
トラオはしかし、そちらには目もくれない。アキラは予想外の無反応に怪訝な顔をした。
「どうした?」
「レクが、ミカのことミカって呼んでる」
「なにっ?」
それから散々質問責めに遭ってしまった。なんでそんなに仲が良いんだとか、何か変なことしてないかとか、キスしたのかとか。僕は何度も「映画観ただけだって」と弁解した。二人はなかなか信じなかった。
「それより、具合は?大丈夫?」
質問責めを押し切って僕が訊き返すと、トラオは打って変わって神妙な顔つきになった。
「大丈夫だよ」
その声はあまりにも小さくて、うるさいゲームの音にかき消されそうだった。
「本当かよ」とアキラが言った。トラオはうつむいたまま何も言わない。
「俺、映画観に行ったときにミカから全部聞いたよ」と僕は言った。「すごく大変な思いしてるよ」
するとトラオは顔を上げて、僕の腕を掴んだ。
「何て言ってた?」とトラオは訊く。
「知らないの?」と僕は訊き返す。
情けなさそうにトラオは床を見下ろして頷いた。
「……いつも大丈夫って言ってた。皆にもそう言っといてって」
僕は腰に手を当ててため息をついた。きっと今までもずっとそうだったのだ。心配されないようにそうやって気を配っていたのに違いない。
でも、よく見れば分かるだろ。やつれてることくらい。真剣にそう言おうとした時、トラオの元に通話の着信があった。着信音はトラオが好きなアイドルの曲だった。
トラオが電話に出ている間、僕は何気なく周囲を見渡した。やっぱりこの薄暗さとチカチカした光はあまり気分が良くない。ツインテールの女子高生がリズムゲームをやっている。何という名前のゲームかは知らないけど、その手つきは気味が悪いほど高速だった。最近は女の子でもああいうゲームをやるのか、と軽いカルチャーショックを受ける。メダルゲームのエリアでは男スタッフがマイクを片手に何やらイベントを進行していた。ミカもボウリング場でああいう仕事をやっているのかもしれないなと僕は思った。彼女がやるには少し荷が重そうな仕事だ。小学生の二人組が太鼓の達人を異様に上手にプレイしている。父と小さな娘の親子連れがセブンティーンアイスを買っている。スロットマシンの前には薄汚れたジャケットを着た中年の男が腰掛け、プリクラの中から顔の黒い二人のギャルが現れる。中学生くらいのカップルがUFOキャッチャーでくまモンのぬいぐるみを取ろうとしている。チャラチャラした格好の若い男達が喫煙所に入り、さっきの女子高生は別のリズムゲームにコインを投入してヘッドホンを装着した。
何もかもがリアルだ。色と光の海。何重にも折り重なる電子音の波。甘ったるい匂い。機械の臭い。笑う人、顔をしかめる人、無表情の人。携帯を右耳に当てるトラオ。腕を組んでそれを見るアキラ。どれもこれも全てが同時に、平等に僕の眼前に押し寄せる。
「──倒れたって」
トラオが呆然とした顔で言った。
「え?」「は?」
「ミカが、バイト中に倒れた」
目の前の現実が、一転して嘘のような世界に見えた。
*
ボックスワゴンの車内をオレンジ色の光が通り抜ける。虚ろに窓の外を眺める僕と下を向くトラオ、眉間に皺を寄せながら運転するアキラ。オレンジの光は沈黙する僕達の表面を波のように滑っては消えていく。
ミカは過労による肉体の疲れと精神的なストレスが原因で倒れ、近くにいた客の一人が救急車を呼んだらしい。僕達が病院に到着したのはそれから三十分後。彼女は意識を失くしたままベッドに横たわり、ビタミンを点滴されていた。顔は蒼白。目の隈は一層酷く、目蓋が赤く膨らんでいた。
病院を出て、車に乗り込んでから約二十分。ボウリング場には思っていたよりもずっと早く着いた。アキラがいつも以上に速く車を飛ばしてきたからだろう。
自動ドアをくぐるなり、アキラがカウンターまで直進して女のスタッフに声を掛けた。僕は何となく、映画で見た銀行強盗のシーンを思い出していた。
キャバクラ嬢みたいにもっさりとした金髪の女は、怪訝そうな表情を一度僕らの方に向けると、子供みたいな声で「なんですかぁ」と言った。そして女はカウンターの内側に置いた自分の携帯を弄り始めた。マニキュアの長い爪が画面に当たらないのが不思議だ。
「ここのオーナー、今いる?」
怒りを懸命に抑えた調子でアキラが訊く。その怒りがこの女スタッフの態度のせいじゃないということは、僕もよく分かっていた。
「えー何、オーナー?オーナーならもう帰る頃だけどー?」
女は携帯から顔を上げようとしない。アキラはぐいと身を乗り出した。
「それは、もう帰ったってことか?」
「えーわかんない。いるならフロアの辺りにいるよ。それか車」
アキラは小さく舌打ちをして、僕らの方に向き直った。女はチラチラとこちらを見てきたが、カウンターの端でカップルが待っていることに気づくと怠そうに対応し始めた。
「俺とトラオは二階に行くから、レクは駐車場見てきてくれ」
それだけ言って、アキラはトラオを連れて二階への階段を上っていった。残された僕は、カップルの対応をしているキャバクラ女の方を向いた。
「車種は?」
女は一瞬、自分が話しかけられていることに気付かなかったようで、少し動揺していた。カップルも変な目でじっとこっちを見てきた。
「オーナーのだよ。どんな車」
苛立ちが徐々に募ってきた。女はマイペースに「ああ」と呟いて、「ポルシェの赤いの」と言った。僕はすぐに駐車場へ飛び出した。
赤いポルシェはすぐに見つかった。入口から右に三台分程度離れた場所に、一台だけポツンと停められている。よく見ればその周りだけ四角い白線が引かれていて、専用の駐車スペースになっていた。
ポルシェに駆け寄って中を覗く。車内には誰もいなかった。ゼブラ柄のハンドルカバーとかミニコンポとか、趣味の悪さがうかがい知れただけだ。
運転席のシートにはコンドームの箱が乱雑に置かれ、中身のゴムが散らばっていた。
車があって車内にいないということは、フロアの方にまだ残っているということだろう。僕はポルシェを後にして再びボウリング場の中に入り、カウンターを横切って階段を駆け上がった。いつかと同じボウリングの光景があった。
端のレーンのベンチの後ろで、黒いレザージャケットを着た長身の男がアキラ達を見下ろしていた。僕はその場に歩み寄り、上目で男を睨んだ。男は冷めた表情を僕の方にも向けた。
「何、君もお友達?」と男は言った。僕は何も答えなかった。
男は茶色く染めた髪をツンツンに尖らせていて、その顔立ちは意外にも整っていた。甘い顔とでも言うのか、女受けは良さそうだった。
「だから、俺に言われても困るんだよね。あの子がやってくれるって言うから任せたのに」
男はわざとらしいため息を混ぜながらそう言った。アキラは何も言わずに拳を握っていた。
「任せられたんでしょ。強引に」
トラオが怒りを露わにした。男は目線を宙に上げて舌打ちをした。そして小さな声で「ウザ」と呟いた。
「あのさあ。君らなんにも知らないんでしょ?なんでそうやって決め付けるの?」
何と言い返せば良いのかわからなかった。確かに僕らは実情を知らない。だけど、あんなになるまで仕事をさせるのはどう考えても異常だ。法律違反か何かに決まっている。
違反じゃないのか。僕がそう問いただそうとしたとき、アキラがいきなり振り返って「帰るぞ」と言った。アキラはそのまま早足でその場を去っていった。
まだ話がついていないと思いつつも、僕はその後を追った。トラオは最後までその場に残っていたけど、遅れて歩き出した。
「代わりで来てくれたのかと思ったのに」
男が冷笑交じりの声でそう言った。
*
トラオは家に着くまで一言も口を聞かずに険しい顔で俯いていた。家の前で車が止まると「じゃあ」とだけ言ってドアを開け、車を降りていった。スライドドアは大きな音を立てて閉められた。
あの男の顔を思い出しただけでも腹が立ってくる。皆同じ思いだろう。
全てがミカの自己責任じゃないことくらい、考えなくても分かる。頼まれたら断れない性格だと知っておきながら仕事を押し付けるのは、強制しているのと同じことだ。
「ねえ」
僕は窓の外を見るのを止めて、アキラに問いかけた。
「何だ」
アキラは低い声で応えた。氷のように冷たい声だった。
「やっぱり、労働基準法違反とか、そういうのじゃないのかな」
僕が訊くと、アキラはしばらく黙っていた。それから小さく「ああ」と言った。
「でも、訴えるのは無理だな」
「なんで?」
「多分、あそこでああいう目にあったのはミカちゃんだけだろ。もし俺達や家族が訴えて審査が入ったとしても、どうせ違反は見つからない」
アキラの冷静な物言いに、僕はどうしても反発したくなった。
「でも、他に何か証拠が出せるかもしれないし」
「いや。証拠もほとんど出ないだろうな。ああいうとこは大抵、決まった時間でタイムカードを切らせてるから。ミカちゃん人が良いから、文句の一つも言わなかっただろうしな」
違反は見つからないし、証拠も出せない。この手のケースは泣き寝入りが一番多いとニュースでも聞いたことがある。考えれば考えるほど無力感が募った。
「でも、証言さえあれば」
なんとかならないのだろうか。必死に絞り出したその考えに対しても、アキラの否定は即答だった。
「ダメだろうな。他の従業員もグルなら、現場の話は誰もしようとしないだろ。それに、俺達は直接関知してないから何も言っても恐らく無駄だ」
「なんでそんなに冷静なんだよ」
その問いには答えてくれなかった。家の前まで来ると、アキラは黙って車を止めた。
「じゃあ」と僕は呟いて、車のドアを開けた。アキラは「ああ」と言った。僕はドアを閉めた。
ボックスワゴンが走り出す。遠ざかっていくかと思いきや、途中の小道で切り返してこっちに戻って来た。そしてそのまま家の前を通り過ぎ、もと来た道を走っていった。こんな遅くから、一体何の予定があるのだろうか。テールランプの光は緩やかなカーブの向こうへと消えていった。
僕は衰弱したミカの顔を思い浮かべていた。あの下らない男が彼女を散々こき使う様子が連想された。僕はその想像を振り払い、深呼吸をして家に入った。夜の空気は嫌気が差すくらい澄んでいた。
5.公園
夜中の公園には僕たち以外誰もいない。DSを持ち寄って遊ぶ男の子達はいないし、なわとびをする女の子達もいない。砂場で遊ぶ親子連れもいないし、柴犬を連れた爺さんもいない。夜だから当たり前だ。人のいない公園を照らし続ける電灯の白い光には、どこかもの悲しい雰囲気が宿っている。
『公園に集まるぞ』
月曜の夜、家でゲームをやっていた僕の元に突然そんな連絡が来た。もちろんアキラからだ。
「公園」と一口で言って通じるのは、そこが小さな頃から三人で一緒に遊んでいた馴染みの公園だからだ。近所では「まんじゅう公園」なんて呼ばれている。僕らもいつのまにかそう呼ぶようになっていた。
その名がついた理由は一目瞭然、公園のど真ん中にコンクリートで出来た白いドームがあって、それがまんじゅうそっくりだからだ。ドームの表面には石が点々と埋まっていて上に登れるようになっていたり、反対側には幅の広いすべり台がついていたりする。横には大きな穴が空いていて、かまくらみたいに中に入ることも出来る。
小さい頃の僕はあの中に入って暗いコンクリートの裏側をじっと眺めるのが好きだった。中二の夏、夜中にあそこでこっそり女子といちゃついた思い出もある。まあ何かと感慨深い場所だ。
公園の前でアキラの黒いワゴンが闇に佇んでいた。アキラは既に公園に来ていて、まんじゅうの頂上に寝転がって夜空を眺めていた。僕がすぐそばまで歩み寄っても全く気がつかない。眠っているのかと思ったら、目だけはバッチリ開いていた。
「来たよ」
僕が言うと、アキラは空を見つめたまま「ああ」と応えた。
「……なあ。星がすげえな」
僕は鼻で笑った。いつからそんなロマンチストになったのか。
だけど確かに、今夜は星がよく見える。プラネタリウムとまではいかないものの、視界の端までぜんぶ星空だ。こんなにたくさんの星を見たのは何日ぶりだろう。もしかしたら、けっこう最近見たのかもしれない。
「いっつもこんなもんか?」とアキラが訊く。
「いや。すごいよ。確かに」と僕は答えた。
それからトラオが来るまでに五分くらいの時間があった。それまで僕はバネが付いたパンダの背中にまたがって、揺れたり揺れなかったりしていた。
普通ならこういう暇なとき、携帯をいじるのだろうか。そうだとしても、何をすればいいのかよくわからない。街中や大学でずっと携帯を見ている人たちは一体何をしているのだろう。そんなに心奪われるような魅力があるなら、僕もぜひ知りたいものだ。
アキラはまんじゅうの上でずっと仰向けになっていた。両手を頭の後ろに置いて枕にしている。すごく心地良さそうだ。
やがてアスファルトを滑る自転車の音がして、トラオがやって来た。
「ごめんごめん。遅かった?」
「いや、別に普通」
三人が揃うやいなや、アキラがまんじゅうの上から滑り降りてきた。
「よっと」
アキラは短く息をついて尻を払い、僕たちの顔を交互に見た。そして腕を組んで仁王立ちになった。昔とまるで同じ光景だ。
小さな頃、遊びのリーダーはいつもアキラだった。それは今でも変わらない。
「さて、今夜こうして集まったのは他でもない」
僕は何も言わずに次の言葉を待った。トラオも同様に真面目な顔をしている。アキラはもったいぶるように口を止めて、そそくさとまんじゅうの左側に周っていった。僕たちはその場で立ち尽くしていた。
アキラはまんじゅうの中に入って、反対側の穴から出てきた。その右手には大きなボストンバッグが下げられている。ずっしりしていて、かなり重そうだ。
「何それ」と僕が訊く。
「まあ、見てな」と言いながら、アキラはボストンバッグのジッパーを開けた。
中から出てきたのは何かの機械だった。鉄製のマスクのような物もある。それぞれ二つずつ用意されていた。
「何これ」
見ても全くピンとこなかったので、僕は再度尋ねた。
「溶接機だ」
「どっから持ってきたの?」
「近くの工場から借りてきた」
借りてきた、とアキラは言うが、実際は勝手に持ち出してきたのだろう。いたずらっぽい笑顔が何よりもの証拠だ。僕は少し辟易したけど、それについて追及する気は起きなかった。
「それで、これから何するの?」とトラオが尋ねた。
その質問を待っていたとばかりに、アキラは地面を向いて不敵に笑った。
それから僕らの方に向き直り、歯の矯正器具を覗かせたまま答えた。
「スペアを取りに行くんだよ」
*
僕は車の中で遠くの星空を見ながら、さっき公園でアキラから言われた作戦を反芻していた。
──あのボウリング場は月曜なら十二時で営業が終わる。その時間を狙って屋上まで上がり、溶接機を使ってあのデカいピンの立体看板を落としてやる。そのついでに、あいつの気取ったポルシェもペチャンコにしてやろう。ポルシェは丁度ピンの真下に停められてるから、上手くやれば一発でスクラップだ。
──ピンは俺とレクで倒しに行く。トラオは自販機の裏に隠れて周りに人がいないかどうか確認してくれ。万が一逃げる時になってバレたり、頭の上に落としでもしたら洒落にならないからな。
それが作戦の全容だ。もとから十分洒落になっていない。トラオはあれからずっと緊張して体を強張らせている。
「でも、どうやって屋上まで上がるの?」
赤信号で止まった時、アキラに訊いた。アキラはラッキーストライクを一息吸ってゆっくり煙を吐き出した後、答えた。
「……外階段がある。鉄の扉があって鍵がかかってるけど、簡単に乗り越えられる」
「あいつが既に帰ってたら?」
「いや。あいつは残ってるよ」
「なんで知ってんの?」
さっきからアキラは妙にあのボウリング場に詳しい。
「そりゃあお前、聞いたからだよ」
アキラはあっけらかんとそう答えた。
「誰に?」
「ミカちゃんに」
ミカちゃんに、と確かにアキラは言った。思わず背筋が伸びた。トラオも同様の反応だった。
「ミカ、目覚ましてたの?」
トラオが上ずった調子で訊いた。
「ああ。知らなかったのか?ピンピンしてたぞ」
「いつ?いつ会った?」
「あの日、お前らを家まで送ったすぐ後だよ」
あの時、アキラの車がいつもと正反対の方角に走っていったのを思い出した。まさか病院まで戻っていたとは思わなかった。
トラオがミカの回復を知らなかったのは不思議ではあるが、何よりその報せは嬉しい。
だけどそれを知ると同時に、この作戦に対する抵抗感が芽生えてきた。
「こんなことして、意味あんのかな」と僕は呟いた。
復讐劇の映画じゃよくあるこんな台詞を、自分の口で言うような日が来るとは思わなかった。
「意味ないよ」
アキラはさらっとそう答えて、左手で新しいタバコを咥え、その手でライターを持って火をつけた。
「ただのイタズラだ。意味なんてあるわけない」
開き直るわけでもない、冷静で客観的な言い方だった。僕は一瞬、その先何を言うべきなのかわからなくなった。
「じゃあ、なんでやるんだよ」
「……知らん。やったら、気が静まるから?」
疑問系で返すってことは、ハッキリした目的なんて始めから無いということだ。そう思うと、急に何もかもがバカバカしくなってきた。
「こんなことしたら、ミカ怒るんじゃないの?」
「そうか?あのでっけえピン倒してポルシェぶっ壊してやったって言ったら、ミカちゃん手叩いて笑うよ。多分」
どうしてもそうは思えない。ミカならきっと怒るだろう。それが自分のためにやったことだと思ったなら、なおさら怒りそうだ。
「まあ、今ならやめてもいいんだぜ。トラオも」
「……やめないよ」
トラオは静かに、しかしハッキリとそう言った。覚悟はもう決まっているらしい。
「レクは?」
抵抗感は拭えなかったものの、トラオの真剣な表情を見て断る気にもなれなかった。
「行くよ」と僕は言った。
車はボウリング場の前を通り過ぎて裏手に周り、室外機や倉庫のある暗い場所で停められた。
「後は、上まで登って時間を待つだけだな」
アキラはそう言って、吸い殻をコーヒーの空き缶に突っ込んだ。
時刻は十一時四十五分。ボウリング場の営業が終わる十二時まで、あと十五分だ。
*
鉄の格子扉は想像していたよりもずっと大きかった。二メートル半くらいは高さがあって、錠前付きの鎖でがっちり固定されている。過去に誰かが侵入したことでもあったのだろうか。
アキラが先にジャンプして格子扉の縁を掴み、腕の力だけで登っていった。
「よっ、と」
その時、僕の目の前に何か四角いものが落下してきて、アスファルトの地面に当たってガチャンと音を立てた。僕は腰をかがめてそれを拾おうとした。するとその前にアキラが降りてきて、慌ててそれを拾い上げた。
「持っていったのに」
「いや。壊れてないかと思って」
アキラはそれをベルトに括り付けたホルダーに仕舞い、再び格子扉を乗り越えていった。軽い身のこなしだった。
続いて僕がボストンバッグを向こう側に放り投げる。鉄の塊が入ったバッグはそれなりに重く、一回目は失敗して格子扉にぶつかった。落ちてきたバッグを慌てて両腕でキャッチする。
「おいおい、壊すなよな。終わったら返すんだから」
「ああ」
もう一度、左腕を振りかぶって思い切り放り投げる。コントロールを利かせる余裕はなかった。
「うしっ」とアキラは言い、バッグをキャッチした。
「それじゃ、こっちこい」
順番を逆にした方が良かったんじゃないかと内心不満を洩らす。支えてくれればまだ楽だったのに。
僕は全力でジャンプして、なんとか縁を掴んだ。しかし左手の握りこみが甘くて離してしまい、右だけでぶら下がる状態になってしまった。
「くうっ」
壁を伝うパイプに左足を引っ掛けて、なんとか上にしがみつき、乗り越えた。簡単に乗り越えられるというのはどうやら嘘だったみたいだ。
僕らは鉄の階段を上がって屋上を目指した。携帯を取り出して時刻を確認する。十一時五十分。営業終了まであと十分だ。
階段を上りながら町の景色を見る。こちら側はほとんど住宅街で、多くの家が明かりを落としていた。遠くには黒い山の影。その上には夜空一杯の星が広がっている。思わず見とれて足を止めそうになった。これから他人の車をスクラップにする実感なんて全然湧いてこない。
「ねえ」
ぐんぐん階段を上るアキラに声を掛けた。アキラはスピードを落としもせずに「なんだ」と言った。
「さっきの何?」
「さっきの?」
「さっき、落としたやつ」
「ああ、トランシーバーか」
トランシーバー、というものを頭に思い浮かべてさっきの四角いやつと比べてみる。確かにスピーカーらしい穴やアンテナのような棒がついていた気もする。
「なんでトランシーバーなんか持ってんの?」
「なんでって、通信するだろ。トラオと」
「ふーん」
僕は鼻を鳴らして下を見た。こうして見るとけっこう高い。アキラの黒いワゴンは暗闇に混ざってほとんど見えなかった。
「いまトラオと話せる?」
「まあ、上に着いてからでいいだろ」
階段は途中で終わっていた。屋上より二メートルくらい下の位置で途切れ、柵で囲われている。鉄の扉があり、鍵が掛かっていた。
「登るぞ」
そう言って、アキラはボストンバッグを上に放り投げ、一気に屋上へと上がっていった。僕は縁にしがみついて這いずるように上がった。
立ち上がると急に足元がぐらついた。だけどそれは、ただの錯覚だった。
巨大なピンはすぐに目に入った。左の方で、コンクリートの小高い台に乗って悠然と佇んでいる。まさかこれから自分が倒されることになるとは思いもしないだろう。
「まだ明かりがあるね」
反対側の端からボウリング場の様子を見て僕は言った。時刻はもう十二時をわずかに過ぎているけど、まだ人がいるらしい。駐車場にも客の車がまばらに停められている。
ピンの真下では、ちょうどあの赤いポルシェがボウリング場の明かりを反射してギラギラと光り輝いていた。
「まあ、人がいなくなるまで待機だな」
アキラはそう言ってあぐらをかいて座り込み、タバコを咥えて火をつけた。吐き出された煙はしばらく宙を漂い、夜の風に吹かれて消えていった。
*
白い光がマスクを越した目の前で烈しく飛び散る。光の中心には小さな煙が巻き、接した部分がどんな風になっているのかはよく見えない。悲鳴のような音が耳をつんざく。
溶接機の先が徐々に前へと進んでいく。その感触から、錆びた支柱が確実に溶けていくのがわかる。
やがて手応えがなくなり、勢い余って少し体がよろめいた。支柱は見事に切り離されていた。アキラもほとんど同時に終わらせていた。
「あとは反対側だ。気をつけてやれ」
「うん」
屋上の端の方に周り、そちら側を支えている支柱の片方に溶接機を押し当てる。再び鳴り響く甲高い音、飛び跳ねる光、渦巻く煙。
半分ほど進んだところで、突然ピンがぐらついて支柱がはち切れた。
バランスを失ったピンは駐車場側ではなく、アキラの頭上に倒れ掛かった。
「危ない!」
僕はマスクと溶接機を投げ出して叫んだ。
傾いたピンは途中でぴたりと静止した。そして、少しだけこちらに押し返された。
「……大丈夫だ。潰されるほどじゃない」
絞り出すような声でアキラはそう言った。膝が耐えきれずに震えている。僕は慌てて反対側に周り、力を添えてピンを押し戻した。そして再び逆側から支える。
「思いの外、不安定だな」
アキラは懸命にバランスを取りながら言った。僕は腕がしんどくて今にも後ろに倒されそうだった。
「早く落とそう」と僕は訴えた。
「ああ。ただ、しっかり狙ってな」とアキラは言い、地上を見下ろした。僕も見下ろした。ほとんど暗闇だけど、赤い光沢がなんとなく見て取れる。
「せーの……」
アキラの合図とともに、ピンを押し出す。
ピンは頭を下にしてゆらりと倒れ、そのまま真っ逆さまに地上の暗闇へと吸い込まれていった。
直後、車のボディとピンが衝突する轟音が鳴り響き、ガラスが砕けて飛び散る派手な音も聞こえてきた。
僕らは互いの拳を突き合わせた。そして急いで荷物をまとめて屋上から降り、外階段を駆け下りていった。
格子扉はさっきよりも随分簡単に乗り越えることが出来た。火事場の馬鹿力とかいうやつだろうか。
車に乗り込む。中で待っていたトラオとハイタッチをした。暗がりで見るトラオの顔は笑っているようにも、哀しんでいるようにも見えた。エンジンが掛かるやいなや、ボックスワゴンはアクセル全開で走り出した。
「大成功だな」とアキラが言った。
「だね」と僕は応えた。トラオは黙っていた。
駐車場の前を横切って走り去るとき、若い女が一人走っているのを見かけた。女は僕らとすれ違い、真逆の方向に走っていった。車のスピードがあまりに速くて、女の顔を見ることは適わなかった。
「今、誰かいたけど」と僕は言った。
「どうせ顔もナンバーも見られてねえだろ。放っとけ」とアキラが言った。僕は後ろを振り向いた。女はもう見えなくなっていた。
何がともあれ、これが物語の全容だ。
こうして、僕らのささやかで劇的なイタズラは無事にその幕を下ろした。
エピローグ
背徳感は不思議なくらいに無かった。
本当に、欠片も無かった。やり切ったという達成感も無い。久しぶりに激しい運動をした後の、心地の良い疲労感があるだけだった。
車窓の外を流れる家や星空を眺めながら、ミカのことを思い浮かべた。僕たちがこんなバカなことをしているなんて知りもしないミカ。彼女は今、一体どんな気分で病院のベッドに横たわっているのだろう。
きっと、と僕は考える。
きっと、バイト先に迷惑を掛けてしまったことを心配しているに違いない。単なる想像以上に、そう確信出来る。それを思うとなんだか余計に悔しく、やり切れない気分になった。
正直、あいつの車をぶっ壊したのはいい気味だ。「気が静まるから」という動機も納得できる。だけど、気掛かりなことは依然として残されたままだった。
彼女はきっと救われない。それは皆よく分かっているはずだ。
ミカなら手を叩いて笑うだろうと、アキラは言っていた。もちろん本気でそう思っているはずはない。あの時の口ぶりも完全に投げやりだったし、少しでも彼女と一緒にいた人間なら、その程度のことは嫌でも分かるだろう。
じゃあ、これは一体何だったのか。本当に自分達のためだけに行ったことだったのだろうか。
ミカと出会った最初の日、一緒にボウリングをした時のことを思い出す。あのボウリング場で、思えばあの時から彼女は不運に見舞われてばかりだった。
幸先悪いなあ、とミカは言っていた。そしてそれは皮肉にも現実になってしまった。
何がどう縁起が悪かったのかと言えば、他でもなくミカの、あの特殊なジンクスのことだ。最後の一ピンがどうしても倒せない、というジンクス。あれは全くもって本当のことだった。僕らが代わりに投げた時まで球はことごとく外れてしまった。最後にミカが自分で投げて外してしまった後の、あの残念そうな声と表情は今でもはっきりと思い出せる。
あの時果たせなかったスペアを成し遂げる──ユーモアの無さそうなアキラにしては洒落たアイデアだ。公園にいた時のロマンチストぶりといい、実は僕の知らない面が多いのかもしれない。
だからといって、やっぱりミカのためになるわけじゃない、と思う。結局のところこのイタズラには始めから大した意味なんか無くて、ましてや彼女にとっての救いになんて到底なり得ない。それは幾度となく繰り返された結論だ。
窓を半分だけ開けて息を吸い込んだ。夜の空気が鼻を抜けて体の隅々に染み渡っていく。
考えてみれば、復讐というのも大抵そんなものじゃないか。僕は、僕たちの行いをあえて責める気にはなれない。それが例えエゴだったとしても、あるいは愛だったとしても、今更どうしようもないことだ。
「……ミカには、何も言わないほうが良いね」
目線を高くしながら二人に言った。トラオはハッとしたような顔で僕を見て、申し訳なさそうに目を伏せた。それからしばらく誰も口をきかなかった。
「どうしたの」
間もなく、何もない道端で車が停められた。
「レク、ごめんな」
アキラはそう言って、ラッキーストライクの最後の一本を取り出した。口に咥えて火を点け、開けた窓の外にゆっくりと煙を吐き出す。
「ミカちゃん、本当はまだ眠ってるんだ」
アキラは前を見据えたまま言った。トラオは下を向きながらため息を繰り返していた。
*
「どういうこと?」
「……ミカちゃんは、目を覚ましていないってことだ」
「それは分かったよ」
何からどう訊けば良いのか見当がつかなかった。僕は色んな疑問を喉に引っかけたまま次の言葉を待った。トラオは小さな声でごめんねと呟いていた。
「あのボウリング場のことは、ミカちゃんから聞いたんじゃないんだ。俺が直接行って調べた……てか、聞き出したんだな」
「聞き出した?」
不吉な予感が胸に広がっていくのを感じた。もしかしたら、もっと前から無意識に抱いていたのかもしれない。
「ああ。あの日、お前を家まで送った後、病院に行ったんじゃないんだよ。……ボウリング場に戻ってたんだ」
アキラは語りながら、ひと口ずつ煙を吸って吐き出す。僕は大いに焦らされた。
「それで、何しに行ったの?」
「まあ、初めは何をするわけでもなかったさ。ただ何となく戻って、あいつが一人でいるときにぶちのめしてやろうかと思ってただけだ」
再び煙を吐く。トラオはうずくまって小声で謝り続けている。
「そしたら、中にいなくてさ。受付の女も別のバイトに変わってて。それで、仕方ねえから帰ろうかと思ったら、いたんだよ……」
「どこに?」
「車ん中。あいつら、営業中に外でカーセックスしていやがった」
運転席にコンドームが散らばっていたのを思い出した。あの二人が車の中で乱れている姿は容易に想像が出来た。
「気づかれないように近寄って、写真撮ってやったんだ。携帯で」
「なんで?」
「なんか、イタズラに使えないかなと思ってさ」
アキラは携帯を取り出して、そのとき撮った写真を見せてきた。あの男が裸で下品に笑っている顔も、あのケバケバしい女の顔が歪むところも、盗撮とは思えないくらいによく写っていた。
「もういいよ」
気分が悪いので僕はすぐに携帯を押し返した。アキラは「おう」と言って携帯をズボンのポケットに仕舞った。
「それで、終わった後に女が先に帰ってな。俺、その後尾けて、夜道で一人になった時に洗いざらい聞き出したよ。あいつがどんな奴なのかとか、ミカが何をされてたのかとか、全部な」
カーセックスの写真を突きつけて女を尋問したのは言われなくても想像がついた。
「あいつやっぱり、わざとミカに仕事を押し付けてたんだってよ。それで他の女には楽させて、自分に好感持たせてたらしい」
「……やっぱり、そうか」
「ああ。……それで、何より最低でムカつくのがさ。あいつ、ミカにも散々やらしいこと言い寄ってたんだってよ」
横でトラオが拳を握っているのが分かった。激情に耐えるように、必死に目を瞑っていた。
「それで、後でそのこと全部トラオに話したんだ」
「そうなの?」
僕はトラオに向かって訊いた。トラオはハッキリと頷いた。
「そう。それで、トラオが俺に言ったんだよ。な?」
アキラが声を掛けると、トラオは涙を流して頷いた。そして気を落ち着かせるように大きく息をついて、口を開いた。
「あいつを殺そうって、俺が言ったんだ」
トラオはそう言って、運転席のシートにもたれて泣き崩れた。
「殺すって……」
「ああ」
吸い終わったタバコを空き缶にねじ込んで、アキラは続けた。
「さっきぶっ潰した車に乗ってたんだよ。あいつがな」
僕は頭を抱えた。何もかもが嘘みたいだと思った。
今まで起こった全てのことが、まるで悪い夢みたいだ。だけどそれは紛れも無く現実の出来事で、ついさっき自分の手でやったことに他ならない。
「……あの女を写真で脅してさ。今夜のあの時間に、あいつを車に誘わせたんだよ。もちろん詳細は教えずにな。それで、トラオはあいつが一人で乗り込んだタイミングを見計らって俺に知らせてたってわけだ」
「で、でも」
混乱して話がうまくまとめられない。だけど少なくとも、あのトランシーバーの通信からはそんなことはまるで分からなかった。あの会話は確かに、僕にもハッキリと聞こえていたはずだ。
「トランシーバーか」とアキラは言った。僕は黙って頷いた。
「ほら。もう全部ネタバラシだ」
そう言って、アキラは腰のホルダーからトランシーバーを取り出して僕に手渡した──いや。それはトランシーバーなんかじゃなかった。
「これ……テープレコーダー?」
「そう。ラジオ付きのな」
トランシーバーのアンテナに見えていたのは、ラジオのアンテナだったのだ。
『おいすー。えー、見たところ、周りに人はいないんで、今なら大丈夫ですよー』
『ああ。はいよー』
再生ボタンを押すと、録音されたトラオの音声が流れた。僕は思わず笑ってしまった。アキラも少しだけ笑った。
「まあ、お前を騙すための回りくどい小細工だ。わざと合わない周波数でラジオの音立てたりしてな。合言葉っていう手も考えたが、まどろっこしいから止めにした」
「じゃあ、本当の合図は?」
僕が訊くと、アキラは助手席に置いたイヤホンを手に取って見せた。
「これ」
それは間違いなく、あの時アキラが耳に付けていたイヤホンだった。
「ミスチル聴いてたんじゃなかったんだ」
「ああ」
あまりの用意周到ぶりに笑いがこみ上げる。もう人を殺したのも何もかも実感が湧かず、僕はただただ笑っていた。アキラも下を向いて、肩を震わせて笑った。トラオはずっと啜り泣きをしながら謝っていた。
「でも、なんでそこまでして騙そうとしたんだよ」
笑いが収まらないまま尋ねた。
「そりゃあ、お前なら止めるだろうと思ってさ。人殺しなんてするタチじゃないだろ」
「それは……どうなんだろ」
僕にも殺意のような感情が湧かなかったわけじゃない。あの男がミカを犯そうとしていたのを知っていたなら、なおさら腹が立ったに違いない。だけど、だからと言ってここまで踏み切れたのかどうかは、自分でもよくわからない。それにミカのことを思えば……。
「やっぱ、止めてたかも」
「ああ。……勝手に巻き込んで悪かったな。自首するか?俺は構わない。……お前は?」
トラオは小さく頷いて、「構わないよ」と言った。そして涙ぐんだため息をひとつ吐き出した。
「いや」
僕は首を横に振って答えた。アキラは「そうか、悪いな」と言って再びハンドルを握った。
背徳感は不思議なくらいに無かった。
*
──それじゃあ、ミカちゃんが退院したらまた四人でどっか行こうぜ。
アキラは最後にそう言い残して走り去っていった。
僕は部屋に戻って横になると、ただひたすらに天井を見つめていた。
バレるのも時間の問題かもしれない。いくら脅されているとはいえ、あの女が警察に通報しないとも限らないだろう。捕まったらどうなるのかなんて想像もつかない。
一つだけ、良い報せがあった。
一睡も出来ないまま朝まで寝転がっていた僕の元に、一通の連絡が来た。トラオからだった。
ミカが目を覚ましたという病院からの報せが入ったと、トラオは伝えてくれた。その声からは安堵がよく伝わってきた。僕は礼を言って電話を切った。
部屋の窓を開ける。空は青くて太陽がまぶしく輝き、花の甘い匂いが漂っていた。
春の空気だ。
スズメのさえずる声が聞こえた。僕は思い切り体を伸ばしてあくびをした。
*
原付を飛ばして病院に着いたのは午前十時頃。本来なら大学で米文学の講義を受けている時間だ。
病室に入ってすぐに、ミカの姿が目に入った。彼女は右側の一番奥のベッドで体を起こして、窓の外を眺めていた。
僕は躊躇いを振り切り、白い日の光に包まれている彼女の元へと歩いた。
「おはよう」と声をかけた。
ミカは驚いた顔を一度こちらを向けると、何も言わずに俯いた。それから指先で目元を拭い、半分だけ顔を上げた。なかなか目を合わせてくれなかった。
「回復して良かった」
僕は心からそう言って、スーパーで買ってきたカットパインを手渡した。ミカは「ありがとうございます」と言って、大事そうにそれを受け取った。それから「はぁ」と短い息をついて肩の力を抜いた。
「せっかく久々にぐっすり眠ってたのに、びっくりして起きちゃいましたよ」
呆れたように笑いながらミカは言った。その声は少しだけ震えていた。
「びっくり?」と僕は訊いた。ミカは備え付けの小型液晶テレビに目を向けた。僕もそちらに目をやった。
ちょうど朝のニュースで、車と一緒にスクラップになったボウリング場のオーナーの話が取り上げられていた。澄ました顔のおばさんが「最近は訳のわからない犯罪ばかりですねえ」と言って、周りの大人はこくこくと頷いていた。
「やったんですか……これ」
ミカは悲しそうな目で怒っていた。僕はまっすぐ彼女の目を見て首肯いた。
「うん」
「なんでこんな、バカなこと……」
ミカは僕の体を叩きながら泣いた。
僕は彼女の肩を支えた。不思議と温かい気持ちになった。
「きっと皆、ミカのことが好きなんだよ」
ミカは叩く手を止めて、そのまま大きな声で泣き続けた。僕はずっとその体を支えていた。涙で服がぐしゃぐしゃに濡れた。
鼠色のスーツを着た男が病室に入ってきたのは、それから間もない頃だった。男はドアの前に立つと、その場で内ポケットから何かを取り出して体の前に掲げた。警察手帳だった。
「えー、こちらに、あー……遠崎……」
「レクイエム」
そう言って、僕はミカの体を丁寧に離した。それから彼女の頭に手を置いて、「ごめんね」と言った。
「遠崎鎮魂歌です」と言いながら、僕は男に歩み寄った。
男は一瞬呆気にとられた表情をした後、しゃきっと背筋を張って僕の顔を見下ろした。
「遠崎鎮魂歌さん。あなたに器物損壊、並びに殺人の容疑で逮捕状が出ています。ご同行願えますか」
僕は黙って頷いた。男は僕の背中にごつごつとした手を回して、そのまま廊下へと歩き出した。
病室を出るとき、一度だけミカの方を振り返った。ミカは瞳を赤くして微笑みながら、静かに手を振っていた。
その口元が「ありがとう」の形に動いたのを、僕は見逃さなかった。
—終—
スペア