そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(6)

阿門 遊

六 十五キロ地点

 再び、巨大なショッピングセンターが見えてきた。戻って来たんだ。さっきは気付かなかったが、太鼓の音が聞こえる。懐かしい。最近、太鼓の音なんか聞いていない。いや、太鼓の音はしているけど、俺には太鼓の音が聞こえなかっただけなのかもしれない。その事実関係は脳に聞いてくれ。太鼓と言えば、秋祭りだ。やっぱり、今は、季節は秋なのか。秋ならマラソン大会が開催されるのはわかる。風は気持ちいい。だが、背広やYシャツは汗だくだ。こんなかっこうで走るなんてどうかしている。まあ、どうかしているのはこの俺なんだから仕方がない。太鼓はいい。リズムがいい。このリズムに乗っていけば、ゴールまで走れるかもしれない。でも、ゴールってどこだ?

 もうスタートしてから、一時間以上が経過した。先頭ランナーが目の前を通り過ぎた、それに合わせるように、青田は太鼓を叩きだした。太鼓を叩いてもう三十分は過ぎている。青田たちの太鼓チームは、この日のために練習をしてきた。ランナーに少しでも元気づけようと、地元の太鼓チームが応援することになったからだ。「参加したい人!」リーダーの誘いに、青田は手を上げた。フルマラソンを走ることはできない。でも、太鼓でならば参加できる。そう思って、応援することにした。だが、現実は厳しい。いざ、応援のために太鼓を叩き続けているが、肉体的には疲れる。もう腕がくたくただ。踏ん張る足もパンパンだ。体中、汗びっしょりで、喉が渇いた。
 それでも、リーダーはまだ叩き続けている。リーダーが叩き続けている以上、自分がここでやめるわけにはいかない。今となっては、ランナーを応援している暇はない。目の前の太鼓を叩くことだけに専念している。「がんばれ。がんばれ」沿道の群衆がランナーに向かって声を掛けている。ランナーだけでなく、太鼓の方にも注目して欲しい。でも、誰も応援してくれないのならば、自分で自分を鼓舞するしかない。「がんばれ。がんばれ」沿道の声に合わせて、青田も小さく呟く。太鼓の前を赤や白、青、黄色など、色とりどりの衣装をまとったランナーが走り抜けていく。
 ドドドン。リーダーの打ち方やめの合図だ。青田はバチを置いた。「お疲れ様」親たちが青田たちにスポーツドリンクを配ってくれる。青田はタオルで汗をぬぐいながら、ペットボトルの蓋を開けた。
「次は三十分後。それまで休憩」リーダーが椅子に座った。青田たちが休んでいる間にも、ランナーたちは次々と目の前を通り過ぎていく。本当ならば、ランナーたちが全員通り過ぎるまで叩き続けるのがいいのだが、そうなるとこちらの体がもたない。代わりに、別の太鼓の団体が青田たちよりも離れた場所で太鼓を叩き始めた。交代で太鼓を叩く段取りになっている。
 地面に座りながら、青田はランナーたちを眺めた。もう顔は汗びっしょりだ。息も荒い。苦しみで、顔が歪んでいる。おせいじにかっこいいとは思えない。足をひきずっているランナーもいる。何で、みんな走っているんだろう。青田は素直に疑問に思った。こんなにしんどい目をして、ゴールしたら何かいいことがあるのだろうか。優勝でもすれば一躍有名になるだろうけれど、今、目の前を走っているランナーたちは、そんなことからは全く関係ない。ただ、自分のため、自己満足のために走っている。でも、あんなに疲れた顔をして、満足できるのだろうか。自分ならしない。じゃあ、太鼓を叩くことはどうだ。
 青田が太鼓を叩くようになったのは、兄が和太鼓クラブに入っていたからだ。母に兄と一緒に連れられてクラブに行くうちに、太鼓を叩くようになった。ある意味、流されたようなものだ。そこに自分の意思はあったのか。よくわからない。ただ単に、流され続けて太鼓を叩いているじゃないだろうか。青田はそう思った。
ふと、前方を見た。背広姿のランナーだ。これまでにも、アニメのコスチュームを着たランナーや犬や猫、パンダの着ぐるみを被ったランナーたちが通り過ぎた。背広姿だって、別段、不思議じゃない。でも、目の前のランナーは他のランナーと比べてちょっと違う。ランナーのようで、ランナーじゃない。何か、満員の通勤列車に乗って駅に降りたものの、人の波に押し流されて、そのまま走り続けているようだ。それに、歳がいっている。変わったかっこうをしているのは、ほとんどが若い人だ。もちろん、歳をとって、着ぐるみを被って走ったらいけないというわけではない。
 だが、このランナーは少し違う。走りたいのか、走りたくないのか、どちらともいえない。顔はひょうひょうとして疲れは見えない。それどころか、余裕で沿道の人や他のランナーを見回している。誰かを探しているのか。応援者か。それともランナー仲間か。背広姿の男がこちらを見た。目が合った。男が微笑んだ。青田に微笑んだのか。わからない。こちらがどぎまぎしている間に、男は青田の横を走り過ぎた。
「さあ、休憩時間は終わりだ。始めるぞ」リーダーが立ち上がった。青田も立った。流されてもいいんだ。動いていれば。青田は男の後ろ姿に向かって力強く太鼓を叩き続けた。太鼓の音で、男が少しでも前に進めるように。そして、青田自身も。

 仕事が変わった。土・日曜日にも出勤しないといけない。それも、なかなか予定がたたない。急に、仕事が入る可能性があるからだ。マラソン大会の申し込みは、普通、二から三か月前だ。その時には仕事が入っていなくても、直前で、仕事が入ることがある。そうなれば、マラソン大会はキャンセルせざるを得ない。大会参加費はどぶに捨てることになる。大会に参加する目的がなくなった。すると、走る気持ちも失せた。
 人によっては、健康のため、ジョギングやランニングをしている。だが、俺はそのためだけでは走る気落ちが湧かない。大会に出場して、ある程度の成績、タイムを残すことが走る目的だったからだ。大会に参加できなくなることから、俺は走ることをやめた。

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(6)

そんなにも美しくない顔をゆがめてまで、なぜ走るのかマラソンランナー(6)

六 十五キロ地点

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-20

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