無題
ようやくぜんぶを捨ててきた。
ようやくぜんぶを捨ててきた。しわくちゃになるまで読み返しては大切にしていた手紙も、初恋の人から誕生日プレゼントにもらったキーホルダーも、お気に入りだった洋服も、CDも、数十年を過ごした家も、家族も、友人も、知人も、何もかもを捨てた。おれが持っているものと言えば、今着ている衣服と、かけている眼鏡くらいのものだ。それと、捨てきれずに残ってしまった〈おれそのもの〉だろうか。
おれがおれを捨てるまで、あと数時間だ。数時間だけ、じっくりと思い詰めてみたかった。日が暮れるまでだ。それだけあればきっとじゅうぶんなはずだから、日暮れまでだ。こんな風にして、屋上から見渡す景色もなかなか悪くない。今は青く広がる空だけれど、あと少しすれば、愁いをおびたような黄昏に変わる。胸はかすかに高揚していた。今なら、空に手が届きそうだ。なんて思って、青い空に手をかかげたが、なんだ、手は届かない。それもそうか。咬みすぎてぼろぼろになった指の爪が汚らしい。結局、大人になっても、爪を咬むくせはなおらなかった。はじめてできた恋人に、これじゃネイルができないなあとすこし残念そうに言われて、どうにかして爪を咬むくせをなおそうとしたのに、ついぞなおらなかった。
目をゆっくりとつむった。浮かんでくるのは、楽しかったあのころではなくて、にじむような後悔でもなくて、この先の未来だった。もしも、おれが小説の最後の文章をかき上げて、最後に句読点を打つことがなかったら、来たかもしれない未来のすがただ。何かを成し遂げる人間になれたらいい。おれはすべてから逃げてきたから、立ち向かって、最後まで貫き通せるおれであれたらいい。大切なものを選びそびれずに、選びとれる自分であれたらいい。そう思い描いた。気が付くと、空は夕焼け色に染まっていた。なんてなつかしい色をしているんだろう。自然と笑顔が浮かんで、ほおには涙が流れていた。嬉しくて悲しいのだ。この瞬間ならば、空に届くと思って、おれは、アスファルトを強く蹴り上げた。おれは、早河奈央は、この刹那、確かに空に届いた。先に空へと溶けた恋人と混ざり合えたと思い込むことができたから、それだけですべてが報われたようで、きっと幸福だった。
無題