イトノマジョ
「猫」 そのひとつ
彼女は人を喰らう。まるで薬物に狂う中毒者のように、どうしてもガマンできなくなるのだという。
人を喰らいたくないとも言っている。でもどうしても治すことができないのだと、彼女は血で汚れた唇を震わし、泣きそうな声で言った。
「生きていても死んでいても、あまり変わらない」
だから彼女は屍体を喰らう。道中で、行き倒れてしまったのであろう、痩せこけて腐り始めた屍体さえも喰らう。
今回のように真新しい屍体を見つけるのは希だという。運が良い、とも。
「でも屍体が古かったら、やっぱりすごく臭うから嫌い」
半ば諦めたようにそう言いながら、屍体を土の下に埋めた彼女は腰に付けている小さなポーチから手巻きの煙草を一本だけ取り出し、指先に灯した小さな火で先端を炙り、吸い始めた。
屍肉が腹の中で腐り、イヤな臭いを作り出しているのだという。だから薬用煙草をいつも噴かしている。
煙草それ自体は、私も吸ってみたけれどあまり良い味とは言えない。薬草の青臭さと薄荷のような鼻に来る香りが奇妙に混じり合い、独特な味を生み出す。
もっとわかりやすく言えば、不味い。
「……この煙草も、あまり好きじゃない」
彼女は紫煙をくゆらせる煙草を咥えて、空を仰いだ。
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川のせせらぎをすぐ横に、昼食の時に何気なく彼女の歳を聞くと、十七と帰ってきた。
その歳は魔女として、あまりにも若い。まだまだ見習いであってもおかしくない若さで、彼女はてっぺんがとんがった魔女の帽子を被り、糸の魔女を名乗っていた。
それ以外にも彼女はわかりやすい魔女の姿をしていた。膝頭まで届く黒いローブ、いつも手に持っている、飛ぶために必要だというワラボウキ。
黒い髪は短く切りそろえられ、丸い目はいつも不機嫌そうな表情を浮かべる。あまり背は高くはない。
少女との言葉がよく似合う、そんな子だった。
「師匠の死期が迫ってきていたから」
そんな歳で魔女を? 尋ねると、そんな答えが返ってきた。彼女の昼食は、木に成っていた果実だった。
私は干し肉を食べる。彼女は肉を口にしない。人肉の味をどうしても思い出してしまうから、らしい。
「……だから、私は優秀な弟子である必要があった」
汚れた口元を持っていた手拭いで拭いながら、彼女は続ける。
「だから私は、十五で全ての魔女の術を習得した」
その口調に、自惚れや自慢らしき素振りはいっさい見られなかった。たった十五歳で魔女の術をマスターすることは、決して普通ではない。
なぜそんな若さで? 尋ねると。
「それが私たち、糸の魔女の力」
果実を食べ終え、果汁で手を汚した彼女が立ち上がり川の方へと歩み寄る。
寒くなり始めたこの時期、水温は酷く冷たいものなのだろう。水に手を浸した彼女が、小さな悲鳴を上げて慌てて手を引っ込めていた。
「……魔女でも、冷たいときは冷たい」
彼女は微笑み、私の方を見た。私は口元に手を添え、声が漏れ出てしまわないように口を閉じて笑った。
その後で、彼女が言いかけていた糸の魔女について尋ねる。
「糸は繋がり」
川の中に果汁でベタついている両手を浸しながら、彼女は応えてくれた。
「繋がりは思い」
丹念に洗っている。もう、ベタつきは既に取れたであろうに。寒くなり始めた風が、彼女のとんがり帽子を揺らす。
「思いは夢」
彼女がようやく手を洗い終えた。遠目ではあったが、血が出ているのが見えた。それを隠すように、彼女は手拭いで両手を拭く。
私もそれに気づいていないふりをした。手拭いに赤い斑点が浮かび上がっても、気づかないふりをした。
「夢は人」
手拭いから姿を現した白い手から、いつの間にか傷は消え失せていた。魔女の術で消したのだろうか。
手拭いは、ところどころが赤く染まっている。傷があったのは、私の見間違いではない。
「私たちは人を紡ぐ魔女」
歌うような口調で、私の方へと歩み寄ってくる。表情は、いつものように無愛想で、面白くなさそうで……けれども、わずかな微笑を浮かべている。
「魔女は恐ろしきもの。そう教え、伝え、歩く者」
彼女は私の方へと手を伸ばし、そろそろ先に進もうと首を動かして促していた。きっと、道の途中で話してくれるのだろう。
ふいに地面に目を落とす。落ちていた真っ白い羽を、彼女に気づかれないように踏みつけた。
「猫」 そのふたつ
この世界は、既に終焉を迎えた。もっと正確に言えば人間の住む世は崩れ去り、新たな統治者が産まれた。
それは今まで、私たちが化け物と呼び、恐れ、憎み、争い、侮っていた者たち。ゴブリン、オーク、ケンタウロスにハーピー。
一般に魔物の呼ばれる者たちが、この世を支配していた。
私たち人間は、こうして寝る場所や住む場所、食べ物を探して細々と旅をするか数少ない安住の地を見つけ、そこで過ごすか。
どちらにしても、昔のような繁栄は見る影もない暮らしを余儀なくされている。かの戦争で、私たち人間は負けた。
エルフ、ドワーフ、獣人。等しく負けてしまったのだ。
「……次の街は、生き残ってると良いね」
私と魔女の少女のような、生き残っている街を転々とするような者たちがいる。
数少ない生き残りを見つけ、情報と食料などの物資を買いあさり、次の生き残りを探す者たち。
「そろそろ見えてきても良い頃合い……」
彼女は気づかないのだろう。煤けた臭いが風に乗り、ここまで漂ってきていた。恐らくは、次の街も滅ぼされている。
それもかなり最近になってから、と予想ができる。だから、私は彼女に言った。焼ける臭いがする。街は既に滅び、魔物がいるかも知れない。
「だから、どうかした?」
彼女は首をかしげた。
「私たちが魔物に襲われる理由がない」
それはまるで、私たちも魔物の一部だと言わんかのような口調だった。
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到着した。しかし思った通り、街は焼け崩れている真っ最中で、遠くで悲鳴が聞こえた気がした。足音らしき物音もまだ聞こえる。
まだここを襲った魔物たちが彷徨いているのだろう。
元々は立派な石垣だったのだろうが、今はとっくに崩れ落ち、わずかにそそり立つ石柱だけが名残を残す。
家は、復興されたとは言えその数も少なく、十数件。昔はこの辺りも賑わっていたのだろう。今はもう、見る影もない。
足元には幾枚もの、とても数えきれる量ではないほどの羽毛が落ちていた。土色で、そのほとんどが血に染まり、少し気を許せば転んでしまいそうになる。
「……ダメだったね」
彼女はいつもの不機嫌そうな表情を、いつも以上に曇らせた。この街が襲われたのは昨日か、それとも今日か。
大きな街と聞いていたから期待していたが……手遅れだった。離れた方が良いのではないか。彼女に言う。
まだ魔物が彷徨いている。さっきも悲鳴が聞こえた。
「それが?」
もう一度、彼女は首をかしげる。
「貴女が手を出さない限り、魔物は私たちを襲うことはしない」
事実、少し遠くに何匹かのゴブリンが見えたが、ちらりと私たちの方を見るだけ見て、そのまま通り過ぎてしまった。
とっさに身構えた私を、彼女は不思議そうな表情で見ていた。
「魔女は魔物だという人がいる」
滅びた街中を歩きながら、彼女は続ける。
「魔物とは人と混ざり合えぬ者を言う」
いくつもの死体が転がっている。腹を破られ、喰われた形跡もある。彼女はそれを見て、目を背けた。死体は見たくない、と小さく呟いた。
「……そもそも、人食いの魔女が人間であるわけがない」
でも、そろそろガマンできなくなる、とも呟いた。滅びた街に、屍体はたくさんある。焼けた肉の臭いが鼻孔に侵入し、気分を悪くさせる。
恐らくはそれが原因なのだろう。ただでさえ暗い彼女の表情が、今や泣きそうになっていた。
「ゴメン、見ないで」
彼女が駆け出す。私もそれを追いかけるマネはしない。また人食いの症状が出てしまった、それだけなのだから。
「猫」 そのみっつ
彼女がどこかへ行ったきり、帰ってこない。昼過ぎに到着してすぐに彼女は走り去ったが、今はもう空が紅く染まり始めている。
本当ならばここに長く留まりたくはない。彼女がすぐに帰ってきたならば、すぐにでもこの街を離れるつもりだったが、目論見が破れてしまった。
彼女を待つ間は、一件の廃屋に身を隠していた。廃屋と言っても、まだまだ人の残り香が漂い、血生臭い痕跡が見え隠れする一軒の家。
家主は、きっと食事時に殺されたのだろう。荒らされたテーブルの上には、冷めて泥まみれではあるが食物が散乱していた。
まだ腐ってはおらず、イヤな臭いはしない。家の中に身を潜めている間、この家の中を粗探しさせて貰った。火事場泥棒であることは否定しない。
でも、このまま朽ち果てるに任せるよりは私が使った方がずっと有意義だろう。申し訳なくも思わない。どうせいつものことなのだから。
結果、一階部分には女物と思われる衣服がいくつか見つかった。
男物は見えないこととその数の多さ、サイズの違いから恐らくは三人以上の女性がこの家に住んでいたことがわかる。
食料はいくつか新鮮な物を見つけた。早く食べてしまうか、干さなければすぐにダメになってしまうだろう。
家は二階建てになっていて、一階は共同で使っているのであろう調理場や風呂場、倉庫などがあった。
そして二階は、きっと個人で使われていたものなのだろうが……。
「……っ」
二階へ上がる階段の途中。軋む階段に古く乾燥した血痕が続いていることもあまり好ましくない状況ではあったが、漂ってくる臭いが私の足を止めた。
恐らく……いえ、確実に屍体がある。それも殺されて、かなりの月日が経ったであろう。腐臭がする。
この家の住民だろうかと考えたが、すぐに否定した。そう言えば、と考える。
さっきの大きなテーブルのある、食物が散らばっていた部屋に食器は一人分で、その量もせいぜい一人分ぐらいだったか?
だとすると、最初に考えていた三人以上の女性、と言う推理は間違っているのだろうか。二階に向かおうとする足が止まる。
もしかすると、この先はとてもじゃないけれど見るに堪えない惨状が待ち受けているのではないか。
でも、二階部分にもなにか有用な物があるかも知れない。そう思い、嫌々ながら足を進める。
一歩、血で汚れた軋む階段を踏みしめる度に腐臭が強くなるようで、比例するように行きたくない気持ちが強くなる。
ガマンして、また一歩だけ踏み出す。手すりにも血が付いている。これは比較的新しい。こちらが家主の物なのだろう。
じゃあやはり、階段の乾燥した血痕は……。
ようやく二階へと上がり、すぐに後悔した。二階は大きな広間があり、そこには幾人ものうら若き女性がいて、私の方を見て静かに微笑んでいた。
もっと正確に言うと、女性の姿をした人形……剥製、と言った方が正しいのだろう。が立っていた。一目見るだけで、嫌悪感で胸が苦しくなる。
私の運の悪さと、不用心さを呪う。さらった女性を剥製にしていた、狂人の家ではないか。
その為の道具は綺麗に洗われ、赤黒い布の上に置かれている。その色はきっと、血を吸いすぎたからなのだろう。
道具は窓から射し入る夕日に照らされて赤く綺麗に映し出されてはいるが……腹をかっさばく為に使っていたのであろう。
あまりにも巨大なハサミや大小様々なのこぎり、作業台と思われるものにもベルトで固定できるような工夫がされている。
この場所で何をしていたのかを否応なく想像させられた。
そんな場所に、一秒もいることはできなかった。その場所どころか、この家の中に入ることさえも嫌だった。
逃げるように剥製たちから背を向ける。
軋む階段を駆け下りる。途中で新しい血痕に足を滑らせて転げそうになりながら、けれどもガマンして、駆け下りる。
そのままの勢いで、その家から脱出した。
幸いなことに家の外には誰もおらず、けれども日の沈みかけた空は夜の帳が覆い始め、やがてこの辺りを暗闇にしてしまうだろう。
野宿をしようか、他の家に入ることさえも嫌がり、そう考えた。
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「ここは、まともな街じゃあないよ」
彼女の声ではない。それは、まだ声変わりもしていないような男の子の声だった。
慌てて振り返ると、身長はあの子よりも少し高いぐらい、だろうか。一人の……一羽の空のように青く短い髪をしたハーピーが私を見上げていた。
「猫」 そのよっつ
男性のハーピーは、特にこうして人前に姿を見せるのは珍しい。
女性と比べて圧倒的に数が少なく、だからこそ女性のハーピーからまるで高価な宝石の如く大事に扱われる。
ほとんどの男性のハーピーは出歩けるだけの自由を持っていないのだ。そしてその希少さから、愛好家も多いと聞く。
なるほど、納得できないことではない。確かに正面に立っている青髪の少年は、ほぼカンペキと言える顔立ちをしていた。
率直に言えば、とても可愛らしく私の目にも映った。
特徴的な、青い毛糸で編まれた衣服が目に入った。ハーピーが着ることができるような衣服は、普通は売られていない。とすると、誰かに作って貰ったのだろうか。
「ねぇ、話を聞いてるの?」
知らず知らず少年を見入ってしまっていたのか、訝しそうに少年は言葉を濁らせた。慌てて首を縦に振る。少年は目を細め、私を見る。
何か言いたげに口を動かすが、かわりにため息のような長い吐息を漏らしただけで、少年は話を続けた。
「まぁいいよ、でもちゃんと話は聞いててよね。聞き返されるの、嫌いなんだから」
綺麗な顔から吐き出されるのは、そんな毒のある言葉。だからその子の表情は、きっととても不機嫌そうに歪んでいるのだろう。
もう表情がわからないほど、夜の帳は辺りを包み込んでしまっていた。でもまだ、少年の姿を見ることはできる。辛うじてではあるけれど。
「僕も泊まる場所を探してるけれど、この家は人間の剥製で臭くって無理だよね」
この子もこの家の中に入って、二階のあの惨状を目の当たりにして逃げてきたのだろう。
他の家はどうなのだろうか、そう尋ねようと口を開きかけたが。
「今、話してるのは僕だから、黙ってて」
辛らつに遮られる。
「で、他の家も似たようなものだったよ。向こうの家は、たぶん抵抗したんだろうね」
そう指差した……少年の両腕は翼なのだから、羽差した、と言う方が正しいだろうか。ともかく、そうして少年が指し示したのは、向かいの家。
私が入った家よりも小さく、一階部分しかないように見える。しかし特徴的なのは私の身長よりも大きな窓があると言うこと。
そこから、少なくとも窓に面している家の中を見ることができる。勝手口の役割も果たしていたのだろうか。
しかし今となっては、その窓から家の中を見ることはできない。窓はほぼ全面が赤く染まっているのだ。
確認したわけではないが、血液が付着してそのまま固まってしまったのだろう。だから入る気さえ起きなかった。
「あの大きな窓から見てわかるとおり、酷い惨状でね? 肉片が散らばってたよ。粉々の死体もあった」
見た目は、両腕が青い翼であることは除いて、少年とは言えやはり魔物か、人の死を楽しげに話す。
基本的に魔物は人間を嫌っているとは知っているが……少しの嫌悪感は、拭えない。
「で、お姉さんは獣人でしょ。犬の」
だからどうしたというのだ。こうして話している間も空に暗闇を広がっている。もうそろそろ、何も見えなくなるだろう。
剥製の家に泊まるのは嫌だ、そう伝えると。
「僕も嫌だよ」
少年は鼻を鳴らし。
「だからちょっと良さそうな家を探そうよ。僕の手は翼だから、火を点けることができないの。別に一人が怖いわけじゃないよ?」
こんな、魔物が町中を闊歩しているときに松明に火を点けろという。少年は魔物なのだから襲われることはないだろう。
だが私は人間だ。こうして道に出て話をすることさえも、怖いというのに。
「獣人じゃん、似たようなものだよ」
そうかも知れないけれど! 少年の悪意が含まれた言葉にそう言い返しかけて、やめた。
不本意ではあるけれど、この場では魔物であるとことにした方が安全だろう。
ふりとは言えいまさら魔物のように振る舞え、って言われると我ながら笑いそうになる。
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結局は少年の言うとおり、松明に火を灯して今夜だけでも泊まることができそうな廃屋を見つけることにした。
幸いにも、ほとんど荒らされていない家を私たちが話していた家の数件となりに見つけることができた。
家の中にほとんど物はなく、恐らくは滅びる前から空き家だったのだろうと想像することは容易かった。
「猫」 そのいつつ
目が覚める。ほとんど荷物がない閑散とした室内に、あの少年の姿はない。
横になるために床に敷いた土色の麻布の上には幾枚もの青い羽根が散らばっている。
きっとあの少年は私より早く起きて、私を起こさないように出て行ってしまったのだろう。
一人だと寂しいから、と昨日の夜に話していたくせに……なんて思いながら、散らばっている青い羽根を拾い集め始める。
ハーピーは女性のものよりも男性の方が発色が良く鮮やかで、私の手のひらぐらいの大きさがある。だから様々な用途がある。
例えばそのまま髪飾りに使ったり、いくつかまとめて衣服を装飾したり。
そうでなくても服の中に幾枚か詰めるだけで保温できるし、団扇のように使うこともできる。
だから交換材料としても申し分がなく、好事家も多いため持ち主の良い条件で何かしら吹っかけることができる。
もっとも、それが男性ハーピーをあまり見かけない原因でもあるのだが。あの少年もいずれは悪い人につかまってしまうのだろう。
無事であれば良いが。
羽を拾い集め終えると、空だった両手のひら大の皮袋がいっぱいになった。
形を崩しすぎないように整えて入れたのが原因でもあるのだが、なんにせよこれだけあると色々と役に立ってくれるだろう。
昨夜は少年と一夜を過ごした甲斐があるというもの。ついつい口元がほころびてしまう。
しかしこの町で昨日の朝に別れた、人食いの魔女の姿が見えない。彼女も一人で旅をすることにしたのだろうか。
少しの寂しさは感じてしまうが、それはこんな滅びの過ぎた世の中であれば仕方のないこと。
私もそろそろ旅を再開しよう、と思い寝るときに敷いた二人分の体液を吸って少し重くなっている土色の麻布を片付けようとして……。
……明らかに普通ではない物音が、すぐこの空家の前で聞こえた。何事かと身構える。続いての物音、と共に男性らしき怒鳴り声……魔女?
魔女め、確かにそう聞こえた。あの人食いの魔女が追われているのだと、すぐに理解した。
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取るものも取らず外に出ると、男性の人間どもがそれぞれ武器を手にあたりを見渡していた。周囲に彼女の姿は見えない。少年ハーピーの姿もない。
そのかわりに、いくつものゴブリンやオークの死体の姿があった。
あるものは矢を浴びせかけられたのかサボテンのごとき様であり、またあるものは首がなく、別のあるものは縦に両断されていた。
男どもは、手に持っている得物から察すると騎士団ではないかと思われた。人の世はすでに滅び去ったが、死に絶えたわけではない。
中にはこうしてかつての騎士団のように、秩序と復興を願う者たちもいる。無駄なこと、とは思いもしたくないのだろう。
「ああ、そこの獣人」
獣人と私を呼んだその男性は、血で汚れた両手でやっと持てるぐらいの巨大な銀色の剣を肩に担いでいる。
秋口に入り寒くなり始めたと言うのに額に汗をにじませていた。
美形、とはとても言えないが醜くもない。
「魔女を見なかったか。人食いの魔女だ」
やはり彼女の事を追っているのかと背に冷や汗が流れる。
一緒に旅をしたのはわずかな時だったとはいえ知り合いに違いはなく、身を案じていたから、無事に逃げ切れるだろうか、と心配してしまう。
表情にも表れたのか、男の表情が険しくなる。
「お前、かくまっていないだろうな?」
左右に首を振る。確かに彼女と数日間は一緒に旅をしていたが、この町に入ってからはその姿を消してしまったことを正直に話す。
「……ほう?」
男の表情がイヤな感じに歪んだ。同時に、やってしまったと後悔してしまう。
魔女を追っていただけではなく、その魔女の仲間も許せないのか。
「死にたくなければ説明してもらおうか」
男が私の背後に目配せをした。振り向かずともわかる。弓を番えた別の男がいるのだろう。こうなっては男たちの言うことを聞く事しかできやしない。
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野蛮な男どもに連れ去られるあの獣人の娘を、すぐ近くの屋根の上から見ることができる。
騎士団と名乗り、それなりの装備に身を包もうとも、実際にしていることはただの蛮族。
魔女狩りや亜人狩り、その仲間の粛清など名目は何でも良いのだろう。単に自分たちの欲求を叶えたいだけなのだ、あの男どもは。
連れ去られる獣人の娘を助けたくは思う。けれども今、何も考えずに出て行けば私も捕まり、ひどいことをされた挙句に殺される。
見捨てるべきなのだろう。屋根の上で男どもの行動を監視しながら、悩んでいた。
「鳥」 そのひとつ
籠の中の鳥とはよく言ったもの。
ハーピーなのだから鳥かごで飼わないと、なんてのたまっているあの女主人を今すぐにでもぶっ飛ばしてやりたくなる。
そうは言っても僕は銀色の鳥かごの中。オークとか巨人とか。
力が強ければこの程度の檻なんぞ素手でぶっ壊して外に出てしまうのだろうけれど僕はハーピーなのだから、壊すだけの腕力なんて持っていない。
「おはよう、よく眠れたかしら?」
僕を飼っている女主人の目が覚める。
一人の子どもが簡単に入るぐらい巨大な鳥かごはこの女主人の部屋に置かれて、まるでペットのような仕打ちを受けている。
可愛がられている、といえば聞こえは良いが閉じ込められている本人からするとたまったものではない。外に出たい。空を飛びたい。
「ここから出してよ」
なんてやり取りも、毎朝の挨拶となってきた。深紅のカーテンから朝日が漏れ出し、これまた赤いカーペットにを筋の帯のように細長く照らす。
その明かりに照らされた女主人の顔の、なんと妖麗なことか。美女なのは間違いない。
「逃げてしまうでしょう?」
妖しく笑って、女主人が起き上がる。薄紅の絹布に囲われた大きな寝台。柱は金色で、さぞお高いのだろう。
寝台から降りた女主人が、一糸纏わぬ姿のまま身長の倍ぐらいはある窓を覆っていた紅いカーテンを引き開けた。
眩しい陽光が部屋を照らす。青い手翼で目の前を覆い、影を作り出す。女主人の裸体を見ないようにするため、でもある。
「逃げるよ、決まってるじゃん」
しかし豪胆なものだ。こんなにも大きな窓なのだから、外からは丸見えだろうに。女主人は気に留める様子もない。それだけ自信があるのだろう。
「可愛い子」
敷物に伸びる足元の影が近寄ってくる。こっちに来るな。そう願っても無駄なのはもう悟っている。
「嫌われてるって意識はある?」
街の人たちにも嫌われている。
この女主人は街を取り仕切る貴族であり、復興させるために遣わされたらしい。
けれども実績といえばこの女主人を目当てに蛮族どもがやってきて、かろうじて街らしい体裁を整えた、ってことぐらい。
今の世では街があるってだけで人が集まるのだけれど、この女は街を取り仕切る身分であることを利用して好き勝手にしている。
僕を捕まえたのも、その一環だった。
「あるわよ、私が嫌いなら出て行けば良いのよ」
足元の影がすぐ近くで立ち止まった。白く細い腕が鉄檻と手翼を避けて、僕の喉元まで伸びてくる。
嫌がって手翼でそれを払うことはしない。女主人のなすがままに、喉元から頬へ、口元へと指先が触れるか触れないかぐらいまで近づく。
怖気が走る。でもこの手を払いのけようとして触れば、また金縛りにあわされてしまう。
「でも、あなたは逃がさないわ」
そうとだけ言葉を残して手をひっこめ、女主人の影が遠ざかって行った。
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なんてことはない、ただ僕が間抜けなだけだった。
町があるから降り立ったらあの女主人に見つかって、一目で気に入られて、それも運悪く魔女らしくて、手を握られただけで意識を失ってしまって。
気が付けばこの鳥かごの中にいた。一週間ほど前の出来事だった。
せっかく、あの女どもから逃げることができたのに。これでは女どもに囲われて大事にされて軟禁されているのと何も変わらない。
変わらないどころか、もっとひどい。まだ女どもは僕が空を飛ぶことは許してくれた。
いっつも横について僕がどこかに行かないように見張っていたけれど、不自由ながら空を飛ぶことはできた。今はどうだ、籠の中の鳥ではないか。
もちろん、何とかして出ることはできないものかと何度か足掻いた。鉄檻を蹴っ飛ばしたし、手翼で叩きもした。
歯で噛り付いたこともある。どれもこれも無駄だった。
「……出せ、っつの!」
無駄だとはわかりながら、鉄檻を思いっきり蹴る。
決まっていたくなるのは僕の足で、すぐに足の裏が痛くなって、耐え切れずにその場でへたり込んで、後悔してしまう。
いっそのこと、あの女主人に媚びへつらってみようか。そして相手が油断して、外に出してくれた時に飛んで逃げてしまおうか。
そう考えながら……おなかが空いていることに気が付いた。
もうそろそろ、あの女の付き人で耳の長い女の子がいつものように食事を持ってきてくれるはずだった。
「鳥」 そのふたつ
「怒られるのは私なのですよ?」
耳の長い侍女の小言を聞き流す。
二週間が過ぎたぐらいに従順になったふりをして、なんとかしてあの鳥籠を出して貰ったのは良い。
だけど今度は足首に銀の枷を付けられて鳥籠と繋がれている。
かなりの長さがあって、少なくともあの女主人の大きな部屋をくまなく歩き回ることはできる。
けれどもこの部屋を出ることは許されない。結局は鳥籠の広さがこの部屋に広がっただけだった。
だから苛々も積もる物で、食事の入った銀食器を持ってきた侍女に向けて思いっきり投げつけた。
けれども侍女に命中することはなく、直前で不自然に空中で止まって地面に落ちる。そう言えばこの女も魔女だった。
「出してよ」
こうしたやりとりもこの二週間で、どのぐらい繰り広げただろうか。この侍女に言ったり、女主人に言ったりした。
「あの方に直接、顔を見て言って下さい」
でもこうして聞き流される。落ちた食器を片付けながら、侍女は僕の方へと顔を向けた。
「もっとも、逆らえばまた気絶させられるでしょうけれど」
その他のしそうな表情の、なんと恨めしいことか。かといって僕は暴力は反対派だから殴りに行く真似はしない。
無駄でもある。あの女の周囲には、いつも見えない壁があるのだから。
「だから君に八つ当たりしてんじゃあないの?」
そんな壁がいつも隔てているからか、かなり八つ当たりしやすい。
侍女も慣れているのか、いくら当たってもイヤな顔か呆れた顔をするぐらいでやり返してきたりもしない。
「八つ当たりは構いませんが、せめて食事は摂って下さい」
赤い敷物を汚したのは、何かスープのような物。
食事はこの侍女が用意していると聞くけれど、ハーピーの習性を知ってか知らずかスープを用意されることが多い。
たまに肉とか魚とかあるけれど、それはごく希。僕たちは確かに雑食性で肉も食べるけれど、あまり多く食べることはしない。
いつもは果肉とか、もしくは何も食べないときもある。体重を増やしすぎないように、そんな習性が出来上がっているらしい。
「今日は良いよ、昨日は肉を食べたし」
でも身体を作るために肉は食べる。飛ぶためにも体力は必要なのだから。
「ですから、怒られるのは私なのです」
その言葉の意味を、その時は理解できなかった。
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三週間が過ぎたぐらいになると、ようやく外に出して自由に飛ばしてくれるようになった。
あの女主人もようやくわかってくれたのか、それとも僕とこの侍女の関係を知っているのか。
拘束するような物を一切付けずに、この狭い空を飛ばしてくれる。逃げだそうと思えばいつでも逃げ出すことはできた。
でも逃げ出さなかったのは、あの侍女の存在があったからだった。
「今日も逃げ出さないんですね」
お屋敷の、それなりの広さがあるテラスに降り立つ。侍女が装飾らしい装飾はない質素な作りの椅子に座り、青い毛糸で編み物をしている。
冬に備え、僕の衣服を編んでくれているらしい。両手は翼だから普通に売っているような衣服は着ることさえできず、特別に作って貰う必要がある。
「君と話したいからね」
その気持ちを隠すことはない。
「やめた方が良いですよ」
冷たい言葉とは裏腹に、手先は毛糸を器用に編んでいる。
なんでも袖口は翼を突っ込んだときにだけ伸びて、それ以外は適度に締まるようにしてくれるらしい。
「いつも一緒にいることができる、とは限りませんから」
そう言いつつも、最近は僕に向けて良く微笑んでくれるようになった。新雪のような白い肌に髪。赤い瞳は宝石のように輝き、僕を捉える。
好きになったとは言わないけれど、少なくとも一緒に過ごすと楽しいことは確かだった。
「鳥」 そのみっつ
侍女が鳥籠の代わりをしている、ってのは気付いていた。その上で僕はこの鳥籠の中にとどまっていた。
逃げ出そうと思えば、いつでも逃げだすことはできた。広い広い空に翼を広げ、飛んで行ってしまうのは簡単だった。
でもそれより、僕は彼女と一緒にいることを選んだ。あの女主人の思惑通り、この屋敷で過ごすことを選んだ。
それに、あの女主人はほとんど僕に手をつけることはしなかった。
空を飛んでいる僕を見ていたり、毛づくろいしたあとで青い抜け羽を集め、装飾に使ったりはしている。
だけど僕の体に直接、触れるようなことはなくなっていった。
食事も一緒に摂ることはない。軽く数十人は一緒に座れるほどの、白いレースで覆われた縦長い机に、二人っきりで食事をする。
その日の夕食は、僕が魚を食べたいって言ったから主に海鮮物がメインだった。女主人の姿は見えない。何か食べているところを見たこともない。
「あの方の力は呪い、ですからね」
なんで僕に触らないのだろう、と尋ねたらそんな答えが返ってきた。
「呪い?」
尋ねながら、焼かれたエビを口の中に入れる。ハーピーの食事は食器から直接、犬のように食べる。
そもそもハーピーは野蛮な生物なのだから、行儀よく食べろというのは無理というもの。
手は翼なのだから、ナイフやフォークなどの食器を持てないのだから。
それに対して、侍女は行儀よく食事をとる。うらやましく思って食器の使い方とか真似をしてみたけれど、うまくいかないから諦めた。
「呪いです」
エビはあまり大きなものではなく、口の中で噛み潰せばうまみが広がる。
焼かれているから香ばしく、味付けもそれほど濃くはなく、冷め切っていないからいくつでも食べることができる。
「あの方の手に触れたものは、動きを止めてしまうのです。あなたも経験しましたでしょう?」
侍女はあまり多くを食べない。草食らしく、今日も切られた果物を少しばかり食べているだけだった。
食事らしい食事をとっているのは、僕だけらしい。
「意識を失うってこと?」
次のエビを食べようかと顔を近づけながら、尋ねる。
「あの方に触れている間は、死んでいるのですよ」
物騒なことを言われて、顔が止まった。上体を起し、侍女を見る。何食わぬ顔で、切られた果物をフォークを使って上品に口に運んでいた。
「死ぬって?」
僕は生きているよ? と、首をかしげる。
「触れられている間だけ、ですよ」
侍女は手元に置かれていた白い布で口元をぬぐい、僕を見る。いつものように微笑みながら、けれどもわずかに表情を曇らせながら。
「触れた物の動きを止めてしまう呪い。触れている間は死と同じ状態になる呪い。
ですからあの方は好きな人の手を握ることもできず、抱くこともできない。
食事をしても栄養として消化されることはなく、そもそも自分の体も止っているからその必要がない。寝ることもできず長い夜を一人っきりで過ごす」
だからあの鳥籠は、あの女主人の寝台の真横にあったのか。僕の寝顔をずっと見つめていたのだろう。寂しく長い夜を誤魔化すように。
きっと何度も触れようとしたのだろう。でも触れたならば、殺してしまう。その力で僕を捕えたのはやっぱり許すことはできない、けれど。
「……悲しい人なんだね」
同情ぐらいはしてあげよう。
「あの方は唯一、私にだけ触れることができるのです。私は誰にも触れられることがないのですから」
だから私はあの方にお仕えしているのですよ。そう、侍女はいつものように微笑んだ。夜は更ける。
エビを口の中に入れて……少し、思うところがあった。最初こそ扱いはぞんざいだったものの、今は自由にしてくれる。
こうして僕のわがままも聞いてくれる。少しぐらい心を許しても良いか。そう思えた。
-----
その日の夜は、自分からあの鳥籠の中に入ることにした。女主人は驚いて、目を大きくしていた。
いつもは決まって、僕のために用意された寝床に潜り込んでしまうのだから。
「……話す?」
恐らくは僕がここに連れられてきて、初めてだろう。僕の方から声をかけることは。
「寝顔で良いわよ」
女主人があまり衣服をまとわない理由も、侍女の話を聞いて理解した。鉄の鎧のように固くなってしまう衣服は、ただ鬱陶しいだけなのだろう。
せめて誰もいない自室では、一糸まとわず気楽に過ごしたいのだろう。
「良いの?」
許したわけではない。でも、可愛そうとは思う。僕が眠ると、またこの人は長い夜を一人っきりで過ごすのだろうから。
「慣れているわ。おやすみ」
僕の頭を撫でようとしたのか、女主人の白い手が鳥籠の中へと伸びてきて……寸前で止まった。
愛しいものに触れることができないのは、どんな気持ちなのだろうか。強がっているだけなのが、すぐに分かった。
だから、その手に頭をこすり付けて……そのまま意識を失ってしまった。
「鳥」 そのよっつ
雨の音に目を覚ました。いつも通りの冷たい鳥かごの中、扉は開かれていて出ることはできる。
あの日からこの鳥籠が僕の寝床となった。いくつものクッションを持ち込んで、それなりに居心地は良い。女主人の姿が見えない。
今日は侍女とお仕事があると言うことで、僕はひとりでこのただ広いお屋敷の中で留守番をすることになるとは聞かされていたけれど……。
いざ、こうして独りきりだと断続的に続く雨の音とあいまって、寂しく感じてしまう。僕はこんなにも寂しがり屋だったのか、気付かされてしまう。
「……雨か」
二人はどうしているのだろう。昨日の夜、いつも通り遅くまで語り合っていた時には、女主人は気が進まないと言って、顔を歪ませていた。
雨が降らなければ良いけれど、そんな願いは無駄だった。
「イヤなら行かなければ良いのに……」
鳥籠は天井から吊らされ、ちょうど僕が座ると足が床に着くぐらいの高さに調整されている。
元々は地面に置かれていたものを、女主人が男たちに言って改良させた。そこに座ると、すぐ目の前に女主人がいつも使っている寝台がある。
薄絹の覆いに隠され、その奥の女主人の身長の倍はあるぐらいの赤いカーテンが、ぼやけて見える。昨日もこうして座って、女主人と話し込んだ。
主人のいなくなった乱れのない深紅のシーツは、侍女が片づけたのだろう。
見ていると、寂しくなる。早く帰ってきてよ、とまで思ってしまう。雨の音が近い。けたたましく、うるさいぐらい。
「……夕方ぐらい、って言ってたっけ」
鳥籠から飛び降り、そのまま女主人の寝台へと身体を放り投げる。何度かこの上で寝かせてもらったことはあるけれど、やはりすごく柔らかい。
けど女主人はこの柔らかさを堪能できていない。触るものが完全に停止してしまう、呪い。硬い板切れと感触は同じだという。
「……柔らか、かい……」
目を閉じる。良い匂いがする。抜けた青い羽根が寝台の上に落ちる。何もすることがなく、お腹がすくこともなく、しばらくすると眠くなってきた。
起きたらあの二人も帰ってくるだろうか。またいつものように侍女に甘えて、女主人と話し込んで、明日は晴れるように祈りながら時を過ごそう。
晴れたらまた空を飛ぼう。街に降りたって色々と見て回ろう。そう考えていると、いつの間にか意識が飛んでしまっていた。
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また目が覚める。女主人の、良い匂いのする紅いシーツの中。どのぐらい寝ていたのだろう。雨の音はまだけたたましく、耳に触る。
自分で思ったほどは眠っていないらしく、少なくとも女主人も侍女もまだ帰ってきてはいない。
夕暮れ時ではないらしい。身体を起こして寝台の縁に座り、両羽根を上に大きく伸びる。
気づけば何枚もの抜け羽根が、深紅の布に青い斑点を作り出している。怒られるだろうか。
そう不安には思いつつも僕に掃除などできるわけもなく、放っておくしかなかった。
「……どのぐらいだろう」
まだ昼間ぐらいだろうか。雨が降っているから部屋も暗く、今がどのぐらいなのかは知ることができない。
でも、夕暮れを過ぎているならばさすがにわかる。確認してみようか。寝台から飛び降りて、カーテンに覆われた、大きな窓の方へを歩く。
雨脚は、寝る前と比べて弱まったらしい。
カーテンを開けて、驚いてしまった。夕暮れは間違いなく過ぎ、遠く闇夜が訪れ始めている。
だとすると二人は帰ってきてもおかしくはない。
でもまだ帰ってきてはいない。少なくとも女主人は、どんな時でも僕がこの部屋にいる間はこの部屋にいて僕を眺めているのだから。
「う、そ……」
こんなに長く眠ってしまっていたこと。
夜が来るのに二人が帰ってきていないこと。もしかすると、二人は何か事件に巻き込まれたのかも知れないこと。
色々なことが一度に思い浮かび、不安になってしまう。探しに行こうかとも思った。でも今は夜で、雨は弱まったとは言え降り続いている。
僕の羽根は水に濡れると重くなるから、雨の日に出歩くことはできない。ましてや夜は何も見えず、飛び立つことができない。
だからその夜は一人寂しく、次の日の朝を待つことしかできなかった。
「鳥」 そのいつつ
目が覚める。やっぱり女主人の姿はなく、もちろん侍女の姿も見えない。こんなにも寂しい目覚めは、いつ以来だろうか。
いつもならば女主人が僕を眺めていて、起きたら侍女が食事を運んできてくれて、その後は晴れていれば自由に空を飛び回ることができて。
それを二人がテラスで眺めていて、その二人を空から眺めるのがなぜか楽しくて、嬉しくて。
「……探すか」
そう思い立ったら、もう足は動いていた。女主人の寝台から飛び起きて、部屋を薄暗く保っていたカーテンを開く。
大きな窓は全身を使って押し開け、テラスに飛び出たら翼を広げる。大きな青い翼は朝日に影を落とし、冬も近い冷えた風を捉える。
雨は止んでいて、水たまりに氷が張り、羽毛で覆われているとは言え体は冷える。それでも二人を探したかった。
どこにいるのか、おおよその見当は付いていた。女主人はこの街を取り仕切る貴族で、侍女はそのお付きの人。
だからこのあまり広くはない街を空から探せばきっとすぐに見つけることができる。
羽ばたけば、風を捉えていた両翼は難なく僕の小さな体を宙に浮かせた。
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空を飛び、街を一望できるまでの高さまで浮き上がって……すぐに異変を感じた。
空から見た街は円形に家屋が並んでおり、その中央は何かしら使いやすいように広場のようなものになっている。
普段ならば街の人たちが勝手に物を売り出していたり、もしくは女主人に付き従った蛮族どもがたむろしているのだけれど……。
その日は特に人の姿が多く、その代わりに中央にはその蛮族どもの、首から上を失った姿の死体が見えた。
首の上はどこにあるのか、空から見ることはできなかった。
そして中央に二人分の吊られた者の姿も見える。背筋に嫌な汗が流れる。
なぜ二人が帰ってこなかったのか、その理由がそこにあるかのようで、見るのがとてもじゃないけれど怖かった。
でも確認しなければならない。あの二人じゃなければ、また探さなければならない。人の少ない場所を選び、地面に降り立つ。
血を吸い、昨日の雨も相まって歩く度に嫌な水の音がする地面は赤い。人垣をかき分ける。誰もが中央の、いくつもの死体を見つめていた。
見せしめのように、絞首台に吊らされていたのは……。
完全に血の色を失い、暴行を受けたのか顔は腫れ上がり、衣服らしい衣服は全て剥ぎ取られ、四肢は幾重にも潰され砕かれ捌かれ、縄を回され絞首台に吊らされ、伸びた首からまだ血が滴り、両足の間から糞尿を垂らし続けている二人の姿だった。
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声にもならない叫び声。それを合図に、幾体もの、決して豊かな色合いとは言えず美形とはほど遠く、魔物のようなハーピーが空を覆い尽くす。
瞬く間に空を埋め尽くした群れは太陽を隠し、街全体を闇に染める。周りの森に潜んでいたのだろう。
女性のハーピーは醜く、まさに魔物と言うべき姿をしている。人ではない荒々しい声は、女ハーピーが威嚇するときに発する鳴き声。
獲物に狙いを定め、飛びかかる。男女の区別、老若、子どもでさえも関係なく、鋭い爪をもって肌を裂き、肉を喰らう。
はたしてこの空に、何十体の、何百体のハーピーがいるのだろうか。
威嚇の鳴き声はまるで嵐のように辺りを支配し、逃げ惑う街の人々に容赦もなく襲ってしまう。
悲鳴は鳴き声と同化し、混乱の足取りは目に付くありとあらゆるものに助けを求める。
男性の可愛らしい青いハーピーだけがその混乱の中、耳を塞いで目をつむり、絶望に耐えていた。
告死鳥。ハーピーの役割は、そもそもは人々に死を知らせる類いのものだった。その役割は意図もせず、少年の口から発せられた悲鳴に取って代わる。
中には罪のない人もいるのだろう。子どもは何も知らないだろう。だが少年が引き起こした一種の滅びは間もなく街を包み込み……。
その日の内に、その街から生きている人間は消え去ってしまった。
-----
「何してるの?」
誰もいなくなった街で、その人に出会った。まだ肉の残っていた死体を貪り喰らう、一人の少女だった。
「……食欲が、止まらない」
てっぺんの長い帽子、長いローブ、足元に転がるワラボウキ。魔女だと一目でわかった。
「人を喰うんだ?」
尋ねると、その子は泣きそうな表情を浮かべて僕を睨み付けた。
「魔女」 そのひとつ
「良いかい? いつも自分は魔女だってことを意識しなければならないよ」
何度も聞いた。恐らくは今日中に師匠は死んでしまうだろう。私の魔女の師匠で、とてもではないが優しくはなかった私の師匠。そろそろ死ぬ頃合いだってのは私も、師匠もわかっていた。
わかっていたから、悲しむことはない。いつものように、せめて師匠が安心して逝けるように、振る舞う。
「わかっています、師匠」
私が十五の時に師匠から全ての魔女の術を継承し終え、そして師匠は床に伏せた。役目を終えた魔女は、それから一週間もしないうちにその生を終えてしまう。それを承知で、師匠は私に全てを教えていた。
「私は糸の魔女。恐ろしき力を持つ、悪き魔女」
何度も聞いた師匠の言葉。今度はそれを私が弟子に教えなければならない。
「魔女は悪いものだ」
干からび始めたか細い腕。冬の枝のように、それ以上にもろく折れそうな指。糸の魔女としての最期。私はこれを見届けなければならない。私もやがて、こうして干からびていく定めなのだから。
「でも、お前を不幸にするものではない」
蚊の鳴くような、擦り切れているかのような、布を裂くような声。これがまだ三十台の女性だと、誰が信じるだろうか。顔には薄い白布が被されている。
見られたくないから、見たくないから、せめてこれだけは。
「わかっています、師匠」
人を狂わせる糸の魔法。人を紡ぎ、運命さえも操る魔女の術。けれども失われてはならない、太古の知識。人々から嫌われ、私たちを遠ざける忌むべき力。その重荷は、師匠から私へと。
「……きっと、私も師匠のように幸せになります」
折れそうな指を、折ってしまいそうなぐらい力強く握って、いつの間にか流しそうになっていた涙を見せないように、師匠の身体を覆う白布に顔を埋めた。
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夜中に目を覚ます。古い夢を見た。古いと言っても一年か二年。師匠が死んで、私が今世の糸の魔女になったあの日。あれから二年、その間の記憶は私が自らの手で消し去ってしまった。
きっとそれぐらい、思い出したくない記憶があるのだろう。私の人食い癖と関係があるのだろう。
「……師匠……」
この二年間の記憶を消すために糸の魔女の力を自分に使った。あの日から、この思い出さえも自分で作ったものではないかと疑い始めている。そのはずはない、と左右に首を振る。
師匠との思い出や約束は、事実であるはず。弄ってなんかいない。
「……大丈夫、ですか?」
起こしてしまったのだろうか。私と旅を共にしている猫の獣人が身体を起こし、私の方を見ていた。魔法によって固定化された決して絶えぬ焚き火が、彼女のとても美しい顔の影を揺らす。
「起こして、しまった?」
尋ねる。気品に満ちあふれた彼女の顔が優しく笑って、私を見据えた。人よりも獣に近い造形の、猫の顔。しかし美人ではある。美獣と言った方が正しいのかも知れない。
白い毛並みは流れるように、あまりにも整った配置は、ただの人である私でさえも美しいと感じるほど。
「猫は夜行性ですよ」
そう言って笑う、その一つの動作でさえ気品で溢れる。
「夜が明けるまでもう少しあります」
空を見上げる。明らむまでもう少しかかるだろう。秋口のこの頃は、夜明けが最も冷え込んでしまう。火は絶やさないようにしなければ。この焚き火のおかげで、魔物も寄りついてこないのだから。
「……また、いつものように私が暖めてあげましょうか?」
その優しい言葉に戸惑ったものの、結局はいつものように甘えてしまうことにした。自分の寝床から離れて、彼女の方へを歩み寄る。彼女は両手を大きく広げて、私を迎え入れてくれた。
冬毛に切り替わった彼女の柔らかな全身は優しく私を包み込み、微かに甘い匂いが私を穏やかな眠りに誘ってくれた。
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目が覚めると日が高く、彼女は既に発つ準備を終えそうな頃合いだった。あの後、彼女に甘えてどのぐらい眠っていたのだろうか。焚き火は消されている。
空気も暖められ、今日中に次の街に辿り着くことができるだろう。
「……あっ」
慌てて身体を起こす。荷造りをしていた彼女はその声に気づいたのか、私の方を見て微笑んでいた。
「こんにちは」
おはよう、じゃないのか。この日の高さ……もしかすると、私はそれほど眠ってしまったのか?
荷造りを終えた彼女は荷物を適当な場所に置き、まだ寝ぼけて寝床からでることができていない私の方へと歩み寄ってくる。
「起こすのも悪いと思いまして……このまま昼食にしましょう」
その言葉を聞いて思わず顔を赤らめてしまう。
「気になさらなくて大丈夫ですよ、眠り猫なのですから」
太陽の下で彼女の微笑む顔の、なんと愛らしいことか。眠り猫は美形であることが多いと聞くが……ここまでとは思わなかった。
「魔女」 そのふたつ
誰も好きこのんで人を喰っているわけではない。でもなぜ、私が人を喰うようになってしまったのかは、自分でもわからない。
その記憶を私は自分で消してしまった。消してしまいたいほど、どうしても忘れてしまいたいほどの過去があるのだろう。
禁忌を犯してしまうこともお構いなしに。
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自分の記憶を弄る。忘れたいことを忘れてしまう。それらを自由にできてしまうのが、糸の魔女。
だから自分の記憶に手を入れることは、師匠からも固く禁じられていた。師匠だって、忘れたい記憶がたくさんあることを話してくれた。
けれども、忘れることは禁止されている。糸の魔女の掟だと何度も聞かされた。本当に、しつこいぐらい。
「忘れてしまえば、楽になるのではありませんか?」
揺れる椅子の上で何か縫い物をしている師匠に、尋ねたことがある。
「その方がきっと気も楽になる。きっと救われるのではありませんか?」
その時はまだ師匠に拾われて、糸の魔女の基礎を知ったばかりの時だったから、純粋に疑問に感じてそう尋ねた。
それを聞いた師匠は、明らかに憤怒の表情を貼り付けていた。普段はまるで、死んでしまったお母さんのように優しい表情が、見る影もない。
いけないことを聞いてしまったのだろうか。
「……今から言うことを、決して忘れてはならないよ。良いね」
後にも先にも、師匠の怒りを飲み込んだような声を聞くのはこれっきりだった。
「人の記憶を弄るものは、自分の記憶を偽ってはならない。
もしも一度、たった一度だけでも自分の記憶を偽ってしまったならば、その者はこれから嘘の世界に生きることになる。
もしかするとあの記憶は自分が作り出した、勝手な妄想ではないのだろうか。
あの幸せだった出来事は、自分が夢見ただけの出来事だったのではないだろうか。あの不幸な出来事は、自分の創作だったのではないだろうか。
あの優しい人は自分の理想の人。あの厳しい人は自分の嫌いな人。自分の記憶を弄ってしまったならば、やがてそう思い始める」
やがては世界が混ざり合ってしまうようになる。夢と現との境界がなくなる。歩いているのか立ち止まっているのか、わからなくなる。
実は私は文字を書いていて、ただそれを頭の中で書き連ねているだけではないだろうか。
人形劇をやっていて、指先一つで動かしているのではないだろうか。創作と現実の区別ができなくなる。
やがてその者は、生きている実感が薄くなる。死んでも空想なのだからと、全てを諦めてしまう。
「我らは全てを背負わなければならない」
師匠の言葉はずっと覚えている。
「我らは全てを記憶しなければならない」
でもこの師匠の言葉も私の空想かも知れない。あの時から二年間の記憶だけを失わせたはずなのに、いつの間にかそう思い始めてきた。
-----
街に着いた。先だって眠り猫から滅びているかも知れないと聞かされていたから、ある程度の覚悟を決めることはできた。
でも実際にこの目にすると、やはり気分が悪くなる。家を燃やす熱風が、肉の焼く臭いが、鉄生臭いあの臭いが、吐き気を催させてくれる。
すぐ近くの赤い屋根の家はガラス窓が割れ、右手の失った男女ともわからぬ死体が飛び出している。
その正面の家では二階部分が今もなお火の手が衰えず、屋根は崩れ落ちたのだろうか見るも無惨な惨状であり、すぐ隣の白作りの家に飛び火しようとしている。
足元には無数の、血色に染められた羽根がある。
加えていくつもの爪痕や切り裂かれた四肢から察すると、恐らくは最初の滅びの原因を作ったのはハーピーなのだろう。
なんとか人の形を保っている数少ない死体が、何があったのかを物語っていた。
その後でいつものようにゴブリンどもが火事場泥棒のようにやってきては、残ったものをかっ攫い火を点ける。
最初の滅びの原因が何であれ、ゴブリンは台無しにする役割なのだから。
「ダメだったね」
この街も既に滅びを迎えていた。しかし何か残っているかも知れない。食料も豊潤にあるとは言えないから補充しておきたい。
だから私は少し探索をするつもりだった。
「離れた方が良いのではありませんか?」
彼女の意外な言葉。見ると、明らかに不安そうな表情を浮かべている。憂いを浮かべ、熱風に長い白毛を揺らしながら、辺りを見ている。
「どうして?」
私のような魔女が、ゴブリンやオークどもに襲われないことは知っているはず。
獣人は襲われることはあるが、眠り猫の場合は魔物の同族と認識されやすい。
「まだ魔物が潜んでいます。それも、そこらじゅうに」
何を恐れているのか、理解できなかった。
「貴女が手を出さない限り、魔物は私たちを襲うことはしない」
ちょうど良く、少し遠くの道を数匹のゴブリンが歩いていた。手にはいくつかの戦利品とみられる、貴金属や人間の死体の断片をもっている。
右手だけの死体を何に使うのか、想像もしたくない。そのゴブリンたちは私たちの姿に気づいたのか、こちらへと顔を向ける。
しかしそのまま歩を止めず、崩れた家の影へと姿を消してしまった。彼女は、身構えていた。襲われるとでも思ったのだろうか。
「魔女は魔物だという人がいる」
滅びた街中を歩き出す。ひとまず荷物を置ける場所が欲しい。
数日はこの滅んだ街で物資を整えるにしても、休むことのできる場所は必要なのだから。それに、この臭い……。
「魔物とは人と混ざり合えぬ者を言う」
何かが足に触れた。人の骨だった。まだ肉がわずかに付いている。ハーピーの食した残骸なのだろう。血生臭さが鼻につく。ガマンができなくなる。
なぜ私は人を食すのだろう。なぜ私は人の死体を見るとガマンができなくなるのだろう。なぜ私は人を食べつつも生きているのだろう。
この二年間、何があったのだろう。
「……そもそも、人食いの魔女が人間であるわけがない」
いつからなのだろう、私が人間であることを諦めたのは。いつからなのだろう、ゴブリンが私の姿を見ても襲わなくなってきたのは。
いつからなのだろう、人を食べることが当然のことのように思い始めてきた、のは。ガマンが、できなくなる。
「ゴメン、見ないで」
赤く血濡れた羽毛は何枚も重なり、少し気を抜けばすぐに滑って転んでしまうだろう。それでも、せめて彼女だけには私が人を喰らう姿を見られたくなかった。
「魔女」 そのみっつ
気がつけば手は血だらけ。口の中に放り込まれているのは、はらわた、だろうか。鉄の味。美味しいと感じるわけがない。吐き気がする。
胃の中にあるものを全てぶちまけてしまいそうになる。両手に持っているのは人の肉。
あまりにも乱雑に切り刻まれているから、どの部位なのかわかりやしない。慌てて口の中にある肉を吐き出す。両手に持っていた人の肉を放り投げる。
指を口の中に入れ、胃の中にあるものを全て吐き出してしまう。また私は、いつの間にか人を喰らっていたのか。
人を喰らうのは私の意図ではない。むしろ喰らいたくないとまで思っている。
でもどうしてもガマンできなくなり、私とは別の誰かが私の身体を勝手に操り、こうして人を喰らわされている。もしくは私の本心かも知れない。
でもそんなことは認めない。認めたくない。私は人を喰らいたくない。
-----
全身を血に濡らし、嘔吐物と血腥さで目眩もしそうな臭いが立ちこめているこの場所は、どうやら路地らしい。薄暗く、左右は木製の家の壁。
ところどころに乱雑な大小様々な荷物が置かれ、誰の気配もない。足元には誰かの死体が一つ。
顔の判別はできないほど損傷が激しく、腹は食い千切られて臓物は泥に濡れ、流れ出した流血は小さな川になってより低い方へと流れている。
振り向くと地面には、恐らくはこの死体をここまで持ってきたのだろうか、引きずったような跡が残されていた。
「……また……」
いつまで続く? こんなことが、いつまで続くのだろう。いっそのこと、自分のこの記憶にまた手を入れて、全て消し去ってしまおうか。
どうせ禁忌は一度、犯してしまったのだ。二度も変わらない。
「……ダメ……」
左右に首を振る。それはできない。これ以上、嘘を積み重ねることはしてはならない。むしろ逆。私はこの二年の記憶を取り戻さなければならない。
それが例え、私を壊してしまうぐらいの出来事だったとしても、私はこの二年の記憶を取り戻す必要がある。
禁忌を犯してしまったその理由を、知る必要がある。
朝頃にこの街に到着して、今はちょうど正午の頃合いだろうか。日は高く、滅び去った街を照らし出している。それでもこの路地は薄暗い。
でも今の私には、この薄暗さに安心感を覚える。誰にも見られていないはずなのだから。
「落ち着いた?」
声がした。屋根の上の方。まだ声変わりのしていない、男の声。見上げると一羽のハーピーが青い翼を広げ、私を見下げていた。
雄のハーピーだなんて、すごく珍しい。
「……いつから、そこに?」
私の人の喰っている姿も見られたのだろうか。もしもそうなら……。ううん、それはダメだ。記憶は簡単に弄って良いものではない。
「一心不乱だったからね」
その言葉に少しの棘が含まれる。短い言葉ではあるけれど、私が人を喰らっている姿を見られていたのは確からしい。
「私じゃない」
人食いは私の意思ではない。そんな意味を含め、しかし言葉が出てこない。
私が足元の死体を喰ったことを隠しようはなく、口の中で鉄の味がまだ残っている。
柔らかな肉の感触と、下に纏わり付く脂の感触がまだ残っている。私じゃないだなんて、ホントは言ってはならない。
「良いよ、そうしとく」
そのハーピーは一度だけ大きく羽ばたき、青い羽根を大きく広げて血濡れた地面に降り立った。雄のハーピーを見るのは、これが初めてではない。
確か二度目のはず。失われた二年より前にもあった覚えがある。確か師匠との訓練の最中に出会っている。
それは、目の前で死体を見下げているハーピーではない。その子は羽根が黄色だった。
「……思い出した?」
何を? 反射的にそう言いかけて、口を閉ざす。言葉を待とう。良い予感と悪い予感の両方がする。
こんな時はすぐに口を出してはならない。それが師匠の教えなのだから。
「さっきはとても話せる状態じゃなかったからね」
さっき……やはり、私が人を喰らっている姿を見ていたのだろうか。両手で顔を隠す。
血糊でまみれた両手は血腥いけれど、それよりもこの表情を見られる方が嫌だった。恥ずかしさと、申し訳なさと、少しの怒り。泣きたくなる。
「……まだ、落ち着かない?」
そんな優しげな少年の声。こちらに歩み寄ってきていたのか、すぐ近くで聞こえた。なぜだろうか、聞き覚えのある声。
私はこの子と会うのが初めてではない。そう思わせてくれる。
「ううん、大丈夫……」
ひとまず落ち着こう。落ち着いて、この子と話そう。何か手がかりがあるのかも知れない。
この二年間で何があったのか、この子なら知ってるかも知れない。
「……貴方は、私を知ってる?」
顔から両手を引きはがし、尋ねる。きっとその表情は酷いものなのだろう。薄闇に浮かぶその子の顔が、とても嫌そうに歪んでいた。
「魔女」 そのよっつ
ハーピーの少年は街を歩いていた。隣にはアルビノの少女を連れている。手と翼を繋ぎ、一緒ぐらいの背と足幅で、活気の良い街を仲も良さげに歩いていた。雄のハーピーは珍しいものだった。
そのほとんどは醜い雌のハーピーに半ば軟禁され、外を出歩くことは許されない。
物わかりの良い雌に出会えたか、もしくは何らかの事情でその雌が死滅してしまったかしない限り、雄のハーピーがこうして街を歩くだなんてことは起こりえない。
そして私も雄のハーピーに出会う必要があった。正確に言えば、その羽根を欲した。雄は雌と違って羽根色が鮮やかであり、装飾やその他、色々なものに使われる。
それだけではなく、私たちのような魔女はその羽根を媒介にして色々なことができる。例えば人を動物や魔物に姿を変える薬の材料。
これはその生物の身体の一部が必要であり、もちろん雄のハーピーになろうと思えば雄のハーピーの何かが必要になる。作りたかったから、必要だったから、ちょうど良かった。
「珍しい、ね」
近づくための言葉なんて、何でも良かった。その言葉に最初に反応したのは、白髪白肌赤目のエルフの少女だった。私の方へと振り向く。少し遅れて、少年も私の方を見た。
「そんなに珍しい?」
最初に言葉を発したのは少年だった。棘の含まれる言葉。きっと、私のような物好きに話しかけられるのは、慣れっこなのだろう。
「珍しいよ、すごく」
長いとんがりと広い鍔の魔女帽子を右手で取り、身体の前に押し当てて軽く頭を下げる。これからお願いをする身なのだから、礼は欠かせない。
「何の用?」
つっけんどんな少年の対応。エルフの少女は複雑な表情で私を見ている。用件を率直に言ってしまおう。きっと、その方がわかりやすい。
「その青い羽根、一枚だけ―――……」
そう言いかけると。
「貴方も魔女なのですか?」
アルビノの少女が言葉を遮った。喜びを噛み潰しているかのような言葉が気になり、首をかしげる。少女は私が身体の前で持っているとんがり帽子と着ている黒いローブを指差した。
「その帽子」
なるほど、隠しようもない。隠してもいないし、隠してはならない。魔女は恐ろしいものだって伝えるためには、この服装でいる必要がある。
立ち話をするのもアレだから、と三人で近くの広場へとやってきた。
立ち並ぶ露店には飲物や食べ物、甘いものやしょっぱいもの、様々なものが売られていて飲み食いに困らず、座るためのベンチもいくつかある。
少しここで待っていて下さい、と言ってアルビノの少女が席を外した。赤いベンチに、ハーピーの少年と二人きりで取り残される。
少年は私の方を見ずに、少し遠くで何かを待っているアルビノの少女をじっと見ていた。
「名前、聞いても?」
沈黙に絶えきれず、話題に困り、名前を尋ねる。
「自分から言うべきじゃない?」
少年は私の方を見ずに応えた。足をぶらぶらと前後に動かし、さも面白くなさそうに唇を尖らせている。棘のある言葉が、なぜか気になった。
「フィリム」
名乗りはしたが、真名ではない。魔女は名を持たない。でも名無しでいるってのも変だから、こうして偽名を名乗っている。意味は糸。そして玉の緒。私にピッタリの、古代の言葉。
「魔女のくせに名前なんかあるんだ?」
少年が笑い、私を見た。小馬鹿にするような表情と口調。魔女が名を持たないというのも、思えば知っていて当然だった。連れているアルビノの少女も、魔女なのだから。
-----
同じ広場の、別の場所。ここもこんなにも変わっちゃってね、と少年は言った。その口調からは哀しそうな色はなく、達観したかのような言葉だった。
「覚えてないんだね」
面白くなさそうな少年ハーピーの言葉。聞かされた内容は、私の記憶にないものだった。ちょうど一年ぐらい前の出来事らしい。私たちは出会ったことがあり、そして仲が良かったとのことだった。
私の記憶が失われた時期のことを知っている。それだけで、無性に恐ろしくなった。このまま話を聞いて、良いものなのだろうか。禁忌さえ犯した私の記憶は、眠らせておくべきなのではないか。
「ってことはあの約束、覚えてないんだ?」
約束? もちろん覚えているわけがない。記憶がないのだから。
「……連れ出して一緒に旅をするって約束、だね?」
自分でも思いがけない言葉。まさしく、勝手に口が動いた。この感覚は、私の術の一つだ。条件付けのようなもので、とある言葉に反応して何らかの行動を起こす。
例えばこの少年が約束って言葉を発すれば、機械的にさっきのような言葉を返すように。
「あの時はダメって言われたからね、アイツに」
アイツ、さっきの話に出ていたアルビノの少女のことなのだろう。この少年は私について、どこまで知っているのだろう。もしかすると記憶が戻るかも知れない。そう思い口を開きかけて……。
気がつけば一人、広場で佇んでいた。空は朱が指し、すぐに闇夜が訪れるだろう。アレからあの少年と何を話したのか思い出そうとしたが、思い出すことはできなかった。
「魔女」 そのいつつ
夜は寂しいものだった。枯れていく師匠を看取り、死体さえ残らないベットの上で、次は私が枯れていくことになるのだろう。私の師匠は三十の半ばで私に術を教え、亡くなった。
師匠の師匠は老婆だったらしい。同じように、同じ場所で枯れたと聞かされた。草紋の入った栗色のシーツと、お揃いの毛布。
天井から吊されたランタンには僅かに光る鉱石が入れられ、数々の魔女の道具が置かれている室内を淡く照らす。ここで何人の糸の魔女が寝転がりあのカンテラの裏を見ながら、看取られ、枯れたのだろう。
次は私の番なのだ。そんな堂々巡りをする頭の中で、知らず知らず涙を流した。夜、梟が鳴いている森の魔女の家で、たった一人で死ぬことを考えると純粋に怖くなってきてしまった。
眠れない夜は嫌いだった。いつも無駄なことを考えて、いつも夜が更けてしまう。酷いときはそのまま朝を迎えてしまい、二日も眠れなかったときもある。
あの時は結局、眠り草の力を借りて無理矢理にでも身体を休めた。その次の日からは何も考えないようにしたら、夜も眠れるようになってきた。
「……師匠……」
淡い灯から影を作るように、目の前に腕を置く。なぜ今日に限って、師匠のことを思い出してしまうのだろう。優しくて厳しい師匠。微笑みを決して絶やさなかった師匠。
お母さまのように慕っていた。本当のお母さまを知らない私にとって、師匠は唯一の甘えることのできる人だった。
私に両親はいない。物心が付いたときには、既に孤児院にいた。教会が経営している孤児院で、私は修道女になるために育てられていた。
何の疑問も持っていなかったし、決して豊かとは言えないけれど貧しくはない生活は当たり前だと思っていた。読み書きを教えてくれて、生きるには困らないだけの知恵も教えてくれた。
ずっとこのままこの場所で生活して、修道女になるものだとあの頃は思っていた。大きな転機が訪れたのは、十を数えたぐらいだった。私の師匠となる魔女が、その教会へとやってきたのだ。
酷くわかりやすい魔女だった。とんがり帽子に黒いローブ。栗色のショートボブの髪で若さの残る顔立ちは、優しげな表情を浮かべている。
教会はその魔女を追っ払いもせず、むしろ親しげに修道女と話していた。何というか、友人と話しているかのような気楽さだった。
その時はまだ、魔女の存在は知っていたけれどその驚異については知識がなく、魔女とは悪いものだとは知らされていなかった。
むしろ物珍しくて、修道女と話し込む魔女から目を離せなかったことを覚えている。
「……それじゃ、もらって良いんだね」
そう言った魔女は私の方を見て、目を細めた。目が合う。一瞬だけ哀しそうな表情を浮かべたことが、今でも鮮明に思い出される。石床を叩く靴底の音が、私の方へとゆっくりと近づいてきた。
「その子?」
ふくよかな体型の、修道女の言葉。あまり感情の籠らぬ、冷静な口調。
「そうだね」
魔女は短く応え、背の低い私に目線を合わせるように膝を折った。その優しげな表情に、少しも萎縮せず恐怖せず、緊張さえもしなかった。
「……お前、名は?」
その声も、とても柔らかだった。
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夜は嫌い。今日は眠れそうにないから、こうして屋根の上で辺りを警戒している。まだ勢いが衰えない火災と、夜行性の魔物たちが闊歩するこの滅びた街の中は、居心地は最低だった。
早く朝になってくれないものか。まさかこんな危険な街の中で、眠り草を使うわけにはいかない。緊張で眠れそうにはない。
本当は眠らなければ、明日には動けなくなる。ここしばらくは眠り猫が隣にいてくれたから、ゆっくりと休むことができたのに。
「……師匠……」
眠れない夜はいつも師匠のことを思い出す。あの時もそうだった。師匠を看取って、それから一週間ほど経ったあの日。私が覚えている、記憶が飛ぶ前の最期の日。
その次の日からの記憶は、綺麗に抜け落ちてしまっている。あのハーピーの少年の話によると、去年はこの街にいたらしい。
そこであの少年と、エルフの少女と知古になったらしい。貴重な手掛かりだから、もっともっとあの少年と話したかった。
だってのに、どうして昼間から夕暮れまでの記憶が飛んでしまっているのだろう。少年はどこにいるのだろう。何を話したのか聞きたいのに。
結局は、一睡もできないまま朝になってしまった。夜の間は星を見上げ、下を通り過ぎる黒い魔物たちを見下げ、時間を潰した。
眠れなくて、身体が疲れている。街はこんな惨状なのだから、しょうがないことではあるけれども……。
「……?」
声が聞こえた。怒声のようにも聞こえる。加えて、剣戟の音。鎧が擦れ合い、固い地面とぶつかる音。騎士団だとすぐに理解して、顔を引っ込めた。
あの連中はあまり好かない。自分たちが認めたもの以外に対して敵意を持っていて、私のような魔女は特に嫌っている。野蛮な男ども。
「魔女?」
魔女め。確かにそう聞こえた。私は見つかっていないはず。この街に、私以外の魔女が忍び込んでいたのか。興味が沸く。是非とも協力して、この街から逃げ出さなければならない。
それともその前に、あの獣人の娘を救うことが先決だろうか。野蛮な男どもに連れ去られるあの獣人の娘を、すぐ近くの屋根の上から見ることができる。
騎士団と名乗り、それなりの装備に身を包もうとも、実際にしていることはただの蛮族。魔女狩りや亜人狩り、その仲間の粛清など名目は何でも良いのだろう。
単に自分たちの欲求を叶えたいだけなのだ、あの男どもは。
連れ去られる獣人の娘を助けたくは思う。けれども今、何も考えずに出て行けば私も捕まり、ひどいことをされた挙句に殺される。見捨てるべきなのだろう。
屋根の上で男どもの行動を監視しながら、悩んでいた。
「二人」 そのひとつ
人の罪を糧として私たちは生きている。それは人間たちが水を飲むようかのように、あたしたちは人の記憶から罪を喰らう。だから人々は私たちに罪を告発し、罪から逃れようと無様に足掻く。
人は大なり小なり、罪を持つ。産まれながら罪を持つと説く者もいる。そんなの、私たちは知ったことではない。ただただ罪を喰らいたいだけ。
私たちは御使いと呼ばれ、神が遣わせた神聖なるものとして人間たちに大事にされてきた。実際がどうであれ。
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「歩き疲れたよ」
右にのみ翼を持つ少女の足が止まった。
「そうは言っても、歩かないと街にはたどり着けないよ?」
左にのみ翼を持つ少女も、それにつられて足を止める。
「お腹も空いた」
右翼の少女がその場にへたり込む。腰より下まで伸びる整えられた長い金色の髪をまだ暖かみの残る風に揺らし、空を見た。翠色の宝石のように輝く瞳が空を飛ぶ鳥を捕らえる。
薄汚れた土色の翼を大きく広げ、風を受け、その名も知らぬ鳥は飛び去っていった。
「飛びたいねー、私たちも」
左翼の少女も空を見ていた。いずこかへと飛び去っていった鳥を探すように、碧色の瞳で空を見上げる。二人は空を知らなかった。全身を包み込むほどの大きな白い翼を持ってはいるが、それぞれ片方のみ。
もちろん役には立たず、むしろ風の強い日や雨の日には枷にしかならず、持て余していた。御使いと呼ばれる有翼族。人々の罪のみを糧とする、特異な種族。
この世界で天使と呼ばれる存在であり、人々が敬愛して止まぬものだった。
その村では全ての罪を喰らった。喰らい方は至極簡単である。二人に自らが犯してしまった罪の話をすればたちどころにその罪の存在を忘却してしまい、許された気になってしまう。
それはまるで、教会が行う懺悔のように。二人は話を聞き、罪を認めればその事実を喰らい、腹が膨れる。懺悔は二人にとっての食事だった。そしてその村の全ての人間の罪は、二人に喰われた。
ほとんど時間もかからなかった。天使がその村に降り立っただけで空き家は改造され、二人が住みやすいように内装は整えられ、少しでも長くその場に留まるように歓迎された。
二人にとって初めての食事だったこともあり戸惑いもあったが、ただ食事ができるだけで満足だった。むしろそれ以外に興味はなかった。
罪を全て食い終われば、二人はその村を後にした。飯を探して彷徨い歩く。罪を持つ人を探して街を目指す。金銀宝飾、豪華な食事、手厚い歓迎には何の興味も引かれなかった。
「飛べないもんねー、私たち」
二人は双子だった。御使いの双子は、人間の双子と同じぐらいに珍しい。
ただ問題は、本来ならば御使いは背負う大きな白い翼によって空を飛ぶことができるが、二人は分れてしまっているためか飛ぶことはできない。その為に次の街へと向かうのは、自らの脚でしかない。
加えてまだ御使いの中でも幼い年齢と言うこともあり、まだまだ未熟だった。二人で半人前と、別の御使いから馬鹿にされたこともある。
「飛びたいよねー」
空は白い雲が風に流され、木々は影を作り出す。真っ白いワンピースは一枚の布であり、地面に座り込んでいるというのに砂が付くことはない。
そればかりか汚れの一つさえも見られず、陽光に照らされた衣服は輝いてさえ見える。どのような布地なのかわからず、まるで身体の一部のように生涯にわたって脱ぐことはないという。
空を見ていた左翼の少女が顔を下げ、ずっとへたり込んでいる右翼の少女を見る。そろそろ移動したいが、右翼の少女はまだ立ち上がる気配がない。最期に罪を喰らって、かれこれ一ヶ月はなるだろうか。
人に会わない。人に会えない。一年は喰わずとも生きることはできるが、お腹が空くことに変わりはない。だから街を目指しているが、辿り着く街のほとんどは滅び去り、人の姿は見えなかった。
「……魔物は不味いしねー」
魔物にも罪はある。御使いは人間の姿をしてはいるが、魔物が襲いかかることはない。むしろ自ら原罪を告発するかのように、向こうから歩み寄ってくることがある。ゴブリンやオークにも罪はある。
懺悔することもある。だが人間と違って、その味は決して良いものではない。罪の味がどのようなものなのか、わかるはずもないが。
「人間が良いよねー」
好き嫌いもある。二人は人間の罪の味が好みだった。と言うより、それ以外はほとんど喰らおうとしなかった。魔物が望んでも、二人は聞く耳を持たなかった。
あまりにもしつこいから、仕方なくその罪を聞く。魔物から罪を喰らうのはその程度で、むしろ毛嫌いさえしていた。
人間の方が好み。とは言え、その人間の数もこのところは少なくなっていた。各地で滅びが引き起こされている。原因が何であれ、その度に人間の数が少なくなる。
二人にとってはあまり良いことではない。人間の罪だけを喰らいたいと考えているのだから。
「……歩こ?」
左翼の少女が、へたり込んでいる右翼の少女へと手を伸ばす。白い肌と、少し力を入れれば折れてしまいそうな細い腕。右翼の少女も、ため息混じりにその手を取った。
とっくの昔に脚は棒で、飛んでいくことができない役立たずの翼が恨めしく思う。でも歩くしかない。大好物に巡り会うためには。
この街道を少し歩けば、街があるはず。そう信じて、二人の御使いは歩き続けた。
「二人」 そのふたつ
その二人の食事は酷く呆気なく、ただ一言二言の言葉で済まされてしまうものだった。
両脇を深い森で挟まれている、まだ道としての体裁を保っている街道の途中、雨の降りそうな雲行きを憂いながらの道すがら。出くわしたのは、一人の旅商人だった。
背中を覆い尽くす大きな荷物を背負った旅商人は二人を見つけると、ここぞとばかりに声を掛けた。ずっと探していた。ようやく出会えた。天使さまに。そんな、二人にとっては聞き飽きた言葉だった。罪を……懺悔をさせて下さい。二人にとってはようやく出会えた食事であり、それが旅商人であることは道に迷っている今では鴨に葱の話だった。当然、懺悔を拒否する理由はない。
「じゃあ」
右翼の少女が口を開くと、頬に落ちてくる一粒の水玉を感じた。その左に立っていた左翼の少女が空を見上げる。真っ昼間のはずなのに周囲は暗く、遠くでは雷らしき音が聞こえる。
また一粒の雨粒が、二人の指先を濡らした。
「……雨、か」「雨だね」
ほぼ同時に口を開く。大きな、役に立たぬ白い翼を持つ二人にとっては雨は嫌な物だった。翼は水を含みやすく、吸いすぎると重くなる。
乾くのにも時間がかかり、その後の手入れもより念入りにしなければすぐに見た目が悪くなる。だから、急いで雨宿りをする必要があった。
「おまえ、どこか良いとこ、知らない?」
左翼の少女が尋ねる。今まで歩いてきた道では、雨宿りにちょうど良い場所は見つからなかった。
山小屋や休める場所も期待したけれど、見つけはしたもののどれもが屋根は吹き飛び、壁は崩れ、柱は折れ、とても雨宿りのできる場所ではなかった。
「私たちを雨宿りさせること、それを条件に罪を聞いてあげる」
右翼の少女が尋ねる。どうせ罪を喰らうつもりではあったが、この際と雨宿りの場所も提供させることにした。旅商人であるならば、商品を守るために何かしらの手段を持っているはずだ、と。
雨脚がわずかに強くなる。二粒、三粒、気づけばきちんと整えられた金の髪が濡れ始めている。まだこの程度では翼は水を吸わないとは言え、そろそろ雨から逃げたいところではあった。
幸運なことに、旅商人は手頃に広げることのできるテントを所持していた。
魔力を込められたその少女の太股ぐらいの太さがある筒状の物は、無闇に広がらないように固定されている紐を引っ張れば即席の屋根が出来上がる、便利な物だった。
布製の屋根には薬品が塗られており、水を弾く。それを支える柱は木製であり、しかし作りはしっかりとしているために少しの風では崩れる心配はない。
幕を下ろせば壁の代わりにもなり、やはり水を弾く薬品が塗られているために横からの雨にも対応できる。その中は広く、十人ほどならば窮屈せずに済む。
旅商人はその即席のテントを張り、次に折りたたまれた木製の椅子を三つ取り出した。雨は天井を激しく打っているが、この中ならば気にする必要もない。大丈夫でしょうか。旅商人は尋ねる。
「良いよ」「聞いてあげる」
二人の言葉は、まるで一人が喋っているかのように息が合っていた。そのことに多少は戸惑っていた旅商人も、やがて罪を告白し始める。二人にとって、一ヶ月ぶりの食事だった。
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私は一人の少女に許されざることをした。私は少女と顔見知りだった。少女はよそ者である私を毛嫌いしなかった数少ない人だった。私が街の外で仕入れた商品も、いくつかを定期的に購入していた。
商品開発にも手伝って貰ったことがある。このテントも、彼女と一緒に発明した。
次にその街へとやってきたときには、少女は逃げ惑っていた。なるべく人の少ない方へ。なるべく誰もいない方へ。街の外に出ないのは、逃げないのはまだ友人と会っていないからだと。
私がこの街でいつも使っている空き家の中で、酷く怯えた様子の少女が話してくれた。ならば一緒に旅をしようか、そう提案した。少女は喜んだ様子だった。だが、それが私の間違いだった。
少女はこの町の貴族と友人だった。その日のうちに出発した方が良いだろう、そう言うと少女は友人にお別れを言ってくると、その空き家を飛び出していった。ここで引き留めるべきだった。外は危ないと。
そのまま少女は帰ってこなかった。私も待ち続けたが、やがて自分の生活のこともあり、また別の街で約束していることの期日も迫っていたから、少女を待たずその街を後にした。
少女に会って謝りたいが、私にはまた別の約束がある。それを終わらせてから、その街で少女を探さなければならない。私は少女と約束を違えた、その罪を告白する。
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二人は碧と翠の瞳で旅商人をまっすぐ見つめ、罪を聞いた。聞くだけで二人の腹は満たされ、そして旅商人はその罪を償った。忘却したのだ。
忘却は本質的な償いではないかも知れないが、少なくともこの旅商人がその罪に苦しむことはない。それが、二人にとっての食事だった。
「けど、少し味気ない」
右翼の少女が物足らなさそうに言った。
「もっともっと、濃い罪を期待した」
左翼の少女もつまらなさそうに言った。旅商人は、その二人の言葉を聞くことしかできなかった。
- 外伝 - 「蝙蝠狼」
遠くに見える黒い翼、沈み始めた太陽よりも紅い頭の毛。それがとうとう、私の街にもやってきた。やってきてしまった。大人二人分はある大きな身体に、強靱な爪。
牙は狼のように、そしてどう猛さは狼を遙かに超えている。名も知らぬその怪物は滅びの象徴として、私たちは恐れていた。
まだ日は沈みきっていないというのに、その怪物の影で闇に包まれる。
太陽を覆い隠すほどの数が空を埋め尽くし、コウモリのような翼が羽ばたく音がここまで聞こえる。アレが見えてしまってからはもう遅いのだ。
逃げだそうにも、狼の如く過敏な嗅覚から逃げ出すことは叶わない。戦おうにもあの数だ、勝てるものではない。
一匹二匹撃ち落としたところで、数百はいるだろうあの大群を止めることなんてできるわけがない。もう、諦めるしかない。
「お姉ちゃん……」
壁で囲われているから安心だと思っていた。大きな壁は、確かに翼を持たぬ怪物から街を守ってくれていた。
だから滅びが支配するこの世界の中で、私たちだけは生き残れる物だと思っていた。そんな幻想を、理想を、いとも簡単に打ち砕いてくれた。
やはりどこに逃げても、滅びはやってくる物なのだ。
「お姉……ちゃん……?」
不安そうな声に気づき、そう言えば妹と家に帰る途中だったことを思い出す。
「……家に帰ろ」
急いで帰ろう。もしかしたら私の家は見過ごしてくれるかも知れない。なんせ、ようするに空を飛ぶ狼なんだから扉を開けるだなんて頭は持っていないだろう。
家の中、どこにも窓がない部屋……物置がある、そこに隠れていれば……きっと。
「……隠れないと……」
それでも無理だろう。そんな不安を掻き消すように妹の手を取り、家へ向かって走り出す。まだ空を覆い尽くす怪物たちは、動く様子がない。
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物置の中は整理さえしていない。だけれど、今日は散らかり放題の物置の中が頼もしく感じた。これならば隠れる場所はいくらでもある。
もし物置の扉が開かれても、運が良ければ助かるかも知れない。とにかくここに隠れて、あの滅びが過ぎ去るのを待とう。せめて姉として、妹だけは助けなければ。
「ここに隠れて」
物置の中を探していると、ちょうど良い大きさの空き箱を見つけた。中もあまり汚れてはおらず、蓋も簡単に開けることができそうにない構造になっている。
この中に妹を隠すことにした。
「でも……怖い」
光も入らない箱の中は、なるほど怖いはず。でもガマンして貰うしかない。そうでもしなければ、あの空を飛ぶ狼どもに喰われかねないのだから。
「ガマンして。過ぎ去るまで、隠れてること。目を瞑って、耳を塞いで、ジッとしていてね。わかった?」
念を押す。妹はコクンと縦に首を振った。それを見届けて、蓋を閉める。次は私の番だ。
妹はまだ小さいから箱の中に隠すことができたけれど、私はそうはいかない。どこに隠れようか。そう迷っていると、羽ばたきの音が近くなってくる感じがした。
もうそんなに時間はない。さっさと隠れないと私は――――……。
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あのすごい大きな物音がしなくなった。でもまだ、きっとお姉ちゃんが開けてくれる。だから待ち続ける。
お姉ちゃんもきっと無事で、今は周りが大丈夫かどうか、見ているのだろう。もう少し待てばこの蓋を開けて、連れ出してくれる。きっと、きっと……。
そうして待ち続けて、どのぐらいの時間が経ったのだろう。気がつけば寝ていたみたいで、周囲に物音は何もしない。お姉ちゃんはどうしたのだろう。
蓋を開けても大丈夫なんだろうか。恐る恐る蓋に手を押し当てる。
中からは簡単に開けることができる作りになっていたおかげで、ほとんど力を入れずに開けることができた。
でもその箱の外の景色は、とてもじゃないけれど私の知っている場所とは違っていた。
- 外伝 - 「眠り猫の子ども」
気がつけば街の外にいた。街と言っても今は滅び、全て死んでしまったのだけれど。
誰もいないその街に恐怖し、とてもじゃないけれどそこに居る気にはなれず、まるで逃げ出すように足は勝手に外へと向いた。三日ぐらい歩いただろうか。
歩き続けた足は痛み、喉はからからでお腹も空いた。それでも足は止めることはできない。早く早く、あの街から逃げ出したいから。
きっとお姉ちゃんがどこかにいるはずだから、お姉ちゃんも探さないとダメだし。
「死出の旅かね?」
後ろで男の声が聞こえた。足は止めるが、振り向きはしない。
「何も喰わず飲まず、足の裏をすりむきながら歩き続ける。悠長な自殺だ」
貴方に何がわかるのだろうか。
「姉は死んだ、そのことはもう知っているのだろう? だけれど逃げだし、だけれどどこに向かえば良いのかわからず、こうして彷徨う」
いいえ、お姉ちゃんは生きている。どこかで生きていて、私を待ってくれている。そのはず。
「……私は“魔女”だ。女じゃないがね」
それって、どういう意味?
「意地悪な魔女に育てられた男ってだけさ。その魔女は魔女であることを誇りにしていたようだからな、私も魔女と名乗ることにしたんだ」
それで、その魔女さんがどんなご用なのだろうか。
「そしてその意地悪な魔女はお前のような愚かな子どもを見過ごすような愚か者ではなくってね」
……助けてくれるって意味?
「そうなるな。ほら、まずは我が家に案内するさ」
振り向くと、魔女さんがよく被っていそうな背の高い帽子に長い黒のローブを羽織った男性が手を差し伸べていた。藁にもすがる気持ちで、不思議と少しの恐怖も感じはせず、その手を取った。
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「……それじゃあ、この子を頼んだよ」
一週間、この男の魔女さんにお世話になった。食事を与えられ、暖かな寝床も用意され、そして何より優しかった。
足の裏の擦り傷も魔女さんが作った塗り薬を塗れば痛みは引き、血もすぐに止まった。
「良いんですか?」
その人は、どうやら男の友人らしい。人の良さそうな笑顔を私に向けて、少し不安そうな笑顔を男に向けている。
「お前にしか頼めないさ」
男がはにかむ。
いつもは無表情で、ほとんど表情を変えない人だけれど、その女性と話しているときはどこか寂しそうで、申し訳なさそうで、けれども嬉しそうでもあった。
「別れた女に頼み事をする、だなんてかっこ悪いけどな」
二人にも過去があるのだろう。複雑そうな話を交わしている。
「良いんですよ。魔女と修道女は、やはり相容れぬものなのですから」
女は修道女だという。だとすると、女の後ろにそびえ立つ大きな建物が、教会なのだろう。話には聞いていたけれど、初めて見た。
「それにしても獣人の子どもだが、大丈夫だろうか」
その言葉を聞いた修道女が、少し迷ったような表情を浮かべる。
「……獣人の子どもにも人間の子どもと同じ教育を受けさせることは、規律で決まっていますが……」
女がこちらに目線を移す。物珍しげで、どこか不安そうな表情。
「眠り猫の子どもが、まさか人間の手に連れられてやってくるとは……」
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眠り猫と呼ばれる種類の人獣は数も少なく、隠れ住んでいるからほとんど人の目に見えることはない。それにこうして子どもが姿を見せるだなんて、すごく珍しいことである。その修道女からは、そう教わった。
- 外伝 - 「夜の一幕」
だから貴方が魔女だとしても、私が貴方を怖がる理由にはならない。そう、フィリムの質問に返した。
彼女と旅を初めて、彼女はことあるごとに私から離れた方が良いって言っていて、それでも私は離れなくて。
いつだったかの夜、地面に布を敷き焚き火に当たっていると、とうとう耐えきれなかったのか尋ねられた。私は魔女だ。私は怖い魔女なのだ。
魔女は恐ろしく、近寄るべきではない存在なのだ。だから私は貴方を遠ざけようとしたのに、どうして貴方はむしろ近づいてくるのか。
その返答として、私は昔話をした。魔女と名乗る男性に助けられ、孤児院に預けられたお話。
「……同じ、なんだ」
ようやく、彼女の顔に微笑みが灯る。すぐにかき消えてしまうほどの小さな笑みだったけれど見逃さず、そして少し救われた気がした。
「どんな孤児院だった?」
どんな孤児院、と言われてもあの環境をどう言おうか迷ってしまう。率直に言えば、私は問題児だったのだから。獣人とはそもそも、ずる賢く少し野蛮な人種である。
そして子どもとは言え腕力も人間の大人でも手を焼くほどであり、そしてすばしっこい。
だからイタズラをする度にあの魔女さんが顔を出し、私の四肢を魔法で捕らえ、長いお説教をしたものである。
でも楽しかった。私がイタズラ好きで人懐っこい性格だったからか友達自体は多く、活発だったから色んな物を見て、魔女さんと修道女さんのおかげで優しい性格に育てられた。
「そう、楽しかったんだ」
すぐ横に座る、焚き火に照らされた彼女の顔が曇る。
薪の燃える音が、少し遠くの川の逃れる音が、名前も知らぬ虫の声が、少しの間だけ、この沈黙の場を支配する。気まずくても、次の言葉を待つ。
なにか言おうとしているはずなのだから。
「……たぶん、うらやましい……んだと思う」
その言葉は疑問のような、自分でも確信することのできない、そんな口調だった。
「そう……たぶん、うらやましい」
とんがり帽子を脱いだ彼女の短い黒髪が、涼しくなり始めた風に揺れる。
「私は友達と離れて、魔女に……師匠に連れ去られた」
きっと、自分でも迷っているのだろう。師匠のことは好きだけれど、友達を作ることができなかったこと。
魔女の術を必死で勉強したけれど、友達と競い合うことができなかったこと。でもそのことを否定してしまうと、大好きな師匠を貶してしまう。
それはイヤだから、でもこの複雑な気持ちを自分でも解せなくて……迷っているのだろう。
「でも師匠は優しくて、時に厳しくて……」
泣きそう……な雰囲気。だからこそ私が側に居る理由でもある。魔女さんからは人に優しくなれと言われ、修道女さんからは人を愛しなさいと教わった。
私は眠り猫、人に安やかな眠りを与えることのできる存在。
……眠りましょうか? そう尋ねる。彼女は左右に首を振った。
「師匠は、私を不幸にしたいわけじゃない」
それはほとんど独白で、もう会話をするって気配ではない。それでも私は彼女の言葉を待ち続ける。
きっと聞いて欲しいから、独り言のように言葉を紡いでいるのだろうから。
「……師匠の夢、見ることができるかな?」
できますよ、きっと。そう言うと、焚き火の火も消さずに彼女は私に寄りかかってきた。貴方の大好きな、師匠の夢を見ますように、そう願って私も目を閉じた。
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「貴方の前では、煙草は吸わない」
次の日の朝に目を覚まし、出発の準備をしていると、起きて最初に彼女がそう言った。
「どうせこれも、本当に効果があるのかわからない。落ち着きたいだけかも知れない。貴方の身体が私の紫煙で汚れるのは、少し哀しい」
それに、と続ける。
「貴方と居る間は、人を喰う気にならない」
そう言って、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「狂イ」 そのヒトツ
放っておけるはずがなかった。しかし私は糸の魔女、力のない魔女はあんな屈強、野蛮な男たちを殺す手段なんか持っているはずがない。
だから迷ったし、だから戸惑った。チャンスを待った。その為にこうして、屋根の上で身を隠していた。
チャンスはすぐに訪れた。街を徘徊しているゴブリンの生き残りが男たちを見つける。
愚直で野蛮なゴブリンたちは人を見つけると、その装備が明らかに自分たちより優れているのにも関わらず、手に持つ粗末な武器を振り回して真っ正面から突撃する。
数では勝っているのだ。ゴブリンの数は二十数、それに対して男たちはほんの五人ほど。
しかし敵にはなり得ない。声に気づいた男のうち、弓を持っていた者が真っ先にその声に気づき、一呼吸だけ置いて先頭に立つゴブリンの額に矢を命中させる。
「ゴブリンだオマエら!」
リーダーなのだろう、銀の両手剣を持つ男が声を張り上げる。それを合図に、それぞれの男が武器を抜き、委細構わず突撃してくるゴブリンたちを迎え撃つ。そこが狙い目だった。
「投石!」
弓を持つ者以外の男どもが足元の石を拾い上げ、ゴブリンたちに向けて投げつける。投石を馬鹿にしてはいけない。
足並みを崩すこともできるし、急所に当たれば致命傷にもなり得る。事実、その一度の投石だけで二体のゴブリンが地面へと倒れ込んだ。
「よし! 我らも――――……」
ちょうど男たちが石を投げ終えたぐらいだろうか。屋根の上から身を放り投げる。弓をつがえている男めがけて、小さな身体でぶち当たる。
こんなことになるのならば、人を殺すことのできる術を何か持っているべきだったんだろうか。できるのは落下の衝撃で痛む身体を誤魔化すために、自分に術を掛けることぐらいだった。
二階の屋根から飛び降り、体当たりを喰らわせたとは言え小さな少女の身体、致命傷にはなり得ず、できたのはせいぜい体勢を崩すことぐらい。その物音に一人の男が気づく。
「なんだオマエは!」
運良く声を張り上げてくれた。その声につられて、また一人の男が振り向く。
「魔女だ!」
ゴブリンたちが迫る。でも予想にもしていなかった私の奇襲で、三人の動きが鈍る。二人は突撃してくるゴブリンたちに顔を向けているが……。
「……お前たちは、死ねば良い」
糸の魔女の扱う術は、恐らく幻術に区分されるのだろう。
より深く術に陥れるのならばその身体に触れる必要があるが、ここまで接近しているのならば数秒程度ならば術を掛けることができる。
でも落下の衝撃を誤魔化すために自分に痛み止めの術を掛けなければならないし、時間もないしで、できたのはなんとか四人の視力を奪っただけだった。
だとしても迫るゴブリンの襲撃にたった一人で耐えるのは、到底できるものではなかった。
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目の前で男たちが惨殺される。粗末な武器、きっとそこらの家の中に侵入し、包丁やら鍋やらを適当に手に持っただけなのだろう。
そんな武器とも言えぬ物が、次々に男たちの身体にめがけて振り下ろされる。
まだ息のある男は何か叫んでいるが、その声に反応したゴブリンがその男の顔を小さな足で踏んづける。
また別のゴブリンは持っていた包丁を、既に息絶えた男の腹に滑り入れていた。目の前での惨劇。私の援護がなければ、ゴブリンどもは負けていただろう。
そして私も人間ならば、きっと男どもを生き残らせるべきだったのだろう。
「ギッ……ッ、ギィ……ッ!」
声にならぬ声。地面に倒れ、痛みに耐えている私に向けられる血走った目。なぜ俺たちを殺したのか、そう尋ねたいような表情。
そんなの、決まっている。男たちを殺さなければ、私が殺されていたのだから。
「……」
死ぬゆく男に何を言おうと、きっと無駄なのだろう。
「許して……」
そして私は、きっと許されないのだろう。
最後の男がゴブリンどもに嬲り殺されるのを、その絶命する叫び声を、すぐ側で目さえ閉じず、聞いていた。
「狂イ」 そのフタツ
醜悪なゴブリンども。背の高さは人間の子どもぐらいで、一糸さえ纏わぬ濃い緑色の皮膚。
言葉のような物は一切喋らず、ただ凶器を扱う知力だけはあるらしく、棍棒や細い鍋、包丁などのそこいらの家で漁ったのだろうと思われる調理器具で武装し、街を荒らす。
そして漁った家々は決まって火を点けられ、その街は廃墟となる。ここももうダメなのだろう。こうもゴブリンが我が物顔で巡回いているようならば、街としてはもう終わりを迎えた。
男どもを惨殺したゴブリンは、次に私へと視線を移す。しかしそれ以上は私に触れもせず、次の獲物を探すかのように背を向け、向こうへと行ってしまった。
魔女は襲われない。それは自然の理であり、魔女たるゆえんである。だから魔女は迫害される。こういった化け物に襲われないのは、お前たちも化け物だからじゃないか、と。
「……っつ……」
二階建て家屋の屋根の上から飛び降り、男へと体当たりをした際に腹側の骨を何本か折ってしまったのだろう。術で痛みを誤魔化しているとは言え、それでも痛む。
完全に痛みを消すこともできるけれど……それは、あえてしないでいる。ガマンできるぐらいの痛みを残していた方が、治療をする際に有意なのだから。
「……なぜ……」
そう言えば、またあの眠り猫はここに居たのか。それともあの騒動の時は隠れていて、今になって出てきたのか。
地面にうつぶせで倒れている私を見下ろすように、美しい白猫の顔がそこにいた。
「なぜって」
身体を起こす。痛みを抑える術がなければ、恐らく身体を動かすこともままならないだろう。眠り猫も手を貸してくれた。痛みに呻きながら、血に濡れた家壁に背中を預ける。
「殺さなければ、殺された」
ゴブリンたちは魔女に触れず、しかし男どもは魔女を殺す。あの場面でどちらを殺すかだなんて、決まっていた。
「それでも、人間です……人間、だったんですよ!」
何かを訴えるような、感情の入る声。ああそうか、この眠り猫は修道女に育てられたと話していた。
拾われた魔女も決して悪い魔女ではなく、むしろ修道女と面識を持つような、優しい魔女だと。
「協力すれば!」
いえ、と彼女が言葉を直す。
「貴方が手出ししないだけで、この方々は一人も死ぬことはなかった!」
きっとそうだろう。装備も揃っていて、統率も取れていた。ただ闇雲に突撃してくるゴブリンどもなんかに負けはしないどころか、恐らく傷一つも付かなかっただろう。
だから私も傍観をやめて介入したのだから。
「それはつまり、私が死んで良い、と?」
そう尋ねると、彼女の顔が歪み、言葉を詰らせる。浮かべる表情ははたして怒りか、それとも悲しみか。
「男どもは魔女を探していた。恐らくは、私を」
彼女は言葉を挟まない。きっと言いたいことはあるのだろう、何度も口を開き掛けては……なにも言わずに、閉ざす。
「貴方も弓で脅されていた。それでも貴方は、この男どもに味方をする?」
あのままゴブリンがこなければ、今頃は何をされていたか。想像もしたくない。
「ですが!」
遂に彼女の目から涙が流れる。獣人も涙を流すのかと、不思議と冷静な頭はそんなことを考えていた。
「……私は死にたくない」
少なくともこの魔女の術を次に伝えるまでは、死ぬわけにはいかない。
「死にたくないから、なんでもする……そう、決めた」
それが悪い魔女だと言われても、私は生きたいの。そう言うと、彼女は目を閉じて、自分の言葉を噛み潰すかのように、唇を噛み締めていた。
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それは確かな罪。私は間接的にとは言え、人を殺めた。それは許されるものではないのだろう。
けれども、今更? 人を喰う私が人を殺めることなんて、それはむしろ当たり前ではないだろうか。
民家の壁に背を付けて、せめて動けるようになるまでここに居るつもりだった。
眠り猫も、あんなことがあり言い争いをした後だというのに、まだ私の横に寄り添ってくれている。
「罪の匂いがする」「それも、濃ゆい、濃ゆい、罪の香り」
そんな時に声がした。同じなのに、別々の場所から聞こえる、不思議な二人の声。ああ、見つかってしまったか。
その声の主がなんたるかを察して、ため息にも似たような吐息を漏らす。顔を上げると、右にだけ翼を持つ少女と左だけ翼を持つ少女が、私を見下していた。
「……御使い」
罪を喰う者。できれば会いたくなかった者。睨み付けると、二人は楽しそうに笑っていた。
「そう、御使い」「貴方の罪を喰らいに来た」
確かな二人の声なのに、まるで一人が話しているように聞こえる、そんな不思議な口調。
その笑みは純粋で、着ている物は純白で汚れさえなく、背負う巨大な白翼はそれぞれ一つだけ。
綺麗に整えられた金の髪はそれぞれ左目、右目を隠し、口元は可愛らしく歪む。しかし誰がこんな可憐な姿に騙されるものか。
御使いとは名ばかりの、下劣な生き物ではないか。
「呼んではいない」
その言葉を聞いた二人は、やはり笑みを浮かべる。
「確かに呼ばれてはいないよね」「でもお前の罪は良い匂いがする」
確かに罪だ。でも、だからこそ私はそれを覚えていなければならない。お前たちに喰わせるものなど、何一つも存在していない。
「……というか、懲りないね、お前も」
右にだけ翼を持つ少女がため息混じりの声を漏らす。
「これで何度目? 私たちに罪を喰われるのは」
どういう意味だろう。私は御使いの存在は知っているが、出会ったのはここが初めてのはず。しかしこの二年間の記憶はない。
もしかするとその間に出会ったのかも知れない。
……嫌な予感がする。そしてその予感は、すぐに確信に変わる。確認しなければ。ううん、逃げなければ、この二人から。
「……私を追ってきた?」
二人が笑う。とても楽しそうに、とても愉快そうに。
「だって貴方の罪はいつも美味しいんだもの」「人喰い、人殺し、時には見捨てたり、時には見殺しにしたり」
何度目なのだろう。
「何度目……?」
その問に二人は答えない。そう言えば眠り猫は?
「それじゃあ今回も頂きます」「次の目覚めはどこだろうね?」
気がつけば眠り猫は私の正面に立っていた。ああ、貴方が原因なのか。貴方が私をこの地獄に追いやったのか。
そう言い詰めようとするけれど眠り猫の発する眠気には勝てず、まぶたは私の意思に反して閉じられていく。二年間も、これが続いているのか。
そして恐らく彼女も、これを罪として御使いに懺悔して罪を喰らわれ、記憶をなくして……何事もないように、今まで二人で旅を続けているのだろう。
そんなの冗談じゃない。
「冗談じゃないよね、フィリム」
あの、青い翼を持つハーピの少年の声がした。
イトノマジョ