二千円の猿

「二千円で猿を買えるんだけど、どうかな」
 彼はくすんだプラスチックのコップから水を一口飲んで「悪い話じゃないと思うんだけど」と付け加えた。
 私は目の前の塩ラーメンを食べるのに精いっぱいだったし、「どうかな」という質問の曖昧さを受け止めきれず、何も答えることができなかった。痺れを切らした彼が割り箸で麺を持ち上げながら続けた。
「知り合いにそういう仕事をしている人がいるんだ」
「ふうん」
 突然な話で、気のない返事をするしかなかった。彼も何も答えず麺を啜った。
 そういう仕事とはつまり、猿を二千円で売る仕事ということだろうか。あまり聞いたことのない仕事だ。仕事として成り立つほど、二千円の猿に需要があるのだろうか。
 自分が猿を買うなんて考えたこともない。むしろいきなり猿と言われても、困る。
 それなのに、心のどこかで、今こそ猿を買うべきなのかも知れないとも感じていた。この話を彼が持ちかけてきたことが、そのまま私が猿を買うべき理由に思えた。
 そうやって、ラーメンを食べながらあれこれ考えていたが、結局その日の別れ際に、私は彼に千円札を二枚渡した。何も言わなかったが、彼はすぐに理解して受け取った。なぜか「ごめんね」と言っていたが、あまり申し訳なさそうには見えなかった。
 猿は、二日後にやってきた。
 猿を連れてきた中年の男はスーツ姿で、配送業者には見えなかった。この男が、彼の知り合いだという、猿を売る仕事をしている人なのだろうか。
 猿は、男の横で終始とぼけた顔をしていた。首輪から伸びるリードは男の手にしっかりと握られていたが、少しも逃げ出そうとはせずにじっとしていた。
 リードを私に手渡して、男はそそくさと立ち去った。遠くなっていく男の背中を見ていると、男が猿を売っている張本人ではないような気がしてきた。猿を売る仕事があるくらいだから、猿を運ぶ専門の仕事があっても不思議ではない。私は、猿と二人きりになった。
 やってきた猿は、リスザルのような小型の猿だった。小さな体は、柔らかそうな茶色の毛に包まれている。猿と言われて勝手にニホンザルを想像していたが、そもそもニホンザルを個人で買うことは可能なのだろうか。
 自宅で猿と二人きりでいるのは、やはり違和感があった。私は猿を不思議そうに見つめた。猿も大きな目で私を見つめていたが、何を思っているのかは読み取れなかった。あの日、駅前のラーメン屋で感じた必然性や運命めいた直感が、全て勘違いであったことをすぐに悟った。
 最初は興味深く観察をしていたが、三十分もしないうちに私は猿を持て余しはじめた。インターネットで飼育方法について調べてみたりもしたが、これからこの猿と暮らしていくつもりにはなれず、どんな情報も頭に入らなかった。
 それから、検索窓に残っていた「猿 エサ」というキーワードから「エサ」の一語を削除して、代わりに「二千円」と入力した。もしかしたら、自分と同じ境遇の人がいるかもしれないと思ったのだ。
 一番にヒットしたページは、「猿、二千円で買います」というタイトルのブログ記事だった。開くと、飾り気のない青い背景のページが表示された。最上部には「ブログタイトルをここに入力してください」という初期設定のままの文章があった
『猿でお困りの方、二千円で買い取ります。下記住所まで、猿を御持参の上、お越しください』
 記事には、簡単な文章と住所が載っていた。私はすぐに決断して、上着を羽織って、リードを手に取った。猿は素直についてきてくれて安心した。
 猿を連れて電車に乗ることができるのかという疑問に思い至ったのは、駅に向かって歩き始めてからのことだった。タクシーという手も考えたが、それもドライバーに断られそうな気がした。
 携帯電話で地図を見る。ブログに載っていた住所までは、徒歩一時間半。歩けない距離ではない。道順を確認しながら来た道を引き返す。
 当たり前のことだが、猿を連れて歩いていると、周囲の視線が気になった。私だって、猿を連れた人とすれ違ったら、つい見てしまうに決まっている。
 あまりにも注目されるものだから、何だか悪いことをしているような気分になって、交番の前を通るときには、少しだけ早足になった。それでも猿はきちんとついてきた。
 目的地に着くと、そこは古びた雑居ビルだった。住所によれば、ここの三〇四号室で猿を買い取っているはずだ。薄暗い階段を上って三階を目指す。猿は一段ずつ、飛び跳ねるように上っていた。
 三〇四号室の前まで来ても、看板などは出ていなかった。いたずらではないだろうかと不安に思いながらも、意を決して呼び鈴を鳴らす。すぐに中から「どうぞ」と女性の声が聞こえた。重い扉を開けて、中に入る。
 玄関に置いてあったスリッパに履き替えて、奥へと進む。部屋は小さなワンルームで、窓を背にしてデスクがある以外に家具はなかった。代わりに、壁際に小さな金属製の檻がいくつもあって、そこに一匹ずつ猿が入れられていた。私の猿と同じ種類と思しきものや、もっと体毛が長いもの。一部にだけ白い毛が生えているものなど、様々な種類の猿がいたが、どれも小さな猿だった。猿たちは、檻の中で思い思いに動き回ったり、寝たり、餌を食べていたりする。
 私を部屋に招き入れた声の主は、デスクで何か書類に目を通していた。五十代くらいの女性で、紫色の派手なブラウスを着ていた。女は書類から目を離して眼鏡を外すと、笑顔でゆっくりと口を開いた。
「あら、こんにちは」
 その挨拶が私ではなく猿に向けられたものであることは、女の目線を見ればすぐに分かった。女の目は、私の足元で周囲を見回す猿をしっかりと捉えていた。それから満足そうに一度うなずいて、やっと私の方を向いた。
「この子がどこから来たのか、教えてくれるかしら」
 急な質問に私が驚いていると、女は笑いながら説明してくれた。
「いやねえ、前に一度、盗んだ子を持ってきた人がいて困ったことがあるのよ。だから念のために、この子があなたのとこに来た経緯を教えてほしいの」
 私は、一つずつ思い返しながら、これまでのいきさつを伝えた。改めて自分の口から話してみると不自然なことばかりで、怪しまれないかと冷や汗をかいた。
 しかし、彼女は最後まで黙って聞いて、すぐに二千円を差し出した。
「封筒とかないけど、いいかしら」
「大丈夫です。でも、私の話、おかしいと思いませんか。自分で話してみても、なんだか不思議な話で、納得がいかないと言うか」
 近づいて二千円を受け取りながら聞いてみたが、うまく言葉にならず、歯切れの悪い物言いになってしまった。
「そんなことないわよ。よくある話よ。ここにいる子たちだって、だいたいは似たような事情でやって来た子だもの」
 平然と答える女の様子に、なんだか虚しさを覚えた。
「そうなんですか。そういうものなんですね」
「ええ、そういうものよ」
「私、何にも知らないで、私、馬鹿だったんでしょうか」
 女が何か答えようとする前に、私の猿が小さく鳴いた。金属が擦れあうような、高く細い声だった。
 その声を合図にしたように、女が右手を差し出した。私は、握っていたことすら忘れていたリードを女に手渡して、振り返ることもなく部屋を出た。
 ビルから出て携帯を見ると、彼からメールが来ていた。猿は届いたかという確認のメールだったが、返事はしなかった。説明が面倒だったし、なんだか無性に腹が立っていた。なんとなく、二千円を渡したときの「ごめんね」という一言のせいだと思ったが、どうしてその言葉に怒りを覚えているのかは、自分でも分からなかった。
 疲れていたので、大通りに出てすぐにタクシーを捕まえた。乗り込んで、ドライバーに自宅の場所を伝えて、料金はいくらぐらいになるか尋ねた。三千円はかかると言うので、二千円分のところで降ろしてほしいと伝えた。
 タクシーはすぐに走り出した。一息ついて目線を下ろすと、ジーンズの膝に猿の毛がついていたので、私はそれを手で払った。

二千円の猿

二千円の猿

猿が二千円で売買されるお話です。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-22

Copyrighted
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