地層に住む

  部屋には男がいた。男が只一人だけであった。広々とした部屋はドーム状になっており、内装は一面真っ白に装飾されている。形状から天文台を連想させるような部屋であり、そこには大掛かりな機器が多数取り揃えられていた。とはいえ、それらは星を観るためのそれとは思えない様相であり、また部屋の中、男一人がいるだけの部屋の中とは思えない存在感がそこにはあった。彼以外の者にとってそれらは仰々しい「装置」でしかなかったが、彼にとっては「作品」であった。それらは使われるというよりもそこにあるべくしてあるオブジェという表現が適切に思えた。それらに傷、染みなどの汚れは一切なく、もしここが天文台であったとしても、それらは星よりも純粋に輝いていただろう。

 部屋の主は作業に熱中しており、何かを作り上げようとしている。白く細い手の中で小さな世界を作り出すように、むしろ世界がその手の中にしか存在しないとでもいうように彼は没頭していた。突然入口側の取っ手が、がちゃがちゃと乱暴に音を立てる。それは彼にとって来客を示すものであり、同時に世界の破壊でもあった。扉の作りがしっかりしているせいか、取っ手を回す音と比べると扉が開閉する音は無いようなものであったが静けさというものは感じられなかった。まるで静寂という動物が外敵の存在を察知し、この場から逃げ去ってしまったかのようである。直後、室内に声が響いた。

「どうも、捗ってるかい。」

 訪問客は背の低い男であった。腹がぽこりと出ており、しっかりとした体格とはけして呼べる風貌ではなかったが、伸びた背筋としっかりとした足取りのせいか、むしろ精悍という印象が強く感じられるような男であった。調子を案じる言葉をかけながらも、家主の手に持っている機器を一瞥しただけで、立ち並んだ「オブジェ」を端から端へと見流していた。客人は来るべくして来たというよりも、散歩している内に何故かたまたまここに流れ着いたのでなんとなく顔を出した、という雰囲気であった。

「ノックというものを知らないのか。」

 家主が声を出した。掠れて細々とした声だったが、静かな部屋に行き渡るには十分だった。

「ノック。初めて聞く言葉だ、何かを探してるのかい。」

 客人は、心底真面目に疑問を返す。ふざけている訳ではない。彼と家主との知識量は、主に学問や教養などの分野に関して大きく差があり、家主がこういった言葉を使用する度に意味を説明しなければならない場面というものは少なくなかった。

「ノックというのは礼儀だ。部屋に入る前に扉を叩き、入室を事前に確認をする文化の事さ。」

「文化?結局は、部屋の中の人間が見せたくないものを隠すため時間を作るってことかい。時間を作るってのは凄いもんだなぁ」

 文化という言葉にはいまいちピンときていなかったが、ノックという概念は理解できたようだった。家主はわざわざ文化についてという議題を掲げたくないらしく、軽く頷いてお開きにしたいところであったが、異議ありと言いたげな表情を浮かべ客人は質問を続ける。

「ノックは礼儀か。しかし。見せたくないものがあるというのはノックをする人に対して失礼じゃないか。礼儀というものは互いに持ち合って初めて意味をなすものだ。ノックを礼儀というのなら、ノックをされる人はいつでも人に見られるような状況を作るべきではないかな。隠し事がないことを相手に知らせることで初めて対等になれるんだ。つまり、部屋の中にいる人はドアを全開にしておいて、部屋に入る人は全開のドアをノックする。礼儀としてはこうあるべきだよ。」

 彼は知識の少なさ故に純粋であった。先入観という壁を持たない代わりに、思考の道筋を照らす光も持ち合わせていなかった。そのため、しばしば強引な意見を出すこともあったが、家主は彼の考え方が嫌いというわけではなかった。物を作るという作業において、机上の空論は枷となる。物事の可否を決めるのは自分の経験や知識、もしくは自分という存在なのだ。故に相手が何をどう思うかといった事柄には大した興味はなく、むしろ思想の向かう先を自分の手で捻じ曲げるという行為ははよからぬ思想の根源になるだろうという考えがあった。こういった問答が始まるとき、彼は自分の考えから ーこの場合に関しては時間を使いたくなかったという理由が大きいだろうがー だんまりを決め込むことが多かった。客人はそれを無言の肯定と解釈し、どことなく満足気であった。

 長い時間、客観的にみればそう長い訳ではないが家主にはそう感じるような長い時間が経過した。その長い間と同様に、今も客人はオブジェを眺めているだけである。何をしにここへ来たのか、理由はどうあれ家主にとっては自分の作業に集中するべく、一刻も客人には出て行ってもらいたかった。

「とりあえず。」

 耐えかねて家主が言葉を発する。

「とりあえず今は忙しいんだ。用件があるなら早く済ませてくれ。」
  
「最近天気が悪くてね。散歩をしに外に出ると、途中で雨が降って困るんだよ。」

「降らなければ世界中が困るだろ。大問題だ。」

「確かにそうだね。なら、僕が散歩に行く時だけでいいから雨を止ませることはできないかな。」

「無理に決まってるだろ。なら傘をさせばいい。お前の周りだけなら雨を止ませることができる。」

「うーん、しかしそうするとだ。晴れた日にも傘を持っていかなきゃならないだろう。それって凄く後ろ向きだと思うんだ。何の病気にかかってもいないのに、明日死ぬかもしれないと自分の墓を建てるようなもんさ。」

 生物は常に病気であるだろうと家主は思った。自然というものから生命を分け与えられている我々は自然を作り出せない。当たり前である。「自然」は常に「自然」であり、操作できない不確実なものによって偶々生きている。そのような状態を病気と言っても差し支えないだろう。そんな考えが一瞬に頭をよぎったが、彼の最優先事項は今もなお相変わらずであった。

「分かった。お利口さんな屁理屈野郎にはこいつをやる。これを持って早く帰ってくれ。」

 そう言った家主は客人に何らかの「装置」を投げつけた。客人が受け取ったそれは、手の平に収まる程度の大きさをした平板状の「装置」である。疑問の声が上がる暇もなく、家主が矢継ぎ早に付け加えた。

「その日の天気が分かるんだ。画面に太陽と雲を表す絵があるだろう?その下に表示されてる数値の大きい方がその日の天気になる。」

「それは凄い。つまりこの機械が天気を決めているということだろ。天気を決めるなんて、まるで神様みたいだ。」

 驚嘆する客人に対し、家主は鼻で笑いながら言葉を返す。

「時代によってはそんな神もいたかもな。人間が踊ったり、火を焚いたりするのをみて天気を決めるような。まぁ実際のところ、その装置はただ計算してるだけだ。晴れや雨の日の様々な状況を記憶して、雨の降る確率を割り出すんだ。」

「確率?」

「確実じゃないってことさ。晴れの数字が10であれば大概は晴れになるが、絶対に天気を当てられる訳じゃないんだ。結局は知識をもとに予想してるだけだからな」

「知識。知識があれば天気を決めることができるのかい。それじゃあ、ここの本を貸してくれないだろうか。知識を得て僕が神様になってしまえばいいんだ。」

 その後、客人は大量の本を持って家路についた。家主はふと考える。あの本の中身のどれだけが彼の頭の中に入るのか、結果的に開かれない本は何冊になるだろうかと。しかしその考えは、自分にどれだけ関係があるのかという考えと共に霧散した。世界を広げるのは自分の思考だ。自分が観測していない世界はまた別の、そこに介在する人間のみの世界であり、観測者の数だけ世界は多元的になる。知識や体験は世界を広げ、それが繁栄もしくは衰退を引き起こすという話は別として、ニューロンのように別世界とのシナプスを創りだす。世界を構成するものが神だというならば、彼にとって知識そのものが神なのだろう。家主がそんな考えを巡らしているうちに、空腹感を抱いていることにふと気が付く。普段食事をとる時刻からだいぶ経っていた。

「神様、どうか私に施しを。」

冗談の様に呟きながら、彼は自分の得意料理を作りに台所へ向かった。

地層に住む

地層に住む

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-19

CC BY
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